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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
81/109

#80 朝比奈の宗旨(中)

「おい、しっかりしろ【マリーヌ】! 頼む、気をしっかり持つんだ!」

 夜空には美しく輝いた月が浮き上がっている。しかしそんな優しげな雰囲気とは対照的に、悲痛な苦しみにあえぐ声がスラムにあるアパートの一室より漏れ出していた。

 ベッドには一人の女性が(うずくま)っている。そして彼女の下半身からは、(おびただ)しい量の血が流れ出ていた。

 そんな居た堪れない姿の女性を二人の男性が懸命に支えている。すると女性はその内の一人の男性に(すが)るよう、目一杯の力を込めてその腕を握りしめた。

「ご、ごめんなさい。わ、私はもう、ダメみたい……」

「なにを弱気な事を言ってるんだマリーヌ。大丈夫、きっと大丈夫だよ。初めての出産だから混乱しているだけさ。すぐに元気な赤ん坊が生まれて来るよ。そうすれば君だって、この苦痛から解放されるんだ。だから頑張るんだ!」

「……いいのよ。私、分かってるから。この子は普通の子じゃないんだって。そして私の命の終わりについても――。本当は分かってたの。あの勾玉の光に包まれた瞬間にね。だからもう、そんなに悲しい顔しないで」

「バ、バカな事いうなよ。そんなの迷信に過ぎないんだ。現実をもっと良く見てくれマリーヌ。君は今、こうして生きているんだよ。そしてこれからも」

「ありがとう。でもそんなあなたの優しさだけで私は十分よ。私はあなたと出会い、そしてあなたを愛せただけで幸せだった。だからもう良いの」

 そう言って女性は微笑んで見せた。額からは大量の汗が流れ落ちている。尋常でない痛みに(さいな)まれている状態なのは疑い様がない。でもマリーは男性に向かい精一杯の想いを伝えようとしたのだ。しかしそんな彼女の想いを受け入れられない男性は、もう一人の男性に強く声を荒げたのだった。

「おいハーシェル、どうにかならないのか! このままじゃマリーヌは……。助けてくれ。おい、ハーシェル。頼むから助けてくれよ!」

「――す、済まない。僕の力ではどうする事も出来ないんだ」

「なら諦めろって言うのか! そんなの出来るわけないだろっ!」

「ちょっとどいて!」

 大きめな桶にお湯を溜めた女性が駆け寄って来る。そして女性はマリーヌに向かい、強い眼差しで言ったのだった。

「もう少しだけ我慢してマリーヌ。たとえあなたを救えなくても、この子だけは助けたい。だから」

「あ、ありがとうカロライン。あなたには最後まで助けられてばかりね。あなたと友達になれた事も、私にとってはこの上ない幸せだったよ。本当にありがとう」

「私だってそうよマリーヌ。あなたと親友になれて、本当に嬉しかった。でもお願いね。お別れはまだよ。生まれて来るこの子の顔を見るまで、絶対に諦めちゃダメ」

 カロラインは必死でマリーヌを駆り立てる。そしてマリーヌは最後の命を削りながら、力の限り気張った。そしてそれから一時間後、ついに新しい命が息を吹く。大きな鳴き声を上げて新たに誕生したその赤子は、元気の良い男の子であった。


 ぬるま湯で絞ったタオルでカロラインは生まれたばかりの赤子を素早く吹き上げる。そして彼女は真っ青な表情で横たわるマリーヌにその赤子を抱かせた。

「良かった、無事に生まれて来てくれて。本当に良かった。ありがとう、本当にありがとね」

 マリーヌは優しい涙を流して赤子を抱きしめる。するとそれまで大泣きしていた赤子が急に静まった。そしてなんと微笑を浮かべたのだ。

 その赤子の表情にマリーヌは驚く。いや、彼女ばかりではなく、そこにいた全員が驚いたのだ。

 生まれたばかりの赤子が微笑むなんて有り得ない。でも確かに赤子は微笑んだ様にみえた。まるで母に包まれた愛情に至福の悦びを感じたかの様に。

「僕達は奇跡を見ているのか。信じられない」

 ハーシェルが小さく(つぶや)く。ただそれを聞いたマリーヌは、少しだけ首を横に振って言ったのだった。

「奇跡なんかじゃないよ。だって私、この子が生まれて来てくれて、本当に嬉しいから。そしてこの子もそう感じてるんだと思う。生まれて来れて良かったってね」

 マリーヌは赤子の頬を優しく撫でながらそう言った。ただそこで彼女はハッと思い出す。そして付き沿う男性に向かい、温かい眼差しを向けながら告げたのだった。

「この子の名前なんだけど。男の子だし、やっぱりあなたが言ってた【ジュール】が良いかな。優しい響きの中にも、(たくま)しさを感じるでしょ。この子にぴったりな気がする。ね、どう?」

