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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第四幕 灯巌(ひがん)の修羅
71/109

#70 下萌の害心(中)

 ボーデの町にある総合病院は、比較的設備の整った大きな病院である。これは北方地域ならではの特徴が大きく関係しており、特にアレニウス山脈の登頂にチャレンジする多くの人々がその一番の理由となっていた。

 北の国境に位置するアレニウス山脈の登頂は非常に過酷である。標高の高さもさることながら、その環境変化は著しく厳しく、登山者の体力と気力を無慈悲に奪って行く。もちろん世界最高峰のこの山脈登頂を目指す者達は、それなりに経験豊富な熟練者ばかりのはずであり、日々のトレーニングや入念な下調べに余念がないのは当然なはず。だがそれでも不足の事態は時間や季節を問わずして頻繁に発生し、その度に救助ヘリでこの病院へと負傷者は運び込まれるのであった。

 そんな片田舎には不釣り合いなほどに立派なボーデの総合病院。そこにジュール達一行が到着したのは午前10時半を過ぎた頃だった。

 ブロイの操縦する輸送機【EPRキャッツ号】はボーデの町郊外に着陸していた。そしてその貨物室に積載されていた四輪駆動車に乗り換えたジュールとヘルムホルツは、アニェージの運転によって病院に到着したのだった。

 空模様は見渡す限りの快晴であったが、やはりアダムズ最北部の町だけはある。思ったよりも空気が冷めたい。ただそんな事に気を留める余裕の無いジュールは、病院に着くなり車の助手席より勢い良く飛び出した。

 病院の正面入り口で見知った巨漢の男性が一人立ち尽くしている。それを目にしたジュールは一目散に駆け寄った。事前にヘルムホルツより連絡を受けていたのだろう。自らに向かい全力で駆け寄るジュールに対し、ガウスは僅かに微笑む。きっと彼は変わらない先輩隊士の姿を目にして安心したのだ。ガウスは口元を緩めながらジュールとヘルムホルツを出迎えた。


「割と早い到着でしたね、ジュールさん。急いでくれとは言ったけど、グリーヴスからこんなにも早く着くとは思いませんでしたよ」

「空を飛ぶスピードに規制があったなら、間違いなく免停だろうな。でも今は心強い助っ人がいてくれて本当に助かってるよ。正直なところ、俺だってこんなに早く着くとは思わなかったくらいだしね」

 ガウスが見せる柔和な表情が、ジュールに少しばかりの落ち着きを取り戻させたのかも知れない。彼はガウスに向けて冗談を(ほの)めかしながら素直な気持ちを告げた。ただそれも一瞬の事であり、ジュールは直ぐに真面目な目つきでガウスに聞き尋ねた。

「それで、おばさんの容体はどうなんだ?」

 ジュールは切迫した感情を露わにする。それに対してガウスは少しだけ表情を曇らせて告げた。

「命に別状は無いらしいです。でも(いま)だに意識は戻ってない状態なんで、何とも言い難いっすね」

「一体おばさんに何があったんだよ。また事故にでもあったのか?」

 ジュールは不審に思う。アメリアから聞いた話では、おばさんは少し前に交通事故に遭ったという。そしてその見舞いする為に、アメリアは里に帰省していたはずなのだ。ただその事故の影響は大事には至らず、おばさんは歩けるまでに回復していた。そんなおばさんが、偶然にもまた事故に遭い重傷を負ったとは考えにくい。そんな偶然が立て続けに発生するなんて、どう考えても不自然なのだから。ジュールの不安はより一層濃い色を強めていく。するとそんな彼の憂慮(ゆうりょ)を肯定するかの如く、ガウスは神妙な面持ちで告げたのだった。

「詳細は今のところ不明ですが、今回の件は事故ではない様です。通報を受けた地元警察に話を聞いた限りだと、どうやらアメリアさんのお袋さんは何者かに襲われたらしい。これは確かな情報です」

「襲われただって!」

「は、はい。自宅の中はかなり荒らされていたみたいですし、アメリアさんのお袋さんはそれに抵抗して重傷を負わされた。それが警察の見解です。お袋さんは右の鎖骨と数本の肋骨を骨折していて、さらに頭部も激しく叩かれていた。容赦の無い相手だったんでしょう。それでもアメリアさんのお袋さんは警察に連絡してから意識を失った。それが現状で分かっている全てです」

