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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
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#87 龍天に昇る位相の扉(六)

 いつから話しを聞いていたのか。姿を現したデービーは(いや)しそうに口元を緩めている。でもこの傷の男がソーニャとラウラの話しを聞いていたのは間違いない。その証拠にデービーは、軽く拍手をしながら近づいて来た。

 恐らく男にとっても二人の出会いの話しは、それなりに感動出来るものだったのだろう。しかしだからと言ってデービーにしてみれば、それは退屈な時間を紛らわす程度の価値でしかない。男はまるで出来の悪い青春ドラマでも見た後の様に、嘲笑しながら歩み寄って来た。

「貴様!」

 デービーを鋭く見据えたアニェージが戦闘態勢を取る。だがそこで彼女は苦い表情を浮かべた。なぜか突然激しい頭痛に襲われたのだ。それでも彼女は必死で構え直す。強烈な頭痛で今にも意識が飛びそうだったが、でもそれ以上に目の前に現れた男は危険な存在なんだとアニェージは肌で感じ、奥歯を噛みしめた。ただそんな彼女を一視したデービーは、やれやれと軽く息を吐き出しながら面倒くさそうに告げた。

「ふぅ~。まぁそう粋がるなって。お前らの相手は後でちゃんとしてやるからよ。とりあえずお前らは邪魔だから、どっか行ってろや」

「フザけやがって。貴様に用が無くたって、私には貴様をブッ殺す道理があるんだ。余裕のつもりか知らんが、のこのこ姿を現した事を後悔させてやる」

「やれやれ、話しの通じねぇ女だな。時間さえあれば俺だってお前らの相手はしたいさ。お前らなら少しは楽しめそうだからな。でも今は仕事の時間なんだよ。俺の上司は時間にうるせぇ人でさ。遅れると少し厄介なんだよな。だからさっさと済ませちまいたいんだよ」

「チッ。相変わらずムカつく野郎だな。なら貴様の仕事ってのは何なんだよ!」

 アニェージはマシンガンの銃口をデービーに向ける。また同様にティニとエイダ、そしてマイヤーもそれぞれの武器を構えた。この至近距離だ。いかに男の正体がヤツであろうと、完全に攻撃を避けるのは不可能なはず。しかしデービーはそんな状況に(ひる)みもせず、むしろ不敵な笑みをさらに深めて言い放った。

「ククク。そりゃ決まってるだろ。俺の仕事ってのは、そこにいる出来損ないの【不良品】どもを始末する事さ!」

 デービーは懐より鋭利なナイフを引き抜く。そして凍てつく程の冷たい視線をソーニャとラウラに向けた。

「ゾワッ」

 その姿を見た全員の背中が一気に粟立つ。やはりこいつはヤバい奴なんだ。(おぞ)ましい殺気を全身で感じたアニェージ達は神経を張り詰めさせる。でも男の好きにさせるわけにはいかない。標的がソーニャとラウラであるなら尚更だ。アニェージは素早く移動して自分が盾になるようソーニャとラウラを背後に匿う。そしてマシンガンの引き金に掛ける指先に力を込めた。

「絶対に守ってみせる。貴様の思い通りにさせて堪るか!」

 アニェージの決意は揺らぎない。家族を奪われた傷の男への恨み。そして何より自分自身もかつてアスリートだっただけに、二人の人生を狂わせた秘密結社の卑劣な行為が許せないのだ。百回殺しても殺し足りない。アニェージは怒りを込めて引き金を目一杯に絞り込んだ。だがしかし、それよりも(わず)かに早く動き出したデービーは、発射された銃弾を掻い潜りながら吐き捨てた。

「邪魔だ」

「えっ」

 それは目にも止まらぬスピードだった。デービーは一瞬でアニェージとの間合いをゼロにする。そしてそのままの勢いで男はアニェージの体を蹴り飛ばした。

「ズガンッ!」

 アニェージの体が為す術無く吹き飛ぶ。だがそれだけではない。デービーはスピードを保持し続けながら、マイヤー小隊の三人までもを次々と弾き飛ばした。

「キャッ」

「ぐわっ」

 マイヤーとエイダが地面にひれ伏す。小柄なティニに至っては更に数メートルも離れた場所まで吹き飛ばされ、その体は不幸にもヘルムホルツに直撃していた。

 まさに一瞬の出来事だった。まさか人の状態でありながら、これ程の素早い身のこなしが出来るなんて考えられない。スピードに自信があるアニェージですらそう考え、苦々しく表情を歪めた。しかしだからと言ってこの状況を受け入れる訳にもいかない。彼女達は反撃しようと懸命に立ち上がる。だがそんなアニェージ達の目の前で、デービーは冷たく言い放った。


