#57 逃水の公理(二)
シュレーディンガーは未だ佇んだままのジュール達に対してソファに腰掛けるよう促す。きっと彼はこれから口にする話が長丁場になるのだと予測し得ているのだろう。白衣のポケットから取り出したペットボトルの栓を開け、その中の水を喉の奥に流し込む。そして一息ついたシュレーディンガーは、ソファに座ったジュール達に向き直って話し始めたのだった。
「グラム博士の生み出した【波導量子力学】という科学理論がどれほど凄いロジックであるのか。恐らくその原理は科学者であるヘルムホルツ君ですら、把握するのは困難だろう。それほどまでに波導量子力学とは、常識を逸脱した超科学理論なんだよね。でも例えその理屈が分からないまでも、君達には神をも抹殺するその異次元的な理論の凄まじさだけは感じ取ってもらわねばならない」
穏やかな語り口調でありながらも、シュレーディンガーからは凄味のある威圧感が放たれている。それはまるで、グラム博士が彼に乗り移っているかの様だ。そしてそんな圧迫感に気圧されながら、ジュール達はシュレーディンガーの話しに耳を傾け続けた。
「かつて世界最高の鬼才と呼ばれたグラム博士。その博士が生涯を賭して研究した波導量子力学という名の科学理論。残念な事に博士という存在が失われてしまった現在では、その内のかなりの部分が謎になってしまったと言えるだろう。共同研究者だったパーシヴァルのボーアさんや、助手であったライプニッツ君も今はいないしね。それに波導量子力学は元々未完成の理論なんだ。それゆえに波導量子力学の全貌がどれ程のものなのか。それを計り知る者はいないし、もちろんそれを確かめる手段もない。何より数少ない明確化されたロジックも、最終定理として博士はどこかに隠してしまったしね。でも一つだけ確証を持って断言出来るとするならば、それは波導量子力学の秘める可能性は、無限大なんだって事なんだよ」
シュレーディンガーは再度水を口に含んでから話しを続ける。
「どういったキッカケで博士が波導量子力学を導き出したのか。その疑問は常に私の頭の中にある命題だ。でもグラム博士でなければ波導量子力学に辿り着けなかったのだろうということも、考えられずにはいられない。だから私にとって、グラム博士こそが真の天才なんだと言える存在なんだよ。たとえ世界中の誰もがラジアン博士こそ天才なのだと呼称していてもね。そんなグラム博士だからこそ導き出せた超絶を成す究極理論に、不可能なんてあるはずがない。――うん、そうだ。話し始めに博士の天才ぶりについて、一つ昔話をしようかな」
古い記憶を懐かしく感じているのだろうか。シュレーディンガーはグラム博士との思い出を、昨日の事の様に呼び起こしながら語り始めた。
「ジュール君が生まれるよりも少しだけ前の時代の出来事だろう。博士は研究に必要な試作品を作製する為に、当時ルヴェリエにあった鉄道部品の製造工場を訪れたんだ。でもその工場はお世辞にも会社として経営が正しく成り立っているとは言えなくてね。だからその時の私はどうして博士がそんな錆びれた町工場に足を運ぶのか、まったく理解出来なかったんだ。ただ博士の人を見る目は確かでね。その鉄道部品工場の社長って人が、それはまた腕の立つ職人だったんだよ。飛び抜けた博士の発想を具現化するには、それ相応の高いスキルが必要だった。博士は常にその事に頭を悩ませていたんだよ。科学的発想は自分の頭の中でいくらでも補完出来てしまうけど、しかし現実にそれを造り出すには、磨き上げられた熟練の技能が不可欠なんだってね。そしてその鉄道部品工場の社長には、博士の求める高度な腕が備わっていた。博士のリクエストに対して、その社長は見事なほど完璧に仕事を成し遂げたんだよ」
シュレーディンガーは当時を思い出しながら感心した顔つきで物語っている。きっと彼はその時に、人や会社は見た目だけで判断してはいけないものなんだと思い知ったのだろう。もしかしたら現在の彼の企業経営者としての理念は、その時に誕生したのかも知れない。シュレーディンガーにとってその時の経験は、それほどまでに衝撃的な出来事だったのだ。ただ彼にとって、さらに胸を衝くインパクトを残したのは他でもない。グラム博士の天才的な発想力の高さについてだったのだ。
