#60 逃水の公理(五)
玉型兵器。それはかつてグラム博士の手によって生み出された携帯式の軍需品であり、三十年以上にも渡りアダムズ軍の標準的な装備として採用されて来た歴史のある武器である。
赤、青、黄、緑、橙、灰の6種類の色に分別された玉はそれぞれに発揮する効力が異なり、軍事的な作戦内容やその使用場所によって、隊士達は臨機応変にそれらを活用していた。
大きさは全ての玉に共通して拳大といったところであるが、重さについては色により多少の違いがあり、最も軽い黄玉の閃光弾が100グラム程度なのに対し、最も重い青玉の濃硫酸弾では500グラム程度になっている。これは玉の中に納められた内容物の影響である事が最大の理由であったが、それらを装備して持ち歩く隊士らの負担から考えても、この程度の重量が限度だったのであろう。それに武器の生産者側にしてみても、大きさを統一することで量産化が容易となり、またパッケージを共通化する事でコストダウンにも一役買っている。まさに消費する側にも生産する側にもメリットがある武器。それが玉型兵器なのであった。
そして何よりも玉型兵器が軍隊に重宝されていた理由とは、その構成に電気的要素を持たず、完全なメカ的要素のみで造られた単純構造の武器であるという事であった。
戦場では次の瞬間に何が起きるか分からない。もちろん状況の変化も著しく、充電環境の整った戦場など望む方がむしろおかしいはずだ。その為電気を使わずに使用でき、また極めて故障の少ない玉型兵器は隊士達にとって利便性を満たすに相応しい武器であることに他なく、その信頼性は極めて高いものであった。
最新の電子兵器に主役の座を奪われてしまったアダムズ軍は別としても、未だ世界の多くの国々の軍隊を支えている玉型兵器。その事実からしてみても、グラム博士の産物は世界に多大な影響を及ぼしたと言えるだろう。しかしグラム博士は当初より、玉型兵器の利用方法については肯定的でなかった。
玉型兵器を構成する基礎理論は、光子相対力学によって球体の構造物の中に物理的な現象を収める技術である。ただその技術は決して軍需品に限定したものではなく、一般社会でも広く活用されているものであった。簡易的に暖を取るための懐炉や明りを灯すランプ、それに消火器など、玉型兵器の技術を利用して作られた品物は多岐に渡る。いや、むしろその技術は人々の暮らしに無くてはならない存在だと言っても過言ではないはずなのだ。
人々の生活にこれ以上無いほどの密接な関係性を構築するまでに至った玉型兵器の構成技術。恐らくグラム博士の心意とすれば、まさにこちらの使われ方のほうが正しいものだったのであろう。そもそも博士はこの技術を兵器として生み出したわけではないのだから当然だ。しかし現実にはその技術は優先的に軍事兵器として利用され続けてしまった。
そこには忸怩たる無念があったはず。それでもグラム博士は玉型兵器の改良にも自ら努めていた。博士はその使い方に不本意さを感じつつも、これらが軍事兵器として必要不可欠な存在だという事も否定出来なかったのだ。
この世界に人が存在する限り、戦争は必ず発生してしまう。それがどれだけ間違った行為なのだと理解はしていても、個人の力だけではどうにもなりはしないし、どうにかしようとする気にすらなりはしない。いや、それどころか人の争い自体を単に悪と断ずる事も出来ないのだ。
きっとグラム博士はそうした人の生まれ持つ性質を真に受け止めていたのだろう。既存の社会に生まれ、その中に根付いている魂とも言うべき信念に従い行動するという事は、まさに【生きる事】と同義なのだから、それを否定など出来やしないのだと。
しかしその社会が病み衰え、害を垂れ流す負の連鎖に陥ったとするならば、その社会は打倒しなければならない。その事をグラム博士は心得ていたはずなのだ。だからこそ博士は口惜しみながらも自らの手で兵器を改良し、それを戦場へと送り続けたのだ。
ただ時代の流れと共に玉型兵器の使用率は減少の一途をたどる。天才科学者であるラジアン博士が開発する電子兵器によって、その座はみるみると差し替えられていったのだ。
もともと利便性に優れた電子兵器は軍の隊士達から好まれる存在ではあった。デジタル起動によるデバイスによって敵対する対象を的確に排除出来るそれは、取り扱う隊士自身への負荷も少なく、また特段に過酷な訓練すら必要としない。まさに人殺しの道具とすればもって来いの存在だと呼べるものなのだ。そして電子兵器の開発にラジアン博士が本格的に参入してからというもの、それまで弱点であったはずの耐久性や電力の消耗を飛躍的に改善させた。品質を最大限に向上させたことで、それを扱う隊士達から絶大な信頼を勝ち取ったのだ。それゆえに現在ではアダムズ軍の主体とする武器はそのほとんどが電子兵器であり、玉型兵器の活躍の場は極端に限定されたものへと変わっていた。
そんな時代の変化をグラム博士はどう見ていたであろう。自分の作り出した兵器によって人が死ななくなった事を喜んだであろうか。それとも科学的な発明で天才ラジアン博士に出し抜かれた事実に悔しさを滲ませたであろうか。恐らくグラム博士の心情からするに、それは前者の想いが強かったはず。だが悲しくも博士は玉型兵器の更なる改良に取り組まざるを得ない状況に身を費やす事となる。そう、グラム博士は国王が獣神に取って代わられた現実を知ってしまったのだ。