「あんな田舎の里で物取りの犯行だっていうのか? そんなバカな話しあるかよ。あの里は集落全体が家族みたいなモンだし、よそ者なんて滅多に来る所じゃない。なら初めからアメリアの家が目当てだったって考えた方がむしろ自然だ。クソッ垂れが。誰が何を目的としてアメリアの家に押し入ったっていうんだよ」

「地元の警察は捜査を続けています。平和ボケしてた彼らですが、それでも歴とした警察隊士ですからね。直に何かしらの情報を掴んでくれるでしょう。それでジュールさん。アメリアさんとは連絡取れたんですか? いくら命に別状は無いといっても、この状況は早く伝えた方が良いと思うんですがね」

 ガウスが逆に聞き尋ねる。するとそれに対してジュールは言葉を濁しながら呟いた。

「昨日の夕方時点でアメリアが里にいたのは間違いない。俺が端末に連絡した時、アメリアはお袋さんと墓参りに行ってたみたいだからね。ただあいつが今どこに行っているのかは分からない。アニェージとヘルムホルツの端末から何回も連絡してるんだけど、全然繋がらないんだよ。クソっ。あいつ、おばさんをボコった奴に連れ去られたなんて事はねぇよな!」

 ジュールは(なげ)く様に憤りを吐き捨てる。早朝に見た夢は、まさにアメリアが追い(すが)る何者かから逃げるものであった。やはりあの夢は正夢だったとでも言うのか。ジュールの背中がゾッと泡立つ。ただそんな彼の迷いを横目にしながらも、ヘルムホルツがガウスに向かって聞き尋ねた。


「ところでガウス。この件はどうやってお前のところに連絡が行ったんだ? ジュールとお前の関係は軍の中では歴然としたモンだけど、アメリアとお前の繋がりなんて軍は把握してないだろ。警察や病院からアメリアの事でジュールに連絡が行くなら分かるが、お前に一報が伝わったっていう経緯が俺にはよく分からんよ」

 ヘルムホルツは困った様に眉間(みけん)にシワを寄せて(つぶや)く。些細な経緯なのかも知れないが、彼にはどことなく引っ掛かるものがあるのだろう。ただそれに対してガウスは彼らしく楽観的に答えたのだった。

「俺にもそのへんの事情は分かりません。ただアメリアさんの行先の事で、警察がジュールさんに連絡を取ろうとしてたのは事実の様です。でもジュールさんはトーマス王子の警護でグリーヴスに行っちまってて連絡が取れなかった。そこでひょんな偶然から俺に連絡が来たんでしょうね」

「ひょんな偶然?」

「はい。ジュールさんに連絡がつかなくて困った城の事務員が、何処からか耳に挟んだらしいんですよ。城の門番を務める俺が、アメリアさんと知り合いだってね。どうやら以前にアメリアさんが配達で城に来た時、俺を探していたらしいんだ。その時は俺とは会えず終いだったけど、その時対応した同僚の門番が覚えていて、それで回り回って俺のところに話しが来たってわけなんです。警察が知りたいのはジュールさんじゃなくてアメリアさんの方だし、結局のところ関係者であれば誰でも良かったのかも知れませんね。でも今となってはこの方が都合が良かったんじゃないですか? だってジュールさんと警察が直接やり取りしてたら、結構ヤバい事になってたでしょ」

 ガウスは総司令殺害の疑いが掛けられているジュールを気遣うよう告げる。そしてそれはヘルムホルツにしても、納得するに十分な理由ではあった。不幸中の幸いとでも言うべきなのか。ヘルムホルツはホッと息を吐き出して肩の力を抜く。ただそれでもどこか、彼の表情は優れないものであった。まだ何か気になる事でもあるのだろうか。ただその時、駐車場から遅れて駆け付けたアニェージがジュールらに声を掛けて来た。

「どうしたお前ら。正面入り口でむさ苦しい男どもが立ち話なんて気持ち悪いぞ。それとも何か深刻な事態にでもなっているのか?」

「いや、おばさんの状況を確認してただけだよ。意識はまだ戻ってないけど、とりあえずそっちは心配ないそうだ。でも問題なのはアメリアの方なんだよ。あいつ、何処に行っちまったんだ」

