#74 別れ霜の教会(一)
必ず仇を討つと誓ったアニェージはその翌日、コペルニクス総合病院を後にした。向かった先は故郷であるグリーヴス。そう、目的地はシュレーディンガーが経営する総合企業【コペルニクス】の本社のある場所だった。
アニェージは社有の小型輸送機で意識の無い妹と共に目的地へ赴く。すると彼女はそこでまず初めに、ガルヴァーニがコペルニクス総合病院に運び込まれた理由を知った。
ガルヴァーニはある秘密組織の内情を探るため、シュレーディンガーに雇われていた腕利きのスパイだったのだ。そしてその老人と瓜二つの姿をしたグラムという老人もまた、シュレーディンガーと深い間柄の人物であった。
詳しい仕事の内情までは知る由も無いが、火災のあったあの工場が秘密組織と何らかの関係性を有していたのは疑いようがなく、事実ガルヴァーニはその諜報活動中に大火傷を負ってしまった。ただそんな裏稼業を営むきな臭い人間が一般の病院に駆け込むなんて出来るはずがない。ゆえにガルヴァーニは必然にしてシュレーディンガーの手の中にあるコペルニクス総合病院に、命からがら向かったのだった。
言わばガルヴァーニはコペルニクス総合病院の入院患者の中で、最も厳重に守らなければならない人物だったのだ。そしてアニェージや妹のテレーザは、むしろガルヴァーニを収容するついでに運ばれたに過ぎなかったのだった。
わざわざ事故現場から距離のあるコペルニクス病院に運ばれた理由は、まさにガルヴァーニを守る為のものである。でもどうしてそこまでガルヴァーニを重要視するのか。それはもちろん秘密組織の情報を彼が掴んでいるからに他ならない。しかしそれとは別にもう一つ、極めて重大な理由がそこにはあった。
なんとガルヴァーニは全身をサイボーグ化した改造人間であるというのだ。それもその技術は世界中の科学者を屈服させるほどの高度なものであるらしい。でもだからこそガルヴァーニはコペルニクス総合病院に運び込まなければならなかったのだ。もしも傷ついた彼の体が一般の医師の目に触れでもしたなら、途端にそれはバレてしまう。そうなってしまっては秘密組織に彼が狙われるのは時間の問題であり、またシュレーディンガーにまでその手が及ぶ事になるだろう。それを恐れたがゆえに、シュレーディンガーは全力でガルヴァーニを守ったのだ。
そしてそんなガルヴァーニの改造手術を実行した人物こそ、もう一人の老人であるグラムであった。聞くところによれば、グラムはかつてアダムズ王立協会で名を馳せた大科学者であるらしい。ただアニェージは初めそんな老人の事を信じられずにいた。
人当たりの良い笑顔を見せるばかりで本質を語ろうとしない。それがアニェージの抱くグラムへの不信であった。激しい言葉使いではあるが、それでも本音で話してくれるガルヴァーニの方がまだ信頼に足りる。そう考えるアニェージは、グラムに対してどこか抵抗を抱かずにはいられなかった。
しかし程なくして、それがグラムの優しさなのだという事を彼女は知る。グラムは純粋にアニェージの様な少女が命を賭して敵討ちに挑む事を受け入れられなかったのだ。恐らくグラムはアニェージと同じ年頃の息子であるジュールの姿を彼女に重ねていたのだろう。本来であれば今の彼女は可能性に満ちた希望に夢を馳せる大切な時期であるはず。それなのにこの少女はそんな大きく広がるはずの未来を殴り捨て、修羅の道を歩もうとしている。そんなアニェージの決意にグラムは不憫さと哀れみを抱き、心を痛めていたのだ。
アニェージはそんな老人の気遣いを知り唇を噛みしめた。悲惨な事故に巻き込まれたとはいえ、見ず知らずの自分に本気で心を痛める老人の優しさが嬉しかったのだ。でもそれは反対に悔しくもあった。もう後戻りは出来ない。そう強く決意した自分をいつまでも認めてくれないグラムの強情さに彼女は憤ったのだ。そしてついにアニェージはその苛立った感情をグラムにぶつける。理解してくれないのならそれでもいい。だけど曲げられない想いだけは伝えておきたい。アニェージはそう決心し、老人に胸の内を吐き出したのだった。
「私はもう誓ってしまった。必ず両親の敵を討つと。そしてその決意が今の私を生かしている。それがどれだけ屈折した考えなのか、それは自分でも分かっていますし、グラム博士がそんな私のねじ曲がった憎しみに心を痛めていることも分かっています。でもね、その歪んだ感情に縋っていなければ、とても生きてなんかいられない。それが今の私なんです。もう憎しみを糧としてしか生きられないのが私なんです。だからもう、私に優しくするのは止めてもらえませんか」
