#61 逃水の公理(六)
「銀の玉にはリスクが有る。でもそれをグラム博士が何もせずにただ放っておくわけはないんだよね。危険度は極めて高かったが、博士は繰り返す実験を通して発見したんだよ。使用者のイマジネーション能力に左右されずに、瞬間移動を確実のものにする方法をね」
「確実に瞬間移動できる方法……」
固唾を飲みながらヘルムホルツが小さく呟く。それに目だけで頷いたシュレーディンガーは、銀の玉の使用条件に付いて更に話しを続けた。
「確実に瞬間移動を成功させる方法。それはね、事前に瞬間移動をするための【入り口】と【出口】を設定するって事なんだよ。どこにでも自由に行けるわけではないのだが、あらかじめ決められた出入り口さえ設けておけば、その場所には確実に移動する事が可能なんだよね」
シュレーディンガーはディスプレイを操作する為のリモコンに手を伸ばす。そして何やらリモコンを操作すると、突然テーブルの一部が浮き上がり、そこからプラスチック製の小さな容器が現れた。
プラスチック製の容器は乳白色をしているため、中に何が入っているのかは見る事は出来ない。ただそれを手にしたシュレーディンガーの姿からして、内容物は比較的軽い物なのだろう。するとシュレーディンガーは、徐にその容器をジュールに向かい投げ渡した。
唐突に投げ渡された事でジュールはそれを取り損ないそうになるも、何とか受け止める事に成功する。まったく、急に何てことするんだ。そう思いながらも彼はシュレーディンガーに内容物の確認をしてよいか聞き尋ねる。そしてそれに黙って頷くシュレーディンガーの姿を確認したジュールは、容器の蓋を捩じって開けた。
「!?」
内容物を見たジュールは首を傾げる。そして彼はその容器をヘルムホルツにへと手渡した。ジュールに続き容器の内容物を確認したヘルムホルツも困惑した表情を浮かべている。するとシュレーディンガーはヘルムホルツに容器を返すよう指示すると、手渡された容器よりその内容物をテーブルの上に振り出したのだった。
「何んじゃ、こりゃ?」
顎を摩りながらリュザックが呟く。またそれと同様にアニェージも理解し難い面持ちで、テーブルの上に広げられた【薄いピンク色の粉】を見つめていた。
「この粉はね、銀の玉を作製する過程で発生するミクロの素粒子の一種を、結晶として目に見える姿に膨張させた物なんだ。そしてこのミクロ素粒子の最大の特徴は、我々の知り得ない【別次元】を通して常に繋がっているって事なんだよね」
「ん? なんですか、その別次元で繋がってるって」
「簡単に言ってしまえば、ここにある粉を2つに分けるとする。そしてそれぞれを別の場所に持って行ったとしよう。我々の目から見たら、もちろんその2つに分けられた粉は、異なった別々の場所に存在している。しかしね、それらの粉は我々の知り得ない【次元】を通して、常に繋がっているんだよ。言い換えれば、どんなに遠く離れた場所に粉を分け隔てたとしても、それはこの世界での話しであって、その粉自体はまったく分離していないって事なんだよね」
「はぁ? まったく意味分からんだきよ」
リュザックが悪態つく様に強く吐き捨てる。だがそれもそのはず。彼でなくとも、意味不明なシュレーディンガーの話しを飲み込めるはずがない。その証拠としてジュールやアニェージも同様に表情を唖然とさせていし、また科学者であるヘルムホルツもその粉の説明について理解に苦しんでいた。ただそんな彼らに向かい、シュレーディンガーは曖昧ながらも丁寧に説明を続ける。実は彼自身もその性質の真相は計り知れていなかったのだが、それでも確立された条件を説明する事で、ジュールらに理屈を理解してもらいたかったのだ。
「このピンク色の粉はね、量子情報の通信を行う為の、ミクロ素粒子なんだよ。そしてもちろんこの粉の基となるものは、銀の玉の中にも収められている。そこで重要になってくるのはね、ピンクの粉と銀の玉はお互いに干渉する性質を持っているってことなんだ」
未だジュール達は首を傾げている。それでもシュレーディンガーは当然の様に話しを続けた。
「まず覚えておいてほしいのが、ピンク色の粉には親子関係が構築できるって事なんだ。分かり易く説明すれば、粉を2つに分けた場合、その量を均一ではなくて大小の差をつけるんだよ。するとね、多量のほうの粉は【親】になり、少量の粉は【子】になるんだ。そしてこの粉の性質として、別次元を通じて少量の子の粉は多量の親の粉の元に戻ろうとする特性を秘めているんだよね」
意味不明な解説にジュールの表情は険しいままだ。ただその横でヘルムホルツは気が付いたのだろう。彼は目を輝かせながらシュレーディンガーの話しに耳を傾けていた。
「次に覚えてほしいのは、ピンクの粉と銀の玉はその構成要素の核となる部分が共通した素粒子によって形成されているって事なんだ。その為に銀の玉を使用した際、もしその近距離にピンク色の粉が存在していたとするならば、銀の玉はその粉を強制的というか、半ば必然的に取り込んで発動するんだよ。すると一体どういった現象が起きると思う?」