波導量子力学の理論を構築する道すがら、博士は玉型兵器の新規開発にも着手した。そして博士は玉型兵器の性能アップとコンパクト化を両立させる。それまでの玉型兵器の常識を完全に払しょくするほどの画期的な改良を博士は成し遂げたのだ。
性能はそれまでの二倍になり、逆に大きさは十分の一にまで縮小させた。そこには紛れも無く波導量子力学の理論が使用されており、それだけを見ても博士の科学者としての才能の高さを感じ取ることが出来るであろう。しかし博士の執念とも言うべき科学的発想は止まらない。更に研究を重ねたグラム博士は、それまでに存在しなかったまったく新しい玉型兵器を開発したのだった。
「ジュール君がグラム博士より託された新型の玉型兵器。まずはその使い方とそれぞれの特徴について説明していこう」
シュレーディンガーはそう告げると、ブリーフケースに納められた新型の玉型兵器に手を伸ばす。そして4色に色分けされた玉型兵器を、それぞれ一つずつ取出しテーブルの上に並べた。
「これら新型の玉型兵器の使い方なんだが、これは全てに共通している。玉に直接衝撃を加えて炸裂させるか、もしくは玉の表面に引かれた線の向きに高熱を加える事で時限的に破裂させるか。この2つの方法によって玉の効力は発揮される。そしてまずはこの【白色】の玉型兵器だが、これは【高周波弾】と名付けられた玉であり、その効果は特殊なミクロ素粒子の特性を利用して電磁波障害を引き起こし、電子制御を狂わせるものだ。武器はもちろんのこと、一般的な電化製品でも電子制御しているものならそれら全ての機能を完全に停止させることが出来る。敵の武力を低下させる目的のみならず、セキュリティーの無効化や無駄な戦闘を避ける手段など、あらゆる場面で活用出来る優れものだ。特に電子兵器の装備が行き届いたアダムズ軍には、皮肉にも効果てき面と言ったところだろう。所持する最新の武器が突然動かなくなってしまうんだからね。それだけでもパニックを引き起こすには十分効果があるって事だよ」
「そいつは実戦ですでに経験済みですよ。廃工場でも五重塔でも、そいつの影響でかなり苦しみましたからね。その白玉の効果がどれだけ厄介なものなのかは、怖いくらい把握しているつもりです。ただそれによって現実に命を落とした隊士もいますからね。心情としては複雑です……」
ジュールは静かな口調で胸の内を語る。これからの戦いに白玉が無くてはならない装備品なのだと理解はしていても、しかしそれを容易に受け入れられない自分自身に戸惑いを感じている。そんなところなのだろう。するとそんな少し気落ちする彼に向かい、リュザックが平素に語り掛けた。
「電子兵器を無効化するっちゅうても、冷静にマニュアル操作すれば対応出来る武器もあるきね。そんな簡単な状況判断出来んような隊士は、ある意味死んでも仕方ないぜよ。戦場に足を踏み入れた時点でもう、そこは死と隣り合わせなんじゃき。言い方はきついかも知れんけどな、殺し合いをしている以上、生きるか死ぬかなんて紙一重だがよ。俺達が羅城門や五重塔で戦ったヤツにしてみたって、死のリスクがあったんだき。いや、ヤツらのほうが状況としては厳しかったはずなんじゃ。そうなれば少しでもリスクを回避するべく、白玉を使って相手の武力を低下させるっちゅうのは正しい戦略だがね。それに場合によっちゃぁ、今後俺達だって本来味方であるはずのアダムズ軍を相手にしなくちゃならん状況に迫られるかもしれんき。そうなれば俺は躊躇することなく白玉を使って状況を打破するがよ。なぁジュール、それが神ってやつにケンカを売る覚悟っちゅうモンじゃないがか? 俺が言いたいんはな、一々気にしてたら次に死ぬのはお前だきって事なんだがよ」
「わ、分かってますよ俺だって。今更リュザックさんに説教されるまでもない。味方に銃口を向ける覚悟だって、俺には出来てるつもりですから――」
心の中での葛藤が浮き彫りになっている。グッと奥歯を噛みしめるジュールの姿を見る限り、それを察する事は容易だ。リュザックの言う事はもちろん正論ではあるし、ジュール自身もそれを肝に命じているはず。しかし本当に自分は味方に向かって銃の引き金が引けるのであろうか。恐らくその答えはこの先に訪れるかもしれない残酷な状況のみが出せる結果なのだろう。ただそれを思い描くジュールは口を閉ざすだけであり、それを見つめるリュザックもまた、それ以上に口を開くことはなかった。
沈痛な空気が周囲を包む。だがそんな重い空気を振り払う様にして、ヘルムホルツが白玉についてシュレーディンガーに聞き尋ねた。今の彼にしてみれば、人としての倫理観よりも科学者として関心のほうが優先度を上回ったのだ。
「白玉を破裂させることで特殊なミクロ素粒子が拡散し、電磁波障害を引き起こすんですよね。ちなみにその効果の範囲っていうのは、どの程度のものなんですか?」
