表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
73/109

#72 小糠雨の決意(前)

 森の中はすっかり夜の闇に包まれている。そしていつしか音も無く、弱い雨が降り始めていた。

 強い夕日の光が差し込んでいたのはたった一時間ほど前の事。しかし今は数メートル先を見るにも苦労する程に、周囲は黒く染め上げられている。

 まるで日没が雲を呼び寄せたのか。そう思ってしまうくらい天気の変化は急だった。でも山の天候などそんなものであろう。むしろ土砂降りでないだけ幸運だと喜ぶべきなのかも知れない。

 ジュールとアニェージ、そしてヘルムホルツはそんな森の中で息を潜めてじっとしていた。彼らは移動しようにも動けない事情を抱えていたのだ。そして彼らは雨を避ける為に、木陰に隠れながら体を休めていた。

 あまりにも唐突だったデカルトとの戦い。ジュールの目を見張る強さで象顔のヤツになったデカルトをどうにか撃退するも、しかしそれは予想以上に彼らの体に深刻な影響を与えていた。

 突き出されたヤツの鼻に胸を(つらぬ)かれたジュール。その傷は完全に(ふさ)がってはいたが、まだ思うように体を動かすには至らない。そして封神剣の暴走によって過度に体力を抜き取られたアニェージとヘルムホルツもまた、未だ気分を害し動ける状態ではなかった。軽い眩暈(めまい)(さいな)まれ、足元が覚束ないのだ。またそれに付け加えてヘルムホルツは気を失いながら山の斜面を転げ落ちたことで、足首を重度に捻挫していた。

 そんな二人を前にしてジュールは(ひど)く気を揉んでいる。アメリアの消息が気掛かりなのは当然だが、今の彼はそれ以上に自分の剣のせいで仲間の命を危険に晒せたと落ち込んでいたのだ。

 弱い雨が森の気温をより低下させていく。そしてその冷え込みに心までも弱気に変えてしまったジュールは、二人に対して力無く詫びの言葉を告げたのだった。

「本当に済まない。俺がこの刀を暴走させたばかりに、みんなを危険な目に遭わせちまった。それにせっかく掴み掛けたアメリアの手掛かりも無駄にしちまった。肝心な時に俺って奴は、ホント役立たずだな」

 ジュールは唇を噛みしめて自らを悔いている。彼は自らが犯した失態に後悔し、またやり場のない怒りを自分自身に向け憂慮していたのだ。ただそんな彼に向かい、アニェージがいつもと変わらない平素な口調で返した。

「ロクに試みもしないで、実戦でいきなり封神剣を使ったのは浅はかだったな。でもあの状況で剣を抜くのは当然の行為だったと私は思っている。だからジュール、お前はそんなに気にするなよ」

「だけど、あんた達にまで危害を加えたのは事実なんだ。それだけは謝らせてくれ」

「フン。まぁお前がそうすることで折り合いがつけられるのなら、それ以上は言わないさ。ただこれだけは言わせほしい。起きてしまった失敗を後悔するよりも、次の成功に向けて考えてくれないか。私は初めてその能力を目の当たりにしたけど、やっぱり十拳封神剣は噂通りの力を秘めている。そしてその力はこの先の戦いで絶対に必要になるものなんだ。だからさジュール、もうくよくよするなよ」

「アニェージ……」

「それにしてもその布都御魂(ふつのみたま)って刀の能力は恐ろしいな。急に体の力が抜けてどうにもならなかったぞ。でもそれはヤツにしても同じだった。私は見逃さなかったからね。布都御魂(ふつのみたま)を向けられたヤツが腰を落とした瞬間を。あれ程の化け物でも、その刀を向けられたならタダではいられない。要はその刀を如何に使い(こな)すか、肝心なのはそれだな。でもお前にならそれが出来るんじゃないか。いや、それが出来るのはお前だけなんじゃないのかな。象顔のヤツとお前の戦いっぷりを見た今の私には、そう思えてならないよ――」

 アニェージは柔和な眼差しをジュールに向けた。その視線には彼女のジュールに対する揺らぎない信頼が感じられる。恐らく彼女はジュールと象顔のヤツであるデカルトの戦いを目の当たりにしてこう思ったのだ。それまで対等だと考えていたジュールの尋常でない強さを知った。そして自分では到底敵わないその強さを持ってしても、ヤツを倒すのは至難の業であると。

