#78 別れ霜の教会(五)
「今から12年前、俺はグラム博士に連れられてこの里に来たんだ」
ジュールは少し弱々しさの感じられる声でアニェージに話し始める。それは思い出を語るには聊か寂しいものであった。
「捜査の手が博士の足元にまで及んでいたからなのか。それとも研究の為に場所を移さなければならなかったのか。その詳しい理由はあえて博士には聞いていない。まだガキだった俺にしてみれば、そこで逆に説明されても理解出来なかったろうしね。それに俺からすれば、腐れ切ったあのスラムから出られる事の方が、むしろ嬉しく思えていたくらいだから」
まるで昨日の事の様に思い出したジュールは苦笑いを浮かべている。遠い日の記憶に、彼は決して後味の良いとは言えないかつての思い出を呼び起こしているのだろう。
「どういう経緯で友人になったのかは知らないけど、グラム博士とアメリアのおやじさんのハーシェルって人は、お互いに信頼できる友人だったらしいんだ。それで俺は博士に連れられて、この里に来たんだよ」
「お前をそのハーシェルさんに預けて、自分は研究をする為か?」
アニェージが少し怪訝な表情を浮かべて聞き尋ねる。するとそれに対してジュールはまたも苦笑いを浮かべて答えた。
「まぁ、それが一番の理由だろうね。忙しい研究をしながら、ガキのお守をするのは大変だろうから。でも今になって思えば、それだけが理由じゃないってのがよく分かるよ。俺を危険な場所から遠ざけたかった。もっと真っ当な人達と触れ合う機会を設けたかった。そんな親としての愛情が、俺をこの静かな里に連れて来た本当の理由なんだと思う」
「それで、お前はそんな博士の気持ちを分かってあげられたのか?」
「ハハッ、そんなの分かるわけねぇだろ。それまでの俺が何処で育ってきたと思ってるんだよ? ルヴェリエのスラムだぞ。この国で一番貧しくて穢れたクソどもが暮らす場所だ。自分以外の人間は全て疑った目で見ろ。生き抜く為なら他人を出し抜け! 生まれながらにそんな最低な場所で俺は生きて来たんだよ。いくら唯一信じる博士が『この里の者ならば安心して頼っていい』なんて言ったとしても、それでハイ分かりましたなんて簡単に受け入れられるはずがないだろ」
「じゃぁやっぱり、里の人達とは揉めたんだな」
「そりゃそうさ。生きて来た環境が違い過ぎるんだ。そう簡単に上手くいくはずもないよ。分かり合う以前に、他人に対しての根本的な考え方が違うんだからね。相手にしてみれば単に挨拶したつもりでも、俺からしてみればそこに何か企みがあるんじゃないかって勘ぐっちまう。何より俺は相手の笑顔ってやつが疑わしくて仕方なかったから。笑顔を簡単に見せる奴は信用出来ない。俺はそう考えていたんだよ」
「そりゃ、分かり合えるわけないよな」
そう言ってアニェージの方が溜息をついた。当然の事ながら彼女は分かっているのだ。あのルヴェリエのスラムがどれだけ荒んだ街なのかという事を。
この世で挙げられる犯罪の全てが集約し、善と呼べる代物は何一つない。それがあのスラムなのだ。人によってはこの世の地獄とでも呼ぶのだろう。ただそんな環境の中でジュールは育った。いや、生き抜いたのだ。
運が良かっただけなのか。それとも劣悪な環境の中でも生き抜く術に恵まれていたのか。だが少なくとも彼は心身ともに丈夫に育ち、事実生き長らえたのだ。その生命力の高さは驚嘆するべき強さである。ただその弊害として、人として本来普通に育つべく道徳心が彼には希薄だった。
簡単に他人を傷つけ、それと同じくらい簡単に物を盗む。恐らくジュールにしてみれば、それは生きる為の何でもない当然な行為だったのだろう。しかし世間ではそれは立派な犯罪であり、事実として彼は里に来た当初は警察の世話になりっぱなしだった。
ジュールを里に残したグラム博士は直ぐに姿を消し、また同様にハーシェルも冒険家として里を後にしていた。その為ジュールの非行を言い咎める者はおらず、むしろ彼の悪さはエスカレートするばかりだった。
スラムとは違い、のんびりとした平和な環境が物足りなかったのかも知れない。スリルの無い日常が退屈なだけだったのかも知れない。ただジュールの非行が治まらなかったのには、彼を迎え入れた里側にもそれなりに問題があったのだ。