「まずはお前だ。お前には何度も邪魔されたが、今度は本当に殺す」

 デービーは猪顔のヤツであるラウラを睨み付けながらナイフを構えた。当然ながら、その視線には尋常でない殺気が宿っている。怒りで狂うほどの殺気が。

「お前にはヤラれたからな。この間の礼はたっぷりさせてもらうぞ。八つ裂きにしてやる」

「簡単には殺されやしない。(みんな)を逃がす時間稼ぎくらいなら、私にだってまだ出来るはずなんだからっ!」

 ラウラはそう叫ぶなり、渾身のタックルをデービーに浴びせた。そしてそのタックルをもろに喰らった男は激しく吹き飛ぶ。ラウラは元レスリングのトップ選手だったのだ。そんな彼女がヤツになった状態で繰り出した渾身のタックルである。さすがの男もこれには対処出来なかったのだろう。だがしかし、その直後に(ひざ)を着いたのはラウラの方であった。

「ガクッ」

 醜い猪顔が更に苦痛で歪み醜悪化する。強力な攻撃を仕掛けたのはラウラの方なのに、一体何が起きたというのか。だがその原因をアニェージ達はすぐに把握した。なんとラウラの胸に、デービーが握っていたナイフが深々と突き刺さっていたのだ。

「ズポッ」

 ラウラは残された左手でナイフを引き抜く。だがいかにヤツの肉体が頑丈だからとは言え、これほどの重傷を負ってしまっては()ぐには動けない。ラウラの瞳が恐怖で黒く染められていく。何故ならその視線の先には、平然と立つデービーの姿があったからだ。

 男にダメージはほとんど見受けられない。蚊に刺された程度と言っていいだろう。男はラウラが渾身の力で放ったタックルに対し、カウンターでナイフを胸に突き刺していた。そして自分はタックルに逆らわず、後方にジャンプしてその衝撃を緩和させていたのだ。かつてアダムズ城の中庭でラウラと戦った教訓を生かしたのだろう。それにこの観測所では前回、剛腕でその腹を貫いた。にも(かかわ)らず生きているラウラのタフネスさを知ったデービーは、まず体力を根こそぎ奪うところから始めたのだ。

 これでは勝ち目はない。圧倒的な力の差を感じたラウラは全身を震えさせる。アスリートとしての本能が、直感的に敗北を悟ってしまったのだ。だがそんな彼女に対し、デービーは憐みなど持ち合わせやしない。むしろ男は殺気を更に増大させながらラウラに向かい足を踏み出した。

「ダメだ、(やら)れる――」

 ラウラは不覚にも目を閉じた。もう為す術が無いと諦めてしまったのだ。そしてそんな彼女の姿を目にしたデービーは(わず)かに口元を緩める。どうやって、なぶり殺しにしようか。それを考えた男は、ラウラとは真逆に歓喜で体を震わせたのだった。だがその時、

「やめてーっ!」

 ソーニャがありったけの力を込めて叫ぶ。このままではラウラは殺されるしかない。でもそんなの絶対に嫌だ! ラウラを傷付ける奴は誰であろうと許しはしない。そう考えたソーニャは反射的に声を張り上げた。するとその瞬間、皮肉にも彼女の中で大切なものが粉々に砕け散った。

「ビッキィィーン!」

 突如として激しい超音波の衝撃が発生する。そしてその衝撃波は、離れた観測所の幾つものガラス窓に、数えきれない程のひび割れを刻み込んだ。

「ぐっ。何だ、この衝撃は」

 アニェージ達は耳を押さえながら屈み込む。当然の事ながら、デービーでさえも耳を押さえながら数歩後退した。鼓膜を突き破り、直接脳を揺さぶっているんじゃないかと錯覚するほどの衝撃なのだ。さすがにこの状態の中で平素を保っていられる者はいない。ただそんな異常な状況の中で、ラウラが痛切に叫んだ。