 でもそこに悔しさはなかった。それまでのアニェージであれば確実にジュールの強さを(ねた)んだはず。しかし今の彼女にとってのジュールは共闘すべき【仲間】なのである。もちろんそれはヘルムホルツやリュザックも同じであり、彼女はいつしか信頼を寄せる仲間として、ジュールらを認めていたのだった。

 それまで孤独に戦って来たアニェージの内面に変化が生じた確かな証し。その揺るぎない信頼を宿した眼差しに、ジュールはただ照れくさそうに頭を掻きむしるだけであり、またその横でヘルムホルツは苦笑いを浮かべていた。ただ確実に言えるのは、それまで周囲を覆っていた重苦しい雰囲気が影を潜めたという事であった。

 ジュールの瞳が(わず)かに輝く。戸惑いを完全に払拭したわけではない。それでも彼はアニェージの優しさに救われたのだ。そして肩に圧し掛かる重圧から解放された事で、彼の内に秘める力が活動を再開したのだろう。熱い血液が傷ついた全身に浸透し、それを癒していく感覚が彼の中に伝わった。


 それから数時間が経過するも、未だに舞い降りる弱い雨は止みそうにない。ただその時だった。微かな電波が届いたのだろう。アニェージが所持する端末がベルを鳴らした。

 その知らせはボーデの病院で待機しているはずのブロイからのメールであった。しかしその着信画面を見たアニェージは軽く舌を鳴らす。どうやら電波状況の悪い北の里に来ていた為に、情報が到達した時間が大幅にずれ込んでいた様なのだ。

 現在の時刻は午後8時。ただブロイがアニェージに向けてメールを発信したのは、彼女達が里に到着した頃の午後2時であった。

「まったく、田舎っていうのは不便な場所だな――」

 アニェージは溜息混じりに(つぶや)く。全てがデジタル化されたこの時代に、これ程にも情報の伝達に時間が掛かるなんて信じられない。彼女はそう(あき)れたのだろう。それでもブロイからの連絡が何を意味するのか気になったアニェージは、手際よく端末を操作して画面にメールを表示させた。

 それは簡易的な文章で綴られたものだった。ただしその内容は含みを持たせたものであり、明確な意味を読み取る事は出来なかった。


『シュレーディンガー社長より緊急の連絡有。どうやらグリーヴスで何かしらの動きがあったもよう。僕は一度グリーヴスに戻り、その後リュザック君達を連れて再度ボーデに引き返す。飛行中は隠密により連絡不可であるから、詳細は合流時に報告する。以上』


 事務的な文章はブロイの性格から来るものなのか。それとも仕事として割り切っているからなのか。しかし問題なのはそこではない。グリーヴスで何か重大な問題が発生し、その対応にシュレーディンガー達が追われている。そしてその解決の手段としてブロイが一旦グリーヴスに戻るという事が問題なのだ。

 一体グリーヴスで何が起きたというのだ。いや、それは間違いなくソーニャに関係がある事態なのだろう。そうとしか考えられないアニェージは只ならぬ緊迫感を抱き身を強張らせる。もちろんジュールとヘルムホルツもその胸の内は同じだ。そして苛立ちを募らせたアニェージは口惜しみながら吐き捨てたのだった。

「クソっ。こんな時に体の自由が利かないなんて情けない。せめて端末の電波だけでも障害なく届いてくれれば、もう少し状況を把握出来るのに」

 そう告げたアニェージは軽く頭を押さえた。彼女はまだ軽度の眩暈(めまい)(さいな)まれているのだ。こんな場所でいつまでもじっとなんてしてられない。そのもどかしさが彼女の心をキツく締め付ける。ただそんな彼女に同意しながらも、ヘルムホルツが状況を冷静に分析しそれを口にしたのだった。

「悪天候の中でも、アレニウス山脈に登頂する登山者からの連絡はボーデに繋がるはず。それに比べて俺達が今いるこの山は、アレニウス山脈なんかよりも遥かに標高の低い山だ。電波が届かないなんて、このご時世に考えられない。でもあの坂道で俺が感じた磁場の狂いが正しいとするなら、この電波の繋がり(にく)さも説明がつく。桜の早咲きといい、やっぱりこの山は何かがおかしいよ」

「でもさ、昨日の夕方、俺がアメリアに連絡した時は普通に繋がったぜ。そん時アメリアはおばさんと一緒にあの桜の墓地にいたんだ。電波が繋がり難いのは、単純に森の奥に入り込んだからじゃないのか?」