「うん、直径で言えば玉を破裂させた場所を中心として、およそ百メートルってところだろう。そしてこいつの優れた点は、屋内外を問わずして効果の範囲が変わらないって事なんだ」
「それは障害物の影響を受けないって事ですか?」
「おっ、さすがに鋭いねヘルムホルツ君。その通り、この玉の効果は障害物の影響を受けないんだよ。まして風向きや天候だって関係無いし、地中だってものともせずだからね」
「地面の中もですか」
「あぁ。実のところ電磁波障害を引き起こす素粒子は、ダークマターの特徴を少しばかり利用しているものなんだよ。先に説明したように、ダークマターは全てをすり抜ける性質を持っているいからね。だから障害物なんて関係なしに、その効果は発揮されるんだよ。ただ注意しなければならない点として、それはこちらの所持する電子機器にも影響を及ぼすって事だ。使い方を誤ると、それは痛いしっぺ返しになる恐れがある。その事は決して忘れぬ様、心しておくことだね」
「ふむ、闇雲に使ってはリスクが高そうですね。ではもう一つだけ質問させて下さい。効果範囲の百メートルっていうのは最大値を言ってるのでしょうか?」
「うん、そうだよ。白玉の中に納められたミクロ素粒子は、空気に触れた瞬間から収束が始まってしまうからね。玉が破裂した衝撃で一気に拡散した素粒子は、時間にして僅か2秒ほどで移動を停止してしまうんだ。そしてその後20分掛けて、ゆっくりとその効力を消滅させていく。すなわち白玉の効果は百メートルの範囲で、しかも20分が限界なんだよね」
「なら仮に効果範囲を半分の五十メートルにした場合、その効果持続時間は10分になるって事なんでしょうか?」
「単純な計算でいけばそう考えられる。でもこの素粒子は構成バランスを保つのが難しくてね。君の言う効果範囲五十メートルの場合だと、たぶん5~6分が限度になるだろう。逆にどれだけ玉の中にミクロの素粒子を収めたとしても、百メートル以上の効果は望めない。その辺はまだ研究途中だから、どうしてそうなってしまうのか原因は分からないんだけど、でも一番効率の良い構成バランスとしてデータが取れているのが現状の白玉なんだ。だから今のところ白玉に納めるミクロ素粒子の設定は一つだけなんだよ。ただもし深く興味が湧いたならば、時間のある時にでも君自身で実験してみればいい。科学的センスのあるヘルムホルツ君になら、もしかすれば効果範囲と持続時間を自在に操れる様になるかも知れないからね」
そう告げたシュレーディンガーはヘルムホルツに向かい柔らかく微笑むも、まだ質問はあるかといった視線を投げ掛ける。それに対してヘルムホルツは無言で首を横に振った。するとシュレーディンガーは手にしていた白玉をテーブルに置き、次に【桃色】の玉を掴んで説明を始めたのだった。
「この【桃色】の玉型兵器はね、【幻覚弾】と名付けられた玉で、催涙弾である緑玉や煙幕弾の灰玉と同じ補助的な役割を担う武器なんだよ。そしてその効果が何であるかというと、その名が示す通り幻覚を発生させるものなんだ」
「幻覚を発生させる? そいつはボーア将軍の反乱でパーシヴァル軍が使いおった、ミクロ幻想榴弾みたいなモンがか。あれには苦虫を噛まされたき、よく覚えとるがよ。じゃけんどどんな仕組みでそげん事が出来るっちゅうがか? まさか変な薬なんぞ、つこうてなかろうね」
首を傾げたリュザックが横から質問を投げ掛ける。するとシュレーディンガーは手にしている桃玉を徐に自身の額に押し当て、少ししてからその玉をテーブルに擦り付けた。そしてその3秒後、桃玉は小さな破裂音を発生させながら破裂する。
微かに感じる甘い香りは、炸裂した桃玉からの影響なのだろうか。ただそんな香りを感じたと同時に、リュザックは息を飲むほどに身を硬直させた。いや、彼だけではない。ジュールやアニェージ、それにヘルムホルツまでもがリュザック同様に目を丸くし、状況に身を竦めたのだ。
彼らの目の前に映る場景。そこはなんと、宇宙空間と化していた。まるでプラネタリュームでも見ているかの様な。いや、それよりももっとリアルな感覚が彼らを支配していく。それは本当に無重力空間に投げ出されたかの如く、銀河に囲まれた宇宙空間にただ浮かんでいる。まさにそんな感覚なのだ。
これが桃玉の効力である幻覚だっていうのだろうか。自らの身に何が起きたのか理解出来ないジュール達は、それでも動揺する気持ちを抑えながら目の前の現実を捕えようと必死になる。ただそんな彼らに向かい一人冷静な姿勢を崩さないシュレーディンガーが、口元を緩めながら話し出した。
「フフフッ。どうだね、幻覚弾の威力の程は。桃玉自体が発生させる効力に肉体的負担は皆無だからね。実際にこうして君達に体感してもらったほうが、その効果の凄さを実感してもらえるだろうと思ったんだよ。だから実験として一つ消費させてもらったのさ。そして今君達が目にしている宇宙空間。これは間違いなく空想の産物であり、現実として君達は地下フロアーより一歩たりとも移動はしていない。でもあまりに自然というか、リアル過ぎる目の前の現象に実感すら覚えると錯覚してしまっている。違うかね?」
ソファに腰掛けた体勢のまま宇宙空間を漂うシュレーディンガーはそう問い掛ける。するとそんな彼に向かい、ジュールは戸惑いながらも問い返したのだった。
