#68 残花の失墜(後)
息を切らせたアメリアが暗い森の中を懸命に逃げる。だがその後方からは、悪意を剥き出しにした黒い人影がグングンと迫っていた。
もう彼女と人影の距離は目と鼻の先だ。状況から考えれば逃げる事は不可能としか思えない。それでもジュールは堪らずに声を張り上げた。
「逃げるんだアメリア! もう少しだから諦めるな!」
ジュールはアメリアに向かって必死に叫ぶ。しかし彼女にその声は届かない。無我夢中で逃げているからなのか。それとも森の木々が彼の声すらも遮ってしまったからなのか。――でも何かが違う。この違和感は一体何なんだ。そう感じるジュールの背中に尋常でない悪寒が通り抜ける。そして次の瞬間、彼の視界は真っ赤に染まった。
それは紛れもない鮮血だ。全身にそれを浴びたジュールは、その生温かさと臭いからそれを確信する。でもその鮮血がアメリアのものだとは言い切れない。早く確認したい彼は、目を擦りなんとか視界を回復させようと試みた。ただそこで彼は何かを握っている自分に気付き動きを止めた。
いつから握りしめていたのだろうか。まだ視界の戻らない状態なれど、それが硬い棒の様なものである事は分かる。それも少し重たいことから、何かしらの金属で出来た物なのは確かだ。ただ彼がそう考えたと同時に、突如として視界が戻る。するとジュールは自らが手にしていた【それ】を見て息を飲んだ。
「!」
それは大ぶりな鉈であった。なぜ彼がそんな物を持っていたのかは分からない。しかし現状として、それは真っ赤な血で染まっていた。
「う、嘘だ。こんなバカな事、信じられるわけがない……」
恐怖に慄いたジュールは後退する。震え出した彼の奥歯は噛み合うことを許さない。そしてついに彼は尻もちをついてしまった。もう彼は竦み上がる以外に何も出来なかったのだ。だって彼の目の前に横たわっているのは紛れもないアメリアの姿であり、それは彼の持つ鉈によって深く傷付けられていたのだから。
「ど、どうしてこんな酷い事をするの、ジュール。私は誰よりもあなたを大切に想っているのに。それなのに、どうして――」
瀕死のアメリアが口を開く。ただ彼女の目は虚ろであり、その顔色は紫色に変色していた。鉈による一撃を頭部に受けたことで、顔全体が鬱血しているのだろう。だが次に彼女は思いも寄らぬ行動に出る。瀕死の重傷を負っているはずなのに、アメリアは上体を起こし始めたのだ。そしてついに立ち上がった彼女はジュールに向かって歩み始める。額より流れ出る大量の出血を無視しながら、アメリアは一歩一歩ジュールに近づいた。
そんな彼女を前にしたジュールは尻込みしながら後退する。だが彼は大木に行く手を遮られて動きを止めた。
「どうして私から逃げるの? 追って来たのはあなたの方じゃない」
「違う。俺はそんな事してない。絶対にするもんか」
「こんな酷い事までして、まだ言い訳するつもりなの。往生際が悪過ぎるよ、ジュール。結局あなたは人を喰らう化け物なのよ。だから平気で私を手に掛けたのよ!」
「違う! そんなの有り得ない。俺がアメリアに危害を加えるなんて、絶対に」
「今の私を見て絶対に無いって言い切れるの? 正直になりなさいジュール。これはね、あなたの深層に根付く願望なのよ。あなたはただ、目の前にあるものをメチャクチャにしたいだけ」
「嘘だ。そんなの嘘だ!」
「本当よ。でももしあなたがそれをあくまで否定すると言うのならば、残念だけど仕方ないね。私の手で、あなたを殺してあげる」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。頼むから」
「もう時間切れよ。あなたは誰にも必要とされていない。だから死んで――」
そう冷たく言い放ったアメリアの瞳が怪しく光る。するとどうした事か。彼女の体がみるみると肥大化していった。そして身に付けていた衣服を切り裂いて現れたその体は、真っ黒い体毛で覆われていた。
「そ、そんな……」
ジュールはアメリアの変貌した姿に愕然と肩を落とす。目の前で発生した信じ難い光景に彼の心は完全に折れてしまったのだ。涙を流しながら縮こまっているジュールの体にはもう力は入っていない。そしてそんな彼に向かい【ヤツ】となったアメリアは獰猛な爪を露わにした。
「やめてくれ。お願いだからやめてくれアメリア」
暗闇に包まれた森の中でその爪は怪しく光る。またそれにも増してヤツの右目は青白く輝いていた。ジュールは眩しさを嫌がる様に手の平で目を覆う。いや、彼は醜い怪物と化したアメリアから目を背けたかったのだ。だがそんなジュールにヤツは猛然と襲い掛かった。血に飢えた獣同然に、ヤツは彼の心臓目掛けてその鋭い爪を突き出したのだ。