「ブロイさんのメールは午後2時に発進されたモンだ。その時間俺達はまだ里に居た。それにお前は今朝からアメリアに何度も連絡しているのに繋がらない。それはさっきの象顔のヤツにアメリアが追われていたからなのかも知れないけど、でもやっぱり変だよ、この状況はさ」

「だったらどこがどう変だっていうんだよ!」

「そんなの俺にだって分かるかよ! ただ何となく直感として感じるんだ。この山は全体を通して特別な【性質】を持っているんじゃないかって」

「特別な性質――」

 その言葉にジュールは口ごもる。彼も内心ではどこか腑に落ちない不条理さを感じているのだ。なぜアメリアの危機をリアルに感じたのか。なぜルーゼニア教に関係する写真に磁石の丘の坂道が写っていたのか。でもそれを考えると怖くて堪らなくなる。だからジュールはついヘルムホルツに声を荒げてしまったのだ。でも特別な性質という不明確な定義に彼の心は揺さぶられる。するとそんな彼の胸の内を読み取ったのであろう。ジュールの迷いを紛らわすかの様に、ヘルムホルツが話題を逸らしたのだった。

「ブロイさんだけど、もうグリーヴスを往復してこっちに戻って来てるんじゃないのか? アニェージにメールを送ってすぐ出発したんだったら、補給の時間を含めてもこっちに戻って来てる可能性は高いぞ」

「だったらガウスに頼めば良かったな。里の電話で連絡すれば、電波に関係なくブロイさんと繋がるはずだろ。でもそれを今更嘆いたところで意味無いけどさ」

 ジュールはそう言って溜息を吐いた。もっと早くにメールが届いていれば、一人里に向かったガウスに確認を依頼出来たのだと。しかし現実は無情にもすれ違うばかりだ。念の為にヘルムホルツがガウスの端末に呼び出しを掛けるも、やはり電波の状況が悪く繋がらない。そして三人は落胆を隠せないまま、雨の降る森の中で小さく身を(すぼ)ませた。


 ガウスは今、一人で里に向かっている。布都御魂(ふつのみたま)によって体力を奪われつつも、彼は比較的軽症で済んでいた為、里に救助を求めに向かったのだ。それにマイヤーの予告にもあったジュールの総司令殺害容疑がニュースで発表されたかも知れない。それを確かめる為にガウスは一人で里に戻ったのだった。そしてそんな彼を思いながらアニェージがふと(つぶや)いた。

「今は焦っても仕方ない。ガウスが戻って来るのを待とう。新しい情報の有り無しに関わらず、彼が救援を連れて戻らない限り、捻挫したヘルムホルツを里に連れて行けないんだからね。――それにしてもガウスは頑丈だな。布都御魂(ふつのみたま)に体力を削られたのは私達と同じはずなのに、たいして休みもしないでよく動けるモンだよ」

「あいつのタフさは折り紙付きさ。俺は戦場で何度もガウスの体力に救われているからね。あいつのタフネスとパワーは俺が知る限り、軍の中でもトップクラスだよ」

「へぇ。でもそんな優秀な男が、どうして城の警備隊士なんてやってるんだよ? そんなに高い能力があるなら、お前が推薦してトランザムに引き抜けば良いじゃないか」

「俺だって本音ではそうしたいよ。でもガウスには守らなければならない女房と子供がいるからね。命の危険と隣り合わせの仕事には、もうこれ以上拘らせられないよ」

「そうか。あいつ若いのに所帯を持っているのか。でもそれなら納得だよ。ガウスにはガウスの人生があるんだもんね。なら早く彼を元の生活に戻してあげなくちゃいけないな。行きずりで彼を巻き込んでしまったけど、お前が言う様にこれ以上深く関わりを持たせるのは危険だから」

「あぁ、そうだな」

 ジュールは少しだけ微笑んだ。愛する家族と共に幸せな生活を営むガウスの姿を想像したからなのか。それとも些細な理由でヘルツとケンカする子供っぽい姿を想像したからなのか。そしてそんなガウスの平和な日常を壊すわけにはいかない。ジュールは改めてそう思った。

