#91 佐保姫の泣血(熱塊の拳)
「俺にはもうこうするしかないんだ!」
そう叫んだガウスがジュールに向かって猛烈に突進する。そして彼はあっという間にジュールの懐に飛び込んだ。
力自慢が特徴のガウスが見せた予想外なスピードにジュールはギョッとする。いや、ガウスの身のこなしは以前からそれなりのものだった。ただ素早さが持ち前のヘルツといつもチームを組んでいた為目立たなかっただけなんだ。
ジュールは一瞬の気後れに悔やむ。勝負どころを見極める力に長けたガウスの後手に回ってしまった。こうなってしまったら、そう簡単に状況は変えられない。すると案の定、ガウスは渾身の一撃をジュール目掛けて突き付けた。
「ドンッ」
ガウスが振り抜いた強烈なパンチがジュールの体を吹き飛ばす。ジュールは咄嗟にガードしてガウスの拳から身を守ったが、それでもやはりその衝撃は凄まじく、彼の体は周辺のベルトコンベアーを薙ぎ倒しながら転がった。
「ぐおっ」
ジュールは表情を歪ませながら痛みに堪える。まるで鉄のハンマーで殴られたかの様だ。ガウスの一撃をガードした左腕が軋み上がって言う事を聞かない。強いとは思っていたが、ガウスの強さは想像以上だ。
最新のバトルスーツを装備している効果も上乗せされているのだろう。軽く見積もっても、身体能力加速機能は4倍に達しているはずだ。ただでさえパワーのあるガウスの攻撃力が嵩上げされているのである。普通の人間であれば、一撃であの世行きは避けられない。
だがジュールの真骨頂は驚異的な肉体の頑丈さである。この程度の攻撃なら、まだ彼を倒すには至らない。ただ素早く立って身構えようとしたジュールは、自分の足が覚束ないのに舌打ちした。見込み以上のダメージが彼の足をふらつかせたのだ。
これ以上ガウスの攻撃を真面に受けたらヤバい事になる。ジュールは直感としてそう思い身構えた。そして彼は自身のバトルスーツのダイヤルを捻り上げてガードを固める。咄嗟の判断で防御力を高めようと努めたのだ。だがそんなジュールに対してガウスは構うことなく攻撃に出る。
「一気に終わらせてもらうぞ!」
ガウスは高らかに叫ぶ。そして彼は渾身の飛び蹴りをジュールに叩き込んだ。
「ドガンッ!」
またしてもジュールの体が無造作に吹き飛ぶ。スピードを上げた乗用車に追突されたかの様に、彼の体は為す術無く宙を舞った。そして彼の体はそのまま生産設備に直撃して止まる。その衝撃もまた、かなりのものだ。
五体がバラバラになってしまうのではないか。そう感じてしまう程のインパクトがジュールを襲う。だがそれでも彼は倒れなかった。直撃した生産設備に寄り掛かったままジュールは立ち続ける。彼の視線はガウスを真っ直ぐに見つめて離さない。
そんな鋭いジュールの眼光にガウスは僅かに怯む。だが幾多の戦場を駆けて来た彼が勝負どころを読み間違えるはずがない。ガウスは構わずにジュールとの間合いを狭めると、今度はその顔面目掛けて拳を振り抜いた。
「バガンッ!」
ジュールの首が激しく軋む。ガウスの右ストレートがジュールの頬に直撃したのだ。先の一撃をガードした影響なのだろうか。ジュールの左腕は上がらなかった。
ジュールの膝がガックリと崩れる。彼の意志に反し、下半身から力が抜けてしまったのだ。ただガウスはそんなジュールの体を掴むと、その腹に向かって膝蹴りを叩き込んだ。
「ぐほっ」
ジュールは堪らずに血反吐を吐き出す。彼が装備しているバトルスーツならば、小銃で撃たれたくらいの衝撃には耐えられるはずである。しかしジュールはそのあまりにも強い一撃に表情を歪めた。まさにガウスの一撃はバツーカ砲並みの威力を誇っていたのだ。そしてそんなガウスの尋常でない攻撃は、更に激しさを増して止まない。
二発目、三発目の膝蹴りがジュールの腹に叩き込まれる。そのダメージはハンパではない。さすがのジュールもその衝撃には耐えられず卒倒しそうになる。しかしそんな彼をガウスは簡単に眠らせはしなかった。
ガウスは強引にショルダータックルしてジュールの体を生産設備に押し付ける。ジュールが背にした機材に彼の体をめり込ませ、簡単に倒れないようにしたのだ。そしてガウスはここぞとばかりにジュールの顔面を殴りつける。すると渾身の力で繰り出されたガウスのパンチが、連続してジュールの顔を弾き飛ばした。