 ジュールは焦燥感を露わに吐き捨てる。するとそんな彼の不安な心情を察したアニェージが、次なる明確な行動を示唆したのだった。

「アメリアさんの母親の容体が落ち着いているんだったら、そっちは病院に任せて私達はアメリアさんの捜索に向かおう。まずはアメリアさんの手掛かりを探るとして、やはり実家のある里まで行くのが先決か。なぁジュール。ここからアメリアさんの実家のある里まではどのくらい掛かるんだ?」

「駅前から出発するバスに乗ったとしたなら、最低3時間は必要だよ」

「けっこう離れてるんだな。なら私達の車で移動した方が早いか。すぐに出発するぞ!」

 アニェージは前のめりに話しを進める。ただそれに対してヘルムホルツが咄嗟に口走った。

「ちょっと待てアニェージ。もしアメリアのお袋さんが意識を取り戻した場合、そこから有効な情報が得られるとも考えられる。だから誰かここに残る必要があると思うんだが」

 ヘルムホルツの意見はもっともである。ただ少しだけ考えたアニェージは、その対応を口早に語った。

「だったらブロイに付き沿ってもらうのはどうだ? EPRキャッツ号のエネルギー充填にはまだ少し時間が掛かるみたいだから、暇を持て余すブロイには打って付けだろ。一旦キャッツ号に戻り、ブロイを連れてもう一度病院に来る。そしたら私達はそのまま北の里に向えばいい」

 そう言ったアニェージは皆の承諾を確認する間もなく車へと走り出した。そしてそんな彼女に引き連れられるようジュール達も駆け始める。事態は一刻を争うほどに切迫しているはず。ここにいる誰しもがそう感じているからこそ、彼らは即座に動いたのだ。

 ジュールは遣り場のない苦しさを抱えながらアニェージの後を追う。アメリアの消息が知れない状況は、彼の胸をこれ以上ない程にきつく締め上げているのだろう。ただそんな沈痛な表情を浮かべるジュールに向かいガウスは一言だけ呟いた。彼は信頼する先輩隊士の性格を良く知っているからこそ、その心配を少しでも軽くしたかったのだ。

「ジュールさんの顔が見れて安心したよ。あまりにも端末が繋がらなかったから、まさかジュールさんにも何かあったんじゃないかって不安だったんだ。でも無事で本当に良かった。それに俺は信じてますよ。ジュールさんは絶対にアイザック総司令を殺してないって」

 ガウスはそう言って微笑んで見せた。それは間違いなく彼の本心から出た笑顔なのだろう。そしてそれを受け取ったジュールも軽く微笑む。強がりだったかも知れないが、それでもジュールはガウスの心配りを嬉しく思い、心強い後輩隊士に感謝するよう(うなず)いたのだった。


 病院にブロイを残したジュール達は、車を飛ばして北の里を目指す。そして午後1時を少し過ぎた頃に、彼らはアメリアの実家にへと到着した。

 すでにジュールはエイダとティニが届けてくれた装備を着用している。ここからは何が起きるか分からない。いくつもの実戦を経験したジュールの直感が、その目に見えない危険性を察しているのだろう。もちろんアニェージやヘルムホルツもそれに同調し、完全武装を施している。そして彼らは黄色いテープで立ち入りが禁止されたアメリアの実家の中に入って行った。

 昼食の時間で席を外しているのだろうか。それとも自宅の捜査は終了したのか。見たところ現地警察の姿は見えない。ただガウスの言った通り、家の中は(ひど)く荒らされていた。

 戸棚や机の引き出しはおろか、壁紙までもが強引に引き剥がされている。それにアメリアの母親と争ったからなのだろうか。テーブルやソファは乱雑に移動していた。

 ジュールは変わり果てた家の状況を目にして立ち尽くす。ここは数え切れない程に足を運んだ場所なのだ。それも思い出の詰まった懐かしい場所。しかし今はその全てがボロボロに(けが)されている。

「クソっ。ここで何があったんだ」

 ジュールは思わず吐き捨てる。こんな惨状を目の当たりにして彼が冷静でいられるわけがない。ただそんな事は百も承知であるヘルムホルツとアニェージは慎重に部屋の中を観察していく。そしてキッチンに足を踏み入れたヘルムホルツは、その状況より事件発生の時刻を推理した。

