#79 朝比奈の宗旨(前)
「ハッハッハッハッ」
全身を血まみれに染めたジュールは激しく呼吸を繰り返す。鼓動の早さは極限にまで達しており、心臓はオーバーヒート寸前の状態だ。
鋭い爪で切り裂かれ、尖った牙で抉られ、忌まわしい口で喰われた。足元は彼自身の血で真っ赤に染まっている。それでもジュールはまだ、野犬に対して強く睨みを利かせていた。
あれ程いた野犬達も、そのほとんどが土の上で伸びている。しかし一匹でも獰猛な姿勢を見せる野犬が残っている限り気は抜けない。
体の何ヶ所を噛まれたかなんて考えるのも面倒だ。意識が朦朧とする中でジュールはそう吐き捨てる。そしてそんな彼の後方には、野良犬の穢れた体毛の一本すら掠らせていないアメリアの姿があった。
「残る犬は二匹、いや三匹か。くそっ、あとちょっとなのに力が入らねぇ。血を流し過ぎたのか。同時に来られたら受け切れない。どうすればいい!」
ここに来て体力の限界を感じたジュールは僅かに投げやりな気持ちになった。一時はあれ程に強く感じていた溢れ出る力は、もう微塵にも感じない。完全なガス欠状態なのだ。そして何より目が霞んで前がよく見えない。蜘蛛の毒に侵された影響がここに来て重く圧し掛かる。いや、単に頭部から流れる血が目に入っただけなんじゃないのか。
錯綜する思考回路にジュールは困惑するしかない。ただその時、彼は足元に転がる【種の化石】に気が付き思った。
「戦ってる最中に落としたのか。ちくしょう。俺は何を意地張ってたんだ。こんな所に来なければ、アメリアを危険になんて晒さなかったのに――」
次で殺られる。そう感じたジュールは柄にもなく後悔した。守るべき者を守れない。もう息をする事すら辛かったが、それ以上の悔しさに彼は心を深く傷つけていた。
ジュールは忸怩たる思いで構えを取る。でももう立っているのがやっとだ。悔しさだけが彼の胸の中を暗く塗り潰していく。だがそこでジュールはふと疑問を覚えた。いや、違和感を感じたのだ。フラフラな状態の自分を前にして、どうして野良犬どもは襲い掛かって来ないのかと。
ジュールは目を擦り視界の確保を試みる。それは絶対的な窮地の状況で、あえて敵から目を逸らす自殺行為のはずだった。しかし彼は直感として思ったのだ。野犬達は襲って来ないと。
額から滴り落ちる血を無造作に拭う。するとジュールの視界は僅かではあったが良好さを取り戻した。そして彼は確信を得る。野犬達は何かに怯えて動けないのだと。
でも一体何に恐れをなし、尻込みしているというのだろうか。ジュールはそう疑問を抱き眉間にシワを寄せた。だが次の瞬間だった。突如として頭上より、猛烈な殺気が降り注ぐ。
「な、なんだ!」
ジュールは全身を身震いさせる。それでも彼は反射的に殺気の出所であるはずの滝の上に視線を向けた。
「!」
ジュールは息を飲んだ。彼は月明かりを背にして立つその姿に意識を奪われたのだ。
ジュールが視線を向けた先。そして野犬達が慄きながら顔を向けた先。そこにはなんと、瞳を真っ赤に光らせた【銀色の狼】がその姿を現していた。
「ウオオオーン」
銀色の狼が甲高い雄叫びを上げる。するとその声に共鳴したのか、森全体が猛烈に靡いた。
「グオォォォーン」
突風が森を駆け抜けていく。偶然にも狼の雄叫びと突風が重なったのだろう。でもその風はやけに熱く感じられた。そしてその風は同時にジュールの心を肝から震え上がらせていた。
「ば、化けモンめ――」
ジュールは震えの止まらない手足を強引に押さえつけようと気張った。しかし彼の体はそれを拒否し続ける。目に映る銀色の狼の姿に、ジュールの神経は本能として波立ったのだ。
ただ彼が震え上がったのと同じく、野良犬達も銀色の狼の姿に絶対的な恐怖を感じていた。そして犬どもは我先にと、踵を返して逃げ出した。
一斉に逃げ出した野良犬達の後姿をジュールは呆然と見送る。しかし危機が去ったわけではない。もっと恐ろしい化け物が新たに出現したのだ。十数匹の血に飢えた野犬すら可愛く思えるほどの存在が。
ジュールは戦々恐々としながら滝の上を見上げる。そして月明かりでより一層体を銀色に輝かせた狼の姿を見据えた。ただそこで彼は不可思議な感覚に苛まれる。殺気立った赤い瞳からは恐怖以外に感じ取れるものはない。それなのにジュールはその赤い瞳に見入ってしまったのだ。
「綺麗だな……」
ジュールは素直にそう感じていた。絶望感すら漂うこの状況で、彼はそれとはまったく逆の感動を覚えていたのだ。
銀色の狼が想像も及ばない化け物なのだという事は感じ取れるし、自分の命が絶体絶命の窮地に追い込まれているのだという事も理解している。それなのに彼はなぜか、湧き上がる【歓喜】を感じていたのだ。
