#92 佐保姫の泣血(刺草の作為)
アダムズ軍の大型高速ヘリが一機、廃工場跡地の上空を飛ぶ。アニェージ達が天体観測所より駆け付けて来たのだ。だが彼女達は廃工場跡地の只ならぬ動勢に気持ちを張り詰めさせていた。
廃工場跡地の中心部に巨大な穴がポッカリと空いている。そしてその一際目立つ大きな穴を見たアニェージ達は無意識に息を飲んでいた。彼女達はそこから発せられる荒々しい危機感を感じ取ったのだ。
ヘリはスピードを減速させつつも旋回を続けている。着陸出来そうな場所を探しているのだろう。ただそこで操縦桿を握るブロイが皆の気持ちを代弁する様に、焦燥感を露わに呟いたのだった。
「おいおい、何だよあれは? まるで隕石が落ちたみたいだぞ」
彼が言う様に、巨大な穴はクレーターと表現するのが最もしっくりするだろう。でもあれ程の大きさのクレーターを構築するには、想像を絶したエネルギーが必要となるはずだ。それこそ、核爆弾を何発も同時に爆破させなければならない程に。そう思った皆の体を緊張感が支配し硬直させる。ただその中でマイヤーだけは、冷静に状況を分析した。
「半年前に俺とジュールはここでヤツと戦ったけど、その時はあんなクレーターは無かったぞ。俺は狙撃手として廃工場が見渡せる位置にいたから間違いない。やっぱりこれは銀の鷲と黒き獅子の戦いの衝撃で出来たものなんだろうな。キャッツ号で獣神同士の喧嘩に巻き込まれたのも、ちょうどこの辺りだったしね」
「だったらマズイんじゃねぇのか? もし黒き獅子に攻撃されたら、こんなヘリ一撃だぞ」
ブロイが冷や汗を掻きながらマイヤーに言う。操縦桿を握る手の平も当然びしょびしょだ。だがそんな心配を露わにするブロイに向かい、マイヤーは落ち着いた口調で返したのだった。
「見たところ獣神の姿はどこにも確認出来ない。それに天候も回復してきている。たぶん獣神同士の戦いは終わったんだろう。どっちが勝ったかは分からないけどね。でも今に限っては安全な気がするよ。だからブロイさん、あの辺に着陸出来ないかな」
マイヤーはそう言ってクレーターのすぐ近くにあるビルを指差した。それはかつて発生した大規模火災の名残なのだろうか。今にでも倒れてしまいそうなほど傾いている。ただそんなビルの入り口正面に、2台の車が停車しているのが見えた。
状況から考えて、あの2台の車は不自然だ。それに片方は王族専用車に見える。あの場所で何かが起きているのは間違いない。マイヤーはライフルに装着したスコープで確認しながらそう思い、ブロイに指示を出したのだった。だがその時である。突如として廃工場の敷地から炎が噴出す。そしてそれは猛烈な炎のカーテンとなり、あっという間に廃工場の敷地全体を囲んでしまった。
平均した高さは10メートル程か。突如として大地から噴き出した炎の壁が廃工場を囲み込む。そしてそれは風に揺れるカーテンの様に、大きくなびいていた。
「何なのあれ。まさか噴火?」
「バカ言わないでよティニ。こんな市街地で噴火なんて起きるわけないでしょ!」
呆然としながら呟いたティニにエイダが苦言を呈す。しかしそんなエイダとて、事態の急変に驚きは隠せない。だが状況の変化は一気に緊迫感を引き上げる。猛烈な炎が広範囲に渡り噴き出した影響で、上空の大気の密度が著しく変化したのだろう。ヘリの緊急警告音が一斉に鳴り出す。そして血相を変えたブロイが操縦桿を懸命に操作しながら叫び声を上げた。
「マズイぞ! 急激な気圧の変化で姿勢が保てない。このままじゃ墜落しちまう。一旦引き返すぞ!」
「ダメだ、突っ込め! 泣き言なんか聞きたくない」
ブロイの判断をアニェージが拒否する。ここまで来て戻れるか。彼女は決死の覚悟で廃工場に乗り込むつもりなのだ。
あの場所には豹顔のヤツがいるはず。絶対に許せない。家族の命はおろか、ソーニャとラウラまで死に追いやった。あいつだけは私の手で必ず殺してやる。絶対に息の根を止めてやる。アニェージはそう強く決意したからこそ、強引な着陸を指示したのだ。だがそんな彼女にブロイが食い下がる。
