#06 霞色の神話(後)
天地開闢の三柱。それはアダムズ王国に古くから伝わる神話やルーゼニア教の教えにて、共通に綴られている神の事である。
それらは至高の神と呼ばれる【絶対神ソクラテス】と、その弟で征服や統治の神と呼ばれる【想起神プレイトン】、そして生産の神である【女神ヒュパティア】の三人を示唆するものであり、また絶対神ソクラテスと女神ヒュパティアは夫婦として天界で共に暮らしていた。
天界に暮らす二神とは異なり、想起神プレイトンは一人で大地に暮らしていた。しかしその時大地はまだ現在のような型を留めてはおらず、混沌とした泥沼の様な状態であった。
大地に暮らすプレイトンは、今後この地をどうしていくか悩んでいた。そしてある日の事。プレイトンはそれを相談するために、天界に暮らすソクラテスとヒュパティアを大地にへと呼び寄せたのだ。ところがプレイトンは、大地に降り立ったソクラテスの首を絞めて殺してしまう。プレイトンは兄の妻であるヒュパティアに対し、密かに想いを募らせていたのだ。そして兄を殺したプレイトンは、ヒュパティアに対し自分の妻となるよう言い寄ったのだった。しかしヒュパティアがそんなプレイトンの想いに応じるはずもなく、女神は亡き夫であるソクラテスの屍を胸に泣き崩れるしかなかった。
ヒュパティアはその後六日間泣き続ける。そして流れ出た女神の涙は大地を覆い、やがてそれは海になった。
大いに泣いたヒュパティアの涙はついに枯れ果てる。ただ最後に左目から三粒、右目から五粒の七色に輝く涙が女神の瞳から零れ落ちたのだ。その涙はソクラテスの亡骸の上に落ちる。すると涙から新しい神々が次々と生まれ出したのだった。
左目から流れ落ちた涙はそれぞれ【銀の鷲】【黒き獅子】【紫の竜】の姿をした神となり【燦貴神】と呼ばれた。
右目から流れ落ちた涙はまた【狼の頭を持つ修羅】【鴉の羽を持つ夜叉】【白面金毛九尾の狐】【一角尾蛇の虎】そして【星の弓を持つ熊】の姿をした神となり【護貴神】と呼ばれた。
燦貴神は攻撃神となり、プレイトンと激しい戦いを繰り広げ始める。護貴神は守護神として女神を守った。
プレイトンはヒュパティアに想いが届かないことを酷く嘆いたが、燦貴神に対抗するため仕方なく三体の巨人の神を生み出した。そして天地を揺るがす凄まじい戦いが始まったのだ。
その後百年にも及び戦いは続いたが、それでも決着は着かなかった。
このままでは、いつまでたっても戦いが終わらないと感じたヒュパティアは、ついに自らプレイトンに立ち向かう決意をする。覚悟を決めた女神は別れを告げる為、亡骸であるソクラテスの鼻に優しく口づけをした。すると突然ソクラテスの体が眩いまでの光を放ち、巨大な剣へと姿を変えたのだ。その剣は大神剣【素盞王】と呼ばれ、ヒュパティアはその大神剣でプレイトンを打ち倒した。
しかしそれで戦いは終わらなかった。プレイトンが死んだことで、その統制下にあった三体の巨神が暴走を始めてしまったのだ。
そんな巨神の暴走を食い止める為、燦貴神は決死の攻撃に出る。そして激闘の末に、燦貴神は力の弱った巨神を食い殺したのだ。そして百年ぶりに大地は平静を取り戻した――かの様に思われた。
だが今度は巨神を倒したはずの燦貴神が暴走を始め出す。なんと燦貴神は喰い殺したはずの巨神に、心と体を支配されてしまったのだ。
ヒュパティアは絶望に近い感情を胸に嘆く。それでも女神は護貴神にその身を守らせつつ、天に向け祈りを捧げた。すると天高く輝く太陽より三本の【光の矢】が放たれ、暴走する燦貴神を打ち抜いたのだ。光の矢に体を打ち抜かれた燦貴神はその姿を【鏡】の形に変え、神の力は封印された。
天と地は今度こそ本当に百年ぶりの平穏を取り戻す。ただヒュパティアは自身を守らせいた護貴神についても、いつ暴走するか分からないと考え思い悩む。そして女神はその憂いを吐き出すかの様にして、天に向け歌を歌った。すると今度は夜空に輝く月より五本の光の矢が降り注ぎ、護貴神の体を打ち抜いたのだ。月から放たれた光の矢にその身を貫かれた護貴神は、その姿を【勾玉】の形に変えた。そして燦貴神と同様に神の力は封印されたのだった。
