#73 小糠雨の決意(後)
川底に沈むバスの中でアニェージは思う。苦しいけど、もうすぐお父さんとお母さんの所に行ける――と。
彼女は目の前に突き付けられた絶望という現実に心が砕けていた。もう死んで楽になる以外に何も望めなかったのだ。それにもしアニェージが生きようと僅かにでも足掻いたとしても、それは意味を成しはしない。なぜなら彼女にはもう、バスから抜け出し水をかき抜く為の両足が無かったのだった。
全てを諦めたアニェージは暗いバスの中でただ死の訪れを待つばかりである。この息苦しさからも時機に解放されるだろう。そう思うと、なんだか水の冷たさも少し気持ち良く感じる。これが【死ぬ】って事なんだろうか。
アニェージは薄れゆく意識の中でそう思う。ただその時、川底に沈んだはずのバスに鈍い衝撃が伝わった。
「ガゴン!」
川に流れる何かがバスに接触したのだろうか。でもそんな事はどうでもいい。どうせ私はもうすぐ死ぬのだから。
死への望みを成就する為にアニェージは全身の力を抜く。いや、肺の中に入り込んだ大量の水が、彼女の残り少ない体力を完全に消滅させたのだろう。でもその瞬間、アニェージの体がもの凄い力で引き上げられる。襟元を鷲掴みされた彼女の体は、強引にバスの外に排出され水面に向かい上昇したのだ。
「何をするの。私はこのまま死にたいのに、どうして助けるの!」
曖昧な意識の中でアニェージは叫ぶ。もちろんそれは言葉にはならず、ただ彼女の胸の内で吐き出されただけだ。しかし何故だろうか。心より死を望んでいるはずなのに、アニェージは自らの体を引き上げる存在を強く掴んでいた。
小柄ではあるが、締まった体つきからは強靭さが感じられる。でも目の前を漂う白髪は老齢者のものにしか見えない。だけどどうして、どうしてあなたは私なんかを助けるの? 私にはもう、生きる望みなんて持てやしないのに……。あ、ちょっと待って! まだバスの中には妹が、テレーザが残っているの。あの子もまだ生きているはずなのよ!」
そんな夢から覚めたアニェージが目にしたのは、白い天井に設置された無機質の蛍光灯であった。しかし今は昼間なのだろう。カーテンは閉められていたが、それでも夏の強い日差しが部屋の中を明るくしていた。
彼女が目を覚ました場所。それは首都ルヴェリエにある民間の総合病院の一室だった。凄惨な事故に巻き込まれたアニェージは、その少ない生存者としてこの病院に救急搬送されていたのだ。そして殺風景な部屋の佇まいから、彼女自身もここが病院なのだという事をすぐに察した。
個室であるらしく、彼女以外に患者はいない。でも窓の外からは微かではあるが人の談笑する声や車の走る音が聞こえるため、特別に隔離された場所でない事は理解出来る。恐らくは病院の都合上、この個室に運ばれただけなんだろう。そう思ったアニェージは体を横に捻り起き上がろうとする。しかしその瞬間、彼女は下半身に激痛を感じて表情を顰めた。
足の神経を直接愛撫されたかのような尋常でない痛みを感じる。いや、それ以上に込み上がる気持ち悪さに吐いてしまいそうだ。沈痛な面持ちを浮かべたアニェージは、堪らずに痛みを感じる足元を摩ろうと手を伸ばす。だがそこで彼女は改めて現実に引き戻された。
「!」
痛みを感じるはずの足が無い。それも両方の足があるべきそこに無いのだ。やっぱりあの日の惨劇はただの悪夢ではなかった。そう思ったアニェージは震える手で胸を押さえながら歯を喰いしばる。しかし彼女はその苦しみに耐えられず、生温い胃液を吐き出したのだった。
それから暫くして気持ちの悪さが幾分収まったアニェージは、ふと自分が嘔吐した胃液を見て思った。
「あの事故が起きる前に私はお腹一杯に夕食を食べたはず。でも胃液以外には何も吐き出さなかった。もしかして私、かなり長い時間寝ていたのかしら」
アニェージは声にならないほど小さくそう呟く。でもそれだけだった。彼女は呆然としながら床に広がる胃液を眺めるだけで、それ以上に考えようとはしなかった。恐らくあの日の絶望感を思い出したくないという彼女の心理が、無意識に脳の回転を停止させたのだろう。ただその時、病室のドアが小さな音を立ててノックされる。そしてドアが開かれると、一人の看護師がひょっこりと顔を覗かせた。
病室に入って来た若い女性の看護師は、アニェージの意識が戻っているのに気付くと柔らかな笑顔を浮かべる。そして足早に彼女に近づき声を掛けたのだった。
「良かった。ずっと眠ったままだったから、すごく心配したのよ。少し吐いちゃったみたいだけど、でももう大丈夫ね」
そう告げた看護師は横向きになったアニェージの体勢を優しく元の位置に戻す。そして部屋の隅にある洗面台からタオルを取ると、それで床に広がった胃液を丁寧に拭き取った。