アニェージは一滴の涙も流すことなく、グラムに向かいそう告げた。するとそんな彼女の覚悟をようやく受け入れたのだろう。グラムは首を縦に振ってくれた。そしてあの事故が遭った日から一年後、アニェージは新しい両足を手に入れる。グラムの手によって生み出された機械の足が、シュレーディンガーの腹心である外科医によって彼女に備えられたのだ。
新しい足を与えられたアニェージの嬉しさは一入であった。また以前の様に自由に動き回ることが出来るのだ。いや、以前にも増して軽快に走る事が出来る。その感触がどれ程彼女に生きる励みを抱かせたか、それは説明がいるまい。だがしかし、彼女にとっての本当の試練はそこから始まったのだった。
ガルヴァーニによる地獄の訓練が開始されたのである。それも命を懸けた血みどろの特訓が。
それはまさに人殺しの業を習得する為の過酷な鍛錬だった。いや、習得するなんて生易しいものではない。体に無理やり刷り込まれる。ガルヴァーニによる鍛錬は、そんな尋常でない苦痛に満ちた修行だったのである。
まさに本気の殺し合いの日々。狂気を剥き出しにして向かい来るガルヴァーニを相手に、アニェージは何も出来ずにただひたすら逃げ惑った。仮に反撃を試みようものなら、途端に血反吐を撒き散らし倒れ込む。絶対的な強さが違うのだ。そんな一方的なリンチとも呼べる修行を、アニェージはシュレーディンガーの運転手であるブロイと共に積んでいった。
トップアスリートだったアニェージにしてみれば、現役時代にそれこそ筆舌に尽くしがたい過酷な練習を積み上げていたはず。しかしガルヴァーニによる特訓は、そんな彼女の経験とはまったくの別次元のものであり、為す術無くアニェージの気力と体力をガリガリに削り取った。
一瞬でも気を抜けば確実に殺される。そんな極度のプレッシャーの中でアニェージはただ必死に老人の攻撃を避け続けた。
いっそのこと死んでしまいたい。彼女は絶えずそう思っていた。あまりにも激しいガルヴァーニの修練に、アニェージは幾度となく心を折ったのだ。だがそれでも最後のところで彼女は踏み止まった。彼女の覚悟が逃げ出す事を許さなかったのだ。するとある時期を境にしてアニェージの動きに変化が見られるようになる。そう、彼女は日々の殺し合いという特訓に叩き上げられ、見違えるほどに強さを増したのだ。
義足になってから一年と5ヶ月。その頃になるとアニェージは自らの義足の扱いにもかなり精通していた。いや、それどころか時折顔を見せるグラム博士に対し、義足のパワーアップまでもを嘆願するまでになっていた。
またガルヴァーニとの死合においても状況は見違える程に変化していた。未だに老人に対して歯が立たないのは変わらなかったが、それでも彼女は受け身ばかりではなく、それなりに効果的な反撃が出来るまでに成長していたのだ。やはり元アスリートとしての類まれな運動神経が格闘においても才能を発揮させたのだろう。するとそんなアニェージの成長した姿にガルヴァーニは次のステップに移行する事を指示する。ついにヤツについての情報収集に同行を許されたのだ。
しかし安心は全く出来ない。いや、むしろここからが本番であると言えよう。ヤツについて情報を探るという事は、場合によっては本気で秘密組織と命懸けの戦いをするという事になるのだから。そして案の定、アニェージはそれから幾度となく命を懸けた実戦を経験したのだった。
いくつかの手掛かりを辿りながらヤツについて捜査するガルヴァーニとアニェージ。しかし命懸けの実務に反し、その収穫は思うように進まなかった。ただそれでもアニェージは状況証拠より、いくつかの確信を持てるようになっていた。
まず一つ目として、それはガルヴァーニがヤツについて、確定した何かを掴んでいるという事だった。しかしどれだけアニェージが詰め寄ろうとも、老人はそれを語ろうとはしない。それに対してアニェージは酷く憤りを感じたが、逆にそんな老人の煮え切らない態度にある確信を抱く様になっていた。
間違いなくガルヴァーニはヤツの存在について何かを知っている。ただそれはヤツという人外の化け物全般を示すのではなく、父を踏み殺したあの【豹顔のヤツ】についてのみ知っているのだと。恐らくガルヴァーニと豹顔のヤツの間には、何かしらの関係があるのだ。しかしガルヴァーニ自身がそれについてまだ確たる証拠が持てずにいる。その為に老人は自分に納得のいく説明を与えないまま、情報収集に努めているのだろう。アニェージはそう考えていた。そしてもう一つ。それはグラム博士もヤツの存在について、何かしら知っているのだろうという事だった。
