#82 龍天に昇る位相の扉(一)
猛烈な風が一気にコックピット内へ流れ込む。そしてその風圧を真面に受けたブロイ達は、座席に強く押しつけられた。
フルフェイス型の酸素マスクを装着しているため、視界の確保と呼吸だけはどうにか続けられる。しかし強烈な風圧によって強く座席に押し付けられた体はまったく動かせない。でもだからと言って、このままの状態で手を拱くだけならば、それは死を意味してしまう。
そんな焦るブロイ達をしり目に、隼顔のヤツが無理やりコックピットの窓を押し広げる。ヤツの巨体ではそのまま窓から侵入出来ない。だからヤツは力ずくで強硬な姿勢に出たのだ。だがヤツの怪力を持ってしても、キャッツ号の窓は少ししか拡張しなかった。高速輸送機だけに、極めて頑丈な作りになっているのだろう。
ただそこでヤツは迅速にも行動を変化させる。窓を抉じ開けられないと判断したヤツは、パイロットであるブロイを確実に殺そうと考えたのだ。
「ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ!」
姦しい警報ブザーが高鳴り続ける。もう地上はすぐそこだ。このままでは自分も墜落に巻き込まれ兼ねない。そう考えた隼顔のヤツは鋭い爪を振り上げる。そしてブロイに向けその爪を突き立てた。ヤツはパイロットを殺し、自分だけは素早く離脱しようと考えたのだ。――がその時、
「ダン! ダン! ダン!」
小銃の発砲音が響く。なんとリュザックが風圧に負けじと座席から身を乗り出し、ヤツに向けて小銃を連射したのだ。そしてその弾丸はヤツの胸と腹に命中した。
「ギャッ!」
隼顔のヤツが悲鳴を上げる。さすがのヤツも至近距離からの発砲に耐えられなかったのだろう。ヤツは堪らずに後退した。
「でかしたリュザック! こうなったら化けモンごと森に突っ込むぞ!」
ブロイがそう叫んだと同時にキャッツ号は森林公園の森に突入する。
「バキバキバキバキッ!」
森の木を薙ぎ倒す衝撃がキャッツ号に波及する。そして次の瞬間にはその数倍の衝撃がキャッツ号に走った。
「ドガガガーン!」
機体の腹が大地と激しく擦れる。すると猛烈な摩擦により機体が熱を帯びたのだろう。機体を包むほどの炎が一気に舞い上がった。
「グオォォッ!」
唸り声を上げたヤツが再びコックピットに迫る。ヤツはこの状況においてまでキャッツ号の乗員を殺すつもりなのだ。だがそんなヤツに向け、リュザックとマイヤーが一斉に銃の引き金を引いた。
「ダン! バーン! ダン! ダン! バーン!」
リュザックの小銃とマイヤーのライフルが立て続けに火花を散らす。そしてさらにリュザックは、止めを刺す為の指示をマイヤーに飛ばした。
「マイヤー、ヤツの右肩を撃ち抜け!」
その指示にマイヤーは狙いを定める。激しい振動が伝わり姿勢がうまく取れない。それでも彼は躊躇うことなく引き金を絞った。
「バーン!」
「ギィャアー!」
マイヤーが放った弾丸は見事ヤツの右肩に命中する。そして絶叫したヤツの体は僅かに吹き飛び、その影響でキャッツ号の鼻先にぶら下がる形になった。
「バキバキバキバキッ、――ドンッ!」
ついにキャッツ号が止まる。どうにか不時着に成功したのだ。そしてアニェージは素早く割れたコックピットの窓から身を乗り出す。すると彼女は嬉しそうに呟いたのだった。
「ザマァないね。これならヤツは動けない」
不時着したキャッツ号は太い松の木に正面衝突する格好で止まっていた。そしてその松の木とキャッツ号にヤツの体は挟まれていたのだ。
「全員ケガはないか! グズグズしてる暇はないぞ。すぐに脱出だ!」
機体の後部が燃え上がっている。それにこの燃え方では燃料に引火するのも時間の問題だ。それではせっかくの不時着が意味を成さない。
マイヤーがコックピットハッチを開くと、エイダとティニが足を負傷しているヘルムホルツを補助しながら脱出する。それに続いてアニェージとリュザックが続いた。
「機体が燃えるのが早い。早く距離を取らないと爆発に巻き込まれるぞ!」
