#08 余寒の王国(後)
平行線を辿るトーマス王子とトウェイン将軍の言い争いは一向に収束しそうにない。しかしそんな王族同士の喧嘩を放っておくわけにもいかず、周囲の者達はただ呆れながら二人を見続けていた。
特にトランザムの隊士達にとっては迷惑極まりない事態である。荒くれ者の集団ではあったが、それでも彼らには王国最強の精鋭部隊としての強い誇りと高いプライドがあった。それに何と言ってもトランザムは総司令であるアイザックの直属部隊なのだ。エリート意識を持つなと言う方が、むしろおかしな話であろう。だがしかし、アイザックと親交を密にする王子はそれを良い事に、幾度となくトランザムを私的な事情に使用し、さも自分の私設部隊のごとく隊士達を顎で使っていたのだった。
科学こそ不得手としていたトーマス王子。ただそれとは異なり王子は経済学の分野においては非凡な才能を備えていた。そのため近隣諸国との交易には王子自ら積極的に取り組み、アダムズ王国の発展に大きく貢献している。その働きぶりは誰しもが認めるものであり、そこから生み出される利益もまた、計り知れないものであった。
ただ王子にはそれにも増して目に余る問題点があった。それが何かと問われれば、誰しもが口を揃えてこう答えるであろう。王子ほどの陰険な性格の持ち主はいない――と。
あまりにも頭の切れが良過ぎるのかも知れない。王子は自分以外の全ての人々が愚か者に見えて仕方ないのだ。そしてその言動にはいつも人を見下す所があり、他者を不快な気持ちにさせる事については、まさに天才と言って過言はない。でもそれだけに、残念ながら人望は極めて希薄であった。ただそんな傍若無人たる王子の最大の被害者がトランザムの隊士達なのである。
王子の視点からすれば、特に見た目が武骨なトランザムの隊士達は筋肉バカにしか見えないのであろう。王子は彼らを呼びつけては低能無知を決めつける発言を連呼し、そのくせ無理難題な任務を押し付けては不適な笑みを浮かべていたのだ。王子にとって、それは単純な気晴らし行為なのかも知れない。だがそんな王子の態度に対しトランザムの隊士達の不満は極限にまで沸騰しており『俺達は王子の犬か!』と、彼らは耐え難い屈辱に怒りを露わにしていた。
アイザックやドルトンは、そんな隊士達を不憫に思いながらも必死になだめるだけである。彼らにしてみてもそれは頭の痛い種ではあったが、しかし相手が皇太子である王子である以上、おおやけに反発する事も出来ないのだ。だがそんな王子にも唯一反論できる人物がいる。それが今まさに王子と言い争いを繰り広げているトウェイン将軍なのであった。
「いい加減にして下さいトーマス王子! あなたが何を言おうと、他国の王族を警護するのはコルベットの任務であると法で決まっているのです。これは国王がお決めになった事で、いかに王子が反対されたとしても覆るものではありません!」
トウェイン将軍は王子に向かい声を上げて反発する。するとその発言にコルベットの隊士のみならず、トランザムの隊士までもが頷いていた。それもそうであろう。トランザムにしてみれば余計な仕事を増やされたくなかったし、これ以上王子に振り回されるのは懲り懲りだったのだ。だがそんな事にはお構いもせず、トーマス王子は言った。
「私とリーゼ姫はいずれ夫婦となる身です。未来の夫たる私が、妻となる姫を警護して何の問題がありましょう」
「バカげた事を言う。それは王子が勝手に決めた事。妄想で話しをされては困ると言っているのです。リーゼ姫が誰と結婚するかなど、そんな事は現状何一つ決まっていないのですからね!」
怒りが頂点に達しそうなほどにトウェイン将軍は表情を赤く染め上げている。将軍にしてみれば何も間違っていないのだから、それは当然であろう。だがそれとは逆に、自分勝手な発言を繰り返しているトーマス王子の顔色に変化はまったく表れていない。いや、むしろこのやり取りを楽しんでいるかの様なのだ。その証拠に王子は軽い笑みさえ浮かべている。そんな王子の態度を人集りより見ていたドルトンは、詮方ないとばかりに小さく呟いた。
「ああ言う王子の肝の据わっているところは嫌いじゃないんだが、そろそろ頃合だな」
ドルトンは言い合いを続ける二人の仲裁に足を踏み出そうとする。ただそれと同時に透き通る様な声が聞こえ、彼は足を止めた。
「みな様、どうかなさいましたか?」
ホールに集まる人々はその声にハッとする。そこには紛れもない、話の当事者である【リーゼ姫】の姿があったのだ。
体格は小柄であり、またそれにも増して年齢の割に幼く見える顔立ち。それが姫の外見的な特徴であったが、それでもその容姿はまるで女神の少女時代が甦ったかの様に美しく、慎ましくも艶やかであり、なにより微笑む姫の笑顔は見る者達に何とも言えぬ安らぎを与えるものであった。またパーシヴァル人の特徴であるエメラルドグリーンの瞳が、より一層姫の美しさを魅力的に印象づけていた。