そう告げたシュレーディンガーは、目の奥を輝かせるヘルムホルツに視線を向けた。するとヘルムホルツは一言だけこう答える。
「親の粉の元に瞬間移動してしまうってわけか」
「その通りだよ」
ニッコリと微笑んだシュレーディンガーが即答する。そして彼は補足を続けた。
「子である少量の粉は親である多量の粉の場所に戻ろうとする。逆に言えば親が子を引き寄せているとでも言えるかな。そしてその性質を利用して瞬間移動を確実なものとして成立させるんだよ。それが銀の玉を安全に発動する為の条件とされるものさ。どうだね、少しは理解してもらえたかな?」
シュレーディンガーは皆に向けて柔和に聞き尋ねる。するとそれに対し、意外にも意気揚々と答えたのはジュールであった。
「要は俺達の常識では計り知れない、不思議な粉って事なんですね」
能天気とでも言うべきなのか。理屈どうこうではなく直感としてそれを受け止めたジュール。それでもそこには彼なりの心意があっての事なのだろう。そしてそれを感覚として受け止めたヘルムホルツ達一同は、嫌味なく高笑ったのだった。
「ハハハッ。そいつは便利な解釈だな、ジュール。俺もその意見には賛成するよ。ハハッ」
「フフッ。私もジュールの意見に賛成するよ。まったく、お前の受け止め方はある意味天才的だな」
「本当だきね。よう意味は分からんが、説得力だけは妙にあるき」
周囲は穏やかな雰囲気に包まれる。一瞬ではあるが、重苦しい空気から解放された。そんな感覚なのだろう。そしてその中でシュレーディンガーも含み笑いを堪えながら話しを続ける。きっと彼もジュールの持つ不思議な魅力に気づき始めているのだ。
「どんなに私が頭を使って分かり易く説明したとしても、ジュール君の一言には敵わない様だね。まったく恐れ入ったよ。でもまぁ、それが不思議な粉だって事は私自身も一番納得がいく言い方だね。なにせ私自身もそのピンクの粉については、ほとんどその特性を理解していないのだから。でも少なからず判明している事実もある。それをもう少しだけ説明させてくれ」
そう言ってシュレーディンガーは、ピンク色の粉について補足を続けたのだった。
「標準体型の成人男性を瞬間移動させる場合、必要となる粉の量はおよそ500グラムといったところだ。だから1回の瞬間移動に必要となる粉の量は、入口と出口合わせて計1キログラムとなる。そして入口と出口の両方に共通する準備として、その500グラムの粉を人の収められる範囲の三角錐の頂点に配置する必要があるって事だ」
「三角錐の頂点?」
「うん。三角錐っていうのは、例えるならば底面を三角形としたピラミッドと思ってくれればいい。要は500グラムの粉を4分割し、それを底面の三角形に当たる頂点部分と、それらを結ぶ頭上の頂点に配置するんだ。そしてその三角錐ピラミッドの中に入り、銀の玉を発動させる。そうすれば自動的に出口に配置された三角錐ピラミッドに到達するって仕組みなんだよ」
「ん? 底面の三角形に粉を配置するのは良いとして、頭上部分はどうすればいいんですか? その粉は空中に浮かんではくれないんですよね」
「フフッ、面白い事を言うねジュール君。でも残念ながら粉は勝手に浮いてくれはしないよ。でもそんなに難しく考える必要はないのさ。まぁ方法はいくらでもあると思うんだけど、手っ取り早いのは粉を袋に入れて、それを天井から吊り下げれば準備OK。そういうレベルの話しさ」
「な、なんだ。そんな事で良いのかよ」
ジュールはホッと息を吐き捨てる。ただそれに反してシュレーディンガーは、険しい面持ちで話しを続けた。
「瞬間移動する為の準備としては、人目につく様な場所でなければそれほど難しい話しではない。ただ一点だけ注意してもらいたいのは、一度瞬間移動をしてしまうと、その時準備したピンクの粉は消滅してしまうって事なんだよね」
「しょ、消滅って。じゃぁ同じ場所でも、もう一度瞬間移動したいとするなら、再度粉の準備をしなければいけないって事ですか」
話の内容を理解しながらも、再確認する様に聞き尋ねるヘルムホルツ。それに対しシュレーディンガーは、静かに首を縦に振りながら告げた。
「ヘルムホルツ君が言った様に、瞬間移動を確実に発動させる為には手間が掛かる。それゆえに戦闘時の咄嗟の状況などでの使用は不可能と判断せざるを得ない。然るべき準備を整え、入念な計画のもとでのみ瞬間移動は可能となる。これはそれなりに頭の痛い材料なんだよね。そしてもう一つ。銀の玉の製造過程において、更に頭の痛い課題が浮き彫りになっているんだよ」
「何ですか、その課題って」
「うん。その課題っていうのはね、グラム博士が蓄光の理論から生み出した熱紋照射の技術の限界値の事なんだ。実はヘルムホルツ君が初めに気に留めた事案と密接に関わっている事でね。要は新型の玉型兵器のエネルギーの基となる熱紋照射技術には、時間的な制約が存在するって事なんだよ」
「やっぱり何かしらの制限の様なものがあるって事なんですね!」
身を乗り出す様にしてヘルムホルツが口走る。そしてそれに同調しながらシュレーディンガーは説明を続けた。