「冷静に感覚をたどれば、ここが宇宙でない事は理解出来ます。でも幻覚って、こんなにもはっきりと目に見えるものなんでしょうか? 確かボーア軍が使ったミクロ幻想榴弾は、もっと瞬間的な錯覚だった気がします。それにあっちは人の気配をリアルに感じるだけで、ここまではっきりとした現象を目にする事は無かった。だから今はむしろ、宇宙空間に瞬間移動したんだって言ってくれたほうが信じられる気がしますよ」
「ハハッ、そういつは面白い表現だね。まぁ君が言う様に、ミクロ幻想榴弾は人の気配を人為的に発生させるだけのものだったから、君がそう感じるのも無理はない。ただね、桃玉の有する幻覚作用の要因は、そんなミクロ幻想榴弾の発生させる幻覚や、一般的に言われている幻覚作用とはまったくの別物なんだよ。だからこれほどまでに幻覚をリアルに感じさせてしまうのさ」
「まったくの別物ですか?」
「うん。普通幻覚っていえば、実在しない声や音が聞こえる幻聴や、そこに有りもしないものが見える幻視を思い浮かべるはず。でもそれらはそれを感じる本人のみの感覚であり、またそれは一瞬の出来事として過去る現象でもあるはずなんだ。しかしこの桃玉が発生させる幻覚は、実際に君達が身を持って体感している様に、それらとはまったく次元が違う。本人のみならず、ここに居る全ての者に共通して幻覚作用が働き、またその作用時間も著しく長い。じゃぁその要因がなんなのかっていえば、それもまた白玉と同じく特殊なミクロの素粒子が原因だって事なんだよ」
「電磁波障害だけじゃなくて、幻覚まで発生させられるんですか、その素粒子ってやつは!」
驚嘆を吐き捨てる様にヘルムホルツが声を上げる。ただそれに対してシュレーディンガーは否定を口にした。
「誤解が無い様に初めに言っておくが、白玉に使用されている電磁波障害を引き起こすミクロ素粒子と、桃玉に使用されている幻覚を引き起こすミクロ素粒子はまったくの別物だ。あくまで玉に納められた素粒子は、それぞれ電磁波障害を起こすのみの素粒子と、幻覚を発生させる事しか出来ない素粒子なんだよ。ただね、それらを構成する上で共通する仕組みが玉には施されているんだよね」
「何ですか、共通の仕組みって?」
「もちろんそれはダークマターの特性さ。ダークマターは何物もすり抜ける特徴を持っているって言ったろ。だから白玉の素粒子は物体を超えて電磁波障害を起こす。そして桃玉の素粒子は、目や耳からではなくて直接脳に幻覚作用を引き起こさせるんだよ」
「そ、そうか。脳が直接幻覚を感じているから、こんなにもリアルに見えているのか」
「その通り。君達が目にしている場景は、目から得る情報ではなくて脳が直接感じているイメージなんだよ。だからこれ程までに幻覚を鮮明で生々しく感じてしまうのさ。そしてこの幻覚作用は防ぎようの無い効力なのだとも言える。簡単に言ってしまえば、桃玉の炸裂した場所の周りにいた者は、否が応でも幻覚の餌食になってしまうんだよね」
「でもそれってちょっとズルくないですか。なんか使い方次第じゃ無敵になれそうですよ、この桃玉は――あれ?」
幻覚弾について素直な意見を口にするジュールは、急激に目の前の場景が変化していく事に言葉を飲み込む。彼の目に幻影として映っていた宇宙空間が、まるで巨大な消しゴムで消されるかの様に消滅してしまったのだ。そして瞬きをする間もなく、そこは何一つ変わってはいない地下フロアーの一室へと戻っていた。
ジュールは順番にヘルムホルツとアニェージ、そしてリュザックの顔を見て行く。それらの表情は彼自身と同様に唖然としたものであり、まだ十分に状況を飲み込めていないのは明白だった。ただそんなジュール達に向かい、シュレーディンガーは落ち着いた口調で桃玉の説明を続けた。
「ジュール君が直感として察したように、この桃玉の効力は使い方次第では神に匹敵する力を得た事にもなろう。決して抗う事の出来ない幻覚の世界に敵を誘ってしまうのだからね。ただ今見てもらった様に、幻覚の作用時間は3分弱ってところなんだ。それに効果範囲もせいぜいこの部屋の広さくらいが限界だろう。白玉に使用された素粒子に比べて、こっちの素粒子は大気に晒されてからの収束が急激なんだよね。だからもしこの桃玉を使用した場合には、使用側にしてみても迅速な対応が必要となるんだよ。まぁそれでも相手を欺くには十分な時間と言えるだろうけどね」
「ちなみに幻覚作用っていうのは、さっきの宇宙空間だけなんですか? それとも他に見せられる幻覚のバリエーションみたいなものがあるんですか?」
そんなヘルムホルツの質問に対し、シュレーディンガーは再度ブリーフケースから桃玉を一つ取出して告げた。
「ミクロ幻想榴弾は対象に人の気配、言わばそこにいるはずのないパーシヴァル兵の気配を発するだけのものだった。でも桃玉の効果を一言で言ってしまえば、幻覚のバリエーションは無限だと定義出来る。なにせこの玉で生み出す幻覚っていうモンは、使う者のイメージがそのまま場景として発生するものだからね」
「使用者のイメージ?」