あまりの厭世的な状況に気が狂ってしまったのか。それとも無意識に死を受け入れてしまったからなのか。ただ一つだけ確かに言えるのは、悪い気分はしないという事だった。
「ハッ、俺の最後の相手があんな化け物だなんて、笑えてくるぜ。でもまぁいいか。あいつは凄く強いだろうし、それに綺麗だから――。うっ!」
ジュールは突如猛烈な脳震盪を起こして蹲る。ここまで酷使した体が限界を迎えたのだろう。四つん這いの体勢になった彼は、生温い唾液を垂らしながら意識の境界を彷徨った。
「これが死ぬってやつなのか。案外あっけないものなんだな。……あれ?」
錯綜したジュールの意識は頼りないものだったはず。ただそんな状況で彼は漠然とした記憶に考えを巡らせた。なぜならそこに落ちていたはずの種の化石が消えていたからだ。
絶対にここに落ちていたはずなんだ。ジュールは視点の定まらない状態でありながらも必死に種を探す。しかしどこにも見当たらない。嘘だろ、なんで無いんだ。
この状況で種を探す意味なんてどこにもない。むしろ放っておくべき無意味な問題であろう。だがジュールにはそれが無性に気になって仕方なかった。
ジュールは手を這わせながら捜索の範囲を少し広げる。それでもやはり種は見つからない。もしかして逃げた野犬が咥えて行ったのか。いや、そんなはずはない。だって種は俺の足元に落ちていたんだから。
ジュールは意味不明な動揺を露わにする。種を見失った事態が、まるで取り返しのつかない問題であるかの様に。ただそこで彼はもう一つの感覚に気付く。あれ程までに悍ましかった殺気が、いつの間にか消え去っているのだ。
ジュールは反射的に顔を持ち上げる。そして彼は滝の上を見た。殺気の出所である銀色の狼を確認しようとしたのだ。しかしどうした事だろうか。そこにいたはずの狼の姿はもう、どこにも見当たらなかった。
ジュールは尻餅をついた姿勢で呟く。
「た、助かったのか。でもどうして狼は姿を消したんだ……」
予想に反して危機から解放されたジュールは安堵感を覚える。ただそれ以上に彼は銀色の狼の腑に落ちない行動に首を傾げた。
「弱り切った俺を噛み殺すのなんて、あいつにしてみれば造作もなかったはず。これじゃまるで、あいつが野良犬を追い払ってくれたみたいじゃないか」
ジュールは理解不能な行動を取った狼を思い戸惑う。だがそこで彼は横たわっているアメリアの姿を目にして気持ちを切り替えた。
余計な事を考えている暇は無い。もちろんホッとしている余裕も無い。毒に侵されたアメリアの容体は深刻さを増すばかりなのだ。
ジュールはボロボロになった自分の体を引きずりながらも、懸命にアメリアの救済に動く。そして彼は気を失っているアメリアを背負い山を下りはじめた。
すでに指先の感覚は無ない。それどころか体が徐々に冷たくなっていくのが良く分かる。ジュールはそんな救い難い体の異常を確かに感じながらも、足だけは一歩一歩前に出し続けた。
「もうすぐ死ぬのかな、俺――」
ジュールは消えていく感覚に弱気な言葉を呟く。でも何故だろうか、彼はそう思いながらも怖さは微塵にも感じていなかった。
背中から微かに伝わって来るアメリアの体温と鼓動。それは彼女が生きている証拠であり、その感覚がジュールの心から怖さを消し去ったのだろう。いや、彼女を救いたいと心から切望する彼の気持ちが、死への恐怖を打ち消したのだ。そしてジュールはついに北の教会に辿り着く。彼は教会の正面入り口の分厚い扉の前まで進むと、それを残された力で目一杯叩き助けを求めた。
「ドンドン! 頼む、助けてくれ。助けてくれ。ドンドン!」
静まり返っていた夜の森に扉を叩く音が響く。すると体格の良い神父とその妻が慌てて駆け出して来たのだった。
「どうしたんだ君達。体中傷だらけじゃないか」
「わ、悪ぃな、神父のおっさん。あんたの忠告を無視したばっかりに、とんだ災難に出くわしちゃったよ。ただ悪いのは俺なんだ。こいつは俺を止めようとして付いて来ただけなんだよ。だからこいつだけは、アメリアだけは助けてくれないか。俺はどうなってもいいから……」
「バカな事を言うな! 二人とも助けるに決まっているだろ。見たところ彼女は蜘蛛の毒にやられたんだな。でもまだそこまで時間は経ってない。大丈夫、安心しなさい。解毒剤はちゃんと常備してあるから、命の心配はいらないよ」
神父がそう告げたと同時に神父の妻が教会の中に駆け戻って行く。解毒剤を取りに行ったのだろう。そして神父はアメリアを教会の中に運ぶため、その体を抱きかかえた。
「君はそこで休んでいなさい。私の見たところ、君の方がよっぽど重傷だ。すぐに医者に連絡するから、動くんじゃないよ」
「へへ。もう指一本動かせないよ」
