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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
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#71 下萌の害心(後)

 視界に飛び込んで来た血みどろの場景にジュールは(ひど)狼狽(うろた)える。夢の最後で見た真っ赤な鮮血の正体はまさにこれなのではないのか。信じたくはない。信じられるわけがない。しかし彼の脳裏には、その飛び散った大量の血液が何を意味するのか、その最悪な状況だけが色濃く刻まれていった。

「まさかここでアメリアは誰かに襲われたっていうのか。あの夢はアメリアが俺に助けを求めた正夢だったっていうのかよ!」

 ジュールはすぐ近くにあった杉の大木に拳を打ち付けて苛立ちを露わにする。こんなバカな事があって(たま)るか。でも現状からしたら、夢が本当であったと考えるしかない。そして遅れてそこに駆け付けたアニェージ達もまた、あまりに凄惨と化した場景に目を細めたのだった。

「一体これは何だ。ここで何があったっていうんだよ」

 血の気の引いた顔色でアニェージが(つぶや)く。彼女もジュール同様に、ここでアメリアの身に何かしらの事態の変化が生じたと思ったのだ。ただそんな彼女を差し置き、ヘルムホルツが現場に屈み込んで調べ始める。場景を一目した彼は、直感として少しの違和感を感じたのだった。

「これだけ大量の血が飛び散っているんだ。ここで何かがあったのは間違いない。それもこの血の量だ。飢えた野生の獣が獲物を狩ったのとも明らかに違う。ただ何だろうな。この血の飛び散り方は妙に不自然じゃないか?」

 そう告げたヘルムホルツは地面の一か所を指差す。そこは大量の血が飛び散った中心地点とも呼ぶべき場所であった。

「まるでそこを中心として何かが【爆発】し、それによって血が撒き飛んだ。そんな感じに見えないか? でもそれって変だよな。もし爆弾みたいなモンで破裂したなら、地面や周りの木にもその衝撃が(あと)を残すもんだろ。でもここにはそう言った形跡は見られない。すごく変だよ」

 ヘルムホルツは(あご)に手を添えて考えている。でも確かに彼の言うう通り、冷静に状況を見てみれば不自然な事だらけだ。もし仮にここでアメリアが何者かに襲われ危害を加えられたとしたならば、血液以外に何かしらの残留物があってもおかしくはない。しかし衣服の切れ端どころか、何かと争った形跡すら皆無なのだ。ならばこの飛び散った血の跡は何なのだろうか。

 ジュール達は得体の知れない気味悪さに肝を震わせる。でもその不自然な状況は、逆にアメリアの無事を願わせる希望にも繋がると言えよう。だからアニェージは未だ(おのの)いているジュールに向かい、励ましの言葉を告げたのだった。

「まだ何も決まっていない。だからお前はアメリアさんの無事を信じるんだ。お前が最後まで信じなかったら、それこそ絶望的になるだけだろ」

 アニェージはそう言ってジュールの肩に手を添える。するとそれに対してジュールは強く(うなず)いて見せた。そうだ、まだ諦めるには早過ぎる。彼は自分自身にそう強く叱咤し、落ち着きを取り戻そうと深く息を吐き出した。ただその時である。何かを見つけたのだろう。ガウスがゆっくりと森の奥へと歩み出したのだった。

「おいガウス。どうかしたのか?」

 ジュールがすかさず彼を追う。するとガウスは足元を指差しながら小さく呟いた。

「これを見てくれジュールさん。分かり辛いけど、血痕らしきものが点々とこっちに続いていないか? ほら、これは森の先に続いているよ」

 ガウスはそう言って薄暗い森の先を指差した。そしてジュールもその方向に視線を向ける。ガウスの指摘は確かなものであり、今はこの血痕を手掛かりにして前に進むしかない。

 ジュールは意を決して先頭を進む。すでに森の中には道らしい道は無く、雑草の生い茂る山の斜面を無理やり進んでいるに過ぎない。森はどんどんと深くなり、凍てつく空気は体温を強引に奪い去るかの様だった。

 極度の不安がジュールの心を埋め尽くして行く。こんな所、人が足を踏み入れる場所じゃない。いや、森に暮らす獣達(けものたち)ですら、こんな空気の(よど)んだ場所などに滅多に姿を現さないだろう。でも何でだ。森の奥に一歩足を踏み出すごとに、胸を鷲掴まれるような感覚に陥る。もうこれ以上進みたくないと心は反発しているのに、体が勝手に動いてしまう。ううん、そうじゃない。この先に何かがあるのだと、自分の直感が告げているのだ。だからジュールは時折体を身震いさせながらも、一歩一歩確実に足を前へと進めて行った。