世界的に見てもリーゼ姫の人気は非常に高い。それは美しい外見に誰しもが魅了されている事が最も大きな要因であろう。ただ姫の人を引き付ける魅力は、そんな外見ばかりだけではなかった。
リーゼ姫は王族特有の育ちの良さを感じさせつつも、それでいて傲りが無く、身分に差別なく手を差し伸べることが出来る、真に清らかな性格の持ち主であった。その為性別や年齢、身分に関係なく誰からも好感を持たれていたのだ。なにしろ姫はボーアの反乱で肉親を全て殺され、四年もの間人質として監禁されていたのである。その苦しみは耐え難いものであったはず。にもかかわらず、姫はその悲しみや苦労を一切表に出さなかった。そんな姫の健気な姿が、それを見る人々の胸をキツく締め付け、またその心を優しく引き寄せるのだ。そしてそんな姫に最も魅了されているのがトーマス王子なのである。王子は思いも掛けずに姿を現した姫に向かい、急ぎ駆け寄り膝間づいた。
「リーゼ姫! 侍女も連れずこのような場所へ、どうなさったのですか」
トーマス王子のみならず、一同から注目を浴びた事に戸惑っているのだろうか。リーゼ姫は綺麗に整った顔を少し赤く染めながら気を萎えさせている。それでも姫は皆に迷惑は掛けまいと、この場所に赴いた理由を口にしたのだった。
「も、申し訳ありません。はぐれた愛犬を探していたら私自身も迷子になってしまって……。アダムズ城はとても大きいので、何処をどう探せば良いのか困り果てていました。ただそこで何やら大勢の人の声が聞こえましたので、こちらに参ったのです」
「そうでしたか。ならばその愛犬、私が必ずや探し出し姫のもとにお届いたしましょう。愛犬というほどではありませんが、奇遇な事に私も犬を飼っていますのでね。私の【犬】達はよく鼻が利きますゆえ、直ぐに見つけるはずです」
そう言うなり、トーマスはドルトンに目配せをする。
「やれやれ……」
王子の合図を察したドルトンはため息をつきながら肩を落とす。犬探しなど軍人がする仕事であるはずがない。しかし王子の命令に逆らい、その機嫌を損なえばもっと厄介な事態になるのは確実である。それも姫の前であるなら尚更だ。忸怩たる口惜しさにドルトンの胸の内は重くなる。だが次の瞬間に彼は部下達に対して犬探しの指令を飛ばすのであろう。するとそれに逸早く気づいたトランザムの隊士達は、その場から逃げ去ろうと一斉に身をひるがえした。――がその時、意気揚々とした王子が声を張り上げる。
「そうだ、良いことを思いついたぞ!」
トーマス王子の突然の大きな声に、走り出そうとした隊士達の足は止まる。王子は勘の鋭い人だ。それだけに、逃げ出そうとする隊士達に対して何かしらのペナルティを課そうとしているのかも知れない。きっとトランザムの隊士らはそう考えたのであろう。しかし王子の口から発せられたのは、それとはまったく異なった内容であった。
「リーゼ姫。実は今、私とトウェイン将軍はあなたの警護について話し合っていたのです。しかしなかなか話がまとまらず、どうしたものかと困っていたところなのですよ」
「まぁ。私の為に、そのような事をしていただかなくとも……」
「そうはいきません。あなたは我が王国にとって、とても大切なお方なのです。お守りするのは当然なはずでしょう。ただ、いつまでも話し合いに時間を掛けるのもバカバカしいので、そこをうまく解決する方法として、おもしろいゲームを思いつきました」
「ゲーム?」
首をかしげ、困った表情を浮かべる姫をよそに王子は得意げに言った。
「はい、そのゲームに勝ったほうが姫を警護するのです。いかがですか、将軍?」
「一体どんなゲームなのですか? あまり気が進みませんが、王子と言い争っていても終わりが見えませんので、その内容によってはお引き受けしてもよろしいですが――」
話に折り合いがつかないのは、全て王子のワガママが原因じゃないか。トウェイン将軍は内心でそう叫んだ事だろう。しかし姫の御前でこれ以上王子と揉めるのも得策ではない。そう判断した将軍は、不本意ながらも王子の申し出を聞くことにした。するとそんな下手に出る将軍に気分を良くしたのか、王子は更に声を張って言ったのだった。
「さすがは将軍。やはり軍人のトップたるものそうでなくては。では説明いたしましょう!」
上機嫌なトーマス王子は息を弾ませている。そして王子は皆を引き連れる様に従えながら、ホール中央に展示された鋼鉄製の巨大な球体のオブジェの前に足を運んだ。
まるでビルなどの建造物を解体する時に使用しそうな巨大な鉄の球体がそこにある。黒光りする表面は艶やかであり、無機質ながらもどこか吸い寄せられる様な不思議な印象を与える巨大鉄球。でも王子はここで何をしようというのだろうか。鉄球を囲む様に集まった皆は、まったく想像すら出来ない王子の話しに耳を傾けるしかなかった。
