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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
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#88 龍天に昇る位相の扉(七)

 あれほど可憐で愛らしかったソーニャが死んだ。それも無残に首を切断されて。

 きっと彼女なら輝かしい未来を掴めたはずだろう。ううん、その為に彼女は全力で努力して生きていたはずなのだ。しかし無念にも彼女の未来はそうならなかった。何の罪も無いはずなのに――。

 こんな残酷な死が許されるのだろうか。怪物として死ぬしかない運命なんてあっていいのだろうか。いいや、そんなの決して許されるはずがない。絶対にあってはならない事だ。

 ソーニャ以外にも数多くのアスリートが同じように犠牲になっているのだろう。裏組織の意味不明な実験台にされて。そして今、彼女がその後を追った。

 報われない人生の最後にソーニャは何を思ったのか。それは誰にも分からない。こんな酷い目に遭わせたアカデメイアを呪ったのかもしれないし、もっと生きたかったと悔やんだのかも知れない。普通であれば、そんな無念や後悔を強く思い浮かべるものだろう。でもなぜだろうか。彼女の死顔は、どこか安らぎに満ちているかの様に見えた。

 辛い生き地獄から解放されたのにホッとしたのか。それとも死をもってして、ヤツという怪物から人に戻れた事に安堵したのか。ううん。もしかしたら、もうこれ以上誰にも迷惑を掛けずに済む。ソーニャはそんな安心感を覚え死んだのかも知れない。ただ確実に言えるのは、そこに怒りや憎しみは感じられないという事だった。

 そんなソーニャの死顔(しにがお)をアニェージやマイヤーは不思議な気持ちで見続ける。するとそんな彼女達の背後より、足を引きずらせたラウラが歩み寄って来た。

「お、お前……」

 アニェージはラウラの姿を見て声を漏らす。しかしそれだけだった。ラウラのあまりにも酷く傷つき、また気落ちした姿に彼女達は掛ける言葉を見つけられなかったのだ。

 左腕を根本から失ったラウラ。これでもう、彼女には両腕が存在しない。また右の目も潰れ、体全体も見るに堪えないほどボロボロに損傷している。至近距離で超音波振動を受けた影響だろう。それでもラウラは歩みを進めた。立ち上がるどころか、息をするだけでも辛いはずなのに、彼女は構わず足を前に進めたのだ。

 恐らくラウラにはもう、はっきりとした意識はないだろう。でも彼女には行かなければならない場所があり、そこを目指して彼女は懸命に足を引きずった。そしてアニェージ達の前をゆっくりと通り過ぎたラウラはその場所に辿り着く。そう、それはソーニャの首が転がる場所だった。


 ラウラはソーニャの首の前に(ひざ)を着く。それは体中から力が抜け落ちたかの様にも見える。自分の手で大好きだったソーニャを殺すしかなかった。絶対に守るんだと決意していた掛け替えのない存在を、自ら手に掛けてしまった。彼女はそんな途方もない絶望に打ちひしがれてしまったのだ。でもなぜなのだろうか。そこに悲しさは感じられない。

 不思議な感覚にアニェージ達は戸惑いを見せる。もしかしてラウラはまだ、ソーニャの死を受け入れられていないのではないか。いや、あまりにもショックが大き過ぎて、感情が無くなってしまったのではないのか。アニェージやマイヤーはそう思った。しかしラウラの目を見た時、そうではないと彼女達は察した。

 ソーニャを見つめるラウラの眼差し。それはとても優しいものだった。とても柔和で温かいものに感じられた。だってその眼差しには深い愛情が満たされていたから。

 でもどうしてラウラは意に反して殺さなければならなかったソーニャを見て、優しく微笑んだのだろうか。納得なんて出来るはずないし、何よりこんな結末を望んでいたはずもない。それなのにラウラは微笑を絶やさないでいる。

 まだ腕が一本でも残っていたなら、彼女は優しくソーニャの首を抱きしめたであろう。そんな親愛に満ちた慈しみがひしひしと伝わって来る。そしてラウラはソーニャを見つめながら、こう小さく(つぶや)いたのだった。

「ホントにバカだね、あなたは。最後に謝るなんて、本当にバカだよ。だって謝らなくちゃいけないのは私の方じゃない。それなのにあなたって人は、最後まで私を心配してさ。こんなんじゃ、救い様がないじゃない…………。でもね、やっぱり私はあなたと出会えて良かった。こんなになった今だからこそ、心からそう思える。本当にありがとう、ソーニャ」