「いけない! ソーニャ、それだけはダメよ!」

 ラウラはソーニャに向かって腕を伸ばす。このままでは取り返しのつかない事態になってしまうぞ。早くソーニャを落ち着かせなくては。ラウラは衝撃波を全身に浴びながらも、懸命にソーニャの(そば)に進もうとする。しかし超音波はむしろその強さを高めるばかりであり、一歩たりとも足が前に出なかった。

「ガフッ」

 ラウラは堪えられずに大量の血を吐き出す。いや、それだけではない。耳や鼻からも血が流れ出ている。超音波が体の内部に直接衝撃を波及させ、深刻なダメージを与えているのだ。これでは如何にタフなヤツの体を持つラウラとて一溜りも無い。彼女の両目から赤い涙が零れ落ちる。そしてそんな赤く色付いた視界の中に立つソーニャを見て、ラウラは悲痛な表情を浮かべた。それでも彼女は精一杯にありったけの声を絞り出す。

「ダ、ダメよ……ソーニャ。そ、それ以上は……戻れなくなる」

 ラウラは地面を這いながらソーニャに近づく。数センチづつ体を動かし、ボロボロになった体を引きずる姿は酷く(あわ)れなものだ。すでに左目は破裂し何も見えなくなっている。それでも彼女は並々ならぬ強い意志で体を引きずり、そしてソーニャの足をその手で握りしめた。

「ソ、ソーニャ、お願い。もうやめて。落ち着きを取り戻して」

 ラウラは祈りながらソーニャに呼び掛ける。一刻を争う事態に彼女はソーニャの無事を願ったのだ。するとその願いがソーニャに伝わったのだろうか。激しい超音波振動がスッと鳴り止んだ。

 もう満身創痍で動けない。それでもラウラは残された右目でソーニャを見上げる。その瞳は真っ赤に染まっていたが、でもそれ以上に柔らかい温かさが込められていた。想いが伝わったのだと嬉しさを感じずにはいられなかったのだ。――がしかし、

「!」

 ソーニャを見上げたラウラは愕然とした。いや、そんな次元ではない。ショックのあまり心臓が止まるほど体が硬直していた。

 真っ赤に染まる彼女の視界に映るソーニャの姿。それはもう彼女が知るソーニャの姿ではなかった。なんとそこに立っていたのは、腐った【(シャチ)】の頭をしたヤツだったのだ。

「ま、まさか、こんな……」

 耳を抑え(うずくま)るアニェージが小さく(つぶや)く。ヤツの姿に変化してしまったソーニャを見て、彼女も愕然としていたのだ。そしてマイヤーとエイダ、それに少し離れた場所に伏せるティニとヘルムホルツもまた、茫然とした表情を浮かべていた。


 ラウラを助けたい。ソーニャは心からそう願ったはず。しかしその強い想いが、逆に彼女の中のストッパーを解除させてしまったのだ。もうそこにはあの可憐なソーニャの姿はない。存在するのは奇妙な形をした化け物だけである。

 2メートルほどの身長はヤツの中では小柄な方だ。ただ体全体が真っ黒い体毛で覆われているのは紛れもないヤツの姿である。しかしその頭部に関しては、それ以外のヤツとは明らかに特徴が異なっていた。

 腐った(シャチ)の頭部には一本の毛も生えてはいない。だがその頭皮は滑りけがあり、酷く汚らしく感じられる。粘々(ねばねば)した液体が頭皮から大量に噴き出しているのだ。そして何より特徴的だったのは、その頭部には不釣り合いなほど口が大きい事だった。

 人の頭を軽く丸呑み出来るくらいの巨大な口。またそこからは鋭い牙が何本も顔を出している。こんな口で噛み付かれでもしたら、同じヤツであったとしても無事ではいられないだろう。

 ラウラは直感としてそう考えた。今すぐ鯱顔のヤツから離れなければ、きっと自分は殺される。しかしラウラは動けなかった。それは体がボロボロだったからではない。掛け替えの無い存在だったソーニャを守れなかった。こうなってしまう事だけは絶対に避けたかった。でもそれが叶えられなかったから、ラウラの心は絶望感に汚染され完全に砕けてしまったのだ。