「やめろーっ!」
「しっかりしないかジュール! おい、正気に戻れジュール!」
「!?」
ジュールは呆然としていた。一体何が起きていたのか。彼にはそれが理解出来ず、放心状態のまま目を丸くした。それでも彼は目の前にいる者達が誰なのかを把握する。それは肩を揺すりながら自分の名を呼ぶアニェージと、その後ろで心配そうな視線を投げ掛けるヘルムホルツであった。
「アニェージ、それにヘルムホルツも。……なぁお前ら、ここは何処だよ?」
まだ混乱しているのか。ジュールは二人に向けて筋違いな質問を呟く。するとそんな彼の質問に呆れながらも、アニェージは丁寧に答えたのだった。
「ここはオフィスビルの最上階にある社長室だよ。地下フロアだと端末の電波が届かないから、お前が移動したいって頼んだんだろ。どうだ、思い出したか?」
アニェージはジュールの肩に手を添えたまま優しく告げた。ここ数日間、ジュールは真面に寝ていない。そんな状態の中で舞い込んで来たアイザック総司令殺害のニュース。彼が取り乱すのは無理もない。アニェージはそう察したのだ。そしてそんな彼女の言葉にジュールはようやく正気を取り戻す。彼はホッと安心した顔つきで囁いたのだった。
「俺はいつの間にか寝ていたのか。でも良かった。あれは夢だったんだな」
蒼白だったジュールの顔色が急速に回復していく。後味の悪い結末ではあったが、それでも彼はあれが夢であった事に胸を撫で降ろしたのだ。ただそれでも彼は心の中に、どこか悶々とした蟠りを残していた。僅か十数分の間に二度も同じ夢を見たからなのか。いや、違う。ジュールはあれがただの夢だなんて思えなかったのだ。しかしそれは根拠のない彼の直感である。ジュールは歯痒さを覚えながら現実に気持ちを切り替えるしかなかった。ただそんな彼に向かいヘルムホルツが重い口を開く。彼は初めて見る動揺を隠せないジュールの姿に気を揉んだが、それでも彼には告げなければならない役目があったのだ。
「お前、どんな夢見てたんだよ。取り乱すにも程があるぞ。でももう目は覚めたよな。現実は夢よりも厳しい状況になってるから、しっかりしてくれないと困るぜ」
「悪かったよヘルムホルツ。もう大丈夫だから心配はいらないよ。それにマイヤーから一報を受けたから、少しは現状を理解しているつもりさ。笑えない冗談だけど、なぜか俺が総司令殺害の容疑者になってるらしいね」
「なんだ、そこまで知ってんのか。ならどう告げようか悩んだ俺の時間は無駄だったってわけかよ。でもまぁそれはいいや。話す手間が省けて良かった」
「悪いな、気を遣わせちまって」
「もうそれはいいよ。それよりすぐに地下へ移動するぞ。あそこは外部を完全に遮断した場所だからね。一先ず身を隠し、状況を整理しよう」
ヘルムホルツの言う通り、とりあえずは地下フロアで待機した方が身の為だろう。それにマイヤーが王子に話しを通せば自分の容疑は全て晴れる。その僅かな時間をやり過ごせさえすればいいだけなのだ。ジュールは自分自身にそう言い聞かせながら重い腰を上げる。そして彼らは地下フロアへ向かおうと足を進めた。ただそれと同時に悲痛な表情を浮かべたシュレーディンガーが部屋の扉を開ける。勢いよく社長室に入って来た彼は、アイザックの死という深刻な事態に焦燥感を露わにしていた。
酷く混乱しているのか。まったく落ち着きのないシュレーディンガーは、ブツブツと独り言を吐き出しながら部屋の中を歩き回っている。きっと彼にとって、アイザックの死は極めてショッキングな事態なのだろう。だがそれにしても狼狽え過ぎである。するとそんな社長の見苦しい姿に業を煮やしたアニェージが、鋭い視線を向けながらシュレーディンガーに自制を促した。
「どうしたんです社長、らしくないですよ。仕事だったらどんな窮地だって平素でいられるじゃないですか。確かにアイザック総司令の死は驚嘆する事態ですが、でも今直ぐここが危険になるってわけじゃない。しっかりして下さいよ」
恐らくアニェージはこんなにも冷静さを失ったシュレーディンガーを見た事がないのだろう。それに上司の不安な態度はそれを見る部下の士気に著しく響くものである。それを危惧したからこそ、彼女はシュレーディンガーに意見したのだ。ただそんなアニェージェに対し、シュレーディンガーは手の平を向ける。それは少し黙っていろという制止の合図であり、彼は皆に向き直って話しを始めた。
「ついさっきだけど、ストークス君から連絡があったよ。どうやらアイザック殺害の下手人として、ジュール君が指名手配されるそうだ。警察内部にいる情報提供者からの報告も同じだったから、間違いはないだろう」
