#62 桜並木の錯覚(一)
顔色を見る限り、体調が良いとは到底考えられない。いや、むしろこうして立ち上がっている事の方が信じられないほどだ。それでもソーニャはブロイの袖にしがみ付きながら、ジュール達の前にその姿を現した。
一体少女は何を目的としてこの場所へと赴いたのであろうか。そう思うジュールらは、苦しそうに表情を歪めるソーニャから視線を外せない。ただそんな中でシュレーディンガーだけは、少女に対して厳しい口調を飛ばしたのだった。
「ダメじゃないか、じっとしてなくちゃ! 病室ではっきり言った様に、君の体は君が感じている以上に深刻な状況にあるんだ。それなのにわざわざこんな場所に自ら足を運ぶなんて、無茶にも程があるよ。さぁ、病室に戻って」
「待って下さい社長。ここは僕に免じてソーニャの話しを聞いてくれませんか。もちろん僕だって、この子の体が普通じゃないのは分かっています。でもそれだけに、ソーニャの強い気持ちが伝わってきたんです。そうじゃなきゃ、僕だってここに連れて来たりしませんよ。だからどうか、話しを聞いてやってください」
口を開かないソーニャの代わりに必死な抵抗を見せるブロイ。するとそんな彼の反発に対し、シュレーディンガーとアニェージは目を丸くして驚きをみせた。
彼の反発する姿がそれほどまでに珍しいとでもいうのだろうか。シュレーディンガーの運転手兼ボディガードという肩書意外の特徴を知らないジュールは黙って状況を見守っている。ただブロイの真剣な表情から察するに、ソーニャがこの場所に来た目的には、それなりの意味が込められているのだろう。それを理解したからこそ、柄にも無くブロイは上司であるシュレーディンガーに反発しているのだ。
市街地で逃走劇を繰り広げたブロイの身体能力には目を見張るものがある。しかしその驚異的な特性を差し引いたとするならば、そこに居るのは人の良い中年のサラリーマンといった感じなのだ。その外見的な部分からは、まさかあれほどの身の熟しが出来るなんて、誰も想像出来ないはず。ただその外見が示す人柄については、さほどイメージと離れてはいないのだろう。
状況から想像するに、恐らくブロイが社長に反発したのは今回が初めての事の様だ。でもだからこそ、ブロイを良く知るシュレーディンガーやアニェージは驚いたのだ。まさかあのブロイが素性も知らぬ少女を擁護するなんて、まったく信じられないと。そしてそんな彼の要望にシュレーディンガーは、話だけなら聞いてやるかと渋々ながら耳を傾ける。するとブロイは自然な動きでソーニャの背中に腕を回し、皆の前へとその背中を軽く押し出したのだった。
皆の注目が注がれた為、少し緊張しているのだろう。ソーニャは身を強張らせて立ち尽くしている。するとそんな彼女にブロイが優しく声を掛けた。
「さぁ、頑張って。みんなに今、どうしても伝えたい事があるんでしょ」
ブロイは人の良さ気な笑顔をソーニャに差し向ける。そんな彼に勇気付けられたのか、少女は小さく頷くと改めて皆に向き直った。そして弱々しい声でありながらも、ソーニャは語り始めたのだった。
「……み、みなさんには、ずっと前から言おうと思っていたのですが、まだちゃんとお礼が言えてなかったので。私を助けてくれて、本当にありがとうございました」
そう告げたソーニャは深々と頭を下げた。きっと優しい心を持った彼女の事だ。今まで礼を告げられなかった事が嘆かわしかったのだろう。ただそれを目の当たりにしたジュールは思わず声を上げる。彼にしてみれば、そんな些細な事のためにあえて苦痛を伴う必要など考えられなかったのだ。
「おいおい、もしかして俺達にわざわざ礼を言う為にここへ来たのか? そんなの全然気にしてないからさ、お前はもっと自分の体を大切にしろよ。今一番大切なのは、ゆっくりと体を休める事のはずなんだからさ」
「違うんです。私がお礼をしているのは、ラウラの事なんです」
「ラ、ラウラって、あの――」
出しかかった声を飲み込むジュール。そんな彼の目をじっと見つめたまま、ソーニャは静かに語り続けた。
「ラウラは、私の安全を何よりも一番に考えてくれた。そしてあの施設から逃げ出させてくれた。でもあいつらは何処までも追い駆けてきて……。そんな状況の中で、みなさんは私を助けてくれた。とても嬉しかった、一人で心細かったから」
零れそうになる涙をグッと抑えているのだろう。泣いている時じゃない。今はしっかりと伝えなければ。そんな強がりがソーニャからは感じられる。そしてそれを察したシュールらは、ただ黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「どうしてラウラが私の為に自分を犠牲にしてくれるのか、その理由は分かりません。でも結果として彼女は人ではない姿になってまで私を助けてくれた。そしてそんな彼女の事を、あなた達は信じてくれている。あのラウラの姿を見れば、誰だって逃げ出したくなるものです。でもあなた達は違った――。ラウラは言ってました。あなた達なら、ジュールさんなら信頼出来るって。その言葉の裏を返せば、ラウラは私への気遣いを心配せずに済むって事になります。そうなればラウラは自分の事だけを考えて、逃げ出す事だって出来るはず。だから私はお礼が言いたかったんです。本当にありがとうございました」