「無茶言うなよ、こんなの自殺行為だ。無事に着陸なんて出来っこない」
「お前はキャッツ号の不時着を成功させたんだ。自信を持て。お前なら出来る」
「あの時とは状況が違うんだ! 今は強烈な上昇気流に煽られてんだよ! こんなんじゃ着陸どころかホバリングだって出来ないぜ。最悪浮力を失って墜落するだけだ!」
ブロイは強くそう言うと、操縦桿を傾けてこの空域から離脱しようとする。ただそんな彼に向かい、アニェージの後方からエイダが呼び掛けた。
「問題ない。そのまま進め」
「!」
ブロイは思わずギョッとする。いや、彼だけではない。アニェージにマイヤー、それにティニまでもが驚きのあまり息を飲んだ。なぜならエイダの声が、まったくの別人の声に変わっていたのだ。
それは聞くに堪えないほど苦しそうに枯れた【男性】の声だった。そしてそんな声を絞り出したエイダは白目をむいている。明らかに異常な現象だ。彼女の身に何が起きたというのか。
アニェージ達は動けない。豹変したエイダを目の前にして無意識に怯んだのだろう。だがそんな彼女達に向かいエイダは告げる。それは突如として吹き出した炎の正体を告げるものであり、彼女自身の変化の原因を告げるものだった。
「心配しなくていい、害はない。少しの間だけ、この者の体を借りているだけだ。私は【銀の鷲】。あの炎の壁を作り出した張本人さ」
エイダは男性の声でそう言う。信じられない。でも決して夢を見ているわけじゃない。その証拠にエイダの体からは、人が発するには高過ぎる熱が発せられているのだ。事実を受け入れるしかない。そう判断したアニェージは、訝しみながらもエイダに向かって尋ねたのだった。
「銀の鷲がエイダの体に乗り移ったっていうの? でもどうして。私達に何の用があるっていうの」
「ジュールが危険だ。それにアメリアも。時間が無い。私の力で道を切り開く。だから私を信じて炎に飛び込むんだ!」
「どういうことだよ、ジュールが危険って!」
「詳しく説明している暇はない。私にはまだ戦わなければいけない相手がいる。だからお願いだ、君達はジュールのところへ。ジュールを、彼を頼む」
「ボアァァ」
廃工場を囲んでいた炎が更に強く燃え上がる。だがその炎はヘリの進行方向を避ける様に、一筋の道を作り出した。
クレーターのすぐ近くにあるビルに向かって一直線に道が切り開かれている。激しい炎の影響で周囲の大気は恐ろしいほど膨張していたが、なぜかその空中に出来た道だけは落ち着いた状態らしい。そしてこの道ならば、確実に廃工場跡地に着陸出来るだろう。直感としてそう察したアニェージは、ブロイに向かって指示を飛ばした。
「行け、ブロイ! 男を見せてみろ!」
「ええぃチクショウ! こうなったら行ってやるさ。全員しっかり掴まってろよ!」
ブロイはヘリの出力を全開にして操縦桿を前に倒す。すると彼らの乗ったヘリは猛烈なエンジン音を轟かせながら急速にスピードを加速させた。そしてヘリは空中に形成された道を一気に進み出す。だがしかし、そこでティニが悲鳴に近い声を上げた。
「ちょっと見て! あれは何なのっ!」
「!」
ティニが指差した方向に視線を移したアニェージ達は戦慄を覚え押し黙る。なんと彼女達の視界に飛び込んで来たのは、空を飛び自分達に向かって来る【紫の竜】だったのだ。
紫の竜は銀の鷲や黒き獅子と並ぶ燦貴神の獣神である。でもそんな紫の竜がどうして今ここにいるんだ。アニェージ達は極度に戸惑う。だがそんな彼女達に更なる恐怖が襲い掛かった。紫の竜は己が持つ【青白い目】を輝かせると、口から閃光を伴った衝撃波を発したのだ。
「ドンッ」
強烈な衝撃波がヘリに直撃する。するとその衝撃でヘリの機体がくの字に折れ曲がった。そしてヘリは為す術無く、地上に向け真っ逆さまに落下して行った。
トランザムの隊士達を引き連れたリュザックは、自分が事故に遭った共同墓地近くの交差点に到着していた。
交差点近くには彼を轢いたと思われる事故車が停まっている。道路に残ったタイヤのスリップ痕からして間違いないだろう。しかしそれ以外にも多くの車が停車している。いや、乗り捨てられたと言うべきか。
