#75 別れ霜の教会(二)
三人の訪問者を前にした神父夫人は即座に察する。それらがアメリアを迎えに来た親族などではないのだと。なぜなら夫人は現れた三つの人影のうち、一人の男の事を良く知っていたからだ。
その男はかなり姿勢の悪い猫背をしており、かつ目の下に濃い隈がくっきりと浮かび上がっている。またそれにも増して卑しそうな顔つきをしている為に、薄気味の悪い印象が強いのだろう。そしてそんな不気味な男を前にした夫人は、只ならぬ恐怖感を覚え後退りした。
どうしてこの男が今ここにいるの? 夫人は頭が真っ白になりそうなほど戸惑う。恐らく彼女にとってこの男は、真に受け入れ難い相手なのだろう。それでも夫人は咄嗟に切り出した。彼女はアメリアが不審な男から逃げていたという話しを思い出し、それがこの男なのではないのかと勘繰ったのだ。
「これは【ゼーマン】さん。お久ぶりです。でもどうしたんですか、あなたがこの教会を訪ねるのは、四年に一度【種】を回収する時だけのはず。次に種が実るのは【来年】ですよ」
「フン。まぁ、いつもはそうなんだがね。今回はちょっと別件で来たんだよ」
そう言った隈の男は面倒臭そうな表情で夫人に向かい話しを続けた。
「まったく、毎度の事ながらいつ来てもここはクソ田舎だね。なんも無くてホントつまんねぇよ。でもよう、こちらの方々がどうしてもここに用事があるってモンだから、俺は案内役にされちまったんだよね。正直なところ、こんな田舎大っ嫌いだから来たくねぇんだけどさ、でもそれ以上に恥かくのもカッコ悪ぃだろ? だからさ、俺の言う事を素直に聞いてくれねぇかな、おばちゃん」
そう告げたゼーマンは不敵な笑いを浮かべた。卑しくて醜く、この上ない気持ち悪さを感じる。吐き気すら覚える程だ。一体どうすれば、こんなにも人を不愉快な気持ちにさせられる人間に育てられるのだろうか。そう思った夫人は極度の嫌悪感を感じて身悶えする。ただそれでも夫人はゼーマンの後ろに控える二人の人物に視線を向けて、それらが何者なのか察しようとした。
一人は身長2メートルはあろう大男。そしてもう一人は銀髪が印象的な女性であった。特にその女性の方は、少しつり上がった目尻がキツく感じられるものの、それでもかなりの美人である。それがこんな薄気味悪いゼーマンと一緒に、何を目的としてこの教会に来たのであろうか。
そう考えた夫人は勇気を振り絞り、女性に向かって話し掛けようとする。少なくとも目の前にいる者達の中で、その女性だけが話しを聞く耳を持っていると思ったのだ。だがしかし、そんな夫人を押し退けてゼーマンが教会の中へと入り込んだ。
「ちょ、ちょっとゼーマンさん。あなた勝手に何してるんですかっ!」
夫人は反射的に隈の男を強く呼び止める。意を決して女性に話し掛けようとしたにも拘らず、出鼻を挫かれた憤りが無意識に強い口調として発せられたのだろう。しかしそんな夫人の強い態度にゼーマンは冷酷な口調で言い返したのだった。
「娘がいるはずだ。隠してもロクな事はないぜ、おばちゃん」
「そんな人はいません。教会にいるのは私だけです」
「あのなぁ、おばちゃん。今更しらばっくれたって遅ぇんだよ。だってよ、あんたの電話に出たのって、そこにいるデカい人なんだからさ」
「えっ。あ、いや、何か勘違いしてませんか。私は電話なんてどこにも」
「ズドン! ――ドザッ」
鈍い音が教会に響く。そして夫人の体は教会の入り口から吹き飛び、数メートル離れた礼拝堂に転がった。
「あちゃ~。あんた加減てものを知らねぇのかよ、【ローレンツ】さん。あんたの一撃喰らったら、並みの男だって悶絶するほどなんだ。それをあんなババァに喰らわせるなんて、話しを聞く前に殺しちまうだろうがよ」
ゼーマンは頭を掻きむしりながら面倒くさそうに吐き捨てる。彼はローレンツという名の大男が見せたあまりの傍若無人ぶりに呆れているのだろう。ただ次の瞬間、ゼーマンは心臓が凍る程の怖さを感じて身を強張らせた。
ゼーマンの肩には白い女性の手が添えられていた。そしてその手の持ち主である銀髪の女性の目を見て、ゼーマンは更に萎縮する。まるで大蛇に見つめられた蛙の様に。