「ふぅ。これで一応きれいになったね。あとでちゃんとモップ掛けするから、それまでは少し我慢してね。それじゃ私、先生を呼んで来るから」
「ちょっと待って。ここはどこですか? 私はどれくらい寝てたんですか?」
アニェージは自分でも驚くほどはっきりとした声で看護師を呼び止める。人柄も良く、また若くて比較的歳が近い看護師に、彼女は余計な抵抗を感じなかったのだろう。するとそんなアニェージに向かい、看護師は少し表情を曇らせて言ったのだった。
「ここは【コペルニクス総合病院】よ。あなたが事故に遭った場所からは少し離れてるんだけど、でもちゃんとした設備が整っている病院はここしかなかったから、あなたはここに運ばれたの。そしてあなたはこの病院で大手術を受けた。酷く傷ついた両足を切断する手術をね」
そう告げた看護師は視線を足元に落とした。きっと彼女は両足を無くすほどの悲惨な事故を思い胸を痛めているのだろう。それでも看護師は気丈に振る舞いながら、アニェージに向かい明るく告げた。
「あなたが寝ていたのは三日間よ。だいぶ体力が弱っている状態での手術だったから、意識が回復するまでに時間が掛かったのね。でもこうしてあなたは目を覚ました。これって女神様の祝福かも知れないね」
看護師は手を合わせて神に感謝するよう言った。その仕草からして、恐らく彼女はルーゼニア教の信者なのだろう。ただそんな彼女の振舞いに関心を示さないアニェージは、自分が眠っていた時間だけを小さく呟いた。
「三日、あれから三日も経つのか――。あっ! 妹は、テレーザは無事なんですか!」
アニェージはハッと思い出した妹の存在を聞き尋ねる。すると看護師は少し複雑な表情を浮かべて答えたのだった。
「テレーザちゃん、て言うのね。あなたと顔が似てるから姉妹で間違いないとは思ってたけど、確認が取れて良かった。身元が分かる物が何もなかったから、困っていたのよ」
「じゃぁテレーザは無事なんですね!」
アニェージは縋る様な瞳で看護師に迫る。しかしそれに対する看護師の態度はやはり複雑なものであった。
「無事と言われれば無事なんだけどね。ただ、まだ意識が戻ってないのよ」
「テレーザも私みたいにどこか怪我をしてるんですか?」
「ううん、あなた程の大怪我はしてないよ。体中に擦り傷はあるんだけど、外傷としては浅いものばかり。でもね、全然意識が戻らないのよ。テレーザちゃんを診た先生も原因が分からずに悩んでるくらいだから、ちょっと心配なんだよね」
そう告げた看護師からは遣り切れない辛さが伝わって来る。医療従事者でありながら、意識の戻らない少女に何もしてあげられない自らの未熟さを悔しく思っているのだろう。ただそんな彼女に向かい、アニェージは訴える様に嘆願した。妹を心配する看護師の優しさが十分に伝わったからこそ、アニェージはあえて彼女に頼み入ったのだ。
「お願いです。妹に、テレーザに会わせて下さい。私にはもう、テレーザしか家族がいないから……」
アニェージの頬に涙が流れる。彼女はそれを懸命に堪えようとしていたが、しかしその涙は止まる事を許さなかった。するとそんなアニェージに看護師がそっと近づく。そして看護師はベッドに浅く腰掛けると、アニェージの肩を優しく抱きしめながら応えたのだった。
「大丈夫、テレーザちゃんには直ぐに会えるから心配しないで。それにもしかしたら、あなたが呼び掛ければ目を覚ますかも知れないじゃない。むしろ私の方からテレーザちゃんに会ってってお願いしたいくらいよ。でもその前にあなたの体を先生に診てもらってからにしましょう。あなただってずっと意識を失ってたんだし、それに大怪我をしているんだから、ね」
「はい……」
看護師の温かい言葉にアニェージは肩を震わせて泣く。やはり彼女はまだ十代半ばの少女なのだ。どれだけ我慢しようとも、絶望感に塗り潰された悲しみを堪えるなんて出来るはずがない。いや、年齢など関係なく、彼女が受けたショックはあまりにも大きかったのだ。でもそんな彼女に妹の生存という希望と、看護師の温かい優しさが僅かな安心感を覚えさせたのだろう。だからアニェージは声を上げて泣いたのだった。
それから少しの時間、アニェージは泣き続けた。でもその間看護師はずっとアニェージの体を抱きしめていた。そして一頻り泣いた事でアニェージは落ち着きを取り戻したのだろう。涙を病衣の袖で拭ったアニェージは、赤い瞳で看護師に謝ったのだった。
「ごめんなさい。泣いちゃダメだって分かってたのに、どうしても堪えられませんでした」
「いいのよ。泣きたいだけ泣いて。我慢する必要なんて全然ないんだから。私なんかで良ければ、いくらでも甘えてくれても構わないんだし。でもその様子だと、お父さんとお母さんは残念だったのね。ニュースでも大きく伝えられたけど、沢山亡くなった方がいるって言ってたから」