「この鉄の球体。誰が何を目的として造ったのかは知らないが、温もり一つ感じさせない無機質なこの像に、私は昔から嫌悪感を感じて仕方なかった。だからいつの日か、こいつは処分するつもりでいた。だがその前に、私はこの像の良い使い道を思いついたのだよ」
そう告げた王子は鉄球をコンコンと軽く指で弾く。そして周囲の視線を独り占めしていることに酔いしれながら話を続けた。
「聞いた話によると、この鉄球は2トンほどの重量があるものらしい。そこでこの場にいるコルベットの諸君。君達の中でだ、この鉄の塊を得意の剣術で破壊できる者が居たならば、私は黙って姫の護衛役から身を引かせてもらおう」
突拍子の無い王子の提案に、それを聞いていた者達は失笑で呆れ返る。何せ目の前に存在する鉄球は、人の力でどうこう出来る物ではないのだ。皆が呆然とするのは当然であろう。しかしその中で一人、黙って話を聞いていたトウェイン将軍がついに怒りを爆発させる。そして将軍は、まるで皆の胸の内を代弁するかの様に王子に激しく詰め寄った。
「そんなバカな話があるかっ! こんな鉄の塊、大砲でも壊れはしないぞっ! こんな馬鹿げた話はゲームどころか、ただの戯言にしか過ぎん。これ以上はさすがに付き合いきれませんぞっ!」
鬼の形相でトウェイン将軍は吐き捨てる。恐らく相手が王子でなかったならば、将軍は間違いなく相手を殴り倒しているだろう。それほどまでに将軍は頭にきているはずなのだ。そしてそれを間近で聞いていたジュールもまた、不可能極まりない王子の提案したゲームに、度が過ぎると腹立たしさを感じていた。
「いくらなんでもフェアじゃなさ過ぎだろ。冗談にもほどがあるってんだ。なぁテスラ、お前もそう思うだろ」
「……」
ジュールの問い掛けにテスラは無言だった。というより、彼の意識は別のところに向いていた。
「なんて綺麗なんだろう――」
「テスラ、お前なに言ってるんだ?」
「あ、いや、ごめん。リーゼ姫だよ。僕はあんなに美しい人を今まで見たことがないから。まるで女神様のようだね――」
テスラは完全に姫の姿に心を奪われている様子だ。そしてそんな彼に同意しながら、ジュールは姫の体調について胸をなで下ろしていた。
「本当に綺麗な人だな。それに顔色もすっかり良くなって、元気そうでなによりだよ。テスラは姫の奪還戦に参加しなかったから知らないだろうけど、反乱軍が降伏して姫を救出した時、あの方は消衰しきっていたからね。げっそりと痩せていたし、青白い顔をして放心状態だった。マジ見るに堪えない姿で心配したんだよ。でもあんなにも元気になって、ホント良かった。――そう言えば、姫は俺たちと同じ歳らしいぜ」
ジュールは本心よりリーゼ姫の回復を嬉しく思う。そして彼はあまり異性について人前で語らないテスラが、我を忘れて美しい姫を見つめるその姿に微笑ましさを感じたのだった。
姫について話すジュールとテスラをよそに、相も変わらず人集りの中心で王子と将軍の衝突は続く。
「王子、もうそろそろ宜しいですか。あなた様が何と言おうと、姫の警護は我々コルベットが行います。それ以上でも以下でもない。姫の御前でもありますから、もうこの辺で終わりにしましょう」
「いや将軍、私は至ってまじめですよ。アダムズ王国は数々の不可能を可能にしてきた誇り高き国です。その国を守る最高の集団であるあなた達なら、私は決して不可能ではないと思っているだけです」
「無茶苦茶な屁理屈を言わないでもらいたい! どれだけコルベットの隊士達の腕が立とうとも、物理的にその鉄球を破壊するなんて不可能だと言っているんです。それに不可能を可能にしてきたのは科学での話であって、王子のおっしゃるゲームとやらは、それこそ現実を無視したコンピュータの中のゲームと変わらないんですよ! まったく、王子の妄想には付き合い切れんな」
戦場ではどんな苦境に陥っても顔色を変えたことの無い将軍が、烈火の如く真っ赤な顔で言い返す。根っからの現実主義者というわけではないが、それでも将軍は軍人畑を長年にわたり歩んできた男なのだ。冗談としか考えられない王子の申し出に対し、将軍は腹を立てる事以外なにも出来なかった。ただそんな将軍を前に、トーマス王子は少しだけ何か考える素振りを見せる。そして王子はまた何かを思い付いたのか。ポンと手を一度叩いて話しを始めた。
「確かに、この鉄球をただ破壊しろと言うのは少々乱暴でありましたな。では、これならばどうでしょう」
そう告げた王子は、自らの腰にさげていた雅やかな刀を手に取る。そして王子はこう付け加えた。
「この刀はラジアン博士が【神の力】を封じ込めて作ったと言われる十拳封神剣の一つ、名を【蛇之麁正】と言います。この刀は強力な電磁波を発する事が可能らしく、その威力は百の大砲に匹敵するとのこと。だから挑戦者にはこの刀を貸して進ぜよう。いや、鉄球を破壊出来たあかつきには、姫の警護役と共にこの刀も授けよう」