アニェージが叫ぶ。だがそこで大きな爆発が発生し、機体後部のハッチが激しく吹き飛んだ。
「ボガァーン!」
アニェージらは地面にひれ伏し衝撃から身を守った。しかし機体の燃料が爆発したには規模が小さい気がする。アニェージがそう思った時、キャッツ号の格納庫より一台の四輪駆動車が勢いよく飛び出して来た。
「ブ、ブロイか!」
「早く乗れ! 起爆スイッチを押した、1分後に爆発するぞ!」
アニェージ達はブロイが運転する車に飛び乗る。ブロイはそれを確認すると、ギアを入れ直しアクセルを全開に踏み込んだ。
猛スピードで森の中を車が駆け抜ける。そして彼らの乗った車が森を抜けた瞬間、騒然たる轟音を響かせてEPRキャッツ号は大爆発した。
バイクに跨ったジュールがステップを擦らせながら交差点を右折する。目指す光世院鳴鳳堂はもうすぐそこだ。
待っていろアメリア、すぐに行くぞ! ジュールは心の中でそう叫ぶも、逸る気持ちを必死で抑えながらバイクを操った。ただそこで彼は黒塗りの車とすれ違いハッとする。
(何だ、この感覚は? 妙な感じがする――)
ジュールは腑に落ちない感覚に背中を粟立てる。でも彼はその違和感の正体にすぐ気が付いた。
雨が止んでいる。気が競っていたために気が付かなかったのだろう。だが路面は完全に乾いているし、先程すれ違った黒い車もまったく濡れていなかった。
やはり一時の大雨は、獣神同士の争いによって発生した嵐の影響だったんだ。でもようやくその影響下から脱出した。ならばもう心配する理由は無い。アメリアのいる場所に辿り着くだけだ。
ジュールは修復作業が開始されたばかりの金鳳花五重塔を横目にしながらバイクで走る。相変わらず道路は混み合っているが、今のジュールには関係ない。彼は車と車の間を猛スピードで走り抜け前進した。そしてついにジュールは光世院鳴鳳堂に到着する。
「キキキキキー!」
急停車したバイクのタイヤから焼け焦げる臭いが立ち込める。だがそんな事に一々構ってなどいられない。ジュールはエンジンが掛かったままのバイクから飛び降り、光世院鳴鳳堂の入り口に向かった。――とその時、
「ドーン!」
少し離れたところから大きな爆発音が響いて来た。そしてその音を耳にしたジュールは、遠くの空を見ながら独り言を呟いた。
「スゲェー音だったな。森林公園の方で何かが爆発でもしたのか?」
ジュールは少し嫌な気持ちになる。獣神達が戦っているのはずっと東の方だ。その証拠に東の空は今でも真っ黒な雲で覆われている。でもさっきの爆発音はそれよりもずっと近くだ。何か良くない事が起きているのか。
ジュールの心に不安が過ぎる。するとその時、突然鐘の音が鳴り響いた。
「ゴーン、ゴーン……」
ドキッとしたジュールは胸を抑える。しかしそれが正午を告げる鐘の音だと気付き、彼は胸を撫で下ろした。
「なんだよ、こんな時に。勘弁してくれよな」
ジュールはそう内心で悪態つく。それでも彼はすぐに気持ちを切り替え、光世院鳴鳳堂の入り口に向かおうとした。ただそこで彼は興奮気味に立ち話しをしている二人のマダムの姿に気を留める。ジュールはマダム達の会話の中から聞こえた【とある名前】に反応したのだ。そして彼は反射的にそのマダム達に声を掛けた。
「あ、あの、すみません。【リーゼ姫】がどうかしたんですか?」
ジュールはマダム達の口からリーゼ姫の名前が発せられた事に気付いたのだ。それにやたらと高いマダム達のテンションはどう見ても普通じゃない。何かがあったのは間違いないはず。そう思ったジュールはマダム達に詰め寄った。
ただそんな彼に対して二人のマダムは怪訝な表情を浮かべる。見ず知らずの軍人が突然話し掛けて来たのだ。二人が訝しく思うのは当然だろう。それにジュールのびしょ濡れの姿の方が、どう考えても不自然に感じられる。マダム達が不審さを露わにするのは仕方がない。ただずぶ濡れのジュールに何かを察したのか、片方のマダムが目を丸くしながら尋ねたのだった。