「新型の玉型兵器を構成する上での重要なエネルギー要素の一つ。それは【満月の光】に含まれた熱紋なんだよ。あまり詳細な内容を説明してもヘルムホルツ君以外には理解し難いだろうから省略するけど、一言で言ってしまえば満月の光の中に含まれた赤外線には、恐ろしいまでに密度を集約した未知なる力が備わっているって事なんだ。そしてその力は超次元な効力を有する波導量子力学の産物を玉の中に安定して留めさせる事が出来る。目に見えた派手さはそこに無いけど、でも私は思うんだよ。瞬間移動やブラックホールは確かに人知を超越した強力な技術なんだろうけど、しかしそれを安全に取り扱う蓄光の技術なくしてそれらは語れないのだと。だからもし私が波導量子力学の中で一番重要なものはと問われれば、その時は蓄光の技術なんだと即答するだろうね。だけど残念な事に、現時点において私達が制御しうる未知なる力の連続使用時間には、限度があるって事なのさ」
グラム博士が蓄光の理論の中から開発した神業技術。それは満月の光に含まれる高密度のエネルギー体である熱紋と、まったく同一なエネルギー体を人工的に造り出したという技術である。言わば理解不能とも呼ぶべき未知なる力を人の手で生み出し、それを制御する事に成功した。まさにこの発明こそが鬼才グラム博士の科学者としての凄さの揺るぎない証しなのだろう。だがしかし、そこには避けて通る事の出来ない物理的な限界が存在していた。
グラム博士の手によって照射が可能になった【人工満月光】。でもその照射時間には、連続して10時間が限度という稼働制限が設けられていたのだ。この理由は人工満月光を発光させる【特殊な媒体】が劣化する影響によるものであり、また世界に一つしか存在しないその媒体を過度に損傷させない為に、安全策としてグラム博士が設けた制限だった。
ただその人工満月光を発光させる特殊な媒体は、自己回復機能を有するという驚くべき特質を所持していた。人工的に生み出された媒体は無機質である事に違いはない。しかし連続して10時間効果を発揮し劣化したそれは、作動を停止させてからおよそ72時間で完全回復するのである。
ではなぜその媒体は自らを回復させる特質を持っているのか。残念な事にグラム博士亡き今では、それは大いなる謎でしかない。ただその媒体が照射する人工満月光には、天然の満月光と同一な高密度エネルギーが含まれており、その力の流用方法はロジックとしてある程度確立されていた。
「赤玉等の従来品の性能アップ仕様を完成させるのに必要な満月光の照射時間は、およそ3時間程度。白玉と桃玉を完成させる場合は、その倍である6時間程度といったところだ。だから連続して10時間照射できるその媒体を使用すれば、一回の作動でその条件を満たす事が可能なんだよ。それにね、仮にその触媒が無くなってしまったとしても、夜空に満月の浮かぶ一晩さえあれば玉を完成させる事が出来る。でも銀の玉に限ってはそうはいかない。なにせ銀の玉を完成させるのに必要な満月光の照射時間は、累積で【100時間】ほどだからね」
「ひゃ、100時間ですか」
「あぁ、そうだ。人工満月光を利用して単純に計算した場合、銀の玉を完成させるのにおよそ1ヶ月。もしも天然の満月光を利用して玉型兵器を造ろうと考えたならば、それは気が遠くなる話しであろう。そして付け加えるとするならば、触媒の照射する満月光が十分なエネルギーを玉に伝達させられる範囲は、一度に9個までなんだ。玉型兵器は種類ごとにバランス良く作らなければならないからね。だからどうしても銀の玉の作製には時間が掛かってしまうんだよ。これが銀の玉を作製する上での頭の痛い課題ってわけなのさ」
そう告げたシュレーディンガーは、軽く舌を出しながら手の平を上に向けた。彼のその姿を見る限り、それが本当に頭痛の種なのだろうと察する事が出来る。ただシュレーディンガーはそんな自らの態度に逆行する様、銀の玉についてその見解を述べたのだった。
「ガンガン使う事は控えるべきだが、かと言って出し惜しみするのも馬鹿げている。大量生産は出来ないまでも在庫として十数個、完成した銀の玉のストックはあるからね。だから君達には恐れる事無く、銀の玉をその状況に応じて使用してもらいたい。私はそう思っているよ」
新型の玉型兵器開発。そこにはグラム博士をはじめ、様々な人達の弛まない苦労と努力が存在したのだろう。幾度も失敗し、上手くいくかも分からない不透明な過程の中で、それでも硬くぶれない信念を持ち続けて挑戦し続ける。それがいかに難しい事であるのか。でもその結果、新型の玉型兵器は波導量子力学により完成した。
ジュールは思う。科学者でない自分には、それらの苦労は想像すらする事が出来ない。しかし現実として完成された新型の玉型兵器は目の前にあり、更に自分はそれらを使用出来る立場にいる。ならば遠慮なく使用するべきなのではないのだろうか。
それらは獣神に挑む為に生み出された産物であり、かつそれら無くして獣神は倒せない。それゆえに玉型兵器を使用する責任は重大だ。そんなプレッシャーにジュールは拳を強く握りしめる。しかし彼はそれでも前向きに覚悟を決めた。