「うん。そうだね。すごく似合ってると思うよ。君に似て、強情そうな顔つきをしているしね」

「あら、それを言うならあなたにだってそっくりよ。絶対に曲げない強い信念を持った顔をしている。でも、その奥には温かい優しさも感じられるから、きっと大きくなったらあなたみたいになるはずよ」

「ならその成長を一緒に見届けよう。俺とずっと一緒に。ね、マリーヌ」

 そう言って男性はマリーの手を握りしめた。溢れ出した涙に構うことなく。そしてそれにマリーヌは手を握り返して応えた。これ以上ないほどの優しい微笑を浮かべて。

「ありがとう。あなたにはこの言葉しか伝えられない。本当に私は幸せだったから。だからお願い、私がいなくなっても悲しまないで。お願いだから――ううっ」

「マリーヌ! おい、しっかりしろマリーヌ!」

 急激に苦しみ出したマリーヌに男性は懸命に呼び掛ける。ただそんな男性に向かい、彼女は最後に優しくこう告げたのだった。

「どうか、どうかジュールをお願い。この子に生まれて来た罪はないの。だからお願い、温かく見守ってあげて」

「あぁ、分かったよマリーヌ。大丈夫、心配するな。ジュールは元気な子に育つよ」

 そう言って男性は精一杯の笑顔を見せた。それが強がった笑顔であったのは誰の目から見ても明らかだっただろう。でもそんな笑顔を見れてマリーヌはホッと胸を撫で下ろした。

「あ、あなたは、まだ笑える。それが人である証しよ。そして父である証し。だからどうか、自分を否定するのだけはやめてね。私は信じてるから。あなたと、そしてジュールの幸せな未来を……。あなたを愛せて本当に良かった。ありがとう、ラヴォアジエ」



 頭上を凄まじい風が突き抜けて行く。少しでも頭を持ち上げれば、自分の体は竜巻に吹き飛ばされる木の葉の様に舞い散ってしまうだろう。

 そう感じながらジュールは目を覚ました。でもそこで彼は感じる。自分の頬に流れた涙の感触を。

 あれは夢だったのか。でもやけにリアルな夢だった。それにマリーヌという女性が告げた最後の名前。もしかして俺の父親って――。

 ジュールは少し戸惑いながら意識を呼び起こしていく。ただその時、彼に向かって厳しく言い付ける声が聞こえた。

「顔を上げるな青年。死にたくなければ、しっかりと背中に掴まっていろ!」

 その言葉にジュールはハッとする。そうだ、俺は今、獣神である銀の鷲の背中に乗っているんだ。そしてアメリアがいる【ルヴェリエ】に向かい上空を飛んで移動しているのだと。

 ジュールは銀の鷲の背に生えた羽根をきつく握る。恐らくこのスピードから想像するに、高速輸送機であるEPRキャッツ号よりもその移動速度は数段速いだろう。そんな状態で生身を(さら)しているのだ。銀の鷲が忠告するように、顔を上げたら一溜りもないはずだ。

 そう感じたジュールの背中にどっと冷たい汗が流れる。でもそれと同時に彼は別の変化に気付き驚きを見せた。

 思いのほか目覚めはスッキリしている。いや、それよりもあれほど溜まっていた疲労感がまったく感じられない。

 体の至る個所に刻まれていたはずの生傷も全て塞がっている。ううん、それどころか体の奥からは湧き上がる力を感じる程なのだ。けど何でこんなにも体が軽く感じられるのだろうか。

 ジュールは自らの体の回復に思い悩む。しかしその答えを告げたのは、意外にも銀の鷲であった。

「驚いているみたいだな青年よ。それは我ら燦貴神が持つ回復の力【泣沢女架観(なきさわめのかみ)】によるものだ。お前は直接この体に触れていたお蔭で、神の力によって疲弊した体を回復させたんだよ。それに幸いにもぐっすりと眠っていたから、余計にこの力を抵抗なく受け入れたんだろうな。この短時間でそこまで回復するとは、手を貸したこちらも少々驚いているぞ」

