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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第三幕 刻迂(こくう)の修羅
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#56 逃水の公理(一)

 先導するアニェージを追い駆けるジュールとリュザックの足は極めて重い。なぜなら彼らは日の出間際(まぎわ)の時間帯まで、王子と酒を酌み交わし続けていたのだ。(うな)りを上げる頭痛は(とど)まる事を知らず、また連日の寝不足が拍車を掛けて彼らを(うと)ましい不快感に(むしば)んでいく。そんなジュール達にアニェージは少しばかりの同情の視線を投げ掛けたが、しかし歩むスピードだけは緩めようとはしなかった。

 人通りの多い街道に昨日との変化は見られない。それゆえに体調の優れないジュールとリュザックにしてみれば、そんな街を行き交う人々を避けて進むことだけでも十分に厳しいもののはずだ。だがそれにも増して先を進むアニェージの足は速かった。

 グラム博士から託されたブリーフケースを手にしながら歩むジュールは、そんな彼女の背中を見つめながら思う。自分の知らないところで、彼女に何かしらの出来事があったのだろうか――と。彼は彼女からどこか焦りの様な感覚を感じてならなかったのだ。

 二日酔いによる絶え間ない頭痛に表情をしかめるジュールであったが、それでも彼はアニェージから感じ取る静かな苛立(いらだ)ちに気を揉んだ。彼は直感としてそう疑問を抱かずにはいられなかったのだ。ただそんなジュールの覚束(おぼつか)ない胸の内にアニェージ自身もすぐに気が付く。すると彼女は決まりが悪そうに視線を逸らすも、彼に向かって溜息まじりに(つぶや)いたのだった。

「ふぅ~。やっぱりダメだな、私って女は。都合が悪くなると、すぐに自分の殻に想いを閉じ込めたくなってしまう。鬱屈(うっくつ)した気分から逃れる手段としては、それが一番手っ取り早いのだろうけど、でも結局のところそれは問題を先送りしているだけで、何の解決にも至っていないんだよな。要は目の前の困難から目を逸らしている。本質的に言えば、それは逃げているって事なんだろうね」

「なんだよ急に。せっかく話してくれるんならさ、もうちょっと分かり易く話してくんないかな?」

 アニェージの話しに要領を得ないジュールは表情を曇らせる。するとそんな彼に向かってアニェージは苦笑いを浮かべながら話を始めた。

「いや、大した事じゃないんだよ。ただ体調の定まらないソーニャを一晩見ていたら、少しだけ怖くなってしまった――。それが正直な私の気持ちなんだろう」

「ソ、ソーニャに何かあったのか!」

「いやいや、あの子に変化は何も起きてはいないよ。ホテルで一度体調を悪化させたみたいだけど、でもヘルツホルムが鎮静剤を投与してからは随分と落ち着いているモンさ」

「そ、そうか。それなら良いんだけど。急にあんたがソーニャの話しを持ち出すもんだから、心配しちまったぜ」

 ジュールはホッと胸を撫で下ろす。天体観測所でソーニャを保護してからというもの、彼女の体は素人の目から見ても健康な姿とは(とら)え辛いものがあるのだ。アカデメイアと呼ばれる秘密結社の地下施設で、彼女の身に何かしらの変化が生じたのは確かなはず。ジュールにはそれが感覚的に理解出来ていたからこそ、ソーニャが無事に落ち着いていると聞いて安堵したのだった。ただそんな彼に向かいアニェージは続ける。彼女には彼女なりの思いが胸にシコリを残していたのだ。

「私には個人的に決して曲げられない信念がある。それはこの世界に存在する全ての【ヤツ】を駆逐し、根絶やしにするって事だ。その決意を果たすまで私は止まらない。いや、ヤツを殺し尽くす為だけに、私は今日まで生きて来た。そう思わなければ立っていられないほどに私はヤツの存在を憎み、そして呪っているんだよ。でもね、ソーニャを見ていると、その気持ちがブレてしまうんだよ。私達の盾になってくれた、あの猪顔のヤツを思い出してしまうからなのか。それとも何か別の理由があるのか。正直それが分からないから、私は苛立ちを感じ、知らず知らずのうちに焦ってしまうんだよ……」

 そう告げたアニェージは少しだけ歩くスピードを遅らせた。胸に詰まる(わずら)わしい感情を吐き出した事で、心に(わず)かばかりの余裕が生まれたのだろう。彼女はジュール達の歩く速度に同調しながら足を進めていく。ただその表情は、どこか切ないものに感じられた。するとそんなアニェージにジュールはつい聞き尋ねてしまう。彼にしてみれば、思い立った疑問を投げ掛けずにはいられなかったのだ。

「どうしてあんたはヤツをそんなにまで憎むんだい?」

 別に悪気があったわけではない。ジュールは素直に頭に浮かんだ疑問を口にしただけなのだ。ただその質問にアニェージは苦々しく微笑むだけで何も答えようとはしなかった。ジュールを信用していないわけではない。それでもまだ彼女には、胸に深く刻まれた【過去(げんじつ)】を語る気にはなれなかったのだ。

