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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
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#76 別れ霜の教会(三)

 弱い雨の降り注ぐ中、ジュール達は里に戻ろうと暗闇の森を歩いていた。

 雨で泥濘(ぬかる)んだ足元が覚束ない。いや、そもそも冷え切った体に残る力はガス欠寸前の状態なのだ。足取りが極めて重いのは仕方のない事だろう。

 それでも彼らは桜並木の坂道の一歩手前まで引き返していた。そう、そこは初めに異常を発見した、大量の血が飛び散っている場所だった。

 雨に流されたのだろう。初めに発見した時よりも血痕の量はかなり少なく感じられる。それでも何かが爆発した様な跡はくっきりと残っており、この場所で少なからずアメリアの身に何かが起きていたのは確かなのだとジュール達は改めて感じていた。ただそこでガウスが皆に向けて一声掛ける。体力自慢の彼もさすがに疲れたのだろう。ガウスは背負っていたヘルムホルツの体をゆっくりと地面に下ろすと、凝り固まった肩を回しながら(つぶや)いたのだった。

「ふぅ~。さすがに疲れました。ちょっとだけここで休憩させて下さい。桜並木より、ここの方が雨を(しの)げそうだから」

 ジュールらが休んでいた間もずっと移動し続けて来た彼の表情には、さすがに疲労の色が濃く浮かんでいた。そして何より彼はあの深い森の中から、負傷して自力で歩けないヘルムホルツを背負ってここまで来たのだ。一時の休憩を乞うのは当然であろう。するとそんな疲労困憊のガウスに向かい、ジュールは(ねぎら)いの言葉を掛けたのだった。

「悪いなガウス。お前ばかりに負担を掛けさせちゃって。でもお前が居てくれて、ホント助かるよ。ありがとな」

「よ、よして下さいよ、ジュールさん。里から救援を連れて来れなかった俺の責任なんですから、里に帰るまで頑張りますよ。でも少しだけ休ませて下さい。ちょっと足が痛いんで」

「あぁ。気にしないで休んでくれよ。ただでさえ里を往復して疲れてるのに、重たいヘルムホルツを背負ってここまで来たんだ。お前が十分回復するまで、俺達は待ってるよ。な、ヘルムホルツ」

「当然だよ。それに俺の方からも礼を言うよガウス。こんな重てぇ体をずっと背負ってくれてありがとうな。だけどもう少しだけ辛抱してくれ。悔しいけど、今の俺はお前に頼る以外にはないからよ」

 杉の木に寄り掛かったヘルムホルツは、そう言いながら気恥ずかしそうに頭を掻いた。不甲斐ない自分に面目なさを感じているのだろう。ただ礼を言われたガウスもまた、照れくさそうに苦笑いを浮かべていた。先輩隊士からの心からの礼の気持ちが嬉しかったのだろう。そしてそんな男達の不格好なやり取りにアニェージも微笑んでいた。もう少しで里に戻れる。そんな安堵感もあり、彼女は優しい気持ちになれたのだ。ただそんな安心感がアニェージに冷静さを取り戻させる。彼女は重要な事を思い出し、ガウスに聞き尋ねたのだった。

「そう言えばガウス。お前が一旦里に戻った時だけど、ブロイを見掛けなかったか? お前の代わりにボーデの病院に残ってくれた、あのおっさんの事だよ」

「あぁ。あのコペルニクス社の人ですか。いや、残念ですけど特に見掛けなかったですね。冴えない顔つきのおじさんだったから、あまり印象に残ってないんで怪しいですけど、でも似た感じの人も見なかったっスよ。救援を求めて色々歩き回りましたけど、里の人以外には会いませんでしたから」

「そうか、まだ来てなかったか。――でもこの時間ならさすがにもう到着しているだろう。メールの件が気になるからね、早くブロイと合流しなくちゃ」

 そう告げたアニェージは重たい足にムチを討って歩き出そうとする。彼女は休憩を始めた皆より先に里に向かうつもりなのだ。封神剣の力で気分を害したものの、肉体的なダメージはまったく無い。だからアニェージは負い目を感じていたのだろう。本来であればガウス以上に働かなければいけなかったのだと。

 ガウスが戻るまでの間に十分休息を取った事で体力はそれなりに回復している。ならばここで私が率先して行動しなくちゃダメじゃないか。彼女はそんな責任感に駆られ一人先に里へ向かおうとしたのだ。ただそんな彼女の胸の内に気付いたからなのだろうか、極度の疲労感で一杯なはずのガウスが彼女を呼び止めたのだった。