 ジュールからはその表情は(うかが)え知れないが、銀の鷲はまるで口元を緩めているかの様である。神の力を誇示し、得意げになっているのだろうか。ただそんな銀の鷲が次にジュールに告げた言葉は、極度なまでに慎重なものであった。

「もうすぐ首都ルヴェリエの圏内に入る。ここから先は何が起きるか分からない。覚悟だけは決めておけ」

 その忠告を聞いたジュールは身震いする。でもそれ以上に彼はアメリア奪還への決意を強く固めたのだった。



 尋常でない気配を察したジュールとアニェージが滝の上を見上げた時、そこに姿を現したのは銀の鷲であるラヴォアジエだった。

 その美しい姿を改めて見たジュールは息を飲む。そして同じくアニェージも(まばた)きするのを忘れて、ラヴォアジエの姿に見入っていた。

 ただそこでジュールはラヴォアジエに対して身構えながら問い掛ける。どうしてこの場所にお前がいるのかと。ここにいる目的は何なのだと。

 本物の獣神を目の前にした彼の拳は震えるばかりだ。敵意の様なものは一切感じなかったが、それでも相手は人の想像を超えた存在なのである。その姿を前にして(ひる)まない方がむしろおかしいというもの。それでもジュールは懸命に気持ちを奮い立たせ、ラヴォアジエに向かい声を上げた。

 するとそれに対してラヴォアジエは明確に返答する。ただその口調はいささか急かしたものであった。

「北の教会は銀の鷲である私を祀る教会。表向きはルーゼニア教直轄の教会であるが、その成り立ちは実のところ意味が大きく異なるのだ。そして私がここにいる最大の目的。それはこの滝の上に生えた桃の木を外敵から守る為なんだよ」

「桃の木を守るだと? それに何の意味があるって言うんだよ!」

「それを説明するのは構わないが、しかしそれには時間を要するぞ。でも青年、君には今その時間がないはずだ。そしてこの私にも」

「ど、どういう事だよ。分かり易く説明しろよ!」

「君の目的は何だ。私がここにいる理由を知る事か? 違うだろ。君にとって今もっとも重要なのは、大切な女性を守る事なんじゃないのか」

「ど、どうしてそれを……。いや、あんた。もしかしてアメリアの事を知っているのか!」

 ジュールは驚きを噛み殺してラヴォアジエの赤い瞳を直視する。するとそんな彼に向かい、銀の鷲は小さく頷いてから言葉を続けた。

「昨夜、それも陽が落ちてからさほど時間が経っていない頃。北の教会に不穏な気配を(ともな)った者が数人やって来た。案の定激しい戦闘になったのだが、その折りに一人の女性が忽然と消えたのだ。君はその女性を探しているんじゃないのか?」

「き、消えただって!? どういう事なんだよ。アメリアは瞬間移動したっていうのか!」

「確かにあの女性が消えたのは瞬間移動だ。しかしその手法は君が知っているものとは少し違うものの様だった」

「どういう事です、もう少し分かり易く教えて下さい!」

 今度はアニェージが聞き尋ねる。本物の獣神を前にしながらも物怖じしないジュールの姿に、彼女の方も冷静さを取り戻したのだ。するとそんなアニェージに向かい、ラヴォアジエの口からあの人物の名前が告げられたのだった。

「君達が知るところの瞬間移動は【グラム博士】が発明した銀の玉によるものだろう。しかしあの女性が移動した手法はそれとは明らかに異なるんだ。恐らく根本となる原理は同じなのだろうが、しかしどうして彼らはそれを使えたのか?」

「ちょっと待ってくれよ。見た目に依らずあんたが瞬間移動に詳しいのは分かったけど、俺が知りたいのはそれじゃないんだ。アメリアが何処に移動したのか。今あいつが何処にいるのか。知ってるならそれを俺達に教えてくれないか!」

 ジュールは焦燥感を露わに声を荒げる。するとそんな彼に銀の鷲は赤い目を光らせながら告げたのだった。

「彼女が今いるのは首都ルヴェリエ。五重塔倒壊による影響で、ルーゼニア教が仮設で本部としている【光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどう】に彼女はいる」

「ル、ルヴェリエだって!?」

「あまりにも予想外な出来事だった為に、彼女がどこに移動したのか、それを調べるのに時間が掛かってしまった。でも今のところ、彼女に危害は加えられていない様子だ。場所が場所だけに、表立ってアカデメイアは手出し出来ないのだろう」