 ジュールは首を傾げる事しか出来ない。彼にしてみればアニェージの胸の内など図り様がないのだから、それは致し方のない事であろう。だから彼は渋るアニェージに再度聞き尋ねよう進み出る。ジュールは彼女の話しが気になった以上に、どこか気に病む彼女を放っておけなかったのだ。でもその時、彼の肩をリュザックが掴んでそれを自制させた。そしてリュザックは首を横に降りながらジュールを諭したのだった。

「野暮な話はそこまでにするだがよ。気持ちの整理がつけば、アニェージちゃんはきっと自分から話してくれるはずだき。だからそれまでそっと見守ってやろうな。俺はそれも仲間としての優しさなんじゃないがかと、心得ているきね」

 リュザックはそう言って微笑んで見せた。その温かい表情にジュールは驚く。この人はこんなにも懐の大きな人だったのかと。普段のイメージからは想像出来ないリュザックの姿勢にジュールは少し戸惑う。しかしそれにも増して彼は目の前の先輩隊士を頼もしく感じたのだった。

 それ以降ジュール達はほとんど会話をすることなく歩みを進めた。ただほどなくして彼らは外壁を黒色基調に統一した高層ビルに到着する。混乱した状況とは言え、昨日一度このビルを訪れジュールに(ひる)む気持ちは無い。静かに開く自動ドアからそのビルの中にへと進む彼らは、その(あるじ)であるシュレーディンガーに会うべく気持ちを引き締めたのだった。


 朝の出勤時間帯を過ぎたこともあり、1Fロビーに人は少ない。でもさすがにここはグリーヴスを代表する複数の企業がオフィスを構えるビルなのだ。それなりに人の姿は確認出来る。商談のために訪れるビジネスマンや品物を納品する業者など、ざっと視界に入るだけでも10人程度は認識出来るだろう。ただそんな者達にまったく気を留めもせず、アニェージは二人を先導しながら歩みを進めた。そして昨日ジュールが全力で駆け上がった階段の前を通り過ぎた場所で、彼女は足を止めたのだった。

 そこには3機のエレベータが並んでいる。昨日ジュールが起動ボタンを押した時、そのいずれもが反応を示さなかったエレベータだ。でも今日は何事も無く通常通りに稼働しているらしい。その証拠にアニェージがボタンを押すと、上階に停止していたエレベータが降下しはじめたのだ。昇降口に設置された液晶パネルには、まるでカウントダウンしているかの様にエレベータの現在位置が表示されていく。そしてその数十秒後にエレベータは、ジュール達の前でその扉を開いた。

 運が良かったと思うべきなのか。エレベータは無人であった。極力関係のない一般市民との接触は避けるべきであろう。そう思っていたジュールにしてみれば、エレベータに誰も乗っていなかった事は幸いだった。それに彼ら以外にエレベータに乗ろうとしている者もいない。いらぬ気遣いから解放されたジュールは率先してエレベータに乗り込んでいく。そして全員がエレベータに乗り込み、扉が閉まったところで彼は呟いた。

「ふぅ~。別に気構える必要はないんだろうけどさ、やっぱ普通の人が多い場所っていうのは、無意識にも気が張っちまうもんだぜ。もしこのエレベータに俺達以外の誰かが乗ってたりしたら、意味も無く焦っちまうだろうからね」

「ハッ、お前が気を回らせるなんて珍しいものだな。まぁ確かにこのビルで働く多くの人達は、普通に日常を暮している者達だよ。ましてこのビルの所有者であり、大企業の社長であるシュレーディンガーの裏の顔なんて、誰一人知る由もないだろうしね。でもなジュール、このビルは完全にシュレーディンガー社長の管理下にあるということも、また事実なんだよ」

 そう告げたアニェージは懐よりカードを取り出すと、それをエレベータ内に設置されたパネルにかざした。するとどうした事であろう。エレベータは自動で降下を始めたのだ。ジュールが見た感じでは、アニェージはエレベータの行き先を指示するためのボタンを押してはいない。ならばあのカードが行き先を入力する鍵だったのだろうか。ただそんな事を考えているジュールはさらに不思議な光景を目にしていた。

 エレベータに明示されている案内表示を見る限り、このビルは地下5Fが最下層のフロアーになっているはずである。しかしジュール達が乗り込んだエレベータは、それを遥かに超えた地下にへと移動しているのだ。エレベータ内にある表示パネルは、地下5Fを過ぎた場所からメンテナンスを告げる掲示へと変化している。恐らくこのエレベータが表向きになっていない、秘密の空間に移動している事を隠しているのだろう。ただ程なくしてエレベータは静かに停止したのだった。

 一体どんな施設がこの深い地下空間に隠されているのだろうか。ジュールは汗ばむ拳を握りしめながら息を飲み(たたず)んでいる。しかしなぜか扉の開く気配がいつになっても感じられない。もしかしてまた昨日の様なシュレーディンガーの悪ふざけなのか。そう思ったジュールはアニェージに強く詰め寄ろうとした。――が、それと同時に足元より大きな振動が伝わり、ジュールは体勢を崩さないよう堪えたのだった。