時系列で考えれば、この時期に博士はまだ国王が獣神にその身を乗っ取られたとは知らない。しかし博士自身が火災のあった鉄道部品工場と関係があったと告げたのだから、その裏に潜む秘密組織やあの日現れた豹顔のヤツについて、何かしらの情報を掴んでいたのは確かなはずである。そしてアニェージやガルヴァーニとは別行動ではあったが、グラム博士自身もあの日の出来事について入念に調査を続けていた。アニェージが不審がるのは当然であると言えよう。
それら以外にもアニェージは二人の老人の不可解な行動や言動に疑問を覚える。そして彼女はそれらについて、幾度となく質問をしていた。しかしいつになっても老人達は答えようとしない。真実を掴みきれていないからなのか。それとも真実を語れない理由があるからなのか。ただ一つだけ確かなのは、アニェージが抱く不満はパンク寸前の状態にまで達していたという事だった。
もうこれ以上は我慢できない。進展しない状況にアニェージはついにフラストレーションを爆発させる。だがそれを予想していたかの様に、二人の老人は彼女の前から忽然と姿を消した。
それはボーアの反乱が開始された直後だった。あまりにも唐突に、しかも二人の老人は何も告げずにアニェージの前から姿を消したのだ。もとより二人はその時折で長期間の不在をよくしていたが、いずれも大凡の戻る日程くらいは告げていた。しかしこの時ばかりは全く違う。二人は完全に所在不明となったのだ。そしてその状況にアニェージは酷く戸惑い困窮する。特に置いて行かれたのではないかという孤独感に苛まれ彼女は憤った。
それからボーアの反乱が終結するまでの四年間、彼女は表向きシュレーディンガーの秘書として生活していた。ヤツについての捜査を続けたくとも、ガルヴァーニのいない状況では何一つ仕事を進められなかったのだ。
この時になってアニェージは初めてあの老人が腕利きの諜報員であるという事を認識する。彼女自身もそれなりに場数を踏んだはずなのに、やはりガルヴァーニ抜きでは何も始まらない。裏組織についての情報量や緊急時の判断力、それに圧倒的な戦闘能力の高さ。そのどれもが欠かせないものであり、彼女は改めて自分の未熟さを思い知ったのだった。
でもだからといって、それで腐る彼女ではない。ガルヴァーニ達が姿を消してからというもの、アニェージはシュレーディンガーの下で新しい力を備える為に努力した。そして彼女はネット環境下における高い情報収集技術を身に付けたのだった。
それから四年が経ち、ボーアの反乱が終結する。そしてその更に半年後、何の前触れもなく突然グラム博士がグリーヴスに姿を現した。もちろんその時アニェージは博士に対して強く詰め寄った。しかし博士はそれを無視するように、シュレーディンガーと一緒に地下フロアに籠ったまま出てこなかった。
その時のアニェージの内心は猛烈に苛立っていた事だろう。せっかく博士が戻って来たというのに話しすら出来ないのだ。彼女が怒るのも無理はない。ただそれから少しして、グラム博士はまたしても旅立つ事になる。そしてその別れ際に博士はアニェージに向け、一言だけこう告げたのだった。
「ついに時は熟しおった。真の悪を倒しに行って来る。じゃがこれは雲を掴むほどの確立の低い賭けじゃ。じゃからもしワシが失敗したなら、ガルヴァーニと一緒にお前さんがその後を引き継いでくれ。でもこれだけは覚えておいてほしい。命の危険を感じたならば、無理をせずに逃げておくれ。いくらお前さんの中に消せない憎しみが存在しようとも、うら若き女性が命を懸けるなんぞ、やはりワシには受け入れられん。お前さんの未来は苦痛と遺恨で塗りつぶされておる。じゃがのう、未来とは本来明るい希望で満たされているはずなんじゃ。じゃから無理はせず、命を大切にしてくれんか」
そう告げたグラム博士の眼差しはとても優しくて温かいものだった。それはまるで、本当の娘にでも語り掛けるかの様に。きっとグラム博士は息子であるジュールとさほど歳の変わらぬアニェージに対して、親の愛情に似た感情を抱いていたのだろう。しかしアニェージは核心を告げぬまま旅立つ博士に腹を立てるばかりであり、その内に秘められた想いまでは感じ取ることが出来なかった。
だがそれから数日後、今度はガルヴァーニがアニェージの前に現れる。すると彼女は老人に向かい、どの面下げて戻って来たのだと強く罵った。ただそれでもアニェージは老人の帰還にどこか安堵感を覚えていた。ヤツについての捜査を再開出来る。純粋にそう考えたのだ。しかし事態は彼女が考える以上に大きな問題を噴出させていた。