ここは小さな里だ。そしてそこに暮らす者達は、皆心穏やかな優しい者達ばかりであった。ただ小さな集落というものは、時に仲間意識が強くなり過ぎるもの。そう、里の彼らはよそ者を簡単に受け入れようとはしなかったのだ。
いや、それでも里の者とて鬼ではない。見た目や行動が普通で有りさえすれば、そう時間は掛からずによそ者とて受け入れた事だろう。しかしスラム育ちの悪童であるジュールを見る目は、まるで腫れ物に触るみたいに冷たく厳しいものであった。
しかしそんな中で唯一、アメリアとその母であるカロラインだけはジュールに対して偏見な目を持ち合わせてはいなかった。彼女達はいつでもジュールを優しく迎え入れようとしてくれたのだ。
グラム博士との関係性からなのか、それとも主人であるハーシェルの言いつけがしっかりしていたからなのか。ただ少なくともアメリアのジュールへの接し方は、まったく気兼ねの無いものだった。
一体どうしてアメリアは差別なくジュールに接する事が出来たのだろう。恐らくこれを理屈で説明出来る者はいるまい。だって彼女自身が分かっていないのだろうから。ただ困ったことに、そんな彼女の無垢な気持ちをジュールは拒絶し、また他の里の者達までもがそれを嘲笑したのだった。
数ヶ月経ってもジュールと里の者達との折り合いはつかず、むしろ悪化していくばかりだった。
その頃になるとジュールは同年代の少年達だけでなく、大人も含めた年上の者達とも争いが絶えなかった。そして問題をより大きくしていたのは、そのいずれの抗争においてもジュールが勝利を収めていたという事実だった。
やはり育った環境が違い過ぎるのだろう。絶えず命の危険と隣り合わせで生きて来た彼と、腕っぷしに自身があるだけの里のガキ大将とでは、体の造りが違うのだ。たとえ数人がかりであろうとも、ジュールは決して負けはしない。どれだけボロボロにされても、彼は弱音を吐かずに立ち向かったのだ。だがその強さが余計に彼を孤立させた。
そんな彼に優しい手を差し伸べるのは、いつだってアメリアとカロラインだった。傷ついた体を手当し、温かい食べ物を提供する。まるでジュールを実の家族にでもしたかの様な、そんな親愛に満ちた気配りをしてくれたのだ。
でもジュールの精神はまだ幼く、そんな二人の気持ちなんて考えられやしなかった。いや、もしかしたら気恥ずかしくて感謝を伝えられなかっただけなのかも知れない。しかしその時点ではまだ、ジュールと里の間には大きな隔たりが生じたままであった。
荒んだ日々を送るジュールの日常は変わらない。ただ騒ぎというものは、ある日突然に起きるものである。
ジュールの腕っぷしの強さに対し、地元の悪ガキ達は常に舌を巻き憤りを露わにしていた。彼らはどんな卑劣な手段を使っても返り討ちにされる自分達の弱さを嘆くと同時に、ジュールの強さに嫉妬していたのだ。しかしそんなバカな悪ガキ達でも、繰り返されるジュールとの諍いの中で、ついに彼の弱点に気が付いたのである。
ジュールは頭が悪い。それが悪ガキ達の気付いたジュールの弱点だった。売られたケンカは絶対に買うし、どんなに劣勢な状況であっても退く事を知らない。ピンチにおける咄嗟の状況判断や身の回りの自然を上手く武器に仕立て上げる能力の高さは認めざるを得ないが、でもすぐにカッと熱くなる性格は陥れるのに丁度良いはず。彼らはそう思い画策したのだ。そして悪ガキ達はジュールに向け、こう言ったのだった。
「なぁジュール。お前【鳥津木の滝の試練】って知ってるか? もしお前がその滝の試練に打ち勝って【伝説の宝物】を里に持って帰れたら、俺達はお前の言う事をなんでも聞くぜ。でもまぁ、お前みたいな鬼畜に出来るわけないけどな。ハハッ!」
ジュールにしてみれば鳥津木の滝の試練が何であれ、伝説の宝がどうであれ、まったく興味の無い話しだった。しかし彼は他人に笑われるのが何よりも耐えられない性質なのである。だから彼は悪ガキ達の提案を反射的に承諾してしまった。
ジュールは完璧に嵌められたのだ。そして悪ガキ達からすれば、それこそしてやったりと笑いが止まらなかった事であろう。だって滝の試練など、半分以上は作り話だったのだから。
