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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第一幕 夜余威(やよい)の修羅
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#05 霞色の神話(前)

 ジュールは不意に現れた老人に少し戸惑(とまど)ったが、それでもその表情は親しみで(ほころ)んでいた。そして彼は老人に向かい、明るい声で(おの)ずから話し掛けたのだった。

「お久しぶりです【グラム博士】、元気そうでなによりです。でも昼間からこんな人目の付く場所に出歩いてちゃマズイですよ。もっと自分の立場を(わきま)えて下さい」

「いやいや、ラングレンから古い馴染(なじ)みが来ていてな。そいつを見送っていたところじゃよ。それに穴倉(あなぐら)(こも)ってばかりじゃ息苦しゅうて敵わんからのう。じゃがそう言うお前こそ、こんな所でどうしたんじゃ」

「ヘルツがラングレンに転勤になったんで、それを見送りに来てたんですよ」

「ほぅ、あの駆けっこの早い小僧がのう。仕事とは言え、付き合いが長かっただけに残念じゃな」

「ええ。でも心配はしてません。きっとあいつなら、何処(どこ)に行ったって明るくやっていけるでしょうからね」

「そうじゃな。足の早さと人当りの良い安穏とした性格がヘルツの持ち味じゃったからな。どんな所でも元気に暮らしていけるじゃろ。ところでジュール、お前今日は(ひま)か? 久しぶりの再会じゃ、暇なら少し付き合わんか」

「別に構いませんが、俺、一応軍の人間なんで。誰かに【お(たず)ね者】の博士と一緒にいる所を見られると、あんま具合良くないんですよね。だからとりあえず、どこか人目の付かない場所へ移動しましょう」

 ジュールは少しばかりバツの悪そうな表情を浮かべて博士に促す。そんな彼の心情を快く察したのであろう。博士はにんまりと微笑みを浮かべながら、素直にジュールの指示に従った。そして二人は足早にタクシー乗り場へと向う。しかし生憎(あいにく)とそこには、タクシーの順番を待つ長い人の列が出来ていた。

「参ったな」

 ジュールは少し苛立(いらだ)ちながら(つぶや)く。人目の多い駅から早く立ち去りたいのだろう。ただそんな彼の心配をよそに、行列の最後尾に並ぶ博士は落ち着いた面持ちを浮かべている。ただその視線の先にあるのは、駅前ロータリーの中央に立つ女神像であった。そして博士はふと思い出したかの様に、ジュールに向け語り掛けたのだった。

「来年の今頃は【ルーゼニア教創設千年の記念祭】で、首都ルヴェリエは(さら)(にぎ)やかになるじゃろうのう」

「そ、そうですね。俺はルーゼニア教の信者じゃないけど、千年祭は楽しみにしてますよ」

 ジュールは周囲を気に掛けつつも博士に答えた。その表情は少しばかり呆れた様にも見える。指名手配犯であるにも関わらず、能天気な話をし始めた博士に気持ちを萎えさせたのだろう。ただグラム博士はそんなジュールに構うことなく、微笑んだまま話を続けた。

「そう言えばジュールよ。どうしてお前はルーゼニア教に入らないんじゃ? アダムズ王国唯一無二の教えじゃぞ。国を支える軍人なら、尚更(なおさら)入ったほうがよかろうに」

「博士に言われたくないですよ。育ての親の博士自身が入ってないのに、どうして俺が入るんですか。それに何だか神様に(すが)るっていうのが、どうも(しょう)に合わないって言うか。どんな事でも最終的には自分自身の力で乗り越えるしかないんじゃないかって思うし、そうするとなかなか神様なんて信じる気にもならないですよ」

「ほう、大した考えじゃな。じゃがワシはなジュール。あの【女神ヒュパティア】のなんとも言えない切ない表情を見ると、その教えはどうであれ、ルーゼニア教に入っても良いかなと思えてしまうんじゃよ」

「でもそれはあの女神像の顔がそう見えるだけでしょ。それだけで入会するっていうのはバカげてますよ」

 ジュールは溜息混じりに言葉を返す。その表情は呆れ顔に拍車を掛けたものだった。たかだか石造に刻まれた表情が哀しく見えるってだけで、神を(あが)めたくなるなんて浅はか過ぎる。そう思っているのだろう。それでも彼は博士の話しに耳を傾ける。話し出したら止まらない博士の性格を、ジュールは誰よりも良く理解していたのだ。