看護師はアニェージの肩を優しく抱きしめながら続けた。
「事故現場近くにある首都中央病院や王立医大病院は重症者で溢れ返ってるみたい。特に工場の火事で負傷した人が大勢運ばれてるみたいよ。でもそれ以外にあなたが巻き込まれた交通事故での負傷者も大勢出た。一体あの日はなんだったのかしらね」
「そ、そう言えばコペルニクス総合病院って、もしかしてグリーヴスにある会社と関係あるんですか?」
「あら、よく知ってるのね。そうよ、この病院はグリーヴスに本社があるコペルニクスっていう大きな会社が経営してる民間の総合病院よ」
「私、グリーヴスから家族全員で首都に来て、それで今回の事故に巻き込まれたんです。だから」
「そうなんだ。せっかくグリーヴスからルヴェリエに来たのに、とんだ災難に出くわしちゃったね。あ、でも奇遇ね。実は私もグリーヴス出身なんだ。私の場合は転勤でこっちに来ただけだけどね」
そう言って看護師は親しみのある笑顔を浮かべた。そしてその笑顔にアニェージも少しだけ微笑んでみせる。きっと二人はどこかで同郷の繋がりを感じていたのだろう。だから看護師はアニェージにこれ以上無い程親身になり、またアニェージはその胸を借りて思い切り泣いたのだ。ただそこでアニェージはふとした疑問を浮かべる。そして彼女のその理由を質問したのだった。
「あの、さっき看護師さんは私が交通事故に巻き込まれたって言いましたよね。でもそれってニュースを見たくらいじゃ分からないですよね。どうして私が交通事故の被害者だって分かったんですか?」
アニェージは訝しさを露わに聞き尋ねた。ただそんな不審がる彼女に対し、看護師は驚いた表情で声を上げたのだった。
「そうだ、すっかり伝え忘れてた。川に落ちたバスからあなたとテレーザちゃんを助け出した人も、今この病院に入院してるのよ!」
その声にアニェージの心臓は張り裂けそうになる。それは突発的に発した看護師の声が大きかったからではない。自分と妹をバスから救出した人物。その存在に彼女は意も知れぬ緊迫感を覚え、激しく動揺したのだった。
アニェージが命の恩人とも呼ぶべき存在と対面したのは、それから一週間後の事だった。それは両足の切断というダメージが彼女の体を酷く弱らせていたからに他ならず、満足に病室から移動する事が出来なかったからだ。
毎日実施される執刀医の入念な検査にアニェージは苦痛の毎日を送った。検査には激しい苦痛が伴った為、その度に彼女はもがき苦しんだのだ。でもそこで手術の後処理を疎かにしてしまっては、合併症や他の病気に感染するリスクが高まってしまう。そんな取り返しのつかない事態を避ける為に、アニェージは死ぬほど辛くとも検査に耐え抜くしかなかったのだった。
そして一週間が経過し、ようやく辛い検査に一息つくことが出来た。初期の治療が順調に達成出来たのである。だからそのタイミングでアニェージは個室からの外室を許可されたのだった。
まず初めに訪れたのは、妹であるテレーザがいる病室だった。アニェージは看護師からテレーザの容体を毎日知らされていた為、未だ彼女の意識が戻っていない事は承知していた。でもだからこそ、アニェージは意の一番に妹の元へと向かったのだ。
看護師が初めにアニェージに告げた言葉。それは姉妹であるアニェージが直接声を掛ければ、テレーザの意識が戻るのではないかという希望であった。そしてアニェージ自身もその希望が叶うことを強く願っていた。しかし現実はそう上手くいかない。アニェージは妹の手を取り懸命にその名を呼んだが、でも一向にテレーザは目を覚まさなかった。
あの凄惨な事故からもう一週間以上が経過している。その為にテレーザの体に刻まれていた多数の擦り傷は、もう大部分が回復していた。それどころか表情に至ってはとても綺麗であり、あれ程の事故に巻き込まれたなんて信じられないくらいだ。ほんの少しの時間だけお昼寝をしている。見た目にはまさにそんな感じだろう。
小さな寝息をたてながら眠るテレーザ。そんな少女の姿にアニェージは初め感謝こそした。生きていてくれただけで本当に嬉しかったのだ。でも一向に回復する気配の見えないテレーザにアニェージは不安を感じる。このままずっとテレーザが目覚めないとするならば、結局のところ自分は一人ぼっちでしかないじゃないか。アニェージはそう思わずにいられなかったのだ。
「お願いだから、目を覚ましてテレーザ……」
アニェージは強く妹の手を握りしめて切実に願う。しかし彼女の想いは虚しくも叶うことは無かった。
がっくりと肩を落とすアニェージ。その姿は相当に落ち込んだものに見えただろう。ただそんな彼女を励ます様に看護師が告げる。気持ちが折れてしまっては、重症者であるアニェージ自身の回復にも悪影響が出かねない。そう考えたからこそ、看護師はあえて明るく言ったのだった。
