#69 下萌の害心(前)
「メインエンジン始動。エネルギーコントロール制御はオートに設定。ステルスモードは正常起動を確認。レーザー回線は離陸と同時に遮断する為のシャットアウトプログラムに移行。最終チェックの結果、各部装置にも異常は無し。これより離陸に向けたカウントダウンを開始する」
小型輸送機の操縦席に身を埋めたブロイが声を出しながら幾つものスイッチを押していく。その手慣れた動作より、彼がこの機体を頻繁に操縦しているのは確かな様だ。そしてブロイが操作する複数の液晶パネルは、その全てが緑色の光を発した。機体が正常に稼働している証拠なのだろう。
オフィスビルの屋上にあるヘリポート。そこに駐機された小型輸送機のジェットエンジンが徐々に唸りを強めていく。それはまるで、今か今かと出発を待つジュールの気持ちを代弁しているかの様だ。
狭いコクピットに座席は全部で6つ。操縦席に座るブロイの真後ろの席にはヘルムホルツ。そしてその隣の席でジュールがシートベルトを締め着座する。離陸まで残り三百秒。目の前に映し出されるカウントダウン表示がジュールの焦燥感を悪戯に煽っていく。居ても立ってもいられない。そう思う彼は拳を強く握りながら、苛立つ感情を必死に抑えようと努力していた。ただそこでジュールはふと見たブロイの腕先が気になり呟いた。
「ちょっと聞いてもいいですか、ブロイさん。その手首から伸びてるワイヤーって何ですか?」
ジュールが視線を向けた場所。そこはブロイの左手首であり、そこからはどういうわけか細長いワイヤーが飛び出していた。そしてそのワイヤーはコクピットパネルにある制御端子部に接続されている。明らかな人工物であるワイヤーが、ブロイの肉体より飛び出している事にも不可思議さを感じずにはいられないが、それが輸送機に直結されているのだから尚更ジュールが奇妙に思うのは当然であろう。ただそんな彼に対し、ブロイは面倒臭そうに答えたのだった。
「これは【俺】自身と機体を接続する為のケーブルさ。俺の頭の中には脳に直結された機械が埋め込まれている。だからこうして機体にケーブルを繋ぐ事で、乗り物に搭載されたコンピュータを思うがままに制御出来るって仕組みなんだよ。要するに、俺はどんな乗り物でも自由自在に乗りこなせるってわけさ」
ブロイは自分の頭を指差しながら説明する。ただ何故だろうか。彼の口調は思いのほか乱暴にも聞こえる。急な輸送機の発進をシュレーディンガーに命じられた事に気分を害しているのだろうか。しかしそんなブロイの僅かな変化に気付きもしないジュールは、純粋に目を見張って驚いたのだった。
「凄いっスねブロイさん。運転手って聞いてたから、俺はてっきり車の運転手なんだと思ってましたよ。まさか飛行機まで飛ばせるなんてスゲェや!」
「フン。こんな事くらいで騒ぐんじゃねぇよジュール。この世の中、ユニバーサル規格でどんな乗り物にもこのケーブルを繋ぐ為の回路が付いてんだ。だから例え運転したことのない乗り物だったとしても、ケーブルさえ繋ぐことが出来たなら運転は造作もない事なんだよ。分かったか」
「なら古い車とかバイクとか、そのケーブルを繋げられない乗り物だったらどうするんです?」
「かっ。それこそ愚問だな。ケーブルを繋げられない旧式の乗り物の方こそ、俺にしてみれば腕が鳴るってモンよ。なにせ俺は昔プロレーサーだったからね。運転技術には誰にも負けないセンスと経験、それにプライドを持っている。だから俺の操縦する乗り物に乗ってる時は、安心して居眠りしてていいぜ」
そう告げたブロイは軽く口元を緩め得意げな表情をみせる。するとそんな彼に今度はヘルムホルツが質問を投げ掛けた。
「ブロイさんは体の一部をサイボーグ化してるって事なんですか? アニェージの義足といい、シュレーディンガーさんの部下は変わった体の持ち主ばかりでホント驚きますよ。一体誰がそんな高度な手術をしたんです?」
「そろそろ出発だ。大人しく座っていろ。ただ一点だけお前の質問に答えるとしたなら、俺の体は乗り物の運転技術を高める事だけに特化した強化をしているものだ。だから先日の街中での逃走劇で見せたケーブルの使い方は、むしろイレギュラーなモンなんだよ。兼任でボディガードなんてぇのもやらされてるが、正直なところ格闘は苦手なんだ。そこんところはお前ら、良く覚えとけよ」