女性はうっすらと微笑んでいた。赤く彩られた唇が微かに震えているのが分かる。この状況を楽しんでいるとでも言うのか。そして身を硬直させるゼーマンの首に腕を回した女性は、その耳元で小さくこう囁いた。
「まぁ見てなよ。私達のやり方をね」
「ゾク」
その言葉を聞いたゼーマンは、またしても戦慄を感じて背中を粟立てた。自慢じゃないが、俺だって世間から見れば相当な凶事を働いているはず。窃盗や強姦なんて日常茶飯事であり、人殺しだって楽しめながら出来るほどだ。それなのに、この俺様が怖さで震えている。やっぱりこの女は【デービー】の旦那と同じなのか。
ゼーマンは背中に冷たい汗を掻きながらそう思う。長く裏稼業に身を置く彼の直感が、女の本質を見極めたのだ。そしてゼーマンは目を見張った。女が告げた様に、事態は自分達にとって都合の良い方向へと進んでいたのだった。
「やめて! あんた達の目的は私なんでしょ!」
そう叫びながらアメリアが現れた。そして彼女は意識無く倒れている夫人に駆け寄る。初めから自分が訪問者の前に出ていれば、関係のない夫人を巻き込む事も無かったのに。アメリアは胸の中で激しく悔やんだ。だがそれ以上に彼女は許せない行為に及んだゼーマン達をきつく睨み付けたのだった。ただそんなアメリアの姿を見た女が嬉しそうに言う。それはまるで、無邪気に状況を楽しむ少女の様でもあった。
「ほ~ら、やっぱりいるじゃないか。神様の言うと通りってね」
女は不気味に瞳を輝かせる。いや、予想通りの展開に気持ちが疼いて堪らない。女はそんな高揚感に胸を躍らせているのだ。そしてそんな女の気持ちの高まりにゼーマンは改めて畏怖する。ただ彼は姿を現したアメリアを一目見て思い出したのだった。
「ん! お前、アダムズ城の駐車場で【鉄人ジジィ】と一緒にいた娘だな。なんでお前がこんな田舎にいるんだよ?」
あまりの偶然にゼーマンは驚く。そう、あれは確か研究施設から脱走した少女を探している途中だった。そして共に行動していたデービーが城の駐車場で目を付けた女。それが今目の前にいる娘じゃないのか。でもどうしてあの時の娘が今ここに居るのか。ゼーマンは奇妙な違和感を覚えて表情を顰めた。
ゼーマンは戸惑いを感じている。というよりも、何か悪い予感がしてならないのだ。それなりに場数を踏んでいる彼だけに、危険に対して鼻が利くのだろう。ただそんなゼーマンのたじろいだ姿を見た銀髪の女も思い出していた。そうだ、この娘は間違いなく、アダムズ城で出会った娘であると。
「ふ~ん。珍しい事もあるもんだね。ねぇ、お嬢さん。確か何日か前に、私達はアダムズ城の裏門で会ってるよね。ほら、リーゼ姫の愛犬をあなたが宥めてくれていて、そこに私が駆け付けた。どう、あなたの方も思い出した?」
女はそう言うとニッコリと笑ってみせた。するとアメリアの方もその笑顔に記憶が甦る。城に納品する花を配達しに行ったが、あの日は何か事件があって城の中に入れなかった。でもその時に突然大きな犬が現れて、その後にリーゼ姫と偶然再会したのだ。あの日の事は忘れない。そして姫の愛犬を追っていた女性の軍人さん。それがまさに目の前にいる女性なのではなかったか。
銀色に輝く髪が印象的であるがゆえ、間違えるわけもない。それにその女性の横に立つ長身の大男。彼もまた、あの時姫の愛犬を追っていた大柄な軍人だったのではないか。
自分の記憶に間違いながないとアメリアは確信する。しかし何故その軍人がこんな場所にいるのだろうか。いや、問題なのはそこではない。正規の軍人であるはずの二人が、どうして真っ当なはずもない隈の男と一緒に行動しているのか。アメリアはその事に気を揉んでいた。
彼女はリーゼ姫に関係する記憶を思い出す事で、さらにもう一つ記憶を呼び起こしたのだ。かつて目の前にいる隈の男は、桜並木の坂道で自分と姫を襲った男の一人であったと。だから彼女は不審さを露わにして女に向かい尋ねたのだった。
「あなた、アダムズ軍の方ですよね。それもかなり階級の高い方だったと、あの時の私は感じました。そんなあなたが、どうしてこんな酷い事をするんですか!」