「そんなに気にする事ないよ。今日はまだ眠ったままだけど、これから毎日声を掛ければ、そのうちきっと目を覚ましてくれるよ。CTで体の中も全部検査したけど、どこにも異常は無かったんだから。きっと大丈夫。そう遠くないうちにテレーザちゃんは起きてくれるよ」
看護師は笑顔を浮かべてそう告げた。でもそれがアニェージを励ます為の口実であることなど、彼女には御見通しだった。どこにも異常が無いのに目を覚まさない。それは逆に考えれば意識が戻らない原因が分かっていないという事であり、むしろその方が対処方法が分からず手の打ちようがない状態を意味するのではないのか。アニェージはそう思えて仕方なかったのだ。だがそれでも彼女は気丈を振る舞い、看護師の詭弁を信じるふりをして笑顔を返した。なぜならアニェージには、その後にもう一つ大切な仕事が残っていたからである。
川に沈んだバスから自分とテレーザを救い出した存在との対面。それが彼女の気持ちを強がらせる根源であり、また竦ませる怖さでもあった。
テレーザが眠る病室のすぐ隣の部屋。アニェージは少し躊躇するも、看護師に案内されるがままその部屋に入る。するとそこで彼女が目にしたのは、予想以上に酷い傷を負った一人の男性の姿であった。
ベッドに横たわったその体は、隙間の無い程に包帯で撒き尽くされている。どうやら全身を重度の火傷で損傷しているらしい。見るからに痛々しいその姿にアニェージは堪らず表情をしかめる。しかしそれにも増して彼女が畏怖したのは、唯一包帯のされていない男の両目を見た時だった。
とても重傷患者とは思えない程の鋭い眼光がその瞳より発せられている。いや、むしろ殺気立っているとしか思えない。まるで野獣の様な目だ。そしてそんな男性を前にしてアニェージは身悶えするばかりで何も言う事が出来なかった。
当然のことながら男の意識はしっかりしている。テレーザとは逆で、これほどの傷を負っているのに意識があるなんて信じられない。アニェージはそう思い戸惑っていた。するとそんな彼女の尻込みする様子に気を利かせたのだろうか。なんと初めに口を開いたのは男の方であった。
「体中が熱くてな。休みたくとも眠れないんじゃよ」
それは予想外に年老いた者の声だった。でも良く見れば確かに目尻に深いシワがあり、それが紛れもなく年配者の表情であると察する事が出来る。でもそれが事実ならば、本当にこの人が私達姉妹を救ってくれた人なのだろうか。アニェージは素直にそう思わずにはいられなかった。
川底に沈んだバスの中から二人の少女を救い出すだけでも至難の業であるはず。しかもそれが年配者であり、かつ全身に火傷を負った状態でそれを遂行したと言うのだ。アニェージでなくとも俄かに信じ難いだろう。
ただアニェージやテレーザを含め、その他にもバスから数名の人を引き上げたのは彼で間違いないらしい。状況が状況だっただけに、目撃者が多数いたのだ。そしてそれらの裏付けにより、その老人がアニェージ達の命の恩人である事は証明されていた。
「確かにあの時、バスから私を救い出した人の髪の毛は真っ白だった。だからこの人で間違いはないんだろう。でも――」
アニェージはどこか腑に落ちない気分に苛まれる。しかしその戸惑いの理由についてまでは分からない。だから彼女は不審がる目だけで老人に視線を向けていた。するとそんなアニェージの眼差しに老人は嫌悪感を覚えたのだろう。まるで他人事の様に老人は言ったのだった。
「礼ならいらんぞ。ワシは好き好んでお前らを助けたわけじゃない。だから用が無いなら出て行ってくれんか」
面倒な事には付き合っていられない。まさにそんな口ぶりだった。そしてその言葉にアニェージは更に返す言葉を見失った。まさかこんなにも冷たく扱われるとは思いもしなかったのだ。ただそんな彼女に向かい、老人は含み笑いをしながら続けたのだった。
「ふっ。せっかく命が助かったとて、足が二本とも無くなるとは不憫なモンじゃな」
「やめて下さい【ガルヴァーニ】さん、言葉が過ぎますよ! 少しは彼女の気持ちを考えて下さい」
「ワシはガキが嫌いなだけじゃよ。特に生意気そうな小娘がな。だから早う出てってくれんか。目障り以外のなにもんでもない」
「ちょっとガルヴァーニさん!」
看護師がムキになって声を荒げる。ガルヴァーニと呼ばれた老人の横柄な態度がよほど許せなかったのだろう。そして看護師はガルヴァーニに詰め寄るべく進み出そうとした。ただその時、アニェージが咄嗟に看護師の手を掴んでそれを制止させた。
「ア、アニェージちゃん」
「良いんです。お邪魔みたいだから帰りましょう」
アニェージは俯きながら小さく呟いた。ただその声が酷く悲しいものであったのは誰の耳にも疑いようがなく、看護師は堪らずに問い掛けたのだった。