 もし有のままを話したとしたならば、ガウスはきっと自分達に協力を惜しまないだろう。でもその優しさに甘えるわけにはいかないのだ。獣神を相手にしている以上、命などあって無いようなもの。そんな危険な事案に彼を巻き込むなんて決してあってはならない。ジュールは里に戻り次第、ガウスには手を引くよう進言すると決意する。たとえ彼がそれを拒んだとしても。でもその前に、何とかして里に帰らなければ話が始まらない。だから頼むガウス、早く救助を連れて戻って来てくれ。ジュールは胸の中で痛切にそう願った。

 ただその時、彼はすぐ隣で足を(さす)るアニェージに気をとめる。それまで気付かなかったが、彼女の方も相当無理をしていたのだろう。雨粒とは明らかに異なる水滴が額より流れ落ちる彼女の姿に、ジュールは思わず声を掛けたのだった。


「おい、大丈夫かよアニェージ。どこか痛むのか、顔色悪いぞ?」

 ジュールは心配そうに告げる。ただその言葉を無視したアニェージは、ポケットより小さなケースを取り出した。そしてその中より数粒のカプセルを手の平に出すと、それを一気に口の中へ放り込む。すると急速に気分が回復したのだろうか。彼女はホッと息を吐き出すと、ジュールに向かい話し出した。

「これだけ気温が下がって来ると、さすがに足が痛くてね。鈍痛が(うず)いて気持ち悪いんだよ。それに機械は水に弱いから、義足が(きし)んで余計体に負担が掛かるんだよね」

 アニェージはそう言って(わず)かに微笑んだ。でもそれが強がりだという事は容易に察する事が出来る。だからジュールは心配を露わに聞き尋ねた。

「そんなに痛むのかよ。まさか布都御魂(ふつのみたま)のせいで体の免疫が弱まっているのか!」

「その話は止せよ。別に封神剣のせいだけじゃないさ。この体にガタが来てるのはずっと前からの事だし、今までそれを騙し騙しやって来たんだ。お前に責任は無いよ」

「で、でも」

「鎮痛剤を飲んだからしばらくは大丈夫だよ。だからそんな顔しないでくれないか。それに私は同情されるのが一番嫌いなんだよね」

 そう(つぶや)いたアニェージは視線を足元に向ける。そしてその眼差しには何とも言えぬ哀しさが込められていた。ジュールはそんな彼女が心配で仕方なかったが、でも掛ける言葉が見つからず思い悩む。ただその時、ジュールは考えるよりも先にそれまで感じていたアニェージの特徴について問い掛けてしまったのだった。

「なぁアニェージ。あんたのその足だけど、ただの義足にしちゃ物騒過ぎるよな。仕事柄その義足を付けなくちゃいけなかったのかも知れないけど、でも普通の義足だったら、そんなに苦しむ必要はないはずだろ。あんた、何でそこまで辛い思いしてまでヤツを追うんだよ?」

 それが場違いな質問であった事は否めない。女心の分からないジュールの配慮の無さとも言えるだろう。ただその質問に対し、アニェージは軽く笑ってみせた。そして意外にも彼女はその胸の内を静かに話し出したのだった。



 十年前。(まぶ)しく輝く太陽の下で、アニェージは陸上競技の走り幅跳びに全てを費やしていた。それはまだ十代半ばではあったが、彼女がアスリートとして卓越した能力を持ち得ていたからだ。

 同年代の選手に敵はいない。それどころか大人の大会であったとしても、アニェージは並み居る強豪を抑えて栄光を手にしていた。

 そんな彼女の事を当時の関係者らは【跳躍(ちょうやく)の魔女】と呼んだ。それはアニェージがまだジュニア枠の選手であるにも拘らず、大人の選手ですら相手にならない圧倒的な強さを誇っていた事が一番の理由である。でもその他にもう一つ、彼女が跳躍(ちょうやく)の魔女と呼ばれる理由があった。

 空中を華麗に飛ぶ姿が途轍もなく美しい。それがアニェージが跳躍の魔女と呼ばれるもう一つの理由だった。

 大胆でありながらも鮮麗された華々しい跳躍に、それを見る者達は歓声を上げて絶賛する。またそれ以外の者達は唇を噛みしめながら彼女の活躍に嫉妬した。ただそれら全てに共通するのは、その誰しもがアニェージの才能を認めていたという事だった。

 世界大会に出場したならば、そこで必ずや最高の成績を掴み取る事だろう。誰もがそれを疑わない。そしてその成績以上に世界は彼女に釘付けになるはずだと、皆はそう思った。なぜなら彼女はアスリートとしてはもったいない程に、整った容姿をしていたからだ。