「ガンガンガン!」
顔面、胸、腹。数えきれないほどのパンチがジュールに捻じ込まれる。常人であれば、とっくに死んでいる攻撃だ。だがガウスが相手にしているのは、誰よりもタフさが自慢のジュールである。まったく反撃は出来なかったが、それでもジュールの眼光にはまだ力が宿っていた。
その鋭い眼光を見たガウスは一瞬だけ体を硬直させる。共に戦場を駆けたジュールの底知れぬ強さを知っている彼だからこそ、ジュールの怖さを読み取ったのだろう。だがしかし、ガウスにしてもアダムズ軍きっての精鋭隊士なのだ。彼はジュールの常軌を逸した強さと只ならぬ怖さを知っているからこそ、あえて踏み込んで強烈な一撃を繰り出し続けたのだった。
「いい加減に眠っちまえよ!」
「ズガン!」
ガウスの渾身のアッパーがジュールのアゴを打ち砕く。間違いなく骨が粉々に砕けた感触だ。これなら如何にジュールがタフだとはいえ、戦う事は出来ないだろう。いや、息をするのすら困難なはずだ。
ガウスはジュールから数歩離れた場所まで後退する。機材にめり込んでいるせいで倒れはしないが、常識的に考えてジュールに意識があるとは思えない。だが目の前にいるのは普通の人間ではないのだ。
ガウスは奥歯をグッと噛みしめる。完璧に息の根を止めるまで安心は出来ない。そう考えたガウスは体勢を低くしながら身構える。そして彼は両腕に装着していた【篭手】を、胸の前で強くクロスさせた。
特殊な炭素合金の篭手は、熱を加えると無煙燃焼を引き起こす特性を備えている。そしてそこから発生する温度は最大で千度にも昇り、当然の事ながらその篭手による一撃は、人を殺すには十分過ぎるほどの破壊力を保持していた。
篭手を装着したガウスの両腕周辺の空気が歪んで見える。発熱した篭手が高温になっている現れだ。もちろんガウス自身にもその熱の片鱗が伝わっている様子で、彼の額からは大量の汗が噴き出していた。
ガウスは右の拳に神経を集中させて身構える。この一撃をまともに喰らえば、たとえヤツであったとしても一溜りも無いはずだ。人間であれば尚更防ぎ様がないというもの。彼は機材に体をめり込ませたジュールを直視しながらそう思っていた。
これで終わりだ。もう引き返せやしないんだ。ガウスは自分の心に繰り返し叫び続ける。覚悟を決めろ、断ち切るんだ! 彼は今まさに、これまでの生涯で発揮したことのない殺気を放出していた。
しかし何故だろうか。ガウスの表情はひどく悲痛なものに感じられる。大量に流れる汗が、まるで涙の様に見えて仕方ない。いや、彼の本心はきっと泣いているのだろう。
尊敬する先輩を殺さなければならない。大好きだったジュールを裏切り、牙を剥かなければ許されない。そんな追い詰められた状況にガウスは苦しんでいたのだ。
でもやるしかない。こうしなければ【あいつ】は救えないんだから。ガウスは一度だけきつく目を瞑る。でもそれが彼の最後の覚悟だったのだろう。再び開いた目から見える彼の眼光に迷いはなかった。
熱い拳を握りしめながらも、程よく力みが取れた姿勢で体重を前方に傾ける。そしてガウスは一度だけ深呼吸をすると、ジュールに向かい小さく囁いた。
「行きます――」
猛然とダッシュしたガウスが一瞬でジュールの間合いに入る。そして彼は躊躇う事なく、振りかぶった拳をジュールに向かって叩きつけた。
「ドガシャーン!」
焼け焦げた臭いと共に、機材の破片がバラバラになって吹き飛ぶ。高熱を帯びた篭手による一撃が、ジュールの背にしていた機材を大破させたのだ。――がしかし、そこにジュールの姿が無い。
一瞬にしてジュールが消えた。ガウスは信じられないとばかりに目を丸くする。だがそこは歴戦の隊士である。ガウスはすぐにジュールの気配を読み取ると、斜め左後方に向かって猛烈に足を踏み出した。
ガウスの覚悟の一撃が叩き込まれる瞬間、ジュールはそれまで溜めていた力を一気に解放してその攻撃を躱していた。そして彼はそのままのスピードを維持してガウスの後方に回り込んでいたのだ。ただそんな彼に向かい、ガウスは即座に反応して追い込みを掛ける。