強がりなのかも知れない。でもそう告げたソーニャはジュールに向かい微笑んで見せた。そんな少女の健気な姿にジュールは頭を掻きむしりながら苦笑いを浮かべている。別にそんなつもりは無かったのだと、彼なりに照れているのだろう。そしてその横でアニェージもまた、表情を引きつらせてソーニャを見つめていた。
「参ったね。初め私はそのラウラって子を本気で殺そうとしてしまったんだよ。それなのにお礼を言われるなんて、罰が当たりそうだよ」
「まぁ、あの時はしょうがないだろ。地下道でいきなり遭遇したんだからさ。それにあの時のあんたはヤツってだけで全て敵だと考えていたんだ。無理も無いよ」
気の萎えるアニェージにジュールは気遣う言葉を掛ける。それに対して彼女は心配いらないとばかりに強く頷いて見せた。ジュールはそれを確認すると、再びソーニャの方に向き直る。そして少女に優しく告げたのだった。
「こっち側にも色々な考えの人がいてね。その全部がヤツに対して理解を示しているわけじゃない。それにヤツの方だって、狂暴なだけの奴とかいるだろ。でも俺達はヤツの元が普通の人間だったって事を知ったんだ。だから俺達はもうかつての様に、ヤツってだけで敵視するつもりはない。だからさ、ソーニャ。君は安心して自分の事だけを考えながら、大人しく休んでいてくれないかな」
ジュールはソーニャの肩にそっと手を掛けると、ニッコリと微笑んで見せた。するとその笑顔につられる様、ソーニャも柔和に微笑む。――がその時、
「キャァ!」
突然悲鳴を上げるソーニャ。するとそれと同時に脳ミソを貫く様な衝撃が部屋中に響き渡った。
「ガシャーン!」
部屋に置かれていた陶器の器が砕け散り、またガラス製の花瓶に亀裂が入る。そしてジュール達は耳を抑える格好で全員が膝を付いた。だが衝撃は一瞬の出来事であり、辛い表情を浮かべながらもジュールらは直ぐ様立ち上がって状況を確認した。
「何だったんだ今のは。頭が割れそうになったぞ」
「ちょっと待つき、ソーニャの様子がおかしいがよ!」
リュザックの言葉に皆はソーニャへと視線を向ける。するとそこには頭を抱えた少女が、蹲りながらその身を震わせていた。
「大丈夫かソーニャ! 一体どうしたっていうんだ」
ジュールは身を屈めて少女に問い掛ける。するとソーニャはそんなジュールの服を強く掴み、震えた声で懸命に言ったのだった。
「も、もう時間が無い。だからこれだけはジュールさんに伝えたい」
「無理するな。言いたい事があるなら後で聞いてやる。だから今は」
「ダメ! 今この場で伝えなければ――。お願い聞いて、私が【私】でいられるうちに」
必死に縋るソーニャの鬼気迫る威圧感にジュールは気押される。訳の分からない状況が緊迫感を更に高めていく。その中でソーニャは自身を蝕む苦痛に表情を歪めながらも、懸命に話し出した。
「あ、あの組織で私達アスリートが研究されていた目的。それは肉体的に優れた力を持つ人間の能力を研究する事で、それを医学的に利用し障碍者の人達の回復に繋げるもの……なんかじゃない。本当の目的は、ヤツっていう怪物の力を更に高める為の手段を見つけるためのものだった。でもそれにも騙されちゃだめ。あいつらが最終的にやろうとしている事は、うチュッ……つ」
「お、おい。しっかりしろソーニャ! 気をしっかり持つんだ!」
「き、気を付けて。あ、あいつらは……神は……、【幻日】と混同させるトリックで世界をミスリードしているはず。だから――」
「おいソーニャ! しっかりしろ!」
ジュールは意識の薄れていくソーニャの肩を揺らし、必死に繋ぎ止めようとする。しかしその甲斐も空しく、少女は意識を失った。――かの様に見えた。だが次にジュール達が目にしたのは、とても信じられないソーニャの態度であった。
ガクッと首を垂れさげ、力の抜け切った体勢でジュールに支えられるソーニャ。だが少女は音も無くその首を持ち上げる。そして白目をむいたまま、聞くに堪えない苦痛に満ちた声で彼らに告げ始めたのだ。
『日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日と並んで支配すべき存在とした――。太陽と月はその大きさも役割も対等である。それゆえに黒い太陽と朱い月もまた、対等であると言えよう。心するが良い。【始め】に【何か】が【存在した】。失われた十七の部族からなる小国の末路を知れば、そなたの願いは【誘木】に届けられるはず。――月読の胤裔よ。過酷な未来の先に、それでもそなたは何を願うのか……』
突然少女から発せられた意味不明な言葉にジュールは言葉を失っている。するとそんな彼の顔にソーニャは優しく手を触れさせた。正気に戻ったのか。黒目の戻ったソーニャは、澄んだその瞳でジュールを穏やかに見つめている。ただその両目からは、一筋の涙が零れ落ちていた。