本当に倒さなければいけない相手は獣神にその身を支配された国王である。ヤツとはその国王の研究より生み出された化け物であり、黒幕であるアルベルト王を倒さなければ、真の意味で仇を討った事にはならない。それがガルヴァーニから初めて聞かされた真実だった。
想像し得ない規格外な大きな話しにアニェージは唖然とした。神の仕業によって自分の運命は滅茶苦茶にされたと言うのか。バカバカしい。そんな冗談に付き合えるか。
あまりに突飛な話しを飲み込むことが出来ず、アニェージは憤りを通り越して失笑する。しかしガルヴァーニからの話しを聞けば聞く程、彼女の表情は青ざめていった。
グラム博士は本気で国王を殺す為にルヴェリエに向かった。だがその道のりは博士自身が告げた様に極めて険しく、成功する確率はゼロに等しいほどのものであると言う事だった。でもだからこそ、博士はガルヴァーニにその後の事を託したのだ。最終定理の道筋だけを残す形で。
なんでもガルヴァーニはグラム博士から、一冊のノートをシュレーディンガーに渡すよう依頼されたらしい。でもそれはバローという田舎町に腰を据えてしまったガルヴァーニを、再度グリーヴスに引き戻す為の博士の口実だったのかも知れない。案の定、ガルヴァーニはノートを携えてシュレーディンガーのところに戻って来る。そしてそのノートに記された情報を元に、最終定理の捜査が開始されたのだ。
「それがほんの二ヶ月前の話しだよ。それから私はガルヴァーニと一緒にフェルマーズ・リポートの二月と三月の論文を見つけ出した。でもその後にあいつが再び私の前に姿を現したんだ。腐った豹の顔をした【ヤツ】が! ヤツはあの日と同じ姿で私の前に現れた。そしてヤツは私達から三月の論文を奪い取って姿を消したんだ。どうしてヤツが論文の在り処を知ったのか、どうやってシュレーディンガー社長の監視の目を潜り抜けて私達の前に姿を現せたのか、それは分からない。でも確実に言えるのは、この最終定理の捜索を進めれば、きっとまたヤツに会えるチャンスがあるってことさ。その証拠に城の地下道でもうすでにヤツとは戦っている。それに天体観測所でも。でもその二度の戦いはある意味予想外の状況下での戦いだったから本気を出せなかった。でも次に会った時は違う。確実に息の根を止めてやる。その憎しみだけが、今も私の足を強く前に踏み出す力になっているのだから――」
アニェージはぐっと拳に力を込めながらそう告げた。少し離れた場所に視線を落とすその表情はとても哀しいものに見える。でも彼女の中には決して曲げられない強い決意が宿っているのだ。この手でヤツを殺し、必ず両親の仇を討つのだと。そしてそんな彼女の痛ましい過去を聞いたジュールは、アニェージがヤツを憎む理由をようやく理解する事が出来たのだった。
これ程にまで辛い過去を背負っているとは思わなかった。率直にそう感じたジュールは胸をキツく締め付けられる。アニェージから伝わった悲しい気持ちが、彼の心にまで冷たい雨を降らせたのだろう。でもジュールは反射的に疑問を投げ掛けた。彼にはアニェージの話しに一つだけ納得の出来ない部分があったのだ。
「アニェージがどうしてヤツを憎むのかは理解出来たよ。でもちょっと待ってくれないか。豹顔のヤツだけどさ、あんたの話しが本当なら、ヤツは十年以上も生きてる事になる。けど俺はヤツの寿命は長くて半年程だって聞いてるぜ。本当にあの豹顔のヤツが、あんたの仇なのか?」
「なにっ、私が嘘をついてるって言うのか!」
「いやいや、そんな事は言ってないよ。ただ混乱した状況だっただろうし、もしかしたら豹顔じゃなくて、別の顔をしたヤツかも知れないだろ」
「そんな事は無い。私はヤツと目が合ったんだ。忘れるわけがない。あの忌まわしい腐った豹顔をな」
「なら豹顔のヤツは本当に十年以上も生きているのか……」
ジュールは訝しみながら表情を曇らせる。羅城門でハイゼンベルクよりヤツの特性を聞かされていた彼にしてみれば、そんなにも長期間にヤツが生きていられるなんて信じられなかったのだ。ただそんな彼の覚束ない姿に今度はアニェージが質問を促した。
「お前は何処までヤツについて知っているんだ? 私は全てを話したんだ。今度はお前が知っている事を話してくれよ」
そう言ったアニェージは真っ直ぐにジュールを見つめる。するとジュールは頭を軽く掻きながら姿勢を正した。やはり彼女には話すべきだろう。いや、ヤツに関係する辛い過去を持つアニェージこそ知るべきなんだ。そう考えたジュールは、彼女に向かいハイゼンベルグから聞かされた真実を全て語ったのだった。