「ガガガガッ」

 唐突に発生した地震の様な揺れにアニェージやリュザックも身構えている。ただ程なくしてその振動は鳴りを潜めた。すると口元を緩めたアニェージが、(すが)る様に手すりにつかまっているジュールとリュザックに向かい呟いた。

「このビルの地下には大層なカラクリが施されているんだよ。例えるならば、この地下空間はカジノにあるルーレットの様な構造になっているのさ。今の揺れは、そんなルーレットの様なフロアーが回転移動することで発生した振動なんだよ」

 そう告げたアニェージは少しだけ表情を緩ませた。ただその表情はどちらかといえば苦笑いに近いものに感じられる。いや、呆れているといったところか。するとそんな彼女の胸の内を察したのか、リュザックが(おもむ)に問い掛けた。

「いくらなんでもこの規模から考えちゅうに、金持ちの道楽っちゅうだけの設備じゃないきね。それに俺の勝手な予想じゃけんど、もしかして地下に行くためのエレベータは、俺達が今乗ってるこれ1機だけなんじゃないのかえ?」

「へぇ~。相変わらず見た目に反して勘は鋭いな、リュザック。正解だよ。お前の言う通り、地下フロアーに行くためのエレベータはこれだけさ。さらに付け加えれば、地下にある複数の区画(ブロック)に横の(つな)がりは無い」

「なるほどきね。面倒だけんど、隣のブロックに行くにも一々エレベータを利用せなダメなわけだがか。でもこれならもし不審者に無理やり押し入られたとしても、最悪区切られた一つのブロックにしか辿り着けんというわけだきね。セキュリティーとしては、上手く出来てるモンだがよ」

「私もその意見には同感だ。それに正直なところ、私ですらこの地下フロアーに全部で幾つの空間が確保されているのか知らないんだよ。だからもし社長が隣のブロックに【ヤツ】なんかを(かくま)っていたとしても、それを直接知らせてくれなければ、まったく気付きもしないのさ。それに恥ずかしい話しなんだけど、私がこのカラクリ構造を知ったのはまだ最近なんだよね。この施設自体はかなり前から構築されていたらしいんだけど、まぁ社長はああいう人だからな。恐らくシュレーディンガー社長以外に、この地下フロアーを完全に把握している者はいないのだろう」

 アニェージは溜息混じりにそう(つぶや)いた。それはきっと人を(あざむ)く事が得意なシュレーディンガーの性格を、彼女がよく理解している現れなのであろう。でもどこか複雑な心情が彼女からは読み取れる。これもまた、彼女の焦燥感を(あお)る原因の一つなのかも知れない。ただそんなアニェージの遣り切れなさを無視するかの様に、エレベータの扉は自動で開いたのだった。


 そこには比較的長い通路が真っ直ぐに延びている。そしてその両側の壁には幾つかのドアが確認出来た。地下フロアーの一つのブロックがこの規模なのだとすると、全体では一体どれほどの大きさになっているのだろうか。予想を超えた地下施設の大きさに、ジュールはただ息を飲む事しか出来ないでいる。ただそんな彼に構うことなく、エレベータを降りたアニェージは、そこから一番近いドアの前で足を止めた。

「トントン。私だ、二人を連れて来たぞ」

「あぁ、ご苦労だったな。すぐに開けるよ」

 慣れた手つきでドアをノックしたアニェージに対し、その向こう側からよく知った声が発せられる。そしてドアの開かれた部屋の中で三人を待ち受けていたのは、ジュールの想像通りヘルムホルツであった。

「どうしたんだ二人とも。秘密の地下施設に驚いたってだけじゃ足りないくらい青冷めた顔色しているぞ」

「今日も朝まで王子に付き合わされていたんだ。何か文句でもあるのか!」

 配慮の無いヘルツホルムの言葉にジュールは怪訝にも噛み付く。ただそんな彼に愛想よく微笑みながら、ヘルムホルツは素っ気なく返しただけだった。

「へぇ。二日連続で王子の相手をしたのか。そいつは大変だったろう。まぁ立ち話もなんだし、とにかく入れよ。まだシュレーディンガーさんは来てないから、それまで体を休めておけるだろうしね。それにしても王子はタフだな。もう今日の協議は始まっているはずだし、軍人のお前達よりも実は体力あるんじゃないのか、ハハッ」

「確かに王子の体力については認めざるを得ないな。話が盛り上がれば盛り上がるほど、より元気になっていくんだからね。でも他人の悪口聞かされながら延々と酒を飲まされている俺とリュザックさんにしてみれば、ただ辛いだけだよ、ホント。ホテルのロビーでサシの話しをして、少しは王子の事を見直したつもりだったんだけど、やっぱ王子の本質は嫌味の塊みたいな人なんだよね」