「お前はルーゼニア教を発祥(はっしょう)させた女神ヒュパティアが、人に対し何故その教えを広めたか知っているのか?」

「教えを広めた理由は知りません。だけど愛・勤・節の【心の三区分】くらいは知ってますよ。確かにこの教えは良い事だと思います。でもこれだけ科学が発達した世界で、いつまでも神様を(あが)めるっていうのは、どうしたもんかと思いますが」

「科学者のワシがルーゼニア教を肯定し、軍人のお前が否定するのもおかしなものじゃな。じゃがなジュール。これだけ科学が進歩しても、まだまだ解き明かすことのできない事象が、世に数多くあるのも事実じゃて」

 グラム博士はそう告げるとニッコリと微笑んだ。久しぶりに再会したジュールとの会話がこの上なく楽しいのかも知れない。ただ思いのほかタクシーの回転が良かった為に、予想よりも早く順番が訪れる。博士は話を(さえぎ)られた悔しさを感じつつも、ジュールに急かされるがままタクシーに乗り込んだ。

 それにしても一体博士はどこに行こうとしているのか。行き先を説明する博士に対し、タクシーの運転手は怪訝に顔をしかめている。それが多少気になったジュールではあったが、しかし彼はあえてそれを気にしない様にしてタクシーの中から女神像の顔を眺めていた。

 ルーゼニア教を創設したとされる女神ヒュパティアは、アダムズ王国に伝わる神話にて【天地開闢(かいびゃく)三柱(みはしら)】と呼ばれる世界を創造した三神の内の一人だ。また女神は人を含む全ての動植物を生み出した【生産の神】として、三神の中でも最も高貴に崇められている。そんな女神を(かたど)った石像の表情を見つめたジュールは思う。その眼差しは確かに切なく、またどこか哀しいものであると。そして何故だかその感覚が、ヘルツから聞いたラヴォアジエと呼ばれる特別なヤツを思い起こさせた。彼にはラヴォアジエが自分に対して向けた意味深な眼差しと、女神像の切ない眼差しが重なって思えてしまったのだ。

(ヤツの正体はまったく解明されていない。確かに博士が言う様に、世の中は科学で解明出来ていない事のほうが、まだまだ多いのかもしれないな。ヘルツの外したことのない勘だって何の根拠(こんきょ)も無いし、それに俺の体も……)

 ジュールは女神像を見つめながら、月夜の戦いで短刀が刺さった肩を強く握る。もう傷痕(きずあと)なんて微塵にも残っていないというのに、何故だか体が(うず)く感覚を抱いたのだ。ただその時、ジュールの胸の内を知らない博士が(おもむろ)に話し掛けて来た。

「そう言えばジュール、お前もうすぐ結婚式じゃな。いつの間にかお前も大人になったのう」

「そ、そうですね。博士にも参加してほしいですけど、でもお尋ね者の博士を呼ぶわけには、どうも……」

 ジュールはグラム博士から突然振られたの結婚の話に少し困惑(こんわく)した。致し方ないとはいえ、親である博士を表だって式に呼べない現実を(なげ)いたのだ。ただそんなジュールの優しさを察した博士は、穏やかな面持ちで彼に告げた。

「気にするな。お前たちが幸せなら、ワシはそれだけでええ。幼き頃よりお前達二人を見てきたワシじゃからのう。今更何も心配しておらんし、そもそも式など出ても退屈なだけじゃろ。結婚式なんぞ、神よりも非科学的じゃしな」

「ハハッ、愛情は古来より科学で解き明かせない、一番の謎ですからね」

 徐々(じょじょ)に降り方を強める雪は、みるみると周囲の景色を白く染めていく。談笑を続けるジュール達を乗せたタクシーは、そんな雪の中を目的地に向けゆっくりと進んで行った。


 しばらくするとタクシーは、首都ルヴェリエの中でも最も疲弊(ひへい)したスラム街に到着した。

 高度な文化を構築するアダムズ王国は、大多数の国民が高い水準の生活を(いとな)んでいる。しかし、その流れから取り残された一部の民衆は、こうしたスラムで貧しさを共有し、お互いの傷を()め合うように生活していた。また街の安全を守るはずの警察部隊の目が届きづらい事もあり、スラムの治安は極端に悪いものであった。そしてさらに街全体が不衛生であったことから、様々な病が蔓延(まんえん)するなどして、一般の市民からは遠く距離を置かれる場所でもあったのだ。だがそんな劣悪な環境が逆に、犯罪者や訳有りな者を潜伏させるには格好の場所となっていた。