玉型兵器の開発に込められたグラム博士の想いは計り知れない。でも自分にはそれに応える義務があるし、もう後には退けないのだ。今自分に必要なのは、新型の玉型兵器の効力をよく理解し、その使用状況を見極める事のはず。だったらシュレーディンガーが促す様に、積極的に玉を使用して前に進むべきなのだろう。
ジュールはきつく握りしめた拳をシュレーディンガーに向けてかざすと、彼の目を注視しならが一度だけ頷いた。するとそんなジュールの姿勢を快く受け止めたのだろう。頷き返したシュレーディンガーは、穏やかに微笑んだのだった。
少しばかりの休憩を終えた皆は、再度シュレーディンガーの腰掛けるソファの周囲にへと集まる。そして最後の玉型兵器である【金の玉】の説明に耳を傾けようとしていた。ただそんな皆を前にし、シュレーディンガーは顔色を曇らせる。それもそのはず。金の玉は未完成の状態であり、その本質を彼自身も知り得てはいなかったのだ。
「先にも話した様に、この金の玉が発動する効力はタイムトラベルだ。そして未完成であるこの玉を完成させる為に、我々はグラム博士が隠した最終定理を探し求めている。だからね、少し言い訳の様になってしまうが、私はこの金の玉について、これ以上君達に説明できる知識を持ち得ていないんだよ。済まないね」
「だったら六月の論文捜索を早々に再開したほうがよさそうですね。でもその捜索に行き詰まってるんだろ、ジュール?」
ヘルムホルツが次なる行動をジュールに示唆する。するとその問い掛けに対して彼は、腑に落ちていない心情を吐き出したのだった。
「そうだな。確かに今のところ六月の論文の手掛かりは掴めていない。でもソーニャを保護した天体観測所が怪しいってのは間違いないはずだ。だから首都に戻ったら徹底的に観測所を洗い直そうと思っている」
「でもあそこは裏組織に直結しとる場所だきね。ある意味、敵のアジトに乗り込む様なモンじゃ。それじゃけん、まずは作戦を立てんといかんぜよ」
ジュールの発言にリュザックが疑念を促す。そしてその言葉にアニェージは無言で表情を硬くしていた。ただそんな先の行動を考え始めるジュールらに向かい、シュレーディンガーが口を挟む。彼にしてみれば、まだ話は半分も終わっていなかったのだ。
「まぁまぁ、六月の論文捜索についての話し合いは、もう少し後にしよう。なにせ私が君達に告げた話は、まだ新型の玉型兵器についてのみなんだからね。アニェージが関心を示すヤツについての説明や、獣神に挑む為のもっと具体的な道筋はまだ何も話してはいないんだ。だからそう気持ちを急かさず、今は私の話しに耳を傾けてくれないか」
出鼻を挫かれた感もあるが、シュレーディンガーの言う事はもっとっもな事だ。彼の元に来た目的は、獣神に挑む為の全ての情報を得る事のはず。先走った感情にジュール達は顔を赤らめる。ただそんな彼らの気持ちをよく理解するシュレーディンガーは、柔和な微笑を崩すことなく続けたのだった。
「話しのスケールがデカ過ぎるからね。どうしてもその一部分のみに意識が集中しがちになってしまうのは分かるよ。でも落ち着いて視野を広く保つって事の重要性もよく認識していてほしい。そこでまず私から、一つ疑問に感じた事を質問させてくれないか」
そう告げたシュレーディンガーは、ジュールに視線を向けて聞き尋ねた。
「グラム博士がジュール君に託した新型の玉型兵器。これらが波導量子力学の結晶とも言うべき重要な産物である事は、もう十分に理解してくれたね。ただ私にはそこに一つ疑問が残るんだ。どうして博士はジュール君にこの玉を預けたのだろうか? ってね」
「そいつは俺が博士にとって、唯一の家族だったからなんじゃないんですか。ファラデー隊長達も死んじまったし、他に信頼できる人がいなかったってのも、理由だとは思いますが」
「うん、確かにその考えが一番納得できるものだと私も思う。でも獣神の命令を受けた裏組織であるアカデメイアが博士を着け狙う中で、あえて身内であるジュール君にそんな大切な物を預けるだろうか。まぁ軍人であるがゆえに、あえてジュール君に預けたほうが安全だと深読みした博士の考えなのかも知れない。ただね、最重要品物であったはずの【死の鏡】は君に預けなかったのに、どうして玉型兵器については君に託したのか。その点が私にはどうも気になってしまうんだよね」
シュレーディンガーは考え込む様に顎を摩っている。他者から見れば、そこにそれほどの疑問点があるとは思えない。しかし彼の脳裏には不可解な蟠りがシコリを残しているのだ。ただそんなシュレーディンガーに対し、それまで黙っていたアニェージが口を開く。彼女にしてみれば、シュレーディンガーが疑問に感じているそれ以前の部分に疑問を感じてならなかったのだ。
「ちょっといいですか社長。なら逆に死の鏡ってやつは、一体誰に預けていたんですか?」