「その時に試作品として作製したものが何だったかというと、実はそれは波導量子力学の理論を立証するために必要な治具だったんだよ。本当に博士には驚かされる。今から30年も昔の話しであるのに、博士はすでに波導量子力学の基礎を思い付いていたんだよね。ただ当時の私には、博士のそこまでの深い考えは読み取れなかったんだ。意味不明な道具の作製に、何をそんなに夢中になっているのか。そう思っていたくらいなんだよね。だけど博士はその試作品を造ってくれたお礼として、その社長に【とある高度なお土産】を残したんだ」
「高度な土産?」
首を傾げるジュールにシュレーディンガーは頷きながら話し続ける。
「偶然の産物とでも言えるのかな。試作品の作製に伴って工場へ頻繁に出入りしていた博士は、そこで鉄道には欠かせない蒸気機関について、まったく新しい構造に閃いたんだよ。蒸気機関の効率を飛躍的に高める手法をね」
ヘルムホルツは竦み上がった様な表情でシュレーディンガーの話しを聞いている。無自覚にも彼の中の知識が、話の内容の末恐ろしさ感じ取っているのだろう。
「当時の蒸気機関のエネルギー効率は、せいぜい25%が良いところだった。でも博士が新たに考えた仕組みを採用した蒸気機関は、恐るべき事にその3倍以上にもなる80%にまで達していたんだよ。正直言って冗談としか思えなかった。機構的重量のかさむ蒸気機関はある種の化石化された古典的技術であって、誰しもが廃れ行くものと思って疑わなかった技術だからね。そもそも蒸気機関は化学から熱へ、熱から機械へとエネルギーを変換していく機構だから、熱力学の観点より限界がはっきりしていたんだよ。それなのに博士は柔軟という言葉なんかでは済ますことの出来ない発想の転換で、世界の常識を一変させてしまったんだ」
シュレーディンガーは瞳を輝かせながら話している。彼にしてみれば、それは歓喜するほどに感動的な体験談だったのだろう。
「現在でこそ高速鉄道などで当たり前に利用されている、超高効率なハイパワー蒸気機関。でもそれはグラム博士の天才的な発想によって生み出された、まったく新しい機構が基礎になっているんだよ。そして私が何よりも心を打たれたのは、そんな機構を考え出した博士の直感の素晴らしさについてなんだよね。勘働きに優れている博士の直感は単なる思い付きの産物ではなく、その裏には計り知れない知見と洞察が秘められている。一見しただけでは鼻で笑ってしまいそうな突拍子もない発想だとしても、博士の頭の中にはいつだって理論的な裏付けがしっかりと成されているんだ。まさに天才とは博士の事を指し示す為に存在する言葉なのだろう。私はそう心から信じ、また深く酔いしれてしまった。まぁ、博士自身はそんな私の想いに対して照れ笑いを浮かべるだけだったけどね。あの人は他者に対して自分がどう反応を返せば良いのか、得意ではなかったから。ただそんな博士が私だけに向かって、一つ諭してくれた言葉があるんだ」
シュレーディンガーは一度だけ深呼吸をすると、グラム博士より諭された言葉を一気に告げた。
『現状ありきで将来への改善を見出すやり方では、少ししか改善する事は出来ない。大切なのは将来あるべき姿を見定め、その上で何をするか考え開発する事なんだよ』
満面の笑顔を浮かべたシュレーディンガーは、一同を見渡しながら話しを続けた。
「震えたよ、その言葉を博士より聞かされた時にはね。たぶんグラム博士じゃない別の誰かに同じ言葉を掛けられたのならば、私は何も感じなかっただろう。だけど博士の言葉には否定しようの無い説得力が伴っていたんだよね。新しい蒸気機関の誕生っていう、モノづくりの仕方が大きく変革した瞬間に立ち会えたからなのかな。ただ少なくとも私は目の前の現実に驚嘆するとともに心から歓喜していたんだよ。そして私は博士を本心から敬い、その言葉を真摯に受け止めたんだよね」
少し興奮ぎみに話したシュレーディンガーは、ペットボトルの水を半分程度まで飲み込んだ。その姿から想像するに、彼がグラム博士を尊敬し、また信頼しきっていたのは間違いない事なのであろう。そしてその感覚は話しを聞くジュール達にまで十分伝わっていた。