「あなた、どちらの方から御出でなさったの? なんだか雲行きが怪しいし、それに急に蒸し暑くなってきた気がしますわ。まだお昼ですのに、夕立に遭ったら最悪ですわね」
「そ、そうですね。俺は東の方から来たけど、向こうは大雨でしたよ」
「あら、やっぱりそうなのね。ならそろそろ御暇致しましょうか。今日は傘を持って来ていませんからね」
そう言ったマダムはもう一人のマダムに同意を促す。そしてマダム達は御機嫌ようとばかりにジュールに会釈をした。
「ちょ、ちょっと待って。ここで何かあったんじゃないんですか? 少しで良いんで教えて下さい」
ジュールは必死で追い縋る。すると迷惑そうな表情を浮かべつつも、マダムは丁寧に説明してくれた。よほどジュールの顔が切羽詰まったものに感じられたのだろう。
「つい先程まで、リーゼ姫が参拝なされていたのよ。とってもお綺麗な方で、お目に掛かれて私達運が良かったわ。リーゼ姫は滅多にアダムズ城からお出になりませんからね」
「ならもうリーゼ姫はいないんですか?」
「ええ、そうよ。あなたももう少し早く来ていれば、姫様にお目に掛かれましたのにね。それに今日は凄かったのよ。姫様だけじゃなくて、ラザフォード総主教様までお姿を御見せになられたの。まるで奇跡の様だったわ」
マダムの一人はそう感慨深そうに告げる。恐らく彼女はルーゼニア教の熱心な信者なのだろう。ラザフォード総主教は、一般の信者からすれば神の様な存在なのだ。そして女神の生まれ変わりの様に美しいリーゼ姫にまで会う事が出来た。彼女はその全てに感動しているのだ。ただそこでもう一人のマダムが少し眉をひそめて小さく言ったのだった。
「でも何やら総主教様、怒っていらした様に見えましたわね。大きな声もお出しになっていましたし。記念にお写真を撮らせて頂こうかと思いましたけど、あまりの怖さに足が竦んでしましました。もしかしてこのお天気の悪化も、総教主様のお怒りのせいかしら?」
「そうですわね。ラザフォード総主教様があんなにもお気持ちを荒立てるなんて、普段なら想像も出来ませんからね。お天気も悪くなるはずですわ。でもどうしてお怒りになっていたのでしょう。気になりますわね」
「やっぱり姫様とご一緒に去られたお嬢様に原因があるんじゃないのかしら? 何やら姫様と総主教様で奪い合いをしていた様にも見えましたし。ただあの方もお綺麗でしたわね。ルーゼニア教の修道服が良くお似合いでしたから」
「ん? もしかして、リーゼ姫の他にもう一人女性がいたんですか!」
マダム達の話しを聞いたジュールが口を挟む。ただそんな彼の顔を見てマダムが言った。
「そう言えばあなた、どこかでお会いしたことあります? なんとなく見覚えがある様な気がするのだけれど」
「い、いや、他人の空似でしょう。よくある顔ですから、お気にせず」
「そう…かしらね?」
ジュールは手で口を隠しながら横を向く。そうだ、自分の顔はもうニュースで大々的に報道されているんだった。もし警察に通報でもされたら面倒な事になる。
ジュールはバツが悪そうにしながらマダム達に背を向ける。だがそんな彼の顔をマダムは覗き込もうとした。意外にも彼女は勘の働く性質だったのだろう。ただその時、猛烈な熱風が吹き抜ける。まるで肌が焼け焦げるかの様な熱さに、ジュールやマダム達の肌はビリビリとカサついた。
「危ない!」
ジュールは体ごと飛ばされそうになるマダム二人の体を抱きかかえる。不意な突風にマダム達は体勢を崩したのだ。でもジュールの咄嗟のサポートのお蔭でマダム達は飛ばされずに済んだ。
辺り一面に埃が舞い上がっている。かなり強い風が吹き抜けた証拠だ。ただそんな中でジュールはギョッと目を丸くする。なんと抱きかかえたマダムに顔をじっと見つめられていたのだ。
しまった。俺が指名手配犯だってバレちまったか――。ジュールは愕然とした気持ちになる。だがそこでマダムが告げた一言は、あまりにも予想外な一言だった。
「や、やだわ。こんなにも強く男性に抱きしめられるなんて、何十年ぶりかしら……」