『里の北の山間に小さな教会があり、その教会を越えて更にその先に行った山奥に鳥津木の滝がある。その滝の滝口には1本の桃の木が生えているのだが、そこには世にも珍しい金色の実がつくらしい。しかし重要なのはその実ではない。実はその滝の裏側には隠れた洞窟があり、その洞窟の一番奥には伝説の宝物が隠されているというのだ。そして桃の木に金色の実がつくのは、長く伸びた木の根が洞窟の宝にまで達し、その宝物から養分を吸い取っているからであると言われている。ただし、洞窟には獰猛な野獣が住み着いており、それを倒さねば宝は手に入れられない。だがこの鳥津木の滝の試練に打ち勝った者は、神の祝福を得られるだろう』
それが口から出任せの嘘っぱちだと言う事は、ジュール自身もよく分かっていた。ただ彼は売られたケンカを買わずにはいられなかったのだ。そしてその日の晩に、ジュールは滝を目指して出発した。
昼間は教会の神父が見張っているから滝に近づけない。それにもし下手に神父に見つかったら酷い折檻が待っている。ジュールは悪ガキ達からそう脅されていた。
別に神父が怖いわけではない。でも無駄な争いをする必要も無い。そう考えてジュールは夜になってから滝を目指したのだ。だがこれも単純な悪ガキ達の悪知恵であり、夜の方が野生の獣達が活発になり、より滝に向かうのが困難になるだろうという考えから発せられた嘘であった。
もちろんジュールはそんな悪巧みなど知る由も無い。ただ少しして彼は気付いた。彼を心配してついて来たアメリアの存在を。そしてジュールはアメリアに対し、家に帰るよう吐き捨てたのだった。
「なんだよ、お前。邪魔だからついて来るなよ」
「何よ、ムキにならなくたっていいでしょ。私は面白そうだからついて来ただけなんだから」
「お前は女だろ。何かあっても知らねぇぞ」
「あれ、もしかして心配してくれてるの? なんだ、ジュールって意外と優しいんだね。ありがと」
「ザケんなよ。目障りだから帰れって言ってんだよ」
「でもジュール一人で行ったって、本当に滝まで行ったか証人する人がいなけりゃ、みんなに嘘つきって言われるだけでしょ。だから私が一緒に行って、証人になってあげるんだよ。成功しても、失敗してもね」
「チッ、口の達者な女だな。――勝手にしろよ」
一度は追い返そうとするも、ジュールは渋々とアメリアの同行を受け入れた。いや、里の悪ガキ達と同様に、アメリアもジュールの性格を良く理解していたのだ。それらしい理屈さえ付け加えればジュールは否定しないだろうと。それに彼女自身もドキドキした胸の高鳴りを感じて今を楽しんでいた。やはりアメリアの体には冒険家である父ハーシェルの血が色濃く流れているのだろう。
するとアメリアはジュールと肩を並べて平然と歩き始める。同行を認めてもらったのだから当然だ。彼女はそう思っているのだろう。そしてアメリアはニコニコ微笑みながらジュールに聞き尋ねたのだった。
「ねぇ、一つ聞いてもいい? ジュールが家に来てもう3ヶ月経つのに、まだ私の名前呼んでくれないよね。どうして?」
「くだらねぇなぁ。何でお前の事を名前で呼ばなくちゃいけないんだよ」
「別に恥ずかしがらなくたって良いじゃない。ほら、呼んでみてよ」
「うるせぇな。ついて来るのは仕方ねぇけど、話していいとは言ってないんだ。だから黙ってろよ、ブス」
「な、ブスって誰の事よ、ブスって!」
月が綺麗に輝く夜の山道に、二人の他愛のない罵り合いだけが響いていく。本人達にしてみれば、それは紛れの無い口喧嘩だったのだろう。しかしもしそれを他人が目撃していたなら、それは微笑ましい光景だったに違いない。そしてそんな可愛らしい時間はあっという間に過ぎ去って行く。気が付けばジュールとアメリアは、北の教会のすぐ目の前にまで到着していた。
ジュールとアメリアは息を殺して教会の脇を進む。もうだいぶ夜も更けた時間だ。教会で暮す神父夫妻は熟睡しているだろう。そう思ったジュールは人の気配がまったく感じられない事に気を良くし、少し余裕を見せながら歩みを進めた。いや、もしかしたら緊張しながら同行するアメリアに良いところを見せたかったのかも知れない。だがしかし、彼らは不意に呼び止められる。それは野太い男性の声だった。
「こんなところで何をしている」
それは教会の神父だった。積み上げたレンガを椅子替わりにし、神父は煙草を吹かしている。ここで月見でもしていたのであろうか。ただそんな神父を見て、ジュールは腑に落ちない違和感を覚え気を揉んだ。