冷たい小雨が深々と降り注ぐ中、ジュールの話しを聞いたアニェージは大きく溜息を吐き出した。そして少しの間彼女は何かを考え込む様に黙り込む。ただその表情はなぜか僅かに微笑んだものであった。ジュールはそんな彼女の表情を不思議そうに見つめている。するとアニェージはジュールの視線を恥ずかしむ様に顔を横に向けながら言った。
「ヤツっていうのも複雑なんだね。お前の話しを聞いた後だと、ヤツの存在をただ憎んでいた自分がバカみたく感じるよ」
「そりゃ仕方ないよ。俺だってファラデー隊長を殺された時、怒りで煮えたぎったくらいだからね。誰だって、ヤツのあの姿を見たなら、普通じゃいられないさ」
ジュールはそう言ってアニェージを気遣う。するとそんな彼に苦笑いを返しながら彼女は告げたのだった。
「ボーアの反乱終結後に博士が戻って来た時、どうして私を避けて社長と一緒に地下フロアに閉じこもっていたのか。ようやくその理由が分かったよ。あの時グラム博士とシュレーディンガー社長は、ヤツに変化したパーシヴァルの兵士の体を調査していたんだね。博士も社長も私がヤツを憎みきっているのを知っていたから、私の気持ちを考えて何も言わなかったんだ。あの人達らしい優しさだな」
「それにしてもあんたの義足を作ったのが博士だったなんて驚いたよ。意外な所で繋がってたんだな、俺達」
「私も驚いたよ。博士から私と同じ歳くらいの息子がいるとは聞いていたけど、でもまさかお前だなんて思いもしなかったからね」
そう言いながらアニェージとジュールはお互いの顔を見て笑った。初めて会った時に殺し合いをした過去を思い出したのだろう。ただ少し表情を引き締め直したアニェージが続けて呟く。彼女にはもう一つ、理解出来た事実があったのだった。
「事あるごとに、どうしてお前がヤツを庇うのか。その姿勢に私は憤りを覚えて仕方なかった。でも同時にその苛立ちの原因が、お前の態度だけじゃない事も理解していたんだ。ソーニャがラウラって呼んだあの猪顔のヤツと出会った時にね。ヤツの全部が敵じゃない。でもそれを認めてしまったら私の足は止まってしまう。憎む事が出来なくなったら、この先どう生きて行けばいいか分からなくなってしまう。そんな自分の弱さが怖かったんだ。だから私は必死になって強がっていたんだよ。だけどジュールの話しを聞いてもう一度決意を固める事が出来た。私の覚悟は間違っていないって。私の様な惨めな存在を二度と生み出さない為にも、そしてソーニャの様な罪の無い人々を救う為にも、真の悪である【獣神】に戦いを挑むってね」
「アニェージ……」
「でもまぁ、私が出来るのは精々お前のサポートくらいだろう。正直なところ、ジュールの強さには心底驚いたからね。私がどれだけ粋がったって、さっきのお前みたくは戦えない。それにその強さを持ってしても、ヤツを倒せなかった。きっと豹顔のヤツの強さは、さっきの象顔のヤツと同等かそれ以上の強さだろう。だから私には選択の余地が無いんだよ。自分の力だけでは抗えない。悔しいけどさ、お前の力に頼る以外に方法はないんだよね。だから私は決めたんだ。全力でお前をサポートするって。絶対にお前の力が敵を討つ切り札になるはずだって思うから……。お前からしたら随分と身勝手な考えなんだと思うかも知れないけど、期待してるよ、ジュール」
アニェージはそう言って笑ってみせた。その笑顔は決してジュールをからかうものではない。本心から彼の力に信頼を寄せる表れなのだ。そしてそんなアニェージの気持ちを感じ取ったジュールは顔を赤らめて照れていた。ただ彼はそんな気恥ずかしさを誤魔化す為に、あえて話しを変えたのだった。
「そう言えば、プルタークモールでガルヴァーニさんと一緒にいた女の子が、確か【テレーザ】って名前だったと思ったけど、あの子がまさかアニェージの妹って事はないよな?」
改めて確認するほどの事でもないよなと思いつつも、ジュールは少し真顔でアニェージに聞き尋ねる。するとそんな彼に向かい彼女は頬を緩めながら言ったのだった。
「もちろんあの子は私の妹とは全くの別人だよ。たまたま名前が同じだっただけさ。歳も違うし、顔も全然違う。でもあの子を見た時、少し驚いたのは確かだよ。意識を失ったあの日の妹と、あの子の歳は同じくらいだったからね。なんとなく面影を重ねてしまったんだろう」
「ならあんたの妹は今も」
「――うん。妹のテレーザは今も変わらず眠ったままだよ」
「あ、いや、スマン。余計な事を聞いちまった」