面倒な仕事に自分を巻き込まないでくれ。内心でブロイはそう思っているのだろう。彼はただ上司の命令で動いているだけであり、ジュールらと共に獣神に仇なそうとまでは考えていないはずなのだ。あくまで仕事上の付き合いである。いや、そもそも彼にしてみれば、獣神の存在自体が曖昧過ぎて信じられない。そんな感覚なのだろう。それでもブロイがシュレーディンガーの忠実な部下の一人なのは確かなはず。たとえ獣神が信じられなくても、この仕事が極めて危険である事は疑い様がない。それが分かっていながらも、彼は露骨に反発する事なく従順に職務を遂行しているのだ。
背中越しにブロイを見るジュールとヘルムホルツはお互いの顔を見ながら思う。普段は物腰の低い穏やかな性格であるブロイが、僅かな苛立ちを感じ口調を強めた。それは彼自身が現実として危機感を感じている現れなのであろうと。それでも彼はこうして輸送機を飛ばし、力を貸してくれている。ならばこれ以上はブロイの負担になる事は避けなければならない。そう考えた二人はブロイの集中力を乱さぬようにと口を噤んだ。だがその時、喧々たる警告音が鳴り響くと同時に、搭乗用のハッチが突然開き機内に突風が吹き込んで来た。
出発直前の状態の今、一体何が起きたというのか。風に舞う埃が目に入らぬよう手で顔を覆うジュールとヘルムホルツは、少し身構えながら開いたハッチに視線を向ける。するとそこに姿を現したのは、大きな荷物を両手に抱えたアニェージであった。
「ギリギリじゃねぇかアニェージ。あと1分で離陸だから早く座れ」
「悪かったね。荷物が届くのを待ってたんだよ」
ブロイの呼び掛けに対してそう応えたアニェージは、手にしていた荷物を最後尾の座席に置く。そしてジュールとヘルムホルツの間を通って副操縦席に座った。何食わぬ平然とした表情で彼女はシートベルトを締め始める。ただそんなアニェージに向かい、ジュールは驚きながら言ったのだった。
「なぁアニェージ。どうしてあんたがついて来るんだよ。俺はてっきりリュザックさんと一緒にソーニャの捜索に向かったモンだと思ってたぜ」
「やれやれ。これだからお前は世話が焼けるんだよ。なぁジュール、お前は自分が見たっていう何の根拠も無い夢を気掛かりにしてアメリアさんのもとに向かおうとしているんだろ? でもその夢っていうのにお前は直感として放っておけない何かを感じた。それってさ、危機感以外の何ものでもないだろ。それなのにお前、丸腰で出発しようっていうのかよ。ハッ、言ってる事とやってる事がバラバラだぞ。もっと現状を冷静に考えてみろ。この先どんな危険が待ち構えているか分からないんだ。だから私はエイダとティニが装備を持って到着するのを待っていた。そしてそれをこうして持って来たんじゃないか。どうだ、私が居なくちゃダメだろ?」
少し呆れた表情を浮かべながらアニェージは続ける。
「ソーニャの捜索についてはエイダとティニに協力を頼んでおいた。グリーヴスに来てから彼女達は親身にソーニャの世話をしてくれたし、それに歳も近いしね。こういった場合には彼女達の方が頼りになると思ったんだよ。それにグリーヴスの街にはシュレーディンガー社長の目が行き届いている。いざとなればストークス中将に救援要請を依頼する事も可能だ。だからあえて私がここに留まる必要性は高くはないんだよ」
「でもそれだけの理由で俺達に同行するってのも変じゃないか? 装備を届けてくれたのは嬉しいけど、危険が迫っているのを承知してるんなら、あえて俺達に同行する義理はあんたに無いはずだ」
「まぁ、それはそうなんだけどね。でも不測の事態が起きたとしたなら、私が戦力になるのは分かっているだろ。だったら素直に喜びなよ」
「確かにアニェージがついて来てくれるのは心強い。でも俺が感じた訳の分からない夢にあんたを巻き込むわけにはいかないよ」
「ガクン!」
輸送機に振動が伝わる。離陸の準備が整ったのだろう。そしてエンジン音が唸りを上げる中、機体がゆっくりと垂直上昇を始めた。どうやらこの輸送機は滑走することなく、ヘリコプターの様に垂直に離陸することが出来る様だ。ただそんな機体のコクピットの中で、アニェージは柔和な眼差しをジュールに向けて告げた。