「クソっ。それにしたって遠過ぎる。今が無事だからって、この先どうなるか分からないんだ。おいアニェージ! ブロイさんに連絡してくれっ」

 ジュールは苛立(いらだ)ちながらアニェージに指示する。ただそれに対してアニェージは言われるまでもないと端末を取り出した。彼女もまた、尋常でない危機感を募らせたのだ。だがそこで銀の鷲がジュールに向かって口走る。それはラヴォアジエによる一つの提案だった。

「君がルヴェリエに用事があるのと同じく、私もすぐにルヴェリエに向かって飛び立たねばならぬ大切な用事がある。だからどうだ、私の背に乗り共に行くか?」

 ラヴォアジエはじっとジュールを見つめた。燃え上がる様な真っ赤な瞳。でも何だろうか。その奥には哀しみの様な切ない想いが(うかが)える。そしてそれを感じ取ったジュールは、迷うことなく返答したのだった。

「よし行こう。すぐに出発だ!」

「おい、ちょっと待てジュール。だったら私も一緒に」

 アニェージが追い縋るようジュールの後に続く。だがそんな彼女の前にラヴォアジエは大きな翼を広げて遮った。

「済まないが、それは承諾出来ない。こう見えても、私の背中に乗せられるのは一人だけなんでね。お嬢さんはご遠慮頂くよ」

「そ、そんな」

「そういうわけだからアニェージ。あんたはブロイさん達と合流して後からルヴェリエに来てくれ。俺はこいつと一足先に出発するからさ!」

 ジャンプ一番でラヴォアジエに飛び乗ったジュールはアニェージに向かいそう言う。すると次の瞬間、浮き上がる様にして銀の鷲の巨体が宙に舞い上がった。

「おいジュール。勝手な暴走はするなよっ!」

 アニェージは懸命に声を張り上げる。ただその時にはもう、ジュールを乗せたラヴォアジエの姿は遥か南の空へ飛び去っていた。



 首都ルヴェリエ圏内に侵入したラヴォアジエはスピードを徐々に緩めて行く。目的地が近い証拠なのだろう。そして向かい来る風圧が弱まったのを感じたジュールは、少し身を乗り出して地上に視線を向けた。

「まさかこんな形でルヴェリエに戻って来るとは思わなかったな」

 上空から見下ろした首都の姿はいつもと変わらない。しかし彼は直感として底知れぬ怖さを感じ、緊張感を高めた。

 張り詰めた空気が体を押し潰しそうだ。そんな緊迫感がひしひしと伝わって来る。ただそんな状況において、彼はふと銀の鷲に質問した。

「ここから先、無駄なお喋りをしてる暇がないのは分かってる。でも一つ教えてくれ。どうしてあんたはアメリアが北の教会で襲われたのを知ってたんだよ?」

 ジュールは銀の鷲の羽根を強く握りながら問い掛けた。するとそれに対し、ラヴォアジエは平素に告げたのだった。

「あの滝でも言ったように、北の教会は銀の鷲である私を祀る教会なんだ。そして逆に表現するならば、私にとっても北の教会は重要な場所でもある。だから私はあの教会で起きた事は何でも分かるんだよ。それにな、裏組織の者どもを打ち払ったのは私だからね。当事者として私は関わっていたんだよ」

「ん? どういう意味だよ。あんた、現場にいたのか?」

「厳密には遅れて参上したと言うべきかな。でも神父の妻の体を借りて、敵と戦ったのは紛れも無く私だ。まぁ、神父の妻には少し申し訳なく感じているがね」

「相変わらず意味分かんねぇな。もう少し簡単に教えてくれよ」

「それほど重要な話しではないからお前は気にしなくてもいい。ただ私は他人の体に意識を乗り移らせ操れるんだよ。それだけさ」

「おいおい。それって十分重要な話しなんじゃないのか。――うわっ!」

 突如ラヴォアジエが旋回を始める。猛烈な遠心力にジュールは歯を喰いしばって必死に耐えるしかない。だたその状況で彼の耳に飛び込んで来たのは、驚愕したラヴォアジエの(つぶや)きと(とどろ)く雷鳴であった。

「まさか、私の接近を予知し待ち伏せしていたのか! でもどうして、彼らの最終的な目的は相反するはずなのに――」

「おい、あんた。急にどうしたんだよ!」

「黙って掴まっていろ!」

「バッギャーン!」

 上空を旋回するラヴォアジエに向かい、巨大な落雷が浴びせられる。ただラヴォアジエはその落雷をギリギリのところで(かわ)すと、今度は一気に上昇を始めた。

 ジュールは懸命にラヴォアジエの背中に掴まり続ける。だがそこで彼が目にしたのは、真っ黒な雲が広がった空の光景だった。

 一体どういう事だ。さっきまでは太陽の光がいっぱいに降りそそぐ晴天だったはずなのに、それが今では嵐の様な天候になっている。

 突如として荒れだした天候にジュールは酷く気を揉んだ。しかし彼はその原因をすぐに理解する。吹き荒れる大風と横殴りの雨に打たれながらも、彼が視線を向けた先。そこにはなんと、もう一体の獣神である【黒き獅子】の姿があった。