その後燦貴神の封印された鏡は【天照の鏡】と呼ばれ、また護貴神の封印された勾玉は【月読の勾玉】と呼ばれた。
ヒュパティアは大地にある最も高い山の頂に神殿を建てると、そこに天照の鏡と月読の勾玉、それに大神剣素盞王を祀る。女神は天と地の中間点であるこの場所に、戦いの記憶をいつまでも留めて置こうと決めたのだ。
やがてヒュパティアの流した涙から出来た海より、人間を含む様々な生命が誕生する。するとヒュパティアはそんな生まれたばかりの人間に対し、自ら体験した苦しみ、悲しみ、憎しみの感情を抱かせたくないと考え、愛・勤・節の【心の三区分】の教えを唱えたのだった。
『人の心には愛情・勤勉・節制があり、その調和を図ることで苦しみ、悲しみ、憎しみの感情を抑えることが出来るのです。自分や他人に対し愛情を育み、自分に課せられた仕事に一生懸命励みなさい。決して他人を侵害してはなりません。その想いを胸に皆が調和を図れば、世界の平和は永遠のものとなるでしょう』
これが王国に伝わる神話の概要であり、またこの教えの流れを組むのがルーゼニア教であって、この国の礎と呼べるものであった。
「神話にもあるように、女神ヒュパティアの流した涙から生まれた神々は、人よりもむしろ獣の姿に近いのじゃ。それゆえにワシはヤツのことを考えると、人外の悪魔というよりも、本当は人間よりも【神聖な血筋の持ち主】なんじゃないかと思えてしまうのじゃよ」
グラム博士は哀愁を感じさせる眼差しで話す。それに対してジュールは思い浮かんだ疑問を口にした。
「最後に神々の力を封印した鏡と勾玉、それと大神剣はどうなったんですか?」
「神殿に雷が落ち飛び散ったとか、盗賊によって持ち出されたなど所説あるんじゃが、世界の各地に散らばってしまったのだと神話やルーゼニア教では語っておる。じゃがこれもお伽噺の範囲であって、実物を見たものはおらん」
「そうですか……」
「どうした、何か気になる事でもあったのか?」
ジュールは神々の力が封印されたとされる、神器の事が気になって仕方なかった。特に月読の勾玉のと呼ばれる神器の事が。
ヤツが口にした【ツクヨミノ胤裔】という言葉と、神話に出てくる【月読の勾玉】という神器。そして博士の言った【神聖な血筋の持ち主】という言葉。ジュールにはそれらが繋がっているように思えて仕方なかったのだ。そしてジュールは無意識にも、ヤツが最後に口にした言葉を博士に向け口走る。
「グラム博士。【ツクヨミノカナデ】って、ご存知ですか?」
その質問に博士は少し驚きの表情を見せる。それでも博士は穏やかなままジュールに告げた。
「ほう、お前も少しは神話を知っているようじゃな。それらの神器には話の続きがあってな。【ツクヨミノカナデ】とは【月読の奏】のことで、月読の勾玉に封印された神の力を解き放つものじゃとされておる。言い伝えでは勾玉と同じ大きさの胎児を宿す妊婦が、満月の光を浴びて光輝く月読の勾玉を見ると、その胎児に神の力が宿ると言われておるのじゃ。月読の奏が具体的にどういったものなのかは不明なのじゃが、神の力が宿った者がそれを【感じる】と、その者は封印されし神の力を自由に使うことが出来るらしい」
「【感じる】っていうのはどうゆう事ですか?」
「それは分からん。神話にもルーゼニアの教えにも【感じる】という表現しか伝えられていないからのう」
「結局は伝説の中の話というわけか……」
少しは何か手がかりが得られるかと期待したジュールであったが、曖昧さの残る後味の悪さだけを感じ気持ちを萎えさせた。それでも彼は神話の中に、自分が無意識の内に追い求めている【何か】があるのではないかと思わずにはいられなかった。