「こんな状況なんだ。しみっ垂れたこと言うなよ、ジュール。それにな、私が同行するのには三つ理由があるんだ。一つはブロイについて。このおっさんの運転技術は超一流なんだけど、なぜかドライバーズシートに座ると性格が豹変しちゃうんだよ。昔のレースで起きた事故の影響なのか、それとも頭に妙な仕掛けを施した副作用なのか、それは分からない。ただ操縦中のブロイと変に揉めたりすると危ないだろ。だからそれを注意する目的が最初の理由さ。そして二つ目の理由。これは簡単でシュレーディンガー社長の命令だと言う事。そして三つ目。これは完全に私個人の都合なんだが、私もアメリアさんの無事が心配なんだよ。彼女とは少ししか話してないけど、すごく感じが良かったからね。それが私が同行する理由だ。どうだ、これでも反論あるか?」
アニェージはジュールを見つめた。理由なんていうものはどうとでも付け足せる。ただ一番大切なのは、やはり直感として抱く危機感の現れなんだろう。そしてジュール同様にアニェージもそれを感じている。いや、同行するヘルムホルツも然り、輸送機を飛ばすブロイも然り、またそんな彼らに命令を下したシュレーディンガーも理由の無い怖さを感じているのだ。そしてそんな皆の助力にジュールの胸はキツく締め付けられる。不安が大きいだけに、彼はその頼もしさに嬉しさを感じずにはいられなかった。
ヘリポートより百メートルは上昇しただろうか。輸送機はそこで一旦姿勢を留める。するとその時、通信回線が開かれ制御盤上の小型ディスプレイにシュレーディンガーの顔が表示された。
「何事も無く、君達が無事に戻って来てくれることを祈っているよ」
シュレーディンガーは僅かに微笑みながら告げる。少しでもジュール達を安心させようとする大人の優しさなのだろう。そしてそんな彼の気遣いを察したジュールは、素直に感謝の言葉を口にした。
「俺の我がままに付き合ってくれて、本当に済みませんシュレーディンガーさん。でも大丈夫です。俺には心強い仲間がいますから、何が起きても負けやしません」
「うん。信じているよ。それに君の恋人のアメリアさんは、あの考古学者【ハーシェル】の娘さんなんだろ。だったら尚更私に断る権利は無いからね。君が気にすることは無いよ」
「えっ。シュレーディンガーさんはアメリアの親父さんと知り合いなんですか?」
「いや、直接の面識は無いよ。ただグラム博士に頼まれてね、何度かハーシェル君のスポンサーを引き受けた事があったんだよ。その見返りとして、ハーシェル君からは貴重な発掘品をいくつか頂いてね。オークションで随分と儲けさせてもらったモンさ。だからその娘さんであるアメリアさんに危険が迫っているというのなら、それを助けるのは当然な事だろ。君は余計なことに悩まず、アメリアさんの安全だけを第一に考えればいい」
「ありがとうございますシュレーディンガーさん」
「グォン!」
エンジン音が一段と唸りを強める。ホバリングした状態で僅かに機体を旋回させる状態より、目的地であるボーデの町に機体を向けているのだろう。
「まだお礼を言うのは早いよ。さっきグリーヴスの駅前に設置された監視カメラに走るソーニャの姿が映っているのが見つかった。すでにリュザック君とティニ君とエイダ君がソーニャを追っている。君達が再度グリーヴスに戻った時に、ソーニャを無事保護出来ていたら、その時に改めて礼を受け取る事にしょう。だから君はアメリアさんを全力で守りなさい。いいね」
「了解しました。絶対にアメリアを探して来ます。それとソーニャの事はよろしくお願いします」
「プツンッ!」
通信回線が途切れる。どうやら時間切れらしい。操縦桿を強く握りしめたブロイがそれを口走ると、機体の唸りは臨界を迎えた。
「悪いが話はここまでだ。これから先は一切の信号を遮断してボーデまで直進する。無駄な危険を避ける為の隠密飛行というわけだ。さぁ出発するぞ! ボーデまでおよそ2時間半。推力最大OK。システムオールグリーン。【EPRキャッツ号】これよりボーデに向け発進する」
「グオォォン!」
尋常でないほどの力で背中がシートに押し付けられる。それはまさにロケットに乗っている。そんな感覚であった。