「キッチンには準備中の食材が並んでいる。恐らく夕食の支度時に何者かが押し入ったんだろう。――でも妙だな。なぁジュール。この家にはアメリアのお袋さん以外に誰か暮していたのか?」

 何を思ったのか、ふいにヘルムホルツが問い掛ける。ただその質問にジュールは首を捻って答えた。

「いや。アメリアがここを出てから、おばさんは一人暮らしだったはずだよ。アメリアはそれを気に掛けていたくらいだからね。一人で寂しくないかなってさ」

「そうか。なら来客でもあったのかな。ほら、見てみろよ。恐らく昨日の夕食はオムレツでも作るつもりだったんだろう。でもさ、材料の量と食器の数からして、これは【3人前】準備してたんじゃないかな?」

 ヘルムホルツはそう言ってからキッチンの上に置かれた料理を盛り付ける皿を指差した。

 確かにそこには3セットの皿が数種類準備されている。ヘルムホルツが言う様に、この状況は誰がどう見ても三人で食事をするものとしか考えられない。でもアメリアと母親以外に誰がこの家を訪れたというのであろうか。

 困惑するジュールは奥歯を噛みしめながら遣り場のない感情を押し殺す。ただそんな彼に向かい、ヘルムホルツは今出来る事を一つ一つ片づけるのみだと次なる行動を示唆した。

「アメリアのお袋さんが3人分の食事を用意していたのは事実のはず。でも何者かが押し入った時点でその第三者がこの家に居たかどうかは分からない。だからアメリア探しと並行して、その第三者が誰だったのかも捜索してみよう。ここは小さな里だ。第三者が里の者であれば聞き込みで直ぐに割れるはずだし、仮によそ者だったとしても、それはそれで誰かしらの目に付くはずだからね」

「じゃぁ手分けして聞き込みと行くか!」

 ジュールは気持ちを先走らせて叫ぶ。ただヘルムホルツはそれを自制させながらそれぞれの役目を割り振った。

「ジュールはアニェージと一緒に行動しながら近隣住民へ聞き込みをしてくれ。何が起きるか分からない状況だからな。不測の事態に備えて二人で行動した方が何かと都合が良いだろ。それに完全武装した軍の隊士が突然目の前に現れたら、一般人なら萎縮しちまうモンさ。だから顔見知りのお前が率先して声を掛ける事で、里の者達にいらぬ気遣いをさせないで情報を引き出すんだよ。どうせお前、この里じゃぁ知らぬ者のない有名人(ワルガキ)だったんだろ」

 ヘルムホルツは口元を緩めて言った。きっと彼はジュールの少年時代を思い起こしたのだろう。ただ立ち所に真面目な顔つきに戻ったヘルムホルツは、キッチンの他にも不審な場所が無いか調査を始めようとした。

「俺はもう少し家の中を調べてみるよ。だから聞き込みで何か有力な情報を掴めたらここに戻って来てくれ。それとガウス。お前は俺に付き合って家の調査を手伝ってくれ」

 ヘルムホルツはジュールの真後ろに立っていたガウスに向かい協力を仰ぐ。しかしその要請に対してガウスは少し恐縮しながら答えたのだった。

「ヘルムホルツさんの手伝いをするのはもちろん構わないんですが、その前に警察部隊の詰所に行って来ても良いですか? 新しい情報が入っているかもしれないし、それに第三者の存在についても調査しているかも知れない。どうでしょう?」

 ガウスは大きな体を(すぼ)める様にしながらそう意見した。所属部隊は異なるが、ヘルムホルツが先輩隊士である事に変わりは無い。だからガウスは不躾(ぶしつけ)にも上官に逆提案した言動に気が引けているのだろう。でも彼の意見に合理性があるのは素直に頷ける。そう判断したヘルムホルツは見た目に依らぬガウスの的を得た意見に舌を巻きながら、それを快く受け入れた。

「分かったよガウス。警察部隊への聞き取りはお前に任せるよ。家の調査は俺一人でも然程問題ないだろうからね。それじゃぁ各自、仕事を始めてくれ」

 ヘルムホルツの指示に首を縦に振ったジュール達はそれぞれの役目を果たす為に小走りに駆け出す。そして彼らは事件の陰湿さとは真逆の安らぎを感じさせる、朗らかな陽気の里に散らばって行った。