 桜並木の下り坂より、どの程度奥まで森を進んだであろうか。慎重に進んでいるため歩むスピードは極めてゆっくりなものである。それでもかなりの時間を費やしたことより、それなりの距離を進んだのは確かだろう。それに急な山の斜面を横切りながら、柔らかい土質の地面を進んでいるのだ。体力はもう十分に使い切ったと言える。だからガウスはつい呟いてしまった。ジュールの気持ちはこれ以上無く察しているつもりだが、それでも彼にしてみれば耐えられないほどに体力が限界に達していたのだ。

「な、なぁジュールさん。この辺で一度引き返さないか? 少し前から血痕は追えなくなってるし、それにだいぶ森の中も暗くなってきた。これじゃ何かあっても見落とす可能性高いぜ。それどころかこのままじゃ俺達の方が最悪遭難しちまうかも知れない。口には出さないけど、ヘルムホルツさんやアニェージさんだって相当疲れているはずだし、ここは一度里に戻って、また明日仕切り直した方が良いんじゃないのかな?」

 ガウスは(かしこ)まって申し出た。するとそんな彼に鋭い視線を向けたジュールが淡白に言った。

「そうか。ならお前達は引き返せよ。俺はもう少し先まで行ってみるからさ」

「いや、ジュールさんも引き返しましょう。こう言っちゃ何だが、ジュールさんは冷静さを欠いている。もしここで俺達と一緒に帰らなかったら、きっとあんたは遭難するよ。こんな山ン中、端末なんて繋がらないんだし。余計な仕事が増えるだけさ。だから一緒に戻ろう!」

「フザけんなよ、ここまで来て戻れるか! 俺は感じるんだ、この先に何かがあるって。だから俺は進む。強制するつもりは無いから、いやな奴は帰っていいぞ」

「それがあんたの傲慢だって言ってるんだよ! このままあんたの訳の分からない直感に従ってたら、みんなに迷惑が掛かるって言ってんだ。そんな事も考えられないのか、この分からず屋が!」

「ンだとテメェ。もう一回言ってみろ!」

 ジュールとガウスはお互いの胸ぐらを掴んで詰め寄る。先の見えない不安と極度の疲労が、ついに苛立ちとして噴出したのだ。揉み合う二人は生い茂る雑草を踏み倒して山の斜面を転がり落ちる。それでも二人は激高した感情を抑える事が出来ず、怒号をぶつけ合いながらいがみ合った。

 山の斜面を数メートル下った場所で二人は立ち上がる。そこは少しだけ傾斜が緩やかな場所であった。土まみれになったジュールとガウスは息を荒げながらお互いを睨み合う。まったく収まりがついていないのは明白だ。その証拠に再度二人は強く掴み掛かった。だがそんな二人に強烈な蹴りが叩き込まれる。ジュールとガウスは為す術無く吹き飛び、強制的にその間合いを広げた。

「ゲホゲホッ。な、何すんだよアニェージ!」

 ジュールが怒鳴る。だがそれ以上の憤怒の表情を浮かべたアニェージが、彼に詰め寄り責め立てた。

「いい加減に頭を冷やせジュール! こんな場所で内輪揉めして何の特になるって言うんだ。意地を張るのも大概にしろっ!」

「フザけんなよ! 俺はアメリアの手掛かりを見つけようと必死になってるだけで」

「うるさい、黙れ! もうそれ以上は言うな。それとガウス。お前もいい加減にしとけよ。疲れているのは分かるが、それをジュールにぶつけたところで何も解決しないのは分かり切っている事だろ! まったく、良い歳した男が二人してみっともないぞ」

 アニェージは(なか)(あき)れながらに言い放つ。そして更に彼女はジュールとガウスを(いさ)める為に続けたのだった。

「お互いの言い分もよく分かっている。だから私はジュールと一緒にこの先をもう少しだけ調べてみようと思う。この森が怪しいっていうのは私の勘にも働きかけているからね。でもガウスが言う様に、日没してしまったら引き返すにも苦労しそうだ。だからガウスはヘルムホルツと一足先に引き返してくれ。私もそう遅くならないうちにジュールと一緒に戻るからさ」

 アニェージはジュールとガウスを交互に見つめながら冷静な口ぶりで告げる。どちらも悪気があったのではなく、単に疲れと焦りで苛立っていただけなのだ。そう理解出来ているからこそ、あえて彼女は強く示唆したのだった。するとそんなアニェージの気遣いに反省したのか。ガウスが小さく呟いた。

「もう少しだけって事なら俺も付き合いますよ。今直ぐ引き返さなくちゃならないほど切羽詰まった状態じゃないですからね。それに俺だってアメリアさんの事は心配ですから」

「あ、いや、俺の方こそ悪かったよガウス。お前の言ってる事の方が正しいから、余計に俺はムキになっちまったんだと思う。許してくれ」

 そう言ってジュールはガウスに頭を下げた。彼もまた、アニェージの叱咤に頭を冷やしたのだろう。ただそんな二人に向かい、アニェージはもう一度指示を下したのだった。

「これで仲直りは成立だな。ならそれぞれの行動に移ろう。ガウスはヘルムホルツと一緒に里に戻ってくれ。これは合理的な判断で言っている。もしかしたら里で新しい情報が得られるかも知れなからね。そしてジュールは私と一緒にあと30分だけこの先を捜索してみよう。でもそれで何も見つからなかったら今日のところはタイムアウトだ。お前にしてみれば容認し辛い事だろうけど、でもどこかで線引きしなければいけない事だからね。ジュール、分かってくれるよな?」