 ラウラはガックリと肩を落とす。もう彼女には生きる意志もないのだろう。すると案の定、鯱顔のヤツはラウラを見据えながらその巨大な口を開く。そしてヤツはラウラの首を噛み千切ろうと彼女に迫った。

「ダァーン!」

 強力な銃声が響く。と同時に鯱顔のヤツは激しく体勢を崩した。肩にライフルの弾丸が命中したのだ。

 マイヤーが構えるラウフルの銃口から煙が立ち上がる。彼はラウラが噛み殺される間一髪のタイミングで強弾を発射した。これが最善の行為だったかなんて分かるはずもない。でも彼は反射的にラウラを守ったのだ。

 きっとマイヤーにはラウラの優しさと悲しみが理解出来たのだろう。誰よりもソーニャを気遣う彼女の想いが伝わったからこそ、こんな残酷な結末は許されないと彼は引き金を引いたのだ。だが現実は更に過酷さを増していく。銃弾を受けた鯱顔のヤツは、その痛みに苦しみながら口を大きく開ける。そしてそこから再び超音波振動を発生させた。

「ビッキィィーン!」

「ぐわっ」

 マイヤーは堪えられずに(ひざ)を着く。いや、それどころではない。発生した超音波は先程よりも威力が大幅に増している。このままでは脳ミソが吹き飛んでしまいそうだ。

 地面に伏せたアニェージとエイダが悶絶している。ラウラに至っては完全に昏倒した状態だ。このままでは全滅し兼ねない。だがその時、狂気を剥き出しにしたデービーが鋭く目を光らせた。

「ガキが、フザけやがって。不良品が調子に乗るんじゃねぇよ!」

 デービーの体が急速に肥大する。そしてその体はあっと言う間に豹顔のヤツへと変化した。


 激しい超音波の中においても、やはりこいつの禍々(まがまが)しさは異常だ。まるで衝撃波を押し退ける様に殺気が溢れていく。だがやはりデービーにしてみても、鯱顔のヤツが放つ超音波には強烈な苦痛を感じるのだろう。みるみるとその表情が青ざめていくのが分かる。しかし次の瞬間、豹顔のヤツは猛烈な唸り声を発すると姿を消した。

「!」

 文字通り、目にも止まらぬ速さだった。あまりにも一瞬の出来事に、鯱顔のヤツですらデービーの巨体を見失ったほどである。だがヤツの本能が敵意を正確に読み取ったのだろう。鯱顔のヤツは素早く振り返った。

 鯱顔のヤツの瞳に剛腕を振り上げた豹顔のヤツが映る。デービーは一瞬にしてソーニャの背後に回り、攻撃を仕掛けようとしていたのだ。驚嘆すべきスピードである。だがそんな豹顔のヤツに向かい、鯱顔のヤツは正面から超音波振動を吐き出した。

「ビッキィィーン!」

「クソがっ」

 凄まじい超音波の衝撃にデービーは怯み、振り上げた拳を引き下げる。そしてそのまま大きく後退した。鯱顔のヤツが繰り出す防御不能の攻撃に、さすがのデービーも舌を巻いたのだ。だがそれで諦める豹顔のヤツではない。衝撃波による苦痛に表情を歪めながらも、デービーはその瞳を不気味に光らせた。

「!?」

 目を疑う光景だ。三体、いや四体か。なんと今度はデービーが分身したのだ。そしてそれらの巨体は鯱顔のヤツの周りを高速で回り続けている。そう、デービーは猛スピードでソーニャの周りを移動する事で、複数の【残像】を発生させたのだ。

 こんな攻撃が現実に可能なのか。地面に伏せながら戦況を見つめるアニェージは目を丸くする。常識を逸脱したヤツの動きに彼女は言葉を飲み込むしかなかった。ただそんな彼女の見つめる先で状況は一変する。デービーは再びソーニャの背後を取ると、今度は外さないとばかりに剛腕を渾身の力で突き出したのだ。

 だが鯱顔のヤツとて普通ではない。驚異的な反射神経で身を(ひね)ったソーニャは、デービーが突き出した剛腕を見事に(かわ)す。そしてそのまま口を開き、鋭い牙で噛み付いた。