 警戒心を最高にまで引き上げたラヴォアジエの緊迫感がジュールの体に伝わって来る。直接背中に乗っているだけに、銀の鷲の早まった鼓動が彼の全身に波及しているのだろう。ただそんな状態にも(かかわ)らず、ラヴォアジエは黒き獅子の目前に身構え、ホバリングするよう空中でその動きを制止させた。

 対峙する二体の獣神。その間には拮抗する殺気がぶつかり合っている。そしてその尋常でない感覚にジュールは身悶えするしかなかった。とても人の身で耐えられる状況ではなかったのだ。ただそんな息苦しさで死にそうになっているジュールに構うことなく、銀の鷲と黒き獅子は言葉を交わし始めた。

「余の庭に無断で入り込むとは、相も変わらずとんだ不届き者だな、ラヴォアジエよ。それで、今回はどんな用事なのだ? もちろん、嬉しい知らせを持って来たのだろうな」

「いきなり落雷を浴びせといて良くおっしゃる。でもそうですね、あなたにとって良い知らせなら一つだけあります。まずはそれをお話ししましょうか」

「ほう。聞いてみようじゃないか」

「あなたが現在庇護にしているパーシヴァルのリーゼ姫。残念ですが彼女はあなたが求める【女神の巫裔(かんえい)】ではありません。ただ本物の女神の巫裔(かんえい)は、すでにここルヴェリエに存在する」

「ふっ。何を言い出すかと思えばとんだ戯言(ざれごと)をほざくものだ。事実としてリーゼ姫は女神の神器である【聖なるブローチ】の力を発動させている。その実績が何よりの証しであり、姫が女神の巫裔(かんえい)であるのは間違いないのだ。冗談ならもっとマシな話しをしてみよ。それともなにか、それを(くつがえ)すだけの証拠をお前は掴んでいるとでも言うのか?」

「黒き獅子よ。あなたは人を舐め過ぎている。あなたが想像する以上に、人というものは可能性に満ちたものなんですよ」

「どういう事だ?」

「リーゼ姫がブローチの力を発揮したのは偶然が重なったからに他ない。あれはリーゼ姫の体に流れるパーシヴァルの王族の血と、それに深く関わりのある【死の鏡】が暴走したからこそ、聖なる力が一時的に開放されたのです。そして本当の女神の巫裔(かんえい)とは、まだ幼き頃のリーゼ姫にブローチを渡した当時の少女なんですよ」

「バリバリバリッ!」

 黒き獅子の全身に電撃が駆け抜ける。獅子の意識に反応し溢れ出したと言うべきか。ただそんな黒き獅子の僅かな感情の乱れを突く様に、ラヴォアジエは続けたのだった。

「恐らくそう遠くない時期に、あなたもそれを確信するでしょう。なぜならあなたが放った裏組織の者が、それを証明してくれるはずですからね。そしてあなた自身も、その可能性を疑っていた。だからこそ、あの男に写真の行方を追わせたんじゃないのですか?」

「バギャーン、ギャーン! ゴロゴロゴロッ」

 まるで二体の獣神を包囲するかのように落雷が発生する。黒き獅子の気持ちの高ぶりが大気の状態を著しく(ゆが)めたのだ。ただそこで黒き獅子は落ち着いた声で言う。でもそれは少しだけ落ち込んだものの様であった。

「フン。所詮貴様は人の心が残った紛いの神だ。そんなお前の話しなど聞くに値いせん。でももし、あの【お方】が私を(たぶら)かしているのならば、その時はあのお方とて許しはしない。私の手で確実に息の根を止めてみせる」

「ならばついでにもう一つ、悪い知らせもお伝えしましょう。本物の女神の巫裔(かんえい)は確かに存在する。でも決して彼女はあなたの手に渡りはしない。なぜなら彼女が望む者は、ここにいる【月読の胤裔(いんえい)】なのだから!」