獣神同士の戦いによる影響なのだろうか。普段はそれなりに交通量の多い通りのはずだが、今に限ってはかなり閑散としている。数名の一般市民が通りの隅で何やら話し合っている姿も見えるが、その表情はどれも差し迫ったものであり、恐らく突如として発生した意味不明な災害について論じているのだろう。
リュザックはそんな一般市民には目もくれず、自分を轢いた車の下を覗き込む。でも目的の論文は見受けられない。車にぶつかった衝撃でどこかに吹き飛んでしまったのか。でも周辺を見渡しても、それらしき物はどこにも見当たらない。クソ、どこに行っちまったんだ。
リュザックは苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。いくら不測の事態だったとは言え、注意を怠ってしまった悔しさを噛みしめているのだろう。ただそんな彼に向かい、トランザムの隊士の一人が平素に語り掛けた。
「探し物は【六月の論文】ていう題名の本が一冊だけなんだろ。とりあえず皆で手分けして探そうぜ。論文なんて小難しい本を持って行く奴なんて、そうそういるはずもない。すぐに見つかるだろ。それにしてもリュザック、お前こんな所で何してんだ。母ちゃんの墓参りか?」
「俺の母ちゃんはまだ死んでないき! ハッ、そんな話してる場合じゃないだでよ、早く探すきね!」
そう言ってリュザックは論文の捜索を皆に指示する。そして彼らは交差点の周囲一帯を虱潰しに調べ出した。
トランザムは高度な戦闘スキルを有する精鋭集団である。だがそれは決して戦闘に特化したものではなく、僅かな状況変化を見つけ出せる高い観察力をも有していた。
過酷な戦場で生き抜く為に培われた洞察力。特にリュザックはその力に秀でていたが、他の隊士達が有するそれも決して侮れるものではない。いや、一般的に考えれば十分過ぎる程の鋭い見識と判断力を持っているのだ。だがそんな彼らが血眼になって探したと言うのに、論文は見つからなかった。
「まったく見つからんき。あんな分かり易い本がどうして見つからないでよ」
「あそこで立ち話してる市民に話しを聞いて来たけど、そんな本だれも見てないって言ってたぞ。ただ事故が起きた時はけっこう多くの人が居たらしいからな。混乱に乗じて何者かが持って行ったとしても不思議はない。でもその後にかなり強い熱風が吹いたみたいなんだ。それでこの辺に居た人達は散り散りに逃げたみたいなんだよ。車を乗り捨てなくちゃいけないくらい急いでさ。もしかしたらその熱風に飛ばされたのかも知れないぞ」
「チッ、やっぱり誰かに拾われたかも知れんがか。でもまだ持ち去られたと決まったわけじゃないきね。混乱しとるだろうけんど、近くにある警察の詰所に行ってみるでか」
そう告げたリュザックは悩ましく表情を歪ませる。獣神が暴れたせいで警察は今頃パニックになっているだろう。そんな時に落し物なんか預かっておくだろうか。それにこの状況から考えれば、論文は持ち去られた可能性が高いはずだ。警察に届けられているとはとても考えられない。直感としてそう捕らえた彼は、強い不安と迷いを覚え身悶える。だがその時、彼らが病院から乗って来た車の通信装置が緊急警報を鳴らした。
「緊急事態発生! 緊急事態発生! リーゼ姫が乗った王族専用車が何者かにハイジャックされたもよう。車は現在北の廃工場跡地に停車中。首都にいるアダムズ軍の隊士全員は、速やかに現場に向かえ。繰り返す。首都にいるアダムズ軍の隊士全員は、速やかに現場に向かえ!」
通信装置の液晶画面が赤い光を点滅させる。それに比較的若い男性の声で発せられた緊急警報が、只ならぬ緊迫感を感じさせた。
「おいおい、何かとんでもない事になってるぞ。なぁリュザック。もしかしてこれもお前達に関係あるのか?」
「分からん。……けんど、恐らく関係あるじゃろな」
リュザックはそう言ってから口を噤む。彼は嫌な予感がしたのだ。あの場所はヤバいに決まってる。だって廃工場の上空は獣神同士が戦っていた場所じゃないか。