 しかしその口は大気を飲み込むだけだった。鯱顔のヤツが(うな)りを上げる。その時にはもう、デービーは再度ソーニャの背後に迫っていた。

 さすがにこれは(かわ)せない。そう感じた鯱顔のヤツは、デービーの攻撃に対して背中を強張らせる。硬い筋肉で覆われた背中で防御しようと身構えたのだ。

 その反射神経と判断力は見事としか言いようがない。かつてトップスイマーだったソーニャのアスリートとしての感性が、ヤツの身体能力を最大限に引き出したのだろう。目にも止まらぬ高速のデービーの攻撃に対し、ソーニャは最善かつ完璧な防御態勢に入った。だがしかし、

「ズドンッ!」

 鈍重な音が響くと共に、大量の血飛沫(ちしぶき)が舞い散る。それはまるで、真っ赤な霧が突然周囲を覆ったかの様であった。

 何が起きたんだ。アニェージ達は赤く(もや)掛かった中で目を凝らす。ただそこで彼女達は気付いた。あの強烈な超音波が止んでいると。そしてその原因を目の当たりにした彼女達は声を失うしかなかった。

 ソーニャは背中でデービーの攻撃を防御したはずだった。しかし豹顔のヤツが放った一撃は、彼女の想像を遥かに超えた威力を誇っていたのだ。

 ソーニャの腹部から突き出した丸太の様な太い腕。そう、デービーの一撃はソーニャの硬い背中の筋肉を(つらぬ)き、腹を突き破っていたのだった。そしてその悲惨な姿に、ラウラは中途半端に口を開けて唖然としていた。

「ガフッ」

 鯱顔のヤツが、その大きな口から血反吐を吐き出す。腹を無造作に貫かれたのだ。どれだけヤツの体が頑丈だからといっても、このダメージは深刻なもので間違いない。その証拠に鯱顔のヤツの下半身が小刻みに震えている。尋常でない激痛に苦しんでいるのだろう。そしてそんなソーニャに向かい、デービーは口元を緩めながら卑しく告げた。

「イノブタ女と違って、お前はそれほどタフじゃないだろう。と言うよりも、そこのイノブタ女のタフさが異常なんだ。ヤツの体は完璧じゃない。ほら、さっさとくたばっちまえよ」

 そう言ったデービーは、ソーニャの体に捻じ込んでいる腕を更に押し込む。するとその激痛にソーニャは聞くに堪えない悲痛な叫びを上げた。

「ギィヤァァー」

 悶絶したソーニャの体から力が抜ける。そして彼女は為す術無く(ひざ)を着いた。それはまさに、完全な敗北を意味するかの様な姿だった。だがしかし、意外にもそこで表情を険しくしたのはデービーの方だった。

「何なんだよテメェは! この期に及んでフザけてんのか!」

 豹顔のヤツがソーニャの後頭部に向かって怒声を浴びせる。でも何に怒っているのか。おかしなところは別段見受けられない。――いや、違う。ソーニャは最後の力を振り絞って抵抗しているのだ。

 彼女は腹から突き出した豹顔のヤツの腕をガッチリと掴んでいた。腕を引き抜かせないよう抑え込んでいたのだ。そして次の瞬間、彼女は掴み上げた腕に向かって超音波振動を吐き出した。

「ビッキィィーン!」

「ぐわっ」

 今度はデービーの方が悶絶する番だった。ソーニャの体を通して直接衝撃が伝わって来るのだ。それも体の内側から。

 豹顔のヤツは猛烈に苦しむしかない。防ぎようの無い衝撃が全身を駆け巡り、細胞から破壊されて行く感覚が脳ミソをも支配していく。これにはさすがの豹顔のヤツも音を上げるしかなかった。

「い、いい加減に離せよ! こんなモン喰らい続けてたら死んじまうじゃねぇか」

 豹顔のヤツの体から力が抜ける。戦いを趣味の様にしていたデービーであったが、この超音波にはお手上げだった。それでも豹顔のヤツは力を振り絞り、ソーニャの背中に片足を掛ける。そして奥歯を目一杯に噛みしめると、渾身の力でソーニャの背中を蹴り上げて腕を引き抜いた。

「ズボッ」

 強烈な超音波振動を直接受けながらも、デービーは強引に腕を引き抜いた。驚嘆すべき体力だ。おそらくこの豹顔のヤツも、猪顔のヤツであるラウラと匹敵するほどのタフネスさを有しているのだろう。でもだからと言って、受けたダメージは深刻なものだ。なんとか腕は引き抜いたものの、豹顔のヤツはその場に(うずくま)り動けなくなっていた。