「ずいぶんと辛気臭い話になってしまったのう。話を戻そう。ワシがお前をこの研究室に呼んだのは、新しい玉の作り方を記したノートをヘルムホルツに手渡すよう頼むこと。そしてもう一つ」
グラム博士は厳重なセキュリティが施された、金庫のような鋼鉄の箱のカギを開ける。そしてその中から頑丈そうなブリーフケースを取り出すと、それを開いてジュールに見せた。その中には彼の見た事のない色をした玉型兵器が複数収められている。博士はその中の一つを手にすると、それをジュールに向け掲げながら告げた。
「ワシが現在開発しておる四種類の玉じゃ。この中の二種類についてはすでに完成しておる。一つは発動させるのに条件付きじゃがほぼ完成。残り一つはあと少しといったところかのう」
グラム博士は手にしていた一つの玉をジュールにへと手渡す。彼は手渡された玉を興味深く見つめながら思った。それらは大きさこそ先にグラム博士より見せられた最新の玉型兵器と違わないものの、見た目の印象からそれらとはまったく違った不思議な雰囲気を感じてならない。ジュールが目にするそれらの玉は【白い玉】が七つ、【桃色】と【銀色】の玉がそれぞれ五つ、そして【金色】の玉が一つであった。
「それらの玉はお前が持っておれ、ジュール。そして時が来るまで大切に閉まっておくのじゃ」
そう言うなり、博士はブリーフケースを半ば無理やりジュールに押し付けた。ただそれに対してジュールは戸惑いながら反発する。
「そんな大切な玉なら、ご自分で持っていればいいじゃないですか。何か責任を押し付けられてるみたいで嫌ですよ、俺」
「ワシは時機にルヴェリエを離れる。この研究室も処分し、ワシの痕跡を跡形もなく消すつもりじゃ。じゃがせっかく作ったその玉を捨てるわけにもいかんし、それにワシが持っていたとしても、いつ協会の者や警察部隊に連行されるかわからんからのう。最近は協会の目を撒くのがしんどくてな。なるべく身軽でいたいんじゃよ」
「ですが博士……」
ジュールは少し嫌な予感がした。博士の身に何か悪い事が起きるのではないか。博士とはもう二度と会えないのではないか。彼の脳裏にそんな懐疑的な心許無さが溢れ返って来たのだ。ただそんな彼の懸念に対し、グラム博士は温かみのある声で語り掛ける。きっと博士は困惑するジュールの気持ちを察したのであろう。博士は彼の肩に手を置いて優しく告げた。
「ジュールよ。ワシら科学者は万物において、何かと理屈を付けたがり、また根拠を求めるものなのじゃ。では何故そうするのか。それは安定を図るためなのじゃよ。現実世界における全ての物理現象は、何かしらの理論や法則の元に成り立っておる。その理論ないし法則を導き出す事が、言い方を変えると安定を図ることになるのじゃ。そして安定を図ると安心する。この安心感を達成感と感じる者も多いが、それはある意味同一であって、ワシら科学者はその安心感を常に追求しているのじゃよ。一度その感覚を味わうと、麻薬の様にその感覚に魅了されてしまうからな。するとまた別の安心感を求め、まだ安定していない不安定要素を探し始める。そうして次々と新しい理論を導き出し、それが結果として科学の進歩となり今に繋がっておるのじゃ。結局のところ、科学者なんて単純な生き物なんじゃよ。じゃがな、これは決して科学者だけに言えることではなく、一般の者達にも言える事なのじゃ。この世の中にはまだまだ原因不明な事象や、想像を絶する現象が多々存在しおる。そういった意味不明な、言わゆる不安定要素に人々は不安や恐怖を感じてしまうのじゃ。そして常に不安や恐怖と隣り合わせの環境の中で生きて行くために、人々は無意識の内に心の安定を図っておる。その一例こそが、まさに宗教なのじゃよ。人々は原因不明な不安定要素を無理やり安定させるため、逆に【神】という不確定要素を祀り上げてバランスを図っておる。それが心の安定に繋がり、そこから感じる安心感が、信仰という形になっておるのじゃ」
「……」