「ソ、ソーニャ。君は一体?」
「あなたはとても哀しい人。あなたはこの先、そう遠くない未来で選択しなければならない事になる。それもその選択は悲痛なまでに残酷なもののはず。でも、それでもあなたは足を前に踏み出さねばならない。――私にはそれが不憫で仕方ない。私はあなたの代わりに、こうして涙を流す事しかできない。けれどこれだけは忘れないで。月読の力は守護の力。誰かを守る時にこそ、その力は本当の力を発揮してくれる。そしてあなたならば、あなたならばきっと、その力を真の意味を受け入れてくれるはず。だから……」
そこまで告げたソーニャは完全に意識を失った。そんな少女の体を強く抱きしめながら、しかしジュールは少女の告げた言葉に竦み上がる怖さを感じていた。言葉の示す意味など理解出来るわけが無い。それでもジュールの背中には、尋常でないほどの冷たい汗が流れ落ちていたのだった。
「おいおい。今のは何だったきよ。ありゃ小娘が自分の言葉で言ったモンとは思えんがね」
「た、確かに。まるで何かがソーニャに乗り移っていたかの様な」
「バ、馬鹿モンが。ゆ、幽霊でもいたっちゅうがか?」
「なんだリュザック。お前、幽霊が苦手なのか。おっさんのくせに臆病な奴め。でも今のは明らかに普通じゃなかったな。とてもソーニャ自らの言葉だったなんて思えないよ。それに……」
アニェージは何かを思ったのか。額に指を当てた仕草で考え込む。そんな彼女にヘルムホルツが意味ありな言葉を投げ掛けた。
「ソーニャが初めに告げた言葉の声と、ジュールの顔に触れながら話した時の声って、どこか違わなかったか? 初めのは何っていうか、本当に悪霊にでも憑りつかれた様な声だったけど、でも後の方はどこか温かみがあるっていうか」
「そうなんだ。確かに私もヘルムホルツの言う通りに聞こえた。それも後の方の声には、どこか聞き覚えの様なものがあるんだよね」
未だアニェージは渋い表情で考え込んでいる。どことなく聞き覚えのある声に蟠りを感じているのだろう。ただそんな彼女を現実に引き戻したのは、取り急いだ声を上げるシュレーディンガーだった。
「そんな話は後にしろ。ブロイとアニェージは手を貸せ。すぐにソーニャを病室に戻すぞ! こいつは極めて危険な状態だ」
我に返ったアニェージは現実を見定め、ぐったりとしたソーニャの体を優しく抱きかかえる。そして意識の無い少女の体をブロイの背中に背負わせた。先導するシュレーディンガーの姿はもう部屋の外へと消えている。アニェージはヘルムホルツとリュザックに向かい、部屋で待機しているよう口早に告げると、少女を背負ったブロイと共に急いでシュレーディンガーの後を追った。
突如として発生した意味不明な現象に、部屋に残るヘルムホルツとリュザックは半ば茫然としている。それに意識を失ったソーニャの今後も心配で仕方ない。ただそんな彼らの意識とは別に、ジュールは未だ背中に伝わる戦慄に戸惑っていた。
ソーニャが自分の頬に優しく両手を添えて語り掛けたあの声。その声にジュールは身悶えするほどの恐怖感を覚えていたのだ。胸が詰まるほどに息苦しい。そんな事があるわけが無い。でも聞き間違えは無いはずだ。だってあの声は――。
「ふざけるなよ、何かの間違いだろ」
ジュールは吐き捨てる様に一言呟く。そして静まり返った部屋の中で、生温い汗の湧き出した拳をグッと握りしめていた。
あれから半日近くもの時間が経過している。もう外はすっかりと、星の輝く夜空になっている頃であろう。しかし未だシュレーディンガーは部屋に戻らない。それどころか何一つ連絡がないのだ。一体ソーニャの身に何が起きたというのであろうか。いや、それよりもソーニャの体は無事なのであろうか。
心配は尽きる事が無い。でもそれを気に留めたところで、ソーニャを救う手立てにはならないのだから、忸怩たる無念さを感じてしまうものだろう。ただ時間だけは無情にも過ぎ去っていく。そんな中、部屋に残されたヘルムホルツはグラム博士の書き残した波導量子力学についての文献に目を通していた。
変調を見せた少女を思えば冷静でなどいられやしない。しかし自分には医療に通じた知識はないのだ。ならば少女の回復を信じて待つしかないだろう。そう感じたヘルムホルツは、今自分が出来る最優先の命題として、波導量子力学の知識を少しでも高めようとしていたのだった。
幸いにもこの部屋には、科学者であるヘルムホルツが一生を費やすほどの価値のある書物が山積している。いや、ここにしか存在しない貴重な資料が所狭しと陳列されているのだ。それらを前にしてただ待ちぼうけをするなど、ヘルムホルツの科学者としての探求心が許すはずもない。彼は食事の時間すら忘れ、ひたすらに論文を読み続けていた。
それとは対照的にリュザックは、ゆったりとした姿勢でソファに腰掛けテレビを眺めていた。何も考えず、ただ漠然と画面を見つめている。他者から見れば、きっとリュザックの態度はそんな緩慢なものに見えたであろう。いや、彼自身にしてみても、きっと意識はしていないはずなのだ。