「ドサッ」

 ソーニャが前のめりに倒れる。やはり重傷なのは彼女の方だ。腹を貫かれた上に、最後の気力を奮い立たせて超音波を発生させたのだ。体力が底をついたのだろう。そしてそんな彼女の姿を見たデービーは、苦々しい表情を浮かべながら吐き捨てたのだった。

「チッ、手間取らせやがって。これじゃ、もう一匹が始末出来ねぇじゃねぇか」

 立つ事すら思い通りにならない。そんな辛い状態にデービーは表情を(ゆが)めるだけで精一杯だった。ただそこでそれまで地に伏せていたラウラが起き上がる。そして彼女は豹顔のヤツを睨み付けながら、怒りに声を震わせたのだった。

「許さない。お前だけは絶対に許さないぞ!」

 ラウラの怒りは頂点に達していた。無残な姿となったソーニャを見て、彼女の意識は完全に黒く塗り潰されたのだ。豹顔のヤツよりも遥かにボロボロだったのに、ラウラの体から力が湧き上がって来る。そして彼女は鋭く眼光を輝かせ、豹顔のヤツを殺すべく足を踏み出した。――がその時、

「バサッ」

 上空より巨大な翼が舞い降りる。そしてその翼が生み出した突風で、ラウラは逆に押し返えされてしまった。

 今度は何なのだ。ラウラは風を嫌いながらも前を向く。ただそこで彼女は信じられない姿を見て愕然とした。

「あ、あいつ。生きていたのか」

 アニェージが小さく(つぶや)く。彼女やラウラが見つめる先。そこにはなんと、【隼顔のヤツ】が姿を現していたのだった。


 ボロボロに傷ついた姿からして、EPRキャッツ号の爆発に巻き込まれたのは間違いない。だがそれでも隼顔のヤツは生きていた。ヤツという化け物は、どこまで生命力に満ち溢れた怪物なのだろうか。ただそれでも大きなダメージを負っているのは事実なはず。その証拠に隼顔のヤツは、少し疲れ気味に言葉を発した。

「やれやれ。まさかあんたまで苦戦してるとは思わなかったよ。珍しい事もあるモンだね、デービー」

「チェ、もう迎えの時間かよ。俺とした事が、しくじっちまったぜ。それにしてもなぁ【ワッツ】。テメェの方も随分とやられてんなぁ。ボロボロじゃねぇか」

「あぁ。さすがに今回ばかりは堪えたよ。ここにいる奴ら、只者じゃないぜ」

 そう告げた隼顔のヤツはマイヤーに視線を向ける。上空で狙撃されたのを思い出したのだろう。しかしそこには敵意むき出しの殺気は感じられない。恐らく見た目以上にダメージが大きく、隼顔のヤツはこれ以上の戦闘を避けたかったのだ。するとそんな隼顔のヤツのすり減った体力を察したのだろうか。豹顔のヤツは落胆しながら言ったのだった。

「このまま戦い続けるのは、お互いにリスクが高いって感じか。仕方ねぇ、今日のところは引き上げるか。どうせコイツら、放っといても死ぬだけだろうしな」

 豹顔のヤツはそう吐き捨てながらソーニャとラウラを一視する。すでに鯱顔のヤツは意識無く倒れ、また猪顔のヤツは満身創痍の状態なのだ。デービーがそう考えるのは当然だろう。ただそんな彼に向かいワッツと呼ばれた隼顔のヤツは、少し雰囲気を変えて話し出した。

「残念だけどデービー、俺達に休む暇はまだ無いそうだ。新しい指令が今し方届いちゃってね」

「何、どういう事だ?」

「さぁ、詳しい内容は俺にもよく分からない。ただ命令されたのは、現在の任務を全て放棄し、今直ぐ【工場】に来いって事だけさ」

「なんだそりゃ? まったくよぉ、人使いが荒過ぎやしねぇか」

「でもこんなの初めてじゃないか。なんかヤバい事になってる気がするぜ。俺は面白そうだから行ってみるけど、あんたはどうするよ?」

「へっ、そんなの決まってんだろ。【あの方】の指示に背いて何の得があるっていうんだ。俺も行くから連れてけ」

 そう言ったデービーは重い腰を持ち上げる。あれ程の超音波の衝撃を喰らったというのに、なんてタフな体をしているんだ。豹顔のヤツは(わず)かに苦しさを表に出したものの、しっかりと地に足を着いて立ち上がった。