マダムは顔を赤らめながら呟いた。きっとマダムは若くて逞しいジュールにガッチリと抱きしめられ、気恥ずかしさと嬉しさを感じているのだろう。
ジュールはマダム達の体をそっと放し一歩後退する。いらぬ誤解を受けたくなかったのだ。ただそこでもう一人のマダムが血相を変えて声を上げたのだった。
「やだ、何なのよこの髪の毛。チリチリになってるじゃない。さっきの熱い風のせいかしら。信じられないわ!」
「あら本当だわ。私の髪も酷い事になってる。それにお肌もガサガサじゃない。こんなんじゃ恥ずかしくて外出なんて出来ないじゃないの。ごめんなさい奥様、私帰りますわ」
「そうね。私も急いで帰りますわ。こんな格好で人前に出るなんて、見っとも無いだけですからね」
マダム達はそう言い合うと、ジュールになど目もくれずに急ぎ足でその場を後にして行った。自身の見てくれの悪さに狼狽えたマダム達の頭の中にはもう、ジュールの存在など無くなっているのだろう。
マダム達はその姿からは想像出来ないほどの早さで歩み去って行く。そしてジュールはその後ろ姿を見つめながら胸を撫で下ろしていた。
変なところで時間を喰ってしまった。でもマダム達から話しを聞けたのは大きいぞ。ジュールはそう思いながら気を引き締める。
つい先程までここにはリーゼ姫がいた。そしてもう一人女性がいたと言う。マダム達が嘘を言っていたとは到底思えない。ならその女性はきっとアメリアのはずだ。
でもそこでジュールはマダム達とのやり取りを思い返す。自分は指名手配犯として広く顔が知れ渡っているんだと。それに完全武装した今の恰好では、普通にしていても目立ってしまう。ただでさえ光世院鳴鳳堂には人が多い。こうしている今だって、誰に気付かれるか分からないんだ。
このまま光世院鳴鳳堂の正面入り口に向かうのは危険かも知れない。それに光世院鳴鳳堂はかなり広い屋敷だ。たとえ入り込めたとしても、その中からアメリアを探すのは大変だろう。ジュールはそう思うと、次の行動に出る為の一歩を躊躇した。
(アメリアはすぐそこにいるんだ。こんな所で油を売ってる暇はないぞ。やっぱりここは思い切って正面から突破しよう。大きく叫べば、アメリアの方から俺に駆け寄って来るかも知れないもんな)
ジュールはそう自分に言い聞かせて覚悟を決める。やはりここまで来て、二の足を踏んでなんかいられない。彼はそう考え決意したのだ。ただその時、彼が背にする光世院鳴鳳堂の高い塀に設置された扉が開く。それは関係者の通用口として使用されている扉なのだろう。そしてその扉を見たジュールは苦笑いを浮かべて考えを改めた。
「俺はバカか。こんだけ広い屋敷なんだ。いくらでも出入り口なんてあるだろうに。それをわざわざ危険を冒して正面から乗り込もうなんて、焦っている証拠だな」
ジュールはバンバンと自分を顔を叩く。冷静さを取り戻そうとしたのだ。そして彼は開放された扉に近づく。あわよくば、その扉から光世院鳴鳳堂内に侵入しようとしたのだ。だがしかし、ジュールは足を止めた。
開かれた扉より、大柄な神父が姿を現す。いや、司祭服を着ているから神父なのだと分かるが、もしそれが普段着だったとしたなら、とても神父だなんて思わないだろう。
眼光は極めて鋭く、またその全身からは鬼気迫る威圧感が発せられている。そしてそんな神父と目が合い、ジュールは驚きを露わにしたのだった。
「し、神父のおっさん。北の教会の神父のおっさんじゃないか!」
「――ジュールか。やはり来たか」
神父は小さく呟く。でもそれはまるでジュールが訪れるのを知っていたかの様な口ぶりだった。だがそこで神父は体勢を崩す。何があったのかは分からないが、明らかに神父の足元は覚束ないものだった。
ジュールは倒れそうになった神父の体を咄嗟に抱き止める。ずっしりとした神父の体はやはり重い。それでもジュールは神父を気遣いながら力強く支えた。
「おいおい。神父のおっさん大丈夫か?」
「し、心配いらない。私は大丈夫だ」