「ちょっとアニェージさん。もう出発するんですか? だったら俺も行きますよ」

「いや、お前達はもう少しここで休んでいてくれ。大丈夫、ここまで来れば里はすぐそこなんだ。ブロイに出会えたならすぐに戻って来るよ。たぶんブロイはリュザックを連れて来てるはずだから、あいつらと一緒に戻ればガウスの負担も軽く出来る」

「いや、でも」

「心配しなくても大丈夫さ。すぐに戻ってくるよ」

 そう言って笑顔を見せたアニェージは歩み出そうとする。だがそれを制止させるかの様に、今度はヘルムホルツが(おもむろ)に不可解な事を口にしたのだった。


 地ベタに胡坐(あぐら)をかいて座り込んでいるヘルムホルツは、ポケットの中より携帯端末を取り出すと、そのディスプレイのライトで何やら入念に地に生える草むらを調査していた。そして彼は何かを(つま)む様に自分の指先を擦りながら、ジュール達に向かい言ったのだった。

「夕方に見た時は血の跡のせいで気付かなかったけど、ここには妙な物が散らばっているみたいだ。ほら、俺の手を見てくれよ。何かの【粉】が付いているのが分かるだろ?」

 そう告げたヘルムホルツは皆の前に手を向ける。するとその手に引き寄せられる様に、ジュールとガウス、そしてアニェージは彼に近寄った。

 確かに粉の様な物が付着している様だ。ジュールは端末の光で浮き上がったヘルムホルツの手を見てそう思う。ただその粉に奇妙な違和感を覚えた彼は、その漠然とした不安の正体が何であるのかヘルムホルツに問い掛けた。

「うん。なんか【ピンク色した粉】みたいなモンが付いてるな。でもこれが何だって言うんだよ、そんなに珍しい物なのか? どっかで見た事あるような気もするんだけど、俺には思い出せない。なぁヘルムホルツ、お前にはそれが何なのか分かるのか?」

「俺は森に詳しいわけじゃないから分からないし、もしかしたらこういった粉が森の草に付着する現象はよくある事なのかも知れない。でもさ、一般的な感覚で言えば、ちょっと不自然な気がしないか? ましてここは大量の血が飛び散り、正体不明の爆発跡まであるんだ。都合良くこんな粉が自然現象で発生するなんて、少なくとも俺には考えられないよ。それにこの粉の感じ。俺はこの粉を見て最初に思ったんだよね。シュレーディンガーさんが見せてくれた【ミクロ素粒子の結晶】に似ているなってさ」

「ミクロ素粒子の結晶? それってもしかして、瞬間移動に使うって言ってた、あの【不思議な粉】の事か!」

 ジュールが強く聞き返す。するとヘルムホルツはそれに(うなず)き返しながら話しを続けた。

「どうも俺にはこの粉がジュールの言う不思議な粉に見えて仕方ないんだ。まぁ、シュレーディンガーさんから聞いた波導量子力学の凄さが、あまりに強く印象に残っているから変に錯覚しているだけなのかも知れないけどね。でもさ、もしここで仮に瞬間移動が発生したと考えたらどうなる? もちろんアメリアがここにいる時にさ」

「そ、そりゃアメリアはパッと消えるだろうな。――って事は何か、アメリアは瞬間移動したっていうのか!」

 血相を変えたジュールがヘルムホルツに詰め寄る。ジュールは気が付いたのだ。漠然とした不安の正体が、まさにその粉にあるのだと。そしてそれはヘルムホルツが説明したように、シュレーディンガーが見せてくれたあの粉で間違いないはず。そう思った彼の背中に尋常でない悪寒が駆け抜ける。でもどうしてこの粉に(すく)み上がるほどの怖さを感じるのか。アメリアが瞬間移動したとするなら、彼女が無事である可能性は飛躍的に増すはずである。それなのにジュールは意味の分からない不安を感じて戸惑っていた。ただそこでアニェージが考えを口にする。彼女もジュールと同じ当惑を感じたのだろう。でもアニェージはジュールと異なり冷静な判断力を保持していた。そして彼女はジュールが感じる不安を的確に読み取るよう、ヘルムホルツに語り掛けたのだった。

「飛躍した考えだけど、アメリアさんがここで瞬間移動した可能性は否定出来ない。その証拠にあの象顔のヤツは『娘は突然消えた』って言ってたからね。だけどジュールが戸惑うみたいに、腑に落ちない点も多い。そもそもアメリアさんは瞬間移動する為の【銀の玉】なんて持ってないはずだし、それに一番重要なのは、ミクロ素粒子の結晶はシュレーディンガー社長しか持っていないはずなんだ。だからもしお前の手に付着している粉が本物のミクロ素粒子の結晶だった場合、その説明がつかないんだよ」