 端整な顔立ち。抜群のスタイル。そして宙を舞う様に飛び、他を圧倒するアスリートとしての強さ。まさに誰もが憧れる完璧な存在として、彼女は注目を浴びていたのだ。

 跳躍(ちょうやく)の魔女。その呼び名は十代の少女に語るには少し物々しい感じもする。ただその呼び名を付けたのが彼女の活躍を嫉む者達であり、当然の事ながらそこに卑しみが込められているのは誰の目にも明らかだった。しかし当のアニェージ本人はというと、むしろその呼び名を気に入っていた。響きは悪いが、全てを屈服させる強さを表す褒め言葉だと、彼女は受け入れていたのだ。そしてアニェージは世界大会の切符を手に入れる為に、首都ルヴェリエで開催される陸上競技会に参加した。

 大勢の観客の注目を浴びる中でアニェージの美しい跳躍が披露される。そこにどれだけのプレッシャーが圧し掛かったのかは、想像するに難しいだろう。それでも彼女は見守る観客の期待に見事応える。そう、彼女は他を寄せ付けない圧倒的な強さで大会を優勝したのだ。それもそれまでの自己ベストを大きく更新して。

 歓声と拍手が鳴り止まない。それほどまでにアニェージが刻んだ記録は凄いものであり、また跳躍する美しい姿勢は観衆の脳裏に記憶として刻み込まれた。そして彼女は満弁の笑みを浮かべてスタンドの大観衆に手を振る。それは彼女が誰よりも愛する家族に向けての感謝の現れだった。

 父と母、そして5つ歳下の妹。決して貧しい家庭ではなかったが、それでも一般の家庭である事に変わりなく、全国を転戦する費用の捻出と日々のトレーニングのサポートには大きな負担になっていたはずである。でも家族はアニェージの活躍を心から嬉しく思い、全力で彼女を支えた。それをアニェージ自身も痛いほどに理解していたからこそ、家族に向けその喜びをいっぱいに表現したのだった。


 表彰式で念願の世界大会の出場切符を手にしたアニェージ。彼女はその喜びを家族と共有する為、ルヴェリエにある有名なレストランに向かう。そして彼女は親愛なる父と母、そして妹の【テレーザ】と夢の様な一時(ひととき)を過ごした。

 これ程までに幸せな事なんてあるのだろうか。アニェージは嬉しさを噛みしめながらそう思う。跳躍の魔女などと呼ばれ、天才アスリートとして注目を浴びる彼女であったが、でもその陰でどれだけの努力を費やしてきたかは計り知れない。ただ最も身近にいる家族だけは、そんなアニェージの辛さや苦しみを理解していた。だからこそ彼女は家族と今回の勝利を共有し、喜びを分かち合う幸せを噛みしめたのだ。

 でもさすがに疲れが溜まったのだろう。お腹が膨れた影響も重なり、アニェージは猛烈な睡魔に襲われる。その為家族はレストランでの祝勝会を切り上げ、宿泊するホテルへ帰る事にした。

 バスに揺られること数分。アニェージはぼんやりと窓の外を見ていた。意識があるのか、それとも夢の中なのか、それは随分と曖昧だ。でも悪い気はしない。強い眠気に支配されていたアニェージは、それでも祝勝会の余韻に浸りながらバスの座席に身を預ける。ただ不運にも、窓の外の景色は淀んだものであった。

 もう日が暮れてからかなり時間は経っている。そして本来であれば、窓の外には首都に並ぶ高層ビルの明りが幻想的に見えたはず。しかし生憎降り出した雨のせいで、それらは窓ガラスで屈折してぼやけてしまった。するとそんな彼女の胸の内を代弁するかの様に、前席に座る妹のテレーザがその横にいる父に向かい尋ねたのだった。

「ねぇ、お父さん。今晩はお空で双子の彗星が交差する【特別な日】なんだよね? でもこの雨じゃ見れそうにないね――」

 少し残念そうに妹がそう囁く。もしかしたら泣きそうになっているのかも知れない。負けん気の強い自分とは異なり、妹の内気な性格を誰よりも知っているアニェージは気を揉む。ただそんな彼女に向かい隣に腰掛ける母が柔和に微笑んだ。心配はいらない。こういう時はお父さんに任せておけば大丈夫よ。母はアニェージにそう告げている様だった。そしてそんな母の気遣いにホッとしたアニェージは、いつしか眠りに落ちていた。