 アニェージはそう言ってジュールの目を見つめる。それに対し、彼は渋々ながらも黙って首を縦に振った。決まりが悪くも、彼にはそれが最善の行動プランであると納得せざるを得なかったのだ。しかしその時である。後方より彼らの揉め事を見ていたヘルムホルツが、ふいに声を上げた。それは明らかに何かを見つけた知らせであり、かつ不審さに警戒する現れでもあった。


「なぁ、みんな。ちょっとあそこを見てくれないか。あれって何だろうな?」

 目を細めたヘルムホルツが少し離れた森の中を指差す。そこは夕暮れの闇に包まれつつある森の中で、(かす)かな明るさを感じる場所であった。

 山の影に沈み行く夕日が真横から照りつけたために、森の(わず)かな隙間を光が通り抜けたのだろう。まるでオレンジ色のスポットライトが森の一部を照らし出している。そんなところだ。だがしかし、ただの自然現象だけでは片づけられない違和感がそこにはあった。

 ジュールの背中に冷たい汗が流れ落ちる。それでも彼は引き寄せられる様にヘルムホルツが指差したその場所へと進み出した。

 夕日に照らされ淡いオレンジ色に染まる森の一部。キツい山の斜面に足を踏み外さないよう、ジュールは一歩一歩その場所に近づいて行く。ただその過程で彼は思った。当初感じていたよりも、そこは赤み掛かっているじゃないかと。

 その印象はどんどんと大きくなっていく。そしてその場所に到着した時、ジュールの鼓動は張り裂けるまでに高まっていた。

 初めに脇道で見つけた大量の血痕。まるでそれが再現したかの様な光景がそこに広がっていたのだ。やはりジュールが感じ取った印象は正しかった。(おびただ)しい量の血が周囲に飛び散り、それに夕日が反射してより一層この一帯を赤く染め上げている。

 瓜二つとも言うべき凄惨な場景を見つめたジュールは尋常でない戦慄を覚えるしかなかった。――いや、そうではない。見事なまでに似通ってはいるが、しかし脇道で見つけた血だまりとこの場所で、一点だけ大きく異なる事態が発生しているのに気付き、彼は身悶えするほどの恐怖に萎縮(いしゅく)したのだ。

 ジュールが視線を向ける先。そこは飛び散った血痕の中心地であった。何かが爆発したかの様に広がる血痕。でもヘルムホルツが指摘した様に、初めに見つけた脇道の血だまりにはそれが無かった。だがしかし、この場所においては状況が大きく異なる。それもそのはず。そこにはなんと、全身血まみれの【男】が一人横たわっていたのだ。


 男は仰向(あおむ)けの姿勢で倒れている。それも身に付けていた衣服はビリビリに破けており、腰の部分だけが(かろ)うじて原型を留めているだけだ。

 身長はおよそ2メートルと言ったところか。ただそれ以上にガリガリに痩せた体型が、その長身をより一層細長く感じさせる。しかしそれを見つけたジュールがまず初めに注視したのは、男の胸に刻まれた大きな傷跡であった。

 只でさえ全身血まみれの状態であるのに、大きく開いた胸の傷痕からは更なる大量の出血の跡が見られる。それこそ大型の熊にでも襲われ、胸を(えぐ)られたかの様だ。そんな男の姿に目を細めたジュールは再度身を(すく)ませる。それでも彼は意を決し、男の生死を確かめるべく近寄った。

 ジュールは男の口元に耳を近づけ呼吸があるか確認する。すると(かす)かではあるが、男の呼吸を感じることが出来た。

「生きてる……」

 ジュールは男の肩にそっと手を添えて、今度はその意識を確かめようとした。そんな彼に向かい、後方よりアニェージが慎重な口調で告げる。

「気を抜くなよジュール。これはどう見ても異常だ。それとヘルムホルツとガウスは周囲の警戒を怠るなよ。何が起きるか分からないぞ!」

 全員の神経に緊張が走る。アニェージが告げるまでもなく、この状況は酷烈なまでに異常な事態なのだ。そしてヘルムホルツとガウスは神経を尖らせて周りの気配を探った。だがこれと言って特に(いぶか)しい雰囲気は感じられない。するとそれを読み取ったアニェージがジュールに対して無言で(うなず)く。するとジュールもそれに黙って頷き返し、倒れている男に向き直った。