「そう。さっき私が桃玉を使う時、初めに玉を額に押し当てただろ。あれはこの玉に私の想像したイメージをインプットした作業なんだよ。そしてもちろん私がイメージしたのは、宇宙空間だったって事なのさ」
「なんじゃそりゃ。まるで頭ン中を玉にコピーしたみたいじゃないがかよ」
「うん。まさにリュザック君の指摘通りだよ。この桃玉の発生させる幻覚の元データは、使用者の想像力によるものなんだ。そして覚えておいてもらいたいのは、この幻覚は決して視覚的に映し出される場景だけではなくて、音や臭い、それに味や触感までも擬似的に造り出せるって事なんだよね」
「マジか! いや、でもさっきの宇宙空間は見た目の感覚以外は特段何も感じなかったですよ」
「あぁ、それは私のイメージとして場景しか思い描かなかったからさ。けどもしそこに宇宙の特徴である絶対零度の冷たさを追加でイメージしていたなら、君達は今頃凍え死ぬ錯覚に陥っていただろうね」
ぐうの音も出ない。想像を絶する桃玉の効力を知ったジュール達はきっとそんな感覚でいるのだろう。ただそんな彼らを前に、シュレーディンガーは桃玉を使用する上での難しさも同時に告げたのだった。
「この玉が発生させる幻覚は使用者のイメージによるものだ。それゆえに幻覚をより効果的に発生させる為には、高度なイマジネーションが必要となる。曖昧な想像では不発になる恐れもあるからね。だからこの玉を使用する時は、現実を惑うほどのはっきりとしたイメージが必要になるんだよ。白玉の様に誰が使っても同じ効果が得られるわけではない。そう言った意味で言えば、使い手は逆に選ばれるのかも知れないね」
「ちょ、ちょっと待つき。確かに桃玉を使うには一癖あって難しそうなのは理解出来たがよ。じゃけんどこれが完璧に機能すると前提して考えたら、それはそれで問題大有りなんじゃないがきか? だって俺達が桃玉を使う立場におるんなら良いけんど、もし敵に使われたとしたらどうすんじゃ? 気が付いた時にはもう手遅れだがよ」
思わずリュザックが不安を口走る。あまりにもチート過ぎる桃玉の効力に彼は疑惧の念を覚えずにはいられなかったのだ。そしてその気持ちに同意する様、シュレーディンガーは頷きながら答えたのだった。
「リュザック君の洞察はそのまま注意事項として留意せねばなるまい。もし仮に我々に向け桃玉が使用されたならば、それを防ぐ手段は現状存在しないのだからね。ただ初めに言った様に、グラム博士の生み出した波導量子力学の産物はどれも驚異的な力を持っているんだ。だからもしそれが敵の手に渡った場合、それは巨大な脅威となって我々に牙を向く事となろう。大きな力には常にリスクが付いてまわる。それでも我々はそれに縋るしかない。悔しいけどさ、それもまた現実なんだよね」
シュレーディンガーは静かな口調でそう告げた。神に対抗する手段は、逆に捉えれば自らの足枷にも成り得てしまう。そんな脅威に彼自身も胸の内で震えるほどの怖さを抱いているのだろう。ただそんなシュレーディンガーに向かい、アニェージが頭を悩ませながら聞き尋ねる。彼女は桃玉の驚異的な効力に舌を巻きつつも、その打開策を懸命に探っていたのだ。
「防げないまでも、幻覚から身を守る方法はないのですか? せめて幻覚の効力を弱めさせるとか、目の前の場景が幻覚なんだって瞬時に判断出来るとか?」
その問い掛けに対し少し間を置いたシュレーディンガーは、考える体勢を取りながら答えを告げた。
「申しわけないが幻覚弾の効力を防ぐ手段は存在しない。ただ一点、桃玉が炸裂して幻覚作用が発動した際、甘い香りが漂ったのを君は覚えているかね? あれは桃玉に納められたミクロの素粒子が発する香りであり、その特徴のみが幻覚のサインとなるものなんだ。だからもしあの甘い香りを感じ取ったならば、急ぎその場所を離れる事だろうね。作用範囲から距離を置きさえすれば無条件で幻覚からは解放される。それが無理だった場合は、どうにかして幻覚が消え去るまで耐え忍ぶしかないだろう――」
そう告げたシュレーディンガーは、やれやれと言った感じに大きく息を吐き捨てる。自分自身で告げた幻覚への対策なれど、それが如何に困難な対応なのか彼は十分に理解しているのだ。そしてその姿にアニェージも気を揉むしかなかった。桃玉が炸裂した時の甘い香りは確かに特徴的で忘れる事はないだろう。しかしそれが戦場で使用されたならば、果たして瞬時に対応出来るであろうか。恐らくそれは限りなく不可能に近いと言えるものであり、それを感じる彼女もまた溜息を吐く事しか出来なかった。だがその時、その場の空気をまるで履き違えているかの様にジュールが高らかに声を上げる。彼は周囲の心配などお構いなしに、ただ桃玉の凄さを純粋に受け止めていたのだ。
どれほどの屈強な肉体を持っていようとも、またどれほど戦場体験を繰り返した強者であろうとも、桃玉の発生させる幻覚に飲み込まれてしまったならば手も足も出ない。極論を言ってしまえば、例えそれが年端もいかぬ子供であったとしても、明瞭な想像力に長けた者であれば十分に戦士として機能することが出来る。それが桃玉のもたらす驚異的な効果作用であり、そんな効力にリュザック達は身悶えするほどの怖さを感じていたのだ。しかし現状として桃玉を所持しているのは自分達の方であり、かつこれが獣神側の手に存在するとは考えられない。ジュールはその事実に正直な気持ちで向き合ったからこそ、心を前向きに滾らせたのだった。