 現在は荒れ果てたスラム街。しかしそんな疲弊しきった街も、かつては(きら)びやかな輝きを見せた、首都の繁華街の一つであった。だが今から半世紀ほど前より、この街は急速に衰退してしまったのだ。

 でもどうしてこの街がこんな有様になってしまったのか。様々な憶測が立てられたものの、街が(すさ)んだ主因は今も不明確なままである。ただ分かっている事とすれば、それは一般の市民にとってこの場所が、安易に足を踏み入れられる場所ではないという現実だけであった。

 そんな危険臭漂うスラムを進むタクシーは、今にも(くず)れそうなビルが密集する場所に差し掛かる。するとグラム博士はタクシーを止めるよう運転手に指示をした。

 二人を降ろしたタクシーは雪の降る天候にも関わらず、猛スピードで来た道を引き返して行く。恐らくタクシーの運転手は、このスラムという場所に不安を覚えて仕方ないのだろう。その証拠に運転手は博士に行き先を告げられた時、かなり渋っていたはずなのだ。それなのに運転手の中年男性は二人をこの地まで送り届けてくれた。むしろその勇敢さを褒めるべきなのだろう。

 去り行くタクシーにそんな思いを抱いたかは定かではないが、ジュール達はその姿を頼もしく見送った。そして先導する博士に従い、ジュールは複数にそそり立つビルの内の一つにへと入って行った。

 薄暗く湿った空気の充満するビルの中は、何かが腐ったような異臭が充満している。臭過ぎてとても人が住める場所なのだとは考えられない。ただ博士の後をついて歩くジュールの足取りは、とても軽やかなものだった。なぜなら荒みきったこの街は、ジュールがまだ幼き頃にグラム博士と共に生活した、思い出の場所だったからだ。

「この胸クソ悪い感じ、懐かしいな。十年ぶりだけど、この街はホントに何も変わってない。でも博士、いつこの街に戻ったんです?」

「半年ほど前じゃな。ちとファラデーに用事があってのう。じゃがあいつは死んでしまってからに……」

 グラム博士は言葉に詰まり、少し無言になった。忸怩(じくじ)たる無念さを噛みしめているのだろう。ジュールは博士の小柄な背中にそんな悲壮感を感じ取り、そして彼自身もまた苦い思い出に(さいな)まれていった。

 お互いに無言のまま階段を上って行く。ただ先を進む博士は四階まで上ると、か弱い蛍光灯の明かりが照らす通路へと足を向けた。そして少しの距離を歩くと、全面(さび)だらけのドアの前で博士は止まった。慣れた手つきでドアのカギを開けるグラム博士。すると博士はジュールに向かって一言告げた。

「さぁ、入れ」

 錆だらけのドアは、見た目からの予想に反し軽い力で開く。そして博士に(いざな)われるがままその部屋に入ったジュールは、僅かながらに驚きを露わにした。(せま)いながらもその部屋には、最新の研究設備らしき機材が所狭しと設置されている。まさに小さな研究室と呼べる環境が構築されていたのだ。ジュールはそんなスラムの外観からは想像も出来ない部屋に目を丸くする。ただその反面、博士ならではと妙に納得した気持ちにもなっていた。

「大した設備は整ってないんじゃが、今はここがワシにとっての根城じゃな」

 博士は得意げに笑顔を見せる。ただジュールはそんな博士に笑顔を返したものの、壁に貼ってあった1枚の写真が気になっていた。少し黄ばんだ色合いからして、それが古い写真なのだということは容易に把握出来る。しかしなぜだかジュールには、その写真に不可解な違和感を抱かずにはいられなかった。

 写真に写る4人の男性の姿。それはグラム博士と今は亡きファラデーに加え、ジュールの知らない二人の男性を写していた。そんな二人の内の一人は浅黒い肌をした健康的な顔立ちであり、もう一人は対照的に青白く()せこけた顔をしている。そしてジュールは後者の男性をどこかで見たような気がしてならなかった。だがどうしてもそれが思い出せない。それが違和感の正体なのかどうかは分からないが、ジュールは苦々しい感覚に表情を硬くするしかなかった。ただその時、グラム博士が突然の行動を取る。