 アニェージは眉間にシワを寄せながらヘルムホルツを見つめる。するとそれに対してヘルムホルツは首を縦に振って答えたのだった。

「そうなんだ。アニェージが言う通り、俺もそこに引っ掛かってるんだよ。それにこの爆発跡。シュレーディンガーさんは瞬間移動する際に、こんな爆発が起きるなんて一言も言っていなかった。でもこのピンク色の粉がミクロ素粒子の結晶なんじゃないかって事だけは、なぜか俺には確信が持てるんだよね。だからさ、ここは少し考え方を変えてみないか? どうせ今のままじゃ、次にどう行動すればいいか決められないんだしね」

「考え方を変える? どういう事だよヘルムホルツ。ちゃんと説明しろよ」

 焦燥感を露わにしたジュールが急かす様に口走る。するとそれにヘルムホルツは落ち着けとばかりに一呼吸置いてから話しを続けた。

「ふぅ~。ここからの話しはあくまで俺の考えた仮説になっちまう。だからもし信用できないなら聞き流してくれて構わない。ただ少しだけ静かに耳を貸してくれ。じゃぁ始めるぞ。この場所に撒き散らされた粉が本物のミクロ素粒子の結晶であると仮定した場合、ここが瞬間移動の入り口となった可能性は高い。そして瞬間移動したのは、もちろんアメリア本人さ。でもこの際、アメリアがどうやってこの場所から瞬間移動したのか、それを考えるのは止めよう」

「や、止めるってどういう事だよ!」

「まぁ待て。最後まで話しを聞いてくれ。いいかジュール。今の俺達にとって一番大切なのは、アメリアを無事に保護するって事だ。だから目的達成の為の優先順位を考え直すんだよ。この場所からどうやってアメリアが移動したかではなくて、【何処に】移動したのかって方にね」

「どこに移動したか、か」

「そうだよ。だってここが入口なんだとしたら、どこかに必ず出口はあるはずだろ。それにシュレーディンガーさんはこう言ってた。瞬間移動の行き先は、強いイマジネーションによって決まるって。だから俺は考えたんだよ。アメリアは何かの偶然で瞬間移動を発生させてしまった。でもその時にアメリアの頭ン中に強いイメージが思い描かれたとしたなら、間違いなくアメリアはそこに飛ぶはずなんだってね」

「いや、でも出口が事前に準備された場所だったらどうするんだよ? 瞬間移動はリスクが伴うだけに、入口と出口はセットになってるって社長は言ってたじゃないか」

 アニェージが堪らずに反論する。しかしそれに対してヘルムホルツは首を横に振って答えたのだった。

「この状況においては、アニェージの意見は間違っていると思う。確かに俺もその疑問を感じなかったわけじゃない。でもさ、この森に逃げ込んだのはアメリア自身の判断だったとしか思えないだろ。そんな場所に都合良く瞬間移動の入り口を罠として準備出来るか? だから俺は思うんだよ。今回の瞬間移動に限っては、銀の玉を使った瞬間移動とは少し違うものなんじゃないのかって」

「銀の玉と違うもの? 何だよそれって」

「だからそれは分からないって言ってるだろ。でも現実として瞬間移動は発生した。そう考える事からスタートするんだよ。だからさジュール、お前に心当たりは無いか? アメリアが強く思い描きそうな場所を」

「そ、そんな事、急に聞かれてもよ――」

 ジュールは困ったとばかりに考え込む。でもアメリアがパッと思い浮かべる場所なんてそうあるはずも無い。そう思ったジュールは日常的にアメリアが足を運ぶ場所を(つぶや)いたのだった。


「一番最初に思い浮かべるとしたら、やっぱ今暮してるルヴェリエのアパートじゃないのかな。二番目とすれば俺のアパートか、もしくは勤め先の花屋ってとこか。あとはプルターク・モールとかはよく買い物で出掛けるから、思い浮かべるかも知れない。ここが故郷なだけに、実家って線もあるだろうけど」

「それだ! ここはお前達の故郷なんだ。実家以外でさ、この里で思い出に残ってる場所とかないのか? 実家で襲われたんだから、その実家に戻ろうなんて普通は考えない。でも助けを求めるなら、せめて身近な場所を考えるはずだろ。だったらさ、この里の近辺で安全な場所を思い浮かべたんじゃないのか」