「いくら命の恩人だからって、今のガルヴァーニさんの言葉は失礼よ。絶対に許せない」
「本当に良いんです。私は何も気にしていませんから、だからもう私の病室に戻りましょう」
アニェージは意外にも笑顔を浮かべて看護師に促した。もちろんそれが強がりの笑顔なのは言うまでもない。しかしこの状況で笑顔を浮かべるなんて、まだ十代の少女に出来る事であろうか。
看護師はその笑顔に胸が摘まれる思いがした。でもそこまでされたら引き下がる以外に方法はない。僅かな反撃として看護師はガルヴァーニをきつく睨むと、そのままアニェージの乗った車椅子を押してその病室を後にした。
それから少し経ったある夜のこと。それは満月の光がやけに眩しく、とても深夜とは思えないほど明るい夜だった。
多少の不便さを感じつつも一人で車椅子を動かすまでに回復していたアニェージは、眠れない気分を紛らわす為に病院の外に出ていた。夜風にでも当たれば、少しは気持ちが切り替えられるのではと思ったのだ。それにこの時間であれば一人きりになれる。彼女は本当の意味で一人になれる時間をどこか探していたのだった。
真夜中であっても不自由なく周りを見渡すことが出来る。そんな眩く光輝く月の下でアニェージは車椅子を進めた。そして彼女は病院の敷地内にある公園に入ると、月明かりが遮られた林の中に身を潜めた。
たとえ真夜中であっても、いつ誰に見つかるか分からない。それが病院の関係者であれば、病室に連れ戻されるのは必至だ。まして今夜の様な明るい夜なら尚更その可能性は高い。でも木の影に隠れたこの場所であれば早々に見つかる事はないはず。そう考えたアニェージは車椅子にストッパーを掛けると、軽く深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
彼女が身を隠す林から少し離れた所には池があった。ほとんど揺れないその水面には月の形がくっきりと写り込んでいる。まるで池の中にもう一つ、本物の月が輝いているかの様だ。そしてそんな池を遠巻きに見つめたアニェージは物思いに耽っていた。
やはり彼女が初めに考えたのは、あの老人についてだった。看護師の話しによれば、あのガルヴァーニという老人は交通渋滞の発端となった工場火災に巻き込まれ炎に包まれたという。そしてその炎を消す為に川の中に飛び込んだというのだ。ただその時偶然にもアニェージ達の乗ったバスが川に転落したのを目撃し、無我夢中で彼女達を救助したというのであった。
まだ息のありそうな者数人をバスから引き上げたガルヴァーニ。しかし彼自身も重症を負っている事からついに力尽き、川縁で倒れた。そしてアニェージ達と同じく、このコペルニクス総合病院に運ばれたのだった。
どうやらこの病院にアニェージらが搬送された際、妹のテレーザ以外にもバスの乗客で息のあった者が数人いたらしい。しかし容体は極めて悪く、その後直ぐにその者達は息を引き取ったという。
その惨状はやはり酷いものだったのだろう。思い出すに堪えない絶望のみが支配する凄惨な状況。でも何故だろうか。釈然としない蟠りがどうしても消えてくれないのだ。そしてその戸惑いにアニェージはずっと苦しんでいた。
彼女は両足を切断した。ただそれ以外は皮肉にも掠り傷程度だった。それがアニェージを苦しめた一つの原因なのかも知れない。なぜなら彼女には状況を冷静に考えるだけの頭があったからだ。
アスリートであっただけに、その本質は熱くなる性格のアニェージ。でもそれよりもっと深い部分では、過酷な状況に追い込まれる程に正しく物事を見極めようとする沈着な面が潜んでいた。いや、そんな彼女だからこそ、トップアスリートであり続けられたのだろう。しかし今彼女が思い悩むのは、それまで考えた事も無い別次元の話しばかりであった。
アニェージは突然身に降り掛かった災厄に気持ちの整理がつかず、泣く事が出来たのは看護師の胸に抱かれた一度のみだった。大好きだった両親を失い、さらには誰よりも遠くに飛べた両足をも失ったのに、彼女は悲しみに暮れられなかったのだ。
いっそのこと死んでしまいたい。それが彼女の本心だったのだろう。何もかもを失ってしまったアニェージにしてみれば、それは当然の心理であり、また絶望から脱せられる唯一の方法だったはず。それでも意識不明の妹が目を覚ました時、そこに誰もいなければ妹に辛い思いをさせてしまう。そんな共に生き残った姉としての責務が、彼女を思い留まらせていた大きな理由なのは間違いなかった。ただアニェージには一つだけ、どうしても知りたい真実があった。その真実を知るまでは死ぬに死ねない。心の何処かでそう思っていたからこそ、彼女は自らの命を絶ち切れなかったのだ。