 細心の注意を払いながらジュールは男の(ほお)に手を添える。そして彼はその(ほお)を軽く叩きながら、落ち着いた声で呼びかけた。

「おい、大丈夫か。俺の声が聞こえるか!」

「……う、うぅ」

 男はジュールの呼び掛けに(わず)かな反応を示す。するとジュールは男の首を優しく持ち上げ、更に意識を呼び戻そうと叫んだ。

「おい、しっかりしろ! あんたはまだ生きているぞ!」

「う、ぐっ、ハァハァ」

 男は息苦しそうに呼吸を早める。それでも男の意識が回復に向かっているのは間違いない。そう確信したジュールは更に男の体を揺すって呼び続けた。

「もう少しだ、頑張るんだ! 意識を強く持ってくれ!」

「ハァハァハァ、――ガッ!」

 ついに男が目を開く。そしてそれを確認したジュールとアニェージはホッと胸を撫で下ろした。ただそんな彼らに気付いていないのか、意識を取り戻した男は開口一番に意味不明な言葉を小さく発したのだった。

「ま、まさかあの娘が。あの娘こそが……。し、しかしこの事実、教会側は気付いているのか。うっ、ゴホゴホッ」

 男は吐血しながら息苦しそうにむせ返る。その苦しみ様はかなりの苛烈さだ。ただそんな男に向かって、ジュールは(たま)らずに声を上げた。

「おい、しっかりしろ! ここで何があったんだ! あんたは何をしてたんだ!」

 ジュールは男の体を揺すって叫ぶ。どれだけ瀕死の重傷だとしても気遣っていられる余裕はない。男が発した意味不明な言葉に只ならぬ怖さを感じたジュールは、乱暴な程にその体を強く揺さぶった。だがそんな彼の動揺する胸の内を更に混乱させるよう、男はジュールの顔を見てこう言ったのだった。

「ハァハァ、こいつは驚いた。ま、まさかあの時の少年にまで、またも出会う事になるとは。やはりこの場所には【確かな縁】があるらしいな」

「!?」

 男の言葉にジュールは戸惑う。だが次の瞬間、彼の脳裏にかつての記憶が突如として甦った。

「――お、お前。まさかっ!」

 ガリガリに痩せ細った体のせいで気付かなかった。でもこの男は間違いない。あの時、まだ少年時代の彼がアメリアとその友人の少女を助ける為に、桜並木の坂道で対峙した化け物みたいな男。名前は確か――そう、デカルト!

 忘れるはずがない。忘れられるはずもない。あれほどの絶対的な力の差を見せつけられ、絶望すら感じた相手なのだ。男を支えるジュールの腕に尋常でない悪寒が駆け抜ける。

 あまりの驚愕(きょうがく)にジュールは動けない。するとそんな彼を突然デカルトが猛烈な力で強く跳ね除け声を荒げた。

「私の体に気安く触るなっ!」

「ぐわっ」

 ジュールの体は数メートル後方に激しく吹き飛ぶ。その力強さはとても満身創痍の男が発揮したものとは信じ難いものだ。だがその変事にアニェーニは直ぐ様身構える。またそれに連鎖するよう、ヘルムホルツとガウスも戦闘態勢を整えた。しかし状況の変化は(とど)まる事を知らない。即座に身構えたアニェージ達であったが、あまりに唐突な男の変化に彼女らは目を丸めて驚きを露わにするしかなかった。


 目の前に立つ変化した男の姿。それは【腐った象】の顔を持つヤツの姿であり、その体格は今までに対峙したどのヤツよりも巨大であった。

「グオオォォッ!」

 象顔のヤツが至大(しだい)な唸りを上げる。その咆哮(ほうこう)は否応なくアニェージ達の心を震撼させ、またこの薄暗い森全体を恐怖で(おのの)かせた。

 アニェージらの背中に絶対的な恐怖が走り抜ける。かつて豹顔のヤツと対戦した経験を持つ彼女達だからこそ、それを明確に感じ取ったのだろう。この象顔のヤツもまた、常軌を逸した強さなのだと。そして案の定、彼女達の勘は的中した。

 象顔のヤツは長く伸びた鼻を振りかぶると、それをアニェージ達に向け叩きつける。(うな)りを上げた猛烈な一撃はまるで大砲の様だ。だが彼女達はその攻撃を死に物狂いで回避した。

「バギバギドンッ!」

 凄まじい轟音と共に土埃が舞い上がる。ただその(わず)かな隙にアニェージ達はヤツとの間合いを広げるべく後方に移動した。しかしそこで彼女らはまたしても目を丸くする。なんとそこにあったはずの数本の太い杉の木が、無造作に薙ぎ倒されていたのだ。

 恐るべき破壊力である。もしあの一撃が直撃していたならば、為す術無く体はバラバラに引き裂かれていただろう。そう感じたアニェージ達がさらに心を(ひる)ませたのは当然である。しかし彼女達の恐怖感はそれが上限ではなかった。なんと象顔のヤツは、その巨体に見合わず信じられないスピードまでも発揮したのだ。