アメリアは鋭く女を睨みながら問い掛けた。気を失っているだけで、夫人の命に別状はないだろう。でもこんな暴行が許されるわけが無い。それも軍人が一般の市民に手を上げるなんて以ての外だ。
意味が分からない状況の中で狼狽えつつも、アメリアは懸命に抵抗を試みる。だがそんな彼女に対し、銀髪の女は苦笑いを浮かべながら答えたのだった。
「参ったね。デカルトのクソ野郎が邪魔しやがるから、変に面倒な事になっちまったじゃないか。チッ、死んだと思わせといて、私達を出し抜こうって算段かよ――。でもまぁいいや。お目当てはここに居るんだしね。ねぇお嬢さん。あなた【写真】持ってるでしょ。まだ国王が小さかった頃の写真。悪い事は言わないからさ、それを私に渡してくれないかな? そうすればこれ以上手荒なマネはしないからさ」
「そんなもの持ってません。それより私の質問に答えてよ。どうして軍人のあなたがこんな事をするの!」
「あら、強情なのね。でも私、気の強い女の子って好きよ。だって私がそうだから、フフッ」
不敵な笑みを浮かべる女。その笑みにどんな意味が込められているのかは分からないが、でもそれが余裕に満ちた微笑である事に間違いはない。恐らく女はアメリアの必死な抵抗を健気に感じているのだろう。ただそれでも女は少しだけ真剣な表情に戻ると、アメリアに向かって再度要求したのだった。
「時間さえあれば、もっとあなたと楽しい時間を過ごしたいんだけど、そうも言っていられないのよね。だからあまり手間を掛けさせないで。さぁ、持ってる写真を出しなさい」
「そんなの持ってないって言ってるでしょ! ううん、たとえ持ってたって、あなた達の様な人に渡せないわ!」
「それ以上調子に乗らない事ね。あなたの目に私がどう映っているのか知らないけど、気の短い方だって事だけは伝えておくから。だから要件は手短に済ませたいの。もう一度だけ聞くよ。写真を渡しなさい」
「嫌よ!」
鋭い視線の応酬を交わすアメリアと銀髪の女。ただそんな女性同士の言い争いに割って入ったのは、表情を酷く曇らせたゼーマンだった。
「な、なぁ【シャトーレ】さんよ。手間掛かるんだったら、一旦出直すってのはどうかな? なんかこの教会、嫌な気がしてならねぇよ」
「チッ、何ほざいてんだテメェ。小娘より先に貴様からブッ殺すぞ! 邪魔をするな」
「いや、だってよ。俺は思い出したんだよ。こいつ、あの【羅刹のハーシェル】の娘だぜ。俺ァこいつがまだガキの頃に一度会ってんだ。間違いねぇよ」
「へぇ。この子があのハーシェルの娘なのか。そいつは随分と頼もしい限りだね。でもそれが何だって言うんだい。この娘が羅刹の子だろうが鬼の子だろうが、この娘自身はただのひ弱な女さ。怖がる理由なんて何処にもないだろ」
「そ、そりゃそうなんだけどよ。でもさシャトーレさん。デカルトはこの娘を坂道から森に追ってたはずだぜ。それなのに何でこいつはこんな山奥の教会にいるんだよ?」
「ハッ。なにを臆病風に吹かれてんだい。そんなの決まってるだろ。この娘が森でデカルトを撒いてこの教会に逃げ込んだ。ただそれだけの事さ」
銀髪の女であるシャトーレは憤りながら吐き捨てる。この状況で何をそんなに躊躇する必要があるのか。小娘一人を締め上げ、目的の写真一枚を手に入れるだけの楽な仕事であろうに。それを変に勘ぐって怖がるなんてバカバカしいにも程がある。彼女はそう思っているのだ。
しかしゼーマンは違った。追い縋るデカルトを森で撒いて教会に逃げ込んだ。そんなはずあるわけがない。そもそもデカルトから逃げ切るなんて出来っこないんだ。あいつの常人離れした身体能力は、かつて共に仕事をした自分には良く分かっている。その怪物じみた男から逃げ伸び、娘はこの教会に辿り着いた。そこには絶対に何か理由があるはずなんだ。そう考えるゼーマンは、憤るシャトーレに睨まれながらも、自らの直感から来る警戒感に身を竦ませるしかなかった。
するとそんなゼーマンの態度に失望したのだろう。シャトーレは彼に向かい唾を吐き捨てると、大男のローレンツに向かって指示を飛ばしたのだった。