一瞬で最高速度まで加速した小型の輸送機EPRキャッツ号は、ほんの僅かな白い煙だけをグリーヴスの上空に残す。そしてその機体は世界中のどんなレーダーにも反応する事無く、アダムズの広大な空の中に消えた。
ちょうど出勤や通学の時間と重なった為に人通りは極めて多い。そんなグリーヴスの駅前ロータリーで、リュザックはティニと共にソーニャの捜索を開始していた。
シュレーディンガーが駅前の監視カメラに映ったソーニャの姿を見つけてからすでに1時間が経過している。もしかしたら彼女はもうすでに他の場所に移動しているかも知れない。リュザックの脳裏にそんな不安が色濃く刻まれていく。でも仮にそうであれば、街中を監視しているシュレーディンガーより何かしらの連絡があっていいはずだ。リュザックは必死に自分自身を駆り立てながら捜索に走る。ただその時、彼は後方より呼びかけられ振り返った。
「リュザックさん!」
彼に向かって駆けて来たのはエイダだった。彼女はリュザックの指示に従い、駅に駐在する警察部隊にそれとなくソーニャの目撃情報を探りに行っていたのだ。
ソーニャは行方不明のアスリートとして全国に捜索願いが出されている人物である。そんな事件性の高い彼女の存在を表だって警察に尋ねる事は出来ない。いや、それ以上に今のソーニャを世間と接触させる事の方が遥かに危険なはずなのだ。それゆえにリュザックがエイダに与えた仕事は難しいものでる。それでも冷静さが持ち前の彼女ならば問題なく仕事を成し遂げられると信じ、リュザックは指示を出していたのだ。
駆け付けたエイダは膝に手を当てて荒い呼吸を整えようとしていた。恐らくかなりの長い距離を駆けて来たのだろう。グリーヴス駅は広大であるため、警察の情報を探るだけでは間に合わない。当然の事ながら、彼女自身もソーニャの捜索に全力を尽くさねばならない状況なのだ。しかしエイダの気落ちする表情から察するに、ソーニャの手掛かりがまったく掴めていないのは明白である。それでもリュザックは彼女に尋ねたのだった。
「ご苦労だったきね、エイダ。この駅はだだっ広いから骨が折れるじゃろ。けんど休んでる時間は無いきね。警察からは何か掴めたがか?」
「ハァハァ。済みません、ダメです。警察からは特に気になる情報は得られませんでした。病衣姿の女の子が駅にいれば目立ちそうなものですけど、これと言って目撃情報は無いそうです。もっとソーニャについて詳細を説明出来ればいいんですが、それは無理でしょうし、どうすればいいんでしょうか……」
落胆したエイダは力なく呟く。そしてそんな彼女に同調する様、ティニが節度なく言った。
「ただでさえこの駅は人混みで溢れてるのに、朝の一番忙しい時間だから誰も他人に気を掛けないんだよ。それにここは駅なんだから、電車はもちろんタクシーやバスだっていっぱい停まってる。もうソーニャは移動しちゃってるんじゃないのかな。ふぅ~、リュザックさんがちゃんとソーニャを見張っててくれれば、こんな面倒な事にはならなかったのに」
「こらティニ! 上官にそんな口利いちゃダメでしょ。これでもトランザムなんだよ、リュザックさんは」
ティニの配慮の欠けた言葉にエイダが自制を促す。ただそんな彼女達に対してリュザックは頭を掻きむしりながら苦笑いを浮かべていた。
「いや、ティニの意見はもっともだきよ。俺が気を抜いちまったばっかりに、余計な仕事を増やしちまった。けんどエイダが言いよった様に俺はトランザムだがね。自分で犯した失敗に諦めるわけにはいかんだでよ」
強がる様にそう吐き出したリュザックは周囲を見回す。無駄口を叩いている暇は無い。今は余計な事は考えず、ソーニャの身柄確保だけに集中すればいいんだ。
リュザックは三手に別れて捜索しようとエイダとティニに指示を出す。ただその時だった。リュザックはロータリーの少し離れた場所に東方軍の軍用車が止まるのに気付く。そして彼はその車に向かって駆け出した。
軍用車の後部座席からマイヤーが姿を現わす。そしていくつかの手荷物をトランクより取り出した彼は、軍用車に乗る数名の隊士らに向けて軽く頭を下げた。すると軍用車はゆっくりと進み出す。一度だけ小さくクラクションを鳴らした車は、そのままロータリーを走り抜けて何処かへ行ってしまった。
「マイヤー! マイヤー小隊長!」
駆け寄ったリュザックが名前を叫ぶ。それに気が付いたマイヤーは、細長いバックを肩に抱えながら振り返った。