 数時間後、アメリアの実家にはそれぞれの捜査を終えたジュール達一行が集まっていた。ただその表情はどれも優れないものである。アメリアの行方や事件に関わる手掛かりが何も掴めていないのだ。酷く暗い雰囲気が漂うのは仕方ないだろう。するとそんな状況に遣り切れなさを感じたジュールがガウスに詰め寄る。彼は進展しない状況に、溜め込んだ鬱憤を吐き出さずにはいられなかったのだ。

「おいガウス。警察部隊の奴らは事件について本当に捜査しているのか? 何も分かってないなんて有り得ないぞ!」

「す、済みません。本当に警察は何も掴んでいないみたいです。いや、それどころか第三者の存在すら把握していませんでした。ヘルムホルツさんが状況証拠から一瞬で見つけた重要なポイントにまったく気がついていない。残念ですけど、そんな警察には期待しないほうがいいでしょう。頼りにならないどころか、場合によっては見当違いな情報に振り回される恐れすらありますからね」

 そう告げたガウスは大きく溜息を吐き出す。彼は現地警察のあまりにも杜撰(ずさん)な対応にガッカリしているのだ。そしてそんな彼の落胆ぶりを見たヘルムホルツもまた、肩を落とすしかなかった。

 まるで打つ手の無い状況に失望感を覚えずにはいられない。ここに揃った誰しもがそう感じているのだろう。しかしアメリアの行方が分かっていない以上、このままそれを放置しておくわけにもいかない。するとそれまで黙っていたアニェージが、悲壮感を露わにしているジュールに向かい聞き尋ねた。

「アメリアさんの行方が分からない原因として考えられるのは、一つに何者かに連れ去られたという事。そしてもう一つはその何者かから逃げる為に、自ら身を隠しているという事なんだと思う。そこでだジュール。まず一点として、アメリアさんは誰かに連れ去られるような心当たりはあるのか?」

「そんなモンあるわけねぇだろ。俺が言うのもなんだけど、あいつは誰からも好かれる良い奴なんだし、それこそ恨みを買う様なタイプじゃない」

「ならこの家に押し入った者の目的はアメリアさんじゃないと考えられるな。たまたま帰省した矢先、偶然にも何かしらのトラブルに巻き込まれた――」

 アニェージは両腕を組みながら考える。そして彼女はそれまでに入手した情報から、丁寧に事件の経緯を辿ったのだった。

「里のみんなから聞いた情報だと、何日か前にアメリアさんがここに帰省していたのは間違いない。里に暮らす多くの人達がアメリアさんの元気な姿を目撃していたからね。そして昨日の夕刻、この家で何かしらの騒ぎがあった事は何人かの住人は気付いていた。ここは静かな里だから、きっといつもとは違う只ならない様子に妙な違和感を感じ取っていたんだろう。それが功を奏して負傷した母親の早期発見にも繋がっているくらいだし。でもそこで私は疑問に思うんだ。重傷を負ってはいるものの、アメリアさんの母親の命は無事だったって事にね」

「どういう事だよ?」

 ジュールは不審さを隠さずに問う。当惑する彼はアニェージの言っている意味が分からないのだ。ただその問いに答えたのは、ジュールの横にいたヘルムホルツだった。

「もしかしてアニェージが考えているのはこういう事なんじゃないのか。仮に何者かの目的がお袋さんであった場合、殺しちまうのは簡単だったんじゃないのかって。状況から察するに、恐らくこの家に押し入った者は【力のある男】だろうからね。婦人の一人や二人を始末するなんて造作も無いはず。でもそれをしなかった。いや、出来なかったんだよ。何故ならこの場に偶然にも居合わせたアメリアが、それをさせなかったから――てね」

「さすがはヘルムホルツだな。その通りだよ。きっとアメリアさんはこの家に押し入った男が目的としていた【何か】を持って逃げたんだ。それも男が母親に手を掛ける時間すら惜しむくらい急いでね」

「でもアメリアはどこに逃げたっていうのさ。あいつは里の人達には助けを求めていないんだ。ならその男に掴まったって事なのか? フザけるなよ。結局何も分からないままじゃないか!」