その理由とは何か。まさしくそれは彼女の前に突如として出現し、父を無残に踏み潰して殺した【ヤツ】の存在についてだった。そしてその化け物について、ガルヴァーニと呼ばれるあの老人は何かを知っているのではないか。彼女はそう思えて仕方なかったのだ。
大渋滞が発生していた時間であり、またあの日は歴史的な天文ショーが確認出来る特別な日だった。しかしどう言う訳か、あの日の事を伝えるニュースをいくら見ても、ヤツについての情報は伝えられていなかった。
確かにあの日は生憎の空模様であり、雨はかなり強く降っていた。でもあの事故現場には数えられない程の人が居たはずであり、事実として多くの人が事故の被害に遭っている。それなのに何故ヤツについての報道がなされないのか。
ヤツと言えばかつて王国中を恐怖で震撼させた化け物であり、アダムズに暮らす者なら誰しもがその存在を知っている怪物である。もちろん実際にその姿を見た者は限られているため、それがどれほど狂気に満ちた残虐な化け物であったかは一般の者の知る所ではない。だがそれでもヤツについての情報はネットにアクセスすれば簡単に見つかるものであり、その容姿についてもかなりリアルな写真まで見る事が出来ていた。その為アニェージの様な子供でさえ、ヤツについての基礎知識はそれなりに持ち得ていたのだ。
それなのにヤツについての目撃情報がまったくない。その疑問が彼女の不安をより大きなものにしていた。そして何より、工場火災の原因が単なるガス爆発であると発表されている事が、アニェージの疑心をより強く煽っていたのだった。
火災のあった工場が、鉄道部品を作る工場であったのはニュースを見る限り本当なのだろう。でもガス爆発が火災の原因というのは本当なのだろうか。もしかして意図的に情報が伏せられているのではないのか。アニェージにはそう思えて仕方なかった。そしてガルヴァーニという謎に満ちた老人の存在。そう、老人が最初に彼女に差し向けた野獣の様な、あの殺気走った鋭い視線。それが強く印象に残っているからこそ、アニェージはガルヴァーニの事が気になって仕方なかったのだ。
どうすればあの老人と話が出来るのだろうか。どうすればあの老人から話しを聞き出す事が出来るのだろうか。アニェージはそう思い悩む。しかしいくら頭の中で考えを巡らせたとて答えなど見つかるはずもない。所詮アニェージは世間知らずの十代の少女なのだ。いや、たとえアニェージが社会に通じた大人だったとしても、あの老人を相手にするなんて相当にハードルは高いはず。それでも彼女は考えずにはいられなかった。怖くて堪らないはずなのに、絶対的な危険性がそこに潜んでいると分かっているはずなのに、アニェージは身を竦ませながら考え続けていた。
ただそんな時だ。微かだが誰かの話し声が聞こえた。病院の警備員かも知れない。そう感じたアニェージは即座に身を屈めて気配を消す。しかしそんな彼女の耳に届いたのは、どこか聞き覚えのある声だった。
「それにしてもお主、その傷でよう動けるモンじゃのう。見直したぞ」
「ちっ。フザけた事を抜かしよる。お前の方は相変わらず呑気なモンじゃのう。久しぶりの再会だっていうのに、もう少し心配する気にはなれんのか。お前が思う以上にこっちは体中が熱くて痛くて堪らんのだぞ」
「ふふっ。まぁ、ワシの忠告を長年無視して秘密結社なんぞに属し続けた結果がこれじゃ。自業自得だと受け止め我慢するんじゃな。じゃが今回の件でよう分かったじゃろ。いくらお主が組織の為に身を粉にして働いたとて、組織からしてみれば所詮お主など使い捨ての道具に過ぎんのじゃ」
「フン。この歳になってまで説教する事はなかろうて」
会話する二人の口ぶりは、どう考えても互いに老齢者のものだ。そしてその内の一人の声は間違いなくあのガルヴァーニのはず。直感としてそう思ったアニェージは、息を殺しながらゆっくりと車椅子を移動させ会話する二人に接近した。
二人の老人らしき人物も月の光の届かない林の中にいるため、正確な容姿までは掴み取れない。ただ向かい会うその二人の背格好が、まるで双子の様にほぼ同じなのだと言う事は直ぐに分かった。そしてもう一つ。会話する一方の手足は包帯で隙間なく撒かれている。間違いない、あれはガルヴァーニだ。
確信したアニェージはさらに二人に近づき会話の中身を聞こうと試みる。ガルヴァーニは自分に引けを取らない程の重傷患者だ。そんな老人が無理を押して人気の無い月夜に病院の外を出歩くなんて不自然過ぎる。ならば絶対に何かあるに違いない。そう思ったアニェージは物恐ろしさに苛まれつつも、警戒しながら聞き耳を立て続けた。するとそれはあまりにも思い掛けなく発せられる。そう、二人の会話より彼女の望むべき言葉が唐突に発せられたのだった。