 そう告げたラウラは更に優しい表情を浮かべる。しかしそれが最後の力だったのか、彼女はゆっくりと前のめりに倒れてしまった。

 まるでソーニャの首に寄り添うかの様に倒れたラウラ。ただ彼女は残された右目でソーニャの顔を見つめると、満面の笑みを受かべたのだった。

「私も一緒に行くから待ってて、ソーニャ。一人ぼっちになんかさせないよ――」

 それがラウラの最後の言葉だった。


「こんな事が、こんな事が許されてたまるかっ!」

 アニェージが堪らずに大声で叫ぶ。彼女は二人の死を前にして怒りを吐き出さずにはいられなかった。しかしその怒りを叩きつけるべき相手は飛び去ってしまった。

 すでにラウラの体は元の人の体に戻っている。頑丈そうな体つきは、まさにレスリングのトップ選手のそれだ。でもその表情は、彼女自身が告げたよりも遥かに女性的に見えた。最後にソーニャに向けた優しさが、ラウラの表情をこれ以上ないほどに柔らかくしたのかも知れない。そしてそんな彼女達の表情を見てアニェージは改めて憎しみを増大させた。

「ブッ潰してやる。アカデメイアの奴ら、私の手で全員ぶっ殺してやる!」

 かつて彼女自身もアスリートだっただけに、余計にラウラとソーニャの死が痛切に感じられたのだろう。辛いトレーニングに耐えて来たのは栄光を掴むため。応援してくれる家族や友人達のため。何より自分自身を高め、満たすために頑張っていたのだ。それなのに奴らはアスリートを怪物を生み出すだけの道具として扱った。許せるはずがない。

 アニェージの心が怒りの炎を燃え上がらせる。ふざけやがって。一人だって生かしておくものか。特に豹顔のヤツ。あいつだけは絶対に息の根を止めてやる。

 アニェージは怒りで顔を真っ赤に染め上げていた。するとそんな彼女の怒った表情を見たエイダが尻込みをする。あまりにも感情を激高させたアニェージが放つ(おぞ)ましい殺気に、彼女は(ひる)んでしまったのだ。ただ次の瞬間、アニェージが頭を抱えて不調を露わにした。

「どうしたんですアニェージさん。大丈夫ですか?」

 マイヤーが素早くアニェージの体を支える。しかしかなり頭痛が酷いのか、アニェージは苦しそうに表情を歪めながら悶えていた。

 突然どうしたって言うのか。いや、そういえば観測室でも体調が悪そうだった。マイヤーは変調を来したアニェージを見ながら思う。

 観測室でアニェージが何者かと争ったのは事実だ。もしかしたらその時に何かダメージを受けたのではないか。心配になったマイヤーはアニェージにそれを聞こうとする。だがその時、上空より喧々たるエンジン音が鳴り響いて来た。

「バババババ」

 上空から突風が吹き降りて来る。目を開けていられないほどの強い風だ。マイヤーはアニェージの体をしっかりと掴まえ、吹き飛ばされない様に支える。そしてエイダもサポートに回った。

 また敵が現れたのか。なら今度は私が相手になってやる。エイダはアニェージの背中を支えながらもマシンガンを強く握った。彼女もラウラとソーニャに理不尽な死を遂げさせた秘密結社の奴らが許せなかったのだ。短い時間だったけどグリーヴスに滞在していた間、エイダとティニは親切にソーニャの面倒をみていた。そこで彼女達が気持ちを通わせたのは疑い様がない。その証拠にエイダとティニはソーニャの事を妹の様に感じていたのだ。そんな親愛なる存在が痛ましい死を遂げた。アニェージの怒りに怯みはしたものの、彼女とて同じように怒りを感じている。そしてエイダは覚悟を決めて身構えたのだ。

 だがしかし、そんな彼女の視界に映ったのは敵ではなかった。騒然としたエンジン音が急速に唸りを潜めていく。またそれに同調するよう突風も治まっていった。もう普通に立っていられる状態だ。

 大型のヘリコプターがすぐ目の前に着陸している。でもこのヘリには見覚えがあるぞ。エイダやマイヤーがそう思った時、ヘリのコックピットから男性が顔をのぞかせた。

「みんな無事か。遅くなってすまないね。このタイプの軍用ヘリは初めてだったんで、動かすのに時間が掛かっちゃったよ」

 そう言いながらヘリから顔を出したのはブロイだった。そして彼は急ぎアニェージ達に駆け寄る。ブロイは変調を来しているアニェージに気付いたのだ。

 彼はヘリの調査を進める傍ら、ゴーグルの通信機能でアニェージ達の窮地を察知していた。しかし戦闘行為は彼の専門ではない。でもだからと言って、仲間の窮地を放っておけもしない。そこで彼は考えた。このヘリで援護出来ないものかと。