それが強がりなのだと言う事は容易に想像出来た。ただジュールはあえて神父の体から手を離す。彼は神父の自尊心を優先したのだ。
神父はゆっくりと光世院鳴鳳堂の壁にもたれ掛る。そして神父は壁に押しつけた背中を滑らせ、そのまま尻餅をついた。
「本当に大丈夫なのかよ? 体調が悪いなら助けを呼んで来るけど」
「急いでアダムズ城に向かえ。アメリアは今しがたここを出たばかりだ。リーゼ姫の機転で一時的に難を逃れはしたが、しかし彼女に危険が迫っているのは間違いない。急ぐんだ、手遅れになる前に」
「ちょ、な、何を言ってるんだよ、おっさん。ちゃんと説明してくれ!」
「いいから急げ。黒い車だ。説明はいずれしてやる。今はアメリアを助けるんだ!」
神父が放つ気迫はハンパではない。事態はよほどの緊急を要しているのだ。危機迫る感覚にジュールは身を強張らせる。だが彼はここに到着する間際にすれ違った黒塗りの車を思い出して言った。
「あの黒い車にアメリアが乗っていたのか。なら妙な感じがしたのはそれが原因だったのか。――クソっ。あと少しだっていうのに、何回行き違えばいいんだよ!」
ジュールはそう吐き捨てると神父に背を向けて走り出す。そして彼はエンジンを掛けっ放しにして乗り捨てていたバイクのところへ向かった。
座り込む北の教会の神父は、そんな振り返りもせずに走り去るジュールの後姿に視線を向ける。そして神父は小さく独り言を呟いたのだった。
「やはり女神の巫裔の守護者は月読の胤裔か。古の神話に紡がれし壊れた日々が、確実に動き出している。それにしても、あの様な若者達に宿命を背負わせなければいけないとはな。女神よ、どうやらあなたは私が思う以上に意地の悪いお方であるしい。はっきり申し上げて、私はあなたの事を軽蔑していますよ。でも、それでも彼らなら、きっと――」
そう呟くと、神父は肩を落とした。少し離れた場所から急発進するバイクの排気音が聞こえて来る。ジュールがアクセルを全開にして出発したのだろう。ただその音を耳にした神父の腹部からは、大量の血が流れ出ていた。そしてその流血は、埃まみれの道路をじんわりと赤く染めていった。
ブロイの運転する車に乗ったアニェージ達は、天体観測所に到着していた。そして車から降りたアニェージは、雲の隙間から差し込む強烈な日差しに目を細めながら言った。
「だいぶ静かになったな。天気も回復してるし、獣神達の戦いが終わったって事なのか」
天地を揺るがすほどの衝突を繰り返していた銀の鷲と黒き獅子の姿はどこにも見当たらない。しかし戦いの末、獣神達が死んだとも考えられない。ならば争いの衝撃で、お互いを遥か彼方へ吹き飛ばしたのだろうか。ただ少なくとも、今は獣神達から感じていた殺気や凄味はまったく感じられない。
「おいマイヤー。本当にトーマス王子達がここにおるだがか? まさか皆揃って、プラネタリューム見とるなんちゅうオチはないがよな」
リュザックが面倒臭そうに吐き捨てる。しかしその口ぶりとは真逆に、彼の表情は真剣なものだった。彼の優れた洞察力が危険信号を嗅ぎ取っているのだろう。
普段は見せないリュザックの真面目な顔つきが皆に緊迫した感覚を伝えさせる。ただその中でマイヤーは、いつもと変わらない平素な口調で告げたのだった。
「ヘリに打ち込んだGPS弾の信号がここで止まっている。ヘリがここに着陸しているのは間違いないでしょう」
「ならまずはヘリを見つけるきね。GPSの信号は観測所のどのあたりで止まってるがよ?」
「西側ですね。直線距離にして三百メートルくらいのところです」
マイヤーが具体的な場所を告げた事で緊張感がさらに高まる。するとアニェージが用心を促す指示を全員に飛ばした。
「観測所は秘密結社のアカデメイアと何かしらの繋がりがある場所だ。どこに敵が潜んでいるか分からない。絶対に気を抜くなよ。現に不気味なほど観測所は静かだ。いくら獣神達が頭上で戦っていたからって、人影がまったく見えないのはおかし過ぎる。すでに私達は戦闘状況の真っただ中にいると思え。いいな!」