「いいよ、別に気にはしない。妹はちゃんと生きているんだから。でも時々考えさせられる。月日と共に体は成長してるのに、一向に意識は回復しないんだからね。困ったモンさ。ただ困ったと言えばガルヴァーニだ。あのジジィがあんな小さな女の子を連れていたなんてマジで驚きだし、それにあんな優しい目、あいつにも出来るんだなって思ってさ。私が知っているガルヴァーニからは想像も出来ないよ。むしろ気持ち悪くなりそうだ」
そう告げたアニェージは肩を震わせて笑いを堪えた。まったく予想だにしなかったガルヴァーニの態度を思い出し、おかしくて堪らないのだろう。そしてそんな彼女の姿にジュールも気持ちを和ませた。笑えるまでに体力と気力を回復させたアニェージを見て彼は安心したのだ。それに憎まれ口を吐きつつも、何だかんだ言ってアニェージはガルヴァーニを信頼している。そんな彼女の内面を感じ取ったからこそ、ジュールはホッと胸を撫で下ろしたのだった。ただそんな彼らに向かい、それまで無言だったヘルムホルツが口を挟む。それは彼の科学者としての知見が、ヤツについての仮説を物語ったものだった。
「少し話が戻るけど、豹顔のヤツは十年以上も生きているんだろ。でもジュールの話しじゃ、ヤツの寿命はもって半年って事だ。これは一見すると矛盾を感じる事実だよな。でもさ、このカラクリは結構単純かも知れないぞ」
「ん? どう言う事だよ、ヘルムホルツ」
「これは俺が考えた仮説に過ぎないんだけど、たぶんヤツの寿命が半年くらいっていうのは本当なんだと思う。でもそれはあくまで、ヤツの姿でいられる時間の累計を指し示すんじゃないのかな」
「そうか! だから豹顔のヤツは十年も生きているのか!」
アニェージが思わず大声で叫ぶ。ただそんな彼女に対して未だ理解出来ないジュールはその意味の説明を求めた。
「なんだよ急に大声だして。俺にも分かる様に説明してくれよ」
「思い出せジュール。豹顔のヤツは【人の姿】に戻れただろ。間違いない。あいつは人からヤツへ、ヤツから人へと自由に姿を変化させられるんだよ。必要な時だけヤツの姿になり、普段は人の姿で生活している。それなら無駄に寿命を消費しなくて済むし、十年くらい生きられるのは当然だろ」
「そ、そんな人間がいるっていうのか……、ん!」
「ガサガサッ」
突然彼らの背後から草むらを掻き分ける音が聞こえる。もしかして象顔のヤツが再び戻って来たのか。そう思ったジュールらは素早く身構えて体勢を整えた。だがそこに姿を現したのは、北の里から帰って来たガウスであった。
「な、なんだよガウス。脅かすなよ、ビックリしちまったぜ」
お互いの顔を見合わせたジュール達は緊張から解放される。だがしかし、それとは対照的にガウスが悲壮感を露わに言ったのだった。
「大変な事になってるぞジュールさん。あんた、総司令殺害の容疑で全国に指名手配されてるし、それに加えてトーマス王子誘拐の首謀者にまでなってるぞ!」
小雨の降り注ぐ山の奥に明かりが灯る。そこは北の里から更に山を北上した場所であり、まったくと言っていいほど人気のない寂しい場所であった。
ただその明かりはとても温かくて優しいものに感じられる。恐らくその明かりが電気を使用したものではなく、旧式のランプで灯された明りだからなのだろう。そしてそんな明りの灯った建物自体こそが、本当の意味で安らぎを感じさせる要因となっていた。
それはとても古い時代に建てられた【教会】だった。外壁は石造りのレンガで積み上げられており、その所々が緑色の苔で埋め尽くされている。でも決して汚らしい感じはしない。むしろ自然の中に解け込んだ清らかな印象の方が強いだろう。そしてその教会の中にある寝室のベッドの上で、アメリアはゆっくりと目を覚ました。
「ここは何処かしら……」
見知らぬ場所で目を開けたアメリアは戸惑いを露わにする。確か私は見知らぬ男に追われ森の中を逃げていたはず。それなのに気が付けばベッドの上で休んでいる。何が起きたのか必死に思い出そうとしても何も思い出せない。しかし何故だろうか。自分の身に何が起きたのかまったく分からず、またここが何処だかも分からないのに、彼女は妙に気分が落ち着く安心感を覚えていた。
柔らかいベッドの心地良さから来るものなのだろうか。それとも部屋の中に飾られた黄色いジャスミンの花から香る甘い匂いを感じたからなのか。ただアメリアは一つだけ心得たものがあった。
心強い力で守られている。もちろんその力の正体は分からない。でもアメリアは確かに感じていた。燃え上がる様な熱い力を。