 ヘルムホルツが身を乗り出してジュールに迫る。するとジュールはその勢いに少し(ひる)みながらも、思い出したとばかりに返したのだった。

「そう言えばここから少し北上した山間に、小さな教会があるんだよ。【北の教会】って呼ばれてる古い教会がね。普段はほとんど人なんか寄りつかない寂しい所なんだけど、一応ちゃんとしたルーゼニア教の教会らしいんだ。それでその教会が俺達にとって、忘れられない思い出の場所なんだよね。だからもしアメリアがこの里の近辺で思い描く場所があるとしたら、そこになるんじゃないのかな」

「確信は持てるか?」

「うぅ、断言するには少し自信ないかな。俺なんて今こうしてお前に問い詰められるまで、北の教会の事なんてすっかり忘れてたくらいだから。でも思い出してみれば、あそこに暮らしてる神父夫婦には何かと世話になってるし、信頼出来る人達だっていうのは間違いない。だからアメリアが北の教会を思い描く可能性は高いと思うよ」

「そうか。それで、その北の教会って場所は、ここからどれくらいの距離なんだ?」

「そうだな。ここからなら、森を突っ切って行けば一時間は掛からないだろうな」

「走ってか!?」

「あぁ。車で行こうにも、あそこには道らしい道が無いからね。どのみち途中から足で進まなくちゃならない場所さ」

 そう告げたジュールは力強く立ち上がる。そして北の教会がある方向をキツく(にら)んだ。するとそんな彼の決意を感じ取ったのだろう。アニェージがジュールの肩に軽く手を添えて言ったのだった。

「指名手配されたお前にしてみれば、森を抜けて行く方がむしろ都合が良いだろうしな。私も同行するぞ、案内しろ」

「おいおい、お前らだけで行くのか? ブロイさんやリュザックさんと合流してからの方が良いんじゃないのか。ここからはかなりヤバい感じがするぞ」

「いや、だからこそ私達だけで先行するんだよヘルムホルツ。正直私も感じるんだ。ここから先は冗談抜きで危険な状況になるだろうってね。でもそれと背中合わせで一刻を争う状況でもあるんだよ。グズグズしてたらアメリアさんを救えない。だから私達は行くよ」

 そう告げたアニェージは真っ直ぐな視線をヘルムホルツに向ける。そして続け様にその眼差しをジュールに向けた。

 差し迫る危機がもうすぐそこにあると、ここにいる誰もがそう感じていた。もう待ったなしの状況なのだと、口にはせずとも皆は察していたのだ。そしてそんな全員の気持ちを再確認したアニェージは、ヘルムホルツとガウスに向かって指示を飛ばしたのだった。

「お前達は一度里に戻ってブロイと合流を試みてくれ。リュザック達が助っ人で来てくれていれば尚助かるし、それに道が無くてもキャッツ号で飛べば、先行する私とジュールにすぐ追いつけるはずだからね。ただくれぐれも油断はするなよ。敵はどこにいるか分からないし、ジュールの手配の件で地元の警察も目を光らせているかも知れない。だからお前らアダムズ軍が言うところのS級戦闘配備のつもりで行動してくれ」

「分かったよ。でもお前達の方も気を付けろよ。危険だと判断したら、無理はしないで俺達の到着を待ってくれよな」

 そう言ったヘルムホルツはガウスの手を借りて立ち上がる。こうなっては痛む足に構ってなんていられない。どうせジュールとアニェージのことだ。自分の言う事なんて聞かず、どんな危険でも飛び込んで行くだろう。なら早く里に戻ってブロイ達と合流を図るしかない。彼をそう思い、奥歯を強く噛みしめた。ただそんなヘルムホルツの前にジュールが立つ。そして彼はヘルムホルツとガウスに向かい、軽く舌を出しながら感謝の言葉を口にしたのだった。

「ゴタゴタに付き合わせちゃってホントに悪いな、二人とも。でも二人がいてくれてすごく助かってるよ。この借りはいつか必ず返すから、もう少しだけ俺に力を貸してくれ」

 そう言ったジュールはニッコリと微笑んで見せた。強がっただけの苦笑いなのかも知れない。でもジュールが見せたその笑顔に、ヘルムホルツとガウスはスッと胸を撫で下ろす。理由は分からないが、彼らは安心感を覚えたのだ。

 恋人の安否が知れない中で、最も焦燥感に煽られているはずのジュールが気に掛けてくれた少しの優しさ。そんなさり気ない言葉に彼らは嬉しさと頼もしさを感じ取ったのだ。そしてヘルムホルツはジュールに向かい、柔和な眼差しで返したのだった。