 そう苦言を呈しながらジュールは部屋にへと入って行く。ただその時、ジュールはその招かれた部屋の姿に目を見張った。

 そこは高級ホテルのスウィートルームとも呼べるほどの空間を催していたのだ。優美な彫刻の施されたテーブルや家具、それに艶やかな光沢の(きら)めく革張りのソファなどがセンス良く配置されている。ジュールはそんなソファの一つに腰を沈めると、さらに驚いた眼差しで部屋全体を見渡した。

 驚きを隠せない彼の眼差しに映る部屋の場景。それは部屋を囲む全ての壁が本棚となっており、そこには数万冊にも及ぶ書籍が整然と並んでいたのだ。ジュールはそんな多数の本に視線を向けながら、ヘルムホルツに向かって(つぶや)いた。

「何なんだよ、この部屋は。ヘタな図書館顔負けだぜ」

「あぁ、そうだな。ここはホテルの一室と言うよりは、むしろ書庫と呼んだほうが正しいのかも知れないな。ちなみにこの部屋に陳列されている本は、全て科学についての専門書ばかりだよ」

「これ全部が科学の本なのか!」

「あぁ、それもかなり専門的な部分に特化した本ばかりなんだ。それもほとんどが見た事が無いものばかりなんだよね。一応俺も科学者の端くれに身を置く者だから、それなりに本は読んでいるつもりだけど、ここに置かれた本は初見のものばかりで本当に驚くよ。でも凄いのはその一冊一冊が興味を掻き立てられるものばかりなんだ。ただこれ全部を読もうとしたら、何年かかるか予想も出来ないけどね」

 ヘルムホルツは戸惑い半分、嬉しさ半分といった表情で告げる。きっと科学者である彼にしてみれば、この部屋は宝の山とでも言い替えられる場所なのかも知れない。ただそんな彼に向かい、アニェージは溜息混じりに吐き出したのだった。

「私達が今いるこの地下ブロックには、全部で7つの部屋がある。そしてそのどれもがこの部屋と同じ構造をしているんだ。ただ一点だけ違うのは、それぞれの部屋にはそこに保管されている書籍に特徴があるんだよ。この部屋は科学についての本ばかりだけど、他の部屋は例えば数学だったり医学だったり、歴史だったりするんだ。でも何を目的としてこんなにも本を集めるのか、私にはさっぱり理解出来ないけどね」

「単なるコレクションなんじゃないだきか? こがいな数の本を全部読むなんて、人としての料簡(りょうけん)を度返ししとるがよ。でもまぁこれらが全部官能的でセンシュアルなモンなら、俺は読み尽くすかもしれんけどね」

「ハハッ。それは褒め言葉として受け取っておこう、リュザック君。ただ冗談抜きにして、私はここにある本を一応全て読んでいるのだがね」

 その言葉にリュザックを含めた一同がサッと振り返る。するとそこには白衣に身を包ませたシュレーディンガーが、微笑みながら立っていたのだった。


 音も無しに姿を現したシュレーディンガーにジュール達は息を飲むほどに戸惑った。しかしそれは仕方のない事であろう。なぜならシュレーディンガーが姿を見せたのは、部屋の出入り口からではなくて真逆の場所だったからだ。

 シュレーディンガーはまだこの部屋に訪れてはいない。ヘルムホルツはそう告げていた。そしてその言葉に嘘はないはずなのだ。その証拠に一番驚きを隠せないでいるのが、他の誰でもないヘルムホルツだったのだから。彼からは尋常でないほどの狼狽ぶりが見て取れる。恐らく狐につままれた感覚にでも(さいな)まれているのだろう。ただそんな彼らを微笑ましく見つめながら、シュレーディンガーは優しく話し出したのだった。

「驚かせてしまって済まないね。でも確信犯で君達を驚かせようとしたのも事実なんだ。だから本気で驚いてくれる君達を見れて、私は今とても気持ちが優れている。まぁ初めくらいは気分を良くしておかないと、この後の話しに萎えるばかりだろうからね。些細な悪ふざけだと思って、大目に見てくれよ」

 シュレーディンガーはそう言ってニッコリと微笑んだ。恐らく彼はこんな突拍子もない演出をすることで、堅苦しい挨拶(あいさつ)の代わりにでもしたつもりなのであろう。ただそんなシュレーディンガーの姿にジュールやリュザックは思う。もしかしたらこの社長職に就く大人は、王子と同じで他人を(あざけ)るのがこの上なく大好きなのかも知れないのだと。そしてリュザックは吐き捨てる様にしてシュレーディンガーに向かい問い掛けたのだった。

「ハッ、それにしたって現れるのが突然過ぎるきね。一体どこから()いて出て来たっちゅうんじゃ。まぁこれだけの施設じゃき、隠し通路の一つや二つあったところで驚きやせんけどの」