 すると今度は隼顔のヤツが大きな翼を広げる。そしてヤツはゆっくりと翼を羽ばたきながら軽くジャンプすると、そのままデービーの肩に飛び乗った。

「優しく飛んでくれよ。結構しんどいんでな」

「善処はするけど、こっちも割としんどいんでね。途中で落としたらゴメンよ」

「ケッ。そん時はお前をブッ殺してやるさ」

 隼顔のヤツが両足でガッチリと豹顔のヤツの肩を掴む。そして次の瞬間、隼顔のヤツは翼を強く羽ばたいた。

「バサッ」

 重なった二つの巨体が上空に飛び上がる。それもかなり高度を上げるつもりらしい。ヤツはグングンと真上に上昇していく。ただそこでハッとしたアニェージが即座にマシンガンを構えながら大きく叫んだ。

「待て! みすみす逃がしはしないぞ!」

 アニェージはマシンガンの引き金を目一杯に引き絞る。またそれに同調してマイヤーとエイダも銃を発射した。しかし彼女達が放った弾丸はヤツに届かない。隼顔のヤツが翼を羽ばたく影響なのだろうか。強い気流が発生したせいで、弾丸の軌道が乱れてしまったのだ。

「くそっ。あいつら、何処に向かったんだ?」

 アニェージが無念さを露わに吐き捨てる。しかしその時、ゆっくりとではあるが、鯱顔のヤツが体を持ち上げた。


「ソーニャ! 無事だったのね」

 ラウラが立ち上がった彼女のもとに駆け寄る。そして酷く傷ついた体を優しく抱きしめた。

「無理はしないで。ゆっくりと休むのよ。酷い傷だけど、この体の回復力ならきっと持ち堪えられるはずだから」

 ラウラはソーニャを落ち着かせようと優しく気遣う。しかし彼女には分かっていた。いくらヤツの体であっても、この傷では長くはもたないと。

 単に腹部を貫かれただけなら、回復する可能性はそれなりにあったのかも知れない。それはラウラ自身が同じく経験したダメージから推測出来る。でもソーニャの傷はそれとはあまりにも違い過ぎた。彼女が発した超音波振動は、彼女自身の肉体にまで深刻なダメージを与えていたのだ。

 傷口の細胞が完全に壊死している。そしてその範囲は急速に拡大している様に見えた。ソーニャの体力が極端に低下している現れだ。

 もう助かる見込みは無い。ラウラは痛切な想いで歯を喰いしばる。どうしてこんな事になってしまったのか。彼女はソーニャの居た堪れない姿に悔しさを噛みしめるしかなかった。しかしそれでもラウラはソーニャの回復を願って優しくその体を抱きしめる。少しでも温もりを伝え、下落していく体温を食い止めようとしたのだ。――だがしかし、そんな彼女の体をソーニャが思い切り突き飛ばした。

「!?」

 ラウラは困惑を隠せない。そしてそれを見ていたアニェージ達にも動揺が広がった。なぜなら皆の瞳に映ったのは、意識の欠片も残っていない、鯱顔のヤツの怒り狂った姿だったからだ。

「ビキァァーンッ!」

 鯱顔のヤツが再び超音波振動を発生させる。もうそこにはソーニャとしての意識は完全に存在しない。ヤツは体の損傷から来る苦しみに悶え、そこから生み出された怒りを撒き散らすだけの怪物に成り果てたのだ。

「うぐっ」

 アニェージとエイダが耳を押さえて屈み込む。だがもうこれ以上の衝撃は堪えられない。取り返しがつかなくなる前に、なんとかしなければ。

 片膝(かたひざ)を着いた体勢でマイヤーがライフルに特殊な弾を装填する。その銃弾は炸裂弾。発射速度こそ通常弾に比べ遅いが、破壊力は段違いの銃弾だ。この弾は対象に直撃すると、その肉体を内部から粉々に破裂させる爆発力がある。常軌を逸したヤツのスピードの前では避けられる可能性が高いため使用を控えていたが、あの体の状態で鯱顔のヤツが動けるとは考えられない。マイヤーはそう判断したからこそ、奥の手とも言える銃弾をライフルに込めたのだ。