「リュザックさん。それにティニとエイダも。――その様子だと、ソーニャは見つかってないみたいだね」
マイヤーは落胆した面持ちを浮かべながら溜息混じりに言う。彼は改善されていない状況に嘆かわしさを感じたのだろう。ただそんなマイヤーの姿を見たリュザックは、その物々しい恰好に眉をひそめる。なんとマイヤーは、今にも戦争を始めるのではないかと思えるほどの武装を施していたのだ。
「それにしてもマイヤー。その恰好はどういうこっちゃ? 肩に掛けてるバックの中身はライフルじゃろうし、制服の下にはバトルスーツまで着込んでからに。娘っ子探しにしちゃぁ、ちと物騒過ぎんかえ? それにさっきお前さんが乗って来た軍用車。ありゃ完全に装備が仕上がってたきね。何かあったがか?」
不審さを露わにしたリュザックの視線がマイヤーに突き刺さる。それに対してマイヤーは思った。さすがはトランザム。見事な洞察力だと。
彼は皆にどう伝えれば良いか悩んでいた。でもリュザックの優れた眼力を改めて認識した事で、マイヤーは有のままを全て吐き出した方が無用な混乱を避けられると判断し話し始める。だが案の定、マイヤーの話しを聞いたリュザックと二人の女性隊士は、あまりに唐突な事態の変化に身を竦ませるしかなかった。
「俄かに信じ難いんですが、トーマス王子が【失踪】しました。なのでストークス中将が特級非常事態警報を発令したんです。東方軍全部隊はS級装備するとともに、王子の捜索に掛かれと。ただ王子の失踪があまりに突然だったから、軍も警察もかなり混乱しているらしく、ストークス中将はそっちのごたつきを抑えるので精一杯の様です」
「王子が失踪じゃと! おいマイヤー。こんな時にヘタな冗談は通じんがよ」
「あまり声を大きくしないで下さい。まだ公に王子の失踪は発表されていないんですから。でも王子がいなくなったのは本当です。なにせ俺自身がジュールの無実を証明してもらうために、まだ寝ているはずの王子の所に行って確かめたんですからね」
「マジなのかえ。そりゃ大事だがね。――それで、いつから王子はいなくなったんだきか?」
「正確な時刻は分かっていないようです。専属の執事が珍しく朝寝坊した王子を起こしに行ったら姿がなかった。それが今から40分ほど前。俺がホテルに着く少し前の事です。昨日は西国企業との協議がかなり長引いたらしく、王子が就寝したのは深夜3時を回ったくらいだと聞きました。だから王子がいなくなったのは、深夜から朝方に掛けての数時間の間なのでしょう」
「くわぁ~。どないしてこがいに面倒な事が重なるがかよ。それに王子がいなくなったっちゅう事は、ジュールの濡れ衣を晴らしてないってこっちゃろ。状況は悪くなるばかりだがね」
リュザックは表情を歪ませながら頭を抱える。さすがの彼も予想外な王子の失踪に考えがまとまらない様子だ。それでもリュザックは懸命に現状を分析する。そして彼はマイヤーに向かい聞き尋ねた。
「王子がいなくなる心当たりはあるのかえ? いや、そもそも王子は自分から何処かへ行ったのか、それとも何者かに連れ去られたのか。そのへんの目星はついてるんだがか?」
「いえ、それがさっぱり分からないから困ってるんです。協議に疲れ果てた王子が自分で何処かに移動したとは思えないし、かと言って連れ去られた形跡も無かった。そもそもホテルを警護していたのはストークス中将の親衛部隊であるあの【ソルティス】ですからね。警護自体に不手際があったなんてとても考えられない。その証拠にソルティスは今血眼になって王子の捜索に当たってますよ。ところでリュザックさん、俺の方からも聞きたいんですが、今までに王子が無断でどこかに行った事とかあるんですか?」
「いや、それは無いきね。人を小馬鹿にするのは誰よりも得意な王子だけんど、何も言わんで姿を晦ました事は無いがよ」
「ならやっぱり何者かによる仕業なんでしょうか?」
マイヤーは眉間にシワを寄せて厳しい表情を浮かべた。たとえ銃弾の降り注ぐ戦場であったとしても、決して冷静さを失わない彼が焦りを感じている。それだけ状況は深刻なものなのだろう。しかしそんなマイヤーに向かい、リュザックは毅然とした態度で言い放った。