そう言うとジュールは力無く腰を落とす。遥か昔に彼の体力は限界を迎えていたのだ。そしてなによりアメリアの命の保証を確認出来た事で安心したのだろう。ジュールはホッと息を吐き出しながら目を閉じて休もうとした。ただその時、ジュールの服をアメリアがキュッと摘んだ。意識を失っているはずなのに、彼女は彼と離れるのを嫌う姿勢を見せたのだ。
その行為にジュールと神父は一驚する。ただジュールは服を摘んだアメリアの手をそっと解くと、意識の無い彼女に向かってこう言ったのだった。
「大丈夫。もう大丈夫だよ、アメリア。俺達は助かったんだ。だからお前は安心して治療して来いよ」
ジュールはそう彼女に言うと、強がるように微笑んだ。たとえ届かなくても、彼は今の素直な気持ちをアメリアに伝えたかったのだ。
アメリアのお蔭で自分は生きていられる。ジュールはその礼を精一杯の苦笑いで表現していた。窮地を切り抜ける力を与えてくれた彼女に感謝を表したかったのだ。するとそれに対し、アメリアも僅かに微笑んでみせた。
額からは大粒の汗が流れている。体中に回った毒の影響で高熱が出ているのだろう。そして気を失っているのも間違いない。それでもアメリアはジュールに応えるよう笑ってみせた。
ジュールとアメリア。まだ出会って間もない二人であったが、今回の事件でそこに特別な感情が芽生え始めたのは確かだった。そしてそんな二人の姿を見た神父もまた、優しく微笑んでいた。
すでに東の空からは太陽が顔を覗かせていた。そしてジュールは真っ青に透き通った空を見上げながら、アニェージに向かって続けたのだった。
「教会にあった解毒剤のお蔭でアメリアは大事に至らなかった。翌朝には意識も回復して、自力で歩けるくらいにまでなってたからね。でもその後に神父のおっさんと、連絡を受けて駆け付けたアメリアのお袋さんから受けた説教はホントに酷かったよ。完全にお灸をすえられちまった」
ジュールは苦笑いを浮かべながら続ける。
「でも悪かったのは俺だから、受け入れるしかなかった。それにもしそこにグラム博士やアメリアの親父さんのハーシェルさんが居たら、もっと酷かっただろうしね。むしろ博士達がいなくて運が良かった。俺はそう思っていたよ」
「へぇ。お前にも素直なところがあるんだな」
「まぁね。どれだけ強がったって、所詮はガキさ。逆らえないものくらいいくらでもあるよ。俺はただ粋がって、それに気付かないフリをしていただけなんだ」
ジュールは遠くの空を見つめながら言った。するとそんな彼の横顔を見つめたアニェージが呟く。彼女は彼の体の丈夫さについて考えていたのだった。
「それで、お前の体はどうだったんだよ。野犬に襲われてボロボロだったんだろ? それに蜘蛛の毒だって少しは喰らっていたんだ。普通なら死んでいたって不思議じゃない。でもお前は無事だった。そうなんだろ?」
そう聞き尋ねたアニェージの表情は優しく微笑んだものだった。きっと彼女は理解しているのだ。ジュールの体は生まれながらに特殊な作りになっているのだろうと。そしてその力は決して不気味なものなどではなく、むしろ大切な者を守る時にこそ本領を発揮するのではないのか。アニェージはそう考えたからこそ、微笑んだのだった。するとそんな彼女の想いに同調したのだろう。ジュールも軽く微笑みながら返して言った。
「あぁ。自分でもビックリするくらい早く治ったよ。もちろん俺の体を診てくれた里の医者も驚いてたし、お袋さんや神父のおっさんも驚いていた。でもあん時はまだ、自分の体が変わってるなんて思ってもみなかったよ。単純に他人より少し体が丈夫なんだ。そう思っていたくらいなんだ。それに自分の体のことなんてどうでも良かった。アメリアを失わずに済んで本当に良かった。ただ、それだけが救いだったから」
ジュールはグッと拳を握りしめる。そしてその拳を見つめながら彼は続けた。
「でもさ、それを機会に俺の中で変化した部分があったんだ。それは肉体的なものじゃなくて、気持ちの面だったんだけどね。きっと俺は滝の試練で経験した悔しさに、心底堪えていたんだろうな」
「具体的にどう変わったのさ?」
「うん。簡単に言っちまえば、他人に対して変に気を遣うのをやめたんだよ。結局のところ、俺は里の悪ガキ達から嫌われていたんじゃない。むしろ俺の方が壁を作ってあいつらを避けていた。慣れ合うのが怖くて、気恥ずかしくて、それを隠す為に恰好つけていただけなんだ。俺はそう思ったんだよ。だから俺は自分から心を開くよう努力を始めたんだ。まぁ、不器用だからそう簡単にはいかなかったけどね。クククッ」
昔を思い出したのだろう。ジュールは込み上がる苦笑いを隠せなかった。