科学的な知識に乏しいジュールやリュザックまでもが、博士の持つ高次元な頭脳に唸りを上げる。しかし時代に革新的な進歩をもたらすためには、逆に考えればそんな人知を超越した存在が不可欠であり、いつの時代にもそんな優れた頭脳の持ち主が出現したからこそ、現在の文明は築かれているのだとも断言出来るはずなのだ。
特に科学者であるヘルムホルツはそう思わずにはいられなかった。彼とてグラム博士がどれだけ偉大な科学者であったかは理解しているはずである。でも改めて博士と共に科学の研究を行った当事者であるシュレーディンガーの話しを聞く事で、彼は時代そのものを変革してしまう絶対的科学者の存在というものを知り、身悶えするほどの怖さを感じずにはいられなかったのだ。ただそれでもヘルムホルツは一つ頭に浮かんだ疑問をシュレーディンガーに問い掛ける。彼に備わった科学者としての本能が、つい口走らせてしまったのだ。
「やっぱグラム博士は俺なんかじゃ到底及ばないほどの凄い科学者だったんですね。話しを聞いただけなのに、ビビッちまって仕方ないですよ。ただ一つだけ気になったんですが、試作品のほうは別として、グラム博士が発明したハイパワー蒸気機関の原理には、波導量子力学の理論は使用されていないのですか?」
巨漢に見合わずヘルムホルツは身を窄めながら質問を投げ掛けた。今は企業家なれども、シュレーディンガーは彼からすれば偉大な先輩科学者なのだ。それもかなり高度な知識を有した科学者なはずである。それゆえ彼は目上の者に対して不躾にも質問した事に決まりの悪さを感じているのだろう。ただそんなヘルムホルツに向かってシュレーディンガーは、嬉しそうに微笑みながら答えたのだった。
「さすがはヘルムホルツ君だね。しっかりと話の内容を考察し、その中に生じた自分なりの疑問を的確に抽出している。それは科学者として最も然るべきセンスなんだよね。だからそんなに恐縮する事はないよ。君は感じた疑問を素直に尋ねただけなんだから。そして君の質問の答えなんだけど、ハイパワー蒸気機関の原理には、残念な事に波導量子力学は使われてはいない。あれは純然たる光子相対力学の産物と呼べる技術なんだよ。でもね、公式には言えない事なんだろうけど、その考え方の本質には腑に落ちない疑点が存在するんだよね」
「腑に落ちない疑点ですか?」
「いや、理論的には何ら問題は無いんだよね。ただ私は光子相対力学の【使い方】に疑問を感じてしまうんだよ」
「使い方、ですか?」
「うん。ハイパワー蒸気機関は光子相対力学を応用し、そこで得られる超高圧縮な蒸気機関の事をいう。そしてそれは理屈としては科学的に筋が通っているんだよ。でも釈然としない部分が存在するのも事実なんだよね。それは何かというと、グラム博士によってハイパワー蒸気機関が生み出されるまでは、蒸気はある一定条件に達するとそれ以上に圧縮出来ない【限界点】があると定説にされていたんだ。それは実際の実験でも確認されていた傾向だからね。それが常識という先入観として科学者達の知見に刻まれてしまったのは、ある意味当然な流れだったんだろう。でも博士はその常識を覆し、ある一線を越えると急激に性能が向上する仕組みに気付いたんだ。その直観力というか、発想力の高さには脱帽するしかない。だけどね、逆にそれまで定説として考えられていた論理は何だったのか。その事に私は疑問を覚えてしまうんだよ。だって光子相対力学の確立者であるアルベルト国王が、そんな特徴に気付かないなんて普通に考えておかしいだろ?」
シュレーディンガーは訝しく眉間にシワを寄せている。そして彼は脳裏に色濃く浮かぶ不審さを吐き出したのだった。