「約束は破るなよ、ジュール。絶対にこの借りは返してもらうからな。だから早まったマネだけはするなよ!」

「分かってるって。ヤバそうになったらお前らの到着を我慢して待つよ。じゃぁ行こうかアニェージ!」

 ジュールはそう言うと、再び森の奥へと駆け始める。そしてそれに付き従うようアニェージも続いた。

 ガサガサと草を掻き分け強引に進んでいく二人の足音がみるみると遠ざかって行く。どうやらジュールとアニェージの体力は相当に回復しているらしい。するとそんな二人の呆れる程の足の早さにヘルムホルツは舌を巻く。だがそれ以上に彼は頼もしさを感じて口元を緩めていた。きっとタフ過ぎる二人の姿が無性に微笑ましく感じられたのだろう。でも何故だろうか。その隣に立つガウスだけは、どこか優れない表情で唇を噛みしめていた。



 ガウスの肩を借りながら歩くヘルムホルツが磁石の丘の坂道を下る。そして彼らは程なくして、里の小川に掛かる橋に到着した。

 橋を渡った先はT字路になっており、右に曲がれば里唯一のバス停に、左に曲がれば里の集落に向かう道になっている。走る事さえ可能であれば、一番近い里の民家まで五分と掛からないだろう。ただ負傷を抱えたヘルムホルツの足取りは重く、また疲労困憊のガウスの歩みも同じように鈍いものだった。

 およそ十メートルほどの橋を二人はゆっくりとしたスピードで進む。普段であれば、渓流の柔和なせせらぎが聞こえて来そうなものである。しかし今夜に限っては生憎の空模様の為か、小川は意外な程流れが早かった。

 恐らく今が昼間であれば、この時点で間違いなく里の者に出くわしていた事だろう。ここは里の端ではあるものの、言い換えれば里の玄関とも呼べる場所なのだ。人の行き来はそれなりに多いはず。でもさすがに夜も更け、弱いながらも雨まで降っているこの状況では、人気(ひとけ)がまったく感じられないのは致し方ない。それでもあと少しだと思ったヘルムホルツは、懸命に歩みを進めながら言った。

「橋を渡って左に曲がればもう里だ。あと少しの辛抱だぞ、ガウス」

 それはまるで、自分自身に言い聞かせている様でもあった。それでも決して弱音を吐きはしないヘルムホルツ。しかし彼の足が限界に来ているのは誰の目から見ても明白であり、当然の事ながらそれを察したガウスは心配そうに尋ねたのだった。

「辛そうに見えますけど、痛みが酷いんじゃですか?」

「少し落ち着いた気もしたんだけど、まだ一人で歩くには厳しいかな。でも大丈夫。これでも軍人の端くれなんだから、この程度の逆境には負けてられないさ」

 そう言って微笑んだヘルムホルツの(ひたい)には、かなりの量の汗がにじみ出ていた。彼がどれだけやせ我慢をしようとも、体は正直なのである。それでもヘルムホルツは歩みを止めようとはしない。仲間を想う彼の強い使命感が、前へ前へと足を動かすのだろう。ただそこでガウスが急に立ち止まる。そして彼は神妙な表情でヘルムホルツに問うたのだった。

「な、なぁヘルムホルツさん。どうしてあんたはそこまでしてジュールさんの為に頑張れるんだい? 不安とか怖さとか、感じてないわけじゃないだろ」

「なんだよ急に。こんな所で立ち話してる暇はないだろ。行くぞ」

「答えてくれよ! どうしてあんたは仲間の為に命まで懸けられるんだ? 家族だってんならまだしも、あんたとジュールさんは赤の他人だぞ。そこまでする義理はないはずだろ。いくらガキの頃からの付き合いだからって、俺には正直受け入れられないよ」

 そう告げたガウスの瞳は悲痛さで溢れていた。限界に達しつつある疲れのせいで弱気になっているのか。それとも先行きの見えない現状に極度の不安を感じているのか。ただそんな悲痛さを露わにするガウスに対し、ヘルムホルツは要領を得ない不自然さを感じて仕方なかった。

 確かに危機感というプレッシャーが重く圧し掛かる今の状況で、不安や迷いを覚えないのはむしろおかしいはず。でもガウスは幾つもの実戦を経験したアダムズ軍の精鋭なのだ。命の危機が迫っているからと言って、急に怖気づく男ではない。いや、本来のガウスであれば、それが耐え難い逆境であっても豪快に笑いながら任務を遂行出来るはずなのだ。

 でも目の前に立つガウスの姿に、そんな頼り甲斐のある強さを感じる事は出来ない。やはり何かが変だ。ヘルムホルツはガウスの狼狽した姿にそう確信する。そして彼は目を閉じてから一呼吸すると、再度目を開いてガウスを直視した。