「ペッ、使えない奴め。やはりこの特務をこいつらに任せるのは無理があるようだね。仕方ない。ローレンツ、少し痛めつけてやんな」
指示を受けた長身の男がアメリアに迫る。そして男はアメリアの目の前に屈み込むと、低い声で小さく告げた。
「女子に手を上げるのは不本意だが、今回に限ってはそうも言ってられん。でも出来る事なら暴力は避けたい。どうだ、写真を出してはくれないか?」
「冗談言わないでよ。おばさんを蹴り飛ばしといて、今更暴力振るいたくないなんて虫が良過ぎるでしょ!」
「ガンッ!」
アメリアの体が為す術無く宙を舞う。そして彼女の体は礼拝堂の長椅子を薙ぎ倒して床に転がった。
「う、うぅ」
アメリアはローレンツが放った強烈な裏拳を顔面に浴びていた。猛烈な痛みが顔面に伝わり身動きが取れない。それでも彼女は意識を保ちつつ、懸命にその場から動こうとした。
逃げ場なんてどこにも無い。それどころか苦痛に虐げられ、手足の動きすらままならない状態だ。それでもアメリアは必死に男から距離を取ろうと足掻く。そうする事で少なくとも夫人の巻き添えを防ごうとしたのだ。
しかしそんなアメリアに無情にもローレンツは接近する。そして男は彼女の脇腹を強く蹴り飛ばした。
「ガハッ」
強烈な一撃を喰らったアメリアは息が出来ずに悶絶する。するとそんな彼女の苦しむ姿を見たシャトーレが楽しそうに言ったのだった。
「言わんこっちゃない。素直に私の言う事を聞いて入れば、こんな痛い思いをしなくて済んだのに。けどローレンツもやり過ぎだね。あれじゃお嬢さん、口が利けないじゃないの。もう仕方ないね。おい、ゼーマン。お前、あのお嬢さんの身包み剥がして調べてみな。そういうの得意だろ」
シャトーレは軽蔑する視線を投げ掛けてゼーマンに言う。恐らく彼女はゼーマンの様なチンピラを、社会のクズ以下としか思っていないのだ。でもそれはある意味的を得た考えであり、また当のゼーマン自身も痛みに悶えるアメリアの姿に滾る感情を抑えられずにいた。
理由の分からない不安に駆られていたはずのゼーマン。だがやはりこの男は根っからの粗暴者なのだろう。嫌な予感に苛まれつつも、目の前にぶら下がったご褒美に彼は目を輝かせる。そしてアメリアに近づいた隈の男はそのまま馬乗りの体勢になると、服の上から彼女の胸を鷲掴みにして言ったのだった。
「へへっ、結構上玉に育ったもんだぜ。あん時は邪魔が入ってお預け喰らっちまったけど、今度こそは気持ちいい思いさせてくれよ」
ゼーマンは垂れそうになるヨダレを啜りながらアメリアの服に手を掛ける。一気に服を引き千切るつもりなのだろう。だがその時、男の一瞬の隙を突いてアメリアがその顔を思いきり平手打ちした。
「バチーン」
予想外の反撃にゼーマンはたじろぐ。しかしこれでも男は裏社会でそれなりの経験を積んだ者なのだ。たかが女性の平手打ちなど、指たるダメージにはならないだろう。その証拠に男はもう一撃を放つために振りかぶったアメリアの腕を強引に掴み上げると、空いた方の拳で彼女の顔を思いきり殴りつけた。
「ガンッ」
アメリアの体からぐったりと力が抜ける。ゼーマンの一撃で彼女は気を失ってしまったのだ。すると男はここぞとばかりに彼女の服に手を掛ける。今度こそ剥いちまおう。ゼーマンの頭の中にはそれしかなかった。
「おい、好きにするのは写真を手に入れてからにしろよ」
シャトーレは意識のないアメリアに容赦なく襲い掛かるゼーマンに向け、呆れながら一声掛ける。だが次の瞬間、
「ドガァーン!」
ゼーマンの体が猛烈な勢いで吹き飛び教会の壁に叩きつけられた。一体何が起きたのか。まったく予想し得ない事態にシャトーレとローレンツは咄嗟に身構える。軍人としての本能が働いたのだろう。ただそこで彼女らは驚きのあまり目を丸くした。なんとゼーマンを吹き飛ばしたのは、意識無く倒れていたはずの神父夫人だったのだ。
「クソ。痛ぇじゃねぇかよ、このババァ」