「俺はバカだからさ、あんまり先の事を考えるのは得意じゃない。でもさ、現時点において波導量子力学を使いこなせたのはグラム博士だけなんだし、そんな博士の開発した白玉や桃玉を持っているのは俺達だけなんだろ。なら有利なのは俄然俺達の方じゃないか。だから今は漠然とした不安に悩むよりも、その優位性をどう効率的に活用するかを考えた方が良いんじゃないのかな。この桃玉を上手く利用できれば、戦闘力の単純な比較だけで勝ち負けを予測する事は出来ない。具体的に言えば、あの化け物じみた強さの豹顔のヤツにだって、簡単に勝てるかも知れないんだぜ!」
そう言ってジュールは皆に向け強く握った拳を向ける。その姿は前向きに気持ちを馳せる事が得意な彼の人柄を、これ以上ないほどに強く感じさせるものであった。するとそんなジュールに良い意味で呆れ返ったヘルムホルツが一言呟く。彼はジュールの能天気さに溜息を吐くも、その内側から感じる不思議な頼もしさに安心感を覚えたのだ。
「お前がどうして逆境に強いのか、改めて理解したよ。例えどんな絶望が目の前に立ち塞がろうとも、僅かな希望に縋り強引に道を切り開く。それがお前の強さの本質であって、俺達がお前から唯一見習わなくちゃいけない事なんだろうな。こんな事言うのは不本意だけどさ、大したモンだよ、お前って奴は」
そう告げたヘルムホルツの表情を見る限り、それが彼の本心である事は言うまでも無い。そしてそれを聞きながら含み笑いを浮かべるアニェージとリュザックにしてみても、ジュールに対する気持ちは同じなのであろう。目に見えぬ不安が膨大だからこそ、今はジュールの不器用なほどに愚直でシンプルな考え方が必要になる。きっとヘルムホルツらはそう本心から納得したから、ジュールより心強い頼もしさを感じたのだ。ただそんな彼らの温かい視線を受け止めたジュールは気恥ずかしさを覚えたのか、少し照れながら言葉を返したのだった。
「ヘルムホルツが俺を褒めるなんて、明日の天気は大荒れかも知れないな。ただ俺が言いたかったのはさ、別に俺の考えをみんなに伝えたかったわけじゃなくて、博士の生み出した波導量子力学ってやつを、もっと信用しても良いんじゃないのかなって事なんだよね。だって俺が一番驚いているのは、やっぱ博士はすっごい人だったんだって事なんだからさ!」
満面の笑みを浮かべながらジュールは叫ぶ。彼にしてみれば、それが理解不能な科学理論であるのは事実のはず。それでも彼は博士がこの世界において偉大な人物であった事に誇りを感じずにはいられなかったのだ。そしてそれに同調するシュレーディンガーは、ジュールに負けんとばかりに微笑みながら続きを語り出したのだった。
「グラム博士が凄い人だったっていう考えについては激しく同意するよ。だって博士の波導量子力学は、獣神の予測を上回った技術力を現実のものとしているのだからね。そしてその技術は今のところ我々の手中にしか存在していない。ならばジュール君の言う様に、私達はグラム博士を信じて敵に挑むしかなかろう。いや、それ以外に私達に残された手段は無い。そうも言い切れるはずなんだ。だからまずはこれらの新型玉型兵器に慣れてほしい。実際に使ってみてほしい。実践してみる事が、その効力をより知る事に繋がるはずだからね。それに使い方を知らなければ、いくら強力な武器であったとしても、いざって時に意味を成さないだろ?」
シュレーディンガーは爽々とした口調で続ける。
「時宜に叶ったと言うべきか、これまでに説明した白玉と桃玉については、少量ではあるが量産可能な生産体制が整っているんだよ。実はね、この地下ブロックの他のフロアーに、新型の玉型兵器を製造する無人の生産ラインが完成しているんだよね。だからそれほど消費量を気にすることなく、白玉と桃玉は使用して差し支えないのさ」
「え、もう量産体制が出来ているんですか!」
ヘルムホルツが驚きながら聞き尋ねる。それにシュレーディンガーは頷きながら答えた。
「さすがに玉型兵器のコンパクト化を実践したヘルムホルツ君には、量産化における難しさが理解出来ている様だね。でも生産ラインの準備が整っているのは本当の事なんだよ」
「それじゃ安定した【熱紋】の照射が可能になったって事なんですか?」
「あぁ、そうだよ。ただこれも博士が置き土産として、半年前に完成させた技術なんだけどね」
「マジか……」
ヘルムホルツは観念したかの様に項垂れている。恐らく彼はシュレーディンガーの告げた技術力の高さに舌を巻いているのだろう。しかしそんな彼の胸の内など理解し得ないジュールらは、その意図を把握するべくシュレーディンガーに問い掛けたのだった。
「どういう事なんですか? 科学者じゃない俺達にはさっぱり分かりませんが」
「そうだね。まぁ簡単に言ってしまえば、ハード側の製造はさほど難しくは無いんだよ。コンパクト化の技術や白玉等の新型玉型兵器にしてみても、構造的にみれば従来技術の改良と呼べるレベルの代物だからね。ただ問題なのは玉の中に構成させなければならないソフトの部分なんだ」