しかし安心ばかりもしていられない。ここが何処だか分からない上に、あの男から無事に逃げられたのかすら不明なのだ。いつまた自分に危機が訪れるか分からない。それにお母さんがどうなったのかも心配だ。そう思ったアメリアはそっとベッドから起き上がると、まずはここが何処なのか知ろうと部屋の中を調べようとしたのだ。ただそこで彼女はある事に気付く。なんとアメリアは下着すら身に付けていない丸裸の状態だったのだ。
うそ。なんで何も着ていないの。アメリアは顔色を真っ青に変えて動揺する。もしかして私はあの男に掴まり乱暴されたのではないか。彼女は凍りつくほどの怖さを感じて身を震わせた。そしてそんなアメリアの萎縮した心を更に震え上がらせる様に、突然部屋のドアがノックされたのだった。
「ドキッ」
心臓が張り裂けそうだ。竦み上がる恐怖心に支配されつつも、アメリアは毛布に身を包ませて部屋の隅に移動する。彼女は反射的に防衛本能を働かせたのだ。しかしドアを開けてそんなアメリアの前に姿を現したのは、彼女が想像した男とは掛け離れた存在だった。
「あら、気が付いていたのね。それにしても何でそんな隅っこにいるの? こっちにいらっしゃい。着替え用意したから」
親しみのある笑顔を差し向ける一人の婦人。それはアメリアの母と同じくらいの歳であり、肉付きの良い体格をした健康そうな女性であった。そしてその女性を見たアメリアは、驚きながら言ったのだった。
「え! じゃぁ、もしかしてここは【北の教会】なんですか」
アメリアは目を丸くして声を上げる。するとそんな彼女に向かい現れた婦人は、にこやかに頷いたのだった。
「ええ、そうよ。ここは山里離れた場所にあるルーゼニア教の北の教会。でもやっぱりそうだったのね。あなた、【カロライン】のところのアメリアでしょ。随分と大人になってたから最初は気付かなかったけど、面影があるから何となくそんな気がしてたのよ」
そう言って夫人は穏やかに微笑んだ。そして彼女はテーブルの上に一式の衣服を置くと、アメリアに向かって続けたのだった。
「あなたの服、泥だらけに汚れてたから勝手に洗濯させてもらったわよ。だから代わりに私の服を着てちょうだい。サイズはぶかぶかでしょうけどね、ハハッ」
身長こそさほど変わらないが、ウエストサイズはアメリアの倍は有にあるだろう。ましてそんな自分の服をアメリアに貸したならば、自らの恰幅の良さを実感として認識させてしまう。それは女性にとっては辛い振舞いであり、悔しさを感じて当然なはずである。ただ婦人はそんな些細なプライドなどまったく気にしていないらしく、むしろ豪快に笑いながらアメリアに着替えを促したのだった。そしてそんな婦人の優しさにアメリアの方も親しみを覚える。彼女は婦人に向けて笑顔を返すと、お礼を告げながら用意された衣服を身に付けたのだった。
「ありがとうございます。親切にしてくれて助かりました」
「いいのよ。ここは寂しい場所だから、たまにはこんな突然の訪問者がいてくれたほうが私は嬉しいのよ。【あの時】のあなた達みたいにね。フフ、そう言えばあの彼は元気にしてるの? 確かジュール君だったっけ」
昔を思い出した婦人はさらに微笑んでみせる。するとそんな婦人に向かいアメリアは顔を赤くしながら恥ずかしそうに告げた。
「は、はい。すごく元気にしてますよ。それに今度私たち結婚するんです。今は少しゴタゴタしちゃってるけど、でも彼は私の事を大切にしてくれるから」
「あら、それはおめでとう。私もなんだかうれしいわ。きっと昔からあなた達は縁があったのね」
婦人は満面の笑みを浮かべて言った。だがその後に婦人は表情を曇らせる。幸せな報告を聞き嬉しさを感じたはずなのに、彼女にはどうしても気になる事があったのだ。
「本当にあなた達の幸せな近況を聞けて嬉しいわ。でもそれは置いといて、今回の事はちょっと普通じゃないかしら。まぁ、あなたの事だから、ここに来る時はいつだって普通じゃなかったけど、でも今回はちょっと別な感じがするのよね。一体何があって、どうしてここに来たの?」
そう言って夫人は少しだけ不可解そうな目をアメリアに向けた。しかし当のアメリア自身も何故ここに自分がいるのか分からず、逆に夫人に対して聞き尋ねたのだった。
「自分でも分からないんです。私がどうやってこの場所に来たのか。森の中を走ってたまでは覚えているのに、気が付いたらベッドの上だった。ねぇおばさん。おばさんは私をどこで見つけたんですか?」
アメリアは縋る様な視線で夫人に詰め寄る。ただ婦人はそれに対して少し訝しみながら告げたのだった。