周囲に微かなどよめきが起きる。十拳封神剣は天才科学者であるラジアン博士が、今までの生涯で最も尽力を注ぎ込み研究開発したとされる十本の刀であり、それら全てが国宝級の扱いを受ける銘刀なのだ。刀であるにもかかわらず、それらが秘める威力はまったくの未知数であり、本当に神が封じられているのではと恐れられるほどの力を持つ。それが十拳封神剣なのであり、王子はその刀を差し出すとまで言っているのだった。
コルベットはおろか、トランザムの隊士達までもが目の色を変える。腕に自信のある彼らだからこそ、王子の掲げた伝説とも言えるその刀に目が眩むのだ。だがいくら国宝の刀を差し出すとは言われても、目の前にある巨大な丸い鉄塊を見ると、その現実に気が萎えてしまう。超一流の剣技を有する彼らだとしても、そのスキルは人を切る為に磨かれた技であって、さすがに鉄塊なんて切れるはずがないのだから当然であろう。やはりトウェイン将軍が言う様に、王子の悪ふざけとしか思えない。十拳封神剣という魅力がそこにあるだけに、隊士達は苦虫を噛み潰した様に押し黙るしかなかった。
するとそんな諦めの表情を見せる王国屈指の手練れ達に対し、王子はまたも不敵な笑みを見せる。そして王子は彼らを嘲笑うかの様にして続けたのだった。
「どうした、誰か挑戦する者はいないのか。それでもこの国最高の戦士なのか!」
不愉快なほど傲慢な態度を続ける王子。恐らく今の王子はこれ以上無く気持ちが良いのであろう。ただジュールはそんな王子の振舞いに心底嫌気がさしていた。だから彼は思わずその鬱憤を吐き出してしまったのだろう。ジュールは王子の悪態になどまったく気を留めず、未だ一筋に姫を見つめるテスラに言った。
「なぁテスラ、お前挑戦してみないか。お前の剣さばきと十拳封神剣があれば、もしかしたら出来るんじゃないのかな」
「――え、なに?」
話半分だったテスラが聞き返す。それに対してジュールは含み笑い浮かべながら説明した。
「王子の提案したゲームだよ。王子が持ってるあの国宝の刀で、あのデカい鉄球を破壊するのさ。そうすれば姫の護衛役と国宝の刀が手に入る。どうだお前、やってみないか? それに姫の前で良い所を見せる絶好のチャンスかも知れないぞ」
「姫の護衛役っ! そんな大切な事、なんで黙ってるんだよ」
そう言うなり、テスラは人混みを掻き分けて王子のもとに歩み寄る。
「お、おいテスラ。本気でやるのか――」
ジュールは予想外のテスラの行動に驚き戸惑う。彼は姫に釘付けになるテスラをからかっただけなのだ。自らのモヤモヤした心情を晴らす為だけに。しかし事態はもう巻き戻す事の出来ない展開に成りはじめている。ジュールは進み出したテスラの背中をただ見つめながら、生温い唾を飲み込んでいた。
鉄球の前に進み出たテスラはトーマス王子に改めて確認する。
「王子。その刀でこの鉄球を破壊したら、本当にリーゼ姫の護衛役を任せてくれるのですね」
王子にしても予想外の展開なのかも知れない。その証拠に王子は進み出たテスラの姿に少しだけ驚きを見せる。ただそれも束の間、王子は再び口元を緩めて言った。
「ほう、アイザック総司令のご子息がお出になられるか。ならば当然心配はご無用。この国一番の剣の使い手として名高いそなたが挑戦するのなら、もちろん私も嘘偽りなくそれに応えねばなるまい」
少し下手に言いながらも、王子の不敵な表情は変わらない。ただそれでも王子はルール通り、テスラに蛇之麁正を手渡した。
不遇の再会とでも呼ぶべきか。国王を親に持つトーマス王子と軍の総司令を親に持つテスラは、幼少の頃からの顔見知りなのである。ただこの数年間において、二人はほとんど顔を会わせていなかった。
幼き頃よりトーマス王子は皆を不快にさせる天賦の才を備えていた。その為五つ年下だったテスラはからかう相手として恰好の餌食であり、彼は幾度となく王子から嫌がらせを受けていたのだった。
しかし何故かテスラはそんな王子の態度に何の感情も抱かなかった。この人に関わっても意味が無い。幼ながらにテスラはそう考えていたのかも知れない。そして何をしても反応の無いテスラに対し、いつしか王子のほうも距離を置くようになる。イジメ甲斐が無いだけに、つまらなく感じたのだろう。ただそんな二人が意図せずにしない場所で再会を果たした。それゆえに、王子は少しだけテスラの姿に驚きを感じたのだ。
だがテスラの方はというと、以前と変わらず王子に対して何の感情も抱いていない様子である。たぶん彼の頭の中は美しいリーゼ姫の事でいっぱいであり、ただでさえ興味のない王子の事など、どうでも良かったのだろう。
それでも王子より手渡された蛇之麁正を鞘から引き抜いたテスラは、不思議な感覚を感じ取り身を震わせる。慣れた手つきで軽く素振りをするも、やはり刀より伝わる奇妙な感覚に間違いはない。ただそんな不思議な感覚に支配されていくテスラは、やはり剣士として突出した才能を有するのだろう。彼は蛇之麁正から発せられる目には見えない微小な振動を正確に感じ取りながら、さらにその振動に自分の心を素直に重ねた。