 仲間を疑うなんて気分が良いはずもない。しかしこのまま放っておくのも限界だ。そう思ったヘルムホルツは重い口をついに開く。彼はジュールがいる手前口には出せなかったが、始めからガウスより妙な違和感を覚えていたのだ。そして彼が感じる腑に落ちない疑点を確かめる為に、ガウスに向かって問い掛けたのだった。

「なぁガウス。こんな事聞くのはバカバカしいと思うかも知れない。けどさ、真面目な話だから答えてくれないか。――お前さ、ちゃんと里の人に救援を求めたのか?」

「な、何言ってるんですか、ヘルムホルツさん。そんなの当たり前に決まってるじゃないですか」

「本当にそう言い切れるのか? 確かに陽の暮れた時間で、それも雨の降っているこんな状況で森に入るなんて嫌がられる話しだろう。でもさ、俺が知る限りじゃ、この里に暮らす人達はみんな良い人ばかりだぜ。何人かに声を掛ければ、少なくともその内の誰かは救援に駆けつけてくれると俺は思うんだよ。でもお前は一人も連れずに戻って来た。それってちょっとおかしくないか?」

「そ、そんなの考え過ぎですよヘルムホルツさん。俺はちゃんと助けを求めました。だけど里の人達はあんたが思うよりも冷たかった。ただそれだけですよ」

 ガウスは少し気後れしながらも、はっきりとそう答えた。恐らくこれがジュールであれば、ガウスの言葉を信じただろう。しかしヘルムホルツは矢継ぎ早に次の質問を口にした。

「お前がボーデの病院にいた理由なんだけど、ひょんな偶然から連絡を受けたって言ってたよな。アメリアが城に来た時、お前を訪ねたところから話が繋がったってさ。その件については俺もその通りなんだと思うよ。だけどさ、それだけでわざわざお前がこんな北部に来るなんて、それって少しおかしくないか? 警察はアメリアと連絡を取る事だけを目的としていたはず。それなのにお前は自腹を切って病院に駆け付けた。お前がお人好しなのはジュールから聞いて知ってるけど、でもお前の言葉じゃないが、赤の他人が普通ここまでするか?」

「いや、だってアメリアさんのお袋さんが誰かに襲われて、それで意識不明になったって聞いたんだ。尊敬するジュールさんの彼女の家族がそうなってるんなら、病院に駆けつけるなんて当たり前でしょ!」

「駆け付けるのが早過ぎるんだよ。アメリアとお袋さんが誰かに襲われたのは昨日の夕食時だ。その後変事に気が付いた近所の人からの通報で、お袋さんは病院に運ばれた。そして同時に警察による捜査が開始されたんだ。でもその時点で時間はかなり遅くなっているんだよ。仮にそこで警察がアダムズ城に連絡したとしても、多くの事務員はもう帰宅している。そんな状況で、都合良くお前に話しが伝わるか? いや、問題はそこじゃない。奇跡的に連絡がついたとしても、それからすぐに飛行機でボーデに向かったとして、何時に到着出来ると思う? お前は今朝、それもかなり早い時間に病院から俺に電話をくれたよな。でもそれってさ、俺達がここに駆け付けたみたいに、自家用ジェットでもない限りは不可能なんだよ」

「や、やめてくれよ、ヘルムホルツさん」

「俺はアメリアの実家のキッチンを見て思ったんだ。夕食には三人分の用意があった。あれは来客があったに違いないと。それってさ、ガウス。お前だったんじゃないのか? お前はアメリアが襲われた時、現場にいたんじゃないのか!」

「……」

「そもそも変だったんだよ、お前から初めに受けた電話の内容がさ。お前は今朝端末でジュールと話をした時、確かこう言ってたよな。『あんた、総司令を殺してないよな』ってさ。でもあの時点ではまだ総司令の死亡は公式に発表されてなかったんだ。だから総司令の死を知っていたのは、警察を除けば総司令の家族やごく親しい知人、それに軍の上層部の限られた者達だけだったはずなんだよ。それなのにお前はそれを知っていた。たかが城の警備隊士のお前がなっ!」

 ヘルムホルツは声を荒げてガウスを叱りつける。ガウスのとった不可解な行動に彼は憤りを感じているのだ。だが言葉とは裏腹に、ヘルムホルツがガウスに差し向ける眼差しは柔らかいものであった。はやり彼はガウスの事を大切な仲間であってほしいと願っているのだ。そしてヘルムホルツはガウスの肩にそっと手を添え、優しく聞き尋ねたのだった。

「なぁガウス、本当の事を教えてくれよ。お前に何があったのかを。お前は俺達と行動を共にし、アメリアの捜索に尽力してくれた。その気持ちが嘘じゃないって分かっているから、俺はお前が敵じゃないって信じたいんだよ。だから頼むよガウス、お前が知ってる真実を正直に話してくれ」