(何でだ? 人の気配なんてまったく無かったはずなのに。信じられない、俺が読み違えたっていうのか)
そう思ったジュールは立ち止まり戸惑いを露わにする。自分の直感が外れた事に彼は驚きを隠せないのだ。それにもう一つ。神父と呼ぶにはあまりにも良過ぎる体つきに、ジュールは竦み上がる感覚を覚えていたのだった。
本当にこいつは神父なのか。司祭服の上からでもはっきりと分かるぶ厚い胸板がジュールに疑問を抱かせる。それにここに来て感じる神父からの只ならぬ気配に彼は息を飲んでいた。
(こいつは間違いなく強いぞ。スラムでだって、こんな化けモンには会った事は無い。でも何でこんな奴が教会の神父をやってるんだ)
ジュールは苦虫を噛み潰したかの様な表情を浮かべ困窮する。突然目の前に現れた神父の存在に彼は混乱してしまったのだ。するとそんな彼の戸惑いに気が付いた神父は、物静かなれど力強い口調で告げたのだった。
「こんな時間に何処に行こうとしているんだい? 正直に言ってみなさい。そうすれば、私は女神に誓って君達を咎めはしない」
話口調は柔らかかったが、そこには誤魔化しの利かない強い感覚が支配していた。そしてそれを逸早く察したジュールは、止む無しとばかりに答えたのだった。
「お、俺は鳥津木の滝の試練に向かうところなんだ。里の奴らの鼻を明かす為にね。だから頼むよ神父のおっさん。ここは見逃してくれ」
この場は正直に話した方が得策だろう。誰よりも危機感を嗅ぎ分けるのが得意なジュールは、直感としてそう思い有のままを話した。しかし無残にも彼の訴えは退けられる。神父は鋭い視線をジュールに差し向けながら、低い声で立ち去るよう言ったのだった。
「鳥津木の滝の試練? あぁ、あの洞窟に眠る宝の話しか。でもな少年よ、君が本当にそれを信じているのなら申し訳ないが、あれは全て作り話だ。金色の桃なんて迷信だし、そんな物は有りはしない。鳥津木の滝の試練なんてものは、里の子供達が噂し夢見るだけのお伽噺なんだよ。だからあの滝に行ったところで何も有りはしないのさ。残念だけど、引き返したまえ」
「別に何もなくたって構わないんだよ。俺は滝の洞窟に行って来たっていう【事実】が欲しいだけなんだ。だから――」
「ダメだ。そんな考えなら、尚更滝へは行かせられない。あそこに宝なんて有りはしないが、でも恐ろしい魔物が住みついているのは本当なんだ。あの魔物の強力な毒を浴びれば、大人であっても一溜りも無い。全身が麻痺して指一本動かす事が出来なくなるんだよ。でも厄介なのは、痛みから来る苦痛だけはしっかりと感じるって事なんだ。尋常でない痛みを伴っても、意識は絶対に失わないんだよ。なぜだと思う? それはね、恐怖に表情を引きつらせた獲物が、断末魔の叫びを上げられる様にしているからなのさ。そして魔物はその悲鳴を聞きながら獲物を喰らうんだよ。まったく悪趣味なモンだ。だから君らは諦めて帰りなさい。もしそれでも引き下がらないというのなら、私はこの鉄槌を君に落とし、力づくで里に帰らせるしかないんだがね」
神父はそう告げると、ジュールに向け自らの大きな拳を握って見せた。そしてジュールは生唾を飲み込みながらその拳を注視する。反発出来ない絶対的な強さを彼はその拳に感じたのだ。ただしジュールの往生際の悪さは、この程度の逆境で音を上げるものではない。彼はどうにか神父を出し抜こうと、懸命に頭を回転させたのだった。
(クソ。神父は単純に俺を怖がらせて、滝に向かうのを諦めさせようとしているだけだ。でもこいつの強さはハンパ無いはず。なら仕方ない。一度引き換えすふりをして、頃合いを見てもう一度チャレンジしよう)
気持ちの切り替えが早い。恐らくジュールが生まれながらに持ち合わせる強さの中で、この感性こそが最も早くに覚醒したものなのだろう。そしてその迅速な姿勢に神父の意識は盲目と化してしまった。まさか素直に引き返して行く少年が、大人を欺くなんて考えもしなかったのだ。
やはり神に仕える身であるだけに、神父は人を信じやすい性格なのだろう。そしてそんな神父を出し抜く様に、ジュールは教会を迂回する形で滝を目指したのだった。
「ねぇ、やっぱりやめようよジュール。もし神父のおじさんの言う事が本当なら危ないよ」
「怖いなら帰れよ。初めから俺一人で行くつもりだったんだ。ここでお前が引き返したって何の問題もないさ。それにお前、ホントに邪魔なんだよ」