後頭部を押さえたゼーマンが苦々しく吐き捨てる。不意な攻撃にダメージを受けながらも、彼は怒りを露わにせずにはいられなかった。いくら無防備だったとはいえ、中年の夫人に背中を蹴り上げられたなんて、彼にしてみれば決まりが悪いにも程があったのだ。しかしゼーマンは夫人の変貌した姿にギョッとする。なんと夫人は白目をむいた状態であり、とても意識が回復しているとは思えなかったのだ。
「チッ、何なんだよ、このババァはよ」
「少し様子が変だ。用心しろゼーマン」
不可解な夫人の姿にシャトーレが注意を促す。だが頭に血が昇ったゼーマンにその声は届かない。隈の男は素早くナイフを手に取ると、それを夫人に向けて飛び掛かった。
「死ねやババァ!」
「ズガンッ」
鈍重な音と共にゼーマンの体がまたも吹き飛ぶ。なんと夫人は突き出されたナイフを躱しながら、同時にカウンターのタックルを浴びせていたのだ。
「く、くそっ垂れが。俺様がこんなババァに、フザけんなよ!」
怒気を噴出させたゼーマンが大声で張り裂けぶ。しかし夫人が繰り出した衝撃は予想以上に利いているらしく、足元をふらつかせたゼーマンは立つのがやっとだった。するとそれを見ていたローレンツが小さく呟く。
「面白い」
長身に見合わぬ素早い動きでローレンツが夫人の背後を取る。そして大男は渾身の力で夫人の頭部を殴りつけた。――がしかし、
「!」
ローレンツは目を疑う。確実に放ったはずの拳が躱されたのだ。それどころか夫人は体を捻ってローレンツの攻撃を躱すと、その勢いを利用して大男の首に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐわっ」
ローレンツの長身が礼拝堂の床にめり込む。大男の体は木製の床に首だけを突っ込んだ形になった。すると今度は夫人の方が攻撃に出る。身動きの取れないローレンツの脇腹に、夫人は渾身の蹴りを捻じ込んだのだ。
「ドンッ!」
長身の体が勢いよく吹き飛ぶ。そしてその体はふらつきながら立ち尽くすゼーマンに直撃し、そのまま壁まで吹き飛んだ。
「ドカドカ、ズサッ」
二つの体が礼拝堂の隅に転がる。壁に強く激突した二人は、そのダメージの大きさに表情を歪ませるしかなかった。
「おいおい。大の男が二人して何やってるんだよ」
無様な奴らだ。あまりに不甲斐ない男達の姿にシャトーレはそう呆れる。だが次の瞬間、彼女の背筋に緊張が走った。シャトーレの瞳に映る夫人の姿。それは歩幅を大きく開き、踏ん張った姿勢で右の手の平を前に差し出したものだった。
一体何のつもりだ。そう思いながらもシャトーレは咄嗟に防御を取る。彼女の直感が危険シグナルを発信したのだ。すると案の定、夫人より信じられない攻撃が発せられたのだった。
「ボンッ!」
発火音と共に、夫人の手の平より【火の玉】が発射される。そしてその火の玉は爆発的なスピードで一直線にシャトーレへ向かい飛んだ。
「ボガァァーン!」
シャトーレは両腕をクロスさせて火の玉をガードする。しかしその衝撃は凄まじく、彼女の体は教会の窓を突き破って外にまで飛ばされた。
「バラバラバラ――」
砕け散った窓ガラスが周囲に散らばる。そして冷たい外気が教会の中にどっと流れ込んで来た。するとその冷たさを感じて意識を取り戻したのだろう。アメリアがゆっくりと目を開いた。
少し肌蹴た服をさっと整える。だがアメリアが出来たのはそこまでだった。目の前で起きている状況がまったく理解出来ない。彼女はただ、目を丸くしながら変貌した夫人を見つめるだけだった。ただそこでアメリアは反射的に声を上げる。彼女は夫人に対して左右に展開したゼーマンとローレンツが同時に飛び掛かったのに気付き、それを知らせるべく叫んだのだ。
「危ないおばさん!」
黒い影の塊となった二人の男が夫人に迫る。だがそんな男達に対し、夫人は両腕を広げて手の平をそれぞれの男に向けた。
「ボンボンッ!」
夫人の両手より、またも豪速の火の玉が発射される。そしてその火の玉は迫り来るゼーマンとローレンツを弾き返し、シャトーレ同様に教会の外へと吹き飛ばした。
「ぐわっ」
「ガハッ」
ゼーマンとローレンツは互いに地面を舐める形でひれ伏している。火の玉の衝撃が想像以上に利いているのだ。そしてそんな二人の男に更なる追い打ちを掛けるべく、夫人も教会の外へと飛び出した。
