#86 龍天に昇る位相の扉(五)
天体観測所の正面ゲートからアニェージとマイヤー小隊が姿を現す。そして彼女達は地ベタに座り込んでいるヘルムホルツに駆け寄った。
「おいおい、どういう事なんだヘルムホルツ。リュザックの奴、消えちまったぞ?」
アニェージが呆然としながら聞き尋ねる。するとそれに対してヘルムホルツは少し興奮気味に告げたのだった。
「リュザックさんがさっきまでいたあの場所が、暗号で示されていた場所だったんだ! ラッキーだったよ。まさか時間ぴったりにリュザックさんが、あの三角形のベンチの中に入ってたなんて思いもしなかったからね。でもそうじゃなかったら間に合っていなかった」
「ならリュザックは今頃」
「あぁ。リュザックさんはきっと今頃【六月の論文】の隠し場所に瞬間移動しているはずだよ」
そう告げたヘルムホルツは嬉しさを噛みしめながら拳を強く握りしめた。暗号の解読に成功した事と、負傷した足にムチを打って駆け付けた甲斐があった。それらに彼は心から嬉しさを感じていたのだ。だが状況は決して改善されてはいない。冷静さが持ち前のマイヤーが、ソーニャと猪顔のヤツを見ながら皆に警戒を促した。
「ついさっきまで感じられた殺気がまったく感じられない。落ち着きを取り戻したのか、どうやらヤツには攻撃を仕掛ける意志はないようだ。でも油断するなよ。ソーニャとヤツから絶対に目を離すな」
マイヤーの指示にエイダとティニが頷く。そして彼女達はゆっくりとソーニャとヤツの近くに歩み寄った。
ソーニャは猪顔のヤツの顔を優しく抱きしめている。深い愛情を注ぎ込む様に。そしてその柔和な温かさにヤツの方も身を委ねている様子だった。醜い化け物の表情に変わりはないが、それでもヤツからは穏やかさが感じられる。するとそれを見たアニェージが、大きく息を吐き出しながらヘルムホルツに聞き尋ねた。
「少し落ち着いているみたいだから教えてくれ。暗号が示したものは何だったんだよ?」
「あぁ、そうだな。ちょっと複雑なんだけど、掻い摘んで説明するよ。まず初めにリュザックさんがバーコードを読み取った、トイレのガラス窓についてからね」
ヘルムホルツはそう言って説明を始めた。アニェージとマイヤーは周囲を警戒しながらもヘルムホルツの話しに耳を傾ける。ただしその説明の内容は、聊か理解に苦しむものであった。
『懐かしの部屋に掲げられた太陽に隠れし光を見つけよ。それは内角180度以上の三次元宇宙の内心を示すものなり』
これは三月の論文に記されていた暗号文である。そしてこの暗号文の前半部分より、ガルヴァーニはスラムにあったグラム博士の研究室で【r=12.90】というパスワードを見つけ出した。
しかし後半部分の解読には成功出来ず、論文の捜索は暗礁に乗り上げていた。ただそんな中でリュザックは、偶然にも暗号に隠された【バーコード】を見つけ出してしまう。でもそこにヘルムホルツは目を付けたのだ。
リュザックがバーコードを見つけ出したのはトイレにある窓ガラスだった。そしてその窓ガラスこそが、暗号文の後半部分が告げていた場所なのである。先に答えは分かってしまった。残るは暗号が示した意味だけだ。暗号文をどう読み取れば答えに行き着けるのか。ヘルムホルツはまずそれを考えた。
ヘリに置き去りにされていた天体観測所の電子パンフレット。誰が何の為にそれをヘリに持ち込んでいたのかは分からない。しかしそのパンフレットには極めて重要な情報が記されていた。
そこには天体観測所にある全ての三角形の寸法が記載されていたのだ。なぜそんなモノがわざわざ情報としてアップされていたのか。その真意のほどは分からない。しかし暗号にあった『内角180度以上の三次元宇宙の内心』というのは、三角形の中心を意味すると判断して間違いないだろう。ヘルムホルツはそう確信した。なぜなら彼は博士の口癖を思い出していたからだ。
『すべては有限なる無限の三角形にして成立するものなり』
