#67 残花の失墜(前)
午後三時を過ぎた頃、穏やかに通り抜ける心地よい風が満開の桜を静かに揺らす。そんなピンク色に囲まれた丘の上の墓地は、やはり美しい場所であると表現する方が望ましいのであろう。普通ならこんな故人が数多く眠る場所など、薄気味悪さを感じて然るべき場所なのだから。しかしこの磁石の丘にある墓地に限っては、まるでそこに眠る故人ですら桜を見上げて微笑んでいる様な、そんな柔和で温かい雰囲気に包まれている。そしてそんな墓地を囲む桜の木の下で、一人転寝をしている女性がいた。
まだ日が傾くには早い時間である。しかし時折吹き抜ける山からの風は思いのほか冷たく、いくら心地良い陽気に誘われたのだとしても、この場所で居眠りをするには聊か時期尚早といえるだろう。肩に掛けたチェック模様のショールに身を窄めている姿からして、その女性が無意識に寒さを感じているのは間違いない。ただどうしてなのだろう。彼女の表情はとても優しく微笑ましいものであった。
遠い過去の思い出を夢見ているのであろうか。それとも希望に満ちた未来でも夢見ているのか。ただそれが楽しい夢であるという事だけは断言出来る。なぜなら彼女の表情は幸せ以外の何ものでもなかったのだから。今にも声を出して笑い出しそうな、そんな面白いほどに口元を緩めている彼女の表情はとても楽しそうだ。しかし残念な事に、彼女の健やかな眠りはここまでだった。
それは拳大ほどの大きさであり、形は丸く色は異様なほど真っ黒い。そんな不思議な球体を上部に備えた墓石の影から、音も無く一つの人影がすっと現れる。そしてその人影は桜の木の下で居眠りをする女性にゆっくりと近づいて行った。
それほど大柄ではないが、でも引き締まった体つきは男性のものに違いない。しかし彼女は目の前に立つその人影の存在に気付かず眠り続けている。するとどうした事か。すっと屈み込んだ人影は、彼女の肩に手を伸ばすと、それを揺すって声を掛けたのだった。
「もう起きなさいアメリア。こんなところで寝ていたら風邪を引くよ」
とても温かい声。まるで父親が愛娘を優しく気遣う様な、そんな穏やかな声で人影は言う。するとそんな男性の声にアメリアは薄らと意識を覚ました。
「お、お父さん?」
まだ夢の中なのか。それとも現実の出来事なのか。寝ぼけた状態のアメリアにそれを理解することは出来ない。ただそんな彼女に向かって人影は優しく続けたのだった。
「良い夢は見れたかいアメリア? でもね、残念だけど楽しい夢はここまでだよ。ここから先は君にとって、とても厳しい現実が待ち構えているはずだからね。そしてそれは君が最も愛するジュールにも言える事なんだ。だけどこれだけは信じていてほしい。君達が諦めさえしなければ、きっと未来は世界を祝福してくれるだろう。だから――」
「ちょっと待ってお父さん。それより今まで何処に行ってたの? お母さんも私も、ずっと心配してたんだから」
「ごめんねアメリア。僕はもう行かなくちゃいけないんだ。だから最後に約束してほしい。たとえ世界中の誰もがジュールを憎んだとしても、君だけは彼を信じてあげてくれ」
「ちょ、何を言ってるのお父さん? 意味が全然分かんないよ!」
「約束だよ。彼が最後の希望なんだ。そしてそんな彼を守れるのは君しかいない。だから頼んだよ、アメリア」
「何処に行くのお父さん! せっかく会えたのに、またいなくなるなんて嫌だよ。もう何処にも行かないでよ、ねぇお父さん!」
アメリアは去り行こうとする父に縋ろうと腕を伸ばす。そしてその腕を強引に掴み取ると、一気に引き戻しながら強く叫んだ。
「もう何処にも行かないで。お願いだから帰って来て!」
「ちょ、ちょっとアメリア。寝ぼけるのもいい加減にして。痛いから早く放して!」
その言葉にアメリアはハッと意識を取り戻す。そして彼女は強く握った手より力を抜いた。するとそんなアメリアの態度に呆れ果てたのか、彼女の母親は溜息を吐きながらこう告げたのだった。
「まったく。こんな所で昼寝をするなんて、あなたちっとも成長してないじゃない。それとも久しぶりに実家に戻って、お転婆だった子供の頃に戻っちゃったの? それにしても寝ぼけ過ぎて私に詰め寄るなんて、本当にどうかしてるよ。大丈夫?」