「その話ならマイヤーから聞いています。俄かに信じ難いですが、でもマイヤーが俺のアリバイを証明しようと動いてくれていますんで、今のところは落ち着いています」
「そうか。ジュール君にしてみれば飛んだ災難だな。でも今一番重要なのはそこではない。アイザックが誰にどうして殺されたのか。それこそが私を酷く悩ませる原因なのだ」
「いや、失礼ですがシュレーディンガーさん。犯人は獣神側につく誰かに決まってるんじゃないんですか? グラム博士だって命を奪われてるんだし、俺に言わせれば秘密結社のアカデメイアあたりが相当に怪しいですよ!」
ジュールは強く口走る。現状を考えれば彼の意見はもっともなものだ。その証拠にアニェージやヘルムホルツはジュールの考えに賛同するよう頷いている。しかしシュレーディンガーは首を横に振った。彼はアイザックの死に只ならぬ不審さを感じずにはいられなかったのだ。
社長専用の豪華な椅子に腰掛けたシュレーディンガーは、机の引き出しからノート型パソコンを取り出す。そして彼は起動させたそのパソコンに向かい、何やら作業を始めた。アイザックの死について、何らかの情報でも得ようとしているのだろうか。ただそんな彼に向かいヘルムホルツが堪らずに口走る。首都庁の警察部隊が有する捜査能力は伊達ではない。特に情報ツールを駆使したサイバー捜査は、瞬時にして世界中から有力な手掛かりを掴んでしまうのだ。もしかしたらすでにシュレーディンガーは捜査線上にあるかも知れない。そう思ったからこそ、ヘルムホルツは不用意なシュレーディンガーの振舞いに声を荒げたのだった。
「安易にネットへアクセスするのは止して下さいシュレーディンガーさん! あんた、警察に見つかりたいんですか? 現段階でジュールを容疑者として特定している以上、もう警察はグリーヴスに捜査の手を伸ばしているはずなんですよ。ジュールがトーマス王子の警護でこっちに来てる事は、公式な職務として大っぴらになってますからね。それにあなたとアイザック総司令の関係だって捜査の対象になり得るはず。あなたはグラム博士やボーア将軍と縁深き仲だった。そこに総司令との親密さが露呈したなら、警察じゃなくたって怪しいって思いますよ。ネットは監視されていると考えた方がいい」
ヘルムホルツは鋭い視線を向けながら言った。ただそんな彼の忠告を無視してシュレーディンガーは作業を続けている。警告が耳に入らない程までに混乱しているというのだろうか。するとそんなシュレーディンガーに対し、ヘルムホルツが痺れを切らして強く制止を促した。
「いい加減にしてくれ! こんな事してたらあっという間に捕まっちまうぞ!」
「フン。捕まえたければ捕まえればいい。と言うより、むしろ私は警察を誘っているのだよ。いや、正確には警察の中にいる【敵】がどう動くのか。その足掛かりを見つけようとしているのさ」
「!? どういう事ですか?」
「ヘルムホルツ君が言う様に、恐らく私の周囲は監視の対象になっているだろう。そしてもちろん私とアイザックが友人だった事も警察は掴んでいるはずだ。だからね、あえて私は会社のパソコンから漏れやすい情報として、アイザックの死について調査しているんだよ。それも面識があるってだけの国会議員や官僚に協力を求める形でね」
「友人が不審な死を遂げた。その原因をあえてワザとらしく調べてるって事ですか?」
「その通り。察しが良いねヘルムホルツ君。でも恐らくこんな見え透いた策に引っ掛かる奴はいないだろう。仮にもしいたとするなら、それは裏組織の中でも末端のチンピラに過ぎない。相手にするだけ時間の無駄さ。それにね、私は思うんだよ。アイザックを殺したのは、獣神側の手の者じゃないだろうってね」
「え? なら一体誰が総司令を殺したっていうんですか?」
ジュールが割り込んで聞き尋ねる。獣神側に与する者以外でアイザックを敵視する者などいるのだろうか。それはジュールのみならず、ヘルムホルツやアニェージも同じ思いだった。しかしそれ以上にシュレーディンガーは腑に落ちない訝しさ感じているのだ。そして彼はその理由をジュール達に向け簡素に語った。
「私が最も不可解に感じているのはね、獣神側にアイザックを殺す動機が見えないって事なんだ。これはあくまで私の推測なんだが、恐らく獣神はアイザックがグラム博士らと共謀して動いていたのを知っていたはず。だけど獣神はあえてアイザックを泳がせていた。さすがにその理由までもは分からない。でも総司令という身近な存在が自らの命を狙っている事に獣神が気付かないわけないからね。ただグラム博士と違い、アイザックを今殺したところで獣神には何のメリットもない。その点が私にとって引っ掛かるところなんだよ」