その言葉の意味はまったく分からない。でもグラム博士が三角形に只ならぬこだわりを持っていたのは事実なのだろう。何より三角形の内角の和は180度なのである。彼はそう考えたからこそ、観測所に存在する三角形に注目したのだ。
そして【r=12.90】というパスワード。これは単なるパスワードとしての文字列なのだろうか。そう疑問を覚えたヘルムホルツは、リュザックがバーコードを見つけたトイレにあった三角形の窓の寸法を確かめる。するとそこで彼は決定的な証拠を発見した。
トイレに設置されていた三角形の窓は全部で5つ。ただその中に一つだけ、注目すべき寸法の三角形があったのだ。
それは三辺の寸法がそれぞれ【36.12、58.05、68.37】センチメートルの三角形であった。そしてなんと、その三角形の三辺に内接する円の半径は【r=12.90センチメートル】だったのである。
一般的にr=12.90と記されている場合、その寸法は【mm】として考えるのが普通だ。そしてその常識にヘルムホルツは最初捕らわれていた。でも彼はパンフレットにある寸法が【cm】表記であるのに気が付き、そこからトイレの窓に隠された謎を解き明かしたのだ。
やっぱり博士はこだわりのある三角形に秘密を隠していた。だったら新しく示された暗号も、同じように三角形に隠されているんじゃないのか?
そう思ったヘルムホルツは柔軟に考え方を変化させる。そして初めに【場所】についての暗号を解き明かした。
『その場所は、原始的かつ全てを構築するものの中心である』
これも観測所の何処かにある三角形に違いない。でも三角形はパンフレットを見る限り【500個】も存在する。その中のどれを指し示しているのだろうか。
だがトイレの窓の暗号を読み解いた彼にしてみれば、新しい暗号が示す場所について、それを解き明かすのに時間は掛からなかった。なぜなら暗号が秘める謎のパターンが似ていたからだ。
暗号文にある『全てを構築するものの中心』は、三角形の中心を意味するので間違いはないはず。ならばどの三角形を指し示しているのか。それは『原始的』という部分に秘められている事になる。
原始的な三角形――。ヘルムホルツは頭をフル回転させながらパンフレットの寸法を確認し直す。するとそこで彼はまた同じ引っ掛けに気が付いた。
なんと観測所の外の広場にあるベンチやモニュメントなどの三角形の寸法は【m】で表記されていたのだ。そしてその中の一つの三角形にヘルムホルツは釘付けになる。その三角形の三辺の寸法は、【8、15、17】メートルの【直角三角形】であった。
8、15、17メートルの寸法で形を成す直角三角形。そう、それは三辺の寸法が互いに【素】な自然数の値となる三角形だったのだ。そしてそれはグラム博士流に言い換えるならば、原始的な三角形と呼ぶに相応しいものである。いや、この三角形以外には考えられない。ヘルムホルツはそう確信し、次の【時間】の暗号に視点を向けた。
『その時間は、古きに生まれ今に形を変え生きるものが示す』
これも三角形が関係しているだろうか? ヘルムホルツは素朴に思った。なぜなら今も昔も三角形は三角形なのだ。時代が変われど三角形という形状が変化するはずがない。
何か見落としは無いのか。ヘルムホルツは懸命に頭を悩ませる。ただその時、ヘリの調査を続けるブロイが何気ななく言った言葉に彼はハッとした。
「もう少しで12時50分か――」
ブロイは時計で確認した、その時点での時間を口にした。するとそこでヘルムホルツは勘を働かせる。時間と言う概念は遥か太古より存在するが、でもその表し方は時代によって変化して来たんじゃないのか――と。
古いもので言ったら日時計や水時計。近代においてもアナログやデジタルなど、時間の表示方法は多数存在する。そして今、自分が手にする情報の中で、時間として表示できるモノは何だ。
ここでヘルムホルツの頭の中に、ずっと気掛かりだった疑問が浮かび上がる。パスワードの【r=12.90】。これはただのパスワードなんかじゃない。これは【時間】も意味しているんじゃないのか!