少し離れた場所から水の流れる音が聞こえる。滝が近い証拠だ。そう感じたジュールは足取りの重いアメリアを置き去りにして進み続けた。
ここまで来て何もせずに帰れるか。ジュールは振り返りもせずに滝を目指す。彼は本気でアメリアを置いてきぼりにしてまでも、目的を果たすつもりなのだろう。ただそんな彼にアメリアは追い縋った。神父が告げた魔物の話しが怖くて堪らなかったが、しかし彼女の性格もジュール以上に強情だったのだ。
気を抜けば立ち所に手足が震え上がるだろう。だからアメリアはジュールの背中を見ることだけに集中して歩みを進めた。ただ突然ジュールが立ち止まった事で、彼女はその背中にぶつかってしまう。そしてアメリアは強打した鼻を押さえがなら、まるで怖気づく胸の内を誤魔化すように文句を吐き出したのだった。
「痛ったーい! もう、急に止まらないでよ。思い切り鼻をぶつけちゃったじゃない」
「おい。それよりこれを見てみろよ。案外悪くない場所だな、ここは」
ジュールはそう言うと、珍しく笑顔を見せながら合図した。一体何を見ろっていうのよ。アメリアは心の中でそう呟く。しかし彼女は目の前に広がった幻想的な景色に一瞬で意識を奪われたのだった。
「綺麗……」
それは眩い月の光に照らされた滝の姿だった。水量は思いのほか少な目だったが、それでも5メートルほどの落差のある滝の迫力は見応えがある。またそこから舞い上がる水しぶきが月明かりに反射し、小さな虹を作り出していた。
本当にここは現実の世界なのだろうか。アメリアはおろか、ジュールまでもがそう思うくらい、目の前の光景は神秘的だった。魔物などではなく、妖精が現れるのではないか。本気でそう考えてしまうくらい、滝の周囲一帯は柔和な感覚で満ち溢れていたのだ。
もしかしたら神父はこの美しい場所に人が近づかないよう、教会で目を光らせているのかも知れない。穢れの無い幻想的な自然を守るために、神父は人を怖がらせているのかも知れない。ジュールはそう思った。そして彼はもう一つ、大切な使命を思い出した。
こんなに綺麗な場所なら、宝が隠されていても不思議ではない。そう思ったジュールは口元を緩めながら滝に近づいて行く。そして彼はそっとその滝の奥に手を伸ばした。
「!」
びしょ濡れになりながらも満面の笑みを浮かべたジュールは、一瞬だけアメリアの方を向く。だが次の瞬間、ジュールの姿は滝の向こう側に勢いよく消えた。
「えっ。ちょ、ちょっと待ってよジュール!」
美しい滝の光景に感動したのも束の間、アメリアはジュールを追い掛け自らも滝の奥にへと飛び込んで行く。そして彼らは噂通りに存在した、滝の裏の洞窟に足を踏み入れたのだった。
幸運にも月の光りが洞窟の入り口を明るくさせている。これなら準備を整えるには好都合だ。ジュールは背負っていたリュックから年代物のランプを取り出すと、それにライターの火をかざして明りを灯した。
「よし、行くか!」
ジュールはそう気合を入れると、護身用に用意した短刀を腰に装着した。万が一という事も考えられる。備えは万全を期した方が良い。ただそんな意気込むジュールに向かい、アメリアが溜息まじりに愚痴を溢したのだった。
「洞窟の探検にアンティークのランプを持って来るって、どういう神経してるのよ。懐中電灯くらい無かったの? ナイフなんか用意する前に、もっと大切な物があるんじゃないの」
「ちっ、これしかなかったんだから仕方ねぇだろ。嫌なら帰れっつーの。どこまでうるせぇんだよ、こいつ」
ジュールは膨れ面を浮かべながら歩き出す。もちろん俺だって懐中電灯くらい探したさ。でも家にあった手頃なライトはこのランプしかなかったんだ。文句があるなら用意を怠っていたグラム博士に言ってくれ。ジュールは心の中でそう吐き捨てていた。ただ洞窟の通路は成人の大人が二人並んでやっと歩けるくらいの大きさだったため、ジュールの用意した古いランプでも十分に役には立っていた。
振り返れば滝のある洞窟の入り口が小さく光っている。洞窟が一直線の証拠だ。それでもやはりランプの仄かな明りだけを頼りに洞窟を進むのはそれなりに神経を消費させる。また洞窟特有のジメジメした何とも言えぬ嫌悪感に、アメリアはおろかジュールまでもが少し緊張していた。だがそれも程なくして落胆に変わる。洞窟に入ってから僅か数分、彼らは行き止まりに突き当たってしまったのだ。