「……」
テスラは黙ったままだ。ただその表情は少しだけ楽しそうでもある。まるで蛇之麁正から浸透してくる振動に心が躍っているかの様に。すると何を思ったのか、テスラは体の向きをすっと変えて歩き出す。そして彼は姫の前でその足を止めた。
「リーゼ姫。ここに居られては少々危険です。あの壁の向こう側まで、お下がり頂けますか」
穏やかに告げたテスラの指示に姫は素直に従う。そして姫が安全な場所に移動したのを確認すると、テスラは改めて鉄球の前に立った。そして彼は中段よりやや下目に抜身の刀を構える。これこそテスラの最も得意とする構えだ。
それまでの騒がしかったホールが嘘の様に静まり返る。いや、テスラが醸し出す異様な圧迫感に気押され、皆はただ息を飲み込む事しか出来ないのだ。あれほど威勢を張っていた王子ですら例外ではない。そしてジュールはその瞬間をじっと待つ。直感として彼は感じているのだ。テスラがこれから放つ一撃が、どれだけ凄まじいかという事を。
蛇之麁正は高周波振動を発し始める。その感覚は周囲の者達にもひしひしと伝わっていく。そしてテスラの集中力が高まるのに比例し、蛇之麁正の高周波はぐんぐん増大した。そしてその振動は、いつしか激しい電磁波を発生させるまでに高まっていた。
「バリバリバリバリッ!」
その刀身は目の眩むほどに光り輝き、凄まじい放電と風圧を発する。周囲の者達は立っているのさえ困難であり、お互いを支え合う様にしながら懸命に踏み止まった。そんな荒れ狂う状況の中でジュールはテスラから目を離さない。鉄球を破壊出来るかどうかは分からないが、想像し得ない一撃が放たれるのは間違いないはず。彼はそう確信しているのだ。するとそんな彼の耳にドルトンの声が聞こえて来る。
「凄いな。まるで目の前に【嵐】が集約し、留まっている様だ」
そう告げた彼の額から一筋の汗が流れ落ちる。恐らくその表情からして、テスラの一撃は英雄と呼ばれるほどの実力者である彼の想像すら、及ばないものなのだろう。
もうすでに周囲に居た者のうち数人は、遠く後方にある壁まで吹き飛ばされている。とても人為的に発生させられた現象などとは信じられない。これが十拳封神剣の秘めた力というものなのか。ジュールは最高科学の結晶とも呼べる国宝の刀の凄まじさ恐怖すら覚える。それでも彼は体勢を極端に低く保ちながら必死に前を向いた。それほどまでに蛇之麁正が生み出す電磁波は強烈なのだ。そして風圧はさらに強まり、窓ガラスのいくつかにひびが入る。――と、次の瞬間、
「くる」
ジュールがそう呟いたと同時に、テスラは蛇之麁正を鉄球めがけて一気に振り抜いた。
「ズガガガーーン!」
目の前に雷が落ちたような凄まじい轟音と衝撃が走る。もう立っている者など誰もいない。粉塵の舞うホールの中はまるで爆撃を受けたかの様な、何もかもが散乱した酷い有様だ。そんな荒れ果てたホールの中で、それでもジュール見逃さなかった。テスラが繰り出した驚異の一撃。その刀が振り抜かれた方向にある壁には、あるはずのない巨大な穴が口を開けていた。
あまりの衝撃に目の前で何が起きたのか、それを瞬時に把握出来た者はいないだろう。それでも時間の経過と共に、ホールにいる者達は理解する。巨大な鉄球が粉々に破壊されたのだという事を。
バラバラになった鉄球の残骸が、足の踏み場も無いほどホール中に散らばっている。それでも幸運な事に、けが人は一人もいない様子だ。ただホールに居る者達はそれぞれに顔を見合わせながら驚きを露わにしている。それもそのはず。あの鉄球が破壊されるなんて、誰も予想し得ない事だったのだから。そしてそんなざわめく者達にまざり、発起人である王子は呆然と立ち尽くしていた。目の前で起きた現実が受け入れられない。王子の心境は愕然としたものになっているのだろう。
まさに神の発した渾身の一撃。そう表現するに相応しい破壊力がそこにあった。しかし如何に凄まじい能力を秘めたものとはいえ、たかが一本の刀にこれほどの威力があるなど誰に想像出来たであろうか。いや、誰一人想像出来なかったからこそ、その驚異的な一撃に皆は肝を潰して驚いたのだ。そしてそれはジュールにしても同じであり、また彼は初めて手にした刀の能力を、ここまで引き出したテスラの剣士としての腕前に舌を巻く思いだった。するとそんなジュールの耳に、心が抜け落ちたかの様な小さな囁きが聞こえて来る。
「ま、まさかあの鉄球を……本当に、破壊するとは…………」
青ざめた表情で王子が力なくそう呟く。俄かに信じられない現状に、王子の心は鉄球同様に砕かれてしまったのだろう。ただそんな放心状態の王子に向かい、テスラは自らが実践した方法を淡々と説明したのだった。