寸法として考えれば、これは半径12.90を意味する事になる。でもこれを時間として考えるならばどうなるのか。
そのままの数字として見た場合、12時90分なんていう、おかしな時間になってしまう。もちろんそんな時間は存在しない。でもそこで彼は考えた。形を変えて生きるもの。そうだ、一般的に時間は12進法で示してはいるが、現代社会においてのデジタル環境下では、時間は60進法で示すのが常識なんだ。なら12.90を60進法で表したら何時になる。その答えは【12時54分】だ!
暗号に示された時間と場所はこれで間違いない。ヘルムホルツは絶対的な確信を感じる。そして最後に示された暗号文、
『そこで太陽と月を結合させよ。さすれば封印せし彼の地への扉は開く』
封印せし彼の地とは、六月の論文が隠されている場所のはず。そして扉が開くというのは、恐らく【瞬間移動】を意味するんじゃないのか。
太陽はとは文字通り、天に輝く太陽のはず。残るは月。でもこれは簡単だ。瞬間移動をするのに必要なのは【銀の玉】である。その銀の玉のエネルギーの源。それは満月の光の中に含まれた【熱紋】なんだ。
12時54分に、観測所の正面広場にある直角三角形のベンチの中心で、照りつける太陽の日差しの中、満月のエネルギーによって作られた銀の玉を使う。そうすれば六月の論文が隠された場所に移動出来るはずだ。
ヘルムホルツはシュレーディンガーから何かあった時の為にと渡されていた銀の玉を取り出して決意した。こうなったら遣り遂げるしかない。そして彼は負傷した足に構うことなく全力で駆けた。するとそこで偶然にも、リュザックがその場に居合わせてくれた。
ギリギリのところで全てが上手く行った。ヘルムホルツはホッと胸を撫で下ろすとともに、今まで感じたことのない充実感を味わっていた。
一気に話し終えたヘルムホルツはホッと柔らかい息を吐き出す。ただそんな満足感に浸るヘルムホルツに対し、アニェージとマイヤーは表情を険しくしていた。彼女達は話の内容が難し過ぎて上手く飲み込めなかったのだ。ただ結果として暗号が解けたのは事実であり、アニェージは考えをこれからに向けた。
「まぁ、なんにしてもご苦労だったな、ヘルムホルツ。よく分かんないけど、大したモンだよお前は。でもさ、リュザックが移動した場所っていうのは分かっているのか?」
アニェージは少し心配そうな表情で聞き尋ねる。ただそれについて、ヘルムホルツも同じように表情を曇らせながら言った。
「そればかりは俺にも分からないよ。俺が見つけたのは瞬間移動する為の【入口】なんだ。【出口】が何処かなんて全然分からないし、調べようも無い」
「なら移動したリュザックさんから連絡が来るのを待つしかないのか」
マイヤーが冷静な口調で呟く。しかしその額からは一粒の汗が流れ落ちていた。やはりこの状況に彼も緊張しているのだろう。
リュザックは何処に移動したのか。彼は無事なのか。アニェージ達はリュザックの身を案じて心を竦ませる。ただその時、足早にマイヤーに近寄ったティニが控えめに声を掛けた。
「ソーニャとヤツが会話を始めました。こっちに来て下さい」
そう告げたティニはマイヤーの腕をギュッと掴んで歩み出す。彼女は初めて目にするヤツの姿に恐怖を感じているのだ。でもそんな化け物をソーニャは優しく抱きしめながら話しを始めた。その状況にティニは混乱しているのだろう。
マイヤーはその戸惑いを素早く察してティニに同行する。部下の命を守るのは隊長として当然の仕事なのだ。それにソーニャとヤツの話しも気になる。マイヤーは不測の事態に備えるよう愛用のライフルを構えつつ、ティニと共にソーニャとヤツに近づいた。
「こうしちゃいられない。俺も行くぞ――うっ」
座り込んでいたヘルムホルツが立ち上がろうとするも、足に感じた激痛で呻き声を漏らす。この場に駆け付ける為に相当な無理をしたのだろう。彼の足は限界を迎えていた。するとそんな彼を気遣いながらアニェージが言う。