そう話すシュレーディンガーの態度は幾分冷静なものとなっていた。改めて自分の考える不審さの要因をジュール達に告げる事で、彼はその心許無さを紛らわせたのだろう。そしてそんなシュレーディンガーの話しにジュールは城の外堀で遭遇したアルベルト国王を思い出す。確かにあの時の国王の態度からすれば、アイザックはおろか自分達さえも見逃されたのは疑い様がない。ただそこで彼は思う。なら逆にどうしてグラム博士は殺されねばならなかったのかと。ジュールは湧き上がって来る怒りを懸命に押し殺す。しかし彼は博士の死について、シュレーディンガーにその見解を問わずにはいられなかった。
「ちょっといいですかシュレーディンガーさん。獣神には総司令を殺すメリットがないって言ったけど、じゃぁグラム博士には殺すだけの価値があったって言うんですか! 納得のいく説明をして下さい」
ジュールは鋭い視線でシュレーディンガーをじっと見つめる。その胸の内が怒りで溢れているのは誰の目にも明らかだ。ただそんな彼の気持ちを十分に理解しながらも、シュレーディンガーは自らの考えを隠すことなく彼に伝えた。
「獣神の本質はあくまでアルベルト国王なんだよ。そして国王は光子相対力学でこの世の全てを解き明かす事を夢見ていた。しかし統一された科学とまで呼ばれた光子相対力学でも、それを叶えることは不可能であった。誰よりも光子相対力学を愛した国王には、歯痒くもその限界に早くより気付いていた事だろう。ただそこで皮肉にも弟子であったグラム博士が、光子相対力学を凌駕する力をもった波導量子力学を導き出した。その凄まじき科学力に驚嘆した国王は、グラム博士を心より尊敬したはず。でもそれ以上に国王の心を満たしたのは、捻じ曲がった【嫉妬】だったんだ」
「じゃぁグラム博士は嫉まれて殺されたっていうんですか!」
「動機としては十分さ。いや、人を殺めるなんてのは、そんな些細な気持ちの縺れより衝動的な行動として生じるものなんだろう」
「そんな場当たり的な感情の乱れだけで人を殺めるのでしょうか? 本質があくまでアルベルト国王だったとしても、あいつが獣神であることに変わりはないんですよ。神がそんな短絡的な衝動で博士を殺めるなんて、そっちの方が信じられません」
ヘルムホルツがジュールに替わりシュレーディンガーに詰め寄る。ただそんな彼に向け、シュレーディンガーは首を横に振って答えた。
「君達の言いたい事も分かるが、現実はもっとシンプルで人間味に富んでいるものなんだと私は思う。分かり易く言えばね、神とて我々人間と気持ちの上では然程変わりがないって事なのさ」
「どういう事ですか? よく分かりませんが」
「人は神を絶対的な存在だと勝手に決めつけ、何もしないうちから敵わないと諦めているんだよ。まぁ、物理の法則を無視するほどの強大な力を持つ存在に、恐れを成すのは当然と言えば当然だろうけどね。でも精神的な部分のみで比較したらどうなのだろうか。女神ヒュパティアや至高の神ソクラテスならまだしも、我々が対峙するのは【獣神】なんだ。所詮は化け物であり、人に寄生しなければその存在は鏡の中で燻ぶってるだけの他愛のないモンなんだよ。そう考えてみれば、どうしてグラム博士が殺されたのか納得出来るんじゃないかな」
そう告げたシュレーディンガーは少しだけ微笑んで見せた。それが自信から来るものなのか、それとも強がりなのかは分からない。ただ少なくとも彼はこう思っているのだ。いかに獣神といえども、決して抗えない相手ではないのだと。そしてその考えにジュールらは強く胸を打たれる。たとえ肉体が驚異的な強さを誇ろうと、心に【人】が宿っているのならば、それは希望に繋がるのではないのかと。そして彼は思い出す。かつて羅城門で一度だけ見た【ラヴォアジエ】の姿を。
巨大な鷲の体はまさに神と呼ぶに相応しいものであった。でもあの鷲の赤く輝く瞳からは慈愛に満ちた優しさが感じられた。あんな哀しい目、ただの化け物が差し向けられるはずがない。それに俺の体だってそうだ。普通の人間から見れば、俺の体はそれこそ化け物同然の力と回復力を持っている。でも俺の心は今でも俺のままである事に変わりはない。それって、とても大切なことなんじゃないのだろうか。
グラム博士の死の原因が獣神の妬みや憎しみだったことに憤りをみせたジュール。しかし彼はその本質が人の持つ心だったという事に気付き救われる思いがした。この先、もしかしたら自分の肉体に更なる何かしらの変化が起きるかもしれない。でも心さえしっかり繋ぎ止めていれば、自分を見失わずに済むのではないか――と。