リュザックは極度の不安に襲われ体を硬くする。みんなは大丈夫なのか。アニェージ達はまだ観測所にいるだろうが、ジュールはもしかしたら廃工場に居るかも知れない。でもそうなったらマズイ事になるぞ。あいつは指名手配犯なんだ。リーゼ姫をハイジャックした犯人に疑われても仕方ない。いや、もしかして本当にジュールが姫を連れ去ったのかも。いずれにしてもアダムズ軍の全隊士を動員させるほどの緊急事態だ。こうしてはいられないぞ。
リュザックは焦りを感じながらも考えを巡らせる。六月の論文の捜索が最優先なのは変わらないが、しかしすぐに見つけられそうにない。ならどうする――。とその瞬間、リュザックは車の通信装置を見てハッとした。
彼は肝心な事を忘れているのに気が付いたのだ。そう、それはとても単純な事。通信端末を使い、仲間に連絡すればいいのだと思い出したのだ。
リュザックは自分の端末を取り出そうと制服のポケットを探る。でもそこに端末は無かった。そうか、俺は端末で連絡を取ろうとしてた時に事故ったのか。なら端末もその時に落としたのだろう。
「誰か端末を貸せ! 早く!」
リュザックはトランザムの隊士らに向かい叫ぶ。すると一人の隊士が彼に端末を差し出した。リュザックは慣れた手つきで端末を操作し始める。トランザムの隊士達には同じタイプの通信端末が支給されていた為、問題なく取り扱う事が出来たのだ。そして端末の音声認識を起動させたリュザックは、迷わずに軍の特殊AIこと、通称【出雲】を呼び出した。
「おい出雲。検索エンジンを起動させるきね。早くするぜよ!」
「オ待チ下サイ。音声認証ハ了承シマシタガ、マダ指紋認証ト網膜認証ガサレテマセン」
「一々面倒な奴だきな。なら早く読み取れ」
そう言ってリュザックは端末の画面に自分の指の指紋を擦り付ける。そしてその後に自分の右目を画面に近づけた。
軍の特殊AIである出雲。それはアダムズが誇る科学技術の全てを集約させて作られた最高の人工知能であり、軍が所有する最重要科学兵器でもある。そして当然ながら世界中のあらゆる通信網に侵入する事が可能である為、リュザックはこれを利用してアニェージ達に連絡をつけようと考えたのだ。
「全テノ認証ガクリアサレマシタ。リュザック殿。ゴ用件ヲオ話シ下サイ」
「科学部隊カプリスのヘルムホルツと連絡が取りたいきね。今直ぐ繋いでくれ!」
「了解シマシタ。ヘルムホルツ殿ニ繋ギマス」
リュザックは考えた。同じアダムズ軍に所属したヘルムホルツならば、出雲で簡単に連絡がつくだろうと。そしてその予想は見事に的中し、端末越しからヘルムホルツの声が聞こえて来た。
「もしもし、リュザックさん。聞こえますか!」
「あぁ、聞こえとるがよヘルムホルツ。連絡が遅れてスマンき。ちょっと色々あってな、バタバタしとるがよ。それより皆は無事かえ? まだ観測所におるだよな?」
リュザックはそう言って皆の安全を確認する。しかしそんな彼にヘルムホルツは歯切れ悪く答えたのだった。
「とりあえず俺やアニェージは無事なんだけど、……ソーニャは死んだよ。あと猪顔したラウラって子もね」
「し、死んだだって! マジか――」
「リュザックさんが瞬間移動した直後に【豹顔のヤツ】が現れて、あいつのせいで二人は死んだんだよ。それでアニェージとマイヤーはヤツを追って、ルヴェリエ北部にあるフォントネル工業の工場跡地に向かったんだ」
「なんじゃと! アニェージちゃんは廃工場に向かっとるでか! まっことタイミング悪いきね。――いや、やっぱり廃工場で何かが起きてるだでよ。チッ、こうしちゃおれん。俺も廃工場に行くきね!」
「ちょ、ちょっと待ってくれリュザックさん。あんたの方は大丈夫なのか? 瞬間移動した先で何か見つけられたのか?」
「お、おぉ、スマンき。それをお前に報告しようと思って連絡したんだったがよな。瞬間移動した場所はルヴェリエの拘置所近くにある墓地だったぜよ。そんでそこにある墓に隠されてた【六月の論文】を手に入れたきね」
「やったじゃないかリュザックさん!」