再び右の拳にガウスは意識を集中させた。今度は外さない。ガウスは右腕を振りかぶりながらジュールを見据える。その目にはもう、ジュール以外は映り込まない。
更に彼は手応えを感じていた。機材を粉々にした先程の一撃よりも、今度の攻撃の方がパワーもスピードも乗っていると。まさに人生最大最高の一撃だ。この攻撃で倒せない奴なんているわけない。
左の手の平をジュールに向け、右の拳を大きく振りかぶる。絶対に逃しはしない。ガウスの巨体が信じられない速度でジュールに襲い掛かる。そしてガウスは高熱が加えられた最大最高の一撃を、全身全霊をもって振り抜いた。
「ズガンッ!」
確実な手応えがガウスに伝わる。そう、ジュールに拳を叩き込んだ確かな感触だ。だがしかし、そこでガウスが目にしたのは、到底信じられない光景だった。
「なっ、バ、バカな!」
ガウスは愕然とするしかなかった。なぜなら彼が放った人生最大最高の一撃が、ジュールの手で完全に受け止められていたのである。それも左腕一本だけで。
こんなの到底受け入れられるはずがない。悪い冗談だとしか思えないぞ。だがジュールにガッチリと掴まれたガウスの拳はびくともしなかった。
肉が焼き焦げる嫌な臭いが鼻をつく。ガウスの拳を受け止めたジュールの手の平が、篭手の高熱で焼けているのだろう。しかしその腕は1ミリたりとも動きはしない。
「フ、フザけんなよ。普通でもこの一撃は、30センチのコンクリートをブチ抜くんだぞ。それも今の一撃は、それよりもっともっと強かったはずなんだ。それなのに何なんだよあんた。意味分かんねぇよ」
ガウスは動揺を隠せない。完全に意気消沈した様子だ。でもそれは当然だろう。なにせ彼はこれ以上ないほどの手応えと自信を感じていたのだから。しかし無情にも現実は彼に残酷だった。押すにも引くにも、ガウスの拳はまったく動かない。そしてそんな愕然とする彼に向かい、今度はジュールが小さく呟いた。
「やめろガウス。俺は怒っている。これ以上やるなら、たとえお前でも容赦はしない」
口調は思いのほか落ち着いたものだったが、そこに溢れんばかりの殺気が込められているのは明らかだった。そしてそんなジュールの凄味にガウスは尻込む。いや、そんな生易しいものではない。彼の足は竦み上がり、畏縮しきっていた。
その状況はまるで、猛獣に睨まれた小動物を現している様だった。震え出したガウスの奥歯は噛み合わない。そしてそんな彼が目にしたジュールの姿。それは彼が良く知る先輩の姿とは掛け離れたものだった。
ジュールは右目を青白く光らせていた。ガウスにはそれが人を喰らう【修羅】の姿にしか見えなかった。
これがあのジュールさんなのか。この人は本当に普通の人間じゃないのか。ガウスはジュールから感じる尋常でない禍々しさに背筋を粟立てる。いや、あまりの怖さに吐き気すら覚えるほどだ。ただそんな彼の臆した心情を察したのだろう。ジュールは掴んでいたガウスの拳をそっと手放した。
ガウスはふらついた足で数歩後退する。その表情に戦意はまったく感じられない。完全に意気消沈した姿だ。でもそれは仕方ないだろう。全力で繰り出した最高の一撃を腕一本で止められたのだ。それにジュールの左手。高熱を帯びた篭手の一撃を受け止めたその左の手の平は、有り得ないくらい酷く焼けただれていたはず。でもその左手はガウスの目の前で急速に回復して行くのである。まるで録画した映像を巻き戻すかの様にして。
こんなデタラメな奴に勝てるわけがない。聞いていたのとまるで話が違うじゃないか。それによく見れば、あれだけ殴りつけた顔にだって傷はほとんど残っていない。この短時間で回復したって言うのかよ。
ガウスはジュールの超人的な自己治癒力に舌を巻く。いや、治癒なんて生易しいモンじゃない。これは細胞レベルの蘇生だ。あの右目が輝き出した瞬間に、この人の体は神の領域まで押し上げられたんだ。
ガウスは項垂れるしかなかった。こんなの相手に出来るわけがない。彼の胸の内はそんな敗北感で一杯になってしまったのだ。だがそんなガウスを尻目に、トウェインは不敵に笑いながら言ったのだった。
「これがオリジナルの勾玉の力か。まだ覚醒前だというのに、この悍ましいばかりの威圧感。恐れ入るな」