「それから時間は掛かったけど、気が付けばそれまでケンカばかりしていた悪ガキ達とも自然と仲良くなってたんだ。いや、あいつらの方が俺なんかよりも、よっぽど大人だったんだろうな。俺なんかを受け入れてくれたんだからさ。ただ俺はそれもアメリアのお蔭だと思っている。たぶんアメリアは俺の知らないところで色々と気を回していただろうからね。俺が里のみんなと仲良く出来る様にってさ。そして俺はそんなアメリアの優しさに惚れたんだよ」
ジュールはさっと立ち上がった。その表情は少し赤く染まっている様に見える。朝焼けの光が顔を照らしているからなのか、それともアメリアへの想いを口にした事に照れているからなのか。ただ彼はこの思い出の場所に立つ事で、再びアメリアという存在の大切さに気付いたのだ。そして彼は絶対に失うわけにはいかない彼女という存在に対し、強く想いを巡らせたのだった。
「俺は絶対にアメリアを助けてみせる。どんなに過酷な障害に立ち塞がれようとも。でもあいつ、今どこにいるんだよ? これじゃ守りたくったって、守れないじゃないか――」
そう言ったジュールは朝露のついた頬を拭う。いや、もしかしたら行き詰まった状況に溢れ出した悔し涙を拭ったのかも知れない。そしてそんな彼の姿にアニェージは何も言ってあげられなかった。掛ける言葉が見つからなかったのだ。だがその瞬間だった。
「ドン!」
突如として猛烈な違和感が彼らを襲う。なんだ、この異質な感覚は。急激に粟立った背中に只ならぬ気配を感じ取ったジュールとアニェージは素早く身構える。そして彼はらは同時に振り返り、滝の上を見上げた。
「!」
ジュールは唖然と口を開く。そしてアニェージは無意識に尻込みした。なんでお前がここに居るんだ――と。
ジュールはあの時を思い出す。野良犬達を追い払った、あの銀色の狼の事を。あの時もそうだった。突然狼は現れたんだ。でも今は違う。ジュールとアニェージが視線を向けた先。なんとそこに出現したのは、銀の鷲である【ラヴォアジエ】だった。
数本のろうそくが灯る薄暗い部屋。天井はそれほど高くはないが、そこは比較的広いホールの様な空間をしている。そしてその中央では、またしても自分の意識とは関係無しに場所を移動したアメリアが、一人佇みながら戸惑っていた。
「こ、ここは何処なの?」
つい先程まで北の教会にいたのは間違いない。それに私は気を失ったおばさんを助ける為、電話で救援の連絡をしようと教会の中に戻ろうとしたんだ。でもあの時、教会の屋根の上から見下ろされる不可解な気配を感じた。あれは見間違いなんかじゃない。屋根の上には大きな【銀色の鷲】がいて、赤い瞳で私をじっと見ていた。
アメリアは身震いしながら思い出す。信じられないほどの大きさをした銀色の鷲の姿を。もしかしてあの鷲が私を移動させたのかしら? アメリアは初めにそう思った。でもそれは違う気もする。あの銀の鷲の瞳はとても優しいものに感じられた。むしろ私を守ってくれていた様な……。
銀の鷲から感じ取った柔和な感覚を思い出したアメリアは少しだけ胸を撫で下ろす。しかしそれは一瞬の事であり、アメリアは極度の混乱状態に陥り気分を害し座り込んだ。
見知らぬ男に追われ、それから逃げようと必死で森の中を駆けた。でも気が付けば自分は北の教会のベッドに寝ていた。それだけでも混乱を来すには十分だろう。しかし彼女の目の前では更に信じ難い状況が展開したのだ。
教会に突然乱入して来た気味の悪い男達。でもその内の二人はアダムズ軍の正規の隊士だったのだ。そしてあいつらの正体はヤツと呼ばれる人外の化け物だった。
とても人間などでは太刀打ち出来ない狂暴性に満ちた力を持つヤツ。だがしかし、そんなヤツらに対して雰囲気を激変させた神父の妻は、ヤツを上回る圧倒的な強さでそれらを撃退した。
この状況を信じろと言う方が、むしろ無理があるというもの。肝が震えるほどの恐怖に怯えながらも、どこか現実味の無い状況にアメリアは呆然とするだけだった。そして彼女の最後の記憶の中で姿を現した銀の鷲。いかにその鷲が穏やかな雰囲気を醸し出そうとも、それは今のアメリアにとって、頭の中を掻き乱す一つの要因に過ぎなかった。
「ここは何処なの? どうして私ばっかりこんな目に遭うのよ。ジュール、助けて――」
アメリアは涙を浮かべながら小さく呟く。彼女は精神的に限界を迎えているのだ。弱音を吐きたくなるのは当然だろう。ただその時、座り込むアメリアはふと足元に気を留めた。
「なんだろう?」
そこには何やら数式のようなものが描かれていた。そしてその数式はアメリアが座り込んでいる直径1メートルほどの範囲にびっしりと記されていた。
「ゾクッ」
アメリアは背中に悪寒を感じた。以前映画の中で見た事がある。あの映画では確か、こんな感じの場所で悪魔を召喚したのだと。だったら私は誰かに呼び寄せられたっていうの!?