「いや、でも俺の不注意で論文を失くしちまったき。そんで今、トランザムの仲間達と一緒に探しとるところでよ。せっかく手に入れたのに、本当にスマンきね」
リュザックはそう言って端末越しに頭を下げる。彼は忸怩たる不甲斐なさを感じて肩を落としたのだ。ただそんなリュザックに向かいヘルムホルツは落ち着いて尋ねた。
「なぁリュザックさん。あんた今どこにいるんだよ? もし近くなら俺もそこに合流するから、詳しく話しを聞かせてくれないか」
「あ、あぁ。俺が今いるんは、墓場を出たすぐの交差点だきよ。でもヘルムホルツ、お前足は大丈夫なんか?」
「正直言ってかなり痛いよ。でも今はそんなのに構ってられないだろ」
「ならお前はそこにいるでよ。こっちから一人向かわせるき。論文は失くしちまったけんど、次の論文を探す為の暗号は覚えとるがね。それをお前に伝えちゅうき、そこで大人しゅうまっとれよ」
「そうか。なら待ってるよ。悔しいけど、この足じゃ迷惑掛けちまうかも知れないからね。でもリュザックさんはどうするんだよ。そのまま論文を探すのか?」
「いいや、アニェージちゃん達と合流するきね。なんかヤバい気がしてしょうがないがよ。それに廃工場には豹顔のヤツがおるんじゃろ。だったら尚更戦力は必要じゃき」
「分かったよ。十分に気を付けてくれよな。くれぐれも無理はしないでくれよ」
ヘルムホルツは心配そうな声でそう告げる。ただその声を最後まで聞かずにリュザックは端末の通信を切った。そして彼は急いでポケットに手を伸ばす。彼はヘルムホルツと話している途中で思い出したのだ。論文に挟まれていた一枚の写真の存在を。
これも事故の影響で失くしてしまったか。リュザックは冷や汗を掻きながらポケットの中を探り出す。だがそこには一枚の写真がしっかりと収められていた。
リュザックはホッと胸を撫で降ろす。さすがにこれまで失くしていたら目も当てられない。彼はそう思ったのだろう。でも今は時間が惜しい。彼はトランザムの仲間から手帳とペンを借りると、そこに記憶していた暗号を書き綴った。
『古えの都にて、岩隠れする悪魔を救い出せ。さすれば虚数に込められし、失われた時間は解き放たれるだろう』
リュザックは暗号を一気に殴り書く。そしてそのページに写真を挟み込んだ。あとはこれをヘルムホルツに届けさえすれば、その先の事は任せられる。そう判断したリュザックは、一人のトランザム隊士を呼びつけた。
「おい【シャルル】。お前はこれを持って天体観測所に行ってくれだが。そこにカプリスのヘルムホルツっちゅうデカい図体した奴が待ってるき、これを渡してくれだで。あいつは足をケガしちゅうき、応急医療のスペシャリストのお前に頼むのがベストだが。それにこの手帳に書いた暗号が解けるのはヘルムホルツしかおらんき。重要な仕事じゃから、頼むぜよ!」
「あぁ、分かったよ。でもお前らはどうするんだ。本当にフォントネル工業の工場跡地に向かうのか?」
「行くしかないでよ。じゃがその前に一度城に行くきね。こっから先は戦場だき。それも相手はヤツじゃからの。城でS級配備してから廃工場に乗り込むでよ!」
リュザックはそう声を張り上げると、急いで車に乗り込む。そして彼はシャルル一人を残し、他の隊士らと共にアダムズ城に向かい出発した。
寒気立つ雰囲気に震えが止まらない。そんな状況が地下工場を支配している。息絶えたにも拘らず、【獏顔のヤツ】に変化してしまったガウスの怨念が渦巻いているのだろうか。しかしガウスはまだ微動だにしない。
すでに完全なヤツの体へと変形はし終えている。それにその体からは忌々しいまでの熱気が溢れ出し、獰猛な目つきには狂気が滾りきっている。だがしかし、獏顔のヤツはそんな今にも爆発しそうな荒々しい怒りをじっと抑えつけていた。まるで将軍の命令を待っているかの様に。
ジュールはそんなガウスを前にして竦み上がっている。まだ酷い頭痛に襲われたままだが、それ以上に彼はガウスの変わり果てた姿にショックを受けていたのだ。
どうしてこんな事になっちまったんだ。ジュールは完全に状況に呑まれている。冷静な判断など出来るわけがない。ただそんな彼を差し置いて、アルベルト国王こと黒き獅子はトウェインに向かい言ったのだった。