初めて目にしたジュールの驚異的な回復力に感心したのか、トウェインは嬉しそうにしながら言った。恐らく彼はジュールの回復力を目の当たりにして確信を持ったのだ。ジュールが本物の月読の胤裔であるのだと。
噂で聞いていた月読の胤裔と呼ばれる伝説の存在。もしかしたらトウェインは、その存在を疑っていたのかも知れない。でもそれは今、確実な存在として目の前にいる。恐ろしいまでに右目を輝かせて。
でもだからこそ残念だ。アカデメイアの為にその力を使えば、未来は輝かしいものになるはずなのに――。トウェインは呆れた様に苦笑いを浮かべている。彼は本心から口惜しく感じているのだろう。ただそんな将軍に向かい、ジュールは静かな怒りを吐き出したのだった。
「いい加減にしろよ将軍。俺が今一番許せないのはあんたなんだ。後悔したってもう遅いぞ。ぶっ殺してやる」
「フン、何を偉そうに言っている。少しくらい人間をやめたからって、お前の方こそ調子に乗るな。それにな、ジュール。私が直接お前の相手をすると思ったら大間違いだぞ」
「強がり言ってんじゃねぇよ。あんた以外の誰が俺の相手をするってんだ! 悪いがガウスはもう使えねぇぞ」
「いや、それはどうかな?」
トウェインはそう言うと、まだ萎縮しきったままのガウスに向き直る。そして将軍はガウスに向かい、奮起を促す言葉で行動を後押しした。
「どうしたガウス。何をそんなに怖がっている。恐れる必要は何もないぞ。そいつがどれだけ化け物じみた力を発揮したとしても、所詮は甘っちょろい奴なんだ。絶対に仲間を傷つけられやしない。だからお前は臆する事なく、そいつを血祭りにすればいいんだ。躊躇うなガウス。ジュールを殺れ」
「で、でも」
「怖気づいたかガウス? でもお前に私の指令を断る勇気もあるまい。お前は自ら血塗られた道を選んだんだからな。だからジュールを殺せ。お前に残された道は、我らの命に従う事のみ。さぁ、やるんだガウス!」
「そこまでにしろ将軍! ガウスはあんたの思い通りには動かない。諦めろ!」
「やるんだガウス! あの【娘】がどうなってもいいのか!」
「うわあぁぁあー!」
突然ガウスが叫び声を上げる。そして彼は自らを鼓舞し、再び戦闘態勢を整えた。
「よせガウス! 俺達が争う必要はないんだ。こんなバカげた戦いを続ける必要はないんだよ!」
「黙れっ!」
ジュールの制止を吹き飛ばす様にガウスは強く叫ぶ。きつくジュールを睨み付けたガウスの眼光に宿った殺気は本物だ。こうなってしまったらもう、ガウスの耳には誰の声も届かない。
なぜこんな事に。どんな理由があってガウスは俺を殺そうとしているんだ。ジュールは強く胸を締め付けられる感覚に苛まれる。しかしこれ以上のダメージは受けられない。右目の力で肉体的な外傷は回復したが、でも体力の限界が近いのは確かだ。
ジュールは右手でずっと握っていた布都御魂を正眼に構える。もうこれに懸けるしかない。この剣の力でガウスの体力を奪い、彼の戦闘能力を無効化させるんだ。そして将軍さえ打ち取れれば、ガウスは救われる。でも力の加減を間違えれば、ガウスの体力を全て奪い去ってしまい兼ねない。それはすなわち、ガウスを殺す事になってしまう。
北の里の近くの山林での戦闘を思い出す。あの時は布都御魂を暴走させてしまい、仲間の体力を奪い去ってしまった。あの時はどうにかその後の窮地を乗り切れたけど、でも今度はそうはいかない。
今のガウスの姿を見る限り、体力が少しでも残っていれば、彼は全力で挑み続けるだろう。だから死ぬ寸前のところまで体力を削りとらなければならないのだ。立ち上がれなくなるくらいまでに。しかしそれは生死を分ける寸前の状態を意味する。まだ布都御魂のコントロールに自信が無い自分に、果たしてそれが可能なのか。
ジュールの額から汗が流れ落ちる。強い緊迫感に煽られている証拠だ。ただそれと並行して彼の握る布都御魂の刀身がピンク色に光り出す。ジュールの意識に反応し、封神剣が能力を稼働させ始めたのだ。
だがそんな彼に対峙するガウスの気合は凄まじい。もう迷いは完全に断ち切った。ガウスからはそんな強固な意志が伝わって来る。そしてガウスは大きく息を吸い込むと、それを一気に吐き出しながら篭手を激しく交差させた。