「刀を鉄球に叩きつける瞬間に、電磁波で空気中の水分を加熱し、瞬間的に大気を熱膨張させて鉄球に高負荷をかける。そこに高周波振動を叩き込めば、あとは勝手に鉄球が粉々になるだけです。原理さえ理解できていればそれほど難しい事ではなく、仮に届くのであれば、夜空の星でもこの鉄球の様に粉々に出来るでしょう」
テスラは平素にそう語る。その表情から察するに、彼にしてみれば本当に難しい事ではないのかも知れない。ただここにいる最高最強と呼ばれる隊士らは口を噤むしかなかった。彼らはその剣技がどれだけ高度なスキルであるかを感じ取っていたのだ。現実に放ったテスラの一撃に脱帽するしかない。決して己では真似できない、神の領域と言ってもいい技術を見せつけられた。腕が立つ彼らだからこそ、それを認めざるを得なかったのだ。
「トーマス王子、約束通り鉄球を破壊しました。これで姫の護衛役は我々コルベットにお任せ下さいますね」
テスラはそう王子に告げる。そして彼は少し離れた壁に半身を隠しながら、恐る恐る様子を伺うリーゼ姫に目を向けた。もちろん姫は安全な場所に隠れていたため無事である。それでもテスラは口元を抑えながら驚きを隠せないでいるリーゼ姫の姿にホッと胸を撫で下ろした。ただその時だ。それまで呆然としていた王子が息を吹き返したかの様に笑いながら話し始めた。
「ハハハハッ。真に素晴らしい見事な剣技であったぞ、テスラ。さすがはこの国一番の剣士だけはある。いや、世界一と呼ぶべきか。だが最初に言ったように、これはゲームだ。所詮はただの余興であって、こんな事で本当に姫の警護をお前達コルベットに譲るわけなかろう」
「何ですと!」
この期に及び、王子は言い訳がましく戯言を吐き出す。どこまでも往生際が悪いのか。それともショックがあまりにも大きかった為に、開き直ってしまったのか。ただそんな王子をテスラは鋭く睨み付ける。それもその目には明らかに殺気が込められているのだ。周囲は一瞬で凍り付くほどの身の引き締まる緊張感に覆われる。そしてその緊迫した状況に連動する様、蛇之麁正は高周波を発した。
「やめろテスラ!」
テスラの発する殺気を只事でないと感じたジュールは強く叫ぶ。そして彼は咄嗟に自分の持つ刀に手を掛け、殺気に怯む王子の盾となる様に立ちはだかった。
「何を考えてんだテスラ、冷静になるんだ!」
「僕は冷静だよ。君こそ何を言ってるんだジュール」
「バカ言うな。今のお前は冷静なんかじゃない」
そう言葉を交わしながら対峙する二人。ただそれ以降は黙って視線を交わすのみである。しかしテスラの目はジュールのそれとは異なり、明らかに殺意が満ち溢れている。それもその殺気は王子のみならず、なぜかジュールにさえも向けられているのだ。
その殺気にはどんな意味が込められているというのか。だがジュールにそれが分かるはずもない。それでも彼は身の竦むほどの殺気を真正面から受け止め、テスラが思い留まるよう必死に願い信じた。――がその時、ドルトンが威圧感のある低い声で睨み合う二人に制止を促がした。
「そこまでだ二人とも。これ以上は許さんぞ」
まるでここが戦場であるかの様な、そんな只ならぬ気迫でドルトンは二人の間にその身を置いた。本当にこの人は英雄なのだろうか。むしろ鬼と呼ぶべきなんじゃないのか。ジュールはドルトンから伝わる凄まじい圧力に気持ちを萎えさせ一歩後退する。そして彼同様にドルトンの圧力に屈したテスラもまた、怯むように一歩後退した。彼ほどの剣の天才であろうとも、やはり王国の英雄たるドルトンには敵わないと悟ったのだろう。
テスラが放った冷徹な殺気はもう完全に消え失せている。そしてそれを肌で感じ取ったドルトンは少しだけ笑みを漏らした。こんな所で才能ある若い二人を衝突させても何の意味もないのだ。それだけに、事なきを得たとドルトンも安心したのだろう。それでも彼は直ぐに表情を引き締め直す。そしてドルトンは別人の様に縮み上がっている王子のもとに歩み寄り、赤子を諭すように言った。
「見苦しいですぞ、王子。約束通り、ここは姫の警護を彼らに任せるのです。そしてあの刀もテスラに渡しなさい。彼は王子の方から持ちかけた【ゲーム】に正々堂々と臨み、見事それを成し遂げたのです。ここはご自分の言った事に責任を持ちましょう」
「……」
「信じられない気持ちは分かりますし、悔しいのも分かります。私ですら、あの鉄球が破壊されるなんて思ってもみませんでしたからね。王子ならば尚更でしょう。しかし王子。事実としてテスラはやってのけた。これは覆し様の無い現実であって、それはあなたの負けを意味するのです。そしてあなた自身も心の中では負けを理解しているはず。ならば負けを素直に認め、その相手を心から称賛しましょう。悔しいかも知れませんが、でもそれは決して恥じる事ではないのです。大切なのは目を逸らさずに現実を受け入れる事。大丈夫、あなたにはきっと出来るはず。だから王子、ここはあなたが折れて下さい。自分の負けを受け入れて、相手の勝利を讃えて下さい。それにこれはあなたの為でもあるのですよ。なぜなら今回の経験は、今後国を背負う立場のあなたにとって、とても大きな財産となるはずですからね。それにあなたの器の寛大さを、壁の陰から見守る姫に見知らせることにも繋がるのですから」