 ヘルムホルツが柔和な言葉で語り掛ける。するとそれに対してガウスはグッと奥歯を噛みしめながら身を強張らせた。

 (わず)かなガウスの震えがヘルムホルツに伝わる。きっとガウスは迷い悩んでいるのだ。口に出せない何かしらの事情のせいで、不審な行動を取らざるを得ない事を。でも、それでもガウスならば話してくれる。そう信じたヘルムホルツは、ガウスの目を見つめながらゆっくりと(うなず)いて見せた。

「ふぅ~」

 ガウスは力の入った肩を下ろしながら大きな溜息を吐き出す。そして彼は少しだけ口元を緩めて微笑んでみせた。ヘルムホルツの心遣いに安堵したのであろうか。だが次に彼がヘルムホルツに向かって発した言葉は、まったく思いも寄らぬものであった。

「ヘルムホルツさん。やっぱあんた、キレ過ぎるよ。こんな事したくなかったけど、でも頭の切れるあんたにゃ、ここで退場してもらうしかなさそうだ!」

 そう言い切ったと同時に、ガウスは猛烈な蹴りをヘルムホルツに叩き込んだ。

「ガッ!」

 ヘルムホルツはあまりにも予想外なガウスの攻撃に肝を潰す。それでも彼は反射的にガードして蹴りを受け止めた。科学部隊所属といえども、彼も列記としたアダムズ軍の隊士なのだ。真正面から放たれた攻撃を易々と受ける事など有り得るはずがない。しかし痛めた足に踏ん張りが利かず、彼は表情を歪めながら後退した。

 ヘルムホルツの動きの鈍さは一目瞭然だ。そしてそんな彼をガウスが黙って見逃すわけもない。ガウスは何かを吹っ切る様に一度だけ首を横に振ると、猛然とヘルムホルツに襲い掛かった。

 ガウスの重い右ストレートが唸りを上げる。ヘルムホルツはその攻撃を前屈(まえかが)みに(かわ)したが、痛めた足の影響で反撃までは出来なかった。するとそんな彼の隙を逃すはずもなく、ガウスは畳み掛ける様に左の膝蹴りを繰り出した。

「グホッ」

 ヘルムホルツの体がくの字に折れる。ガウスの膝蹴りが腹部にめり込んだのだ。そして更にもう一発。ガウスは渾身の力で同じ場所に膝蹴りを叩き込んだ。

「ガクッ」

 ヘルムホルツは堪らずに膝を着く。それでも彼は歯を喰いしばって痛みを堪えていた。

 悲痛なヘルムホルツの眼差しがガウスに突き刺さる。なぜこんな事をするのか。何がガウスを変えてしまったのか。ヘルムホルツは信じていた仲間の裏切りに哀しみを感じずにはいられなかった。しかしそんな彼の思いを嘲笑うかの様に、ガウスは容赦なく非情な行為に及んだのだった。

「ガチャ」

 ガウスは懐から小銃を取出し、それをヘルムホルツに向ける。銃を構えたその腕は震えていたが、それでも指先に込める強い力は本物なのだろう。ガウスは覚悟を決めた瞳で冷たく(つぶや)いたのだった。

「恨みはない。けどあんた、少し邪魔なんだよね。悪いな」

「ダンッ!」

 一発の銃声が里に響く。だがその銃声はガウスが発したものではなく、その証拠に彼の足元には着弾した弾の跡から薄い煙が立ち上っていた。

「くそ、なんでこうなるんだよ」

 ガウスは悔しさを滲ませながら吐き捨てる。それでも彼は駆け寄る人影に向かい、警戒心を高めて身構えた。


「やめろガウス! お前、自分が何をやっているか分からないのか!」

 小銃を構えたマイヤーがガウスに狙いを定めながら問い掛ける。そして同時に彼の部下の二人の女性隊士とリュザックがガウスを包囲した。

「銃を捨てろガウス。この状況なら俺はお前より早く引き金を引ける。だから無駄な抵抗はよせ。俺にお前を撃たせないでくれ。それにお前なら分かるはずだよな。俺がハッタリなんて言わない性格だって事を」

 マイヤーは銃口をガウスに向けたまま微動だにしない。彼はその言葉通り、いつでも引き金を絞る覚悟を決めているのだ。するとそんなマイヤーの殺気立った集中力にガウスは尻込みする。彼はマイヤーの比類なき狙撃能力を誰よりも高く評価していた。戦場でマイヤーが背中を守り続けていてくれたからこそ、自分は無茶をして接近戦を戦えた。ガウスはそれを思い返したのだ。しかしその凄腕のスナイパーであるマイヤーが、今は至近距離から自分に狙いを定めている。