 そう言い放ったラヴォアジエは突如として急降下を開始する。そしてその状態でジュールに向かい指示を飛ばした。

「お前を地上に下ろす。そしたらお前は彼女のいる光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうに向かえ。出来る事ならお前の力になりたかったが、この状況ではどうにも無理だ。私は黒き獅子の相手をしなければならない。お前にとっても厳しい戦いになるだろうが、決して彼女を諦めるな、良いな!」

 急降下するラヴォアジエの体を複数の落雷が追撃する。だがラヴォアジエは身を(ひね)ってそれらを(かわ)すと、地面すれすれを水平に飛んだ。ただその状態でラヴォアジエは一度だけクルリと身を(ひるがえ)す。するとその拍子にジュールの体は地面に転げ落ちた。

「ドカッ、ゴロゴロゴロ」

 ジュールの体が勢いよく舗装された路面を転がる。それでも彼は即座に体勢を整え顔を上げた。だがその時にはもう、ラヴォアジエは再び黒き獅子に向かって上空高く舞い上がっていた。


「おいおい、何なんだあれは!」

「やばいぞ! みんな逃げろっ!」

「キャー!」

 地上にいた多くの市民達が悲鳴を上げて逃げ惑い始める。天候の急激な悪化と共に出現した二体の獣神の争う姿。その現実離れした光景に人々は逃げる以外に考えられなかったのだ。

 数えきれないほどの落雷が大地に降り注ぐ。また真っ赤な火の粉が突風と一緒に舞い飛び、周囲一帯を熱く焼き付かせた。

 戦争でも始まったのか。人々はそう考えたのかも知れない。いや、世界の終わりが訪れたと考えた者も少なくないだろう。それほどまでに二体の獣神の争いによる影響は甚大なものであった。

 大規模停電の発生によって交通が乱れ始める。また激しい落雷が直撃し、真っ二つになった高層ビルが倒壊し地上に崩れ落ちた。

 人々はどれだけ恐怖に(おのの)いた事だろうか。しかしそれ以上に人々の心を絶望で塗り潰したのは、収まる事を知らない激しい大地震の発生だった。

 コンクリート製のビルに次々と亀裂が入る。また市街を流れる川に掛かった巨大なブリッジが、轟音を立てて崩れ落ちた。

「バッキーン! バァーン!」

 上空からは鼓膜を突き破るほどの強烈な響きが伝わって来る。それこそ落雷の轟音を掻き消すほどに。そしてその強烈な響きは地上にある窓ガラスの全てを粉々に破壊した。だがその痛烈な響きの発生に反比例するよう、大地震は鳴りを潜めていった。

 獣神達の争いが開始されてからまだ5分と経っていないはず。それでも獣神達の力の拮抗に乱れが生じ始めたのだろう。ジュールはそう思った。そしてもちろん優勢なのは銀の鷲の方だ。彼はそう疑わなかった。ならば自分は彼に告げられた使命を果たすしかない。

 だがそこでジュールは道路標識を見て僅かに気を揉んだ。そこにはルヴェリエの中心部を示唆する羅城門まで30kmあると表示されていたのだ。

「クソっ、あのまま()()()に乗ってれば1分もしないで着いたのに。この状況でどうやって光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうまで行けばいいんだ」

 道路には逃げ惑う人が溢れ、また信号機が機能しなくなった為に大渋滞まで発生している。もちろん停電の影響で地下鉄も停止してしまっただろう。

 ジュールは苦虫を噛み潰した気持ちで拳を握りしめる。時間が無いと焦りばかりが高まってしまうのだ。でも仕方がない。こうなったら走って約30km先の光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうを目指すしかないんだ。彼はそう覚悟を決めて走り出す。でもその時、彼は前方で立ち往生する一台のバイクを発見した。

「軍の者だ! 済まないがこのバイクを貸してくれ!」

 ジュールはバイクに駆け寄ると、それに(またが)っていた男性ライダーに向かって強引な姿勢で告げた。ただそんな彼に対し、男性ライダーは動揺を露わに反発する。

「はぁ? 何言ってんだよあんた、この状況が分かってないのか!」

「この状況だから言ってるんだよ! 悪いな、緊急事態なんだ」

 そう言いながらジュールは強引にライダーからバイクを奪い獲る。そして彼はアクセルを吹かしながら男性に軽く頭を下げた。

「後でアダムズ城まで取りに来てくれ。俺はトランザムの隊士だから」

「おいフザけんなよあんた! こっちだって急いでんだぞ!」

「済まないな。大切な命が掛かってるんだ――」

 そうジュールが言い残した時にはもう、彼が乗ったバイクはタイヤの焼け焦げた臭いだけを残し、猛スピードで走り出していた。そしてジュールはアクセルを目一杯に絞り、首都の中心部にある光世院鳴鳳堂を目指し全開で走り続けた。