ドルトンはそう告げると柔和に微笑んだ。そして彼は王子の目を見つめながらその回答を待っている。厳しい言葉だったのかも知れない。それでもドルトンは王子の成長を心から願っているからこそ、今回は強く意見したのだ。するとそんなドルトンの激が王子の心に届いたのであろうか。しばし神妙な面持ちで考えていた王子であったが、その後一度だけ大きく息を吐き捨てると、潔く諦めの言葉を発したのだった。
「――最高の科学と最高の剣術の成せる技か。それなら仕方あるまい、今回は完全に私の負けだ。姫の警護役からは身を引き、その刀もテスラ、約束通りお前に譲ろう。所詮私がその様な刀をぶら下げていても、無用の長物だしな」
意外なほどさっぱりとした口調で王子は告げる。その様子からして、王子の胸の中で自分なりに納得のいく折り合いがついたのであろう。いや、その切り替えの早さこそが、王子の最も誇るべき才能なのかも知れない。そしてその言葉を聞いたドルトンはテスラに向かい頷いて見せる。するとテスラは了承の合図として頷き返し、静かに刀を鞘に納めた。
その一連のやり取りにジュールはホッと胸を撫で下ろす。しかしそれでも彼の内心は困惑した気持ちで湿っていた。どうしてテスラは王子のみならず、自分にまで本物の殺気を向けたのか。意味不明な度惑いと焦りが彼の心を支配していく。ただその時、血相を変えた一人の隊士が息を荒げてホールに駆け込んで来たのだった。
「も、申し上げます!」
肩を大きく上下に揺らしながらも、馳せ参じた一般隊士は皆に向け大きく叫ぶよう報告する。
「ヤツです、ヤツが現れました! それも二体同時です! 二体のヤツは王立協会本部の【エクレイデス研究所】を強襲し、【何か】を強奪した模様。その後二手に分かれ、一体はルーゼニア教総本山【金鳳花五重塔】に、もう一体はルヴェリエ中央大路の【羅城門】に立て籠もっている様子。また未確認情報ですが、現在も王立協会本部のエクレイデス研究所において、銀色の体をした巨大な翼を持つ【化け物】がいるとの報告も受けています。コルベット並びにトランザムの両部隊におきましては、大至急出動お願いします」
火急の通達に緊張が走る。そして急転する事態に隊士達の顔つきは一瞬にして戦場のそれに変わった。ただその中で、ドルトンが率直に思い浮かんだ疑問を口にする。
「まさか二体のヤツは何らかの目的を持ち、共同で行動をしているというのか?」
今までにない状況に、ドルトンは直感として得体の知れない不安を覚えたのだろう。だがそんな彼に対してトウェイン将軍が強い口調で指示を飛ばす。
「その様な詮索は後にしろドルトン。急ぎスクランブルだ。我々はエクレイデス研究所に向かう。お前達トランザムは二手に別れ、それぞれのヤツのもとに向かい対処にあたれ!」
トウェイン将軍は有無を言わさぬ勢いでドルトンに命令する。また自らが指揮するコルベットに対しても、急ぎ戦闘準備を整え現場に向かうよう指示を飛ばした。
隊士達は慌ただしく準備に向かい動き出す。ただその渦中でジュールは銀色の化け物について考えていた。もしかしてその化け物は、ヘルツが話した【ラヴォアジエ】と呼ばれるヤツの事ではないのかと。なにせ不測の事態においては誰よりも慎重を期すはずのトウェイン将軍が、不確定な情報であるにも関わらず、コルベットをエクレイデス研究所に向かわせようとしているのだ。その行為がジュールの考えをさらに確信めいたものに近づけていく。――がその時、真剣な表情のリーゼ姫が報告に来た隊士に詰め寄ったのだった。
「もしかして、その銀色の体をした巨大な翼をもつものとは【大きな鷲】の姿をなさっていませんでしたか?」
突然の姫からの質問に隊士は動揺する。それほどまでに姫からは並々ならぬ必死さが伝わって来るのだ。一般の隊士が驚くのは無理もないだろう。それでもその隊士は姫に対し、失礼が無いよう丁寧に答えたのだった。
「申し訳ありませんが、私が聞き及んでいる情報では化け物の姿までは伝えられておりません。何しろ研究所は現在その一部が激しく炎上しているらしく、事態が把握しきれない状況なのです。何処からなぜ炎が発生したのかも分かっていないようですし」
「そうでございますか……」
隊士の言葉に何故かリーゼ姫は落胆の色を見せる。姫は一体何を気にしているのだろうか。ただそんな姫に向かい隊士は続ける。彼にしてみれば姫を安心させたかったのだろう。