口を尖らせたアニェージは、鋭い視線をシュレーディンガーに浴びせている。するとそんな不躾な質問に苦笑いを浮かべたシュレーディンガーは、頭を掻きながら自らの段取りの悪さを口にした。
「これは済まない。話の順番に少し不手際があった様だね。う~ん、でもどこから話すのが早いのだろうか――。そうだな、ジュール君はグラム博士が天光の矢による獣神抹殺計画を実行する際、信頼できる協力者として誰に頼っていたか、その全員を知っているかね?」
「博士の協力者ですか? 裏方として協力していたアイザック総司令とシュレーディンガーさんは除くとして、俺が知ってる限りだとファラデー隊長に、その友人である科学者のウォラストン。あとはボーア将軍の部下だったハイゼンベルクとディラックですね。裏切り者のエルステッドって奴もいた様ですが、そいつは当然ながら協力者とは呼べないでしょう。ガルヴァーニさんは協力を求められたらしいけど、その時は断ったって言ってたから、獣神抹殺を実行した者っていうのならば、ガルヴァーニさんとをエルステッドを除いた4人なんだと思いますけど……?!。もしかして、それ以外にも協力者がいたんですか!」
ハッとしたジュールがシュレーディンガーに質問を返す。自分がまだ知り得ていない協力者が存在するのではないか。直感としてそう察したジュールは、目を大きく開いてシュレーディンガーの顔を見つめた。するとそんな彼に向かい、シュレーディンガーは首を縦に振りながら答えたのだった。
「天光の矢による獣神抹殺計画とは、天照の鏡を利用して獣神を打破するもの。その詳細は禊の地としてルーゼニア教の神話に綴られている4つの場所に、天照の鏡を配置する事で天光の矢を発動させて獣神を打ち抜くというものだ。そしてその禊の地の一つである羅城門に、死の鏡を配置した人物。それこそがジュール君の知り得ていない、もう一人の協力者なんだよ」
「えっ、羅城門に死の鏡を用意したのはハイゼンベルクじゃないんですか? だって彼は羊顔のヤツとして、羅城門で俺やリュザックさんと戦ったんですよ!」
「ハイゼンベルクは羅城門に配置した死の鏡を守護する為にそこにいたんだよ。彼はエクレイデス研究所でディラックと共に大地の鏡強奪に尽力していたからね。死の鏡の配置まで行う余裕なんか、彼には無かったんだよ」
「それじゃぁ一体誰が死の鏡を羅城門に?」
「うん。結果的に見れば偽物を掴まされたわけだけど、大地の鏡を手にしたディラックは五重塔に。そしてハイゼンベルクは羅城門に向かった。ただその前に一人、誰にも気付かれる事なく死の鏡を羅城門に運び込んだ人物がいた。それはかつて【鬼人】とまで呼ばれ世界を震撼させた、今はラングレンに住む【マクセル】って男なんだ」
「なんじゃと! マクセルって、あの【妻子殺し】のマクセルだきかっ!」
突然大声を上げるリュザックにジュールらは驚きを見せる。ただどうしてリュザックがその人物の名を聞いて驚嘆の声を漏らしたのか。その理由はここにいる誰しもが良く知るところであった。
鬼人マクセル。またの名を妻子殺しのマクセル。成人以上のアダムズ国民並びに世界各国の軍人であるならば、恐らくこの二つの異名持つ人物を知らぬ者はいないであろう。それ程までにこのマクセルという人物は、世界を戦慄させた狂人なのだ。
かつてアダムズ軍の隊士であったマクセル。ファラデーの同期隊士でもあった彼は、その中でも突出した戦闘能力を有する軍人であり、その強さは後に英雄とまで叫ばれるドルトンと、互角とまで言われるほどだった。
二メートルほどの巨漢でありながらも、敏捷性に優れた身の熟しと柔軟な洞察力を兼ね備えたマクセルは、数々の戦場で多大な功績を築き上げていく。まさに軍人になる為に生まれて来た男。そんな彼が初めて世界に名を轟かせたのは、アダムズ西部で繰り広げられているテロ鎮圧戦争での出来事であった。
人質を盾にするテロ組織に対し、その救出と殲滅を同時に遂行しなければならない困難な作戦に従事したマクセル含むアダムズ軍。その数は7個小隊の総勢47名。数は少なくも選りすぐりの精鋭集団で構成された部隊は、極めて困難な作戦であるにも拘らず、その成功は時間の問題と黙されていた。しかし結果として作戦は失敗に終わる。その原因はなんと、人質とされていた者達が実はテロ組織の自作自演した謀略だったからであった。
アダムズ軍を取り囲むテロ組織の戦闘員はおよそ五百。集中砲火を浴びる中、窮地に陥ったアダムズ軍はそれでも必死に反撃する。だが弾薬は次第に尽き、負傷者の数も時間の経過と共に増大していった。絶望的な状況とは、まさにこの様な状態を示すのであろう。ただそんな絶体絶命な戦局の中で【鬼人】はその牙を剥き出しにしたのだ。
傷つき倒れゆく仲間達の姿を目にした事で、彼の心の中に潜む獰猛な獣が目を覚ました。それが最適な表現なのだろう。ついにマクセルは単身でテロ組織の戦闘員に挑み掛かる。そして彼はその身に複数の銃弾を浴びながらも、敵戦闘員を皆殺しにしていったのだ。