「ワシも若い頃は、その安心感という麻薬に取りつかれてのう。誰も解き明かせなんだ難問があれば、我先にとその問いにのめり込み、その解を導き出しては安心感と達成感を味わった。そして難しい問題を解明すればするほど、周囲からも称賛され、心地よい気持ちになっていったのじゃ。さして歳の変わらん【世界最高の天才】と謳われるラジアン博士に負けんと、周りが見えぬほど夢中になって研究に没頭した。そしていつしか周囲はワシの事を【世界最高の鬼才】と呼んでおった。有頂天じゃったよ。グラム博士ならどんな物もすぐに現実の物にしてしまうと煽てられたからのう。それを真に受けたワシは様々な開発を行った。ワシの生み出した物は世の為になると疑わず、望まれた物を次々に形に変えたのじゃ。じゃが気が付けば、ワシの生み出した発明品は、その用途を応用され、殺人兵器として軍の武器に姿を変えておった――――。ワシの発明した物が、多くの人命を奪っていく。いつしかそう思うようになったワシは、何も考えられなくなってしまった。心が完全に折れてしまったんじゃ。すると人というのは冷たい生き物でな。ワシが役立たずになってしまったと分かると、周囲の人間はワシにまったく目を向けなくなりおった。寂しいモンじゃよ。じゃがそれ以上にワシは自分自身に絶望を抱き、その存在意義を見失ってしまった。またそうなる事で極度の人間不信にも陥り、自暴自棄になってしまったのじゃ。人の心はどう足掻いても解き明かす事なんて出来やせんからな。意味の分からない不安と焦りで、ワシは完全に自分を見失ってしまったのじゃよ。そしてワシが決意したのは、自らの【死】だったのじゃ」
「博士……」
「じゃがワシは小心者でな。あまりの怖さに自殺する事が出来なかった。ゆえにワシは誰かに殺めてほしと願い、このスラムへと足を向けたのじゃ。それは今日のように雪の降っておる寒い日でのう。長い時間スラム中を歩き回ったのじゃが、しかし運の悪い事に極度の寒さのせいか、人っ子一人おらんでのう。なかなか望みを叶える事は出来なかった。そんなワシは歩くのにも疲れてしまってな。ならばどこかで休み、そのまま凍死するのも良いかと思ったのじゃ。じゃがその時、どこからともなく赤子の泣く声が聞こえてのう。気が付けばワシはその泣き声のする方に足を向けていた。そしてワシは真冬の空の下、泣き叫ぶ一人の赤子を見つけたのじゃ。その赤子は小汚いドブ川に掛かる橋の下に捨てられておってのう。どうしてこんな場所に捨てられているのか。スラムという場所だけに、あまりそれは気にならなかった。ただ極寒の中、死ぬ事以外に未来の無いその赤子が不憫に思えてな。じゃからひと思いに楽にしてあげようと、ワシは懐に持ち合わせておった短刀を取り出し、それを赤子に向けたのじゃ。今思えば、なんてバカげた事をするんだと冷静に考えられるが、その時のワシは完全にどうかしておったからな。じゃが次の瞬間、ワシは息を飲む程に驚愕したのじゃ。いや、熱い何かに胸を打たれた。そんな衝撃を心が感じたんじゃよ。なぜなら短刀を振り上げたワシに向かい、何とその赤子は微笑みよってな。まさか自分を殺そうとしている相手に対し感謝している様な、少なくともその時のワシにはそう思えたのじゃ。結局ワシはそんな赤子に短刀を突き付ける事が出来なかった。孤独感に苛まれ無力な自分に打ちひしがれた結果、ワシは自分勝手に命を絶とうと決意した。じゃがそんなワシよりも遥かに孤独で無力なその赤子は、無垢な微笑みをワシに差し向けたのじゃよ。そしてその笑顔はワシにそれまで感じた事の無い安心感を抱かせてくれた。またその安心感は、今までワシが感じたどの安心感よりも心地良く、格別に温かいものじゃった。そうなると、今まで死のうとしていたことが急にバカバカしく思えてのう。ワシは思い直し、生きる事を心に留めた。そしてこの先の人生を生きる糧として、この赤子をワシの子として育てようと決めたのじゃ。そう、その赤子こそが【ジュール】、お前なのじゃよ」