「無理はするなヘルムホルツ。ここは私達に任せてくれ。今は落ち着いているけど、安全になった保証はない。もし急にヤツが暴れ出したら、その足じゃ逃げられないだろ。お前はここにいるか、もし自力で動けるなら逆に少し離れていてくれ」
アニェージはそう言って微笑んでみせた。彼女はヘルムホルツに無用な責任を感じさせたくなかったのだ。そしてその気持ちをヘルムホルツはしっかりと受け止める。ヘタに足手まといにならないためにもと、彼はアニェージの指示を了承し頷いた。
アニェージは振り返るなりマイヤー達を追う。ただそこで彼女の耳に小さく囁く声が聞こえた。それは間違いなくソーニャとヤツの会話だ。そしてその話し声に聞き耳を立てたアニェージは、息を殺してソーニャとヤツに近づいた。
悍ましい化け物の表情した猪顔のヤツ。しかしその眼差しからは、とても化け物とは思えない優しさと温かさが滲み出ている。ただその口から発せられた言葉には、耐え難い苦痛と悲しみが込められていた。
「痛い思いをさせてごめんソーニャ。あなたの声を聞くまで、私は自分が何をしてたのか、まったく自覚が無かったの。本当にごめん」
「良いんだよ、私は全然気にしてないから。それより私はこうしてラウラと話しが出来て嬉しいの。だからお願い。もう謝らないで」
「ううん、謝らせて。だってもう、私には時間がないから。湧き上がる怒りに飲み込まれて、いつまでも意識を保っていられない。だから最後の頼み。あなたに渡した写真を始末して、お願い」
猪顔のヤツは悶絶した表情を浮かべる。一瞬でも気を抜けば、また自我を失ってしまう。それが分かっているからこそ、ヤツは意識を保とうと必死に堪えているのだ。ただそんなヤツに向かい、ソーニャは涙を浮かべながら首を横に振った。
「そんなの嫌だよ、私を一人にしないで。ラウラがいなくなったら私だって」
「お願い。良い子だから私の話しを聞いて。あの写真は危険な物なの!」
ヤツはソーニャの肩を軽く揺すりながら強く願う。もう自分の命が長くないと察している状況での願いだ。そこには絶対に譲れない気持ちが込められているのだろう。
「あの写真をあなたに渡してしまったのは私のミスだった。取り返しのつかない事をしてしまった。後悔しても仕切れない。でもあの写真さえ処分出来れば、最悪の結果だけは避けられる。これはあなたの為でもあるし、私の為でもあるの。だからお願い。あの写真を始末して」
ヤツは心からそう強く願いソーニャを見つめる。するとその強い想いに観念したのか、ソーニャは小さく首を縦に振った。
「わ、分かったよ。けど、あなたはこれからどうするの。私を一人にしないよね?」
今度はソーニャがヤツに向かい問い掛ける。その表情は見るからに弱々しく、心許無いものであった。だがしかし、ヤツは唇を噛みしめながら首を横に振る。ヤツにはソーニャの心が今にも折れそうなのは分かっていたが、それでも彼女の願いを拒絶するしかなかった。
「私はもう長くない。もう誰にも迷惑は掛けられない。誰も傷つけたくない。だから私はあなたと一緒にはいられない」
「だったらこの人達にお願いしようよ。この人達ならきっと私とラウラを守ってくれる。信頼出来る人達なんだよ」
ソーニャは涙ながらに言った。不可解な行動を連続させながらも、はやり彼女はアニェージ達を信頼していたのだ。だがその言葉に対してラウラは再び首を横に振る。彼女はアニェージ達に一瞬視線を向けたものの、すぐに目を伏せてソーニャに返した。
「無理だよ。もう遅いんだ」
「ラウラ!」
「分かってる。この人達が信頼出来る人達なんだって事はよく分かってるよ。でもダメなんだ」
「どうして」