 それから(しばら)くしてアニェージは目を覚ます。ただそこで彼女は少しの疑問を感じた。と言うのも、(いま)だバスはホテルに到着していなかったのだ。

 いくらなんでも遅すぎる。自分がどれだけの時間眠っていたかは分からないが、それでもレストランとホテルの距離などたかが知れているのだ。もう()っくに着いていて良いはず。しかし歪んだガラス窓の外を見たアニェージは、その原因を直ぐに察した。

 バスは動いていない。そう、アニェージの乗ったバスは大渋滞に巻き込まれ、身動きの取れない状態に(おちい)っていたのだ。それもバスは大きな川に掛かる橋の中間で止まっている。

 ホテルへの到着が大幅に遅れている理由はこれなのか。でも何が原因でこんな渋滞が発生しているのだろう。そう思ったアニェージは、まだ眠たい目を擦りながら、隣に座る母が手にしていた携帯端末の画面に視線を向けた。

 それはニュース映像を映し出していた。しかしオレンジ色に染まるその画面を見たアニェージは、寝起きのせいもあってかニュース中継が何を伝えているのか理解出来なかった。するとそんな彼女に向かって、母が少し表情を曇らせながら言った。

「どうやらこの先にある工場で火事が起きてるみたいなの。それもかなり大規模な火事みたい。ほら、運転席の方を見て。空が赤くなってるでしょ」

 母に促されるままアニェージは顔を持ち上げてバスの進行方向を眺める。この場所からはまだかなり離れているのだろうが、でも確かに遠くの空が薄らと赤く光っていた。

 消防車や救急車のサイレンがあちらこちらから響いて聞こえる。まるで首都が悲鳴を上げているんじゃないのか。そう思えてしまうくらいに。そしてその甲高いサイレンの音にアニェージは両手で耳を塞いだ。

 堪らなく怖い――。彼女は尋常でない寒気を感じ身を(すく)ませる。理由は分からないが、嫌な予感がして仕方ないのだ。だからアニェージは母に向き直って強く訴えた。

「なんだか気持ちが悪いよ。ホテルはこの橋を渡り切ってすぐの所だから、バスを降りて歩いて行こうよ」

 アニェージは今にも泣きそうな目で母に告げる。しかし母は困った表情を浮かべながら彼女を諭したのだった。

「天気が良ければそうしたんだけどね。でも外は雨が強く降ってるし、それに私達は傘を持って来てないでしょ。もう少しだけ我慢しましょ」

 母はそう言ってアニェージの手を握りしめた。優しくて柔らかい母の温もりが手に伝わる。それに加えて穏やかに微笑む母の表情は、アニェージに安心感を与えた。でも何故だろう。彼女が抱く胸騒ぎは一向に消えない。いや、むしろ大きくなっていくばかりなのだ。でも不穏な空気を感じたという理由だけで、これ以上母に迷惑を掛ける訳にもいかない。アニェージは渋々としながらも座席に腰掛け直した。――とその時だった。

「ズガガガーンッ!」

 突如として猛烈な衝撃がバスを襲う。それは後方から大型のトラックにでも追突されたかの様な激しい衝撃だった。


 バスは後方から受けた衝撃により、前方に停車していた車両をいくつも弾き飛ばして進む。そして複数台の車を橋の下に突き落としたバスは、バランスを崩して横転した。

 それでもバスは止まらない。猛烈な勢いを保ったバスは、鉄の塊と化して橋の上を転がる。それでもバスは橋の欄干に激突し、大破して止まった。

 くの字に折れ曲がって変形したバスは無残な鉄くずだ。そしてそこに乗車していた客達もまた、その大部分が変わり果てた姿となった。

 シートベルトをしないバス特有の性質も起因したのだろう。大部分の乗客はバスが横転した拍子に車外にへと投げ出されていた。

 ある者はアスファルトに強く頭を打ち付け、それをスイカの様に割った。またある者は横転するバスと他の車の間に挟まれ、全ての内臓を口から吐き出した。そして運良くバスの中に取り残された乗客達もまた、その多くが固定の外れた座席等に押し潰されたり、大破したバスの残骸にぶつかるなどして絶命していた。

 まさに地獄絵図と呼ぶしかあるまい。飛び散った鉄くずと肉片が橋の上をこれ以上ない程に赤黒く染め上げているのだ。この情景を前にして、正気を保っていられる者などそうはいないだろう。ただその最悪の状況の中で、アニェージは生きていた。