漠然としながらも不安視していた自分の未来。ジュールはそこに僅かながらの希望を感じたのだ。するとそんな彼の瞳に力強い輝きが戻る。そしてもう一つ。ジュールは相対する獣神への対抗についても思い付きそれを語った。
「感情的になった獣神にグラム博士が殺されたって事が本当なら、それは絶対に許せる事じゃない。でも獣神の本質にアルベルト国王の心が残っているってんなら、俺達に勝機はあるんじゃないかな。だってさ、上手く言えないけど、人の心は強さであると同時に弱さでもあるんだから……」
ジュールは前向きに想いを吐き出す。ただ彼は少しばかり口を尖らせて頭を悩ませた。自分の考えをどう皆に伝えればいいのか、それが思いつかなかったのだ。でもそんな彼の考えなど、皆からすればもう説明は必要ないのだろう。アニェージとヘルムホルツはジュールに向かって首を縦に振った。そしてシュレーディンガーは簡単な補足を付け加えながら、話題を元に戻したのだった。
「人の身をベースとして生きるが為の獣神の脆弱性。それこそがまさに獣神の胸に息づくアルベルト国王の心であり、獣神が唯一持つ弱点だと言えるものなのだろう。そしてそんな獣神の心に焦りを感じさせたグラム博士はその命を奪われた。ただそれを踏まえた上で、ここでもう一度話しを戻そう。なぜ、アイザックは殺されなければならなかったのか。それについて私の考えはこうだ」
決定的な証拠など無い。これはあくまでシュレーディンガーの推測だ。でもなぜなのだろう。その話はジュールらを不思議にも納得させるものであった。
シュレーディンガーは生唾を飲み込みながら聞き耳を立てるジュールらに向け話しを始めた。
「グラム博士が殺されたのは、光子相対力学を駆逐させるほどの強大な科学力を秘めた波導量子力学を導き出したからだ。言い換えるならば、グラム博士は波導量子力学を生み出すことで、アルベルト国王の【夢】を打ち砕いた事になる。それは国王にしてみれば、許し難い行為であったのだろう。そしてそんな妬みから生まれた恨みを増幅させた獣神は博士を亡きものとした。もちろんその行為自体はジュール君が憤るように許せないものだ。でも獣神側の視点で考えれば、その行為に至る動機は明確であり理解する事が出来る。しかしね、アイザックにしてはどうだ。確かに彼は獣神を抹殺するために、裏で相当動いていたはずだ。それに彼はその気になればアダムズ軍の全てを動かすだけの権限を持っていた。でもアイザックには【それだけ】しかないんだよね。獣神に単純な物理攻撃なんて利きやしない。それがどれほどの物量であったとしてもだ。だから私はこう考えるんだよ。アイザックには獣神を脅かすだけの【確固たるもの】がないんだってね。その証拠に獣神はあえてアイザックを今まで生かしていた。殺す気になればいつでも殺せる。恐らく獣神はそう思っていたはずなんだよ。でも突然にアイザックは殺された。もちろんこのタイミングで獣神がアイザックを殺さなければならない理由が生じたとも考えられる。でも何故か私にはそうとは思えないんだよ」
そう告げたシュレーディンガーは瞳を鋭く光らせる。そして覚悟を決めた様に話しを続けた。
「これはまだ確証に至らない情報だから、参考程度に聞いてほしい。ただ少なくとも私は真実に近い話しなんだと思っている。あとはこの話を聞いた君達がどう思うかだが、それは君達自身がそれぞれ決めればいい事だ。じゃぁ話すよ。実はね、アルベルト国王とアイザックの間には特別な関係があるらしいんだ。それはね、最高権力者の国王と全軍を指揮する総司令という立場上の信頼関係などではない。もっと深くて切り離せない、重要な関係性が二人にはあったんだよ。君達にはそれが分かるかい?」
シュレーディンガーは話しを聞くジュール達の顔を見回す。しかしその問いに誰も答えないと判断した彼は、真剣な表情で簡素に告げた。
「アルベルト国王とアイザックはね、血の繋がった【親子】だという噂があるんだよ」
「そ、そんなバカな!」
反射的にジュールが声を荒げる。しかしシュレーディンガーはそんなジュールの驚きに首を縦に振って言ったのだった。