 ブロイが調査していたヘリは、アダムズ軍が最近採用した最新式の軍用ヘリである。当然ながら強力な武器も換装済みだ。それに燃料もまだそれなりに残っている。これなら自分も皆の役に立てるのではないか。

 しかし最新式のヘリはブロイをもってしても、簡単には動かせなかった。いや、常人からすれば十分過ぎるほど早く動かせたわけだが、それでも戦闘には間に合わなかった。ブロイは苦痛で表情を歪めるアニェージの姿を見て歯痒く思う。シュレーディンガーの下で付き合いが長いだけに、酷く心配になったのだろう。

「随分と無茶したなアニェージ。顔色悪過ぎるぞ」

「へっ。あんたに心配されるなんて、私も焼きが回ったかな。でも大丈夫。何でもないさ」

「強がるなよ。って言っても君の事だ。休みはしないんだろうね。だから正直に言っておくよ。実はさっき、ヘリに意味深な通信が入ったんだ。トーマス王子に関係がある知らせがね」

「ト、トーマス王子がどうしたんだ、うっ」

 身を乗り出したアニェージが強く頭を抑える。それでも彼女はブロイを強く見つめながら返答をまった。

「まったく、君の強情さにはいつも呆れさせられるよ。でもまぁ、ゆっくりしてられないのも事実だからね。話しは思ったよりも複雑みたいだから、よく聞いてくれよ」

 ブロイはそう言ってアニェージの目を見つめ返す。するとその視線に彼女は力強く頷いて見せた。

 まったく、えらい所に来てしまったモンだ。ブロイはラウラとソーニャの亡骸(なきがら)を横目にしながらそう思う。それでもブロイは彼なりに覚悟を決めたのだろう。すでにルヴェリエ上空では隼顔のヤツと交戦しているし、獣神同士の戦いにも巻き込まれている。いや、シュレーディンガーの命令でアニェージと共に、論文探しを始めた時点で足を突っ込んでしまったのだ。だったらもう、腹を決めるしかない。

 ブロイは一度だけ深く息を吐き出す。そして表情を引き締めた彼は、ヘリで入手した通信の内容を皆に伝え出した。


 ヘリに備えられた専用の受信機に送られてきた情報は2つ。まず1つ目は、トーマス王子を無事にルヴェリエ北方の【廃工場跡地】に運び終えたという情報。そして2つ目は、リーゼ姫の乗った車が何者かにジャックされ、同じ【廃工場跡地】に向かったらしいという情報であり、いずれの情報もアカデメイアが発信したもので間違いなかった。

 やはりトーマス王子はこのヘリに乗せられていたのか。アニェージやマイヤーは改めて事実を認識する。そして1つ目の情報より、トーマス王子がこの天体観測所から移動してから、まだそれほど時間が経っていないのを知った。

 獣神同士の戦いの影響で首都はかなり混乱しているが、それでもここから廃工場跡地までは車で30分は掛からないだろう。と言う事は、自分達が観測所に到着する直前にここを出発したという事なのか。

 アニェージ達は忸怩たる思いに苦々しさを覚える。もう少し早くここに来ていれば、王子を取り返せたかも知れないと感じたのだ。しかし不思議なのは2つ目の情報である。パーシヴァルの王族であるリーゼ姫が何者かに拉致され、それが同じ廃工場跡地に向かったというのだ。

 どういう事なんだ。何者かに拉致されたという時点で、それがアカデメイアの関知しない別の存在を意味する事になる。でもそれが王子を運び込んだのと同じ場所に向かったというのだ。まったく意味が分からない。

 だがそんな思い悩むアニェージ達に、ティニの肩を借りたヘルムホルツが歩み寄る。そして彼は飛び去ったヤツが残した言葉を告げた。

「少し離れてて聞き取り辛かったけど、確か隼顔のヤツは【工場】に行くとか言ってなかったか? 組織の新しい指令だとか言ってさ。だとしたらその工場っていうのも、同じ廃工場跡地になるんじゃないのか。いや、他には考えられないよ」