母は心配そうな眼差しで彼女を見つめる。するとアメリアは自分が何をしたのかようやく理解したのだろう。彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め上げた。ただ素直になれないアメリアは申し訳なさを隠したいが為に、あえて母に対して反発したのだった。
「実家に帰って来た時くらい羽根を伸ばしたっていいじゃない。それに最近いろいろあったから、久しぶりに里に戻って安心しちゃっただけだよ」
「それにしたってあなた、お墓で居眠りするなんて非常識よ。嫁入り直前の身分のくせに、ホント恥ずかしいわ。もう少ししっかりしなきゃダメよ」
「わ、分かってるよ。でも温かくて気持ちが良かったから、つい」
「ふぅ~。こんなんじゃ、ジュール君も愛想を尽かしてどっか行っちゃうかもね」
「ちょっとお母さん!」
アメリアは声を荒げて立ち上がる。するとそんな彼女から逃げる様にして母は小走りに駆け出した。それも必死に笑いを堪えながら。きっと母はアメリアを冷やかしていただけなのだろう。そしてそんな大人げない母の姿にアメリアもまた吹き出しそうになる。やはり二人は親子なのだ。
ただ程なくして母は走る事を止めた。交通事故によるケガがまだ治り切っていない為なのか、それとも歳と共に弱った体力のせいなのか。母は少し辛そうな表情を見せている。そんな母の姿にアメリアは急に心配になった。ただ彼女は足を止めたその場所が、父と祖父の眠る墓の前だという事に気付いて思わず息を飲んだのだった。
肩を並べるように建てられた二つの墓石。その一つは父であるハーシェルのものであり、もう一つはかつてリーゼと共に訪れた事もある祖父ハップルのものである。そんな二つの墓石は、この磁石の丘の墓地にあるその他の墓石と特徴としては然程変わりはない。ただ一点、ハーシェルの墓だけはその上部に黒い球体の形をした拳大の【石】が固定されており、美しい桜に囲まれた墓地に僅かな違和感を演出していた。
もう数えきれぬほどに手を合わせた二つの墓。そしてこの場所はアメリアにとって、これ以上無いほどに安心できる場所でもあった――はずだった。しかし何故だろう。今に限っては妙な胸騒ぎがする。先程見た夢の終わりに何か関係があるとでも言うのだろうか。
アメリアは僅かに感じる焦燥感に訝しむ。するとそんな彼女の戸惑いを察したのだろうか。母は父の墓の上にしっかりと固定された黒い石にそっと手を添えて言った。
「もしかしてアメリア。あなたこの石がお墓にくっついちゃった事を今でも気にしているの? でもあれは仕方のない事だったのよ。だってあなたはこの石をここにただ置いただけなんですからね。それで突然石がお墓にくっついて離れなくなるなんて、誰も想像出来ないでしょ。だからあなたが気に病む事じゃないのよ。それに探検家だったお父さんにしてみれば、少しくらい風変りなお墓の方が似合ってる気もするじゃない。きっとお父さんだってそう思ってるはずよ」
「う、うん。ありがとうお母さん。でもね、私は別にこの石がお墓にくっついちゃった事を気にしてるわけじゃないの。ただ、何て言うのかな。もう十分ケジメを付けたはずなんだけど、でも心の深いところで私は未だにお父さんが死んだって受け入れられてないんだと思うんだよね。だってお父さんは行方不明になっただけで、ここに眠ってはいないんだから」
「アメリア……」
「嵐の収まった後の捜索で見つかった、お父さんの乗ってた船の残骸。そこにはもう、お父さんの消息を知る手掛かりになる物は何も残っていなかった。ただその船の残骸と一緒に見つけられたこの黒い石。不思議なんだけどね、私が初めてこの石を見た時、お父さんに頼まれた気がしたんだ。この石を私とお父さんの思い出の中で、一番記憶に残っている場所に置いてほしいって。それで考えたの。お父さんとの思い出で特に印象に残ってる場所をね」
「それがこの桜の墓地だったってゆうわけ?」
「ううん、それは微妙に違うの。私の思い出の中で一番記憶に残っているのはね、この丘の帰り道でボールを投げた時の事なんだ。まだすっごく小さかった頃の事なんだけど、あの日の出来事は今でも鮮明に思い出せる。桜並木の下り坂をボールが勢いを増して登っていった不思議な光景をね」