夫人の迫る速度は尋常でないスピードだ。それこそ目で追う事すら困難な程である。それでもこれは現実なのだ。ゼーマンは歯を喰いしばりながら迫る夫人の攻撃に身構える。だがその時、彼を背後より飛び越したシャトーレが、猛スピードで接近する夫人の体を弾き飛ばした。
「ドガン!」
夫人の体が地面を転がる。そしてシャトーレはその姿をキツく睨みながら口走った。
「ハッ。どんなトリックを使ったかは知らないけど、良い気になるなよ。アダムズ軍の最高部隊【コルベット】を敵に回したらどうなるか、思い知らせてやる!」
シャトーレの瞳が怪しく輝く。するとどうした事か、彼女の体が急速に膨れ上がった。そしてその姿はあっという間に人外の化け物の姿に変化する。なんとシャトーレの姿は【腐った兎】の顔をしたヤツへと変貌を遂げたのだ。
「キィィィー」
ヤツに変化したシャトーレが真っ赤な瞳を光らせながら奇声を発する。するとその声に起因したかの様に、ローレンツもまた瞳を訝しく輝かせた。
ただでさえ大きかったローレンツの長身がみるみると肥大していく。そして彼の姿は教会の二階に達する程の大きさにまで変化した。
「グオォォォ」
大地を揺るがす咆哮が山に轟く。四肢をがっちりと地に固定したローレンツの姿は完全にヤツのものへと変化しており、それはまさに【腐った犀】の顔をしたものであった。
突如として姿を変化させたシャトーレとローレンツ。彼女達はコルベットの隊士でありながら、その正体は人外の化け物だったのだ。そしてその姿を教会の中から見ていたアメリアは肝を潰す程に驚いていた。さまかこんな化け物が本当に居たなんてと、彼女は信じられない光景に心が追い付いていなかったのだ。半ば放心状態のまま、アメリアは唖然と状況を見つめている。だがそんな彼女の驚嘆ぶりを更に助長する現象が目前で発生した。なんとゼーマンまでもが二人に遅れを取るまいと、その姿を化け物のものに変化させたのだ。
ゼーマンの全身が黒々とした毛で覆われて行く。そして同時に巨大化したその姿は【腐った狸】の顔をしたヤツのものになっていた。
これが現実であると誰が信じられるであろうか。ヤツという存在が1体いただけであっても、それは常軌を逸した状態を意味するほどなのである。それが今アメリアの見つめる先で、三体ものヤツが姿を現しているのだ。シャトーレが変化した兎顔のヤツ、ローレンツが変化した犀顔のヤツ、そしてゼーマンが変化した狸顔のヤツ。現実を受け入れられない状況にアメリアは酷く尻込みする。だがしかし、そんな彼女の戸惑いを一気に薙ぎ払う別の事態が目の前で発生した。
狂気を剥き出しにしたヤツが三体も目の前に現れたならば、それは絶望を感じて然るべきはず。それなのに状況は依然として変わりなかった。なんと三体のヤツを相手に、夫人は退くどころかむしろ攻撃を畳み掛けたのだ。
夫人は目にも止まらぬ早さで兎顔のヤツに攻撃を仕掛ける。戦況を見守るアメリアにとって、それは文字通りまったく目で追う事の出来ないスピードだった。だがそんな途轍もない速度で迫る夫人からの攻撃を兎顔のヤツは紙一重で避けた。恐らく兎顔のヤツもスピードに長けているのだろう。ジャンプ一番で夫人からの攻撃を躱した兎顔のヤツは、そのまま十メートル上空にまで飛び上がった。
驚異的なジャンプ力である。ヤツの巨体をこれ程にまで跳躍させるなんて、常識的な筋力では計り知れないのだから当然だ。しかしそんな兎顔のヤツを夫人は逃がさない。
夫人は上空に飛び上がった兎顔のヤツを見定めると、自らの手の平を地面に向ける。すると両方の手の平から火の玉が発射され、それをジェット噴射の原理にして夫人は飛び上がった。
「冗談じゃないぞ!」
兎顔のヤツが顔色を変えて叫ぶ。空中に留まっている兎顔のヤツに移動する自由度は無いのだ。そしてそんなヤツに向かい夫人は自身をロケット砲にして容赦なく突っ込んだ。するとその凄まじい攻撃をモロに喰らった兎顔のヤツは、為す術無く吹き飛んだ。
「ちっ。シャトーレの奴、エラそうな口叩くわりにクソ弱ぇな。でもこいつは好機だぜ」