「まぁ待てジュール。確かにアメリアさんは里の住人に助けを求めていない。でもそれは恐らく、関係の無い里の者達を巻き込みたくなかった彼女の配慮なんじゃないのかな。だから私は思うんだよ。アメリアさんが逃走するのならば、逆に里の人が居ない方向に逃げるんじゃないのかって」

 アニェージの憶測を聞いたジュールの背中が(ひど)く泡立つ。人気の無い方向にアメリアが逃げたとしたなら、やはりそれは今朝の夢と同じじゃないか。あいつは暗い森の中を必死に駆けていた。何度も転びながらも、きつい山の斜面を走り続けていた。でもその結末は――。

「みんな行くぞ。車に乗れ」

 ジュールは止む無くも一言だけそう告げると、車に向かい歩み出した。悔しいけど、あの嫌な夢に(すが)るしかない。彼は苦々しくもそう判断せざるを得なかったのだ。そしてそんな彼にアニェージ達も無言で従う。彼女達もまた、ジュールの感に頼るしかなかったのだった。でもそれは当たってほしくない最悪の事態とも言えよう。皆は背中を押される様に足を前に進めるも、しかしその足取りはこれ以上無いほどに重いものであった。


 つづら折りの坂道を登ったジュール達は桜の墓地に到着する。ただ彼らがそこに着いた時、いつの間にか太陽は傾きかけていた。

 上り坂にあった幾つもの脇道を入念に見て回った事が、時間を悪戯(いたずら)に消費してしまった原因なのだろう。それに完全武装した状態で長い坂道を登るのも骨が折れるというもの。その為に墓地に着いた時のジュール達は、極度の疲労感でクタクタになっていた。

 ジュールにヘルムホルツ、そしてガウスは墓地に座り込んで休んでいる。体力を消耗しているのがその理由であるが、でもやはり何の手掛かりも掴めていない状況が心理的にも負担となっているのだろう。そしてそんな閉塞感の漂う中で、ガウスがジュールに対して(おもむろ)に問い掛けたのだった。

「なぁジュールさん。こんな所にアメリアさんが本当にいるんですか? いくら何でも人気(ひとけ)無さ過ぎですよ。里の人達に迷惑掛けられないからって、危険が迫ってる状況でこんな場所に普通逃げますかね」

「チッ、俺だって良く分からないんだ。でも夢の中でアメリアが走っていた森は、この丘に近い場所なんじゃないかって思えて仕方ないんだよ!」

 ジュールは強めに吐き捨てる。自分の勘が正しいなら、きっとアメリアはこの近くにいるはずなんだ。しかしガウスが言う様に、常識的に考えればこんな場所に逃げ込むなんて有り得るはずがない。そんな矛盾した感覚にジュールは(ひど)く焦っていた。ただそんな彼を差し置き、アニェージが目を輝かせて(つぶや)いたのだった。

「凄いな、ここは。こんな綺麗な桜、私は見た事がない」

 アニェージは墓地を囲む桜に目を奪われている。普段の見た目からは彼女が花を好む性格だとはお世辞にも思えない。しかし女性が持つ感性とは、心の深い部分では共通した優しさを備えているのだろう。だから彼女はアメリアの捜索途中という切迫した状況にも(かかわ)らず、視界に飛び込んで来た美しい桜の景色に気持ちを奪われてしまったのだ。それが不謹慎な事だとは分かっていても。だが案の定、そんな桜に見惚れるアニェージに対してジュールは皮肉を込めて言ったのだった。

「そんな桜なんか見てる暇があるんなら、どこか怪しい場所がないか探せよ。こんな場所で油を売ってる暇は無いんだからさ」

 ジュールは重い腰を持ち上げる。そして彼は墓地にある黒い石が乗った不可思議な墓に向かってゆっくりと歩み出した。

 その墓には新しい花が活けられている。きっとアメリアと母親が墓参りをした際に(そな)えたものなのだろう。でもそれだけである。特段に変わったところはないし、もちろん手掛かりになる様なものも見当たらない。

 ジュールは(むな)しくも風に揺られる活けられた花を見つめながら思う。昨日のこの時間にアメリアはここにいた。確実にいたはずなんだ。それなのに今、あいつはどこに行ってしまったのか――。

 気を抜けば、たちまち心が萎えてしまうだろう。だが一度そうなってしまったら立ち直るのは容易ではない。だからジュールは無意識にも防衛反応を働かせ、それを捌け口としてアニェージにぶつけたのだった。