「私はいつも自分自身に甘えていた。そしてソーニャ、あなたにも――。私はあなたを利用したしまった。ルーゼニア教は私にとって、唯一縋れる希望だったから。だから私は総主教様の命令に背けなかった」
「ラ、ラウラ?」
「あなたに渡した写真。あれはもともとルーゼニア教会が大切に保管していた物なの。でもそれが王立協会の秘密結社によって奪われてしまった。危機感を強めた教団は、すぐに写真を取り戻そうとして私に命令したのよ。私はアスリートを研究対象としてるあいつらにとって、都合のいい存在だったから」
ラウラは苦々しい過去を振り返りながら続ける。そこには彼女の内に秘めた葛藤が見え隠れしていた。
「私はルーゼニア教の指示通り、あえてアカデメイアに拉致された。そして私は先にアカデメイアに潜入していた教団の内通者から情報を入手し、どうにか写真を手に入れられた。でもそこからが上手く行かなかった。信じていたはずのルーゼニア教にさえ、裏切られてしまったから――。でも考えてみれば、社会の暗闇なんてそんなものなのよね。だって表面上では国王の王立協会と総主教様のルーゼニア教は、円満な関係を築いているように見えるじゃない。でも所詮は互いに裏の顔を持つ組織同士。反発したり、裏切ったり、自らの利益の為ならなんでもする奴らなんだ。私一人の解放を絶対条件に協力したのに、あいつは裏切った」
ラウラは憤りを露わにして奥歯を噛みしめる。信頼して止まなかった教団に裏切られた事実を嘆いているのだ。絶対に許せない。ラウラは込み上がる怒りに震えながらも、話しの続きを語った。
「私に写真を奪い返すよう命令を下したのは、ルーゼニア教の【エルステッド】っていう男。でもそいつはアカデメイアに属した【顔に傷のある男】を私に差し向けた。写真さえ奪い返せれば、あいつらにとって私は無用な存在だったのよ。だから私はあいつらを出し抜く為にあなたを利用して逃亡を企てたの」
「そんなの嘘よ。だってラウラは命を懸けて私を守ってくれたじゃない。私を利用したなんて信じられないよ」
「私一人じゃ傷の男にはまるで歯が立たない。でも二人で逃げれば必ず傷の男に隙が生まれる。私はそう考えてあなたを利用したのよ。きっと傷の男はあなたの様なただの小娘はいつでも捕らえられるって考えるはずだからね。私はその慢心を狙い、私が生き延びられるように行動を起こしたのよ」
「そ、そんなの信じられないよ。だって結果的にあの施設から逃げられたのは私の方じゃない」
ソーニャは大粒の涙を流しながらラウラに問う。彼女にはラウラの話しがどうしても信じられなかったのだ。
ルーゼニア教の命令を受けてアカデメイアにワザと拉致されたのは恐らく本当なのだろう。そして写真を取り返すところまでの経緯も本当なのだろう。しかし自分だけが助かる為に私を利用したなんて考えられない。だってラウラはボロボロに傷つきながら私を守ってくれたじゃないか。ヤツなんていう化け物になってまでして。
そう思うソーニャはラウラの目をじっと見つめて離さない。彼女はラウラが誰よりも優しい心の持ち主だと信じていたからこそ、ラウラを必要とし、ラウラと共にいられる事を願ったのだ。
するとそんなソーニャの真っ直ぐな視線に屈服したのか、ラウラは肩を落としながら溜息を吐く。そして彼女はソーニャの瞳を見つめ返すと、心の奥にしまっていた本心を語り出した。
「あの施設には多くのアスリートが拉致されていた。目的も分からず、ただ辛く苦しいトレーニングが毎日続く。正直、気が狂いそうだったよ。良い記録を出す為に、大会で栄光を掴み取る為に皆は頑張っていたはずなのに、あそこにはそれが存在しなかったからね。完全なるモルモット状態さ。許せるはずがない。絶対に許してはいけない。私の心の中は怒りで爆発しそうになっていたよ。なんの罪も無いアスリート達に苦痛を与え続けるアカデメイアに対して恨みが増幅していったんだ。でもね、それでも私は写真を取り返す目的を優先していたの。それだけルーゼニア教を信じていたのよね。でもそんな私にとって、何よりも大切なはずの信仰に反発せざるを得ない状況が発生してしまった。私の前に、拉致された【あなた】が現れたから」