「ボールが坂道を登っていった? それってもしかして目の錯覚の事を言ってるの」
「うん、そうだよ。でもあの時の私はまだ子供だったし、そんな理屈全然分かんないでしょ。だからすっごく不思議に感じて目を丸くしたんだよ。そしてそれをお父さんが横で笑ってた。そんな思い出が私の中で一番強く印象に残ってるんだよね」
「それで【あの日】、あなたは磁石の丘を下りたいって言ったのね」
「うん。だけどその途中で立ち寄ったお墓でこんな事になっちゃったの。私はただ、ちょっと疲れたから持ってた石をお墓の上に乗せただけなのに。それなのに急に石が取れなくなっちゃって。でもなんでかな。これはこれでそんなに悪い気はしないんだよね。お母さんが言う様に、やっぱお父さんが冒険家だったからなのかな」
そう言ってアメリアは微笑んで見せた。ただその表情は少し強がっている様にも見える。少なくともこの不思議な石は父が所持していた物なのであろう。恐らく彼女は胸の内でそう感じているからこそ、父との思い出の場所である真っ直ぐに下った坂道にそれを持って行きたかったのだ。しかしそれは叶わぬ望みとなってしまった。
悔しいというよりは、寂しいと表現した方が近いのかも知れない。大好きだった父とはもう二度と会えないのだから、それは当然であろう。そしてそんな父の最後の依頼さえも、中途半端な形で終わりを迎えた。だからアメリアは強がる様に苦笑いを浮かべる事しか出来なかったのだ。ただ母のいる前で改めて父のいない寂しさを感じた彼女は、脆弱さに駆られてつい問い掛けてしまった。
「ねぇ、お母さん。お母さんは知ってるの? お父さんが何をしに氷で閉ざされた国に行こうとしたのか」
きっとアメリアはずっと前からこの質問を投げ掛けたかったはず。でも彼女は父を失った母の気持ちを察し、今までそれを我慢していた。しかし少しの気の緩みからつい口走ってしまった。こうなってしまってはもう取り消す事は出来ない。アメリアはじっと母を見つめてその返事を待っている。ただそんな彼女に対し、母は申し訳なさそうに首を横に振って答えたのだった。
「ごめんなさいね。お父さんは家で仕事の話しをほとんどしなかったから、何も知らないのよ。私の方から聞く事も無かったしね。それに氷の国に行くのはあれが【二度目】だったし、あの国自体に危険は無いってお父さん言ってたから、いつも通りに送り出したの。まさか大荒れの海に出るなんて思わないでしょ。本当にどうしてお父さんがそんな事をしたのか。お母さんだって、未だに信じられない気持ちでいっぱいなのよ」
そう告げた母は薄らと目に涙を浮かべる。やはり父の存在を失った悲しみは、母の気持ちを埋め尽くしているのだろう。そう感じたアメリアは母に向かって直ぐに謝った。
「変な質問しちゃってごめんね。お父さんがいなくなって一番悲しんでるのお母さんなのにね。さっきの質問はナシ。忘れて忘れて!」
アメリアは母に辛い記憶を思い出させてしまったと後悔するも、あえて声を張って母に向き直った。気分を変えて沈みそうになった雰囲気を誤魔化そうとしたのだ。ただそんな彼女の考えなど、母にしてみれば鼻に掛けるほどのことでもないのだろう。すっと涙を拭いた母は、笑顔を浮かべて告げた。
「いいのよ、アメリアは悪くないんだから。それにお父さんがどうして氷の国に向かったのか、あなたがそれを知りたいと思わない方がむしろ無理があるってものじゃない。私が悲しかったのはね、そんなあなたに満足のいく説明が何も出来ないって事の方なのよ。だからあなたが気に病むことはないの。もちろん私は全然大丈夫だから、気にしないでね。それより最近いろいろあったって言ってたけど、あなたの方は体調とか変わりはないの?」
母は心配する様にアメリアを見つめる。それに対してアメリアは少しだけ複雑な表情を浮かべながらも有のままを告げた。
「うん。別に私は変わりないよ。ただあれは博士が亡くなったせいで、ジュールが酷く落ち込んじゃって。それでちょっと大変だっただけだよ」
「博士が亡くなった? それってグラム博士の事なのよね!」