「ちっ、駆け付けるタイミングが良過ぎるんだよ」

 ガウスはそう悔しそうに吐き捨てると、観念したかの様に銃を下ろす。そして彼はマイヤーに向かい、苦笑いを浮かべながら告げたのだった。

「ジュールさんがここに居なくて良かったよ。こんなところ見られてたら、俺はやっぱり躊躇(ためら)っちまうだろうからさ。ククッ」

「ガウス、お前!?」

 マイヤーはいつもと雰囲気の違うガウスの姿に戸惑いを見せる。冷静沈着が持ち味の彼も、戦友の明らかな変わり様に違和感を覚えて仕方ないのだろう。だがその時、突然明るいライトの光が彼らの視界を()ぎった。

「なんだ!」

 マイヤーがライトの光を嫌う様に目を細める。しかしその(わず)かな動作は、隻眼の彼にしてみれば痛恨の失態と呼べるものであった。

「ズガンッ、――バシャーン!」

 ヘルムホルツの体が川に突き落とされる。ガウスはマイヤーが見せた一瞬の隙を突き、ヘルムホルツを川へ蹴り落としたのだ。

「ぐはっ」

 ヘルムホルツが懸命に水面から顔を出す。ただ弱いながらも雨が降っていたせいで、川の流れは予想外に速くて激しい。その為にヘルムホルツの体はみるみると流されていく。そしてそんな彼のもがく姿を尻目に、ガウスはマイヤーに向かって冷たく吐き捨てた。

「ヘルムホルツさんは足を怪我してるから、この流れの中自力で泳ぐのは無理だぞ。さぁ、どうするんだ!」

「チッ、裏切りモンが良い気になるなが!」

 リュザックがガウスの脇腹に猛然とタックルを仕掛ける。するとその反動でガウスは手にしていた小銃を手放した。

「エイダはヘルムホルツを助けるき!」

 ガウスに抱きついたままの状態でリュザックが指示を飛ばす。そしてその言葉が終わらないうちに、エイダは川に飛び込んだ。

「どうだがね、これでもうお前に打つ手は無いきよ。大人しく降参するだでな」

「ケッ、そいつはどうかな。あんた、トランザムのくせして詰めが甘ぇよ!」

 そう言うなり、ガウスはリュザックの体を力一杯に抱きかかえる。そしてそのまま彼の体を川に向け思い切り投げ捨てた。

「うわっ、――ザッパーン!」

 今度はリュザックが流れの早い川に流されていく。

「リュザックさん! ……な、ガウス、お前」

 マイヤーは愕然とする。なんと彼の目の前で、ガウスはティニを人質にして彼女に銃を突き付けていたのだ。

 クソ、自分とした事が不覚を重ねてしまった。完全にガウスを包囲した事で、油断してしまったのだ。マイヤーは悔しさを滲ませながら唇を噛みしめる。

「た、隊長。あたしに構わないで、この人を――えっ?」

 人質になったティニは自らの犠牲を覚悟してマイヤーに事態の収束を託そうと願う。だがその時、一台の乗用車が猛スピードで走って来る。そしてその車は彼らの前で急停止した。

「乗れ、引き上げるぞ!」

 運転席から顔を出した目の下に濃い隈のある男がガウスに叫ぶ。するとその指示に(うなず)いたガウスはティニの体を担ぎ上げ、そのままマイヤーに向けてその小柄な体を投げつけた。

「ガッ」

 マイヤーはティニの体をガッチリと受け止める。だがその衝撃で彼は地面を転がった。そしてその隙にガウスは車に乗り込もうとしていた。

「行くなガウスっ。戻って来い!」

 マイヤーは上半身だけを起き上がらせて呼び止める。しかしその声に対してガウスは小さく口を動かすだけであった。

「ブオォォォー!」

 急発進した車が(ほこり)を巻き上げて走り去って行く。そして遠ざかる車のテールランプの明りを見つめたマイヤーは、最後にガウスが(つぶや)いた言葉を想い返していた。

「済みません」

 車に乗り込む際、ガウスは確かにそう言ったはずだ。ならばまだ少なくともガウスには俺達に対して罪悪感を抱く余地が残されている事になる。でもそれ以前に、なぜ彼はこんな裏切り行為に及んだのだろうか。

 マイヤーは戦友から突き付けられた突然の離反に戸惑うばかりだった。そして遥か下流で、エイダの助けにより川岸までたどり着いたヘルムホルツもまた、ガウスの行動に苦汁するばかりだった。

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