ブッ放してはブッた切る。例えそれが生身で扱う事を想定していない武器であろうとも、敵を駆逐する為なら何でもするマクセルは、テロ組織がアダムズ軍に向けて準備していたロケット砲やミサイルまでもを敵に向けて発射した。そして数時間後。そこには返り血で真っ赤に染まったマクセル一人が折れ曲がった刀を杖にして立つのみであり、その足元にはテロ組織の戦闘員数百名の屍が転がっていたのだった。
鬼人。この戦闘によってマクセルにはそう二つ名が付く。そしてたった一人でテロ組織の戦闘員五百人余りを殲滅させた彼のその狂暴かつ残虐な強さは、世界中の軍人達の耳に知れ渡ったのだった。
すでに世界中の戦場にて、その強さが認知されはじめていたドルトンと並び、マクセルの名も世界に浸透していく。その二枚看板は結果として、アダムズ軍の比類なき強さを更なる高みへと押し上げる事に繋がった。
しかし事態は思いも寄らぬ方向に進む。軍人としての大きな期待と、それに応えるだけの絶対的な力を兼ね備えたはずのマクセルが、突然軍からの除隊を願い出たのだ。
アダムズ軍最強の呼び声すら掛けられるマクセルの軍からの除隊は、単なる隊士一人の除隊とはわけが違う。すでに彼の名を聞くだけで、小規模な暴動などは沈静化してしまうほどなのだ。アダムズ軍にとって、それがいかに深刻な事態であるかは理解出来るであろう。だがアダムズ軍は民主国家たるアダムズ王国の軍隊なのだ。軍にとってそれがどれだけ貴重な戦力であろうとも、その個人が除隊を望むのであれば、それを認めざるを得ないのが法治国家たるものである。
幾度の説得にも応じず、惜しまれつつも軍から去るマクセル。ではなぜ彼は約束された将来性を捨て去ってまで軍を離れる決意をしたのか。その理由は極めて単純なものである。彼には愛する女性がいたのだ。彼は軍人としての成功よりも、愛する女性と共有する生活を選んだのだ。
やがてマクセルと女性は夫婦となり、幸せな家庭を築く。その仲睦まじい姿からは、かつて戦場で鬼人と呼ばれたマクセルの面影は完全に消え失せていた。
それから数年。マクセルは二人の間に生まれた一人娘と共に、幸せな暮らしを営んでいた。だが彼の娘が5歳の誕生日を迎えたその日に突然悲劇は起きてしまう。
マクセルは自宅の駐車場に車をバックで停車させる際、誤って娘を巻き込み車で轢いてしまったのだ。そして懸命の救助活動も空しく、娘は息を引き取ってしまった。
精神的にかなりのショックを受けたのは当然であろう。酷く落ち込んだマクセルはみるみると衰弱していく。もうそこには戦場で敵戦闘員をなぶり殺しにした屈強な彼の姿は微塵にも見られなかった。だが本当の悲劇はその後間もなく訪れる。愛する娘を轢き殺した罪意識に動揺するマクセルは、衝動的に錯乱し、自らを刃物で切り付け自害しようと試みたのだ。
人が崇める神という存在が本当に存在するのならば、それは一体何を救ってくれるのであろうか。マクセルがそう神を呪ったかどうかは分からない。しかし現実として彼の目の前に倒れていたのは、自害しようとする自分から刃物を強引に奪い取ろうとし、その拍子に誤って喉元に刃物を突き刺してしまった、妻の変わり果てた姿だったのだ。
世界中を敵に回そうとも守り抜くと決めた愛する家族の死。それもその二つの命を奪ったのが他の誰でもない、マクセル本人なのだ。その後の彼がどれほどの絶望を味わったのか、恐らくそれを知る者はいるまい。ただ皮肉にもその事件はニュースとしてアダムズ全土に報道された。
やはり鬼人は狂人であったか。戦場で血に飢えた鬼人は、その飢えた喉を潤す為に今度は妻と娘を無残に殺した。ろくに経緯を知ろうともしない人々は常々にそう口にする。そしてそんな人々の興味を引かせるためだけに、メディアが用意したのが【妻子殺し】の異名なのであった。
その後マクセルは殺人の罪で投獄され服役する。罪を犯した人物が人物なだけに、当初メディアは挙ってそれを報道した。だがその異名とかけ離れるマクセルの弱々しい姿に退屈さを感じ始めた視聴者達は、早々に興味を失っていく。気が付けば事件の事などどこ吹く風か。人々は記憶の片隅に鬼人と妻子殺しの異名のみを漠然と留めるだけで、それ以外には何一つ残しはしなかった。
突然浮上した罪人である男の名にジュールらはただ困惑する。それでもマクセルが重要人物であることに変わりなく、皆は彼についての説明を聞くためにシュレーディンガーを注視した。
「二年ほど前になるか。マクセルは服役を終えて一般社会で暮している。それから現在に至るまでは、南部の都市ラングレンでひっそりと生活している様だよ。まぁ素性がバレると何かと面倒だろうからね。普段は偽名を使っているみたいだが」
「でもそのマクセルとグラム博士には、どんな繋がりがあるんですか? 俺、博士とマクセルが知り合いだったなんて、聞いた事もないですよ」
首を傾けたジュールがマクセルと博士の関係を聞き尋ねる。それについてシュレーディンガーは、その結び付けを丁寧に説明し始めた。
「うん。実はね、そのマクセルには奇妙な噂が前々から囁かれていたんだよ。そしてその真相を確かめる為に、グラム博士は出所直後のマクセルの元に赴き、そこから二人は協力関係を築いたんだ」