「昨日の夜の事よ。私が夕食を食べ終わったくらいの時間。その時にね、突然教会の礼拝堂からドスンッっていう大きな音が聞こえたの。もしかして山の熊が教会に押し入って来たのかと思って怖かったんだけど、恐る恐る確かめたら、あなたが倒れていたのよ。それから丸一日、あなたはここで寝ていたってわけ」
「そ、そうなんですか」
「それともう一つ。勝手に洗濯させてもらったあなたの服なんだけど、泥と一緒に大量の血が付いていたわ。もしかして、何か良くない出来事に巻き込まれたんじゃないの?」
「え、血が付いてたんですか。それも大量の……」
アメリアは唖然としながら呟く。男に追われていたのは確かだけど、でも襲われていたのは私の方だし、見たところ自分にケガはない。じゃぁどうして服に血が付いてたんだろう。アメリアは思い悩む様に首を傾げる。するとその姿を見た婦人は、少し困った表情を浮かべながら言ったのだった。
「どうやらその様子だと、本当に何も分からないのね。でも見たところあなたは元気そうだし、時間が経てば何か思い出すかもしれないわよね」
「あ、でも私、変な男に追われてたんです。それで山の中を走って逃げてて。もしかしたらここにあの男が来るかも知れない。ねぇおばさん、【神父さん】は何処にいるの?」
アメリアは思い出した様に、この教会の神父を頼った。だがそんな彼女の願いに対して婦人は残念そうに首を横に振ったのだった。
「ごめんなさいね。主人は今いないの。首都ルヴェリエでルーゼニア教の臨時の総会が開かれていて、それに出席しているのよ。だから今この教会には私とあなたしかいないのよね」
「そ、そんな」
「確かに心配よね。ここは少し変わった教会だから、祈りを捧げに来る人なんて滅多にいないし。だからもし何かあったとしても、すぐに助けは来てくれない。あ、でも安心して。あなたの自宅に連絡したから、直に迎えが来るはずよ」
「え、迎えですか?」
「うん。あなたが眠っている間に何回も電話したんだけど、カロラインは不在なのか、全然連絡取れなくて困ってたの。でもやっと連絡が取れたのよ、カロラインの親族だっていう男の方とね。あなたの家の電話に出てくれたんだから間違いないでしょ。あなたがここに居るって伝えたら、すぐに迎えに来るって言ってわ。だからその内に来てくれるんじゃない」
「お母さんの親族なんて……。それはいつ頃の話しですか?」
「そうね。1時間くらい前かしら」
アメリアは酷く戸惑う。父と結婚してから母は北の里に移り住んだのだ。だから里に親族なんているはずがない。もちろん偶然に親族が母を訪ねて来る事もないだろう。だったら何者が親族を語り電話に出たのか。いや、それよりも深刻なのは、その何者かと婦人が話してから1時間が経過しているって事の方だ。里からこの北の教会まで、たとえ山に不慣れな者であってもそれだけの時間があれば間もなく到着出来る頃だろう。いけない。このままでは自分の身だけでなく、関係のない婦人にまで危害が及ぶ危険性がある。そう直感として考えたアメリアは、素早く身支度を整え教会から立ち去ろうと決めた。だがその時、
「ドンドン!」
教会の入り口扉を叩く音が聞こえた。静まり返った山の中のせいなのか、それはとても力強く叩かれた音に聞こえる。いや、少なくとも彼女には強引に扉を突き破って来そうなほど大きな音に聞こえていた。
身を竦ませる程の嫌悪感がアメリアの背中を駆け抜ける。ただそんな動揺する彼女の気持ちになどまったく気付いていない婦人は、迎えが来たのだと信じ扉に向かったのだった。
「ちょ、ちょっと待っておばさん!」
アメリアは婦人を引きとめようと呼び掛ける。しかし思いのほか体力を消耗していたのか。アメリアは軽い眩暈をおこし、それ以上は何も言えなかった。すると婦人はそんな彼女の姿を逆に気遣ったのだろう。無理をせずにあなたはそこで休んでいなさい。婦人は優しくそう告げると、教会の入り口へと向かいはじめた。
「ドンドンドン!」
しきりに扉は強く叩かれている。絶対に扉を開けてはダメ。アメリアは心の底からそう強く願った。だが何も知らない婦人は少しの警戒感も無しに扉の鍵を開ける。きっと神父の夫人である彼女は、第一に他人を疑うなんて考えもしないのだろう。そして夫人は人の良い微笑を浮かべながら扉を開けようとする。だがしかし、扉は夫人がそうするよりも先に、強い力で開かれたのだった。
「!?」
突然の出来事に婦人は驚きを隠せない。ただそんな彼女の目の前には、黒いスーツに身を包んだ三つの人影が姿を現していた。