「死者までも兵器として利用するか。まさに神をも凌ぐ狂気の沙汰だな、トウェインよ。それもよりによってこの場所で実行するとは、浅はか過ぎて声にならんぞ」
「何を今更驚いているのです。あなたと同じ事をしていたまでですよ、国王。それとも、黒き獅子とお呼びした方がよろしいか。それよりどうしました、その体。ひどく傷ついていらっしゃいますが、大丈夫なのですか?」
国王の姿は目を背けたくなるほどボロボロの状態である。身に纏う服のあちこちが真っ黒に焼け焦げているから余計にそう感じるのだろう。それにどことなく国王からは意気消沈する様子が見て取れる。いや、体力的に参っているのは間違いないはずだ。ただ意外にも国王は、そんな自身の置かれた状況を正直に白状した。
「さすがに神同士の戦いは消耗が激しいからな。それに余は首都への被害を【最小限】に留めながら戦わなければならん。疲れるのも無理はあるまい」
「それはそれは、ご苦労様でした。――で、肝心の銀の鷲は始末出来たのですか?」
トウェインは含み笑いをしながら聞き尋ねる。彼は承知で尋ねたのだ。獣神同士の戦いはまだ決着がついていないのだと。それどころか黒き獅子は、劣勢を強いられているのではないのかと。そしてトウェインの予想通り、国王は自らの苦労を物語った。
「そう一筋縄ではいくまい。なにせ火の神と大地の神では相性が悪いからな。それに今日の鷲はこれまでとは違う。例えこの首都ルヴェリエが火の海と化そうとも、余を討つ覚悟なのだろう」
「それで、あなたはここで何をしているんです? あなたの相手は銀の鷲のはずでしょ。こんな場所で油を売っている暇はないはずだ。早く地上に戻って鷲を、いや【ラヴォアジエ】を殺して下さい。あなたはあいつの事を憎んでいるんででしょ」
「憎む? はっ、バカな事を言う。お前はどうして分からないのだ。いや、これだからお前はいつまで経ってもアイザックの上には立てなかったのだ。余はラヴォアジエを憎んではおらん。許せなかっただけだよ」
「それを憎んでるって言うんじゃないのか! それに私がアイザックの上に立てなかっただと!? ふざけないで頂きたい。私のどこがアイザックに劣っていたというのだ!」
トウェインが怒気を宿した声を荒げる。国王の発言が彼の癇に障ったのか。ただ彼が極度の憤りを感じているのは確かなのだろう。家臣であるはずのトウェインが国王に歯向かう態度を見せたのだ。常識的には考えられない振舞いである。だがそんな彼に対し、国王は呆れた様に溜息を深く吐き出した。国王は無礼な素行を見せるトウェインを咎めるどころか、むしろ失望したかの様な表情を浮かべている。そして国王は何を思ったのか、目の前の生産ラインに並んでいた小型の玉型兵器を一つ手に取った。
「さすがだな、グラム博士。人の身でありながら、余の理論を覆すかも知れないレベルの発明を、あと一歩というところまで完成させた。驚くべき所業だ。余にとって本当に厄介な相手は銀の鷲などではない。グラム博士、そちこそが余にとって、真の意味で最大の天敵であったぞ」
そう告げた国王は哀しげな眼差しで手にした玉を見つめる。グラム博士と切磋琢磨し合い科学の追及をした輝かしい日々を思い出しているのか。しかしどれだけそれを惜しんだところで、もうグラム博士はこの世にはいない。そしてその想いを現実に引き戻すよう、トウェインは衝撃的な事実を口走った。
「国王よ、あなたがそれ程までにグラム博士を慕っていたとは思いませんでしたよ。でもね、グラム博士は死んだんだ。この【私】が殺したんだ! いくら革命的理論を考案し、画期的な発明を繰り返したとて、死んでしまえばそれまでの事。私の要求に最後まで応じなかった強情なジジィ。だから殺してやったのさ、あのイカれたジジィをな!」
「余はグラム博士を生きたまま捕えろと命令したはずだ。それなのにトウェイン、お前は早まったマネをしてくれた。それに今日の企ても然り、アイザック殺害も然り、お前は何を最終的な目的として動いているのだ?」