 ヘルムホルツの言う通りだ。アニェージは思う。確かに隼顔のヤツは工場に行くと言っていた。そして憎い豹顔のヤツを連れ飛び去ったのだ。トーマス王子にリーゼ姫、そしてヤツ。そんな重要人物が一堂に集められた廃工場跡地。そこが怪しくない訳がない。

 アニェージは自力でしっかり立ち上がると、マイヤーとエイダにもう大丈夫だと告げる。そして彼女はそこに居る全員に向かい、自分の考えを伝えたのだった。

「みんな異常な事態の連続で体力的に厳しいのは承知している。でもリュザックの行方が分からない今、私はその廃工場跡地に行くしかないと思う。トーマス王子の救出もまた、私達の仕事だからね。それに私の勘だけど、ジュールも必ずそこに向かってると思うんだ。だからみんな、もう少し辛抱してくれないか!」

 アニェージは自分自身にも言い聞かせるよう激を飛ばす。恐らくこの中で最も身体的に辛い状態なのは彼女のはずだ。それでも彼女はあえて、最も危険な場所に行こうと決意したのだ。ただアニェージはヘルムホルツだけに向かい、別の指示を出したのだった。

「ヘルムホルツ、悪いがお前はここに残ってくれ。リュザックが戻ってくるかも知れないからね。その時に誰もいなかったら、それはそれで問題だろ」

「あ、いや、それはそうだけどさ。でもどう考えても廃工場跡地はヤバい所だぜ。頭数は多い方がいいんじゃないのか?」

「それはそうだけど、お前は足をケガしてるだろ。満足に動けない奴を危険だと分かってる場所に連れて行けやしないよ」

「で、でも」

「お前の気持ちは分かってる。だけど誰かがリュザックを待たなきゃならないのも外せない仕事なんだ。だから頼むよヘルムホルツ。ここは引き受けてくれないか」

 アニェージの言葉にヘルムホルツは口をきつく結ぶ。彼女の指示は確かに正しい判断だ。でも仲間達が戦場に向かうと言うのに、自分だけが残らなければいけないなんて、さすがの彼も受け入れ難かったのだろう。ただそんな思い悩むヘルムホルツの肩にマイヤーがそっと手を添える。そして彼は軽く微笑みながら(うなず)いて見せた。

 ヘルムホルツの肩から強張った力がスッと抜ける。どうやら彼は幼馴染であるマイヤーの頼もしい笑みを見て、自分自身の気持ちに無理やり折り合いをつけたのだろう。今の自分で出来る仕事を精一杯やるだけだと。

「分かったよ。リュザックさんを待つ仕事は任せてくれ。でもマイヤー。お前達も無茶はするなよ。ヤバくなったら逃げて良いんだからな」

「あぁ、分かったよヘルムホルツ。でもそれを言うならお前も無理するなよ。もしリュザックさんが新しい論文を持って来ても、早まった行動はするんじゃないぞ」

 マイヤーとヘルムホルツは力強く握手を交わした。共にスラムで成長し、叩き上げられた者同士だからこそ、二人には分かり合えるものがあるのだろう。それにどんな窮地だとしても、自分達なら生き残れる。ジュールに影響されたのか、そんな根拠の無い自信が二人の気持ちを強くさせていた。ただマイヤーはそこでヘルムホルツに肩を貸すティニに向き直る。そして彼は少し強い口調で言ったのだった。


「ティニ。君もヘルムホルツと一緒にここに残ってくれ。ここから先は俺ですら経験した事がない戦場になるはず。これは隊長命令だ。従ってくれ」

 マイヤーは危機感を強めてティニに指示する。冗談抜きで、ここから先は命懸けなんだと彼は考えたのだ。だがそんなマイヤーにティニは返す言葉で反発した。

「嫌です。あたしも隊長達と一緒に行きます!」

「ダメだ。同行を許すわけにはいかない。ヤツを前にして尻込みしている隊士を連れて行けば、それは仲間全体を危険に晒す事に繋がり兼ねないんだ。きつい言い方に聞こえるかも知れないけど、実際君は豹顔のヤツに臆し怯んだ。そんな隊士を連れては行けないよ」

「お願いします隊長。今度はしくじりません。だからどうか許して下さい!」

 ティニは懸命に食い下がる。失態を犯したのは事実だけど、でも置いて行かれる方が彼女にしてみれば耐えられないのだ。しかしマイヤーはそんなティニに向かい、優しく告げたのだった。