「バオオォォーン!」

 ヤツは激しく雄叫びを上げる。その爆音に対して反射的に耳を塞いだアニェージは不覚にもヤツから視線を逸らした。だがそれと同時に彼女はゾッとして目を見開く。

「ヤツがいない。ま、まさかっ!」

 アニェージは考えるよりも早く振り返る。するとそこには彼女に狙いを定めて長い鼻を振りかぶるヤツの巨体があった。

「う、嘘でしょ――」

 誰よりもスピードに自信を持つ彼女が動けなかった。それほどまでに象顔のヤツのスピードは凄まじかったのだ。

「逃げろアニェージ!」

 ヘルムホルツが叫ぶ。しかしその声にアニェージが反応するよりも早く、象顔のヤツは振りかぶった鼻を彼女に向け叩きつけた。

「バギャーン!」

 まるで爆撃を受けたかの様な轟音が鳴り響く。またその衝撃が発生させた振動は、火山の噴火を思わせるほどに大地を大きく揺さぶった。

 ヘルムホルツとガウスは生唾を飲み込みながら体勢を保つ事しか出来なかった。彼らはアニェージの即死を疑わなかったのだ。だがそこに現れた予想外の光景にヘルムホルツ達はハッとする。そこにいたはずのヤツが、少し離れた山の斜面に上半身を埋め込んでいたのだ。

 一体何が起きたのか。状況を飲み込めない彼らはパニック寸前だった。それでも目に映る生きたアニェージの姿に彼らの意識は維持される。そしてアニェージを背後に守るジュールの姿を目にした時、彼らはそこに発生した状況を理解する事に成功した。

 恐らく攻撃を受けたアニェージはまだ、状況を捉え切れていないだろう。でも確実に言える事が一つだけある。それは万に一つもない危機的な状況の中で、ジュールが象顔のヤツに痛烈な一撃をブチ込んだという現実であった。


 全身より(かす)かな湯気が立ち上る。バトルスーツの能力を高めたジュールの体熱が、森の湿気を蒸気と化しているのだろう。ただその姿を見るヘルムホルツ達は訝しく肌を泡立たせた。

 本来であれば象顔のヤツに強烈な一撃を加え、アニェージの危機を救ったジュールに頼もしさを感じて然るべきであろう。しかしジュールより伝わって来る感覚はそんな生易しいものではない。

 まるで怒りが具現化したかの様な怖さがそこにある。ヘルムホルツ達はジュールが発する凄まじい憎悪に飲み込まれた。これではどっちが化け物なのか分からない。いや、むしろジュールの方が……。

 そんな息苦しさすら覚える嫌悪感にヘルムホルツ達は身を(すく)ませるしかなかった。だがそんな彼らなど眼中に入れず、ジュールは鋭い眼光を放った視線でヤツを睨み付けている。そして彼は左手首にあるダイヤルを絞り上げた。

「ギュイィィィン」

 ジュールが身に付けるバトルスーツより小さな機械音が発せられる。またその音に比例するよう、彼の体が(わず)かに膨れ上がった。バトルスーツが高い能力を引き出している現れだ。だが次の瞬間、象顔のヤツが勢いよく地面より上半身を引き起こした。そしてヤツはそのままの勢いでジュールに向かい、その巨体を跳躍させた。

 ジュールは逸早くアニェージを後方に突き飛ばすと、自身も真横に飛んだ。そこに両膝(りょうひざ)を抱えた体勢で象顔のヤツが全身を叩きつける。

「ズゴンッ!」

 まるで巨大な鉄球がロケット砲で撃ち込まれたかの様に、象顔のヤツは森の地面を激しく陥没させた。その破壊力は尋常ではない。あまりの衝撃にヘルムホルツ達は立つ事すら危ぶむほどだ。だが目を見張るのはその破壊力だけではなかった。横に飛んだジュールの姿を見逃さなかった象顔のヤツは、素早く体勢を立て直し彼に向けその長い鼻を突き出したのだ。

「ズバッ!」

 槍の様に突き出された長い鼻がジュールの体に深く刺さる。彼の動きを見逃さなかった高い動体視力と優れた反射神経。その全てにヘルムホルツ達は身悶えする程の恐怖を感じずにはいられなかった。だがそこで彼らはもう一つ、別次元の恐怖に身を強張らせる。確実にジュールの体を貫いたと思われたヤツの長い鼻が、なんと彼の脇にガッチリと受け止められていたのだ。

「!」

 象顔のヤツの表情が一瞬固まる。それもそのはず。ヤツとてジュールの体を串刺しにしたものと疑わなかったのだ。しかしその鼻は信じられない力で抑え込まれている。もちろん対象であるジュールは無傷だ。

 バカな。信じられるわけがない。そう感じたヤツは反射的に鼻を引き戻そうと後方に引き下がる。だがまたしてもヤツは表情を硬直させた。

 鼻を引き戻そうにもまったく動かない。その状況にヤツは唖然としたのだ。並みのヤツの力ですら、人ではまったく歯が立たないはず。まして象顔のヤツはその何倍もの力を(よう)しているのだ。目を疑うのは当然であろう。