「ソフトの部分?」
「あぁ。コンパクト化技術にしても新型玉型兵器にしても、最大の問題とされているのは、玉の中にそれらのベースとなる効力を収めておくことなんだ。従来技術である光子相対力学では、玉の中に効力を安定して収める事が出来ないからね。よって言わば必然的にそこで波導量子力学を使用しなければいけなくなるわけなんだよ。そしてそこで必要とされる波導量子力学こそ、二番目の産物とされる蓄光の理論であり、熱紋を照射する技術なんだよね」
「熱紋? なんですか、それは」
「熱紋っていうのは、光の中に含まれた赤外線の固有の波長分布や形状を指すものでね、その熱紋を利用する技術こそが蓄光理論の大筋とされるものなんだよ」
「ですが玉型兵器に使用する熱紋は【満月の光】に含まれたものですよね? でもそれって受光出来るエネルギー密度に限界があるんじゃないんですか? 俺がコンパクト化した玉型兵器を作った時だって、そこが一番苦労した点ですから」
ヘルムホルツがシュレーディンガーの説明に割って入る。やはり彼は蓄光理論の難しさを把握しているがゆえに、その量産化という事実を受け入れられないのだろう。ただそれに対してシュレーディンガーは穏やかに受け応える。彼はただ現実として形成された技術を、ヘルムホルツに理解してもらいたかったのだ。
「満月の光の中にある熱紋を照射する技術について、それをこの場で説明しても時間の無駄なだけだ。今重要なのは、君が信じられないとする技術がすでに完成されているって事実なんだよ。そして君に求められるのは、それらをより良く利用する方に頭を使わなければならないって事なんだよね。科学者として深く原理を理解したい気持ちは分かる。でも今は時間に限りがあるから、そこは現実を受け入れて、それを効率よく使用する方に目を向けてほしいんだ。分かってくれるね、ヘルムホルツ君」
シュレーディンガーの投げ掛けた言葉にヘルムホルツは項垂れている。慎重な性格の彼は恐らく戦いを前に、蓄光の技術を理解しておきたいのだろう。しかしシュレーディンガーの言う様に、その時間が乏しい事も十分に理解している。その相反した交錯する気持ちに憤るヘルムホルツは、忸怩たるも口を開く事が出来なかった。ただそんな彼の気持ちを読み取ったシュレーディンガーは、温かい言葉で彼を諭したのだった。
「不安なのは分かるが、君ならきっと大丈夫なはずだよ。真の天才であるグラム博士が注目した若者なのだからね。それに蓄光の原理は新型の玉型兵器を構成する核となるものだ。と言う事は、逆に玉型兵器を使用する事で、その原理を知る事も出来るって考えられないかね。要は頭で理解するんじゃなくて体に叩き込む。科学者はやっぱり実験が大切なんだ、机上での計算は数学者にやらせておけば良いいだろ?」
そう告げたシュレーディンガーはヘルムホルツの肩にそっと手を添えた。科学者とはとても思えないガッシリとした体格でありながらも、その内面は極めて繊細なのであろう。そんなヘルムホルツの性格を察したシュレーディンガーは、前に進む為の根拠を明確に諭す事で、彼の不安を払拭させようと試みたのだ。そしてその試みは見事ヘルムホルツの迷いを霞ませる事に成功する。強張った大きな肩からすっと力を抜いたヘルムホルツは、覚悟を決めた目つきでシュレーディンガーを見つめて頷いたのだった。
ヘルムホルツが理解を示してくれた事に、シュレーディンガーは笑顔で応える。彼は未来を担う若き科学者が、自分やグラム博士を信じてくれたのだと素直に嬉しく感じたのだ。それでもシュレーディンガーは直ぐに表情を引き締めてジュール達に向き直る。そして彼は銀色の玉を手に取って、次なる説明を始めたのだった。
「すでに概要は説明してある通りなのだが、この【銀色】の玉型兵器は波導量子力学の3番目の産物である【瞬間移動】を発動させるものだ。こいつを使用すれば、文字通りにどんなに離れた場所であっても一瞬で移動することが出来る。まさに神の力である光速ですら超越する未知なる究極の科学の賜物と呼ぶに相応しいもの。ただね、この銀の玉を発動させるにはいくつかの条件を満たさねばならないし、またその製造過程にも課題があるんだよ。だから先に説明した白玉や桃玉と同じ様な感覚で使用する事は出来ないんだよね」
シュレーディンガーは銀の玉を手にしたまま再びソファへと腰を下ろす。そんな彼にジュール達は黙って視線を預けていた。
「玉の使い方自体は他の玉となんら変わりはない。玉を炸裂させれば瞬間移動は強制的に成立してしまう。ただそこに大きな問題が発生してしまうため、この玉を使用する時には事前に定められた条件をクリアしなければならないんだよ」
「なんですか、その問題点って?」
「問題点っていうのはね、瞬間移動する【行き先】を指示する方法さ」
「行き先?」
ジュールが首を傾げながらシュレーディンガーに聞き尋ねる。それに対しシュレーディンガーは、科学的知見の乏しい彼にも理解出来る様に、言葉を選びながら丁寧に説明をした。