ラウラは震えた声で話す。その瞳からは、いつしか涙が流れ落ちていた。
「信じられなかった。信じたくなかった。どうしてあなたがここに居るのか受け止められず、私は酷く混乱したの。そしていつの間にか私の心の中は、教団に命令された目的を果たす義務よりも、あなたを救いたいという願望に変わっていたの。ううん、自分の命が削ぎ落されていく環境の中で、救いの手を伸ばしてくれない言葉だけの神よりも、心を穏やかにさせてくれるあなたの存在を尊く感じたのよ。だから私はあなただけは助けたいと思った。あなただけは生き延びてほしいと……」
「どうして、どうしてあなたは私の為なんかに自分を犠牲にするの? 私なんて、足手まといにしかなっていないのに」
「あなたは覚えていないのかも知れないけど、私達は三年前の夏に、一度出会っていたの。あの夏は異常に暑くてね、トレーニング中に何度も弱音を吐き出してしまった。特に辛かったのが炎天下のランニング。私は常に最後尾を走っていた。もともと私は走るのが得意じゃなかったし、その頃は体力的にも未熟だったからね。単に体格に恵まれていたってだけで始めたレスリングだったから、余計に走るのが辛かったんだと思うの。そして私は脱水症状で倒れてしまった。一人グラウンドに取り残されていた私の周囲に人はなく、あの時は本当に死ぬんじゃないかって思ったよ。でもそんな時、あなたが所属する水泳チームが偶然にもグラウンドに通り掛かったの」
『済みません。誰か水をくれませんか』
「私は残る力をありったけ振り絞って叫んだ。迫る命の危機に夢中で声を張り上げたの。そしてその声は確実に水泳チームの皆に伝わったはずだった。でも人っていうのは冷たい生き物なのよね。水泳チームの皆は、私の顔を見はしたものの、そのまま立ち去ってしまったのよ。誰も私に救いの手を伸ばしてはくれなかった――。でもそれはある意味当然だったのかも知れない。だって私の顔は、ただでさえ女性に見えないほど醜くかったし、ましてレスリングのトレーニングでさらに傷つき腫上がり、とても人の、女性の顔とは思えなかったから。そんな私に所持する水筒を手渡すのを皆は躊躇った。それはあの人達の視線が物語っていた」
ラウラは悲痛な気持ちをグッと押さえつける。甦った当時の記憶が、心と体をきつく締め上げているのだ。だが彼女は話し続けた。そこには彼女が感じた痛いほどの失望が色濃く浮かび上がっている。それでもラウラは優しい眼差しでソーニャを見つめながら告げた。
「何の為に私は耐え難い苦痛を我慢し努力しているのか。他人に蔑まれながらトレーニングを続ける価値がどこにあるっていうのか。私は世界を恨まずにはいられなかったよ。好きでこんな顔で生まれて来たわけじゃない。でもせめて努力する姿勢だけは認めてほしかった。それなのに私に向けられるのは辛い仕打ちだけだった。いっその事、このまま死んでしまいたい。本気でそう思ったんだ。でもその時だった」
『飲んで』
「そこには一人の少女が水筒を差し出していた。私を助ける為に駆け付けてくれた人がいたんだ。でもあまりに予想外だったから、私は返事が出来なかった。するとその少女は私に膝枕して水を飲ませようとしてくれたんだ」
『ゆっくり飲んで』
『い、いいの?』
『なに言ってるの、当たり前じゃない。このままじゃ大変なことになるよ』
「私は礼を告げるよりも先に必死で水を飲んだ。無我夢中で水を口の中に押し込んだんだ。死んでもいいと思っていたはずなのに、やっぱり体は正直に生きたいと願っていたんだろうね。そしてその水は今まで口にしてきた水の中で、一番美味しく感じられた水だったんだ」
『どう、生き返った?』