 戸惑ったヤツは鼻先に目一杯の力をつぎ込む。さらに数百キロはあろうその巨体を後方に傾けた。冷静さを失ったヤツは形振(なりふ)り構わず強引に鼻を引き戻そうとしたのだ。

 まるで綱引きさながらの体勢でヤツとジュールは対峙する。しかし力が拮抗しているのか、二つの体はそれぞれの足を地面にめり込ませるだけで動かなかった。

「ぐうぅ!」

 ジュールもヤツも奥歯が折れるほどに喰いしばり、力の限りを出し尽くしている。またそれを間近で見ているアニェージ達にも否応なく力が入った。だが次の瞬間、象顔のヤツの巨体が後方に吹き飛ぶ。ジュールがヤツの鼻から腕を離したのだ。

「ズドンッ! バキバキバキッ」

 ヤツの体は太い杉の木に激突し、それを薙ぎ倒して止まる。しかしヤツのタフな体がその程度の衝撃でダメージを負うはずも無い。象顔のヤツは軽く頭部を振ったものの、何も無かったかの様に素早く立ち上がった。だがそんなヤツの巨体がまたも吹き飛ぶ。

「バガンッ!」

 ヤツの体は衝撃の勢いで回転しながら真横に吹き飛んだ。その姿はまるで大型のトラックが横転しているかの様だ。ヤツの巨体は森の木々を薙ぎ倒しながらも為す術無く転がって行く。ただそんなヤツを追い駆ける衝撃音が激しく森に響いた。

「ダンッ、ダンッ、ダンッ!」

 森の木々を強く踏み弾いたジュールの体が高速で移動する。彼はヤツであるデカルトがかつて見せたのと同様に、柔らかい土質の地面を蹴るのではなく、木を蹴った反動を利用して対象に迫ったのだ。恐るべきスピードでジュールはヤツに接近していく。そして彼はスピードに乗った状態を保持したまま、ヤツの顔面に強烈な膝蹴りを叩き込んだ。

「バゴッ!」

 その衝撃でヤツの体が地面にめり込む。いくら土質が柔らかいとはいえ、バズーカ砲に匹敵する程の衝撃をその身に受けたのだ。いかにヤツとてダメージがゼロのはずはない。だがやはり象顔のヤツはただのヤツではなかった。(わず)かに足元をふらつかせたものの、即座に立ち上がったヤツは尋常でない殺気を放ちながらジュールの姿を追う。――がしかし、その殺気は無情にも矛先を失った。それもそのはず。ヤツの目に映ったジュールの姿は一つではなかったのだ。

「!?」

 二人、いや三人か。ヤツは視界の中を猛スピードで飛び回る複数のジュールの姿に当惑する。それでもヤツは瞬時に把握した。これは移動速度があまりに早い為に、残像としてジュールの姿が実際よりも多く見えるのだろうと。

 ジュールはヤツを囲む様にしながら木々を蹴って移動している。その光景はとても人の身のこなしだとは考えられないものだ。常人であれば目で追う事すら叶わないスピード。だがヤツがそれを黙って見ているわけがない。ヤツは意識を集中してジュールの本体を探る。そして高速で移動するジュールの包囲網が狭くなった瞬間、ヤツは思い切り鼻を振り抜いた。

「スカッ」

 象顔のヤツは目を大きく見開く。ヤツは絶対的な自信を持ってジュールに攻撃したのだ。しかしその攻撃は空を切っただけだった。そして次の瞬間、ヤツの顔面は激しく弾かれる。いや、それどころではない。まるで複数人から同時にリンチされているかの様に、ヤツの体は四方八方に踊った。

 人の常識を遥かに超えたスピードでたたみ掛けるジュールの攻撃は止まらない。そしてその激しい攻撃に対してヤツは何の抵抗も出来ずにただ身を躍らせるしかなかった。


「強い。ジュールの奴、こんなにも強かったのか」

 アニェージが驚きを露わに(つぶや)く。バトルスーツの能力を最大限発揮しただけでは説明出来ないジュールの強さに彼女は舌を巻いたのだ。それでもアニェージはジュールに加勢するべくヤツに接近する。いかにジュールがヤツを圧倒しようとも、敵がヤツである以上油断は出来ない。彼女はそう考えたのだ。しかしそんなアニェージに向かってジュールが怒鳴る。

「誰も手出しするなっ!」

「ビクッ」

 アニェージは動けなかった。凄味の利いたジュールの覇気に彼女は萎縮してしまったのだ。そしてそんなアニェージの目の前でジュールの攻撃は更に激しさを増した。

 1分にも満たない僅かな時間にジュールは数えきれない程の打撃をヤツに加える。それもその1発1発にはコンクリートの壁を粉々に破壊するほどの威力が込められているのだ。さすがのヤツもこれでは一溜(ひとたま)りもない。それどころかサンドバックと化したヤツはもう虫の息だ。その醜い表情からみるみると精気が失われていく。するとそんな弱り切ったヤツに向かい、ジュールはここぞとばかりに全力で木を踏み(しだ)いた。