信じられるわけがない。あれは映画であって、作り話なんだから。私ったらバカね。何を根拠の無い事を本気で考えているんだろう。
アメリアは意味の無い自問自答を繰り返しながら、懸命に自分自身を励ました。そう強がりでもしなければ、本当に気が変になりそうだ。彼女はそう思ったからこそ、自分自身が置かれた状況をあえて直視しようとはしなかったのだ。
ただそんな彼女も次第に薄暗い部屋に目が慣れて来たのだろう。恐る恐るもアメリアは部屋の中を見渡していく。冒険家の血を引く彼女だけに、たとえそれが怖さの先行する状況だったとしても、現状を正確に把握しようと体が努めたのだ。だがしかし、そこでアメリアは引きつった声を発してしまった。
「ひっ」
今回は状況把握に努めた行為が裏目に出てしまった。アメリアは部屋の四隅に小さく身を窄める人影に気が付いたのだ。それもその四人は黒いローブで身を包み、あえてアメリアに悟られないよう隠れ潜んでいる風に見える。でもその姿はかつて彼女が映画の中で見た、悪魔召喚のシーンに出て来る魔術師の姿と瓜二つのものであった。
あまりの怖さでアメリアの奥歯は噛み合わなくなる。それでも彼女はグッと胸を押さえながら懸命に声を絞り出したのだった。
「こ、ここは何処なんですか? そこに居る人達。私の声が聞こえますよね!」
アメリアは精一杯の気持ちを振り絞って聞き尋ねる。だが次の瞬間、彼女は後方より肩を掴まれ腰を抜かすほどに驚嘆した。
「ビクッ!」
一瞬心臓が止まったかの様だった。それでも彼女の意識が途切れなかったのは、やはり父親譲りの血のせいなのか。そしてアメリアは恐れながらもゆっくりと振り返る。しかしそこで掛けられた声は、意外にも優しいものだった。
「そんなに怖がらなくて大丈夫ですよ。ここはルーゼニア教の施設でございますから」
そこには一目見て立派だと分かる司祭服を身に纏った中年の男性が立っていた。ただそんな男性に対し、気持ちを萎縮させたアメリアは引きつった声で言ったのだった。
「だ、誰?」
アメリアは一歩だけ後ろに退く。ろうそくの明かりに浮き上がった無表情な男性の姿に彼女は反射的に身構えたのだ。ただその無愛想な表情に反し、司祭服の男性は柔和な口調で自らを名乗ったのであった。
「私はルーゼニア教の総主教代理を務める【ボイル】と申します。突然この様な場所にお招きしてしまい、誠に申し訳ございません。でも安心して下さい。我々はあなたを大切な客人としてお呼びしたのですから」
そう告げたボイルと名乗る男性は僅かに微笑んで見せた。しかしその笑顔は少し強張ったものに感じられる。恐らくこの男性は感情を表に出すのが得意ではないのだろう。それでも男性はアメリアを落ち着かせようと、精一杯に穏やかな雰囲気を醸し出そうとしたのだ。ただそんな男性を前に、アメリアは更に緊張感を高めたのだった。
突然目の前に現れた名士の存在にアメリアは言葉を失っている。なぜならこのボイルというルーゼニア教総主教代理の男性は、アダムズに住む者ならそれがルーゼニア教の信者でなくとも、名前くらいは知っている著明な人物だったのだ。
そんな有名人が突然目の前に現れたのである。たとえそれがアメリアでなかったとしても驚くのは無理もない。ただそんな彼女の気持ちを十分に察したボイルは、ゆっくりとした口調で丁寧に告げたのだった。
「あなたが混乱しているのは良く分かっています。でもお願いです。私達を信じて下さい。事情は後ほど説明させて頂きますが、危険の及ぶあなたを救う為に、少々強引な手段を使用して我々はあなたをここに移動させたのです。あなたを守る為にはこうするしかなかった。それだけはどうか、ご理解下さい」
ボイルはそう告げると深々と頭を下げた。するとアメリアの方もそんなボイルの姿勢に恐縮する。相手は自分なんかとは比べものにならないほど身分の高い人なのだ。そんな人が私の為に頭を下げている。アメリアはそう思うと、少しだけ落ち着きを取り戻した。ただその甦った冷静さが彼女に疑問を抱かせる。そしてアメリアはその疑問をボイルに向かってストレートに聞き尋ねたのだった。
「一つ分かりません。いえ、分からない事だらけなんですけど、どうして私があなた達にとって大切な存在になるんですか? そもそも私はルーゼニア教の信者ではありませんよ」