「それにしても、お主がそれ程の傷を負わされるとはビックリしたわい。はやり歳には勝てんかのう」
「バカ言え。いくらジジィになっとはいえ、アカデメイアのヒヨッ子どもなんぞ相手にならんわ。見くびってもらっては困るぞ。それにワシの体を改造したのはお前じゃろうが」
「ならば予想通りで相手は【ヤツ】じゃったか。人外の化け物でもない限り、お主が苦戦するなんて考えられんからのう」
「本当に参ったぞ、ありゃ本物の化け物じゃ。少し油断したとはいえ、まさかあれ程の強さだとは思はなんだ。さすがに今回ばかりはダメかと思ったぞ」
「!」
アニェージは目を丸くした。やっぱり父を殺したヤツっていう化け物は実在したのだ。決して悪夢の中だけの産物ではない。そう感じたアニェージの胸は鼓動を高めた。ただその時、彼女は無意識に車椅子を握る手に力を込めてしまう。そしてその拍子に車椅子で折れた木の枝を踏んでしまった。
「あ、しまった――」
アニェージがそう悔やむよりも早く、彼女の体は取り押さえられる。目にも止まらぬ速さで移動したガルヴァーニに、アニェージは首を絞めつけられたのだ。
「ぐっ、ううぅ」
「やめんかガルヴァーニ! 相手は子供じゃぞっ!」
もう一人の老人が強く叫ぶ。するとガルヴァーニは渋々としながらもアニェージの首から手を離した。
「こんな夜更けに女の子が一人で何をしてるんじゃ」
「ん? このガキ、あのバスから引き上げた小娘じゃねぇか」
アニェージの顔を改めて確認したガルヴァーニが呟く。するとそんな老人に対し、少し咽ながらもアニェージは即座に反発した。
「ゲホッゲホッ。あ、あなた達は何を話しているの。あのヤツっていう化け物の事を知っているの!」
アニェージは鋭い視線を向けて聞き尋ねる。ただし二人の老人は唖然とした顔つきを浮かべるだけで何も答えようとはしない。恐らく彼らは少女の口からヤツという言葉が飛び出すなんて思ってもみなかったのだろう。
「なんで黙ってるのよ! 知ってるんでしょ、ヤツって化け物の事を。教えてよ、なんであんな化け物がいるのよ。どうしてお父さんとお母さんは死ななくちゃいけなかったのよ!」
アニェージは悲痛な眼差しを差し向けながら老人達に叫ぶ。こうなってしまったらもう形振り構ってなんかいられない。彼女はそれまで胸の中に留め込んでいた辛い感情の全てを老人達にぶつけたのだった。
「あの日の全部が狂ってるのよ! 私達はただバスに乗ってホテルに帰ろうとしてただけなのよ! それなのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないの。私達が何をしたって言うのよ!」
「ま、まぁ落ち着きなさいお嬢さん。ワシらは何も」
「とぼけないでよっ! 知ってるんでしょ、あの日何があったのか。そっちの包帯撒いたお爺さんは工場の火災で火傷したって聞いたし、あなた達が普通の人達じゃないことくらい私にだって分かる。だから当然あなた達は関係してるんでしょ、あの日の何かに。お願いだから教えてよ、あの日に何があったのか。どうしてお父さんとお母さんが死ななくちゃいけなかったのか、その理由を教えてよ!」
アニェージの頬を涙が濡らす。それはとても冷たい涙であり、口から吐き出される切ない想いと重なって彼女の心を痛切に締め上げた。それでも彼女は懸命に吐き出し続ける。そうする事でしか、アニェージは自分自身を繋ぎ止められなかったのだ。
「工場がガス爆発で大火災? フザけないでよ、そんなのでっち上げなんでしょ! 本当はあのヤツっていう化け物が関係してるんでしょ! 私達みたいな一般市民に知られない様に、ワザと報道してないんじゃないの。だっておかしいじゃない。私の家族以外にもたくさんの人が死んだっていうのに、その原因だったヤツの存在が表に出ないなんて、どう考えたっておかし過ぎる。ねぇどうなの、知ってるんなら早く何か言ってよ!」
アニェージは車椅子から身を乗り出さんばかりに強く叫んだ。怒りと悲しみが溶け合った感情と共に。ただそんな彼女に対し、ガルヴァーニは冷徹に呟いたのだった。
「小娘のくせに随分と切れ者じゃな。やはり生かしてはおけぬか。ヤツの姿を見たばかりか、ワシらの話しまでもを聞かれてしもうた。仕方ないのう」
「待て待てガルヴァーニ。相手はただの女の子じゃぞ。物騒な話しをするモンじゃない。それにのう、このお嬢さんの目には力がある。子供だからといって、こういった相手を甘く見ると痛い目に遭うぞい」
もう一人の老人がそう言って強硬的な姿勢を見せるガルヴァーニを嗜める。そしてその老人はアニェージに向き直り、人の良さそうな笑顔を差し向けながら丁寧に告げたのだった。
「済まんのう、お嬢さん。あの日に何が起きたのか、ワシらもよう分からんのじゃ。じゃからお嬢さんがどれだけ願おうとも、ワシらはそれに応えられんのじゃよ」