本当に厄介な事に引きずり込まれた。彼はそう思っていたに違わない。でも彼の持つ天性の洞察力は、その能力を本人すら気づかぬところで働かせていたのだった。
彼の見つめるテレビ画面に映るのは、地元グリーヴスでのニュースを取り上げる情報番組であった。そこでは最近になってグリーヴス及びその近郊で発生した事件などをいくつも報じている。やはり経済都市だけに、その大部分は金に関係した報道が多い。それに田園都市というだけに、環境を取り上げた話題も豊富だ。ただそれにも増してこの街には多くの人々が暮らしている。そうなれば血生臭い事件もそれなりに多いのだろう。
ボーアの反乱後における復興関連の話題が映し出される途中、急きょ臨時の速報がテロップとして画面上部に映し出される。そこには幼い子供が失踪したのと情報が流されていた。
「なんぜぃ、この街は誘拐が流行っとんのかいな」
ソファに横になりながらテレビ画面を見ているリュザックは、そう独り言を呟きながらケツをボリボリと掻きむしっている。ただその怠けた姿勢とは裏腹に、彼の脳裏にはニュースで取り上げられたあらゆる報道事項がすり込まれていた。そしてジュールはというと、部屋の隅にある一人掛けの小さな椅子に座り、そこでアダムズ王国やルーゼニア教にて語り継がれている、神話に関連した資料を読んでいた。
ソーニャの発した意味不明な言葉が気になったからに他ならない。それに自分の身に課せられた宿命の持つ意味について、何でも良いから知っておきたい。彼はそう思い、資料を次から次へと読みあさっていたのだ。だがしかし、そこに彼の知りたい重要な手掛かりは、何一つ記されてはいなかった。
神話について書かれたどの資料に目を通したとしても、そこには以前にグラム博士より聞かされた内容以上の詳しい情報は見当たらない。いや、それどころか資料に書かれた神話の内容は、どれもみな同じものなのだ。
(何だってンだよ、みんな同じ事ばっかり書きやがって。これじゃぁ何にも分かんねぇじゃねぇかよ、クソっ)
ジュールは胸の中に溢れる蟠りに苛立ちを募らせている。それでも彼は些細な手掛かりを探し求める様に、次の資料に手を伸ばした。
それぞれが個別に意識を集中させるこの部屋の空気は僅かに冷たくて少し重い。ここが地下に隠された秘密のフロアだけに、余計にそんな息苦しい感覚を感じさせるのだろう。ただこんな時だからこそ、空気の入れ替えは重要だ。4人分の食事を用意したアニェージが再び部屋にと戻って来る。そして彼女はジュール達に対し、元気を出せとばかりに声を張ったのだった。
「ずい分とシケタ空間だな、この部屋は。まぁそれも皆腹が減ってるからだろう。まずはこれでも食べて腹を膨らませたらどうだ。みんな朝から何も口にしてはいないんだろ? それに考えてばかりいても状況は何も改善はしないんだしね」
そう告げたアニェージは、やれやれと言ったふうに微笑んで見せる。ただそんな彼女にジュールは強く詰め寄った。
「どうなんだアニェージ、ソーニャの具合は! あれから何の連絡も無いけど、彼女は無事なんだろうな!」
ジュールの詰問にヘルムホルツとリュザックもアニェージへと視線を向ける。しかし彼女は手の平を上に向けて首を横に振るだけだった。
「悪いが私も何も知らないんだよ。ソーニャを病室に運んでからというもの、社長はその中に籠りっきりで出てこない。私とブロイは入室を断られているし、不安なのは私も同じなんだよ」
「そ、そうか。でもこんなに時間が掛かるなんて、悪い事になってなければいいんだが」
「まぁそれを私達がここで悩んだところで仕方ないんだ。だから食事にしよう。腹が減ってたら、いざって時に何も出来ないだろ。それにお前とリュザックはグリーヴスに来てからというもの、王子のガス抜きにつき合わされてほとんど寝てないんだ。不安な気持ちはよく分かるけど、でも少しゆっくりしたらどうだ?」
アニェージはそう言うと、一人分の食事が乗ったトレーをジュールに差し出した。苛立ちを押し殺すジュールはそれを受取ろうとはしない。しかし彼女の言う事の方が正しいって事も理解している。
「まったく、俺って奴は役立たずだな。チクショウ」
そう吐き捨てたジュールは差し出されたトレーを掴み取ると、椅子に腰かけそれを強引に口の中へと流し込み始めた。そしてその姿に促されるよう、ヘルムホルツとリュザックも食事を取り始める。ただそんな一息ついた状況が、皆を少し冷静な気持ちにさせたんだろう。ヘルムホルツが思い出したようにジュールに聞き尋ねたのだった。
「そう言えばジュール。お前少し前にトイレに行くって言ってから、結構長い時間戻って来なかったな。どっか行ってたのか?」
「ケッ。メシ食ってる時に変な話はよすがよ。超長ぇクソしてたに決まってるだが」
「よ、よして下さいよリュザックさん。別に俺はクソなんかしてませんよ。ただちょっと気になった事があったんで、ブロイさんに頼んで1階に行ってたんですよ」
「1階に? 何しに行ったんだよ」