「まぁまぁ、そう目くじらを立てんでくれ。種明かしはまた後でじっくりと教えてあげるから、まずは機嫌を直してくれないか」

 投げやりなリュザックの態度にシュレーディンガーは優しく諭す様に告げた。ただそれに対して今度はジュールが聞き尋ねる。

「でも気配をまるで感じなかったっていうのは腑に落ちないですね。仮に隠し通路があったのだとしても、軍人の俺達を(あざむ)くなんて見事過ぎますよ」

 ジュールの言葉を皮切りに、シュレーディンガーは皆から一斉に不信感を宿す視線を浴びせられる。するとさすがの彼も少しバツの悪さを覚えたのであろう。軽く咳をしながら簡素な説明を始めたのだった。

「君達がこの部屋に到着した時、私は隣接するブロックで少女の体を診ていたんだよ。ただ君達を待たせるのも忍びないと思ったんでね。さっと【瞬間移動】して来たのさ」

「しゅ、瞬間移動だって!?」

 ヘルムホルツが思わず声を荒げる。ただシュレーディンガーはそんな彼を(いさ)める様に話しを続けた。

「詳しい説明は後でじっくりとするつもりだから、まずは落ち着いてくれたまえ。それにアニェージから聞かなかったのかい? この地下フロアーに横の繋がりは無いのだと。だから(へだ)てられた区画を移動するにはエレベータを利用するか、または瞬間移動するしか方法はないのだよ」

「チェ。エレベータと瞬間移動を同じ次元で話すなんて、どうかしてるぜ。それにあんまりにも平然と話すモンだから冗談にも聞こえない。もしかして俺の頭が変になっちまったのか?」

 唐突に話しの主役に躍り出た瞬間移動という言葉にヘルムホルツは頭を抱えている。しかしそんな彼の悩みなどお構いなしにして、ジュールはシュレーディンガーに詰め寄った。

「ソーニャは、彼女は無事なんですか! 彼女の体について何か分かったんですか!」

 ジュールは鋭い視線で睨むようにシュレーディンガーを見つめている。ただ残念な事に、彼の想いに応えるだけの返事をシュレーディンガーは持ち合わせてはいなかった。

「正直なところ少女の身に何が起きているのか、それはまだ分からない。しかし確信を持って一つ言えるとするならば、それは少女の容体が極めて深刻な状態にあるということだ」

 伏し目がちに視線を落とすシュレーディンガーは、思い悩む様に表情を曇らせている。ソーニャの現状を知った彼は、その居た堪れない姿に忸怩たる無念さを抱いているのだろう。ただそれでも彼は皆に向かい毅然と話し続けた。

「現時点で掴めた彼女の容体は気休めにも良いとは言えない。いや、むしろ危険な状態だと率直に受け入れなければ、取り返しのつかない事態になり兼ねないほどだ」

「そ、そんなにも悪いんですか」

「少女を休ませているブロックは、世界最高にして最新鋭の医療機器が完備されている。それゆえ彼女の体については一通り調査はし終えたよ。君達は知らないだろうけど、私は町のやぶ医者などとは次元の違う医学の知識と技量を持ち合わせているからね。それも少し【特殊な分野】については尚更スペシャリストなんだよ。だから少女の容体についての診断は確かだと判断出来る。まぁ、それでもさらに詳しい調査が必要なのは当然なのだがね」

 シュレーディンガーの落ち着いた話し振りからは、否応なく説得力を感じ取ることが出来る。間違いなくソーニャについての彼の見解は正しいのであろう。張り詰めた重圧がジュール達の心に圧し掛かる。ただそんな緊迫した状況の中で、シュレーディンガーは彼女の容体について一つ疑問を呈したのだった。

「あの少女を気に病む君達の心情はとても良く理解出来る。不確かな神やヤツという存在に挑もうとする君達ならば、むしろ当然な感情だと言えるだろうしね。ただね、医学者っていう観点より彼女を見ると、感傷的になってはいられないんだよ。というのも彼女の身体的な特徴からは、どうにも理解し難い症状が多過ぎるんだ」

 シュレーディンガーの説明にジュール達は理解を示せず首を捻っている。そんな彼らに向かい、シュレーディンガーは額に手を当てながら呟いた。

「う~ん、何て言えばいいのかな。とにかく彼女の体は私が当初より想像していた結果に対して、とても不思議な状態に留まっているのだよ」

「不思議な状態?」

 ジュールは間髪入れずに聞き返す。するとシュレーディンガーは軽く首を縦に動かして続きを語った。

「そうなんだ。あの少女は肉体的にも精神的にも非常に不安定な状態と判断して間違いない。でもそれでいてとてもバランスが取れているんだよ。あと少し、ほんの少しのキッカケで彼女の全ては崩壊し兼ねない。しかし現実に目を向ければ、彼女は自分という存在を(つな)ぎ止めているんだ。それが彼女のアスリートとしての肉体的な強さから来るものなのか、それとも何かに(すが)ろうとする精神的な力によるものなのか。それは分からないけど、でも彼女は必死に生きようと堪えている。その現れが結果として、彼女の全てをギリギリのところで支えているんだと、私は思えて仕方ないんだよ」