「とりあえず状況は分かったき。ただ王子の捜索はソルティスや東方軍に任せて、俺達は娘っ子探しを続けるがよ。王子が何処に行ったかは気になるけんど、東方軍全体が動くんなら人手も多いし、何よりストークス中将が指揮を取るでな。直に見つかるじゃろ。むしろ人探しはこっちのほうが課題山積だがね。ソーニャの行方はまるで分からんき。それでも限られた人数で対処せねばならん。まったく、骨が折れるきね」
「良かった。俺もそう思ったからこっちに駆け付けたんです。幸いにも俺の小隊だけは、東方軍の組織体制から離れている状況ですからね。王子捜索に強制される心配が無い。それでもいつ呼び出しされるか分からないから、早くソーニャの捜索を始めましょう!」
マイヤーは強い意志の込められた声で皆に促す。王子の突然の失踪は、ジュールにとって極めて不利な事態であるのは確かなのだ。なら尚のことソーニャの身柄を早く保護し、精神的な不安を少しでも軽くする必要があるはず。そしてそんなマイヤーの考えに同意するようリュザックが首を縦の振る。彼もまた、由々しい事態に並々ならぬ危機感を感じ取っていたのだ。だがその時だった。駅前ロータリーを行き交う多くの群集の中より、突如として甲高い悲鳴が響き渡った。
「キャァ!」
突然高鳴った女性の悲鳴にロータリーは騒然となる。一体何が起きたというのだろうか。それまで足早に行き交っていたはずの多くの人々の足が止まる。ただどういうわけか、立ち止まった人々は皆が同じ方向に視線を向けていた。
「おい、あれってヤバいんじゃないか?」
「ウソでしょ。あんな所にいたら危ないよ」
「誰か警察隊か消防隊を呼んだ方が良いんじゃねぇの」
ザワついたロータリーより焦燥感を露わにした人々の呟きが聞こえて来る。またそれにも増して悲痛な叫び声が至る所から湧き上がった。そしてそんな人々につられる様、リュザックやマイヤーも同じ場所に顔を向ける。それは10階建のビルに相当する高さの、グリーヴス駅の屋根の上であった。
「おいマイヤー、あれってもしかして!」
「あぁ、間違いない。あれは【ソーニャ】だ!」
ドーム状の屋根の上に立つ病衣姿の一人の少女。それは正しくソーニャであった。
屋根の端ギリギリに立ち、僅かに身を傾ければ転落してしまう。もちろんその高さから落ちれば無事でいられるはずもない。そんな危うい状態のソーニャの姿に、ロータリーを行き交う人々は生唾を飲み込んで注視しているのだ。そしてそんな少女に視線を向けたリュザックらは、更に身悶えするほどの戦慄を覚えたのだった。
「どうやってあんな所に登ったき? いや、そんな事はどうでもいいがよ。な、なぁマイヤー小隊長さんよ。俺は別に目が悪いわけじゃぁないんだけんど、正直なところ自分の見てるモンが信じられんきね」
まるで現状を否定するかのようにリュザックが嘆く。ただこれ以上無いほどに顔色を青冷めさせた彼の態度は、それが否定しようの無い現実なのだと強制的に認識させた。そしてそんなリュザックの嘆声にマイヤーは黙って頷くことしか出来ないでいる。彼は額より湧き出す大量のベタついた汗に嫌悪感を覚えたが、それを遥かに凌駕する恐怖感にその身を支配されていた。
「ちょ、ちょっと小隊長。私達はどうすればいいの? だ、だってあれって」
ティニが震えた声でマイヤーに聞き尋ねる。するとそんな彼女に同調したエイダが珍しく声を荒げた。
「小隊長でもリュザックさんでもいいから、早く私達に指示を下さい! 早くしないと取り返しのつかない事になりますよ! だってそうでしょ。ソーニャが抱えてるのは【トーマス王子】なんですから!」
距離がある為に正確に見極める事は出来ない。それに後頭部しか見えないため、その人物が誰であるのか一般の群集が知り得るのは難しいだろう。しかし病衣姿のソーニャが肩に抱えているのは、意識の無い王子で間違いないはずなのだ。直感としてエイダはそう判断する。もちろんそれはリュザックにマイヤー、そしてティニさえも同意見であった。
鍛え抜かれたアスリートとは言え、小柄な少女が長身の王子の体を平然と肩に抱えているのは極めて不自然な光景だ。でもそれだけに、ソーニャが普通でない事は容易に判別する事が出来る。只ならない緊張感がマイヤー達の平常心をガリガリと削り取って行く。だがこのまま指をくわえてソーニャを見続けているわけにはいかない。すると何を思ったのか、リュザックが徐にマイヤーに対して口走った。