「君が驚く様に、私だってこの話をはじめに聞いた時は鼻で笑ったよ。国王とアイザックの信頼関係は揺るぎないものだったから、誰かがそれを嫉妬して陰口でも叩いているんだろう。そうとしか思えなかったからね。でも獣神への対向手段をグラム博士と共に考えていた私は疑問を抱く様になっていた。もしかしたら本当に国王とアイザックは肉親なのではないのかって。だっておかしいんだよ。いくらアイザックがアダムズ西部の貴族の出身で、若くしてテロを撲滅させた手腕を持っていたとしても、本当にそれだけで側近に召し抱えるであろうか? それに獣神とすれば、いかに実害が無いとはいえ、やはり身近に敵になる者を置いておく事にメリットはない。むしろ早急にトウェイン将軍を総司令にした方が賢明なはず。それなのに獣神は今までアイザックに手を掛けようとはしなかった。ここまで言えば私が何を考えているのか、君には分かるだろヘルムホルツ君?」
ふいに投げ掛けられた質問にヘルツホルムは眉をしかめる。それでも彼は持ち前の頭の良さで即答した。
「獣神の心にまだアルベルト国王の心が残っているから、実の息子であるアイザック総司令を殺せずにいた。そんなところでしょうか」
「うん。真実がどうなのかは分からないが、少なくとも私はそう考えている。そして私の考えが当たっているのならば、必ず獣神は動くはずだ。誰がアイザックを殺したのか、それを調べる為にね。きっと獣神にしてみても、アイザックの死は予期し得ない事態であったはず。だからその尻尾を掴むために、手始めとしてアイザックの使命を受けていたジュール君を指名手配したんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。もしそれが本当だとしたなら、アイザック総司令は自分が国王の子供だって知ってたんですか? それに総司令とトーマス王子の関係だって複雑になるし、何よりテスラは……」
突然話の主題に躍り出た国王と総司令の関係にジュールはついていけない。でも国王と総司令が本当の親子であったならば、どこか筋の通った要領を得ることが出来る。かつては絶大な信頼関係を築いていたアルベルト国王とアイザック総司令。そして肉親にすら心を開かないトーマス王子もまた、アイザックにだけは全てを曝け出す事が出来ていた。それこそ、歳の離れた【兄】を敬愛するかの様に。
ジュールは背中に感じる悪寒に竦み上がる。いや、共に話しを聞くヘルムホルツとアニェージも同様な気持ちなのであろう。彼らは意外な繋がりの露見に嫌悪感を覚えずにはいられないのだ。ただそんなジュール達に向かってシュレーディンガーは強く言った。
「とりあえず君達は地下ブロックに移動したまえ。ヘルムホルツ君が心配する様に、ここでは警察に嗅ぎ付けられる可能性があるからね。私はここでもう少し正確な情報の入手を試みるから、君達は何かあった時の為の準備を進めておくんだ。ここから先は何が起きるか分からない。だから今出来る事をしっかり進めるんだ、良いね」
ここで考え込んでいても何も進まない。ならば不測の事態に備えて、万全の身支度を整えておくのが得策だろう。シュレーディンガーは冷静に状況を分析してそう告げた。それに対してジュールらは了解したとばかりに頷く。あれこれ考えたとしても混乱が深まるだけだ。きっと彼らもそう判断したのだろう。
胸の奥で震える焦燥感は依然として高まったままだ。それでもジュール達はそれを表に出すことはなく、地下に向かう為に社長室の扉を開けた。――がその時、突然社長室の内線電話がベルを鳴らした。
何事か。シュレーディンガーは素早く電話機に備えられた液晶ディスプレイに視線を向ける。するとそこには赤く点滅する緊急信号が映し出されていた。
シュレーディンガーの顔つきが変わる。そしてそれに気付いたアニェージが彼のもとに近づいて言った。
「この緊急信号はブロイからですね。なら表の仕事のものじゃないって事ですよ、社長」
「参ったね。ブロイがここに電話してくるなんて初めての事だよ。面倒な事じゃなければいいんだが、そういうわけにもいかないんだろうな」
シュレーディンガーはやれやれと呆れ混じりの感慨を示す。それでも彼の引き締まった表情は厳しさを保ったままだ。そして彼は一気に電話機を持ち上げそれを耳に当てる。すると電話の向こう側より、取り乱すブロイの声が発せられたのだった。
「しょ、少女が、ソーニャが消えてしまった!」
忽然とソーニャが姿を消した。気が動転しているブロイの口ぶりより、それが嘘でないことは確かだ。しかしソーニャが消えたというのはどういう事なのか。
昨日変調を来し、意味不明な言葉を口にした少女。だが彼女はその後のシュレーディンガーの処置のお蔭で落ち着きを取り戻していた。ただそれでも依然としてソーニャの意識は戻っておらず、地下フロアにある特別な医療室のベッドで彼女は静かに眠っていたはずだった。だがそんな彼女がいなくなったというのだ。