母は目を丸くして声を上げた。予想外に発せられた大声にアメリアも驚き目を丸くする。それでも彼女は落ち着いた口調で母に話した。
「あ、そうか。お母さんは知らなかったんだね。――ちょっと言い辛いんだけど、少し前に博士は軍の関係者に拘束されたらしくって。それで……」
「それって本当なの?」
「う、うん。ジュールが嘘を言うわけないし、それにジュールの落ち込み様は見てられなかったから。私も信じたくはないけど、でもグラム博士が亡くなったっていうのは事実なんだと思う」
「いくら博士が指名手配犯だからって、裁判も無しに刑を実行するなんて信じられない。それとも博士は手に負えないほどの反攻でもしたのかしら。でも博士がそんな手荒な事をするなんて考えられないし――」
母は何かを考え込むよう腕を組んでいる。ただその表情は意外にも従容たるものであった。そして母は隠すことなく、その胸の内をアメリアに告げた。
「だけどおかしいわね。グラム博士が亡くなったって聞いて驚いてるはずなのに、なぜか落ち着いていられる。寂しい事だけど、薄々こうなるんじゃないかって考えてたのかも知れないわね」
「博士がお尋ね者だったからって事?」
「それもあるけど、ただね、ちょうど一年前の事よ。博士が久しぶりに里に顔を出したの。今日みたいに桜が満開に咲いた穏やかな日にね。ふいに博士が姿を見せたからびっくりしたんだけど、でも見た目にはこれといって変わった雰囲気は感じられなかった。けど今になって思い返せば、あれはおじいちゃんとお父さんにお別れを言いに来たのかも知れないわね。だってジュール君のいないこの里に、わざわざ博士が足を運ぶなんて少し変でしょ」
「じゃぁ博士は自分の先が長くないって分かってたって事なの?」
「むしろ覚悟を決める為にここへ来た。そんな感じかしらね」
母の話しを聞いたアメリアは少し思い悩む。彼女は最後に花屋を訪れたグラム博士の姿を思い出しているのだ。あの時の博士も見た目には変わりなかった。でも事実として博士はジュールに宛てた別れの手紙を持って来たのだし、自分自身もあの日が博士に会った最後だった。あの日、私と話した博士はどんな気持ちだったのだろうか。そう改めて思うアメリアは急に胸が苦しくなる。ただそんな彼女の萎える心情を察しつつも、母はもう一つの心配を聞き尋ねたのだった。
「それで、ジュール君の方はどうなの。彼、博士がいなくなって気落ちしたんでしょ?」
母は落ち込んだジュールを想像しそれを危惧する。血の繋がりがなくとも、博士とジュールの信頼関係は特別なものなのだ。だからこそ、博士を失ったジュールの苦しみは耐え難いものであったはず。大切な者を失った母にはその苦しみが痛いほど理解でき、彼を思い遣っているのだろう。しかし軽く首を横に振ったアメリアは、母の懸念を振り払う様に明るい声で返した。
「それならもう大丈夫。ジュールなら完全に立ち直ったよ。まぁ、多少は無理してるかも知れないけどね。でもジュールは前向きに頑張ってるよ。それも今まで以上に気合を入れてね!」
アメリアは得意げに笑顔を見せる。もう心配はいらない。美しく輝いた虹の下で、ジュールとは硬い約束を交わしたのだから。アメリアはすっきりとした表情で母を見つめた。そしてそんな彼女の迷いの無い視線に母は頷く。その表情が嘘を告げているわけがない。そう感じた母はホッと胸を撫で下ろすと、笑顔を浮かべて言ったのだった。
「それでそのショールを彼から貰ったってわけね。安心したわ。ジュール君がそのショールを誰に渡すのか、すっごく気になってたから。でも想像通りね。すごく似合ってるわよ、アメリア」
「やだ、お母さん。恥ずかしいこと言わないでよ」
顔を赤く染めたアメリアは照れを隠す様に横を向く。ただそんな彼女の仕草を微笑ましく見つめる母は、正直な気持ちを優しく続けた。
「私は本当に嬉しいのよ。あなたとジュール君が一緒になってくれる事がね。でもねアメリア、真面目な話しだからよく聞いて。これから先、あなた達二人には多くの幸せが訪れるでしょう。でもね、現実はそんなに甘くないの。手にする幸せの何倍もの苦労が圧し掛かって来るんですから。そしてそんな困難に立ち向かえるのはあなた達二人だけ。お母さんの言ってることは分かる? あなたには彼と共に生きる覚悟をしっかりと持ってもらいたいの」