狸顔のヤツがイラつきながら呟く。兎顔のヤツを吹き飛ばした夫人が、体勢を整えぬまま落下してくる隙をヤツは見逃さなかったのだ。そして狸顔のヤツは続けざまに犀顔のヤツに向けて指示を飛ばした。
「おいローレンツ。落ちてくるババをぶっ殺せ!」
「言われるまでもない」
大地を揺るがしながら駆けた犀顔のヤツが夫人の落下地点に到達する。すると犀顔のヤツは、その鼻先に鋭く尖った角を落ちてくる夫人に向けた。
このままでは夫人は串刺しになるだけだ。そう思われた瞬間、夫人はまたしても手の平から火の玉を発射する。そして落下地点を僅かに逸らせた夫人は、なんと突き出された犀顔のヤツの角を掴み取り、そのまま角を支点に体を一回転させて横に飛んだ。
「う、ウソだろ!」
その有り得ない動きに狸顔のヤツが叫ぶ。だが次の瞬間、狸顔のヤツは猛烈な衝撃を受けて吹き飛んだ。
角を利用して横に飛んだ夫人は、その勢いを利用して狸顔のヤツに強烈な蹴りを叩き込んだのだ。その凄まじさたるや半端ではない。蹴りをまともに受けた狸顔のヤツの体は、少し離れた森まで吹き飛び、そこに生える杉の木を薙ぎ倒してようやく勢いを止めた。
「やってくれる。だがこれならどうだ!」
まんまと角を利用された犀顔のヤツが力を溜める。すると急速に角が真っ赤に輝き出した。
降りしきる小雨が角に接触した瞬間に白い蒸気に変化する。その症状より、間違いなく犀顔のヤツの角は凄まじい高温にまで発熱しているのだろう。そして犀顔のヤツは高熱を帯びた角を突出し夫人に迫った。
その巨大な体からは想像出来ないほど犀顔のヤツの駆ける速度は速い。超大型のトラックがアクセル全開で突っ込んでいるかの様だ。ましてその先端には超高温で鋭く尖った角が突き出している。こんな攻撃を喰らったら、生身の人間など木端微塵になるだけだろう。だがしかし、夫人はその攻撃に対して正面から向き直った。
「ボッ」
突如として夫人の全身から【炎】が吹き出す。そしてその炎は瞬く間に巨大な火柱と化し、空高くまで立ち上った。
「何を企んでいるのかは分からんが、この攻撃を止められるものかっ!」
火柱に包まれる夫人を前に、犀顔のヤツは更に走るスピードを加速させる。そしてその巨体は全力で火柱と激突した。
「ズガンッ!」
大地を震撼させる衝撃が伝わる。まるで大規模な崖崩れが発生したかの様だ。だがその衝撃の凄まじさに反し、アメリアの視線の先にある光景は信じ難いものであった。
「バ、バカな!」
犀顔のヤツが狼狽えながら叫ぶ。しかしヤツが吃驚したのは当然だ。なぜなら犀顔のヤツが全力で繰り出したあれ程の激甚な攻撃が、なんと夫人の両手でガッチリと受け止められていたのだ。
「じょ、冗談じゃ済まされんぞ。こ、この一撃は、アダムズ軍が有する最大能力の迫撃砲を上回るもの。それを不可思議な力を利用したとはいえ、こんな年老いた婦人が受け止めるなど考えられん。バカにするなっ!」
犀顔のヤツが形振り構わぬ姿勢で足を踏ん張る。強引に夫人を串刺しにするつもりなのだ。だがしかし、どれだけ力を入れようと犀顔のヤツの角は夫人に届かない。いや、むしろ犀顔のヤツの巨体は徐々に押し退けられ始めていた。
「フ、フザけるなっ!」
犀顔のヤツが懸命に堪える。ただその時、夫人の身を覆い尽くす火柱が更に激しく燃え上がった。するとその火力の増大によって引き上げられたのか、犀顔のヤツを押し返す夫人の腕に力が入る。そしてなんと有り得ない事に、夫人は犀顔のヤツの巨体を空中に弾き飛ばしたのだった。
「ドンッ、ゴロゴロ」
犀顔のヤツの巨体が土の上を無力に転がる。もちろんパワーに自信を持っていたであろうヤツにしてみれば、それは屈辱以外のなにものでもなかったはず。だがそんな犀顔のヤツの目の前で、更に夫人はその尋常でない力を見せつけた。
激しく立ち上る火柱。その形がみるみると変化していく。そして瞬く間にその炎は、巨大な鳥の羽の形に変化した。