「蒸気を超高圧縮させる手法について、それは例えばグラム博士が見出さなくても、いずれは誰かの手によって発見されたであろう現象なんだ。物理的条件が整ってしまえば、それは現実の事象として発生してしまうのだからね。ならばどうして光子相対力学はその理屈に定説として限界点を設けてしまったのか。単純に気が付かなかっただけなのか。あるいは誰かが意図的に伏せていたのか。普通に考えれば、それは前者として片づけられる話しなんだろう。ただ私には当時よりそれがシコリとして胸に残り続けていたんだ。だってもし後者だったとするならば、それは【アルベルト国王】以外に考えられる人物はいないのだからね。そしてその国王の正体を知ってしまった今となっては、それは完全な疑惑として確立しているんだよ。ただそこに秘められた謎は凄く深いからね。そう簡単に辿り着けはしないだろう」
シュレーディンガーはそう告げ終わると大きく息を吐き出した。恐らく彼の中ではどれほどの苦難を乗り越えなければその疑点を解き明かせないのか、漠然とはしつつも解決までの道筋は把握しているのだろう。しかしそんなシュレーディンガーの考えなど計り知れないジュール達は、少し唖然としながら彼を見つめるだけであった。無理もない。突然始まった高次元な科学的発想の話しに、ジュールらはまったくついて行けていないのだ。するとそんな彼らの呆然とした姿を目にしたシュレーディンガーは、軽く陳謝しながら告げたのだった。
「済まないね。余計な昔話をした事で、少し話しがズレてしまったみたいだ。それに科学的知見の乏しい君達にしてみれば、話の中身自体がそもそも難しいのであろう。しかしね、それでも君達には聞いてもらわねばならないのだよ。まだまだ小難しい話しが続くであろうが【天光の矢】による獣神の打破に失敗してしまった今となってはもう、波導量子力学に全てを懸けるしか方法が無いのだからね。そして君らはこれより博士の隠した最終定理の捜索に当たってもらうわけだが、重要なのはその入手に成功したとしても、まったくの無知であればそれは逆に君達自身を破滅させ兼ねないって事なんだ。大きな力には常にリスクが付随するもの。だからこそ、君達には波導量子力学の壊滅的な怖さも知っておいてもらいたいのだよ」
そう言ったシュレーディンガーはソファより腰を持ち上げ、ジュールの前へと歩み行く。そして彼の目の前で足を止めたシュレーディンガーは、テーブルに置かれていたブリーフケースを指差して、それを開くよう指示したのだった。
目だけで頷いたジュールは指示に従いブリーフケースの鍵を開ける。そして彼はその中に納められている色別に分けられた複数の玉型兵器をシュレーディンガーに向けて露わにした。するとそれを目にしたシュレーディンガーは、鋭い視線を向けながら彼に言った。
「これらはグラム博士から、直接君の手に渡されたんだよね?」
「はい。時が来るまでお前が保管しとけって、半ば強引に渡されました。今思えば何だか形見分けでもされた様な気がして、複雑な気持ちになります」
「そうだね。家族であった君にしてみれば、それは思い出すには辛い記憶なんだろう。でも少しだけ辛抱してくれ。君が博士より受け取ったのは、この【4種類】の玉型兵器だけで、他には渡されてないのだね?」
その質問に対し、ジュールはヘルムホルツの顔を見ながら答えた。
「新型の玉型兵器はこれだけです。あとは従来の玉型兵器のコンパクト化を記したノートをヘルムホルツに渡せって言われて。それは博士の言いつけ通りにヘルムホルツに渡しました」
シュールの言葉を聞いたシュレーディンガーは、ヘルムホルツに向き直る。するとそれを見越したかの様に、ヘルムホルツは所持していたバッグより1冊のノートを取り出した。そして彼はそのノートをシュレーディンガーにへと手渡す。ノートを受け取ったシュレーディンガーは再びソファに腰を下ろすと、手早くノートに記された内容に目を通した。
「ヘルムホルツ君。君はこのノートに記された手順を踏んで、実際に玉型兵器のコンパクト化をやってみたのかね?」
「は、はい。パッと見た目は意味不明な事ばかりだと呆れそうにもなりましたが、でも順を追って丁寧に作業を進めたら、意外にも簡単に造り上げることが出来ました。造った兵器はヤツとの戦闘で実際にジュールが使用しているし、兵器としての完成度も信頼のおける出来栄えだと判断しています。なぁそうだろ、ジュール」