ジュールはランプの明りで入念に周囲を調べる。しかしそこには木の根っこがはびこっているだけで何もなかった。いや、当然と言えば当然な事なのだろう。結局は都市伝説紛いの絵空事に踊らされていただけなのだから。
ジュールは含み笑いを漏らす。たとえ僅かでも、薄暗い洞窟の雰囲気にビビっていた自分自身がおかしくて堪らなかったのだ。でもそこでアメリアが何かに気付く。そして彼女はジュールの肩を掴んで言ったのだった。
「ね、ねぇジュール。ちょっとあそこをランプでよく照らしてみてよ」
アメリアの声は微かに震えていた。するとその感覚がジュールにも伝わったのだろう。彼は表情を引き締めてランプを強く握りしめる。そしてアメリアが指差した場所に明かりを向けた。
「何だよ、これ。随分と古い跡だな。でもこいつは絶対に人の仕業だ。ここに何かがあったんだ。それが宝かどうかは分からないけど、でも大切な何かがここにあったのは間違いない気がする」
ジュールとアメリアが視線を向ける先。そこには土の壁の一部が丸く削られた跡があり、それが人為的な仕業なのだという事は明らかだった。そしてその丸い跡は人の頭部ほどの大きさをしていて、そこに何かが嵌められていたと考えるのは至って自然な感覚であった。
ジュールは他にも何かないかと目を凝らす。すると彼は足元に転がる小さな石の様な物を見つけた。
「何だこれ? 変わった形の石だな」
ジュールは摘み上げたその石を見て呟く。触った感触は石に違いない。しかしその形は何かの実から獲れる種の様であった。
「もしかして、それって種の化石なんじゃない? ずっと昔に誰かがここで種を落として、それが長い年月を掛けて化石になったんじゃないのかな」
「種って化石になるのかよ? でもまぁいいや。この洞窟に来た証しに、こいつを持って帰ろう」
そう言ってジュールは種をポケットにしまった。宝と呼ぶにはあまりにも質素だが、それでも持って帰れそうな物はこれしかない。ジュールは僅かな失望感を抱きながらも、気分を切り合えて出口に向かおうと振り返った。ただその時、アメリアが表情を引きつらせながら呟いた。
「何だか体がベトベトして気持ち悪いんだけど。ジュールは感じない?」
体に何かが纏わり付く嫌な感覚にアメリアは肌を粟立たせる。そしてその正体が蜘蛛の巣である事に気付いた彼女は、身の毛の弥立つ戦慄に駆られたのだった。
いつから体に付着していたのか。薄気味悪い洞窟を進む緊張感で気付かなかっただけなのか。しかし事実としてアメリアの体には蜘蛛の糸がびっしりと付いてる。身動きは今のところ問題なく取れるが、でも粘着質な糸がこれ以上付着すればどうなるか分からない。居も知れぬ恐怖で青ざめるアメリアは、懸命にもがきながらジュールに助けを求めたのだった。
「ぼーっとしてないで手伝ってよジュール。早く糸を取って!」
「チッ。なら少しじっとしてろよ。そんなに動いてたら余計に絡まっちまうだろ。――ん?」
「カサカサッ」
何かの気配を感じたジュールは息を殺す。そして彼は腰の短刀に手を伸ばした。
「な、何。何かいるの? 脅かすのはやめてよジュール」
「静かにしろ。何かが動く気配を感じた。――――そこか!」
ジュールはアメリアの体を押し退ける形でランプの明りを洞窟の天井に向ける。するとそこには胴体だけで30センチはあろう、巨大な蜘蛛がその姿を現したのだった。
「こいつが洞窟に住む魔物って奴か!」
ジュールは短刀を引き抜きながら叫ぶ。だがそれと同時に蜘蛛は口から霧状の唾を勢いよく吐き出した。
「汚ねっ」
「きゃっ」
ジュールは咄嗟に横に飛び唾を避ける。しかし蜘蛛の糸が体に絡んだアメリアは咄嗟に唾を回避出来なかった。すると彼女はその場に倒れ込む。急速に体から力が抜けてしまったのだ。
「お、おい。どうしたんだ、しっかりしろよ」
体勢を低く屈めたジュールがアメリアを気遣う。だがそれに対してアメリアは体を小刻みに震えさせながら弱々しく返したのだった。
「か、体に力が入らないの。そ、それに、痛い……」
彼女の体が麻痺しているのは明らかだった。蜘蛛が吐き掛けた唾には毒が含まれていたのだ。
「神父のおっさんが言ってたのはこの事だったのか! クソッタレが。早く手当をしないとマズいぞ。でも蜘蛛を殺らなくちゃ戻れない。どうする――」