「ガッキーン!」
凄まじい閃光が迸る。激しい摩擦力を加えられた篭手が、限界を超えて発熱したのだ。目を背けなければならないほど篭手は激しく輝いている。またガウスの姿が歪んで見える程、周囲の大気は膨張していた。
光る篭手が眩し過ぎて直視していられない。それでもジュールはガウスを見据えた。ガウスを殺さないギリギリのところで布都御魂を振り抜く。彼はその一点に集中しているのだ。
篭手が発する閃光と、封神剣から放たれるピンク色の光が凌ぎを削る。それはまるで、二人の意志がぶつかり合っているかの様だ。ただそんな硬直した状況から先に動いたのはガウスだった。
「うおおぉぉぉ!」
ガウスが唸り声を上げる。そして彼は握り締めた右の拳を振り上げた。もちろんそこには計り知れない強力な破壊力が込められている。全身全霊が注ぎ込まれた右の拳。ガウスはそんな灼熱の閃光で包まれた拳を、ジュールに向けて全力で突き出した。
「ドグンッ!」
ガウスの拳が肉に食い込む鈍い音が響く。それは極めて気持ちの悪い音色だった。そしてその直後から肉を焦げつかせる悪臭が漂い始める。いや、焦げつかせるなんてモンじゃない。まるでゼリーの様に溶け出したドロドロの【腹の肉】が、床に散らばって鼻を突く悪臭を広げているのだ。
でも一体何が起きたっていうんだ。ジュールは布都御魂を構えたまま呆然としていた。間違いなくガウスは自分に向けて拳を振るったはずだ。そして俺はその一撃を掻い潜り、刀の力でガウスの体力を奪い去るつもりだった。しかしガウスが放った強烈な拳は自分に届いていない。もちろん体は無傷である。
だけどこの悪臭は何だ。ドロドロに溶けた状態で足元に散らばった肉片らしき物体は何なんだ。――いや、違う。どうしてガウスは自らの拳を【自分の腹】に突き立てているんだ!
ジュールは酷く当惑した。彼は予想外に起きた目の前の惨劇を飲み込めなかったのだ。だがそれでも彼は反射的に刀を放り投げてガウスに踏み寄る。そしてジュールは迷う事なくガウスの腕を掴み取った。
「ジュワァァ」
ガウスの腕を掴んだジュールの手の平が焼け焦げる。凄まじい熱量だ。燃え盛る炎の中に手を入れた方がまだマシだろう。それでも彼は握ったガウスの腕を離さない。そして彼は精一杯の力を込めて、自らの腹に捻じ込んでいるガウスの腕を引き抜いた。
「ジュポッ」
拳がまるまる突き刺さっていたはずなのに、そこからの出血はなかった。肉がドロドロに溶けている為に、傷口が勝手に塞がったのだろう。だがしかし、ガウスの腹の損傷は悲惨な状態だ。一見して人の体とは思えない程にまで損傷している。当然内臓はグチャグチャになっているだろう。
「何してんだお前は! 何で自分の腹を殴ってんだよ! お前は俺を殺したかったんじゃないのか!」
ジュールはガウスを抱きしめながら叫ぶ。彼は突発的なガウスの行為に怒りを感じたのだ。どうしてこんな【自殺行為】に及んでしまったのかと。
体の損傷具合からして、ガウスが助かる見込みはほとんどない。それは誰のの目から見ても明らかな状態であり、また膝から崩れ落ちるその体を抱き止めるジュールには、ガウスの命の消えゆく感触が直に伝わって来ていた。
ジュールはそっとガウスの体を横たわらせる。顔色を真っ青に変えたガウスの体はぐったりとしたものであり、ほとんど力が入っていない。あれほど強力で威圧感に満ちていたガウスの肉体はどこに行ってしまったんだ。ジュールは抜け殻の様になってしまったガウスに対して奥歯を強く噛みしめる。そして彼はガウスの顔にそっと手を添えながら言ったのだった。
「バカ野郎。早まったマネしやがって。真っ直ぐ俺に向かって来ていれば、上手く出来たかも知れないのに――」
ジュールは悔しさを噛みしめる。そうなんだ。布都御魂によるカウンターさえ降り抜ければ、こんな事にはならなかったんだ。それなのにガウスは攻撃を中止したばかりか、その拳を自らの腹に捻じ込んでいた。まったく理解出来ない。ジュールは忸怩たる思いに苦しむしかなかった。ただそんな彼に向かいガウスが小さく語り掛ける。彼は最後に残った力で、自分の想いを精一杯伝えようとしたのだった。