「いいかいティニ。俺は君を責めているわけじゃない。今度の敵はヤツなんだ。そんなの経験豊富な熟練の隊士だって、初めてヤツと対峙したら腰が引けるモンだよ。だから君は気にする事ないんだ。今回は荷が重い。俺はただ、そう判断したから君に残れと言っているだけなんだよ。分かってくれ」

「分かりません!」

「ティニ。いい加減にしてくれ。これは遊びじゃないんだ。俺を本気で怒らせたいのか」

「怒りたいなら怒って構いません。でもあたしは行きます!」

「ティニ!」

「あたしだってソーニャの仇を討ちたいんです! アカデメイアが許せないんです! だってあんな死に方ってないでしょ。あまりにも酷過ぎますよ。あたしは怒ってるんです。隊長がいくら止めたって、あたしは行きますよ!」

 そう言ったティニは勝手にヘリに向かい歩き出す。そして彼女はマイヤーの制止を聞かずにヘリに乗り込んでしまった。こうなってしまってはもう、テコでも動かない。

 ティニの強情さを知っているマイヤーは溜息を吐き出す。ここから先は本当に命懸けの戦場なのだ。そんな場所にいくら正規の軍隊士とはいえ、まだ若い女性を連れて行くのに抵抗を感じて仕方ない。マイヤーはそう心を痛めた。ただそんな彼に向かいエイダが言う。

「大丈夫ですよ隊長。ティニは隊長が思っている以上に強いです。絶対に戦力になりますから、むしろ頼ってあげて下さい」

「エイダ。いや、それは分かっているんだけど、やはり心配だよ。それに君だってそうさ。君の腕が立つのは誰よりも承知している。もちろん戦力としても欠かせないだろう。でもね、君だって残ってもらって構わないんだよ」

 マイヤーは戸惑いながらエイダに告げる。大切な部下だからこそ、彼は危険だと分かり切っている場所に二人を同行させたくなかったのだ。ただそんな彼にアニェージが言う。

「残念だけど、ここはお前が折れる番だな、マイヤー。それにな、軍人になる女っていうのは、一度決めたらブレないモンさ。だからさ、彼女達を頼ってやりなよ。きっと彼女達ならきっちり仕事を(こな)してくれるさ!」

 そう言ってアニェージはマイヤーの肩に手を軽く乗せてから微笑んで見せた。同性の先輩として、彼女はエイダとティニの気持ちが痛いほど良く分かり、そんな二人の気持ちを酌んであげたかったのだ。するとさすがのマイヤーも受け入れるしかなかったのだろう。彼は仕方なく二人の同行を許可したのだった。

「じゃぁな、ヘルムホルツ。リュザックの事は頼んだぞ!」

 アニェージが上昇を始めたヘリから身を乗り出して叫ぶ。それに対してヘルムホルツは手を振りながら返した。

「あんた達も気をつけてな。絶対に死ぬんじゃないぞ!」

 縁起でもない事を言うもんだ。アニェージはそう心の中で(つぶや)く。しかし彼女の背中は酷く粟立っていた。これから向かう場所がそれだけ危険な場所なのかと、彼女は直感として感じ取っていたのだ。でもだからと言って、挑まないわけにはいかない。これ以上、誰かに悲しい思いをさせない為にも。そしてそれは、ヘリに乗った全員が感じている心情であった。

 ヘルムホルツを残し、一行はヘリで廃工場へ向かい飛び立つ。ただそんなヘリが飛び立つ空は、またも雨が降り始めていた。

 一時は晴れ間も見えていた天気だったのに、これも獣神同士が争った影響なのだろうか。ただその雨はまるでソーニャとラウラの死を悲しむ涙の様に、冷たく観測所の地を濡らしていた――。



 小粒の雨に打たれたリュザックは目を丸くしていた。初めて体験した【瞬間移動】に彼は驚きを隠せなかったのだ。

 ヘルムホルツから唐突に投げ渡された銀の玉を押し潰した瞬間、凄まじい閃光に包まれた。そのあまりに(まぶ)し過ぎる光に、彼は反射的に目をきつく閉じる。しかしその目を次に開いた時、彼はそれまでとはまったく異なる場所に移動しているのに気付き、言葉を失ったのだった。