「大丈夫だよ。そんなの言われなくったって分かってるよ。それに今の私が生きていられるのはジュールのお蔭なんだしね。一生懸けてそのお返しをするつもりなんだから」
「信じてもいいのね?」
「もちろんよ。お母さんに心配掛ける様な事にはなりません。それに私、ジュールのこと本当に大切に想ってるから。だから安心して」
そう告げたアメリアは柔らかく微笑む。彼女は心の底からジュールの存在を愛おしいと想っているのだ。そしてそんな彼女の気持ちを十分に理解した母は、アメリアに負けぬほどの優しい笑顔で言った。
「そう。あなたの気持ちはよく分かったわ。おめでとう、アメリア。私はずっとあなた達二人の味方だからね、何があっても頑張るのよ。でもいつの間にかアメリアも大人になったものね。きっとお父さんも天国で喜んでるはずよ。――ならちょうど頃合いね。あなたの手からジュール君に渡してもらいたい物があるの」
そう告げた母は胸ポケットに忍ばせていた二枚の紙を取り出す。そしてその紙をアメリアに差し出した。
改まってジュールに何を渡せというのだろうか。そう思いながらもアメリアは差し出された二枚の紙を受け取る。ただその内の一枚を見た彼女は、微笑みながら聞き尋ねたのだった。
「これってお父さんとお母さんがまだ若かった頃の写真じゃない。もう結婚はしてたのかな? 少なくても私はまだ生まれてないよね」
今の自分とそれほど歳の変わらない父と母の姿にアメリアは嬉しくなる。そしてそんな彼女に母は昔を振り返りながら答えたのだった。
「見た目には分からないけど、お腹の中にあなたはいたはずよ。確か3ヶ月だったかな」
「そうなんだ。二人ともまだ若くて生き生きしてるね。でも隣に写ってるもう一組のカップルは誰なの? 二人とも見た事ない人だけど……。あっ! もしかしてこれって、ジュールの両親なんじゃ!」
ジュールに渡してと頼まれた写真に写る見知らぬ男女。歳はまさに当時の父や母と同年代である。ならばそう考えるのは至って自然ではないのか。アメリアは素直にそう思った。しかし母は黙ったまま何の反応も示さない。ならば自分の予想は間違っているという事なのか。そう考えたアメリアは独り言の様に呟いた。
「……でもそうよね。ジュールはグラム博士に拾われて育てられたんだし、両親がいたらおかしいよね。でもこっちの二人も夫婦なんでしょ? 気になるなぁ。ねぇ、この人達って誰なのお母さん」
アメリアは素直な疑問を聞き尋ねる。しかし母はその質問に首を横に振ってこう答えた。
「ごめんね。ジュール君のいないこの場所でそれを話す事は出来ないの。ただ決してその二人はジュール君にとっても、それにあなたにとっても悪い人達じゃないって事だけは確かよ」
「何よそれ。全然答えになってないじゃん。気になるなぁ」
アメリアはそう言って頬を膨らませる。もったいぶる母の態度に軽い憤りを覚えているのだろう。でもジュールに関係のある写真であるなら、自分がここで無理に詰め寄っても仕方のない事。彼女は渋々ながらもそう受け入れつつ、もう一枚の方の写真に目を移した。
それはかなり古い写真である。白黒に投影されたものからして、今から軽く半世紀は昔の写真なのだろう。ただそこに写る光景からは、とても由緒正しい厳格さが感じられる。そんな写真を手にしながら、アメリアは母に向かってこう告げた。
「どうせこの写真の事もジュールがいなくちゃ話せないって言うんでしょ。でも私が勝手に想像して喋るのは自由だよね。この写真に写ってるのって、もしかして【アルベルト王】なんじゃない? まだ子供の頃みたいだけど、なんとなくそんな気がする。――でもおかしいな。王様と一緒に写ってるこの人って、ルーゼニア教の」
「写真の中身を安易に詮索するのは止しなさいアメリア。その写真はとても大切なものなの。それに場合によっては危険なものでもある。だからジュール君以外にこの写真について話すのはダメよ。もちろん他の人に見せたりしちゃ絶対にダメだからね!」