「ほれ、ジュール」

 そう呼びかけると同時に、グラム博士はジュールに向けて親指の先ほどの大きさをした小さな赤い玉を投げ渡した。ジュールはその玉を慌てて掴み取る。

「何です、これ? また訳の分からないもの作ったんですか」

「何を言うちょる。お前ら、それに十分世話になっとるじゃろ。そいつは見たままの赤玉(バクダン)じゃよ。大きさは今までの十分の一じゃが、威力(いりょく)は倍になっておる。飛躍的(ひやくてき)に軽量化とコンパクト化を()し遂げ、それと同時に性能まで引き上げたのじゃ」

「す、凄い。これ凄いですよ博士!」

 目を丸くしたジュールが大声で歓喜を露わにする。唐突に博士より投げ渡された小型の新兵器に、彼はその凄まじさを感覚的に理解したのだ。軍人として日頃から兵器に慣れ親しむジュールにしてみれば、その驚異的とも呼べる兵器の進化に肝を潰すほどの驚きを感じずにはいられなかったのだろう。しかしそんな彼を嘲笑するかの様にして博士は続ける。

「説明はまだ途中じゃて。こんなことで驚いてたら最後までもたんぞ」

 博士はニコニコしながら新兵器について説明を始めた。

現在(いま)のところ軍で採用されている玉型兵器は、赤・青・黄・緑・橙・灰の6種類なのは良く知っちょるじゃろ。今回はその全てので同様の変化を遂げさせた。まぁ、お前の言うちょった科学の進歩とゆうやつじゃ。さらにそれだけじゃない、おまけも付けとる」

「おまけ?」

「そうじゃ。今までの玉型兵器は直接その玉を銃で撃つなどして、衝撃を加えて初めて発動したものじゃった。しかしこれは戦闘状況においては使用者や部隊にリスクが有り過ぎる。そこでじゃ」

 博士は黄色の玉を取出すと、一瞬その玉を壁に擦りつけた。

「3,2,1……」

 そう言ってから博士は黄玉を放り投げる。すると投げられた玉は空中で凄まじい閃光を放出した。

「きゅ、急に何するんですか。眩しいですよ、博士!」

 ジュールは直感としてまさかと思い、事前に手の平で目を覆っていたが、それでも強い光を感じ堪らず叫んだ。

「まあまあ、そう目くじら立てるな。聞くより見るが(やす)しじゃからのう。見ての通り、時限タイマー機能を玉に追加したのじゃ」

 博士は憤りを露わにするジュールを和やかに戒める。その言葉にジュールは一段と目を丸くして聞き耳を立てる事しか出来なかった。

「手に持つ赤玉を見てみるのじゃ。玉に一周細い線が描いてあるじゃろ。この線をなぞる様にして玉を壁などに(こす)りつける。するとそこから生じた摩擦熱(まさつねつ)によって兵器が起動するんじゃよ。兵器が発動するまでの時間は、熱を加えてから3秒後じゃ。もちろん今まで通り、直接衝撃を加えることで発動させることも出来る。じゃが対象が小さくなったから狙うのも大変じゃろうて」

 そう話したグラム博士は、近くにあった机の引き出しを開け一冊のノートを取出す。そしてそのノートをジュールに差し出して言った。

「このノートに新型の玉型兵器の作り方が書いてある。これをお前の手から【ヘルムホルツ】に渡してくれ」

「ヘルムホルツにですか。あいつは軍人でありながら【アダムズ王立協会】の会員ですよ。いいんですか?」

「まだ若いとはいえ、今やこの国の科学者でワシが信頼出来るのはあやつだけじゃ。あやつはお前と同じでこのスラムの出じゃろ」

「確かにヘルムホルツは良い奴だし、ガキの頃に俺とマイヤーと一緒にこの腐った街で育った仲です。でも王立協会は自らの発明が戦争の道具になることを嫌った博士を追放し、さらに犯罪者に仕立て上げた組織ですよ。それも博士を追い遣るばかりか、世界を混乱に至らしめる大量殺戮兵器を作製した、凶悪なテロリストだと指名手配までする始末。その一員であるあいつに、こんな重要なものを渡していいんですか」