ヘルムホルツは鋭い目つきでジュールに詰め寄る。するとジュールは意外にも表情を赤くしながら、気恥ずかしそうに告げたのだった。
「い、いや、ちょっとな。ア、アメリアの事が気になったから、連絡してみただけだよ。あいつも今、ルヴェリエを離れて故郷の田舎に帰ってるからね。変わりはないかなって思っただけさ」
「カァ~、焼けるがね~。こんな状況で彼女に連絡取っとるなんぞ、お前余裕ありありだの」
「だからそんなんじゃないですよ。アメリアの御袋さんが事故に遭って怪我したって聞いてたし、その辺も心配だっただけです」
「それで、アメリアの御袋さんの容体はどうなんだ?」
「あぁ。それなら問題はないらしいよ。二人で親父さんの墓参りに行ってたみたいだし、思ったよりも元気なんじゃないのかな」
「そうか。それなら良かったな」
安心したとばかりにヘルムホルツはホッと胸を降ろす。その横でリュザックはぶすっとした表情で箸を進めていた。そしてアニェージはというと、意味深に微笑みながらジュールに視線を向けている。シュールはそんな気味悪いアニェージの表情に気付くと、歯向かう様に彼女へ向け苦言を申したのであった。
「何だよアニェージ。何か言いたい事があるならハッキリ言ってくれよ。あんたのその顔は正直気持ち悪いぞ!」
ジュールは未だ顔を赤く染め上げている。そんな彼に向け、アニェージはからかう様に告げた。
「いや、お前の成長に関心しているんだよ。誰かに催促されるわけじゃなく、自分から彼女に連絡取るなんて良い事じゃないか。恥じる必要なんてどこにもないぞ。もっと堂々としろよ」
「バ、バカ。ふざけるのも大概にしとけよな」
ジュールのムキになって反発する姿に皆は思わず吹き出してしまう。それまで重い空気に支配されていたからこそ、彼らはその反動でジュールの大人げない姿に微笑ましさを覚えたのだ。そしてジュール自身もまた、その和やかな空気に落ち着きを取り戻して行く。するとそんな冷静さがジュールに一つの謎を思い出させた。彼は箸をテーブルに置くと、胸のポケットに忍ばせて置いた一枚の写真を取り出したのだった。
ジュールが取り出した1枚の写真。それはかつてソーニャが裏組織の施設を抜け出す際、ラウラより託された写真であった。新緑に包まれたどこかの山道を写した風景。それもその山道は、一直線に真っ直ぐと走るものである。
「すっかり忘れてたよ。この写真も後でシュレーディンガーさんに見てもらわないとな。もしかしたらソーニャと関係あるかも知れないし。ただ前々から気になってたんだけどさ、この写真に写ってる坂道。どっかで見た事ある気がするんだよなぁ」
「フゥ。そう言えばお前、初めにその写真を見た時もそんな事言ってたな。確かに一直線で印象深い山道だけど、でもかと言って特別にめずらしいわけでもないし、気のせいなんじゃないのか? 探せばそんな山道、色々な所にありそうなモンだぞ」
写真の中の山道を注視するジュールに向かい、ヘルムホルツが肩の力を下ろしながら言う。写真の山道は彼の言う通り、一直線である特徴以外に特段変わった場所は無い。それゆえにヘルムホルツの指摘は現状で言えば当たり前のものなのであろう。ただそれでもジュールは首を捻っている。彼にはまだどこか腑に落ちない点があるというのであろうか。するとそんな訝しい心情のジュールに同調する様、アニェージが横から口を挟んだ。
「そう言えばその写真。ソーニャが言うには【誘道】の場所を示すとか何とかって言ってたよな。確か昼にソーニャが変調を来してジュールに告げた時も、その誘道がどうのって言ってなかったか?」
アニェージの投げ掛けた言葉にジュールとヘルムホルツは考える。確かにあの時ソーニャはそんな事を告げた気がする。でもその意味を捕える事なんて出来るはずもない。少女は自分達に一体何を伝えようとしていたんだろう。三人は一様にそう模索する。ただそんな三人に対し、テレビを見続けながら食事をしているリュザックが訂正を促した。
「昼にソーニャが言っとったのは誘道じゃなこうて【誘木】だがよ。じゃから写真の場所に込められちゅう謎と、昼に小娘が言ったモンが関係する事かどうか、そりゃ分からんぜよな。ただ誘道と誘木って言葉の響きからすると、まったくの無関係とも思えんきね。まぁ、それが何を意味しちゅうかは、俺にもさっぱり分からんけんどな」
リュザックは箸を止める事無く、憮然とした姿勢のままそう告げた。しかしその言葉が重要な何かを浮き彫りにする手掛かりになる様な気がする。そう思ったジュール達は、またもリュザックの意外性のある発想力に舌を巻いた。――だがその時だ。それまで覇気なくテレビを見続けていたリュザックが突然その重い腰を持ち上げる。そして彼は身を乗り出しながらテレビ画面に接近した。
「冗談じゃろ、おい……」
トレーを床に落とした事で、足元に食べかけの食事が散乱する。さらには飲み掛けのお茶までもが、床に敷かれた絨毯をびしょびしょに濡らしていた。
「あちゃ。リュザックさん、何してんすか急に。こんなに散らかしちゃって、シュレーディンガーさんに怒られますよ」