アメリアは素直に質問した。彼女にとって今一番気になっているのがそれだったのだ。するとその質問に対し、ボイルの方も包み隠すことなく正直に答えたのだった。
「あなた様は我々ルーゼニア教にとって、とても大切な物をお持ちになっておられる。そのせいで悪い者どもに襲われていたんじゃないのですか?」
「どうしてそれを……。でもちょっと待って下さい。私、ルーゼニア教に関係ある物なんて持ってませんよ。何かの間違いじゃないんですか? 変な奴らに襲われていたのは本当ですけど」
「そうですか。ならあなたはただそれを所持していただけで、それが何なのかまではご存じなかったのでしょう。でも今こうしてあなたがこの場所にいる事実こそ、紛れの無い証なのです」
「ど、どういう事ですか?」
「あなたは間違いなく【とある写真】を持っている。私はそう言っているんです」
その瞬間、アメリアは背中にどっと噴き出す汗を感じた。彼女は母であるカロラインから手渡された写真の事を思い出したのだ。それに北の教会を襲った連中の事も。
アメリアは無意識に指先を動かし、ズボンのポケットを上から摩る。ただそこでアメリアはハッとした。そうだ、私は北の教会で着替えをしていたんだ。ならあの写真は私の服と一緒に北の教会に残っているはず。
なぜかアメリアはホッと胸を撫で下ろす。目の前にいるボイルという名士が悪意のある人物とは思えない。でもだからと言って信用する気にもなれない。だからアメリアはつい嘘を言ってしまったのだった。
「私、写真なんて持ってません」
ハッキリとした言葉で告げたアメリアの姿勢は真実を告げている様に見えた。こういった場合、女性の方が肝が据わっているのだろう。しかし今彼女の前に居るのはルーゼニア教総主教代理のボイルなのである。それまでに数十万という信者と対面して来た彼にとってみれば、アメリアの誤魔化しなど見え透いたものだった。ただそれを承知の上で、あえてボイルは優しく告げたのだった。
「詳しい話しは少し休んでからに致しましょう。今日は時間も遅いですし、それにあなたは疲れているでしょうから」
「で、でも」
「心配しなくても大丈夫ですよ。私達はあなたの味方なのですから。もちろんあなたが置かれた今の状況に戸惑っているのは分かっています。でも安心して下さい。これからお目に掛かるお方のお話をお聞きすれば、すべて理解して頂ける事でしょう」
「だ、誰ですか、その人って」
アメリアは身を乗り出して問い掛ける。自分の嘘がバレないか心許無い彼女は、なんとかこの場をやり過ごそうと必死だったのだ。ただその時、彼女の正面にあった扉が開く。そしてそこから数人の人物が部屋に入って来たのだった。
一人の老人らしき人物が先頭をゆっくりと歩む。恐らくその老人が最も位の高い人なのだろう。数人の従者を率いる姿からして、それは間違いないはずだ。だがそこでアメリアは再び息を飲む。薄暗い部屋の為よく分からなかったが、しかし自分に近づくその老人の顔を確認した彼女は、あまりにも唖然とし過ぎてついその名を呟いてしまったのだった。
「ラ、ラザフォード……様」
ボイルが膝をついて出迎える。そう、その老人はルーゼニア教の頂点である総主教職に長きに渡り君臨する、世界で最も著名な人物である【ラザフォード】だったのだ。
これにはさすがのアメリアも立ち竦んだ。新たに現れたのは学校で使用した歴史の教科書にも出てくるほどの人物なのだ。またそれにもまして実物からはオーラの様な凄味がビンビンと伝わってくる。そしてその存在感の大きさに彼女は圧倒されていた。
アメリアは目を大きく見開くばかりで何も言えない。するとそんな彼女の姿を見たラザフォードが、人の良さそうな微笑を見せながら言ったのだった。
「これはこれは、私ごときの名前を知っていて下さるとは何たる光栄。でもどうか、そんなに緊張しないで下さい。私もお嬢さんも、同じ人間なのですから」
ラザフォード総主教。彼は半世紀以上にも渡り、ルーゼニア教の最高位聖職者として全教徒達を導き、そして世界平和に努めてきた人物である。
それはまさに神に次ぐ存在と言っても過言ではなく、また彼自身を神のごとく崇拝する信者さえいたほどであった。