「いつまで桜なんか見てんだよアニェージ。余計な事してないで、さっさとアメリアを探せよな!」

 それが単なる八つ当たりなのだという事は十分に理解している。でもジュールには湧き上がる苛立(いらだ)ちを抑える事が出来なかった。そしてそれを間近で見たヘルムホルツとガウスは息を飲む。次の瞬間には間違いなく、アニェージが怒りを噴出させ反発すると疑わなかったのだ。ただ何故だろうか。アニェージはジュールのそんな悪態になどまったく気を留める事無く、見つめた桜に付いて疑問を投げ掛けたのだった。

「この墓地の桜はとても鮮やかで美しい。何もない田舎の里だと思っていたけど、こんなにも印象的な光景に巡り合えるなんて、本当に驚いたよ。でも少し変じゃないか、ここの桜は?」

 そう告げたアニェージは桜に近寄り、その花を手に取って見つめた。だが彼女が何を不審に感じているのか分からないジュールは、つい感情的に声を上げてしまった。

「いい加減にしろよアニェージ! こんな桜の何が変だっていうんだよ。どこにでもある桜と何も変わらないだろ!」

 ジュールはそう言って桜を見つめるアニェージの肩を強く掴む。ただ想像以上に力が強かったのだろう。痛みを感じたアニェージは表情を歪ませた。そんな彼女の姿にジュールはハッと我に返える。そして掴んだ手を離したジュールは苦々しく陳謝したのだった。

「わ、悪い。ついカッとなって思いきり掴んじまった。本当にスマン。許してくれ」

「別に気にしちゃいないさ。それよりこの桜だよ。これはお前が言う様に、見たところ何の変哲もないただの桜だ。でもさ、この時期に桜が咲くなんて、まだ少し早くないか? だってそうだろ。ここはアダムズ最北地方の里なんだからね。ルヴェリエならともかく、アレニウス山脈も近いこの地域でこの時期に桜が咲くなんて、ちょっと信じられないな。ほら、見てみろよ。その証拠にこの丘以外の桜の木には(つぼみ)すら付いていない。早咲きの桜じゃないだけに、こんなの不自然で気持ち悪いよ」

 アニェージは少し遠くに見える山を指差してそう告げた。遠目で正確に把握するのは難しいが、恐らく彼女が指差した山の木々は桜の木なのだろう。そしてそれらの木々は、彼女が言う様に花どころか(つぼみ)すら付けていない。となれば、明らかにおかしいのはこの丘の桜だという事なのか。

「なぁジュール。ここの桜は昔から他よりも早く咲いているのか?」

 アニェージは改めてジュールに向かい聞き尋ねる。ただそれに対するジュールの答えは曖昧なものであった。

「いや、どうだったかな。俺はあんま桜に興味なかったから分からないよ。毎年春になるとウザいくらいに桜が咲いてたのは覚えてるけど、早かったかどうかまでは記憶にないね。でもあんたが言う様に、確かにここの桜は咲くのが早い。あの時もこんなだったのかな――」

 ジュールは遠い記憶を思い起こす。アメリアとその友人の少女を守るために暴漢と戦ったあの日の桜を。今日と同じ様に、あの日も桜が満開であった事だけは鮮明に覚えている。でもそれが時期的にどうだったのかは思い出せない。ジュールは何か忘れている事があるんじゃないのかと頭を悩ませる。ただその時、少し離れた場所からヘルムホルツの驚きの声が上がったのだった。


「おいおい、何だよこの下り坂は。ハンパ無く真っ直ぐだな」

 一足先に墓地を後にしていたヘルムホルツは、そこに伸びる長い下り坂を見て驚いている。軽く千本以上はある桜並木に囲まれたその坂道は、疲れ切った彼の気分を紛らわせるには十分な印象を与えたのだろう。それに見事なまでの直線的な坂道にヘルムホルツは引き込まれている。いや、それだけではない。彼は坂道から受け取る意味不明な感覚に戸惑いすら覚えていたのだ。そしてヘルムホルツは続けてこう(つぶや)いたのだった。