ジュールの額から大粒の汗が流れ落ちる。これほどの窮地は久しくお目に掛かったことは無い。左手に持ったランプで蜘蛛を照らしながら右手で強く短刀を握りしめる。だがその両手にも額と同じく大量の汗が滲み出ていた。
「キキキキキ」
まるで笑っているかの様だ。蜘蛛は耳障りな音を立てながら天井で蠢いている。久々の獲物に喜んでいるのだろうか。だがそんな蜘蛛の動きにジュールは神経を集中させた。
思い切りジャンプすれば洞窟の天井には余裕で到達出来る。だからタイミングさえ逃さなければ、蜘蛛に短刀を突き刺すのは十分可能なのだ。ジュールは不規則に動き続ける蜘蛛から視線を外さない。そして蜘蛛がほんの僅かに動きを止めたその瞬間、ジュールは目にも止まらぬスピードで駆け出し短刀を振り抜いた。
「なにっ!」
ジュールが繰り出した一撃は相当なスピードであったが、しかし蜘蛛はその大きな体格に見合わない速度で彼の攻撃を躱した。すると今度は蜘蛛の方が攻撃を仕掛ける。蜘蛛はジュールの背中に向かって毒の唾を吐き掛けた。
「くっ」
ジュールは袖で口と鼻を覆いながら懸命に飛び退く。毒の唾は霧状だったため、彼はそれを吸い込まない様にしたのだ。そして素早く反転したジュールは、間髪入れずに蜘蛛に切りかかった。
しかしその攻撃も当たらない。なんてすばしっこい蜘蛛なんだ。ジュールは苦々しく表情を強張らせた。半分息を止めた状態で動き続けている為に、体が重く感じるのだ。でもこの程度の逆境で弱音なんて吐くわけにはいかない。ジュールはかつてスラムで経験した絶望的な状況を思い出し、あの時よりはマシだと自分に言い聞かせながら蜘蛛に向かって攻撃を繰り出し続けた。
だが何度攻撃しても蜘蛛はそれらを躱した。やはりこの洞窟内の戦いにおいては、圧倒的に蜘蛛の方が有利なのだろう。なにせここは蜘蛛の住処なのだから。そしてジュールは大きな問題に気が付く。毒の唾を避ける為に息を殺していた影響で体が重いのだと思っていたのだが、実は彼の体にもいつの間にか大量の蜘蛛の糸が絡み付き、その自由度を奪っていたのだ。
「くそっ。俺としたことが昆虫ごときにまんまと嵌められちまったぜ。こいつはちょっとヤバい事になったな」
ジュールの背中に冷たい汗が流れ落ちる。彼の直感がこの窮地にレッドシグナルを発したのだ。するとそんな彼の姿に蜘蛛は察したのだろう。ここが止めの刺しどころだと。
蜘蛛は素早い動きでジュールの周りをぐるぐると回り始める。そして同時に彼の体を糸で巻き付けて行った。完全にジュールの動きを封じるつもりなのだ。それに対してジュールは悲しくもジタバタと足掻く事しか出来ない。ランプを手放し、両手で掴んだ短刀を必死に振りまわす。しかし体の動きが著しく規制されていく中で、そんな雑な攻撃が蜘蛛に当たるはずもなかった。
「うおぉぉぉ!」
ジュールは渾身の力を込めて体に巻き付いた糸を引き千切ろうともがく。しかしそれよりも早く、蜘蛛が彼に飛び掛かった。――がその時、蜘蛛に向かってランプが投げつけられた。
「!?」
ジュールは目を丸くして驚く。そこには全身が麻痺しつつも、最後の力を振り絞ってランプを投げたアメリアの姿があった。
「パリン!」
無念にもランプは蜘蛛に当たる事無く洞窟の壁にぶつかって割れる。ちくしょう、ここまでか……。ジュールはそう思った。だがそこで奇跡が起きる。なんと割れたランプの炎が蜘蛛の糸に燃え移り、急速に広がったのだ。
「ギイイィィ」
蜘蛛が奇声を上げる。どうやら蜘蛛の糸は燃えやすい性質だったようだ。そして蜘蛛自身も火には弱いらしく、混乱した動きで洞窟内を跳ね回っていた。
「今しかないっ!」
ジュールは歯を喰いしばって燃え上がった火の中に自分から飛び込む。そして彼はその炎で体に巻き付いた糸を焼き切った。
「くたばれっ!」
体が炎で包まれながらも、ジュールは渾身の力で短刀を振りかぶる。そして炎に囲まれ動きの鈍っていた蜘蛛に短刀を突き刺した。
「ベキュ」
蜘蛛の体から緑色の体液が勢いよく吹き出す。するとその液体はジュールの体に付着し、燃え上がった炎を掻き消した。
ジュールはこれ見よがしにアメリアの体を背負い上げる。そして彼は無我夢中で洞窟の出口を目指し駆けた。
「ザパーン!」