突然声を荒げた母の形相は厳しいものだ。そしてそんな切迫感にアメリアは息を飲み込む事しか出来ない。一体この写真にはどんな意味が隠されているのだろうか。急変した母の態度に訳の分からない嫌悪感を抱いたアメリアの背中が僅かに泡立つ。ただその時、アメリアの所持する携帯端末がベルを鳴らした。
唐突な着信ベルにアメリアの胸は酷く高鳴る。それでも彼女は急いで端末を取り出した。母より向けられる強い眼差しに耐えきれなかった彼女は、それから逃げる様にして端末を握りしめたのだ。そしてアメリアは端末の画面に表示される着信相手の名前を見てホッとする。そこには最愛のパートナーであるジュールの名前が示されていた。
「ごめん。ジュールから連絡みたい」
そう一言告げたアメリアは母に背を向けて端末を耳に当てる。そして意味不明な動揺を表に出さぬよう心掛けながら話しを始めた。
「もしもし。どうかしたのジュール?」
アメリアはいつもと変わらぬよう電話越しのジュールに話し掛ける。しかしその背中には冷たい汗が滴り落ちていた。あんなにも怖い雰囲気を醸し出す母を見るのは初めてだ。でもどうして母はあれ程にも厳しい表情を浮かべたのだろうか。端末を耳にしながらも、彼女の意識はそこに留まり続ける。
場合によると条件が付くが、この写真は危険なものになるらしい。そして母の表情を見る限り、その危険度はかなり高いものなのであろう。しかしこの写真が本当に危険なものであるならば、その危険がジュールに及ぶ可能性だってあるはずだ。いくら彼が軍人であろうと、それはいいのであろうか。アメリアの頭の中で矢継ぎ早に疑問が浮かぶ。やはりこの状況で気にしないよう努めるのは無理というもの。彼女は背中に伝わる焦燥感に気持ちの悪さを覚える。ただ端末の向こう側より聞こえてきた馴染のある声に、彼女の胸の内は急速に落ち着きを取り戻して行く。いや、ジュールの少し強引な問い掛けに彼女の意識は無理やり端末にへと向けられたのだ。
「もしもしアメリア。お前、今何してるんだ?」
「何って、お母さんとお墓にお参りに来てるところよ。それよりジュールの方こそどうしたのよ。用も無く連絡してくるなんて、珍しいじゃん」
「何か変わったところは無いか? 体調とかさ」
「う~ん、特にこれといって何も無いけど。久しぶりに実家に帰って来たから、少し気が抜けた感じはするけどね。でもどうしたの急に。ジュールの方こそ何かあったの?」
「い、いや。特に変わりが無いならそれでいいんだ。悪かったな、急に電話しちまって」
「別に連絡もらえるのは嫌じゃないから気にしてないよ。ただジュールの話し方、少し変だよ。なんか焦ってるみたいな感じがする」
「そ、そうか? 気のせいだと思うぞ」
「もしかして、私に会えなくて寂しいの?」
「バ、バカ言え。そんなんじゃねぇよ。仕事中だからもう切るぞ。それと久しぶりの実家だからって、おばさんに甘え過ぎるなよな」
「分かってるよ。そろそろ家に帰ろうと思ってたし、そしたら思い切り親孝行してあげるんだから。あ、そうそう。お母さんに頼まれたんだけど、今度会ったら渡したい物があるから待っててね」
「渡したい物? 何だよそれ」
「それは見てからのお楽しみ」
「なんだそりゃ。随分ともったいぶるなぁ。でもまぁいいや。ルヴェリエに帰った時の楽しみにしとくよ。じゃあ俺は仕事に戻るから、アメリアも気を付けて帰れよ」
「うん、分かった。わざわざ連絡くれてありがとね」
他愛も無い言葉を交わしただけなのに、やはりジュールの声を聞くと心が和むものなのだろう。アメリアは口元を緩めながら端末をポケットにしまった。そしてそんな彼女が振り返った時、母はいつもの優しい母に戻っていた。何気ない日常に幸せを感じる愛娘の姿に、母の心は嬉しさで満たされたのだろう。だからこれほどまでにアメリアを温かく見つめる事が出来るのだ。そしてそんな母の腕をそっと掴んだアメリアは言う。ジュールと同じく、彼女は母の事が大好きなのだ。
「帰ろっか。まだ少し風が冷たいから、お母さんの傷が痛みだすかも知れないしね。それに変な話はもう止そ。私は何も聞かないから、お母さんも心配しないで」
「ううん。私の方こそゴメンね。急に変な態度とったりして。でもあなたを困らせるつもりはなかったの。だから許してね」