 ただそれ以上に彼は身を(すぼ)める。それは移動した先が極めて気味の悪い場所であったからであり、彼はゾクッと体を震わせた。

「な、なんだって、こがいな場所に移動したとね……」

 そう(つぶや)いたリュザックは反射的に体を強張らせる。なぜならそこが、小さめな墓石が無数に並ぶ墓地だったからだ。

 まだ昼間であるのに、分厚い雲が太陽の光を遮っているせいで少し薄暗い。そんな薄気味悪い雰囲気が、彼に独特な怖さを感じさせたのだろう。それにこの墓地からは妙な違和感を覚えてならない。見た目には普通の墓地とそれほど変わりない様に見えるが、それでもリュザックは直感として只ならぬ緊張感を保持し続けていた。

「気味の悪い場所だがよ。それになんぞや、こりゃ。【大数院鷽替居士だいすういんうそかえこじ】って読むがか? 大層な戒名付けちゅうき、変りモンの墓なんがかのう」

 すぐ目の前にある墓を見ながらリュザックは独り言を漏らす。でもなんだろう。この戒名、どこかで聞いた覚えがある。そう感じたリュザックは、過去の記憶を呼び起こそうと試みた。ただその時、彼は遠くに見えるプルターク・タワーの存在に気づき目を細める。

「ここはルヴェリエだったきか!」

 リュザックは驚きながら(つぶや)く。彼はまだ、自分がどこに移動したのか知らない。しかしタワーが見える距離なのだから、天体観測所からそれほど遠くに移動したわけでもなさそうだ。戸惑いつつも、彼はそう思いながら周囲を広く見回した。

 ぱらぱらと雨粒が落ちて来ているが、今はまだそれほど天気が悪いわけではない。でも空には分厚い雲がいくつもあり、それらはかなり早いスピードで流れている。上空はかなり強い風が吹いているのだろう。

「ゾクゾクッ」

 どうしてかは分からないが、リュザックは悪寒を感じた。天候は優れないが、しかし獣神が暴れている気配はどこにもない。それなのにこの違和感は何なのだろうか。不可解な感覚にリュザックは少しだけ(すく)み上がる。ただそこで彼は数歩離れたところにある、一つの墓に釘付けになった。

 リュザックは怖気づきそうになる心情とは別に、何かに惹かれるよう歩み出す。そして彼はその墓の前で立ち止まった。

 見た目は他に並ぶ墓と見分けが付かないほどの普通の墓。しかし墓に刻まれた、そこに眠る人物の名前を見た彼は息を飲むしかなかった。


「ライプニッツ――」


 確か元天体観測所の所長だった男。いけ好かないガルヴァーニとか言うジジィが言っていた、元グラム博士の助手をしていた人物だ。リュザックはプルターク・モールで耳にした会話を断片的に思い出す。

「ならここは拘置所近くの共同墓地だきか。見てみれば、そこら中無縁仏っぽいのが(とむら)われているみたいだで。――――ん?」

 リュザックは一度だけ目を擦る。目の錯覚なのではないかと思ったのだ。しかしそれは確かな現象らしい。リュザックは鼓動が早まる感覚を感じながら、ライプニッツの墓に顔を近づけた。

 墓石の中央部が薄っすらと青白く、ぼやけながら光っている。でもおかしいぞ。墓石は文字通り石の塊だ。普通なら光るはずがない。それに電球の様な発光物も見当たらない。しかし墓はその内側から確実に光を灯している。

「場所が場所だけに、幽霊が出たんかいな? じゃけんどまだ真っ昼間ぜよ。少しくらい曇ってるからって、幽霊が出るにはチト早いんじゃないがかね」

 リュザックはそう(つぶや)きながら背中を粟立てる。さすがの彼も目の前の現象に戦慄を覚えたのだろう。だがそれでもリュザックは墓石の光っている部分に手を伸ばす。そして彼は躊躇(ちゅうちょ)しながらも、そっと手の平を墓石に添えた。

「温かい……。いや、違うか。俺の体が熱を発しとるんがか」

 緊張感で体が火照(ほて)っているのか。でも確実にリュザックの体は熱を帯びている。もしかしたら瞬間移動の影響なのかも知れない。彼の体には薄っすらとピンク色の粉が付着しており、それが微量ながら熱を発しているのが分かった。そしてその(わず)かな熱と墓石の明りが溶け合うのを感じる。リュザックがそう思った時、墓石の動く感触が彼の手の平に伝わった。

 とても軽い。でも確実に動いている。だけどなんだこの感触は。今までに経験したことの無い不思議な感触だぞ。例えるならそう、少し粘度の高い水の中に手を入れている様な感覚。だがそう感じるリュザックが目にしたのは、信じ難い光景であった。