アニェージの激に皆は頷く。そして彼女達は細心の注意を払いながらGPS信号の発信位置を目指した。ただそれは意外な程あっけなく目の前に姿を現す。観測所西側にある一面芝生のスペースにヘリは着陸していた。
アニェージ達は周囲に気を配りながらヘリに近づく。だが案の定、ヘリ周辺にも人影はない。トーマス王子とソーニャは何処に行ってしまったのだろうか。
「ブロイはヘリを調べてくれ。何か手掛かりが残っているかも知れない。それとヘルムホルツ。お前もここに残ってブロイを手伝ってくれ。その足で観測所の捜索をするのは無理だろうからね。あとの皆は手分けして観測所を捜索してみよう。時間は惜しいけど、くれぐれも注意は怠るなよ。何が起きるか分からないからな」
アニェージが口早に指示を飛ばす。そして彼女は率先して観測所に向かおうとした。ただそこでリュザックが彼女を呼び止める。彼は決まりの悪い表情を浮かべながら制服のポケットを探っていた。
「なんだよリュザック。グズグズしてる暇はないぞ。気になる事があるなら早く言え!」
少し苛立ったアニェージがリュザックに詰め寄る。常に目に見えぬ重圧を感じ続けているだけに、彼女は神経を尖らせているのだ。だがそんなアニェージに向かい、リュザックは頭を掻きながらバツが悪そうに言ったのだった。
「すっかり忘れてたけんど、一つ思い出したんだきよ。この前ここに来た時、便所で変なデータを読み込んだんだで。それが気になって仕方ないがかよ」
「はぁ? こんな時に意味分からん話しはするなよ。無駄に混乱するだけだろ」
「そりゃそうなんだろうけんど、妙に気になるき。ちょっと見てくれんがか?」
リュザックはそう言うと、腹を立てているアニェージに半ば無理やりに携帯端末を差し向けた。
『パスワードを入力せよ r= 』
リュザックの携帯端末に映し出されたその文字を見たアニェージが表情を激変させる。そして彼女はその端末を奪い獲ると、リュザックに向かって怒声を浴びせた。
「バカかお前は! なんでもっと早く言わない。私とジュールはこれを探していたんだぞ!」
「言おうとしたきよ。でも聞く耳持たなかったのはそっちじゃろ!」
アニェージに負けじとリュザックが反発する。だが今はそんな内輪揉めをしている状況ではない。いがみ合う二人を諫める為に、ヘルムホルツが強く仲裁を口にした。
「何を言い争ってるのか知らないけど冷静になれよ。俺達が置かれてる状況が分からない二人じゃないだろ!」
ヘルムホルツの制止にアニェージとリュザックは口ごもる。それでも収まりのつかない二人の気持ちを察してか、ヘルムホルツは丁寧に言葉を選んで聞き尋ねた。
「簡単に二人が揉めてる理由を説明してくれないか? この状況でアニェージがそこまで怒るんだから、大切な事なんだろ。それにリュザックさんだって、今がどれだけ差し迫った状況なのか分かっているはず。それでも話しを切り出したんだ。重要な話しなのは何となく分かるよ」
ヘルムホルツは二人に対して落ち着いた口調で聞いた。するとそんな彼の姿勢に気持ちを静めさせたのだろう。アニェージが手短に説明したのだった。
アニェージの話しを聞いたヘルムホルツが、携帯端末の液晶画面を見ながら尋ねる。
「そうか。これが【6月の論文】の在り処に繋がるキーワードなのか。リュザックさんはそれを観測所のトイレで偶然見つけた。それで良いんですね」
「そうだで。間違いないがよ。でもあん時は皆急いでたきね。それに俺はガルヴァーニってじいさんの話しを中途半端にしか聞いてなかったがよ。だからこれがアニェージちゃん達の探してたモンだって知らなかったんだきね」
リュザックは少しだけ申し訳なさそうに告げる。いくら状況が目まぐるしく変化していたとしても、今まで報告出来なかったのは自分のミスだ。彼はそう感じているのだろう。ただそんな彼の気持ちをあえてスルーし、マイヤーがヘルムホルツに言った。