「もういいよ。寒くなる前に帰ろ」
「なら夕ご飯はあなたの好きなオムレツにでもしましょうかね。今晩だけは特別に甘えさせてあげるわ」
満開の桜並木に囲まれた坂道を下りながら家路につく二人。まだ病み上がりの母の体をアメリアは気遣いながら坂道を進む。そしてそんな娘にいらぬお世話だと母は張り切って小走りに駆け出す。穏やかな風が桜の花を揺らすと共に、二人の笑い声が丘を通り抜けていく。そんな仲睦まじい親子の姿は、誰がどう見ても微笑ましいものだったのだろう。ただ二人が坂道を下り切ったところで、思いも寄らぬ人物がその姿を現した。
どうしてあなたがここに居るの? 俄かに信じ難いと思ったアメリアは目を疑う。しかしそれは紛れもない当人であり、彼女は目を丸くしながらその人物の名を呟いた。
「ガウス……くん!?」
暗闇に包まれた森の中は酷く冷たい。無数に生い茂る背の高い木々が、たとえ昼間であろうと陽の光を十分に差し込ませない為に、その森は酷く冷えきっているのだろう。また密集する木々は風すらも吹き込ませない。そんな山の急斜面にある深い森の中を、アメリアは必死に駆けていた。
彼女が何者かに追われているのは間違いない。時折後ろを振り返りながらも、形振り構わず走るその姿からは、尋常でない恐怖心が滲み出ている。しかし急な山の斜面を駆け続けるのは容易ではない。それも柔らかい土質に足を取られ、その度に彼女は転倒を繰り返しているのだ。底冷えするほどの寒さにも体力は削られていく。そしてそんな彼女の背後に無情にもそれは迫った。
真っ黒い人影。それは間違いなくアメリアを追跡し危害を加えようとしている。しかし暗闇に紛れたその容姿までは見極めることは出来ない。ただ人影の体つきより、それが男のものだという事は確かだった。
みるみるとアメリアと人影の距離は縮まっていく。もうアメリアの体力が限界なのは明らかだ。そしてついに、人影の腕が彼女の背中を捕えた。
「助けてジュール!」
アメリアがそう叫んだと同時に視界は真っ赤に染まる。それはアメリアのものなのだろうか。それとも追い駆ける人影の男のものであるのか。ただ疑い様がないほどにはっきりしているのは、それが飛び散った鮮血によるものだという事だった。
「アメリア!」
吹き出した汗で全身を湿らせたジュールがソファより飛び起きる。息はこれ以上ないほど荒々しく、高止まりした鼓動はまったく鎮まろうとしない。そして胸を押さえながら深くソファに腰掛け直した彼は、身の毛が弥立つ感覚に支配されつつも、その悪夢を振り返って考えた。
「何だったんだ今の夢は。リアル過ぎて、とても夢だなんて思えなかった。それにこの嫌な感じ。まさか本当に何かしらの危機がアメリアに訪れているとでもいうのか」
いても立ってもいられないジュールは部屋の窓際へと移動する。そして朝焼けの空に超高層ビルが幾つも建ち並ぶ窓の外を眺めながら携帯端末を取り出した。
「頼む。出てくれアメリア」
心の中でジュールは強く願う。しかしいくら待とうど端末に彼女が出る気配は無い。まだ朝早い時間なだけに眠っているのか。それなら良いのだが、やはり彼女の声を直接聞くまで安心出来そうもない。とりあえずメールだけは送信するも、原因不明な焦燥感に駆られたジュールは口惜しく端末を握りしめる。するとその時だ。端末が着信を告げるバイブレーションを発する。もちろんそれがアメリアからのものだと思ったジュールは即座に端末の回線を開く。しかしその向こう側から聞こえて来た声は、無情にもアメリアのものではなかった。
「ん? ジュールか。随分と端末に出るのが早いな。まぁ状況が状況なだけに待ち構えてたってとこか。でも少しは休まないとダメだぞ。お前、ここ最近全然寝てないんだからさ」
「あ、あぁ。マイヤーか。いや、ついさっきまで仮眠を取ってたところだよ。でも妙な夢見ちまってな。それで起きたところにタイミングよく端末が鳴ったから出ただけだよ」
着信相手がアメリアでなくマイヤーだった事にジュールは少し落胆する。まったく、紛らわしい時に電話してくるなよ。彼は胸の中でそう苦言を吐いていた。しかしマイヤーからの連絡を受けた彼の憂鬱さは直ぐに消し飛ぶ事になる。事態の深刻さは彼の意識を強制的に萎縮させるほどのレベルにまで達していたのだ。