「は、早く行って下さいジュールさん。トウェイン将軍の後ろにある通路の先に、アメリアさん達が監禁されています。早くしないと――うぐっ」
「ガウス、しっかりしろ!」
「ハァハァ。や、やっぱり俺がジュールさんに勝とうなんて、考えが甘過ぎたんですね。ほ、本当にスミマセンでした。で、でも俺は、俺には守れなければならない大切な人がいて……。ううん、俺はそんな弱みを奴らに握られて、利用されてしまっただけなんだ」
「もういい、もういいから喋るなガウス。じっとしてろ。これ以上喋ったらお前」
「良いんですよ。もう助からないのは分かってますから。だからむしろ伝えたいんです。アメリアさん達を救えるのはジュールさんしかいない。だからお願いです。絶対に諦めないで――」
紫色に変色したガウスの唇が小刻みに震えている。もっともっと伝えなければならない事があるのに、体が言う事を聞いてくれない。ガウスはそんな無念さを抱いているのだろう。彼の目から涙が零れ落ちる。それでもガウスはありったけの力を振り絞り、ジュールに向かって口を開いた。
「ほ、本当に俺は馬鹿だった。何の為に俺はジュールさんを裏切ってしまったんだ。へ、ヘルツの奴にも会わせる顔がないな」
「弱気な事を言うな。お前には家族が、まだ幼い息子がいるだろ。それに新しく生まれて来る子だって」
「ハァハァハァ――。か、家族にも、申し訳ないと、思っています。で、でも、それでも俺には、譲れないものがあったんだ!」
その時だった。ジュールの胸にガウスの家族への想いが飛び込んで来る。鮮明に映しだされるガウスの記憶。優しい妻に明るい息子。それはとても楽しくて、温かくて、微笑ましい光景だった。でも何故なのだろうか。そこにはそれらと同じくらいの苦しさと痛みが感じられる。
ジュールはそんな気持ちの悪さに吐き気を覚えた。何なんだ、この感覚は。妬み、恨み、憎しみ。それはひどく禍々しくて悪意に満ちている。これもガウスの感情の一部なのだろうか? ただそう思った次の瞬間、ジュールは不思議な人影を感じた。
寂しそうな横顔をする一人の女性。歳は十代後半くらいか。少し前のアメリアの若い頃に似ている気もするが、でも別人だ。切れ長の目が印象的だが、やはり見覚えはない。もちろんガウスの妻とも明らかに異なっている。誰なんだ、この人は。
ただジュールは切ない表情で少し遠くを見つめている女性の姿に惹かれていく。どうして彼女はそんなにも悲しい顔をしているのか。何か辛い出来事でもあったのだろうか。でもなぜだろう。その表情はとても美しくも感じられる。そう、アダムズ中央駅のロータリーにある女神象の様に――。
ジュールは思った。女神ヒュパティアの顔もまた、何かに耐える様な切なくて心苦しい顔をしていたと。だけどなぜかその表情がとても印象深かった。そしてこの女性も。だがそこでジュールの意識は呼び戻される。本当にこれが最後なのだと、ガウスが精一杯の気持ちを打ち明けたのだった。
「ジュ、ジュールさん。ど、どうか……どうか負けないでくれ。あ、あんたは俺と違って、強い人……だから。あ、あんたなら、大丈夫だよ。あんたの未来はきっと、祝福されるはず。だから…………」
「ガウス!」
「よ、よく無茶をする人だったけど、でも……あんたみたいな先輩の背中を追い駆けられて、お、俺はホントに楽しかったよ。あ、ありがとう、ジュールさん。あ、後は、頼みます――」
ガウスの首が項垂れる。真っ白に変わっていく顔色。そこにはもう二度と、あの頼もしかったガウスの意識は戻らない。そう、ガウスは死んだのだ。
「ガウスーッ!」
ジュールが涙を流しながら叫ぶ。共に死線を幾度も潜り抜けた仲間であり、大掛け替えのない友でもあった。そんな大切な存在が死んだ。ジュールの悲しみたるや尋常ではない。だがそんな彼を突如として激痛が襲う。ジュールは右目の奥に猛烈な痛みを感じて表情を歪めた。
「クソっ。痛ぇ」
ジュールは右目を押さえながら蹲る。このまま右目を抉り取ってしまいたい程の痛みだ。それに込み上がって来る気持ち悪さも半端ではない。ジュールは堪らずに身悶えるしかなかった。そしてそんな彼の姿を少し離れた場所から見つめるテスラもまた、茫然としていた。