「なんか変だぞ。ここは下り坂のはずなのに、上り坂みたく感じる」

 ヘルムホルツは奇妙な感覚に困惑しながらも坂道を歩み進む。するとその後ろから追いついて来たジュールが簡単な補足を口にしたのだった。

「まぁ、お前が驚くのも無理はないよ。初めてこの道に来た奴は大概そんなモンだからな。もちろん俺だって初めてこの道を下った時は、逆に登ってるふうに感じたぜ。でもそのカラクリの正体は目の錯覚によるものらしいんだ」

「目の錯覚か。確かにそうなんだろうな。これだけ真っ直ぐだと、自分が登っているのか下っているのか分からなくなるよ」

「だから里の奴らは登りと下りで道を使い分けているのさ。つづら折りの曲がりくねった坂道を登り、帰りはこの真っ直ぐな坂道で帰る。そうすればこの長い真っ直ぐな坂道で【迷子】になる事もないだろ」

「そうだな。少し大袈裟かも知れないけど、この坂の途中で登っているのか下っているのか分からなくなったら、迷った挙句に上下行ったり来たりしちまう。そんな事があるかも知れないよな。でもなんだろう。視覚から来る錯覚だけで、ここまで惑わされるものだろうか。方向感覚が麻痺している様にも感じるし――。もしかしたら磁場が狂っているのかも知れないな。桜が早く咲いているのは、その影響を受けているからなのかも」

「磁場が狂ってる? まさかここが【磁石の丘】って呼ばれてるのはそれが理由なのか――――ん?」

 そこまで告げたジュールはふいに足を止める。そして彼はポケットより1枚の写真を取り出すと、そこに写る風景と坂道を見比べた。するとどうしたことだろう。ジュールの顔色がどんどんと蒼白に変わって行く。

「こ、ここだったのか」

 ジュールは独り言の様に呟く。あまりにも衝撃的な偶然の一致でそれ以上の言葉にならなかったのだ。それでもジュールは(わず)かに震える手でヘルムホルツに写真を差し出すと、懸命に言葉を絞り出したのだった。

「青々とした新緑の木に囲まれた坂道だから分からなかったけど、でもここで間違いない。その写真の坂道はここだったんだよ。上り坂だって勝手に思い込んでたから気付かなかったんだ!」

 ジュールは叫ぶように強く吐き出す。そして彼に促されながら写真を見たヘルムホルツもその意見に同意するしかなかった。季節こそ違えど、確かにここは写真に写る坂道と同じ場所だ。しかしそれはそれで腑に落ちない。写真はルーゼニア教に深く関係する場所であるとソーニャは言っていた。でもこんな田舎の丘にあるただの坂道に何か意味があるなんて考えられるはずもない。

 ヘルムホルツはアニェージに写真を手渡し確認させる。見間違いではないか、皆の判断を仰ぎたかったのだ。ただ写真を見た彼女の反応は彼と同意見であり、また最後に写真を見たガウスもその意見は同一なものであった。

 この坂道には何かがある。そこにいる全員がそう感じた。そしてその感覚は例外なく戦慄を覚えるものであった。

 なぜそんな言い様のない怖さを感じたのだろうか。理由なんて分かるはずもない。しかし背中に突き抜ける悪寒だけは異常なほど高まっている。ただ次の瞬間、ジュールは何かに引き寄せられたかの様に走り出した。最悪を匂わせるもう一つの合致。彼が全力で目指すそこは、桜並木から脇に逸れる一つの細い山道であり、悪夢で見た光景と瓜二つの場所であったのだ。

「急にどうしたんだよジュール!」

 追いかけるアニェージが叫ぶ。それにジュールは吐き捨てて答えた。

「今朝見た夢の場所と一緒なんだ! 誰かに追われたアメリアが必死に逃げていた道にそっくりなんだよ。そこでアメリアは俺に助けを求めていたんだ!」

 ジュールは全力で駆ける。そのスピードはアニェージですら追いつけないほどだ。だがしかし、その脇道は少し森を進んだところで行き止まりになっていた。

 昼間だというのに陽があまり差し込まない。そのせいなのか、底冷えする寒さすら感じる。だがその寒さすらを更に凍てつかせる状況がそこにはあった。

「バ、バカな。こんなの嘘に決まってる……」

 目の前の場景に注視するジュールは身の毛の弥立つ恐怖に(おのの)き身を(すく)ませた。

 何が原因なのかは分からない。でもそこには目を背けたくなるほどの血痕が、大量に飛び散っていたのだった。

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