「バカ言うなきよ、それどころじゃないがき。お前達もテレビを見るがね!」
「はぁ、何をそんなに取り乱してるんだよ。いい歳したおっさんがみっともないぞ――」
アニェージが最後に言葉を発すると、その部屋は再び不穏な静けさに支配される。そこにはただ、テレビより流れるニュースキャスターの冷静な声だけが聞こえていた。テレビに釘付けになるジュールらは声を発する事無く立ち尽くすのみである。そしてテレビ画面を注視する四人の背中に、尋常でないほどの悪寒が走りぬけていく。それが悪質な悪戯であったならば、どれほど救われた事であろうか。しかし現実は残酷なまでに真実を告げていた。そう、テレビの中のニュースキャスターは、粛々とこう告げていたのだった。
「繰り返しお伝えいたします。先程入って来たニュースですが、アダムズ軍の総司令であるアイザック氏が何者かによって殺害された模様。遺体の発見現場は自宅であり、死後少なくとも2~3日は経過している様子。首都庁直轄の警察部隊が現場にて捜査を開始していますが、現在のところ殺害に至る経緯は不明で…………」
朗らかな南風が満開の桜の木を優しく揺らす。どこからともなく聞こえて来る雲雀の囀りは、ピンク色に染め上げられた山道を更に春めいた感覚にへと誘っていく様だ。バスに乗る少女は車両より伝わる適度な振動に軽い眠気を感じつつも、そんな春の温かい香りにどこか嬉しさを覚え独り微笑む。ただ少女はエメラルドグリーンに輝く瞳で遠くに見える山脈の頂に視線を向けると、ふと小さく呟いたのだった。
「どれもまだ真っ白なものばかり。あそこは今でも真冬なのね……」
時代遅れな大型のディーゼルエンジンより黒煙をもうもうと吐き出すバスは、緩やかな傾斜の坂道を懸命に上って行く。その姿から察するに、恐らく引退は近いのであろう。それでもバスは元気いっぱいに、最後まで与えられた職務を全うしようと走り続ける。もう次の春までは走れないかも知れない。だからこんなにも威勢よく、エンジンを唸らせているのだろう。ううん、そうじゃない。そもそも今度の春ですら、迎えられる保証は無かったはずなのだ。むしろ諦めていた新しい春の訪れを素直に喜んでいる。そんな感覚の方が近いはずであろう。少女はそんな妄想を膨らませながら口元を僅かに緩めている。そしてその隣の席ではガッシリとした体格の中年男性が、帽子を深くかぶった状態でうたた寝をしていた。
乗客のまばらなバスは田舎道を更に人里離れた地域へと進んでいく。その為なのだろうが、停留所に止まる度に乗客は一人また一人と姿を消して行くばかりだ。まして新たに乗り込んで来る客の姿は皆無である。そんな中で、明らかに地元の者とは異なる少女の存在はやはり異質なのであろう。バスの運転手はおろか、数少ない地元の乗客らは横目に少女の姿を気にしていた。ただそんな彼らに対し、少女の横で居眠りをしているはずの中年男性は、まるで威嚇でもするかの様に時折鋭い視線を向けた。寝ぼけているだけなのだろうか。それとも少女に何かしらの危害が加えられぬよう見守っているのであろうか。再び眠りに落ちて行く男性の態度からは、その理由を垣間見る事は出来ない。そんな不思議な存在の二人を乗せたバスは、明るい陽の光に照らされる桜並木の道をのんびりとした速度で進んでいた。
そらから間もなくしてバスは山間の小さな里に差し掛かる。するとそこで目を覚ました中年男性は、次の停留所で下車するためのブザーを押した。
「ここで降りるの? 目的地はまだずっと先じゃ」
「長旅の前の一休みだよ。ちょうどここに古くからの馴染みが暮らしていてね。宿代わりに一晩泊めてもらう約束になっているんだよ。それに彼には目的地に向けたガイド役も引き受けてもらっているからね。着いたらちゃんと挨拶して下さいよ」
目尻に深いシワを浮かべながら男性は柔和に微笑む。少女を不安にさせない彼なりの心配りなのだろう。ただその表情から思うに、古い馴染みと呼ぶ男性を訪ねる事は、彼自身にとっても嬉しくて仕方ないもののはずである。そうでもなければこれ程まで自然に、柔らかい笑顔を浮かべられるはずがないのだから。そう素直に受け止めた少女は笑顔で頷き返す。そして段々畑が綺麗に広がる谷に面した停留所でバスを下車した二人は、温かい南風に背中を押されながら里の小道を歩み始めた。
小さな煙突のある家のテラスで少女が一人椅子に腰かけている。ただどうした事か、彼女は頬を膨らませては独り言をブツブツと吐き出していた。その様子から察するに、彼女が気分を害しているのは間違いない。穏やか過ぎるほどの麗らかな小春日和だというのに、少女の胸の内はそれとは真逆に最悪の天候の様である。一体何をそんなに怒っているのだろうか。ただそんな彼女の心情など、身近な者からすれば容易に想像し得るものなのであろう。開け広げた窓より顔を出した父親が、含み笑いを浮かべながら彼女に声を掛けたのだった。
「おやおや。今日はいつになくご機嫌ななめのようだね、アメリア。でもそうせまたジュールとケンカでもしたんだろ? まったく、毎日ケンカばかりして、よく飽きないモンだな君達は」