「そんな見え透いた嘘はやめてよ。ちゃんと答えてくれないなら、もっと大きな声を出しますよ!」
「まぁそう気を荒立てるでない。ワシらは本当に何も知らんし、むしろワシらの方が教えて欲しいくらいなんじゃよ。お嬢さんが察している様に、確かにワシらは火事があったあの工場に深く関係しておる。じゃがな、ワシらが変事を聞きつけ駆け付けた時にはもう、工場は火の海と化しておったんじゃ。そしてその火の中から突然ヤツという怪物が現れた。何が何だかさっぱり分からん。じゃからのう、ワシは今あの日の事について調査を開始しようとしている所なんじゃよ」
「おい【グラム】、そんな小娘にどこまで話す気じゃ」
「お主は黙っとれ! ワシは今、大切な話しをしておるんじゃ」
グラムと呼ばれたその老人がガルヴァーニを鋭く睨み付ける。するとその気迫に畏怖したのか、ガルヴァーニは押し黙った。だがそんな口を噤む老人に代わりアニェージが叫ぶ。彼女にはもう、噴き出した感情を抑えるなんて出来なかったのだ。
「あの日の事をどうしても教えられないっていうのなら、じゃあ何で私を助けたりしたのよ! どうせならあの時お父さんとお母さんと一緒に、妹も含めてみんなで死にたかった。そうすればこんなに辛い思いをしなくて済んだんじゃない。それなのにどうして私を助けたのよっ! どうして私を苦しめるのよっ!」
アニェージは止まらぬ涙と一緒に全てを吐き出す。それは彼女の心の叫びであり、打ち消す事の出来ない弱音であった。
「私の心の中では今でも土砂降りの雨が降っているの。あの夜の雨が止まないのよ。真っ赤に染まった橋の上で、私はいつまでも冷たい雨に濡れている。ううん、体が凍えて震えが止まらないの。怖くて堪らないのよ」
アニェージはグラムの腕をぐっと掴む。そして真っ直ぐにその目を見つめながら話しを続けた。
「本当に怖くて堪らない。でもね、その怖さの正体を知ってしまったから。私の中に生まれてしまった黒塗りの殺意を認めてしまったから、私は震えているのよ。そうなの、私の本当の望みはヤツの話しを聞く事なんかじゃない。私が願っているのは【復讐】なのよ!」
「お、お嬢さん」
「ヤツがお父さんを踏み潰して殺した時、あいつと一瞬だけ目があった。狂気に満ちた猛獣の目。私はそんなヤツの目に尋常じゃない恐怖を感じたの。絶望以外の何ものでもない無力感を。でもその後、頭の中が真っ白になったはずの私が初めに思ったのは【憎しみ】だった。お父さんやお母さんの死を悲しむよりも先に、私の心を染め上げたのはヤツに対する激しい恨みだったのよ。だってそうでしょ。まったく意味の分からないままお父さんとお母さんは不条理に命を奪われた。それを憎まずに何をしろっていうのよっ! だから私はヤツについての情報がほしいの。ヤツをこの手で殺したいのよっ!」
「ならば足掻け! そして挑めっ! その憎しみを糧にしてヤツを追い詰めてみろっ!」
突如ガルヴァーニがアニェージに向けて強く叱咤する。冷徹に吐き出されたその言葉はアニェージを僅かに萎縮させて黙らせた。ただその時の老人がアニェージに差し向けた視線は、意外にも温かいものであった。
「所詮人の生死など理不尽なものじゃ。それこそ虫や獣とさして変わらん。いや、それ以上に人は死を受け入れてしまうからのう。むしろ始末が悪いのは人の方かも知れん。じゃがな、そんな弱さを身を持って知った者こそ、本当の強さを手に入れられるというもの。その証拠にお前はあのバスから引き上げられる際、必死にワシの体に縋っていた。心では死にたいと願っておったはずなのに、しかし体は生きる事を望んでおったのじゃ。その気持ちに己が気付き、本気でヤツに挑もう決意するのならば、ワシはお前を受け入れよう」
「ガルヴァーニにそう言われた私は何も言い返す事が出来なかった。何もかもが嫌になっていたはずなのに、でもガルヴァーニの言葉に私は救われる気がしてならなかったんだ。両親を失い、自らの宝物でもあった両足までもを失った。その悲しみは海よりも深かったはず。けどそれを凌駕する憎しみの感情が私を支配した。そしてガルヴァーニはそれを否定するどころか受け入れると言ってくれた。だから私は決めたんだ。たとえ歪みきった決意でも構わない。必ずヤツをこの手で殺すんだと。それまでは絶対に生きてやるんだと――」
小雨の降り注ぐ森の中でアニェージは静かに告げた。少し離れた場所に落とした彼女の視線がやけに物哀しい。でもその言葉には間違いなく熱い魂がつぎ込まれているはず。そう感じ取ったジュールは拳をぐっと握りしめた。
ヤツを追うアニェージの決意は、まさに家族の仇を討つための覚悟であった。ただそんな彼女の傷付いた心を凍てつかせるように、冷たい雨はいつまでも降り続いていた。