 ジュールの背中に冷たい汗が滴り落ちる。いや、それは話しを聞くリュザックにヘルムホルツ、そしてアニェージにも共通して言える事だ。きっと彼らは核心を告げないまでも、シュレーディンガーの話しよりソーニャの置かれた現状を察しているのだろう。その結果として意味の分からない不安に煽られている。ううん、ソーニャにとっての最悪な事態を連想してしまうからこそ、彼らは怖気(おじけ)づくほどの(わずら)わしさに身悶えしたのだ。ただそんな気に病む彼らの心情を読み解いたシュレーディンガーは、あえて明るく声を張った。

「そう暗くなるな。まだ手遅れだなんて一言も言ってはいなんだぞ。それにさっきから言ってる様に、彼女は今も彼女自身として生きているんだ。なら君達に出来る事は、あの少女を信じてあげる以外にないはずだろ。そしてそれが多分、彼女を救う希望にも繋がるはずなんだ。それに人が生きる強さっていうのは、結構(あなど)れないものなんだよ。だからきっと彼女は持ち直してくれるはずだ。明確な根拠は無いけど、私はそう信じている。少し無責任かも知れないけど、でも人には役割ってものがあるからね。私に出来る事。そして君達にしか出来ない事。心苦しいとは思うが、今は彼女を信じて自分達の出来る事に集中するしかないんだよ」

 そう告げたシュレーディンガーは、再び皆に向け微笑んだのだった。


 神妙な空気が周囲を覆う。残酷とも言うべき現実が目の前にあるのだから、それは仕方のない事なのであろう。それでもシュレーディンガーが前向きに告げた言葉にジュールは救われた。

 そうなんだ、現実を見失ってはダメなんだ。彼は心の中でそう思う。一時はソーニャから聞かされた拉致時の状況を思い起こし、身が(すく)むほどに背中が泡立った。でもシュレーディンガーが言う様に、彼女は現実に生きている。それは覆し様の無い事実であって、何一つ終わったわけではないのだ。

 ジュールは自分自身を(いまし)めた。無意識にも諦める理由を自ら模索し、現実から目を逸らそうとしていた自分の弱い気持ちを恥じたのだ。戦場では例えどんな窮地に立たされていようと弱気になどなったことの無い彼が、なぜソーニャの容体を気に病む事で、これほどまでに気持ちを竦ませたのかは分からない。でも彼はシュレーディンガーという人生経験豊富な先輩に温かく諭される事で、改めて気持ちを引き締めたのだ。絶対に諦めてなるものかと。

 ジュールは強い眼差しでシュレーディンガーに向き直る。そして彼は自分の胸に手を当ててから、一度だけ頷いてみせた。もう大丈夫。この胸に強く誓ったから、もう絶対にブレたりはしない。彼はそんな意気込みを表現しているつもりなのだろう。ただジュールはそう気合を入れ直す反面、目の前のシュレーディンガーから受け取る意外な印象に少し驚いていた。

 かつてはグラム博士やボーア将軍と共に科学の研究に勤しんだシュレーディンガー。その後彼は科学の第一線から身を退けるも、その代わりに起業家として大成功を収めた。そしてその莫大な利益より、スポンサーとしてグラム博士らを影からサポートし続けたのだ。でもジュールが想像していた彼の人間像は決して褒められた姿ではなく、もっと金儲けばかりを考えているような姑息な人間の姿であった。

 羅城門で羊顔のヤツと化したハイゼンベルクより聞かされた話によれば、シュレーディンガーはグラム博士の発明品を価値のある商品として世に送り出し、それによって巨万の富を稼ぎ出した人物なのだ。そして現在では巨大企業の社長として、世界の経済界に多大な影響力を持つ人物にまでに登り詰めている。そこからジュールが彼のことを利益主義に走る冷たい人間だと想像してしまうことは、ある意味当然な考えなのかも知れない。しかし実際に目にするシュレーディンガーという人物は、人間味に溢れた温かい人としか思えないのだ。だからジュールはそんなギャップに思わず口走ってしまった。

「俺はシュレーディンガーさんの事を少し誤解をしていたみたいです。なんつうか、もっとこう冷たい人なんじゃないかって思ってました。でも意外と優しいっていうのか、人の気持ちとかすごく考えてくれているみたいで、何だか嬉しいです」

「ハハハッ。随分と藪から棒に言ってくれるね、ジュール君。バカ正直とでも言うのかな、君の様な人の事をな。ただ君の想像は半分は正しいはずだよ。なにせ私が何よりも(かね)を信じているっていうのに、間違いはないのだからね。金は人生を謳歌(おうか)するのに必要なものだ。大きな夢を手に入れたいと願うならば、それは尚更の事。そしてそれは否定しようの無い事実として世界に根付いている。金の多さで手に入れられる楽しみの数は、飛躍的に増大するわけだしね。でもな、それが全てを満たしてくれるのかと問われれば、それはそれで首を縦に振る事は出来ないんだよ」