「奇妙な噂?」
「マクセルが鬼人と呼ばれる由縁となった、西部のテロ戦線で敵を皆殺しにした時の事なんだけどね。実はその時、彼の右目が青白く不気味に輝いていたって言われているんだよ。それもその目撃証言は複数残されているんだ」
「それってまさか!」
ジュールは思わず声を上げる。その反応にシュレーディンガーは頷きながら話しを続けた。
「ここにいる君達になら察してもらえるだろう。右目が青白く輝いていたって事が、何を意味するかをね。それにジュール君、君にしてみれば当事者とも言えるんだから、尚更だよね」
「そ、それってじゃぁ、マクセルも俺と同じで化け物の力を持ってるって事なんですか!」
「化け物っていう表現は聊か乱暴だね。でも彼が特別な力をその身に宿しているっていうのは本当の様だし、もちろんグラム博士はその力が月読の勾玉に封印されていた、護貴神の力なんだろうって認めていたからこそ、彼のところに行ったんだ。右目の輝きはまさに【月読の胤裔】の証しだからね」
表情を硬くしながら話に聞き入るジュールらに向かい、シュレーディンガーは更に続ける。
「かつてアルベルト国王が集めた神器の中で、護貴神の一柱である【星の弓を持つ熊】を封印した月読の勾玉だけは、すでに抜け殻になっていた。その事よりグラム博士は推測したのだろう。マクセルもまたジュール君と同じく、月読の胤裔なのではないのかってね。まして戦場で武装した敵兵士数百人を一人で皆殺しにしたんだ。彼が普通の人じゃないんだってのは疑いようが無い。それにね、ファラデーが言っていたんだよ。マクセルは悪い奴じゃない。むしろその人柄から人望は厚かったほうだってね。あいつは他人の為にその身を犠牲に出来る男だ。だから信頼出来るし、何より強い! 是が非でも協力を仰ぐべきだってさ」
「ファラデー隊長はマクセルと面識があったんですか?」
「同期隊士っていう繋がり以外は何もなかったらしい。でも彼らはお互いに軍人として抜群のセンスを持つ者同士だったからね。どこか気になる存在だったんだろう。その証拠にマクセルが博士に協力する様になってからは、ずいぶんと仲を深めたらしいしね、ファラデーはさ」
シュレーディンガーの話しにジュールはふと思い出す。スラムにあったグラム博士の研究室を訪れた時の事を。あの時、博士が根城にしていた部屋には一枚の写真が飾られており、そこには4人の男性の仲睦まじい姿があった。グラム博士にファラデー、青白い表情を浮かべたウォラストン。そしてもう一人、浅黒い肌をした健康そうな男性の顔。もしかしてあの男性がマクセルだったのではないのだろうか。
自分がマクセルについて知っている事といえば、報道で伝えられていた悪い印象しかない。でもあの写真の微笑ましい表情を見れば、マクセルという男がそんなにも悪い人物であるとは到底思えない。何より彼は自分と同じく、未知なる力をその身に宿しているという。――会ってみたい。ジュールは素直な想いとしてそう感じる。ただそんな彼にシュレーディンガーは、マクセルの微妙な立場を説明したのだった。
「マクセルが博士より死の鏡を託され、それを羅城門に持って行ったのは本当だ。でも彼が博士に協力したのはそこまでであり、戦闘には参加していない。月読の力を持ち、更には軍人としてのエキスパートなスキルを要する彼の強さは、獣神に挑む我々にとって貴重な戦力に成り得るもの。しかし彼は戦闘に関してのみ、博士の協力を拒んだ。どうして彼が戦闘に参加しなかったのか。恐らくその理由が今後を左右するポイントの一つになるだろう。そしてグラム博士が彼に死の鏡を託し、ジュール君に新型の玉型兵器を託した理由も、いずれはっきりさせる必要があるはず。それにもう一つ。月読の胤裔の証しである右目の輝き。グラム博士はマクセルとの関係を深める中で発見したんだよ。その右目の輝きの中に含まれる【神の力】の本質となる糸口をね。でも博士はそれを解明出来ぬままこの世を去った。だからマクセルが戦いを拒む理由が何であれ、我々はその神の力を知る必要があり、かつその力を利用しなければいけない立場にいる。そう言った意味からも、そう遠くないうちにマクセルとの接触は計らねばならないだろう」
「神の力の本質とは何なのですか? いや、解明はされてないんだろうけど、それでもグラム博士は何かに気付いたんですよね」
真剣な眼差しでヘルムホルツが口を尖らす。するとシュレーディンガーはその視線を真っ向から見つめ返して告げた。
「月読の胤裔が護貴神の力を解放する際に発せられる右目の青白い輝き。実はその輝きはね、【満月の光】と同じものらしいんだ」
「ま、満月の光!」
「うん。まぁ恥ずかしながら私はその右目の輝きっていうものを見た事が無いから、これは博士から聞いた事をそのまま伝える事になってしまうんだけどね。右目の輝きに含まれる熱紋の成分と、満月の光に含まれる熱紋の成分は同一だって事らしいのさ。それにね、驚く事に右目の輝きは満月の光を高密度に凝縮したものでもあるらしい。皆に分かり易く言うとするならば、そうだな。人工満月光で銀の玉を造るのには100時間光を照射する必要がある。でも右目の輝きなら、わずか数秒足らずで銀の玉にエネルギーを蓄えられるって言うんだよ。どうだね、凄いとは思わないか」