「それは決まっているでしょう。あなたを殺し、私が王になる為ですよ、この私がね! だから邪魔なアイザックには死んでもらったんだ。獣神になってしまっても尚、あなたを【庇う】あいつをね。でもその甲斐もあって計画は思いのほかスムーズに進みましたよ。まぁ、女神の巫裔などというイレギュラーな存在が現れたせいで、ここに来て少しバタついていますがね」
「その女神の巫裔を拐かし、お前は何をしようとしている。お前には何の価値もない存在だぞ。それにトーマスとリーゼ姫までさらい、お前は」
「ちょっと待てよ!」
国王の発言を遮りジュールが叫ぶ。そして彼はトウェインをきつく睨みつけると、憎悪の炎を胸の中で燃え上がらせながら激しく詰め寄った。
「もう一度言ってみろ将軍。あんたが、あんたが博士を殺したって言うのか!」
「フン、話しを腰を折りおって。生意気な老いぼれを一人殺したから何だと言うのだ。だがジュール、お前を見ていると本当に博士を見ている様だよ。強情なところがそっくりだ。ムカつくほどにね。あ、そうだ。せっかくだから博士の最後の言葉を教えてやろうか」
「貴様っ!」
ジュールが握る布都御魂が猛烈に輝き出す。封神剣が彼の烈々たる怒りに反応したのだ。そしてジュールはその怒りをトウェインに叩きつけるため、全力で駆け出そうと足を踏み出した。だがそんな彼の前に国王が割って入る。
「堕落したな、トウェイン。お前はグラム博士という人物を何も分かっていない。彼はただ余を撃とうしていたのではないのだぞ。そうなのだ、彼はその先にある【真理】が何であるか、漠然とではあるが気づいていたのだ」
「何を今さら後悔している。私が手を下さずとも、いずれはあなたが博士を殺したはずでしょう。でも面倒な汚れ仕事をあえて引き受けてあげたんだ。むしろ感謝して頂きたいものですね。それともあれですか、私に先を越されて悔しいのですか!」
「グラム博士は自ら持ち合わせる知識と直感で真理に迫った。かつてフェルマーが確立した理論と、未完成であるがゆえの欠点を見極めてな。そしてライプニッツが偶然ではあるにしても気づいた矛盾に博士は証明を突きつけたのだ。トウェインよ、まだ分からぬのか」
「何を訳の分からない話しを抜かしている――――。ん? 待てよ。まさか、それでは!」
「そうだ。グラム博士がどうしてフェルマーズ・リポートをアダムズの各所に隠したのか。宝探しとも言えるこの意味は、彼が残した呪いの様な物であり、それはすでに起動しているのだよ」
トウェインは驚嘆し目を丸くする。彼には国王が告げた話の意味が理解出来たのだろう。そしてトウェインは不快極まりない表情を浮かべながら呟いた。
「それでは【ワイルズ・プログラム】はすでに発動しているというのか」
トウェインの額から一気に汗が噴き出してくる。彼は極度の不安と恐れを抱いたのだろう。そしてそんなトウェインに国王は首を縦に振りながら言った。
「その通り。サイは投げられた。もう始まっているのだよ、破滅へのカウントダウンがな。グラム博士はとんだ食わせ者だ。恐らく自分の死と同時に、プログラムが始動するよう仕組んでいたのだろう。そしてお前はそんな博士の罠にまんまと嵌められたのだ。この愚か者め」
「嘘だ! そんな話が信じられるか!」
トウェインは決死の思いで反発を露わにする。こんな話が受け入れられるか。これは私を陥れる為の黒き獅子の作り話に決まっているんだ。だってそう考えなければ、自分は何の為にこれまで主に尽くして来たのか分からなくなってしまう。絶対に受け入れられない。受け入れてはいけない。
トウェインは懸命に気持ちを駆り立てる。慄いている暇はない。もう引き返せないところまで来ているのだ。それに国王がこの場所に姿を現した時点で腹は括ったはず。もうやるしかない。トウェインの瞳に必死の覚悟が宿る。――がその時、突如として大きな衝撃が地下工場に伝わった。
「ズズンッ!」