 なんと彼の伸ばした手が、墓石の中に埋まっていたのだ。墓石が動いていたのではなく、リュザックの腕がゆっくりと墓の中に沈んでいたのである。

 これにはリュザックも肝を潰した。まさか墓の中に腕が入り込むなんて考えもしないのだから当然だ。ただここで臆さないところが彼の長所である。リュザックはせっかくだからと、明りが灯っている所まで腕を墓石の中に突っ込んでみた。

 墓石自体は真っ黒いため、腕を伸ばした先がどうなっているのか視覚的に判別はつかない。でも明りの灯っている場所は、なんとなく分かる気がする。リュザックは(ひじ)が埋まるくらいまで腕を墓石に入れ込んでいく。そして彼は、ぼやけた明りの部分に恐る恐る指先を触れさせてみた。

「うっ」

 リュザックは鈍い(うめ)き声を漏らす。明りに指先が触れた瞬間、彼は意識が遠のく感覚に襲われたのだ。でもその時、彼は自分が何かを掴んでいるのに気が付いた。

「な、何じゃ」

 リュザックは一気に腕を引き抜く。するとその腕は何の抵抗も無くすっぽりと墓石から抜け出た。ただそこで彼は改めて目を丸くする。なんと墓石から引き抜いた彼の手には、一冊の【本】が握られていたのだ。


 墓石の明りが消えている。それに再び手を押し当てても、墓石の中に腕は入り込まない。もうそこにあるのは、何の変哲もない普通の墓石だった。

 俺は夢でも見ていたのか。それとも幽霊に冷やかされたのだろうか。リュザックは自身に起きた信じられない現象に戸惑いを見せる。それでも彼は、現実に手にしている一冊の本を見ながら状況を把握しようと努め出した。


【6月の論文 フェルマー著】


 リュザックは本の表紙に記されたタイトルと、それを書き綴った者の名前を見て思う。これが、グラム博士が隠した本物の【フェルマーズ・リポート】なのかと。

 かなり古い本であるのは間違いない。紙は黄ばんでいるし、所々に痛みが確認出来る。でもこの本から感じるハンパない存在感はなんなんだ。リュザックは意味の分からないプレッシャーを感じ息を詰まらせる。それでも彼は本をパラパラと(めく)り、その内容に目を通した。

 難しい科学理論の説明がびっしりと記されている。もちろんそれをリュザックが読んだところで、理解出来るはずもない。ただ論文の最後のページを開いた時、そこに一枚の【写真】が挟まれているのに彼は気付いた。

「なんぜよ、この写真は!」

 リュザックはその写真の描写に眉をしかめる。その写真は白黒に投影されたもので、とても古い写真に感じられた。だがその内容には極めて異質な違和感がある。リュザックはそれを直感として感じたからこそ、難しい表情を浮かべたのだ。

 その写真には二人の人物が写されている。一人は玉座に腰掛ける若き頃のアルベルト国王。そしてもう一人は、膝間づきながら国王の手に唇を添える、ルーゼニア教総教主ラザフォードの姿であった。

 国王に対してルーゼニア教の最高指導者が腰を低くする。それ自体は至って自然な行為だ。決しておかしなものではない。しかしリュザックが目を(うたが)ったのは、そんな二人を映す鏡の中の描写についてだった。

 写真の中には鏡があり、その鏡にはアルベルト国王とラザフォードの姿が映っていた。だが奇妙な事に、鏡の中では二人の立場が逆転していたのである。

 一見すると見逃してしまうであろう小さな描写。だが洞察力の優れたリュザックはそれを見逃さなかった。鏡の中に映るのは、玉座に座るラザフォードに対し、まだ幼いアルベルト国王が膝間づくものであったのだ。

 リュザックの背中にどっと冷たい汗が噴き出す。これはヤバい写真なんじゃないか。彼は直感でそう思ったのだ。そして彼は写真を裏側に向ける。するとそこにはこう書かれていた。


『この写真はレプリカであるが、しかし真作は存在する。真作は諸刃の剣となりうるも、その効果は絶大だ。運命に挑む覚悟を決めた時、その真作が秘めた本当の意味を探れ』


 リュザックは手にした写真を無意識にポケットにしまう。彼は感じ取った衝撃の大きさに、平常心でいられなかったのだ。ただそれでもリュザックは、論文の最終ページに残されたメッセージを見つける。それは明らかに、グラム博士が手書きで加えたものだと判断できるメッセージだった。