 豪速のジュールが一直線にヤツに向かい飛ぶ。彼はヤツに(とど)めの一撃を喰らわせるつもりだ。硬く握った右の拳に全ての力を凝縮させたジュールは、ヤツの顔面に狙いを定めて一気に拳を振り抜いた。――がしかし、

「ヅガンッ!」

 ジュールの体が地面に強く叩きつけられる。彼がヤツの顔面に拳を叩き込むよりも一瞬早く、ヤツが鼻でジュールの体を思い切り弾いたのだ。

「ぐはっ」

 悶絶するジュールは息が出来ない。(わず)かにヤツの鼻の方が間合いが広かった為、完璧なカウンター攻撃を喰らってしまったのだ。最新のバトルスーツを装備していたとはいえ、そのダメージは尋常でない。ジュールは地面に顔を擦りつけて苦しみを露わにしている。するとそんな彼に向かい、今度はヤツの方が(とど)めの一撃を繰り出した。ヤツは振りかぶった長い鼻を容赦なくジュールに叩きつける。だが次に絶叫したのはヤツであった。

「ギャァァァー!」

 暗い森に血の雨が降り注ぐ。そしてアニェージ達が待機する後方に、それは無造作に転がった。

「ドサッ」

 顔に付着した血を拭いながらアニェージとヘルムホルツは振り返る。そこには切り落とされたヤツの長い鼻が転がっていた。そしてガウスが(まばた)きせずに見つめた先。そこには(ひざ)を着いた体勢でありながらも、十拳封神剣である【布都御魂(ふつのみたま)】を抜き放ったジュールの姿があった。

 淡くピンク色に輝いた封神剣が暗い森を怪しく照らす。またその明かりは息苦しそうに顔をしかめるジュールの姿と、彼によって鼻を切断されたヤツの姿をくっきりと映し出した。

 ヤツは血飛沫の吹き出す傷口を懸命に抑えるでの精一杯だ。そしてヤツはジュールの人間離れした凄まじい攻撃に歯が立たないと悟ったのだろう。戦意なくその巨体は尻餅をついた。ただそこでヤツは剣先を自分に向けるジュールに対し、小さく(つぶや)いたのだった。

「や、やはりあの日に感じた違和感の正体はお前だったか。あの時、坂道でお前の体を取り押さえた時、私は躊躇(ちゅうちょ)する事なくお前の首をへし折るつもりだった。しかしあの時は少女の想定外の反撃に驚き、それが出来なかった。でもそれは違ったんだな――。本当はその首をへし折るのに十分な力を込めていたのだ。だがお前の首は折れなかった。そして今日、私は【ヤツの力】を解放してお前に挑んだ。それも全力でだ。しかしまるで太刀打ち出来なかった……。お前のその強さ、一体何なのだ?」

 ヤツは明らかに戸惑っている。現実離れしたジュールの強さが俄かに信じられないのだろう。ただそんなヤツの言葉を無視してジュールは刀を上段に構える。彼はこのままヤツを切り殺すつもりなのだ。

 突如として勃発した異常な戦闘行為の影響で、彼の精神状態は完全に冷静さを失っている。するとそんなジュールを自制させようとアニェージが強く叫んだのだった。

「そのへんで止めろジュール! 目的を見失うな。ヤツはもう動けないんだ。これ以上やったら話を聞く前に殺してしまうぞ!」

「うっ!」

 アニェージの叫び声にジュールは意識を取り戻す。またそれと同時に彼は身の毛の弥立つ怖さを感じた。我を忘れるほどの狂気を剥き出しにして怒りを露わにした自分自身に畏怖したのだ。しかしそれでもまだ収まりのつかないジュールは、布都御魂(ふつのみたま)をヤツに向けて怒鳴りつけた。

「ここで何があった。正直に答えろっ!」

 (みずか)らに感じた禍々(まがまが)しい心情を誤魔化したかっただけなのかも知れない。ただその声に同調した封神剣の輝きが増す。するとその光に底知れぬ恐れを感じたのか、ヤツは観念したかの様に(つぶや)いた。

「王家の黒歴史を(うつ)した【写真】を手に入れるだけのはずだった。だが逃げる娘を追い詰める途中で、突如出現した【(わに)の群れ】に襲われ瀕死の傷を負った。もう少しだったのに、娘は何処に姿を消したというのだ……」

「フザけるなよテメェ! もっと分かる様に説明しろっ!」

 ヤツが口にした意味不明な言葉にジュールの苛立(いらだ)ちは激しく高まる。するとそんな彼の激高に刺激されたのか、布都御魂(ふつのみたま)が輝きを一段強めた。

「ザザザザ――」

 ジュールの足元に生い茂っていた雑草がみるみると枯れていく。いや、それだけではない。森の活力自体が急速に失われているのだ。布都御魂(ふつのみたま)の能力に吸収されて。