「アイザック総司令殺害の件で新しい情報が入ったから報告するけど、なぁジュール。頼むから落ち着いて聞いてくれよ」
「新しい情報が掴めたのか! それで、何が分かったってんだ」
「それがだな、ジュール。どこでどう話が食い違ったのか分からないんだけど、警察の話しだと総司令を殺害した容疑者は【お前】だって事らしいんだ」
「はぁ? なに寝ぼけた事言ってんだよマイヤー。こんな時に冗談は止せよ」
ジュールは呆れたように呟く。だがそんな彼に対しマイヤーは口ぶりを更に由々しいものに変えて話し続けた。
「俺がこんな非常事態に冗談なんか言うと思ってんのか。これは確かな情報だ。すでに同じ情報がストークス中将にも伝わってるはずだから、時機にシュレーディンガーさんにもその一報が届くだろう。それに話はそれだけじゃ済まないんだ。警察部隊はお前を指名手配犯とし、それを今日の夕方のニュースで大々的に公表すると決めたんだよ。もちろんお前の顔写真もそこに映し出される」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺は何もしてないぜ」
「そんな事は分かっている。でも事実として総司令は何者かによって殺害された。そしてその犯人はお前だとされてるんだ。どう考えたって、こいつはおかしいよ。でも現状でそれを覆す手段はない。完全に嵌められたと考えるべきだろう」
「嵌められたって、誰にだよ」
「具体的にそれが誰かなんて分かんないよ。でも俺達の邪魔をしようとする奴らなんて簡単に予想出来るだろ。アイザック総司令はグラム博士と志を同じにしてたんだからさ」
「じゃぁ、国王側についてる誰かって事か」
「長話はこれくらいにしよう。お前の端末から居場所が割れる可能性が高いからね。だからこの端末を切ったら電源は切ってくれ。それと非常事態に備えてエイダとティニにお前らの装備を持たせてそっちに向かわせた。俺もそう遅れないでそっちに向かうから、詳細はその時に話そう」
「クソっ。何がなんだか分かんねぇよ。なんで俺が総司令を殺さなくちゃならないんだ」
「落ち着けジュール。今は無暗に動かない方がいい。首都庁直轄の警察部隊はアイザック総司令の指示系統に属していないが、それでも彼らはその威信に懸けて捜索を開始するはずだ。そうなれば如何にシュレーディンガーさんでも、お前を隠しきれないはず。首都庁の警察部隊はサイバー捜査のエキスパートだからな。でもそれに対抗する手段が一つだけある。これが上手くいけばお前の容疑は完全に晴れるはずだ」
「どうするんだよマイヤー」
「王子さ。お前は王子の警護をずっとしてただろ。だから王子にアリバイを証明してもらうんだよ。検死の結果、総司令が殺害されたのは三日前の未明だと判明したらしいからね。その時刻ならお前は王子と一緒にグリーヴスに向かう飛行機に乗ってただろ」
「そ、そうか。じゃぁマイヤーは王子のところに行くんだな!」
「あぁ。ただエイダからの報告によれば、まだ王子は寝ているらしい。昨日の商談で疲れたんだろう。かなり揉めたらしく、会談が終ったのは深夜だったみたいだからね。タフな王子も相当に堪えているんだろう」
「状況は分かったよ。頼んだぜマイヤー。総司令が死んだ事すらまだ信じられないのに、その犯人が俺だなんて本当に馬鹿げてる。くそっ、なんだってこんな事に」
「戸惑うのは分かるが、くれぐれも軽はずみな行動は慎めよ。【敵】は至る所にいるんだからな」
そう告げたマイヤーは通信を切った。彼は急ぎ王子のホテルに向かっているのだろう。そしてジュールはマイヤーの指示通りに端末の電源をOFFにする。用心に越したことはない。ジュールの軍人としての直感がそう行動させたのだ。ただそこで彼は一つ重要な事を思い出し唇を噛みしめる。そうだ、この状態だとアメリアからの連絡が受け取れないじゃないか。
重なる難儀にジュールは困惑を隠せない。しかしそんな彼に更なる苦難が襲い掛かる。急激に動き出した運命の歯車は、容赦なくジュールにその鋭い牙を向けはじめていた。