「そうだね。例えばジュール君がこの場所から首都ルヴェリエにある自宅に瞬間移動したいとする。その場合、どうやってこの銀の玉を使えばいいと思う?」
「い、いや、そんな事急に聞かれても分からないですよ。――でもそうだなぁ。さっきの桃玉みたいに、俺の家の部屋でもイメージしながら銀の玉を使えば、ピュ~って行けちゃったりするんじゃないんですか?」
「へぇ。見た目によらず、君はなかなか鋭い感覚を持っているんだね。驚いたよ、ジュール君の意見はほぼ正解と言える内容さ」
「ホントですか!」
「あぁ。瞬間移動したい行き先を決めるのは、桃玉と同じく使用者のイマジネーションによるものなんだよ。正確なイメージが脳内で構築できたとするならば、使用者は瞬時に目的の場所に移動する事が出来る。しかしね、そのイマジネーションに大きな問題があるんだよ」
シュレーディンガーは銀の玉を指先で転がしながら話しを続ける。
「効力を発動させる上で、桃玉と銀の玉のイマジネーションでは求められる具体性が大きく異なるんだ。桃玉で必要とされるイマジネーションは、ある意味自由度が高い。それは幻覚で投影できるものが、現実性のない完全な空想でも許される事にその理由はある。でもね、瞬間移動ではそうはいかないんだよ。移動先は現実として存在する明確な場所でなければならない。だから銀の玉を使用する場合に求められるイマジネーションは、より具体性に長けた現実的な【場所】でなければならないんだ」
「じゃぁ中途半端なイメージで銀の玉を使用したら、瞬間移動できないって事なんですか?」
ジュールは即座に聞き尋ねる。それに対しシュレーディンガーは、少し視線を伏せて答えた。
「瞬間移動が未発動で失敗に終わればまだ良い方だ。怖いのはむしろ、不完全な状態で瞬間移動が成立してしまう方なんだよね」
「不完全な瞬間移動?」
「そうだ。明確な移動先がイメージされていない状態で瞬間移動が発動されたとしよう。するとその使用者はどうなると思う? それはね、人体はおろか精神にまで高い確率で悪影響が及ぼされるって事なんだよ」
ジュールは生唾を飲み込みながらシュレーディンガーの話しに耳を傾けている。そんな彼に向かいシュレーディンガーは、落ち着いた声でありながらも肝の冷える答えを発したのだった。
「瞬間移動はミクロ世界における量子情報の通信手法により実施する技術。それは送り側の情報を消滅させて、受け手での情報に基づき量子を再現させて成立するもの。だから送り側である使用者のイメージが不完全であった場合、受け手である移動先では不完全な状態として使用者を再現するしかないのだよ。具体的に例を挙げるとすれば、中途半端なイマジネーションで銀の玉を使用した場合、行き先を間違える可能性があるのと同時に、その行き先では手足の1本が無くなっているかもしれないし、精神が崩壊しているかもしれない。最悪な場合、とても人とは呼べない姿になって再現してしまう恐れだってあるって事なんだよね……」
そう告げたシュレーディンガーは、手にしていた銀の玉をそっとテーブルの上に置いた。そして深く息を吐き捨てる。瞬間移動という驚異的な科学力の影に潜む高いリスク。それを説明した彼自身、その背中には冷たい汗が流れる感覚を感じていたのだろう。またそれと同等に、話しを聞くジュールの背中にも酷く泡立つ嫌悪感が走り抜けたはずだ。だがそれでもジュールは臆する事無く前を向く。そして彼はシュレーディンガーに向け、力強く言葉を発したのだった。
「銀の玉を使うのに危険性が伴うってのは分かりました。でもそのリスクを回避する手段はあるんですよね? あなたは初めに言いました。この玉を使う場合、定められた条件を満たさなければいけないって。それは逆に条件さえ満たせれば、安全に銀の玉を使用できるって事なんじゃないのですか。それにそんな危険なものなら、俺達をただ驚かす為だけにリスクを冒して瞬間移動なんてしないはず。だからもったいぶらずに話して下さい。今更脅かしたって、もう後には引けないんですからね」
そう言ってジュールは微笑んで見せた。その笑顔を見たシュレーディンガーはハッとする。それは決して強がりなどではない。この微笑は全ての困難をも受け止めたがゆえに、自然に発せられたものなのではないか。そう感じた彼は、息子ほどにも離れた歳のジュールに末頼もしさを覚え胸が高鳴る。そしてその熱い鼓動を感じるシュレーディンガーは、ジュールに微笑を返しながら自らの胸の内を正直に吐き出したのだった。
「つくづくグラム博士を嫉妬してしまうね。どうすれば君の様な強い意志を持つ人を育てる事が出来るのだろうか。少し物事を単純に考え過ぎる傾向にあるとも言えるが、でもこんな過酷な現状を前にしている時だからこそ、ジュール君の様なバカ正直なほどの真っ直ぐさが頼もしく思えるのだろう。やっぱり若者っていうのは我武者羅な方が似合うモンだからね」
そう告げたシュレーディンガーは柔らかな微笑を浮かべる。きっと彼は本心からジュールやグラム博士の事を羨ましく思ったのだろう。それでも彼はすぐさま表情を引き締めて話しを本題に戻す。その話の内容とは、銀の玉を安全に使用する為の手法であった。