 布都御魂(ふつのみたま)は命を吸い取る剣である。そしてその刀は持ち主であるジュールの意志に関係なく、ただ彼の怒りという感情に反応して能力を発揮した。

 ヤツが力なく(うめ)く。ボロボロになったその体から、封神剣によって更に体力が奪われているのだ。耐え難い苦痛に強いられるのは当然であろう。だがしかし、体力を消失させたのはヤツだけではなかった。

 アニェージにヘルムホルツ、そしてガウスの腰がガクりと落ちる。布都御魂(ふつのみたま)は敵味方関係なく、ジュールの周囲にいる全てから生命力を摂取したのだ。すると意識の薄れたヘルムホルツが足を滑らせ山の斜面を転がり落ちる。

「へ、ヘル……」

 アニェージは懸命に彼の体を捕まえようとするも、体はその意志に反して動かなかった。もちろんガウスも同じである。そしてそんな彼女達の姿を見たジュールは尻込みするしかなかった。

「こ、この刀のせいなのか。クソっ、どうすればこの力を止められるんだ!」

 ジュールは激しく輝く布都御魂(ふつのみたま)の扱いに狼狽(うろた)える。するとそんな彼の隙に乗じるべく、象顔のヤツが残り少ない体力を一気に絞り出した。

「ドボッ」

 切断された傷口より、新しい鼻が勢いよく飛び出す。そしてヤツは再生したその鼻を身動き出来ないアニェージに向けて槍の様に突き出した。

「グザッ!」

 肉を(つらぬ)く鈍い音と共に、アニェージの顔に真っ赤な鮮血が飛び散る。だがその血は彼女のものではなかった。

「ジュ、ジュール。お前――」

「だ、大丈夫かアニェージ……。す、済まない。お、俺のせいでみんなを……」

 ジュールの胸には象顔のヤツが突き出した鼻が貫通していた。彼は身を盾にしてアニェージを守ったのだ。しかし彼は怒りに飲み込まれ、封神剣の暴走を招いてしまった自分自身に失望しただけだった。

「グボッ」

 ジュールの胸からヤツの鼻が引き抜かれる。すると彼は力なく膝を着いた。肺を(つらぬ)かれたのだ。真面(まとも)に立っていられるわけがない。するとそんなジュールに(とど)めを刺そうとヤツが一歩近寄る。だがそこでヤツは一驚して目を丸くした。

「!?」

 胸に空いた穴からは大量の血が漏れ出している。それでもジュールは奥歯を喰いしばって強引に立ち上がろうと足掻(あが)いていた。ただヤツが驚いたのはそんな往生際(おうじょうぎわ)の悪い青年の(みじ)めな姿にではなく、不気味に光った彼の【右目】に気付いたからであった。

「そ、そう言う事か。お前が【月読の胤裔】なのか。――いや、そうであればこそ辻褄が合うというもの。やはりルーゼニア教の【予言】は(まこと)であったか。それに【魂の()()】も私の考えに合致する。……しかしこれでは分が悪過ぎるな」

 そう告げたヤツはジュールに(とど)めを刺す事無く後退する。そして反撃される心配の無い十分な間合いを確保した時、ヤツの体に変化が起きた。

「!?」

 ジュール達は驚きを隠せなかった。それもそのはず。ぐんぐんと縮んだヤツの体は、あっという間にガリガリに痩せた元の人の姿に戻ったのだ。

「こ、こいつも人の姿に戻れるのか――」

 気を失う一歩手前のジュールはそう吐き捨てるのが精一杯だった。彼にはもう、指一本動かす力は残されていない。するとそんな満身創痍のジュールに向かい、人に戻ったデカルトは言った。

「まだあの娘は無事なはずだ。だがモタモタしてたら手遅れになるぞ。あの娘を狙うのは私だけではないからな」

「な、何だと!」

「娘を守りたいなら早く【月読の奏】を感じ、本当の【力】に目覚める事だな。親しい友人にも恵まれていそうだし、お前が願いさえすれば簡単であろう」

 デカルトはそう告げると、向きを変えてその場を立ち去り始める。そしてジュール達は暗い森に姿を消していく男をただ見つめるだけで、無念にもそれを追う事が出来なかった。

「くそっ。何がなんだか分かんねぇぞ……」

 そう(なげ)いたジュールはそのまま地面に崩れ落ちる。大量の血を流した影響で意識を失ったのだ。だが右目の輝きによるものなのだろう。ポッカリと口を開けていたはずの彼の胸の傷は、完全に(ふさ)がっていた。


 ちょうどその頃、全国に放映されたニュース番組でアイザック総司令殺害事件が報道される。そしてジュールはその容疑者として、大々的に布告されたのだった。

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