「あぁ。五重塔でも羅城門でも、お前が造ってくれた玉型兵器のお蔭でホント助かったよ」
するとその言葉にシュレーディンガーは反射的に唸りを上げた。
「凄いね。やはり博士の人を見る目は確かなのだな。私が見たところ、このノートを読んだだけでは玉型兵器の小型化は不可能だと言わざるを得ない。そこに行き着くためには従来の科学的な理論に囚われない、柔軟で大胆な発想の転換が必要とされているからね。でもヘルムホルツ君にはそれが出来た。となれば偶然的にも君は波導量子力学をすでに使用しているわけだし、それは自動的に波導量子力学を使える立場に君を押し上げているんだよ。恐らく半分はグラム博士の仕組んだ道筋なんだろうけど、しかしヘルムホルツ君にはその道を進むだけのセンスと知識を十分に備えている。そう判断して間違いないんだろう。まだ若いのに末恐ろしい科学者だね。もしかしてヘルムホルツ君なら、波導量子力学の神髄に、本当の意味で迫れるのかも知れないな」
そう告げたシュレーディンガーは、ヘルムホルツを頼もしく見つめた。無骨な見た目より、彼の科学者としての繊細な気質はなかなか想像出来やしない。それでもヘルムホルツの実績とグラム博士が認めた科学者としての才能に、シュレーディンガーは胸を熱くさせずにはいられなかった。そして人は見た目で判断してはいけないのだと、彼はヘルムホルツを前にして改めてそう感じていたのだ。ただシュレーディンガーはそんな感動する気持ちをグッと押し殺し、新型の玉型兵器に視線を戻して話し始めた。
「桃色に白色、そして銀色までは想像出来ていたんだが、まさか金色の玉型兵器までジュール君が持っていたとはね。ガルヴァーニさんからの情報と少し違っているし、現物を見るのは初めてだから少々驚いているよ。ただついでにもう一つ確認したいんだけど【黒色】の玉型兵器は受け取らなかったのかい?」
「黒色の玉型兵器ですか? 済みません、博士からはこの四つの玉しか受け取ってないし、そんな黒色の玉型兵器なんて、話しすら聞いてません」
まったく主旨の掴めないジュールは首を傾げている。その姿より、彼の答えに嘘は無いのであろうとシュレーディンガーは直感として判断した。しかし彼は少しだけ表情を曇らせる。平素を保つよう努めてはいるものの、その落胆ぶりは誰の目から見ても明らかなものだ。一体シュレーディンガーは博士の残した玉型兵器に何を見定めようとしているのか。ただそれでも彼は直ぐに気持ちを切り替えて強い意志の込められた視線を皆に向け直す。そして本題にへと繋がる話に内容を引き戻したのだった。
「ジュール君が所持している金色の玉型兵器。それは現時点では未完成の兵器なんだ。そしてその兵器を完成させる為に必要なのが、グラム博士が世界のどこかに隠したとされる【最終定理】なんだよ。波導量子力学の確立されたロジックが記された最終定理。まずはそれを探し出す事が我々の最優先命題であり、それこそが獣神を倒す最短の近道なんだよね」
意味も分からないままジュールの背中が酷く泡立つ。博士の残した最終定理を探し出す目的を知ったからなのか。それとも未だ不明な獣神をも打破する波導量子力学の力に恐れを感じたからなのか。ただそれでも彼はグッと硬く拳を握りしめながら前向きに想いを滾らせる。この体の芯から溢れ来る震えは決して怖さなんかじゃない。きっとこれは真実を間近に感じる武者震いなんだ。彼はそう強気に心情を高めて前向きに想いを馳せたのだ。そして彼はシュレーディンガーに対し、獣神への打倒を促したのだった。
「俺達にグズグズしている暇はありませんね。早いとこ最終定理を見つけ出して、国王に扮した獣神を倒しましょう。あっ、でも金色の玉型兵器って、完成したら一体どんな能力を発揮するんですか? まさか核爆弾なんて事はないですよね?」
「絶大な破壊力を持った兵器という意味では、君の想像する核は現実として正しいのかも知れない。しかしそんな物ではあの獣神は倒せやしないよ。そもそも次元的というか、空間的な解釈が根本的に違っているんだからね。やはり君達には順を追って話す必要があるようだな。ならまずはこの国の【統一された科学】こと、アルベルト国王が提唱する【光子相対力学】について話さねばなるまい。波導量子力学を知るには、それの基礎となった光子相対力学の理論を知っていないと話しにならないからね」