シュレーディンガーは素早くパソコンを操作しビルの警備装置にアクセスする。たとえソーニャの意識が戻ったとしても、自由に歩き回れるほどの体力が回復したとは思えない。それでも彼はビルの監視カメラに彼女の姿が記録されていないか確認しようと試みたのだ。
「ソーニャの姿が消えたのに気付いたのは何時頃だブロイ。それとリュザック君は何をしている。彼は君と一緒にソーニャを見張っていたはずだが?」
そう訪ねながらもシュレーディンガーが操作するパソコンのディスプレイ上には、複数の監視カメラの映像が流れはじめる。さすがは世界に名立たる経営者だ。仕事にまったく無駄がない。ただそんな彼に向かい、ブロイは気落ちした口調で言葉を返したのだった。
「ソーニャがいない事に気付いたのは、ほんの数分前です。僕はただ、トイレに行って来ただけなので……。それとリュザック君ですが、彼も責任を感じているらしく、地下フロアを懸命に探し回っているところです」
「いい歳した男二人が病気の少女を見失うとはどういう事なんだ! そうじゃなくたって今は緊急事態だというのに、余計な仕事を増やすのは勘弁してくれ!」
激しい言葉とは裏腹に、シュレーディンガーのパソコンを操作する指先は止まらない。ソーニャが居なくなってからまだそれほど時間が経っていないのなら、彼女はまだ近くにいるはずなんだ。そう考える彼は必死に監視カメラの映像を見て回る。ただそこで電話の向こう側より、意気消沈するリュザックが失態を悔いる様に告げたのだった。
「探せるところは全部探してみたんけんど、見つからないきね。まっことスマンがよ」
リュザックの弱々しい声からは心からの反省の素振りが窺える。だがそんな彼に向かってアニェージはあえて強く言葉を投げつけた。
「何やってんだお前はっ! ソーニャがどれだけ危険な状態か、昨日の豹変ぶりを見たお前なら分かっているだろ。それなのに彼女を見失うなんて、気が抜けているにも程があるぞ!」
「本当にスマンき。ブロイさんがトイレに行く時までは意識があったんじゃけんど、いつの間にか寝てたがよ。それで気が付いた時には娘っ子は消えてたがね」
「寝てただと! フザけるのもいい加減にしろっ! お前が最近寝不足なのは知っているが、ブロイがトイレに行ってる間だけも起きていられないのかっ! チッ、とんだ間抜けおやじだな、お前は」
アニェージの叱咤にリュザックは押し黙るしかない。それだけ彼は責任を痛感しているのだ。ただそんな彼の態度にアニェージの感情は更に沸き立つ。現状を嘆いてばかりじゃ何も進まない。悔やむ暇があるなら頭と体を動かせ。そう思うアニェージは悲観的になっているリュザックに憤りを感じてならなかったのだ。そして居ても立ってもいられない彼女はジュールに向き直って促した。
「とりあえず私達も地下フロアに移動してソーニャを探すぞ。――ん、ジュール?」
『助けて、ジュールっ!』
「わっ」
ジュールはのけ反る様な反応で驚きを見せる。その反応より、彼の意識がここに無かったのは明らかだ。するとそんなジュールの襟元をアニェージは力一杯掴み上げて凄味を利かせた。
「なんだお前、この状況で寝てたのか? クソっ、しっかりしろよジュール! これじゃリュザックとまったく同じじゃないか。頼むからもっと緊張感を持ってくれ!」
「済まない。でも違うんだ。さっきからおかしいんだよ」
ジュールは襟元を掴んだアニェージの手を解きながら言う。
「アメリアに危機が迫る夢を何度も見るんだ。それもリアル過ぎる夢を。何なんだよ、この嫌な感じは。気持ち悪さがどんどん込み上がって来る」
「大丈夫か、お前。もしかして指名手配される事に過度なストレスを感じてるんじゃないのか?」
不安感に身を強張らせるジュールの只ならぬ姿に、さすがのアニェージも心配になる。たかが夢くらいでこれほどまでにジュールが怯えるだろうか。アニェージは感覚としてそれを感じ取ったからこそ、彼に向け気遣いをみせたのだ。だがその時だ。
「トゥルルル、トゥルルル」
またしても着信を告げるベルが鳴る。そしてそれはヘルムホルツが所持する個人の携帯端末からであった。
次から次へと何だと言うのだ。変化する状況に戸惑いながらも、ヘルムホルツは素早く端末を取り出す。マイヤーからの連絡かも知れない。彼はそう思ったのだろう。ただそんな予想とは違い、端末の液晶ディスプレイに表示された着信相手の名はガウスのものであった。
「ガウスからだ。俺に連絡するなんて珍しいな」
ヘルムホルツはそう呟いてから端末の通話を始める。そして彼はいくつかの言葉を端末の向こうにいるガウスと交わすと、その端末をジュールに向かって差し出した。
「ガウスがお前に代われってよ。ほら」
「あ、あぁ。サンキュー」