 壁際に置かれた椅子にシュレーディンガーはゆっくりと腰を下ろす。立ち話に少し疲れを覚えたのかも知れない。ただ彼はそんな事に気を留める事も無く、話しの続きを語った。


「金は生活を豊かにするには欠かせない存在ではある。でも果たしてそれだけで人は満たされるのだろうか。少なくとも私はそうは思わない。ここからは大金持ちである私個人の考えにもなってしまうんだが、金の多さは虚しさに比例するんだよね。どんな物でも手に入れられるだけの金を持ち、そして全てを手に入れたとする。すると人はどうなると思う? 簡単な事だよ。まだ手に入れていない何か別の物を欲しいと思うのさ。でもね、それを苦労も無しに手に入れ続けていたら、人は腐っていくだけなんだよ。欲しい物を手に入れた満足感と心を満たす充実感は、一見似ている様にも見えるけど、しかしその本質は似て非なる別ものなのだからね。だから本当に重要なのは金そのものの価値じゃなくて、それを稼ぎ出す為のプロセスのほうなんだ」

 ジュール達は落ち着いた口調で語るシュレーディンガーの話しを静かに聞き続けている。

「もちろん最終的な目標は利益を生み出して金を稼ぐ事になる。でもね、誰と何を造って、それをどう売るか。それを考えるのが楽しいのであり、それにこそに価値があるのだと私は思うのだよ。苦労を共有する仲間とともに、同じ目標に向かって汗を流す。それは決して容易な事ではないが、でもそんな過酷な経緯を乗り越えて稼ぐ金っていうものは、実物以上の価値を心に提供してくれるものなんだよね。結局のところ、私の根幹にあるのはモノづくりの精神なんだよ。良き発明をし、それを基礎に新しい製品を造り上げては市場に送り出す。その全ての作業に全力で取り組むことで、仲間達と喜びを分かち合いながら利益を生み出して行く。経営者としてはズレてるのかも知れないし、科学者としても間違っているのかも知れない。だけどね、大切なのはそんな苦楽を共有し合える仲間の存在ってやつなんだよ。そして最終的にはその幸せを目に見える金という存在に変えて、皆に等しく分配する。やっぱり最後は報酬として実りがあったほうが、励みにもなるだろからね」

 シュレーディンガーの言葉一つ一つには熱い志が籠っている。恐らく彼が今まで担って来た責任や覚悟の大きさが、それを聞く者の心を(たぎ)らせるのだろう。ただシュレーディンガーは少しだけ寂しそうに続きを告げた。

「ただいくら私が人の為だと考えたとしても、ビジネスを営む以上厳しい指令を飛ばさなければならない場合もあり、それが時として仲間を傷付けたのも事実なんだ。理想と現実の折り合いを付けるのは難しいからね。忸怩たるも責任ある立場として人を切り捨てた事だってある。それも一度や二度なんかじゃない。それに利益を生み出すっていうのが、いつだって私にとっては最終的な目標だったからね。それが原因で生粋の科学者であるグラム博士とは、よく揉めたりもしたよ。博士は考えられない程、金に執着の無い人だったからね。『貴様は強欲なだけの金の亡者だっ!』なんて、よく怒鳴られたモンさ。だからジュール君が当初より想像していた私の印象は、さほど間違ってはいないんだよね」

 シュレーディンガーは苦笑いを浮かべながらシュールを見つめた。遠い昔に叱られた、グラム博士の姿でも思い出しているのかも知れない。ただシュレーディンガーの話しは止まらない。彼は湧き上がる想いを吐き出さずにはいられなかったのだ。

「例えどんなに博士に(ののし)られようとも、それでも私には譲れなかった。それは利益を生み出す事で自分自身を満たしたかったっていうのが一番の理由なんだけど、でもそれとは別に私は誰よりも博士を科学者として尊敬していたからね。協会を追われた博士の立場に憤りを感じ、それは間違いなんだと世間に認めさせたかった。その為に私は博士の画期的な発明を商品として世に送り出したんだよ。そうすればきっと博士の誤解は解けるって疑わなかったからね。それにせっかく生み出した価値ある科学的発明を、誰にも気付かれず埋もれさせたままにしておくっていうのはもったいないだろ。まぁその合理的な考え方が、最後まで博士と相入れられなかった部分ではあるんだけどね。博士の考える科学の終着点は、それを確立された理論として構築する事だった。確かにその考え方は間違ってはいない。でもね、本当の意味でそれだけでは、科学の進歩や発展は中途半端な状態で(くす)ぶってしまうだけなんだよ。博士は何かを生み出すって事については誰もが認める天才だった。だけどそれを目に見える形として造り出し、人々がそれを利用して初めて科学的な価値っていうのは存在するんだと私は思うんだよね。そしてそれは更なる改善や改良を繰り返す事にも繋がり、結果的にはもっと科学を進歩させる事に繋がっていく。私はそう思っているからこそ、科学者の道から身を引き、経営者となったんだ。未来に繋がる科学の進歩と、それを育む人間達の輪。私はそのどちらもが重要だと常々考えているからこそ、何よりも先に他者の気持ちを読み取るよう努めてしまうのだろう。そしてそれがジュール君には【意外な優しさ】という感覚に受け取れたんだろうね。ただ少し残念ではあるな。(いつわ)った状況とは言え、君とはもう二度も腹を割って話しているのだから、君ならもう少し私の事を分かってくれているものと思っていたんだけどね」