まだまだ続くであろう科学的な話の前に、シュレーディンガーは首を回す。それはまるで圧し掛かる重圧を振り払うかの様にも見える。ただそんな彼に気負う素振りは見られない。むしろ若者たちに対して正確な情報を理解してもらおうと、彼は真剣に考えているのだろう。そしてシュレーディンガーは覚悟を宿した強い眼差しで話しを始める。その内容は世界的な公然の科学として多岐に利用されている、光子相対力学の概要についてであった。
光子相対力学。それは今から二百年ほど前に実在した科学者である【フェルマー】が、当時としては画期的過ぎる発想で考え出した科学理論である。しかしそんな現代科学の基礎を発案した偉大な科学者であるフェルマーの生涯は、決して栄光に満たされた輝かしいものではなかった。
風変りな性格の持ち主であり、他者と馴染む事を極端に苦手としていたフェルマーは、その研究成果をほとんど公表せぬまま科学者としての人生を終焉させる。残念な事に、彼はまだ三十代前半という若さでこの世を去ってしまったのだ。
ではなぜ彼は若くして死に至ったのか。残念ながらその理由は定かになってはいない。ただ彼が幼少より病弱な体質であった事は広く伝えられおり、一説には急性白血病だったとも語られている。しかしそれが本当だったかどうかは、二百年経った現在ではもう調べようが無かった。
死因不明のまま短い生涯を閉じたフェルマー。ただそれにも増して不思議なのは、フェルマーという科学者には残された情報が少な過ぎるという事だった。
彼について判明している事実は次の通りである。一つはアダムズ王国の北部地方にある片田舎で生まれ育ったという事。そして子供時代より体がひ弱であり、その影響もあってか友人などはほとんどいなかったという事。また虚弱体質の為か、幼き頃より読書を好み、少年期には俗に言う神童として周囲より認知されていたという事。そして学問に秀でた才能を持ったフェルマーは、青年期に首都ルヴェリエに赴き、その流れで科学者になったという事だった。
フェルマーがアダムズ王立協会の会員になったのは、二十代中頃あたりだという。その若さで王立協会に属せたことより、彼が極めて優秀な科学者であったのは事実なのであろう。でもだからといって、彼が特別に才能に溢れていたかと問われれば、それは首を横に振るより他はない。その証拠に協会には、フェルマーよりも若い科学者は多数いたはずなのだ。それに彼が協会に在籍していた期間においての活躍は、まったく記録されていない。万を超える科学者の中の一人として、フェルマーは誰からも注目される事なく細々と研究を続けていたのだろう。そしてそれは彼の最大の功績であるはずの【4つの論文】を発表した後も、状況は変わらなかった。
フェルマーが死を迎える二年ほど前に、彼は4つの論文を突如として発表する。それも一年の間に立て続けに4つもの論文を発表したのだ。後に【フェルマーズ・リポート】と呼ばれる、二月、三月、六月、九月と、発表した月の名前が付けられた4つの論文。きっと彼の性格からして、論文のタイトルなどは意味の無いものであったのだろう。ただ論文のタイトルとしては逆に物珍しい名前であったことから、その当時でも少しだけ話題になったらしい。しかしそこに書き記された理論が当時としては飛び抜けて難解であり、かつ誰一人としてその内容を理解出来る者が居なかった為、それらの論文は日の目を見る事無く王立協会の書庫の片隅にへと置き去りにされてしまったのだった。
それから時は流れて現代にへと移り行く。経緯は不明であるが、まだアルベルト国王が若かりし頃、何らかのキッカケで彼はフェルマーの論文を手にしたのだ。科学の探求に余念のないアルベルト国王がゆえに、王立協会の書庫でも散策していたのかも知れない。そしてひょんな偶然でフェルマーの論文を手に取った。いや、誰よりも科学を愛して止まなかった国王が、フェルマーの論文に引き寄せられた。そんな神秘的な必然が存在したと考えるべきなのだろうか。ただ結果として国王が論文を手にし、そこに記された理論を正確に把握したのは事実なのだ。そしてその理論を基礎にして、アルベルト国王は世界の営みを激変させる。そう、彼は統一された科学こと【光子相対力学】の理論を完璧なまでに確立させたのだ。