天井からバラバラと破片が落ちて来る。それに生産ラインのあちらこちらから金属音が鳴り響いた。衝撃により発生した大きな揺れで設備が軋んでいるのだ。でもこの揺れ方は地震とは明らかに異なっている。そう、何かが爆発した時に発生する様な振動なんだ。
ジュールは直感としてそう思った。幾多の死線を越えて来た彼の軍人としての勘がそう告げたのだ。そして彼は更に驚く。
「ジュール!」
後方から名前を叫ばれたジュールは反射的に振り返る。するとそこには血相を変えた状態で駆け寄って来るアニェージとマイヤーの姿があった。もちろん彼女達の後方にはエイダやティニ、それにブロイまでもが揃っている。ただ予期しない彼女達の出現にジュールは驚きを隠せない。しかしそんな彼に対してアニェージは凄まじく緊迫した口ぶりで伝えたのだった。
「時間が無い、ここは崩壊するぞ! 地上で銀の鷲と紫の竜が戦い始めたんだ!」
「紫の竜だと!」
意外にもそう声を上げたのはトウェインだった。そしてそんな彼の表情はみるみると赤く染まっていく。腹に据え兼ねた怒りが一気に噴き出したかの様に。
「主自ら直接出向いて来たというのか。女神の巫裔っていうのは、そんなにも重要な存在なのか! チッ、これでもう計画は台無しだ。あの方の指示に従って強引にトーマス王子を拉致したっていうのに、これじゃまったく意味が無い。クソっ、神ってのはどいつもこいつも自分勝手な奴ばかりだ。どいつもこいつもバカばっかりだ!」
トウェインは怒りをブチ撒けながら吐き捨てる。そして彼は全てを恨むかの様にして、ガウスに向かい命令を飛ばした。
「殺れガウスっ! 邪魔な奴らを一掃しろ! 一人も生かして帰すなっ!」
「グオォォォ!」
獏顔のヤツが猛烈な雄叫びを上げる。するとその雄叫びにアニェージは思わず竦み上がった。
「なんだコイツは! これまでのヤツとは様子が違うぞ!」
「みんな、この先にアメリアとリーゼ姫、それに王子が捕えられている。俺が突破口を切り開くから行ってくれ! アメリア達を助けてくれ!」
「でも」
「行けっ! こいつはガウスだ! ガウスの変わり果てた姿なんだ! だからこいつだけは、こいつだけは俺がやる」
「――」
アニェージは声を失った。ガウスの裏切りはヘルムホルツから聞いている。でもまさか彼がヤツになってまで自分達に牙を剥くとは思いもしなかったのだ。そしてそれは彼女と共に駆け付けて来たマイヤーも同じである。いや、共に戦場を潜り抜けて来た仲間だっただけあり、その思いはそれ以上だろう。だがしかし、彼は胸の中で渦巻く葛藤を押し殺しながらジュールに聞いた。
「――出来るのか、ジュール。お前だけに背負わせていいのか?」
マイヤーはじっとジュールを見つめた。いくらヤツの姿に変化してしまったとしても、目の前にいるのはガウスなんだ。お前にかつての仲間が殺せるのか。
その問い掛けにジュールは無言だった。だが彼は一度だけ首を縦に振る。大切な仲間だったガウスに剣を向けるのはもちろん辛い。でももう手遅れなんだ。ならばせめて自分の手でトドメを差し、悪夢の様な現実からガウスを救ってやりたい。
ジュールは真っ直ぐにヤツとなったガウスを睨み付ける。するとそんな彼の覚悟を読み取ったマイヤーは、その気持ちを汲むべくして告げた。
「アメリア達の事は任せてくれ。お前は目の前の相手だけに集中しろ」
ジュールはそんなマイヤーの言葉を耳にしながら布都御魂をきつく握りしめる。彼にはもう迷いはない。いや、むしろ一秒でも早くガウスを楽にさせてあげたい。その為には出し惜しみなしで全力を叩きつけるのみだ。するとそんなジュールの隣に蛇之麁正を引き抜いたテスラが肩を並べる。
「君だけに損な役目はさせないよ。僕らは同じ元ファラデー小隊。僕にも背負わせてくれ」
「グオォォォ!」
獏顔のヤツが強烈な咆哮を飛ばす。ヤツはジュールとテスラから凄まじい闘志を感じ取ったのだ。だがそんなもので怯むヤツではない。それどころかヤツは獰猛な牙を剥き出しにして殺気立った。
ジュールとテスラの背中が尋常でなく粟立つ。それでも二人は覚悟を決め、ガウスに向かい刃を向けた。
「行くよジュール! 僕達でガウスを倒すんだ!」
「うおぉぉぉ!」