「実際にワシの発明が人殺しの道具に成り下がっているのは、否定しようのない事実じゃ」

「そ、そうだけど。でも俺には納得できないよ。それじゃあまりに理不尽過ぎる――」

 ジュールは博士の居た堪れない現状を(なげ)く様、耐え難い憤りを露わにする。ただ博士はそんなジュールを諭すよう穏やかに告げた。

「お前はワシの事を少し誤解しちょる。ワシはただ逃げ出しただけなのじゃよ。アダムズ王立協会はこの国の科学者団体の頂点であるのと同時に、国の行政にも大いに影響をもっておる。協会での立場が上がれば上がるほど、自分の意志とは関係無く、そんな政治活動にまで首を突っ込まなければならんのじゃ。ワシは(まつりごと)など真っ平ごめんじゃったからの。じゃが辞めようにもワシは協会のことを深く知り過ぎてしまった。そんなワシを協会が黙って見送るわけ無かろうに。じゃからワシは怖くなって逃げ出した。それだけの事なのじゃよ。それにのう……」

 博士は何かを続けて話そうとしたが、気難(きむずか)しい表情で話題を()らした。

「これ以上話すとお前の軍人としての立場が悪くなるやも知れん。まぁ、どんな組織にも裏の部分はあるものじゃ。知らなくて良いものは、知らぬほうがええ」

 博士の言葉に煮え切らない表情を浮かべるジュール。ただそんな彼に博士は優しく言い聞かせた。

「そう心配せんでも大丈夫じゃ。ワシは今もこうして元気に生きとるしのう。それにな、仮にこのノートがヘルムホルツ以外の他人の手に渡ったとしても、大した問題ではない。所詮(しょせん)ワシの作ったこれらの玉なんぞ、時代遅れの産物じゃ。現在この世界で最高の頭脳を持つ科学者【ラジアン博士】が次々に開発している電子兵器の前では、だれも見向きせんじゃろ」

「でも博士の作った武器があったからこそ、俺達はヤツを倒すことが出来たんですよ」

「じゃがその戦いでファラデーは死んだのじゃろ。あいつもまた、このスラムの者じゃ。残念じゃよ……」

 そう告げたグラム博士は、壁に貼ってある写真を哀しげに見つめた。写真に写っている四人の顔は、とても楽しそうだった。


 ファラデーはジュールよりも一回り年上だったが、同じスラム出身ということで軍では特にかわいがられた。そして(きび)しさの中にも愛情があったファラデーは、ジュール以外の数多くの部下からも(した)われる存在だった。また戦闘技術も非常に高かった彼は、軍の最高部隊であるコルベットやトランザムから幾度(いくど)となく配属を打診(だしん)されていた。しかし彼は何故かそれを受け入れようとはしなかった。

 常に戦場で若い隊士の先頭に立ち、的確に任務を遂行(すいこう)したファラデー。そんな彼の事をジュールは心から尊敬(そんけい)し、兄の様に慕っていた。だが彼はあの月夜の戦場で、無残にもヤツに首を切り落とされ絶命した。正直な所、ジュールにはまだそれが信じられなかった。

 ジュールは(おもむろ)に博士に尋ねる。

「博士、【ヤツ】とは一体何者なんですか。博士なら何か知ってるんじゃないですか?」

 ジュールからじっと見つめられた博士は、少し困惑(こんわく)した表情を浮かべ黙っている。しかし彼のその訴えかける視線の力に屈したのか、ゆっくりと話し始めた。

「お前も知っとるように、ヤツとは【人外の者】の総称じゃ。ワシら人間は自らの想像を超え、かつ危害の対象となるものについては()み嫌う性質を持っておる。特にヤツの様な化け物じみた容姿は、人々にとって恐怖の対象にしか写らんからのう。その為にどうしてヤツが存在するのか。そんな理由など考えもせんで、その存在自体を軽蔑視(けいべつし)する為だけに【ヤツ】と(いや)しんで呼ぶのじゃよ」

「でもヤツは多くの人の命を残酷(ざんこく)に奪っている。それは事実のはずです」

「ヤツが初めてこの国で目撃されたのは、二十年以上前のことじゃ。現在までに十体ほどのヤツが確認されとるが、人の命まで奪ったのは一番初めに出現したヤツと、お前たちが倒したヤツの二体だけじゃ」