人見知りであるテスラに友人と呼べる存在は少ない。でもガウスは先輩後輩に関係なく、気さくで人当たりの良い性格をしていたから、テスラにとっても心許せる数少ない隊士仲間だったのだ。だがそんな良く知ったガウスが壮絶な自死を遂げた。
震え出したテスラの体は収まる事を許しはしない。やはり根が優しい彼にとって、目の前で起きた衝撃は凄まじかったのだろう。だがそんな彼の耳に罵声が飛び込んで来る。それは失望感に憤慨したトウェインの暴言だった。
「チッ、使えん奴だ。貴重な設備を無茶苦茶にしておいて、このザマとは呆れて物も言えん。これだから下級隊士はダメなんだ。こんなバカに少しでも期待した自分が恥ずかしいよ。ペッ」
相当にムカついているのだろう。トウェインは死んだガウスを睨み付けながら唾を吐き捨てた。ただ同時に将軍は腰のホルスターから最新式のレーザーガンを引き抜くと、それをジュールに向かって狙い定めた。
「正直なところ、私がお前に直接銃を向けるのは野暮だと思ったんだけどな。でもこうなってしまったなら仕方ない。そこを退けジュール!」
トウェインはそう言うと、少しだけ間を置いてからレーザーガンの引き金を引いた。ジュールに向かい一直線にオレンジ色のレーザー光線が発射される。だがその光線はジュールには当たらなかった。彼は反射的に身を捻り、近くにあった設備の裏側に回り込んだのだ。
ジュールの隊士としての勘が鋭く働いたのだろう。レーザー光線の攻撃を上手く躱す事に成功出来た。だがしかし、彼の右目の激痛は収まっていない。いや、むしろ強まっているくらいだ。
唸りを上げる頭痛に吐き気が止まらない。またそれにも増して耳鳴りまで聞こえて来る。俺の体はどうなってしまったんだ。ジュールは設備に寄りかかりながら頭を抑えた。ただその時、彼は妙な感覚に包まれる。頭の奥に強く波及する耳鳴りが、なぜか【オーケストラの演奏】に聞こえ始めたのだ。
「な、なんだこれは。頭の中に音楽が流れ込んで来る。――いや、違う。逆だ。頭の奥から演奏が鳴り響いているんだ」
ジュールはガクガクと震え出した。頭の中で流れる演奏自体に不快さはない。でも夥しい怖さだけがグングンと高まっていく。気持ち悪くて堪らない。今すぐにでも逃げ出したい。ジュールは得体の知れない脅威に縮こまる様、小さく体を丸めた。ただそんな彼の耳にトウェインの声が微かに聞こえて来る。オーケストラの演奏が邪魔であったが、それでもジュールはトウェインの声に何とか聴き耳を立てようとした。
「もう少しは戦ってくれるかと思ったんだが、簡単に死に過ぎだな。だがそれもある意味好都合か。死んだ直後なら、兵士として十分機能はするはずだしな」
何の話をしているんだ。トウェインの言葉が気になったジュールは、設備の影からそっと顔を覗かせる。するとそんな彼の目に映ったのは、変わった形をした銃を取り出すトウェインの姿だった。
それは銃口のある先端部分が異様に大きく、また銃上部には手の平ほどの面積をした鏡の様なものが飛び出している。銃と呼ぶにはあまりにも不格好な形だ。ただトウェインはその銃をガウスの屍に向けた。一体何をしようとしているんだ。
ジュールは嫌な予感がした。彼はハッと思い出したのだ。もしかしてトウェインはワザとレーザーガンを避け易くしたのではないかと。将軍は引き金を引く寸前に、僅かだが間を開けた。それがなければレーザーガンを避けるなんて無理だったはずなんだ。ならどうして将軍は俺にレーザーガンを避けさせたのか。もしかして、ガウスから俺を遠ざけようとしたのか。
ジュールの全身に鳥肌が立つ。彼の直感が危険シグナルを発したのだ。だがそんな彼の目の前で、トウェインはガウスに向けて銃を発射した。先程とは違い、銃口からは青白い光線が一直線に照射される。そしてその光線は横たわるガウスの首に直撃した。
「ビクンッ!」
ガウスの死体が電撃を受けた様に一瞬動く。しかしそれだけで特段に変化は見られない。だがそこでジュールの怒りが爆発した。大切な友人を死に追い遣ったまでか、その死体までを愚弄するトウェインを彼は許せなかったのだ。
「おい将軍! 貴様だけは許さないぞ。絶対に許さないぞ!」