「す、済みません。俺はあんまり他人の気持ちとか考えるの得意じゃないんで」

「いやいや、別に君を(とが)めるつもりはないんだ。全然気にする必要はないよ。それに私から言わせてもらうなら、君の方こそ想像していたのと違うからね。お互い様だろ」

「俺の事、ですか?」

「あぁ。君についてはグラム博士やアイザックから色々と聞いていたからね。負けん気が強くて無鉄砲で、もっとじゃじゃ馬みたいな青年なのかと思っていたんだよ。でも君は他者の痛みを感じ取れる優しい心の持ち主だった。どうやら君自身はそれに気付いていないようだけど、でもそれは間違いないはずだし、なにより私にはその優しさが堪らなく嬉しく思えてしまったんだよ。少し嫉妬してしまうくらいにね」

 シュレーディンガーは決まりが悪そうに頭を掻きながら話しを続ける。

「よくもまぁ、グラム博士は君の様な好青年を育てたものだと感心するよ。私も親として二人の子供を育てた経験をもっているんだが、でも残念ながら息子と娘は君の様に他人の痛みが分かる人にはならなかった。きっと日々の忙しさを理由に、子供達との時間を大切にしなかったのがマズかったんだろう。金に物を言わせて甘やかせ過ぎたというのも事実だしね。ただその責任が親である私にある事も認めてはいる。でもだからこそ、グラム博士の様な科学にしか興味を抱かない人が、君の様な青年を育て上げた事に嫉妬してしまうんだよね」

 シュレーディンガーは柔らかい眼差しでジュールを見つめていた。例えるならその眼差しは、父が子を見守っているものに近いと言えるであろう。きっとシュレーディンガーは本心からジュールを真っ直ぐに育て上げたグラム博士を尊敬し、また(たくま)しくも心正しく育ったジュールを立派だと思ったのだ。するとそんな温かい柔和な眼差しに対し、逆にジュールが照れてしまう。博士を褒められた事が嬉しいのか、それとも自分が優しい人間なのだと言われた事に気恥ずかしさを覚えているのか。ジュールの顔がみるみると赤く火照って行くのが見て取れる。そしてそんな彼に向かいシュレーディンガーは、軽く吹き出しそうになりながらも続けたのだった。

「初めて博士から君の話しを聞いた時は耳を疑う以外に他は無かったよ。だからこそ、今こうして成長した君の姿を改めて見て、感動にも似た気持ちを胸に抱いているのだ。まぁ、結局のところ私は科学においても子育てにおいても、博士にまったく歯が立たなかったって事なんだけどね」

 まるで降参したかの様にシュレーディンガーは手の平を上に向ける。でもそこには口惜しい無念さなど微塵にも無く、本心より博士を慕う彼の温かい想いだけが息づいていた。ただジュールはそんなシュレーディンガーの手を見て驚く。そして彼は思わず声を張り上げた。

「ちょっと待ってくれシュレーディンガーさん! あなたのその手、昨日三角定規を目一杯握りしめて血が出ていたはずなのに、一体どうなっているんですか?」

 ジュールが目にしたシュレーディンガーの手の平。そう、そこには年齢から来る深いシワこそあれど、それ以外には(かす)り傷一つなかったのだ。そんな彼の綺麗な手の平に、ジュールはおろかアニェージやリュザック達も驚きを隠せないでいる。するとシュレーディンガーは含み笑うよう肩を揺らしながら告げたのだった。

「フフッ、驚いたかね。実は昔の話しなんだけど、私はマジシャンを目指した時期があったのだよ。若かりし頃は何事にも興味が尽きなくてね。科学を専攻しながらも、その時折で俳優を目指したり手品師を目指したりと、寝る間も惜しんで色んな事にチャレンジしたモンさ。ハハッ!」

 意気揚々とシュレーディンガーは高笑う。その姿にジュール達は何も言えず佇む事しか出来なかった。

 喰えない人とはこんな人を指し示すのであろう。ジュール達は少し呆気に取られながらそう感じている。ただそんな彼らに対して向き直ったシュレーディンガーの表情は、先程までとは異なり引き締まったものだった。

「さて、他愛のない話しはこの辺までとして、本題に入るとするか。ジュール君、グラム博士の新型玉型兵器は持って来ているね」

 シュレーディンガーはそう言ってジュールの所持するブリーフケースに視線を向ける。そして一呼吸置いた彼は、真実に繋がる第一歩を語り出したのだった。

「我らの目的は唯一つ。それはアルベルト国王に扮する黒き獅子を倒す事だ。そしてその打倒方法はこの世界に一つしかない。だからまず君達にはそれを理解してほしい。そう、グラム博士が生み出した究極理論である【波導量子力学はどうりょうしりきがく】の神髄(しんずい)をね」

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