「現在もエクレイデス研究所には正体不明の化け物が留まり、何かしらの悪事を働いているのでしょう。それは大変危険な状況と言えます。けれどエクレイデス研究所には何重もの自己防衛機能が備わっておりますし、それらの兵器の威力は絶大です。なので逃走した二体のヤツは、それらの強力な防衛機能による攻撃を受けて無事でいるはずはありません。また未確認の化け物にしても未だ研究所に留まっているというのであれば、それ相応の攻撃を受けているはずでありますし、逆に深手を負ってその場から離れられないとも考えられます。いや、場合によればすでに死亡しているかも知れません」
「死っ! そ、そんな……」
一般隊士は気を利かせたつもりなのだろうが、その報告に青冷めた姫は力なく崩れ落ちる。するとそれに気づいたテスラは素早く姫の脇に回り込み、倒れ込む寸前のその細い体を抱き抱えた。温かく柔らかい姫の感触がテスラの腕に伝わる。その感触に彼の心は大きく震えたが、それでも彼は騒ぎを聞きつけ駆け付けて来た数名の侍女達に、姫の体を丁寧に預けた。
「何をしてるんだテスラ、お前も早く皆と共にエクレイデス研究所に向かえ! 私もすぐに行く」
棒立ちのテスラに向かい怒鳴るトウェイン将軍の声が響く。ただそんな激しい将軍の指示が耳に入りながらも、テスラは少しの間だけ名残り惜しそうに姫を見つめていた。細くて小さな姫の体を抱きしめた感触が、テスラにはこの世のものとは思えぬほど心地良く感じられていたのだった。
「全員急ぎS級戦闘配備だ! 目標は逃走した二体のヤツ!」
ドルトンはトランザムに対し指令を下す。
「【リュザック】。お前はトランザムの指揮をとり、南方の羅城門に向かえ。俺はジュールと二人で東方の金鳳花五重塔に向かう」
「面倒だけどやるしかないがか。けんど隊長、戦力のバランスが釣り合ってないけどいいんですかい?」
ドルトンの指示に対しリュザックは尋ねる。外見より判断すれば、リュザックはその酒好きの性格より頼り甲斐のあるエリート隊士には到底見えない。だがその実力は最強部隊であるトランザムにおいてドルトンに次ぐ者であり、状況判断能力に長けた強者であるのは確かだった。ただそんな彼の問い掛けに対し、ドルトンは明確な行動理由を告げ答える。
「五重塔の方が距離がある上に、この時間だと向かう道が込み合っているはずだ。だから少数で行動したほうが機動性が良い。現場に着いたらジュールをサポート役にして、俺がヤツを叩く。それが作戦だが、何か不満があるか」
「いやいや、何もありませんで。了解しやした」
準備を整え終えた隊士達は軍の特殊車両に乗り込み、目的地に向け次々に出発する。まだ夕刻であったが、弱い雨の降る生憎の空模様のため、すでに辺りは真っ暗だ。その状況の中で、ジュールはドルトンと共にそれぞれが軍のバイクに跨り、雨の中を五重塔めがけてアクセルを開けた。もちろん彼の体にはヘルムホルツより渡された最新のスーツと各装備が施された状態だ。戦闘準備は完璧に整っているとみて間違いないだろう。
ドルトンの予想通り五重塔に通ずる道はかなり渋滞している。それでも二人の操るバイクは、その僅かな隙間を全速力で駆け抜けた。
ルーゼニア教の総本山である金鳳花五重塔に着くと、すでに一般の二小隊が到着しているのが分かった。だがそれらの隊士達は五重塔に入り込むヤツとの戦闘により複数の負傷者を出している。それにまだ無事でいる隊士らも、一般市民の護衛と非難補助で手一杯な状況だ。
それでも五重塔にいた多くの市民の非難はひとまず無事に完了したらしい。それを物語る様に、五重塔にはまったく人影が見えなかった。そして薄暗い雨の中、ジュールは目前にそびえ立つ五重塔を見上げた。
ルーゼニア教の総本山として、いつもはその信者で賑わっているはずのこの場所は、今は不気味に静まり返り、ただ雨の打ち付ける音だけが聞こえている。そんな寒心に堪えない状況の中で何故かジュールは思う。これから始まろうとしている戦いが、自分の運命に大きく係っているんじゃないのかと。そしてそれはどう足掻いても逃れることのできない過酷な宿命であり、踏み出せばもう後戻り出来ないものなんじゃないのかと、彼は感じていたのだ。
言葉で表す事の出来ない不安に駆られ、ジュールの足はその一歩を踏み出すことに躊躇する。だがその時、一般隊士より一通りの現状報告を受けたドルトンが彼の背中を強く叩いた。
「覚悟はできたか、ジュール!」
ドルトンは気骨のある精悍な面持ちでそう告げる。さすがは歴戦の勇者だ。戦場を前に臆するところが全く感じられない。ジュールは長刀を背負うそんな英雄の背中に頼もしさを感じる。そしてその刀が間違いなく十拳封神剣の一つであることを確信した彼はグッと拳を握りしめた。すると背中から伝わって来たドルトンの力強さが、躊躇するその一歩を踏み出すのに十分なほどの勇気を彼に取り戻させる。
「行くぞ!」
頼り甲斐のあるドルトンの号令に従い、ジュールはヤツの立て籠もる金鳳花五重塔に突入した。