グラム博士は今まで胸の内に仕舞っていたジュールを育てた理由を初めて語った。その想いにはとても温かい愛情が込められている。きっと博士にとって、ジュールという存在は、何物にも代えられない大切な宝の様なものなのだろう。そしてそれを直に感じ取ったジュールは、嬉しさを覚えずにはいられなかった。
当然の事ながら、ジュールは博士が自分にとって実の父親でない事は知っている。それでも彼は博士の事を良き父と思い、また偉大な科学者なんだと信じて疑わなかった。そして何より博士は強い人なのだと思っていたのだ。そんな博士が意外な弱さをさらけ出し、かつ大きな挫折を味わっていた事を知った。ジュールはそんな博士の心情に少し驚きもしたが、それでも彼の心に浸透したのは博士への変わらぬ親しみだけであった。ジュールは博士を柔和に見つめている。そんな彼に対し、博士も変わらぬ温かい表情で続けた。
「もちろん独身だったワシは、子育てなど経験が無い。何をするにも苦労が絶えなかった。ワシは科学者であるがゆえに、お前が泣き止まないと何故泣くのか、どうしてもその原因を探ってしまったものじゃった。じゃが赤子に理屈なんて無かったんじゃよ。時間はかかってしもうたが、共に泣き、共に笑う。そうしてただ親の愛情を注ぎ続ければ良いのじゃとワシは気付いた。温かく見守りながら、子供の成長を身近に感じる。そんなありふれた感覚が、掛け替えの無いものなのだと知ったのじゃ。そしてそんな温かい愛情が、科学の追及しかして来なかったワシを、ずいぶんと人間らしく変えてくれた。全てを科学の力で解き明かすことが出来ると信じていたワシの考えが、いかにちっぽけなものだということを、お前は教えてくれたのじゃ。全てを型に収めることは、とても安定しているようにも思える。じゃが実は無理やり全てを型に収める事のほうが歪んでいるのであって、実際そんなことは不可能なのじゃ。大切なのは、全てをありのまま受け入れる事なのじゃよ」
優しく語る博士の言葉の一つ一つから、ジュールは自分に対する博士の愛情の深さを感じ取る。そしてジュール自身もまた、博士に対する敬意と感謝の気持ちを正直に伝えた。
「グラム博士が俺の本当の父親でない事は物心ついた時から知っています。それでも俺にとって、博士はこの世で最も尊敬する人であり、唯一の【家族】なんです。博士には俺をここまで育ててくれて、本当に感謝してますよ」
ジュールは少し顔を赤らめてそう告げた。面と向かって感謝の言葉を述べた事に気恥ずかしさを感じているのだろう。ただそれと同様にして博士も顔を赤く染めていた。博士にしても、その想いは同義だったのであろう。
「嬉しいことを言うてくれるのう。ただ一つだけ、スマンと思うておる事がある。それはお前に母親の愛情を教えてあげる事が出来なかったということじゃ。どうもワシは奥手でのう。女子が苦手なのじゃ」
「俺には博士のような【父親】がいてくれただけで、それだけで十分過ぎます。そんな事、気にしないでください」
「歳を取ると涙もろくなっていかん。次は涙を堪える薬でも発明しようかのう」
そう言って博士は流れ出た涙を拭った。そんな博士の姿を見てジュールは思う。ヘルツもそうだし、グラム博士にしてもその心の中に俺っていう存在をとても大事にしてくれている。その気持ちにジュールは嬉しさを噛みしめると共に、心から感謝の想いを浮かべた。そして自分が思っている以上に周囲の者達から大切にされているのだと、彼は改めて実感したのだった。
「ところでジュール。ファラデーはお前に何か言うちょったか?」
何か思い出したのか。グラム博士は急に話題を変えてジュールに問う。そんな博士の視線の先には、写真に写るファラデーの笑顔があった。
「隊長が俺にですか? 個人的には特に何も言われてませんが……」
博士からの急な問い掛けにジュールはあの日の記憶を辿る。そしてジュールはあの月夜の戦場で、ファラデーが小隊に出した指示について思い出した。