滝を潜り抜け、そのまま滝つぼに倒れ込む。それでもジュールはアメリアを背負いながら懸命に泳ぎ続けた。そしてどうにか川べりに辿り着く。ただそこで彼は意識を失い掛けているアメリアに気付き、必死な想いで叫んだのだった。
「しっかりしろアメリア! 気をしっかり持つんだアメリア!」
ジュールは痛切に叫んだ。自らの至らなさを嘆く様に。しかしそんな彼の声を耳にしたアメリアは、にっこりと微笑みながら言ったのだった。
「やっと名前呼んでくれたね。ありがと、ジュール」
「バカ。こんな時に何言ってんだよ」
ジュールは呆れる思いがした。こんな死ぬかもしれない時に、名前を呼ばれたくらいの些細な出来事に感謝するなんて、本当に馬鹿げていると。でもなぜだろうか。彼はアメリアの笑顔を見ると、何とも言えぬ安心感に包まれた。そしてそこはまた、月の明かりが眩しい静かな場所に戻っていた。
呼吸を整えるだけの、ほんの僅かな時間が流れる。出来ればもっと休んでいたい。しかし体が麻痺したアメリアの容体を心配したジュールは、疲労困憊の体に鞭を打って彼女の体を抱き起した。そして彼は再度アメリアを背負う為に、彼女の腕を肩に回す。
「あの教会まで戻れば助けられるはずだ」
すでにアメリアは意識を失っていた。安全な場所まで戻れた事に安心したのだろう。いや、もしかしたらジュールに名前を呼ばれた満足感で、それまで張り詰めていた気持ちが緩んだのかも知れない。それでも彼女の体に毒が回っているのは確かであり、それが危険な状態であるのは疑い様がなかった。
「ちっ、いい気なモンだぜ。体が麻痺してるっつうのに、笑ってるんだからさ」
ジュールは意識を失っているアメリアが微かに笑っているのを見てそう呟く。ただそう呆れている彼の表情も、どことなしか優しいものに感じられた。だが次の瞬間、ジュールは背中に只ならぬ殺気を感じて身を強張らせる。そして彼は戦々恐々としながら、ゆっくりと振り返った。
「フザけんなよ。どこから湧いて出て来やがった……」
そこには見るからに血に飢えた野犬の群れがあった。ぱっと見ただけでも軽く十匹はいる。それも全てが大型の部類だ。そしてその野犬どもは涎を垂らしながらゆっくりとアメリアを背負ったジュールの周りを取り囲んで行く。
「クソっ。武器になる物がなにもない。それに何だ、目が霞んで前が良く見えないぞ。ちっ、情けねぇな。俺も少し毒を吸ってたのか」
指先から力が抜ける。それに加えて膝の震えが止まらない。絶望的な状況がジュールの胸の内を支配していく。それでも彼は必死に足を踏み出し、太い杉の木にアメリアの体を寄り掛からせた。
この状態なら背後だけは安全だ。あとはこの野良犬どもを蹴散らすのみ。でもどうする? 思う様に体に力が入らない。いや、たとえ万全な状態だったとしても、この状況を打開するのは難しいだろう。
ジュールは尋常でない緊張感に吐き気を覚えた。自分一人ならば諦める事も出来ただろう。しかし今は一人ではない。傷ついて動けないアメリアが背後にいるのだ。
「こいつだけは絶対に守ってみせる」
ジュールは力の入らない拳を握って構えた。自分はどうなってもいい。でもアメリアだけは助けたい。守らねばならぬ存在をジュールは強く意識する。するとそんな想いが彼に不思議な力を与えた。
右目の奥が酷く熱く感じる。でもそれ以上に漲った力がグングンと湧いて来る。絶望的な状況で感覚が逆に狂っちまったのか。でも今はこれで好都合だ。一匹残らずぶっ飛ばしてやる。
ジュールは無意識に微笑んでいた。彼は滾り出した感情が抑えられないのだ。だがそんな彼に向かい、一匹の野犬が鋭い牙を向けながら飛びかかった。
「バギッ!」
ジュールは向かい来た野犬を思い切り殴り飛ばした。完璧なカウンターを捻じ込んだのだ。すると他の野良犬達は一瞬だけ怯んだ様子を見せる。だがすぐに次の一匹が襲い掛かって来た。
「ドガッ!」
またもジュールは渾身の拳を野良犬に叩き込む。そして攻撃を受けた犬は猛烈に吹き飛び、土の上に転がった。
満身創痍だというのに、これだけの力がまだ出せるなんて信じられない。ジュールは我ながらに驚いた。しかしそんな感傷に浸っている余裕はない。犬達の方もジュールの只ならぬ力に何かを感じたのであろう。今度は複数の犬が束となり、ジュールに向かって同時に襲い掛かたのだった。