全世界で最も信者の多い宗教であるルーゼニア教。アダムズ王国だけで見ても、その過半数がルーゼニア教の信者であるほどだ。そしてその頂点であるラザフォード。彼の所持する権威は、時にアルベルト国王すら凌ぐほどの絶大な力であり、またその格式の高さゆえに一般人では言葉を交わすなど、到底考えられない行為であった。
そんなラザフォードが直接語り掛けて来たのである。アメリアが半ば放心状態になるのも無理はない。ただラザフォード自身は一般市民との接し方をよく弁えているのだろう。自分と対面し、驚きを露わにしない者などそうはいない。だから彼は常に微笑を絶やさず、相手に安心感を抱かせるよう努めていたのだ。
でもどうした事だろうか。ラザフォードはアメリアの頭部に視線を向けた瞬間、少しだけ鋭い表情を浮かべた。ただそれは一瞬の出来事であり、むしろ彼は眩しい物でも見る様に、目を細めながら嬉しそうに言ったのだった。
「そなたもまた、リーゼ姫に劣らぬ美しいお嬢さんだ。やはり女神に愛されし者はそうでなければならない」
満弁の笑みを浮かべながらラザフォードは言う。そして彼は悦びを抑えられない無邪気な子供の様に、少し興奮した声でアメリアに聞き尋ねたのだった。
「そなた、素敵な髪飾りをしていますね。大変お似合いですよ。でもその髪飾りは我らルーゼニア教にとっても替えの利かない大切な物。パーシヴァル王家の生き残りであるリーゼ姫が持つブローチと同様に、神聖なる純血の者こそが身に付けるべき品物であり、またそれらは時として聖なる力を発揮する不思議なもの。そしてそなたも偶然とはいえ、その力の恩恵を授かっている様だ。それはとても不思議な事ではありますが、大変光栄な事でもあるのですよ」
「?」
そう告げたラザフォードは嬉しそうに微笑んでいる。ただそんな彼の告げた言葉を理解出来ないアメリアは首を横に傾げた。
ただそれと同時に彼女はハッと思い出す。リーゼ姫に渡していたブローチは元々は自分の持ち物だった。でもこの人達はそれを知らないんだと。
しかし今それを考えたところで、アメリアは余計に緊張感を高め焦るだけだった。それにふつふつとした嫌な感じもする。でもどうする事も出来ない。
アメリアは危機迫る異様な空気を感じて身を強張らせる。ただそんな彼女に向かい、ラザフォードが笑顔を絶やさないまま質問したのだった。
「一つお伺いしたいのですが。そなた、その髪飾りを何処で手に入れたのです?」
優しく微笑むラザフォード。しかしその瞳の奥は鋭い光を灯していた。そしてそこから放たれた底知れぬ圧力に屈したのか。アメリアは素直に答えてしまった。
「こ、これは知り合いのお爺さんから貰った大切なカチューシャなんです。本当に大切な物」
「ほう。それで、そのご老人は何処でそれを手に入れたか、そなたはお聞きになられましたか?」
「い、いえ。これを貰った時、私は仕事中だったんで。あまり詳しい事は聞いてないんです。それに」
「それに?」
「そ、そのお爺さん。もう亡くなってしまったので。……だから、形見の様な物なんです」
アメリアは視線を下に向け、沈痛な表情を浮かべた。でもその反面、ラザフォードの胸の内は熱く興奮するかの様であった。
ラザフォードは察っしたのだ。アメリアにカチューシャを渡した人物が【グラム博士】なのだと。そして彼は心の中に留めるはずの言葉を、つい口に出してしまった。
「面白い。非常に興味深い。なぜ彼がそなたにそれを渡したのか。運命とはこれほどまでに美しく、これほどまでに残酷であるのか」
「ラザフォード様? 何をおっしゃっているのかよく分かりません」
「こ、これはこれは申し訳ありません。私としたことが、つい取り乱してしまいました。ただ口走ってしまった以上、正直に告げなければなりますまい。そなたが持つその髪飾り。それはかつて女神ヒュパティアが身につけていたとされる【3つの装飾品】のうちの一つなのです」
「え?」
「そして付け加えるならば、その女神の神器に秘められし力を発揮しうるのは、その女神の血を受け継いだ者だけ。信じられぬでしょう。でもだからこそ、そなたはこの場に呼び寄せられたんですよ」
「……」