(いにし)えの都にて、岩隠れする悪魔を救い出せ。さすれば虚数に込められし、失われた時間は解き放たれるだろう』


 まったく意味の分からない暗号である。それでも6月の論文を実際に手にしたリュザックは確信した。この暗号の示す先に、きっと最後の論文が隠されているのだろうと。

 困難の連続だったが、それでも論文の入手に成功した。そして次の論文を見つけるにも、今回と同等以上の困難を乗り越えなければならないのだろう。でもその論文を見つけ出した時、未来はきっと自分達に味方してくれるはず。リュザックはそう思いながら論文をきつく握りしめた。

「俺一人じゃ何も分からんき。早くこいつをみんなの所に持って行くだで」

 リュザックは墓地の出口に向かい駆け出す。とりあえず天体観測所に戻ろうと考えたのだ。ただその前に、彼は大層な戒名のついた墓の前を通り過ぎながら思い出した。

「ありゃ確か、ライプニッツを殺した犯人の墓だったんじゃないがきか。でもなんだで、妙な感じがするき」

 リュザックはどこか腑に落ちない違和感を覚える。ガルヴァーニの話しが記憶の中で曖昧になっているからなのか。でも何だろう。大切な何かを忘れている気がする。だが今はそんな事に気を留めている時間もない。そう思い直した彼は、足を早めて墓地を駆け抜けた。

 想像よりも、いくらか墓地は広かった。そのせいなのか、墓地から出たリュザックは肩を上下させながら息をしていた。かなり疲れたのだろう。いや、その前に天体観測所でヤツと交戦した影響が出ているのかも知れない。

 それでも彼は道路に飛び出し周囲を確認する。タクシーでも捉まえられれば良いが、最悪その辺に停まっている車を拝借して観測所を目指そう。彼はそう考えながら、疲れ切った足を前に踏み出した。ただその時、彼が所持する携帯端末がバイブレーションを発する。

「しまったがよ。俺としたことが焦っとるきね。論文見つけたのを端末で知らせるのが先だでな」

 リュザックは急いで端末を取り出そうとする。しかし疲れが溜まっている影響なのか、うまく端末が取り出せない。そしてそんな意識が散漫とする状態で、彼は不注意に交差点に飛び出してしまった。――と次の瞬間、

「キキーッ、ドン!」

 リュザックは全身に強い衝撃を受けて吹き飛ばされる。彼は信号を無視して道路に飛び出したため、車に轢かれてしまったのだ。

「く、くそっ。なんちゅうヘマしとるき俺は。こんなところで寝てる暇はないがよ……」

 リュザックは懸命に起き上がろうとするも、ダメージは思いのほか大きく体が動かない。それどころか彼は、意識を完全に失ってしまった。無念でありつつも、衝撃に耐えうるだけの体力が彼には残っていなかったのだ。ただ現場にはそれなりに多くの通行人がおり、その中には救助に駆け寄る者もいた。そしてあっという間に彼は、そんな人々で囲まれていた。

 だがそんな慌ただしい状況の中で、一つの人影が誰にも気付かれる事なくサッと動く。そしてその人影は、道路に落ちていた6月の論文を拾い上げると、そのまま何処かに立ち去ってしまった。



 アダムズ中央駅は大混乱になっている。大規模な停電が発生したため、車両の運行はもちろん、駅のほとんどの機能が麻痺してしまい、どうにもならない状況になっているのだ。ただそんな騒然とする駅前のロータリーで、久しぶりにルヴェリエの地を踏んだ【ヘルツ】が、呆れながら(つぶや)いたのだった。

「いつになく首都(ここ)は騒がしいな。それに何でまた、今日に限ってこんな停電が起きるんだよ。ついてないぜ、まったく。でもまぁいいや。とりあえずジュールさんのところにでも行ってみるか」

 ヘルツは溜息を吐き捨てながら空を見上げる。雑然とするルヴェリエの雰囲気に、彼は何となく落胆したのだ。ただそれでもヘルツは久しぶりに見るアダムズ城の存在感に心を落ち着かせる。街はひどく混乱しているが、変わらないアダムズ城の姿にホッとする安心感を覚えたのだろう。だがそんなアダムズ城の真上に掛かる雲を見たヘルツは、そこに何かが飛んで行くのを見て首を(かたむ)けた。

「ん、蛇? いや、竜――なのか?」

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