「う、うぅ」

 アニェージは顔面を抑えながら(うめ)き声を上げる。前席の背もたれに強く顔を打ち付けた彼女は、鼻に激痛を感じて(もだ)えていたのだ。恐らく鼻の骨が砕けているのだろう。流れる鼻血もかなりの量だ。ただそれよりも自分の身に何が起きたのか。アニェージはそれを確かめようと懸命に立ち上がろうとした。――がしかし、

「!」

 アニェージは愕然とする。なんと彼女の両足は自身が座る座席と前席に挟まれ奇妙な形をしていたのだ。

 不思議と痛みは感じない。でもそれと同じく両足の感覚までもまったく感じなかった。そしてそれが何を意味するのか。直感として彼女は戦慄に満ちた嫌悪感を抱いた。だがその時、バスが大きくグラついた。

「ギィィ」

 アニェージは必死に座席にしがみ付きながら割れた窓ガラスの外を見る。するとその表情はみるみると青冷めていった。なぜなら動きを止めたバスは、車両の前側半分が橋から飛び出た状態であり、いつ橋から転落してもおかしくない状況だったのだ。

「ど、どうしようお母さん。このままじゃ私達……ひっ!」

 一刻を争う状況に狼狽(うろた)えるアニェージは堪らず母に助けを乞う。だがしかし、そこで彼女が目にしたのは変わり果てた母の姿だった。

「ウエェ」

 アニェージは込み上がる異物を吐き出した。体が過度の拒否反応を示したのだ。そして彼女の目より涙が零れ落ちる。大破したバスの残骸が直撃したのだろう。そこに座っていたのは、首のもげた母の亡骸であった。

「嫌だ、こんなの嫌だよ。誰か全部嘘だって言ってよっ!」

 目を覆いたくなる光景にアニェージは震えながら絶叫する。ほんの少し前まで温もりを感じていた母がもういないのだ。彼女が錯乱するのは当然であろう。でもその時、取り乱すアニェージの名を呼ぶ頼もしい声が聞こえた。

「大丈夫かアニェージ、怪我は無いか!」

 それは前席に座る父からの呼び掛けだった。そして父は手だけをアニェージの方へ差し出し、それを掴むよう必死に声を上げた。

「無事なのかアニェージ。どこか痛い所はあるか」

「お母さんが、お母さんが」

 アニェージは差し出された父の手を力一杯握りしめる。しかし彼女のその腕は尋常でないほどに震えていた。そしてそんな彼女の動揺する仕草に父は理解する。愛する妻が死んだのだと言う事を。それでも父は少しでもアニェージを勇気付けるよう優しく告げた。

「大丈夫。すぐに助けてやるからお前はじっとしていなさい。少し揺れてるけど、この状態ならまだバスは川に落ちないはずだ」

 そう言った父は腕をアニェージの手から引き戻した。どうやら父の方も座席に足が挟まり身動きが取れないらしい。それでも父は冷静だった。そして娘の窮地を救う為に、彼は思い付く最善の行動を取り始めた。

「ゴッ、ゴゴッ」

 強い力で何かを押し退ける音がする。バスの残骸を退けているのか。そして何度か同じ様な音が後、息を切らせた父がアニェージに向かい言った。

「ハァハァ、よ、良かった。気は失ってるけどデレーザは無事みたいだ。瓦礫のせいで傷だらけだけど、でも体が小さかったから外れた座席に挟まれなかったんだ。本当に良かった」

 父はホッと息を吐いた。するとそんな父から発せられた安堵感にアニェージも胸を撫で下ろす。母に続きもし妹まで失っていたならば、どれ程の絶望に打ちひしがれるであろうか。アニェージの(ほお)に止め処なく涙が流れ落ちる。ただその時、再度バスが大きく揺らいだ。

「ギギギギィィ!」

 今回は先程よりも揺れ幅がかなり大きい。もう川に落ちるのは時間の問題だ。アニェージは理屈ではなく感覚でそう思う。父はまだ大丈夫だと言ったが、あれは私を安心させる為に告げた優しさなんだろう。でもこのままじゃ、せっかく助かった父も私も、そして妹までもが川に溺れて死んでしまう。