アルベルト国王はフェルマーの理論を見事なまでに操り、また巧みに応用しながら光子相対力学の研究に没頭した。そしてその研究成果によって、国王は実現不可能と考えられていた発明を幾多も成し得たのだ。
世界に変革が起きたと呼ぶべきなのだろう。それほどまでにアルベルト国王が生み出す発明は画期的であり、その産物は人々の生活の有り方を根底から変えてしまう力を持っていた。
勢い良く動き出した科学的な変革の流れは止まらない。光子相対力学の絶大な科学力という魅力に惹かれた有能な科学者達が、次々と国王のもとに集い始めたのだ。そして彼らは国王より直々に光子相対力学の手ほどきを受け、それをさらに応用し磨きを掛けた。その結果、人々の暮らしは増々豊かになって行ったのだ。
もちろん国王の下に集い、弟子となった科学者の中にはグラムやラジアン、それにボーアなども含まれている。そんな彼らとて、光子相対力学を初めて目の当たりにした時は、その圧倒的な科学力の前に屈服すら覚えるほどの衝撃を感じた事であろう。それほどまでにアルベルト国王が確立した理論は完璧であり、覆し様の無い公理と呼ぶべき存在だったのだ。
自然界の全てが解き明かされるのも時間の問題だ。科学者達は常々にそう口走っていた。常識を遥かに覆す理論が今では公理として完全に根付いてしまったのだから、誰もが光子相対力学を絶対的な理論と信じ認めるのは当然なのであろう。そしてそんな人の心理までもを掌握してしまう圧倒的な力こそが、光子相対力学の持つ真の力なのかも知れないのだった。
結果としていつしか人々は、アルベルト国王が提唱する光子相対力学のことを【統一された科学】と呼ぶようになり、また彼を敬い心服する科学者達は光子相対力学のことを【疑う必要のない前提理論】と見なすほどにまでなっていた。
「それまで培われて来たかつての科学理論と、国王が新たに確立した光子相対力学では、基本的な部分でその考え方が大きく違う。かつての科学理論は『時間』と『空間』を本質的に異なった別個のものとして捉える二元論的な見解をしていた。しかし光子相対力学では、その考え方を非生産的という理由で無視しているんだ。時間と空間は我々が暮らす世界では当たり前に存在し、密接な関係を構築している。でもそれらの概念は古代の科学者達が人々の暮らしを効率良くするために考え出した定義であって、それらを隔てる必要性はまったく無いのだと、光子相対力学は述べているんだよ」
シュレーディンガーはまるで歴史の講師にでもなったかの様に、丁寧に言葉を選びながらジュール達に話しを続けた。
「我々が日常生活を営む上では、時間と空間の存在はとても都合が良い考え方ではある。だけど科学の世界ではそれらが逆に制約となって、科学的な進歩を阻害するまでになっていたんだよ。でも常識としてそれらは人々の頭に根深く刻み込まれていたからね。そうは簡単に考え方を改められるはずもなかったんだ。しかし国王は光子相対力学でその課題を完全に克服した。ほんの少しだけ科学に向き合う姿勢を変える事で、まったく新しい次元に科学のレベルを押し上げたんだよ」
ゆっくりとソファより腰を上げたシュレーディンガーは、話しの続きを語りながらも近くの本棚に近寄って行く。
「きっと国王はこう考えていたんだろう。時間と空間は常に自分達の周りに存在している。でもそれらを実際に肉眼で確かめた者は一人として存在しない。ならばそれらは妄想の産物であり、実際には存在しないのであろうか。いや、そんなはずはない。その証拠として、それら時間と空間なくして科学は成立しないのだから。ならば何がいけないのだろうか――ってね」
するとシュレーディンガーは本棚より一冊の本を取出し、それをジュール達に見せる様にして告げた。