「とりあえずパスワードを入力してみたらどうだ? もしかしたら王子達の失踪とも関連が有るかも知れないだろ」
その言葉にヘルムホルツは強く頷く。そして彼はアニェージに向かって告げた。
「3月の論文に記されていた暗号から、ガルヴァーニさんが見つけ出したパスワード。それが【r=12.90】だったんだよな、アニェージ」
「あぁ、そうだよ。それにお前、ジュールからノートを渡されてたんじゃないのか? 確かそれにメモしてあったはずだぞ」
ヘルムホルツは背負っていた小ぶりのリュックより急いでノートを取り出す。そしてその中から彼は書き綴られたパスワードを確かめた。
「間違いなさそうだな。じゃぁパスワードを入力するぞ。出し惜しみしても意味ないからな」
ヘルムホルツは端末の液晶画面に指先を伸ばす。そして慣れた手つきでパスワードを打ち込んだ。
『パスワードを入力せよ r=12.90』
エンターキーを押す時になって、さすがのヘルムホルツも僅かに指先を震えさせた。それでも彼は躊躇せず入力を実行する。すると小さな電子音を鳴らした端末は、新たな暗号を画面に表示させたのだった。
『その【時間】は古きに生まれ、今に形を変え生きるものが示す』
『その【場所】は原始的かつ、全てを構築するものの中心である』
『その時間と場所で【太陽】と【月】を結合させよ。さすれば封印せし彼の地への扉は開放される』
ヘルムホルツが新たな暗号を読み上げる。するとリュザックが当然とばかりに詰問した。
「この暗号を解読すれば、6月の論文ってやつが見つかるんだでな。それでヘルムホルツ、答えは何じゃき? 説明してくれ」
「はぁ? 冗談は止して下さいよ、リュザックさん。俺にもさっぱり分かりませんよ」
「お前に分からんと、誰が分かるきね。足が動かない分、頭を使うがよ!」
「随分と簡単に言ってくれるじゃないですか! もしかして俺の事を探偵か何かかと勘違いしていませんか? 俺は科学者なんだ。こんな訳の分からない謎解きが直ぐに解けるわけないだろ!」
「まぁまぁ二人とも、落ち着いてくれ。ここで揉めたって何も解決しないだろ」
マイヤーが苛立った二人の間に入って諍いを止める。緊迫した状況であるだけに、誰でもちょっとしたキッカケですぐに頭に血が昇ってしまうのだろう。しかしそれでは先が思い遣られるだけだ。そう思ったマイヤーは、自身の直感を頼りにして二人に言ったのだった。
「暗号の内容は俺にもさっぱり分からないけど、たぶん王子達の失踪とは関係ないんじゃないのかな? だからここは分担で作業しよう。ヘルムホルツはここでブロイさんの手伝いをしながら暗号の解読を行う。そしてリュザックさんは俺達と一緒に観測所の中を調べる。どうかな?」
マイヤーが片方の目だけで二人を順に見つめる。するとヘルムホルツとリュザックはお互いに頭を掻きながら言ったのだった。
「足が痛くて皆のお荷物になってるって思ってたから、それをリュザックさんに指摘されて、ついカッとなっちまった。済まなかったよ」
「いや、俺の方こそ悪かったきね。無意識じゃけんど、自分のミスを誤魔化したかったんだと思うき。許してくれだで」
そう告げたヘルムホルツとリュザックはお互いに苦笑いを浮かべる。自分の不甲斐なさに気恥ずかしさを覚えているのだろう。ただそんな彼らに対し、アニェージが溜息を吐き出しながら言った。
「もういいか、そろそろ行くぞ。全員気合を入れ直せ。それぞれの仕事に集中しろ!」
アニェージが激を飛ばして皆を鼓舞する。そしてその言葉に全員が表情を引き締めた。
全身にひしひしと伝わる緊迫感と焦燥感は高まるばかりだ。でもそれに飲み込まれてしまっては何も始まらない。ここにいる誰しもがそう思ったからこそ、それぞれに担う仕事に集中力を高めていく。
「行くぞ!」
アニェージが号令を飛ばすと同時に観測所に向かって駆け出す。それに続くのはリュザックとマイヤー、それにエイダとティニ。そしてブロイはヘリの内部の捜査に取り掛かり、ヘルムホルツは暗号の解読を開始した。