「フン、あのバカが悪いのよ。自分勝手な事ばっかりでホントにムカつくんだから。もう二度と口利かないんだからね!」
顔を赤く染め上げながらアメリアは口を尖らせている。どうやら彼女は相当頭にきているらしい。だがそんなアメリアの気持ちを解す様に父親は柔和に告げる。娘の怒った表情もまた愛くるしく見続けたいと感じもするが、しかし今はそれ以上に大切な案件を彼は抱えていたのだった。
「今度ジュールに会ったら僕の方からも言っておくから、そろそろ機嫌を直してくれないか。もうすぐ大切なお客さんが来るんだからね。今日くらいはお淑やかに頼むよ。それよりお母さんは何処に行ったんだい? 朝食の後から姿が見えないけど」
「あれ、お父さん聞いてないの? お母さんなら裏山のおばあちゃんの所に行ってるよ。昨日おばあちゃん畑仕事中にギックリ腰になっちゃったから、様子を見に行ったんだよ。でもお昼くらいには帰ってくるんじゃないのかな」
「う~ん、参ったな。おばあちゃんが心配なのも分かるけど、でも今日お客さんが訪ねて来るって事も知ってるはずなんだけどね。お母さんが居ないと困るんだよな」
父親は頭を掻きながら思いあぐねている。訪問客を招き入れる為の準備がまだ整っていないのであろうか。だがそんな父親の心配を嘲る様に、アメリアは少し意地悪く告げたのだった。
「いつもお母さんに家の事任せっぱなしだからいけないのよ。ほら、お客さんもう来たみたいだよ」
そう言ってアメリアは腕を伸ばして指差した。父親はそれにつられながら視線を向ける。するとそこにはガッシリとした体格の男性が、一人の少女と共にこの家を目指して歩いていたのだった。
帽子を手に取った男性は、アメリアの父との再会を素直に喜びながら挨拶する。
「やぁ【ハーシェル】、久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」
「こちらこそ【ボーア】さん。あなたも変わりなさそうで安心しました。それにしてもこんな田舎まで、遠路遥々大変だったでしょう。さぁ中へ入って休んで下さい」
アメリアの実父であるハーシェルは、古くからの友人であるボーアとその連れである少女を家の中に招き入れる。そしてアメリアはその横で珍しい来客の姿に目を丸くしていた。
彼女は実際にパーシヴァル人に会うのが初めてだった。その為に、エメラルドグリーンに輝く瞳に彼女は釘付けになってしまったのだ。ただそれにも増してアメリアの胸はドキドキと高鳴りしている。彼女はボーアという父の友人と共にいる一人の少女の姿に、心惹かれる魅力を感じてならなかったのだ。
自分より少し年下であろう。でもその容姿の可憐さは、まるでお伽の国のお姫様なんじゃないのかと錯覚すら覚えるほどに美しい。そう胸の内で感じているアメリアは、少女より視線を外す事が出来ずにいた。するとそんな彼女の視線を感じた少女は、気恥ずかしそうにしながらボーアの後ろに身を隠す。少女にしてみれば、あまりにも直線的なアメリアの視線に耐えられなかったのだろう。ただそれでも少女の表情は穏やかなものであった。もしかしたら少女の方も然程歳の変わらぬ女の子を目の前にして、安心感に近い嬉しさを感じているのかも知れない。その証拠に照れくさそうにしながらも、時折視線を合わせるアメリアと少女はお互いに含み笑いを堪えている。しかしそんな二人を余所に、ハーシェルとボーアは真剣な表情で話し始めていた。
「そうですか。グリーヴスよりブリアルドス山方面を迂回してここまで来たのですか。どうりで到着が遅いはずですね。でもどうしてそんな遠回りしたんです? ルヴェリエを経由して【ボーデの町】まで来れば、もっと早くて楽だったでしょうに」
「こちらのお連れ様がどうしても霊峰山を見たいとせがむもんでね。観光名所なだけに人目を忍ぶにも都合が良かったし、建前としては社会勉強だったと理解してくれるかな」
「物は言いようですね。でも無事にここまで来れたわけですから、僕の方から責める理由はありませんよ。ただ彼女を見た限りじゃ、嫌でも目立っていたんじゃないのですか?」
ハーシェルはボーアの後方に身を隠す少女を見ながらそう告げる。それに対してボーアは苦笑いを浮かべながら返したのだった。
「そうだね。正直な所、分かる者には分かってしまっただろう。庶民の身なりをさせてはいたが、やはり存在感が抜群だからね。ただ安全には十分配慮していたつもりだし、それに今は腕利きの助っ人も呼び寄せている。すでに彼らはボーデの町に到着しているはずから、連絡がつけば半日もしないで合流できるはずだ」
「う~ん、でもそれは参りましたね。実はこのところ【北の教会】付近で怪しい兆候が見られまして。通信機器の類は使用を控えているんですよ。もちろん電話もです」
「そうか、ここは北の教会が近かったのだな。田舎だからと少し油断していたようだ。でもどうしてこの時期に――。こんな時こそグラム博士がいてくれれば助かったのだが、それを嘆いても仕方ないな」
「なら僕の娘を使いに出しましょう。ボーデの町には頻繁に遊びに出掛けていますんで、全然問題ないですよ。な、アメリア」