「これは光子相対力学の基礎理論となった、フェルマーズ・リポートの複製品だ。そしてフェルマーが初めに発表したこの【二月の論文】の冒頭に記されている内容こそが、国王に画期的なインスピレーションを与えたんだよ」
『時間と空間をそれぞれ個別に考えるからこそ、そこに弊害が生じてしまうのだ。ならばいっその事、それらを【一緒】にして考えてしまえば、問題解決への糸口は開けるはずだろう』
「国王を敬う科学者達が、どうして光子相対力学を【疑う必要のない前提理論】と見なすまでになったのか。それはまさに光子相対力学が、時間と空間という個別の概念を一律に考えているからなんだよ。そしてそこから生まれたのが、光子相対力学の前提理論である【光速】についての定義なんだよね」
現代物理学の根幹である光子相対力学が【前提】として唱える原理。それは、
『光速とは超えることの出来ない自然界の最高速度である』
と、いうものである。そしてその光子相対力学が定義する光速には、さらに2つの大原則が付随されていた。
その一つは物体の早さだけでなく、情報などの目に見えない存在ですら光速は超えられないという事。万が一にも光速を超える現象が可能であるならば、それは光子相対力学を根底から書き換える必要に迫られるからだ。
そしてもう一つが、光源を動かしても光のスピードは変わらないという事。例えば時速100キロで走る列車の中で、ボールを時速80キロで投げたとする。列車の中に居る者がそのボールを見た場合、それは当然時速80キロで飛んでいる事になる。ただそれを列車の外にいる者が見たとするならば、その投げられたボールは走る列車のスピードも加算されて180キロになるはずなのだ。しかし光子相対力学では、光速の値は光源の運動速度に左右されないと定義されている。そう、仮に走る列車の中で光を発射しようとも、その光速に列車のスピードは加算されないのだ。
これら2つの原則は、光子相対力学を利用する上での基本原理として提唱されている。それゆえいかに光速が光子相対力学において重要な存在であるか。それは感じ取ってもらえたであろう。
自然界での最高速度である光速。ただ実のところ、光以外にも光速で進めるものがある。それは何かというと、光子相対力学の名前の由来にもなっている【光子】という存在だ。そもそも光速とは、質量がゼロの物体が存在するのであれば、それは光速で移動することが可能であると定義するものである。そして光子は質量がゼロだと考えられているのだ。すなわち光子は光速で移動することが出来る存在なのである。
国王は光子相対力学を確立する際、たまたま身近にあった【光】という存在に着目して理論を導き出したに過ぎない。しかし光子にもあるように、光だけがそもそも自然界で特別ではないのだ。そして光や光子以外で光速に移動出来るもの。その一つが【重力波】と呼ばれる存在だ。重力波は光子相対力学によってその存在が予言されているもので、時間や空間の歪みが波となって進んでいく現象を現している。そんな重力波を形成する【重力子】と名付けられた素粒子もまた、質量がゼロだと考えられているのだ。
ただし重力波の抱える問題点は、その存在が完全に証明されていないという点である。光や光子が現実として存在しているのに対し、重力波は予言こそされているものの、はっきりとした存在証明はなされていない。だが現実に人は重力をその身に感じているわけであり、全宇宙を構築する上でも重力は間違いなく存在するはずなのだ。そしてその【重力】こそが獣神に挑む為の最大の切り札であり、グラム博士が導き出した波導量子力学の本質なのであった。
「すぐ身近に絶えず感じる存在でありながらも、その正体が何なのかまったく見極める事が出来なかった【重力】という存在。しかしそれこそがまさにグラム博士の導き出した答えであり、そんな重力を自由自在に操る理論こそが、真の天才たる博士の生み出した波導量子力学なんだよ。光子相対力学の原理である光速。そしてその光速を駆逐するほどの可能性を秘めた重力という物理的パワー。それが如何に途轍もないものであるのか。しっかりと聞いているのだぞ」
そう告げたシュレーディンガーは、更に表情を引き締め直したのだった。