アメリアは驚きのあまり声が出せない。というよりも、あまりにも現実と掛け離れた話に意識がついていけないのだ。ただそんな戸惑う彼女に対し、ラザフォードはもう一つ質問を投げ掛けた。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、もう一つだけお聞かせ願いたい。そなた、パーシヴァルのリーゼ姫とは、何か関係がお有りなのですか?」
ラザフォードは何やら考え込むよう、長い髭の生えたアゴを摩っている。しかしその目の奥からは、相変わらず鋭い輝きが発せられていた。
「リーゼ姫には子供の時に一度だけ会った事があります。でもその時は姫様だなんて知らなかったから、普通の友達と遊ぶ様に接してしまったんです」
「ほほう。それも運命の悪戯なのか。それともお互いに引き寄せる何かがあるのか。――ところでそなた、どこぞの生まれか?」
「アダムズ北部にあるボーデの町の、もっと北にある小さな里です。北の教会がある山間の里って言った方が分かり易いでしょうか」
「な、なんと! まさかとは思うが、もしやそなたの祖父は【冒険者ハップル】ではないか?」
「ど、どうしてそれを!?」
アメリアは唐突に告げられた祖父の名前に驚くばかりだ。ただそんな彼女の姿を見つめたラザフォードは、少し苦笑いを浮かべて呟いたのだった。
「誠に因果なものだな……。しかしこれが事実であるならば、やはり虚数に込められし未来への座標は、予言通りに存在する事になる。やはり長生きはするものじゃな」
「? あ、あの、仰ってる意味が全然分かりませんが、ラザフォード様は私のお祖父さんを知っているの?」
「よもや、このような事になっているとは。すっかりと私は錯覚に陥っていたのやも知れぬ。この娘こそもしや真の――。いやはや、未来は私の予想を超えたものになっているようじゃな。フフッ」
ラザフォードは含み笑いをしながらアメリアを見つめる。するとその纏わりつく様な視線にアメリアはゾッとした。
「まぁ良い。今宵はもう遅い時間ですから、話しの続きはまた明日、太陽の光の差す中庭でお茶でも飲みながら致しましょう」
ニッコリと微笑みながらそう告げたラザフォードは、後をボイルに託し部屋を出て行く。そしてアメリアはその後ろ姿に底知れぬ怖さを感じて身悶えしていた。
どうしてこんな嫌悪感に苛まれるのだろうか? アメリアは怪訝に思う。相手はルーゼニア教の最高指導者であるラザフォード総主教なのだ。そんなえらい方が悪い人のはずがない。そう思うからこそ、彼女は直感として感じる怖さに訝しさを覚えたのだ。
その後アメリアはボイルに案内され客室に通される。そこは少し広めなホテルの一室のような部屋であり、隅々まで手の行き届いた綺麗な場所だった。
「また明日お呼びに来ます。それまではここでゆっくりして下さい」
相変わらずの無表情であったが、それでもボイルはアメリアに向かい優しい口調で言った。でもそこで彼女は感じた。なぜかボイルは今回の一連の事について、納得出来ていないみたいだと。
なぜ彼女がそう感じたのかは分からない。しかし一人部屋に残った彼女はまたしても不気味な感覚に襲われる。ボイルの態度から感じ取ったのか。それとも意味有りげに微笑むラザフォードの姿を思い出したからなのか。ただそこで彼女が出来たのは、心の中でジュールに助けを求む事だけであった。
「もうわけが分からないよ。お願い、助けてジュール……」
真っ白なシーツの敷かれたベッドにうつ伏せになるアメリア。そんな彼女の頬には涙が流れていた。ここ数日間の混乱した状況に、アメリアの心は疲れ切ってしまったのだ。そして彼女は急激な睡魔に襲われる。体に蓄積された疲労が溢れたのだろう。気が付けば彼女は深い眠りの中に落ちていた。
「トントン」
部屋のドアが軽くノックされる。そしてその音でアメリアは目を覚ました。
カーテンの隙間より陽の光がこぼれて来ている。もう日が登ってから随分と時間が経っている様だ。
恐らくボイルが呼びに来たのだろう。でもなんだろう、妙な感じがする。なんかこう、懐かしい様な。
それでもアメリアは警戒感を強めてドアに近づく。そして恐る恐る彼女はドアの向こう側に聞き尋ねた。
「誰?」
上ずった声だったかも知れない。しかしこの状況で冷静でいろと言われる方が無理であろう。ただそんな動揺する彼女の気持ちに反し、ドアの向こう側からは聞き覚えのある懐かしい声が聞こえて来た。
「アメリアだな。怖がらなくて大丈夫。私だ、北の教会の神父だ」