「神父さん。本当に北の教会の神父さんなの?」

 警戒感を露わにしたアメリアがドアの向こう側に聞き尋ねる。ぐっすりと眠れはしたが、それでも彼女が未だ疑心暗鬼になっているのは当然の状態であった。

 訳が分からない移動を繰り返し、挙句の果てにはルーゼニアの最高指導者であるラザフォードまでもが目の前に姿を現したのである。こんな状態で冷静さを保っていられる人間がいたとしたなら、そっちの方がむしろおかしいと断言出来るだろう。でもだからこそ、ドアの向こう側にいる男性は少し強引にも入室を願ったのであった。

「頼む、私を信じてドアを開けてくれ。あまり時間がないのだ」

 アメリアは不安を高める。それでも彼女は微かに記憶に残った神父の声を思い出し、覚悟を決めてドアの鍵を開けた。すると同時にドアは開かれ、一人の男性が素早く部屋に入って来る。それはその素早さからは想像出来ないほどの引き締まった肉体を持つ大柄な神父であった。

「し、神父のおじさん!」

「他人の空似かと思ったが、やはりアメリアだったか」

 神父はアメリアの顔をしっかりと確認しながら言う。そしてアメリアも神父が本物であると分かり、少しだけ胸を撫で下ろした。ただ彼女は神父に向かって返す言葉で聞き尋ねる。アメリアには現状が分からない事だらけなのだ。

「でもどうして神父のおじさんがここに? っていうよりも、ここって何処なんですか? 私には何が何だか」

「シッ。小声で頼むよ」

 神父はその大柄な体を(すぼ)めながらアメリアに指示する。そしてその姿から、神父の行動が独断のものであるのだとアメリアは察した。

 彼女は黙って小さく頷く。するとその姿勢に神父の方も察したのだろう。この子は頭の良い子だ。神父は軽く微笑みながら言ったのだった。

「本当に君は何も知らないんだな。ここは光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうっていう場所だよ。本来はアダムズの王族や官僚が、他国との外交会談なんかをする場所として使っている所らしい。けど今は訳あってルーゼニア教が使っているんだ」

「えっ? 嘘でしょ。だって光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうってルヴェリエにある場所じゃないですか。私、北の教会にいたんですよ。そんなバカな話しあるわけないよ!」

「シーッ、声を静かに。誰かに見つかったら厄介なんだ。驚くのは無理もないが、それでも今はぐっと堪えてくれ」

「ご、ごめんなさい」

「でもまぁ、君が信じられないのも無理はない。私の方だって目を疑ってるくらいだからね。だけどここが光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうなんだってのは本当なんだ。ちょうど今、ルーゼニア教の大切な総会が開かれていてね。アダムズ王国中のすべての神父がこの場所に集まっているんだよ」

「そう言えば、北の教会でおばさんがそんな事言ってた気がする。あっ、でもおばさんは無事なんだろうか」

「ん? 妻に何かあったのか!」

 神父が思わず声を上げる。それに対して今度はアメリアの方が口に人差し指を当てて注意を促したのだった。

「シーッ! ちょっと神父のおじさん声を大きいよ。もっと小さくしてよ」

「す、済まない。でも妻の身に何か危険が及んだりしたのか?」

「心配しないで。変な奴らに襲われたのは事実なんだけど、でもおばさん信じられないくらい強くて。あっと言う間にやっつけちゃったのよ。化け物が三体もいたのにね」

「化け物が三体?」

「う、うん。信じられないと思うけど、あの【ヤツ】っていう化け物が現れたのよ。ただヤツの目的は私だった。おばさんは化け物から私を守ってくれたの」

「もしかしてその時、妻は不思議な力を使わなかったか? 例えば【火】とか」

「うん! 使ったよ。手の平から火の玉出したり、なんか凄かったよ!」

「そうか――」

 神父は口を閉ざして考え始める。彼には何か思う節があるのだろう。そして神父は覚悟を決めたかの様に、アメリアに向き直った。


「今回の総会に私は少し違和感を感じていた。建前上は総本山であった五重塔の倒壊に関して、また来年執り行われる千年祭についての話合いをするのが目的だとされていたからね。でもその本質はまったく違うものだったんだよ」