 マイヤーは鯱顔のヤツの頭部に狙いを定める。いつ付いたものかは分からないが、彼はヤツの(ひたい)に少し深そうな傷があるのに気付いたのだ。硬い背中とは違い、そこならば確実に銃弾を捻じ込められる。そして確実にヤツを死留められるはずだ。そう考えたマイヤーは、強烈な超音波が放出される中で指先に全神経を集中させた。ただそこで彼の視界をラウラが(さえぎ)る。

「な、何をする。邪魔をするな」

「ごめんなさい。でもここは任せて。あなた達にこれ以上迷惑は掛けられない」

「し、しかし」

「あの写真。あの【坂道】の写真はあなた達が持っているのでしょう。あれは【大いなる祝福】に繋がる道。でもそれは破滅にもなり兼ねない道。あの道を歩む時は、たとえ相手が女神でも、惑わされないで――」

「待て!」

 マイヤーが強く制止させるも、その声を無視してラウラは鯱顔のヤツに向かい全力で駆け出した。猛烈なスピードで走るラウラと鯱顔のヤツとの間合いが一気に詰まる。だがあと数歩のところでラウラは思い切りジャンプした。

「ビギャーン!」

 鯱顔のヤツは即座に上を向いて超音波を放出させる。だがそんなヤツを飛び越え、ラウラは地面に着地した。ただその瞬間、凄まじい轟音が発生する。そして同時にラウラの姿が消えた。

「!?」

 鯱顔のヤツはおろか、マイヤーやアニェージもラウラの姿を見失った。だがそんな彼らの足元から、尋常でない地響きが伝わって来る。

「ドドドドドッ!」

 何だ、この振動は。いや、まさか地中を進んでいるのか! アニェージがそう気付くのと同時だった。

「ドガンッ!」

 鯱顔のヤツの足元の土を突き破り、ラウラが猛烈に飛び出した。そして彼女はそのまま鯱顔のヤツの首を掴み上げ、上空に高くに飛び上がった。

 ラウラは残された左腕一本で鯱顔のヤツの首を締め上げている。それも渾身の力を込めて。するとその締め上げに音を上げたのか、超音波が鳴りを潜めた。

 上空に飛び上がったラウラの体が頂点に達する。かるく10メートルは超えた高さだ。するとそこでラウラは体勢を立て直し、鯱顔のヤツの首を脇で抱え上げる。このまま地面にヤツの頭部を激突させ、息の根を止めるつもりなのだ。

 ラウラはガッチリと掴んだ鯱顔のヤツの首を離さない。ただその目には赤く染まった涙が溢れていた。彼女は覚悟を決めたのだ。だがその時、鯱顔のヤツが弱々しく(なげ)いたのだった。

「最後まで迷惑かけてごめんね、ラウラ。結局私って、みんなを混乱させるだけだったよね。本当にバカだよ、私――」

 それはとても哀しい声だった。しかしその表情は、どこか微笑んでいる様にも見えた。

「うわぁぁぁああ!」

 ラウラが大声で叫ぶ。まるでソーニャの声を打ち消すかの様に。そして次の瞬間、激しい衝撃を発生させてラウラは大地に着地した。

「ドドンッ」

 砂埃(すなぼこり)が舞う。またそれと一緒に赤い雨が降り注いだ。パラパラと小さな石まで降って来る。ラウラが地面に着地した衝撃がいかに凄いものだったか。そう思うアニェージ達は無意識に身震いしながら、砂埃の中心に視線を向けていた。

「ドサッ」

 アニェージ達は背後に何かが落ちた音を聞く。空から何かが落ちて来たのだろうか。だが振り返り、それを見た彼女達は言葉を失った。

「!」

 そこにはなんと、根元から千切れたラウラの左腕が落ちていた。そしてその腕には、切断された鯱顔のヤツの首が握られていた。

「そ、そんな……」

 エイダが愕然とした声を漏らす。少し離れた場所で屈むティニに至っては、奥歯が噛み合わぬほどに震えが止まらなくなっていた。ただそんな彼女達の視線の先で、鯱顔のヤツの頭部はみるみると縮んでいく。そして程なくすると、それは元のソーニャの顔に戻っていた。

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