「おぉ。凄い殺気だな、ジュール。怖くて心臓が止まってしまいそうだよ。やっぱりお前は化け物だな。人である私にはとても手に負えん。だからお前の相手をするのはコイツだよ。絶好の相手だとは思わないか?」
そう言ったトウェインは不敵に微笑む。そして彼は続け様に言った。
「屍骸に対する実験は実証済みだ。その強さは折り紙付き。ヤバ過ぎで中止したほどだからな。だけどお前が悪いんだぞ、ジュール。大人しく私に従っていれば、こんな事にはならなかったのに、月読の胤裔の力を解放して歯向かったんだ。それならこちらにも用意はある」
「な、何をホザいてんだ将軍! その銃でガウスの体に何をしたんだ!」
ジュールはトウェインを睨み付けながら威嚇する。だがそこで状況は最悪の方向に動き出した。なんと死んだはずのガウスが【動き始めた】のだ。
「う、嘘だろ、ガウス。こんなのって……」
ジュールは目を疑う事しか出来ない。なぜなら立ち上がったガウスの体が急激に肥大化していくのである。ただでさえ巨漢だったガウスの体がグングンと大きく膨れ上がっていく。そしてその体は、あっという間に3メートルを超える身長にまで達した。
「こんな事もあろうかと準備しておいて正解だったよ。やはり化け物の相手は化け物に任せるのが自然だからね。どうだ、ジュール。最高に面白い演出だろ!」
トウェインが意気揚々と声を上げる。将軍はこの舞台を心から楽しんでいる様子だ。だがそれとは対象的に、ジュールの心臓は張り裂けそうなほど鼓動を早めていた。
頭痛や吐き気は一向に収まっていない。でもそんなの気にしている暇は無い。だってガウスが、あのガウスが【ヤツ】になってしまったのだから。
それは【腐った獏】の顔をしたヤツだった。だけどこれは何だ。今まで戦ったヤツとは明らかに雰囲気が違う。元の体がガウスだったからそう感じるのか。確かにそれはあるだろう。でも根本的な部分で何かが違う。そう感じたジュールは即座に布都御魂を拾い上げた。
「将軍、あんたって人はクソ以下の外道だな! 人の命を、ガウスの死を愚弄するのもいい加減にしろっ!」
「ハハッ。褒め言葉として受け取っておこう。だがジュールよ、心して聞くが良い。もはやガウスが死んでいるのは分かっているな。そんな屍となったガウスの体が偽りの神の力を持った化け物に変化したんだ。それが何を意味するのか。お前には分かるか?」
「ま、まさか」
「いい顔をしているぞ、ジュール。そうだよ、お前が考えている通りさ。ここに甦ったのは最強の兵士。死を恐れない。いや、もう死ぬ事の無い【ゾンビ兵士】の誕生なんだよ!」
「き、貴様っ!」
「すでにガウスとしての自我は無い。それでも脳ミソに残った微かな記憶は彼を振るい立たせるだろう。大切な家族、友人、その全てを地獄への道ずれにする為にな。そしてその一番最初の標的がお前だ、ジュール。化け物同士、醜く争ってみよ!」
「許さない。あんただけは絶対に許さないぞ、トウェイン!」
「ハハハッ。粋がるのは目の前のヤツを倒してからにするがいい。でもお前にそれが出来るかな? さあやれガウスよ、お前の手で葬るが良い。お前の大切な者を八つ裂きにし、お前と同じ苦しみを味わせ、共に地獄に落ちるのだ!」
「グオォォォ!」
トウェインの激に呼応し、ヤツと化したガウスが咆哮する。その威圧感は凄まじい。放出された殺気だけで体が吹き飛ばされそうになるほどだ。そしてその圧力を正面から受け止めたジュールは奥歯を目一杯噛みしめた。どうしてこんな事になってしまったんだ。極度の悔しさで胸が押し潰されるそうになる。――だがその時、彼の後方から年配のものと思しき声が掛けられた。
「おやおや、随分と取り込み中の様だな。だが実に興味深い。余も混ぜてくれないか」
ジュールはその声にギョッとして振り返る。いや、その存在の登場は、まったくの予想外だったのだろう。その証拠にそれまで余裕を見せていたトウェインですら、顔色を一変させ慄いているのだ。
なぜか身に付けた衣服はボロボロに傷ついていたが、しかしその目の奥から発せられる圧迫感は酷く生々しい。そんなジュール達の前に突然姿を現した一人の存在。それは他でもない、アダムズ王国の最高権力者である【アルベルト国王】だった。