「……」

「それ以外のヤツは、まったくと言っていいほど人に対して危害(きがい)を加えてはおらん。いやむしろ人を助けた記録も残っておるくらいじゃ。まぁ、全てのヤツが消息(しょうそく)を絶っている今となっては、それが本当か否か定かではないがのう」

「確かに今回現れたヤツも、初めは人に対して危害を加える事はなかった。ただ今までと異なる点は、同時期に分かっているだけでも三体のヤツが現れているという事です。一度に複数のヤツが現れたことは過去においても一度もありません。三体のヤツがそれぞれ何を目的としているのかは不明ですが、分かっているのは二番目に現れたヤツが初めに人を傷付けた。それを機に他のヤツも人に対し危害を加えるようになった。そして我々にヤツの抹殺(まっさつ)命令が下ったのです」

「二番目に現れたヤツが危害を加えたのは、協会の科学者じゃったと聞くが本当か?」

「ええ、本当です。ただあまり上層部の方ではなかったらしく、名前までは覚えていません」

「所説によれば、ヤツの知能は成人の人間と変わりないという。じゃからワシはヤツが闇雲(やみくも)に人を襲うとは考え(づら)いのじゃがのう」

「我々軍人は上の指示に(したが)うだけで、ヤツの気持ちまでは考えません」

 その言葉とは裏腹に、ジュールはヤツが最後に口にした【あの言葉】の意味を思い浮かべていた。悶々(もんもん)鬱積(うっせき)した(わだかま)りを抱かずにはいられないジュールの心情は重い。それでも彼は軍人として使命を果たすしかないのだと、自分自身に言い聞かせるしかなかった。

 かつてない状況が現実として起きている。それは三体のヤツが同時期に出現したという事実だ。そして軍が把握しているのは、初めに姿を現したヤツ以外は、出現後早々に姿を消したという事と、その初めの一体だけは首都ルヴェリエの中心に居残り、人々を襲い続けていたという事実だけだった。

「ヤツについてはまだまだ謎が多い。それはヤツとの接触が(きわ)めて少ないことも要因の一つじゃて。じゃがお前達はヤツを倒した。これは過去においても初めての事のはず。その死骸(しがい)を調べれば、何か解るかも知れんがのう」

「でもヤツは死んだ後、人の――」

 出掛った言葉をジュールは寸前のところで飲み込んだ。首を落とされ、息絶(いきた)えたヤツは人の姿へと変化した。ジュールにはそれが(いま)だ半信半疑だったのだ。その為に彼はその事実を博士に伝えて良いものなのかと、思わず躊躇(ちゅうちょ)してしまったのだった。ただそんな彼の(いぶか)しむ胸の内を知ってか知らずか、博士は落ち着いた口調で告げた。

「まぁ良い。いずれ事の真相は誰かが解き明かしてくれるじゃろう。ただ一つ言えることは、人は身勝手な生き物じゃということじゃ。人知(じんち)を超える存在が目の前に現れたとして、それが女神ヒュパティアのような美しい姿をしておれば、(おの)ずと神と(あが)めるじゃろう。逆にヤツの様な(みにく)い姿をしておれば、その容姿から悪魔の化身に決めつけ、理由も無しに排除(はいじょ)の対象にしてしまい、事の真相を見極めようとはしない。なんだか少し(さみ)しいものじゃな」

 ジュールは博士の言った言葉に(うなず)く。ヤツの行動には何か理由があったはずなんだ。あの夜のヤツの眼差しからは、訴えかける何かが確かに伝わって来たし、何よりその理由が知りたかった。そしてジュールにはその理由を知れば、最後にヤツが口にした言葉の意味が分かる気がしたのだ。ただ彼はふと、ヤツのこと優しく想い語るグラム博士を不思議に感じた。

「でも博士。どうして博士はヤツの事を、そんな風に想うのですか?」

 するとジュールの問い掛けに対し、博士は何かを思い出しながら告げた。

「……そうじゃな。ワシは自分が小さい頃に読んだアダムズ王国の神話が好きでな。これはルーゼニア教の教えにも語られている事なのじゃが、ワシの心の深層にもこの話が根付いていることから、ヤツをそう想ってしまうのかも知れん」

 グラム博士は部屋の隅に置かれた椅子に深く腰掛けると、どこか遠くを見つめる様にしながら王国に伝わる神話を静かに語り始めたのだった。

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