「少女は微笑みながらそう言った。それはとても素敵な笑顔だった。でも私が胸を打たれたのは、その後に取った少女の思い掛けない行動についてだったんだ。だって少女は私が水筒を返すと、その水筒の水を自分も飲んだんだよ。醜い顔の私が口をつけたその水筒に、自分の口をつけてね。そして少女は言ったんだ」
『おいしいね』
「輝きに満ちた笑顔だった。私にしてみれば本物の女神だったよ。だってこんなの初めてだったから。病原菌がうつるからと、根も葉もない噂で皆から虐げられていた私にとって、その行為は信じられないものだった。だからその優しさに私の胸は締め付けられ痛かったんだ」
『大丈夫? 胸が痛むの?』
『違う。大丈夫、心配は要らない』
「胸が痛かったのは本当だよ。でもね、それは嬉しかったからなんだ。表面上の優しさなんかじゃない。心から私を心配してくれている。見ず知らずの、それも醜い顔をした私に対して。私は気恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。それを誤魔化そうと必死になって強がってみせた。でもそんな私にあなたは柔らかく微笑んでくれたんだよね」
『良かった。本当に良かったよ』
「あなたが掛けてくれた言葉にどれだけ救われた事か。あなたの微笑みにどれだけ癒された事か。あの時感じた私の胸の高鳴りは、脱水症状からくるものなんかじゃない。あなたの無垢な愛情に感動したからこそ、私の鼓動はひどく高鳴っていたのよ。そしてその後水筒の中身が全て終わるまで、代わる代わる二人で水を飲んだ。あの日に飲んだ水の味は決して忘れない」
「ラウラ」
「どんな時でも醜い容姿から常に避けられ、苛められていた私に、あなたは優しく、温かく、何の見返りも期待せずに手を差し伸べてくれた。本当にうれしかった。心から感謝した。でもそんなあなたがアカデメイアに拉致されて来た。すぐに気付いたよ。あなただって。でもその時は言い出せなかった。もっと早く伝えるべきだった。――意気地なしだった私を許してほしいとは言わない。だけど、これだけは言わせて」
「何を?」
ソーニャは瞳を赤く染め上げながらも僅かに首を傾げる。するとそんな彼女に向かい、ラウラは微笑みながら告げた。
「ありがとう、ソーニャ。あなたには感謝の気持ちしかない」
そこにはとても深い謝意の気持ちが込められていた。アスリートとして成功しながらも、その容姿から他者に虐げられていたラウラにとって、ソーニャが分け与えた愛情は、何物にも代えがたい大切な生きる励みとなっていたのだ。そしてその想いをラウラは正直にソーニャへ伝えた。彼女は心からソーニャの存在を大切に感じていたから。するとそんなラウラの顔を抱きしめながらソーニャは言う。彼女は涙を流しながらラウラに想いを返したのだった。
「そんなのやめてよラウラ。あなたに会えたから、あなたが助けてくれたから、私は拉致されて心細い中でも頑張って生きていられたの。私の方こそ感謝してる。本当にありがとう、ラウラ」
二人は涙を流しながらお互いを抱きしめ合った。共に生きる喜びを確かめ合う様に大声で泣いた。そしてそんな二人をアニェージ達は優しく見守っていた。
姿は化け物と化してはいるが、やはりヤツも人だったんだ。アニェージは改めてそう思い、ヤツへの認識を変化させる。そして彼女はこうも思った。もう誰にもこんな悲しい思いをさせたくはない。絶対にあってはならない事なんだと。でもその為には秘密結社であるアカデメイアを叩き潰す必要がある。そう考えたアニェージは、グッと拳を握りしめた。――と、その時だった。
「感動的な話だったな。こんな俺でも胸が熱くなって涙が溢れそうだよ」
その声を耳にしたアニェージは即座に振り返る。だがそこで彼女の背中はたちまち粟立つ。なんとそこに姿を現したのは、顔に傷のあるアカデメイアの男だった。