 アメリアは神父の話しに首を傾げている。まったく話が飲み込めないのだろう。ただそんな彼女に構うことなく、神父は驚愕の事実を彼女に告げたのだった。

「ここに集まった多くの神父達は知る由も無い話しなのだろうが、私を含めた【四方の教会】の神父は、ラザフォード総主教から直接命令を下され、この場所に集まっている。その命令とは【とある種】に関係する事案なんだが、でも重要なのはそこじゃない。ラザフォード総主教は来年実施予定のルーゼニア教創設千年の記念祭までに、【女神の巫裔(かんえい)】なる女性を見つけ出し、その女性を生贄(いけにえ)として女神に捧げるつもりなんだ」

「い、生贄って、まさか本当に殺したりはしないよね」

「私もそう思っていた。しかしラザフォード総主教をはじめとした上層部の連中は本気だ。君を北の教会から一瞬でここに移動させた形振り構わぬ姿勢だって、その証しの一つなんだろうしね」

「でもよく分かんないよ。どうして私が狙われなくっちゃいけないの? 心当たりなんて全然ないし。――あっ! もしかして、あの【写真】に何か関係があるんじゃ!」

 アメリアはハッと思い出す。母であるカロラインから手渡された写真の事を。しかしそれに対して神父は首を横に振った。そして彼が次に続けたのは、アメリアにとって信じ難いほどの深刻過ぎる事実であった。

「確かに君をここに呼び寄せた最初の目的は、その写真を手に入れる為だったんだろう。でも君の姿をラザフォード総主教が直接ご覧になった事で事態は急変したんだ。君のそのカチューシャを見てからね」

 そう言って神父はアメリアの頭に飾られたカチューシャを指差した。するとアメリアはゾッとした恐怖に(さいな)まれる。彼女は昨夜見たラザフォード総主教の瞳から感じた(いぶか)しさを思い出したのだ。

 アメリアは自らの肩を抱きしめる様にして体を強張らせる。ただそんな彼女に向かい、北の教会の神父は悲痛さを滲ませながらも事実を伝えた。

「ラザフォード総主教や教団上層部の者達は、パーシヴァルのリーゼ姫が女神の巫裔(かんえい)であると考えていたらしい。これは公式には伏せられている話なんだが、実は以前にリーゼ姫は女神の神器の一つである【聖なるブローチ】の秘められた力を発揮させた事があるのだ。そしてその事実からラザフォード総主教達はリーゼ姫が女神の巫裔(かんえい)であると信じた。だがここ最近になって発覚した新しい情報によると、それまで姫が肌身離さず身に付けていたはずのブローチが紛失したらしいのだ」

 アメリアは身を(すく)めた。あのブローチはもともと私がリーゼ姫に渡した物だ。そしてそのブローチは、つい先日姫から返却されている。それを思い出し、彼女は肝から震えた。

「女神の神器に秘められし【聖なる力】を解放出来るのは女神の巫裔(かんえい)のみ。そして世界に3つ存在すると伝わる女神の神器は、必ず女神の巫裔(かんえい)のもとに集まるとされている。そこにアメリア、君がその女神の神器の一つである【聖なる髪飾り】を身に付けて現れたのだ。それもリーゼ姫がブローチを失くしたこのタイミングでね。これが何を意味しているのか、頭の良い君になら分かるだろ」

「そ、そんな。このカチューシャは偶然もらっただけなんだよ。それにあの【桃の花のブローチ】だって、お父さんが考古学の調査で見つけた物をお土産として私にくれただけ。そもそもこんな骨董品みたいなカチューシャとかあのブローチが、そんな大切な物のはずがないよ」

「ならブローチは君の手よりリーゼ姫に渡ったんだな。そしてもう一つ。【三角形の形をした赤茶色の毛織物】を知らないか? 今的に言うところのショールってやつだ」

「なっ。ど、どうしてそれを」

「やはりそうか。そのショールもまた、女神の神器の一つなんだよ。すなわち君は3つ全ての女神の神器に触れている事になるんだ。これは単なる偶然などとはとても呼べない、まさに神掛かった奇跡の現象なんだよ」

「ビギャーン、ゴロゴロゴロ」

 突如落雷の音が響き渡る。つい先程までは窓から差し込む日差しは明るいものであった。しかし天候が急変しているのか、気が付けば眩しいくらいの日差しは厚い雲に覆われていた。

 少し離れた場所から響いて来る落雷の音は次第に数を増していく。そしてその音を嫌がる様にして、アメリアはきつく耳を(ふさ)(うずくま)った。

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