「おいマイヤー。お前のライフルじゃけんど、麻酔弾は所持しとらんか?」
「えっ。あ、あぁ。麻酔弾なら1発だけ持ってますよ」
「なら何処かソーニャを狙撃できる場所に身を隠すがよ。そんで俺の合図でソーニャを打って気絶させるき。何が起きるか想像できん状況じゃけん、絶対に外すなよ! それと俺の準備が整うまでに、ストークス中将へ現状を報告して応援の要請するがね」
リュザックは有無を言わさぬ強い口調で指示する。そして彼はエイダとティニに対しても続けて指示を飛ばした。もうそこにいるのはいつもの頼りないリュザックではない。
「お前達は俺について来るき。かなり強引だけんど、やるしかないがね!」
リュザックは早口でそう口走ると、エイダとティニを従え駅に向かい駆けだした。
天気は比較的良い方である。小春日和と言ったところか。しかし時折ビルの谷間を吹き抜ける風は、屋根の上に立つ少女のバランスを崩させるには十分の強さを持っている。なにせソーニャは王子の体を抱えたまま、それこそ身を乗り出す格好で駅の屋根の上に立っているのだ。むしろ強い風に煽られているのに、落ちないでいるほうが不思議なくらいである。ただそんな少女に向かい、急ぎ屋上に駆け付けたエイダとティニは息を切らせながらも説得を試み始めた。
「ハァハァ。ねぇソーニャ。そこは危険だからこっちに来て。ゆっくりでいいから。ね、お願い」
「ソーニャ、私達の声は聞こえてるよね? 私達はあなたの事を心から心配しているの。だからお願い、こっちに来て。私達の言う事を聞いて!」
エイダとティニは優しく微笑みながら手を差し出す。しかしソーニャからは何の反応も感じられない。二人の説得の声が聞こえていないのか。
でもすでにソーニャと二人の女性隊士との距離は数メートルのところまで接近している。会話が成立するには十分な距離と言えよう。それでも尚、ソーニャは二人の存在を無視し続けていた。
不自然な違和感を覚えたエイダとティニの背中に悪寒が走る。信じ難いが自分達の声は少女に届いていないのかも知れない。どこか遠くの一点を見つめているソーニャの横顔を見ながら二人は思った。それでも説得を止めるわけにはいかない。短い時間ではあったものの、エイダとティニはソーニャを献身的に介抱した。自分達とさほど歳の変わらぬ少女が、耐え難い苦しみに身悶えする姿を間近で見続けていたのだ。
なぜ罪も無いソーニャがこれ程までに苦しまなければならないのか。エイダとティニの脳裏に浮かぶソーニャの笑顔。そう、介抱してくれる二人に対して心配を掛けさせまいと、無理に強がってソーニャは微笑んだのだ。そんな優しい少女を助けたい。エイダとティニが強く願うのは当然なはず。不気味な嫌悪感に苛まれながらも、二人は諦める事なく説得を続けた。
「ね。お願いだからこっちに来て、ソーニャ」
「怖がる事なんて何もないんだよ。私達はいつでもあなたの味方なんだから」
エイダとティニは心から問い掛ける。だが無情にもソーニャの表情に変化は無い。いや、それでも二人は僅かな少女の反応を見逃さなかった。彼女達はソーニャの瞳に微かな光が戻った事に気付いたのだ。
エイダとティニは懸命に訴えかける。もう少し。もう少しで少女は帰って来てくれると信じて。すると想いが通じたのか、ソーニャはその訴えに応えるよう、か細い声を絞り出して言ったのだった。
「お、お姉ちゃん達……」
ソーニャの目から涙が零れ落ちる。無表情である事に変わりはないが、確かに温かい涙が流れ出た。しかしそんな哀しげな表情を見たエイダとティニは、なぜか動く事が出来なかった。胸がきつく締め付けられ、息が出来なかったのだ。ただそんな二人に向かって少女は小さく呟いた。
「優しくしてくれて、ありがとう。でもゴメンね。私、もうダメみたい――」
「な、何を言ってるのソーニャ!」
「ごめんなさい」
そう告げたソーニャの体が一瞬ふらつく。まずい、落ちるぞ。そう思ったエイダとティニは反射的に少女に向かって踏み出す。だがその時だった。
「ビギィー!」
頭を内側から強く叩かれたかの様な激しい衝撃が走る。何処からともなく発せられた超音波振動による衝撃だ。エイダとティニは堪らずに耳を塞いで膝をつく。だがそれでも彼女達は諦めなかった。