まるで夫人の背より炎の翼が生えた様だ。そのあまりにも奇怪な姿に犀顔のヤツは動転する。それでもヤツは懸命にガードを固めた。犀顔のヤツであるローレンツもまた、シャトーレと同じくコルベットの隊士でありアダムズ軍の精鋭なのだ。その彼がこの異常さに対して危機感を感じないわけがない。次に来る攻撃は疑う余地なく途轍もない威力を誇っているはずだ。そう確信したローレンツは、ありったけの力を込めて身を硬く防御した。
「ゴオォォォ」
まるでジェットエンジンが噴射されているかの様な轟音が響く。夫人の背中に生えた炎の翼が、激しく輝きながら後方に爆風を巻き上げているのだ。そして次の瞬間、夫人の体は炎の矢と化し、一直線に犀顔のヤツの体を貫いた。
「ドガガガガァーン!」
隕石の落下を思わせる衝撃が山中に伝わる。そして同時に教会の一部や森の木々が燃焼した。
あまりの衝撃の強さにアメリアは床に伏せるよう身を屈めた。天井から落ちてくる木材の破片や小石の欠片から身を守っているのだ。ただそれが少し落ち着くと、彼女はすぐに教会の外へと移動する。彼女が身を潜めていたすぐ近くにある窓のカーテンが延焼し始めたのだ。
急いで教会の外に脱出したアメリア。ただそこで彼女はまたしても信じられない光景を目の当たりにした。そこには夫人からの凄まじい攻撃を受けた犀顔のヤツが意識無く倒れており、その巨体がみるみると縮んでいくのである。そしてその体は元の人間であるローレンツの姿に戻っていった。
「ど、どうなっているの?」
アメリアは戸惑うばかりで現実を受け入れられない。そしてそれと同じく、少し離れた場所からローレンツの様子を伺う狸顔のヤツもまた、狼狽しながら呟いていた。
「嘘だろ。ローレンツは俺達の中で一番タフな体をしてるんだぞ。そんなあいつが一撃でやられるなんて――」
狸顔のヤツは愕然としながら膝を着いた。敵対する相手の強さにヤツは完全に舌を巻いたのだ。ただその横で唇から流れ出る血を拭った兎顔のヤツが小さく言ったのだった。
「炎に包まれたあの姿はまさか…………。だがそれしか考えられない。なんてこった、畜生めが!」
そう告げた兎顔のヤツは悔しさに表情を歪ませる。だがそれでもヤツは最後の悪あがきを見せるべく、体勢を低く身構えた。
「おいゼーマン、ここは一旦引くぞ。今の状況では私達に打つ手はない。けど舐められっぱなしってのもムカつくからな、置き土産くらいは残しておくさ!」
そう言った兎顔のヤツは全力で駆け出す。そしてヤツは呆然と立ち尽くしているアメリアに向かった。
「!」
それに気付いた夫人が駆け出す。だがスピードに長ける兎顔のヤツの方が僅かに早い。すると追い付けないと悟った夫人は兎顔のヤツに向けて右腕を突き出した。
「ボンッ!」
豪速の火の玉が発射される。そしてその火の玉はアメリアに襲い掛かる一歩手前で兎顔のヤツに激突した。――かに思われた。
アメリアの目の前を火の玉が通過する。なんと兎顔のヤツは夫人からの攻撃を予期し、寸前のところでジャンプしていたのだ。そしてヤツはアメリアに向けて所持していたのであろう布袋を投げつける。するとその袋はアメリアに直撃し、彼女の体をピンク色の粉で纏わせた。
「な、何!?」
アメリアは訳が分からず身を竦める。だが兎顔のヤツから受けた被害はそれだけであり、気が付けば兎顔のヤツは遥か遠くに走り去っていた。そしてその僅かな隙に狸顔のヤツはローレンツの体を回収し、兎顔のヤツと同じくその場を後にしていた。
状況がまったく飲み込めないアメリアは、ただ目を丸くしているだけである。それでも彼女はハッと思い出したかのように夫人に向かって駆け出した。
夫人は全身を焦げ付かせて立ち尽くしていた。ただ見たところ大きな外傷は無さそうである。その姿にアメリアはホッと安堵し、助けてくれた事への感謝を告げようとした。しかしその目の前で、夫人は力なく崩れ落ちたのだった。
「お、おばさん。しっかりして!」
完全に夫人の意識は失われている。もしかして頭を強く打ったのかも知れない。そう考えたアメリアは教会の中に戻ろうとした。教会にある電話から救援を乞おうとしたのだ。だがそこで彼女はまたしても身を竦ませる。彼女が視線を向けた教会の屋根上。そこにはなんと、巨大な【銀色の鷲】がとまっていたのだった。