 アニェージは極度の焦燥感に襲われた。早くバスから脱出しなければならない。でも私は足を挟まれ動けない。どうすればいいの、私はこのまま死ぬの……。

「グチュ」

 アニェージの耳に奇妙な音が聞こえた。それが大破したバスの(きし)む無機質な音でない事は直感として分かる。でも何だろう、この生々しさは。

 混乱するアニェージはまったく状況を飲み込めなかった。そして彼女は気力を失くし視線を落とす。でもその時、彼女の目に映ったのは、真っ赤な液体が足元に流れる光景だった。

「!?」

 それが大量の血なのだと思いもしないアニェージは、意味が分からずに呆然と息を殺す。ただそこで彼女に掛けられたのは、笑顔を差し向けた父からの優しい声だった。

「心配するな。次はお前の番だ。待ってろ、すぐに助けてやるからな」

 前席の背もたれより顔を出した父は、そう言って笑ってみせた。そしてその表情にアニェージも必死に(うなず)く。お父さんならきっと私と妹を助けてくれる。彼女はそう心から信じたのだ。

 でも何かがおかしい。漠然としながらもアニェージはそう感じる。父の笑顔を見れて安心したはずなのに、なぜこれ程にも気分を苛まれるのか。アニェージは腑に落ちない重度の不安に駆られる。ただそこで彼女は足元に流れる赤い液体を見て蒼然(そうぜん)としたのだった。

 私と同じでお父さんも足を挟まれ身動きが取れなかったはず。でもそんなお父さんが今顔を出して微笑んでくれている。だけどその下には【赤い血】が大量に流れている。という事は、まさか――。

 先程耳にした奇妙な音が呼び起こされる。もしかしてお父さんは挟まれた足を無理やり引き抜いたんじゃないのか。

「お、おとうさん。もしかして足を」

「心配するな。お父さんはこう見えて頑丈だから大丈夫だよ。それよりそっちに移動するから、アニェージはじっとしてなさい」

 父に言われるがままアニェージは少し体を後方に傾けた。移動する父の妨げにならないようスペースを確保しようと努めたのだ。命懸けで私を助けようとしてくれる父の負担にならぬようにと。

「ありがとうアニェージ。君は本当に良い子だね」

「ドガァァーン!」

 突然バスに凄まじい衝撃が走る。そしてアニェージは頭を横殴りされたかの様な大きなショックに襲われた。

 強い風圧に埃が舞い上がり目を開けることが出来ない。いや、それよりも突然の衝撃で脳震盪でも起こしたのだろう。頭がぐるぐると回っている様だ。でも体中にべったりと何かしらの液体が付着した事だけははっきりと理解出来る。生温かい液体が――。

 アニェージは視界の定まらない状態の中で、それでも自分の体に飛び散った液体らしきものを手で摩る。そして彼女はゆっくりと目を開け、その手を見つめた。

「!」

 その手は真っ赤に染まっていた。いや、手だけではない。彼女の体全体が返り血で染まっていたのだ。そしてその血の持ち主だった者の変わり果てた姿を見たアニェージは、声無く震え上がったのだった。


 父は顔面を踏みつぶされ息絶えていた。顔の大きさはそれまでの半分にも満たないまで圧縮されている。両目は飛び出し、脳ミソはぐちゃぐちゃに散らばった状態だ。そしてそんな父を踏みつぶしたのが【腐った豹の顔をしたヤツ】だった。

 驚愕するアニェージは顔面を蒼白に変える事しか出来ない。あとはただ、噛み合わない奥歯を小さく鳴らすだけだ。彼女は突如出現したヤツの姿に畏怖し、壊滅した父の姿に萎縮するだけだった。

 そんな縮こまったアニェージをヤツが睨む。しかしヤツはそれに気を留める事無く、また何処へなりとバスから飛び出して行った。

 ヤツは単にバスの上に【着地】しただけだった。たまたまそこにアニェージの父がいただけなのだ。でも確かなのは豹顔のヤツが父を踏み潰し、また父の救いを心から信じていたアニェージの心までもを粉々に破壊した事であった。

 もうアニェージに生きる気力はない。彼女は目の前で残酷な死を遂げた父の姿に悲しみを覚える事も出来ず、ただただ(おぞ)ましい化け物であるヤツの凶暴さに怯えて絶望したのだ。

「ギギギ、ガガーン!」

 ヤツがバスから飛び出した衝撃がとどめの一撃になったのだろう。ついにバスは真っ逆さまになり川に転落する。そしてそのバスと共に、アニェージは深くて暗い川底へと消えて行った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