「そう言えば、あの日のファラデー隊長の読みは冴えていました。ヤツがルヴェリエの中心街に突然現れ、俺達にその追撃命令が下った時、他の小隊はいつも通り電子兵器を主体とした装備を整えていました。でも俺達の小隊だけは隊長の指示で、刀や火薬の銃、それに博士の開発した玉型兵器を装備して現場に向かったんです。さらに隊長の指示の下、俺達の隊は密集隊形で作戦を遂行しました。ヤツとの戦闘が始まると、どういうわけか電子兵器が機能せず、またインカムなどの無線も使用出来なくなって――。その結果、それら電子兵器を主体としていた俺達以外の小隊は、成す術無く次々とヤツにやられていきました。逆に俺たちは密集隊形であったことで、ヤツからの攻撃をそれぞれが援護することが出来た。また装備していた武器も問題なく使えた事で、最終的にヤツを倒せたんです。でもどうしてあの日に限って、ファラデー隊長はあんな指示を出したのか。確かに今になって考えれば、少し気掛かりなところもありますね。だけどそのお蔭で俺達は今、こうして生きていられるんです。それだけは覆せない事実ですね」
「本当に、お前個人に何か言ったりはしなかったのじゃな」
先程までの穏やかな表情とは違い、博士は鋭い口調でジュールに尋ねる。ジュールはそんな博士に少し圧倒されたが、それでも博士に対して自身に刻まれた苦い記憶を正直に語った。
「……ヤツが隊長の体をその太い腕で貫いた時、俺に向かって何か言っていた様な気もします。ですがあの時は俺自身気が動転していて、よく覚えていないんですよね。その後すぐ隊長は首を撥ねられて――――。何か気になる事でもあるのですか?」
「いや、何もないなら良いのじゃて」
どこか煮え切らない態度を示す博士。そしてその姿にジュールは疑問を感じた。博士は俺に何か隠している事があるのではないか。直感としてそう疑念を抱いたのだ。しかし彼はあえてそれを博士に問い質しはしなかった。今は言えない理由がある。ジュールはそう博士を思い遣ったのだ。
「そろそろ帰ります。でもルヴェリエを発つ前に、もう一度会えますよね」
ジュールは根拠のない不安を打ち消すかの様にして博士に尋ねる。すると博士はそんな彼に柔和な姿勢で応えた。
「そうじゃな。ここを離れると、しばらく会えんからのう。その前に都合をつけて連絡するから待っておれ。それにしても駅で偶然にも今日、お前に会えたことを嬉しく思うぞ。この奇跡とも言うべき偶然もまた、科学の理の外側じゃな。まさに全ては有限なる無限の三角形にして成立するものなり――だのう」
そう言ってグラム博士はにっこりと微笑む。そんな博士の笑顔につられたのか、ジュールもまた同様に笑顔を見せた。
「久しぶりに博士のその意味不明な口癖を聞きましたね。相変わらず俺にはさっぱりですよ。でも思い掛けなく博士に会えた事を俺も嬉しく思っています。ノートの件は確実にヘルムホルツに届けますので心配しないで下さい。それじゃ、連絡お待ちしています。寒いですから、体調に気を付けて下さいよ。もう歳なんだから」
「お前も元気でな、ジュール。【アメリア】にも、よろしく伝えてくれよ」
ジュールが崩れかけたビルを出ると、そこは一面の雪景色に変わっていた。そんな真っ白に降り積もる雪は、まるで人々から卑しめられるこのスラムの街を覆い隠すかの様にも見える。その冷たさを例えるならば、人の心までも凍てつけさせるほどだと言えるだろう。
ジュールはそんな冷え込みの厳しい白銀の世界の中で一人立ち止まる。そして彼は何となく後ろめたさを感じ、博士の研究室があるビルの四階部分を振り返って見た。
「……考え過ぎか」
ジュールはそう呟くと、まだ誰も歩いていない雪の積もった道に足跡だけを残しながら、家路にへとついて行った。
ジュールから博士のいるビルが見えなくなった頃、そのビルを取り囲む複数の黒い影が音もなく現れる。その黒い影は全員が揃いの黒い制服を身に着けており、そしてその中にはジュールの盟友であるはずの、テスラの姿も含まれていた。