ジュールはヘルムホルツから端末を受け取ると、ガウスに向かって話しを始める。しかし端末の向こうより聞こえて来たガウスの声は、ひどく切迫感に駆られたものであった。
「良かった。やっと連絡が取れるぜ。ジュールさん、いきなりで何だけど、アメリアさんの居場所を知らないか?」
「え、アメリアがどうかしたのか!」
「いや、アメリアさんじゃなくて、アメリアさんのお袋さんがヤバいんだよ。重体でボーデの町の病院に入院したんだ。それもかなり危険な状態らしい。だからアメリアさんに連絡取りたいんだよ」
「何だって、おばさんが!」
「あぁ。それでアメリアさんだけど、勤め先に聞いたら実家に帰省してるっていうじゃないか。でも連絡つかないし、だからって放っておくわけにもいかないだろ。とりあえず緊急事態だから、俺は昨日ボーデの病院に来て待機してるんだよ」
ガウスの焦った話ぶりより、アメリアの母の容体は極めて深刻な状況なのだろう。ただそれにも増してガウスはジュールに対し、沈痛な口調で聞き尋ねたのだった。
「それにしてもジュールさん。あんたの端末にも全然繋がらなかったけど、もしかしてアイザック総司令が殺された件に何か関係があるってんじゃないよな? いや、絶対にないって信じてるけど、あんた、総司令を殺した犯人なんかじゃないよな」
ガウスの悲痛な心の叫びが聞こえて来る様だ。するとそんな彼に向かい、ジュールははっきりと断言した。
「俺が総司令を殺すなんて、太陽系が逆に回ったって有り得ねぇよ。俺は絶対にやってない。それだけは信じてくれ。ただ俺の周りは騒がしくなるだろうから、端末には出れない。それだけは承知しておいてくれ」
「ジュールさんの口から直接それが聞けて安心したよ。でもその調子だと、アメリアさんの居場所は知らないんだろ? 警察部隊はあんたを容疑者と疑ってるから動きにくいとは思うけど、なんとかアメリアさんに伝えてほしい。病院で俺は待ってるから」
「分かった、何とかしてみるよ。わざわざボーデまで駆け付けてくれて悪かったなガウス。面倒掛けるけど、よろしく頼む」
そう告げたジュールは端末の通信を切る。ガウスにいらぬ心配を掛けさせまいと、どうにか冷静な受け答えをしたつもりだ。だが彼の胸の内は極度の不安で溢れ返っていた。そして拳を強く握りしめたジュールは皆に向かって宣言する。彼にはもう、そうする事しか出来なかったのだ。
「みんな聞いてくれ。今がどれだけ混乱した状況なのか、それは俺自身十分認識しているつもりだ。でもそれを承知であえて我がままを言わせてほしい。俺はこれからアメリアの実家のある里に行く。重体で入院したっていうおばさんももちろん心配だけど、でもやっぱりそれ以上にアメリアの事が気になって仕方ないんだ。だからゴメン。ここは黙って行かせてくれ」
「バカを言うな! 何の根拠も無い夢なんかを信じて行動なんて出来るわけないだろ。それにお前は自分の置かれた状況を本当に理解しているのか? 夕方には全国に指名手配されるんだぞ!」
アニェージが声を荒げる。しかし常識的に考えれば彼女の反論は正しいはずなのだ。こんな時に自分本位な行動をするなんて以ての外である。だがそれでも今のジュールには自分の考えを曲げる事が出来なかった。なぜならそこには言葉を失うほどの戦慄を伴う理由があったからだ。
「確かに根拠なんてどこにもない。でも放ってなんかおけないんだ。だって、だって昨日ソーニャが俺に告げた声が、アメリアの声にそっくりだったんだから!」
あの瞬間を思い出したアニェージとヘルムホルツは息を飲む。そうか、あの聞き覚えのある声はアメリアの声だったのか。そう感じた二人の心にも極度の不安が影を落とす。ただそこでヘルムホルツがジュールに向かい呟いた。付き合いが長く、ジュールの考え方を誰よりも良く知るヘルムホルツだからこそ、その覚悟が本気かどうか確かめたかったのだ。
「仲間を疑うのは気が引けるが、ガウスからの急な連絡はどうも腑に落ちない。もしかしたら罠かもしれないぞ。それでも行くって言うのか、お前は」
そう告げたヘルムホルツはジュールを強く見つめる。するとジュールはその視線を真っ直ぐに見つめ返しながら頷いた。ジュールの強情さは並みではない。そう思ったヘルムホルツはまるで観念する様に一度だけ溜息を吐き出す。でもそれは彼にとっての覚悟の表れだった。
「分かったよジュール。なら顔が広まる前に行動を開始したほうがいい。すぐに出発の準備をするぞ!」
頼もしさ溢れるヘルムホルツの激にジュールは嬉しさを隠せない。そして彼は久しぶりに笑顔を浮かべて声を張った。
「行こう。北の里へ!」