ハーシェルは半ば強制とも取れる言葉でアメリアに告げる。それに対して彼女は少しだけ驚いた。突拍子もない不意な父からの申しつけがその原因ではあったが、しかしアメリアは父の仕草に漠然とした違和感を覚えたのだ。
考古学者であり、また冒険家でもある父は旅に出ると軽く一年は家に戻らない。その為なのだろうが、ハーシェルはアメリアに対して何かを強要する事はまったく無かった。恐らく彼は普段会えない愛娘を目の当たりにすると、その大好きさよりつい甘くなってしうのだろう。そんなハーシェルがアメリアに向けて初めて仕事を依頼したのだ。
来客の前だから父親の威厳を見せたかったのだろうか。いや、そんな事で態度を変えるほど父は小さい人でははないはず。アメリアは心の中でそう思う。ただ次の瞬間、彼女はハーシェルの表情を見てハッと察した。たぶん来客者との話しを自分に聞かせたくないため、人払いをさせているのだろうと。そうとでも考えなければ、いつもはボーデの町に遊びに行くことを心配している父が、進んで行けなんて指示するはずがないのだから。
理由が分からないながらもアメリアはハーシェルの申し出を承諾する。別に家に残っていても暇なだけだし、逆に断る理由もなかったのだから妥当な成り行きであろう。するとそんな彼女に向かい、人の良さそうな微笑を浮かべたボーアが、胸ポケットより1通の手紙を手渡して告げた。
「ボーデの駅前ホテルにハイゼンベルクとディラックという二人の青年が宿泊しているはず。彼らは私の優秀な部下達でね、その彼らにこの手紙を渡してほしいんだ。引き受けてくれるかね?」
「ボーアさんでしたね。任せて下さい、これくらいお安い御用です」
「ハハッ。さすがは稀代の冒険者であるハーシェルの娘さんだ。頼もしくて助かるよ。ホテルにいる二人の青年は、見た目は怖そうに見えるかも知れないけど、話せばそんな事はないから安心しなさい」
「分かりました。じゃぁ私、行ってきます」
「車には気を付けるんだぞ!」
ハーシェルがそう叫んだ頃にはもうアメリアは駆け出していた。山間の小さな集落であるがゆえに、里に止まるバスは日に何本も無い。だからタイミングを逃すと必然的に町に行くのが遅くなってしまう。感覚としてアメリアは迅速な行動に出たのだろう。そしてそんな彼女の機敏な行動力にまたしてもボーアは声を上げて笑った。彼はやはり親子で血は争えないとでも言いたかったのだろう。
小走りでバス停を目指すアメリアは一人思う。
(ジュールも誘えばよかったかなぁ。ううん、ダメ。絶対ダメ。あいつとはケンカ中なんだから、向こうから一緒に行こうって言われても断るべきなのよ)
無理やり怒りを湧かせようと試みるも、どこか寂しく感じてしまう。アメリアはモヤモヤする胸の内に嫌悪感を覚えて仕方なかった。それでも彼女は気持ちを切り替えようとバス停に向け足を速める。だがそこでアメリアは大切な事に気が付きその足を止めた。
「やだ私、財布持って来るの忘れちゃった。もう何やってるんだろ……」
自分のミスに嫌気が差し気持ちが萎える。それでも引き受けた仕事を途中で放棄するわけにもいかず、彼女は仕方なく来た道を引き返した。
家を出てから20分後、彼女は振り出しに戻っていた。ただ財布を忘れて戻って来たなんて、来客者の前ではさすがに恥ずかしい。任せてくれと言った挙句、威勢よく家を飛び出して行ったのだ。それだけに彼女は忍びなく、家に入る事に躊躇しているのだろう。それでも時間は待ってはくれない。父に揶揄された時の言い訳をいくつか用意したアメリアは、覚悟を決めて家のドアを開ける。だがそこで彼女が目にしたのは、予想し得ない意外な状況であった。
家の中にはあの少女一人のみがいた。どうやらハーシェルとボーアは家に居ないらしい。からかわれる事態を避けれた事にホッと胸を撫で下ろしたアメリアは、自分の部屋に財布を取りに行く。ただ再度家を出発しようとした彼女だったが、一人取り残された少女が気になり足を止めた。
「財布忘れちゃって。私ってドジだから、いつもこんな感じなんだよね。それにしてもお父さん達どこ行っちゃったの?」
「あ、ボ、ボーアさん達なら、ハーシェルさんのおじい様のお墓参りに行きました。でもすぐに戻るから私にはここで待っていてほしいと申されて」
「そうなんだ。でも一人で待ってるだけなんて、寂しいよね。あ、そうだ。私の名前はアメリアっていうの。良かったらあなたの名前、教えてくれる?」
そう言ってアメリアはニッコリと微笑んで見せた。彼女の暮すこの里に同じ年頃の子供は決して多いとは言えない。でもだからこそ、アメリアは歳の近い少女に対して興味を惹かれたのだろう。そしてその問い掛けに少女の方も恥じらいながらも快く受け答える。少女にしてみても、同世代の、それも同性と話す事が嬉しかったのであろう。少女はアメリアにも負けない笑顔で言った。
「初めましてアメリアさん。私の名は【リーゼ】と申します。パーシヴァル王国から来きました。どうぞ、よろしくお願いしますね」