ふらつく足を前に踏み出す。脳震盪でも起きたのか。視界が揺れているため思うように体が動かない。それでも彼女らは少女に向かって進む。するとそんな二人の行動を見計らったかの様に、一発の銃声が周囲に響いた。
「バン!」
少女の体が後方にゆっくりと傾く。その右太ももには小さな注射器の様な物体が突き刺さっていた。
「狙撃成功。ティニはそのままソーニャを取り押さえるき! エイダは王子だが!」
装着したイヤホンよりリュザックの指示が飛ぶ。そして二人の隊士は指示されたそれぞれの対象に向かって掴み掛かった。
ティニが目にも止まら素早さでソーニャの体を抑え込む。だがそれよりも僅かに早く、王子の体は力の抜けたソーニャの肩から滑り落ちた。
意識の無い王子の体は為す術無く転落する。そんな王子にエイダは無謀にも飛び掛かった。自らもまた、屋上より身を投げ出して。
「危ないエイダ! えっ!?」
命を顧みないエイダの行動にティニが叫ぶ。だがその瞬間に彼女は目を丸くした。なんと屋上から身を投げ出したエイダのズボンをソーニャが掴み取り、それを力任せに引き上げたのだ。
「ズザザッ」
エイダの体が屋上に転がる。だがそれと同時に彼女は叫んだ。
「リュザックさん!」
「バリーン!」
駅の5階にある窓ガラスが突き破られ、そこからリュザックが姿を現した。そして彼は転落する王子の体をガッチリと抱きかかえる。
「グォッ」
腰に巻きつけたロープが腹に食い込む。その息苦しさは尋常ではない。それでも彼は王子の体を抱えたまま、強がって吐き出した。
「ふぃ~。間一髪だったきね。しっかし王子を抱きかかえるなんて、冗談としか思えんがよ。これがアニェージちゃんだったら、どんなに気持ち良かった事か」
やれやれ。息の詰まる状況ではあったものの、王子とソーニャの身柄を無事確保出来たとリュザックは胸を撫で下ろす。がしかし、そこにマイヤーからの懐疑的な叫びが向けられた。
「ちょっとリュザックさん。あんた【何】を必死に抱えてんだ。良く見ろ、そいつはただの【小麦袋】だぞ!」
「なにっ?」
リュザックはギョッと目を見開き息を飲む。そう、彼が命懸けで抱えているのは、マイヤーが言う通りの小麦の入った麻袋だったのだ。
「バババババッ!」
突如として頭上より爆音が響く。またそれと同じくして激しい突風が吹き荒れた。
「な、何事だが!」
小麦袋を投げ捨てたリュザックが上空を見上げる。するとそこには大型の軍用ヘリが一機ホバリングをしていた。
「突然出現した? いや違う、この距離まで気付かなかったんだき。でもなんでぞね?」
目の前の状況が読み込めないリュザックは混迷する一歩手前だ。だがこの場所がグリーヴスである事を思い出した彼はハッと思い出した。
「し、しまったき。こいつは気付かなかったんじゃない、騙されたんじゃ! クソっ、こいつはパーシヴァルの【ミクロ幻想榴弾】だがね!」
突風で舞い飛ぶ埃の影響で目を開けていられない。それでも彼は上空に浮くヘリを凝視した。
忸怩たる悔しさが溢れて来る。でもこのヘリは確かにアダムズ軍のもの。それがどうしてパーシヴァルの兵器を使い、こんなにも手の込んだ搦め手を使うのか――。
リュザックは眉をひそめて考え込む。不自然極まりない状況に彼は訝しさを感じて仕方ないのだ。そしてそれをライフルのスコープ越しに見つめるマイヤーもまた、苦虫を噛み潰した後味の悪さを感じていた。だが次の瞬間、マイヤーはライフルの引き金を絞る。絶対に逃がしはしない。出し抜かれた悔しさを晴らすかのように、彼は執念を込めた強弾を発射した。
「ガコッ!」
マイヤーの発した弾丸は見事ヘリの腹部に食い込む。それは追跡を目的とするためのGPS弾であった。だがそこでマイヤーの背中が一気に泡立つ。彼はスコープ越しに確認したのだ。ヘリに乗っていたのが、アダムズ軍のNo.2である【トウェイン将軍】で間違いないと。そしてその隣では、意識の無い王子を抱えたソーニャの姿があった。
「ギュィィィーン」
急速に出力を上げたヘリは、大きなエンジン音を轟かせて高度を上げる。そしてそのヘリは、まるでリュザックやマイヤー達を嘲笑うかの様に、西の空へと飛び立って行った。