「数秒って、その右目の輝きはどんだけのエネルギーを保有してるっていうんですか!」
ヘルムホルツが唸りを上げる。ただそれに対し、シュレーディンガーはむしろ当然だとばかりに平素に返した。
「人の常識を遥かに超えた神の力。その力が物理的なエネルギーより構成されているとするならば、むしろ右目の輝きに含まれた膨大な熱紋は納得出来るもの。そしてその力の正体を解明出来れば、きっと獣神に対しても効果的な対応が可能なはずなんだ。まだまだ謎は多いかも知れないし、それとは逆に時間には制約がある。でもね、それでも我々は先に進まなければいけないのだよ」
シュレーディンガーは若者達を柔和に見つめながら話しを続けた。
「私はグラム博士を尊敬していた。そして博士が協会を追われた本当の理由を知った。悔しかったよ、泣きたくなるほどにね。だってグラム博士は世界をもっと豊かに出来る天才だったんだ。光子相対力学でアルベルト国王が世の中の生活を激変させた様に、いやそれ以上に博士の波導量子力学は人々の暮らしに幸福をもたらすはずだったんだよ。でも捻じ曲がった神の出現によって、それは方向転換を余儀なくされてしまった。本来であれば波導量子力学は生活に直結した建設的な発明として称賛されるはずだったのに、それは強大な敵を打破する為の破壊的な発明となってしまったんだ。これを嘆かずに何を悔しめって言うのかね! ――――でもね、それでもグラム博士は諦めようとはしなかったんだ」
切ない感情がシュレーディンガーより溢れ出てくる。きっと彼は絶望的な逆境にも挫けずに励むグラム博士の面影を思い出しているのだろう。そしてそんな彼が続けた話しの中身とは、とても科学者の考えとは言えないものであった。
「何度も言った様に私が博士に敬意する理由は、博士の天才的な発明力に脱帽したからだ。けどね、博士と共に科学の研究に打ち込んだり、科学の有り方について博士と対立する度に、私はそこに【繋がり】っていう強い力を感じる様になったんだ。こんな話をすると君達は意外に思うかもしれないけどね、でも一つだけ断言出来るとするならば、それは科学なんかではこの世の全てを解き明かせないって事なんだよ。そして人と人との繋がりが生み出す力っていうのは、どんなに強力な科学力にも負けないパワーを秘めているって事なんだよね。だから私は信じているんだよ。未来を切り開く力っていうのは、所詮科学などでは明かす事の出来ない理屈を超えた心の繋がりによって導かれるものなんじゃないのかってね」
少し哀しい視線はそのままに、しかしシュレーディンガーは胸の奥に熱く滾る想いを吐き出し続けた。
「私は何よりも人と人との繋がりを大切にしている。恐らくそれは世の科学者や経営者にしてみれば、鼻で笑うほどの価値も無いだろう。でもその賜物として昨日、私は川沿いでジュール君と新しい繋がりを築けた。嬉しかったね、本当に。ジュール君の優しさに触れ、その温かさを感じる事が出来たのだから。きっとその温かさこそが、未来を引き寄せる最後の希望になるものなんだろう。たぶん私は自分の気付かないところで臆病になっていたんだと思う。立ち向かう相手が相手なだけにね。だけどそんな私に君達若者は勇気をくれた。諦めるには早い、まだまだ可能性は十分に残されている。君達は私にそう思わせてくれたんだよ。本来なら私の方が君達を導かなければいけない立場なのにね。でも恥ずかしくはないよ。だってこの器の小ささが、私の誇れる唯一の個性なんだからさ」
そう告げたシュレーディンガーは苦笑いを浮かべた。するとその表情につられる様にしてジュール達も表情を緩める。
最後の苦笑いは強がりなのだろう。でも自分の弱みを正直に曝け出すってのは、むしろ本当に強い者でなければ出来ない事のはずなのだ。年甲斐も無く顔を赤く染めるシュレーディンガーにジュールらはそう思う。そして彼らは更に感じた。シュレーディンガーやアイザック総司令は、その生き様をあえて自分達に見せつけ、それを踏み台にして前に進めと言っているのではないのかと。
ジュール達はそれぞれに感じたシュレーディンガーからの熱い想いを胸に刻む。進むべき未来が前途多難だって事は百も承知だ。それでも彼らは改めて覚悟を決めた眼差しをシュレーディンガーに向けて頷いたのだった。
「みんなのその目を見れれば十分だね。なら話の続きは昼食の後にしようか。だいぶ話も脇道にそれてしまったし、ここらで一息ついてから仕切り直す方が、君達も疲れないだろうしね」
まだまだ話の続きは長いのだろう。そう思うジュールらはシュレーディンガーの提案を快く承諾する。だがその時だった。唐突に扉がノックされ、その外側よりシュレーディンガーの運転手兼ボディガードであるブロイが呼び声を発したのだ。
ゆっくりと開かれた扉よりブロイが入室する。ただ皆が驚いたのは、そんな彼と共に姿を現したソーニャに対してだった。