#55 馬酔木盛る夕刻の邂逅(四)
「諸君、お勤めご苦労だったようだな。その疲れ切った姿からして、今日一日相当な激務を熟してきたのであろう。でも不思議だな。私の協議時間帯はストークス中将の部下達が警護を引き受けていたはずだから、その間お前達には目立った業務は発生していないはずだ。それなのに、どうしてそんなに疲れ切っているのだ? 私にはそれが疑問でならない。そもそもこの時間まで何処に行っていたというのだね?」
訝しさを含んだ言葉とは裏腹に、王子は薄笑いを浮かべながらジュール達の表情を確かめている。ジュール達がどういった反応をするのか、王子にはそれが楽しみで仕方ないなのだ。そして王子の後ろには、表情を硬くして立ち尽くしているエイダの姿が見受けられる。彼女の表情から察するに、きっと王子は協議の終了を事前に知らせる事なく、ホテルに戻って来たのであろう。そして唐突に彼女達の待機する部屋を訪れた。他者を欺き驚かすのが、何より王子の得意とするところなのだ。恐らくホテルに待機していたエイダやティニは目を丸くして驚いたであろう。そしてあざとくも王子はそんな彼女らがジュール達に連絡をする隙を与えなかったのだ。
申し訳なさそうに項垂れるエイダからは、悲壮感ともいうべき遣る瀬無さが伝わって来る。実直な彼女の性格が、ジュール達に向けて自身の失態を嘆いているのだろう。ただそんなエイダの姿など眼中に無いとばかりに不敵に微笑む王子は、ジュール達に向かって続けて言った。
「先に言っておくが、変に誤魔化そうとしても意味はないぞ。自分で言うのもおかしなものだが、私の人を見る目は本物だ。嘘か真かを見極めるなんて、私にしてみれば造作もない事だからね。ただ誤解はしないでくれたまえ。別に私はお前達を咎めているわけではないのだ。現状として私は今こうして何事も無くここに居るわけだし、それにお前達とてミスを犯したわけではない。ただ単に私はお前達が今まで何処で何をしていたのか、それが知りたいだけなのだよ。もし私の知らないところで私を守る為に、お前達が命を懸けていたのならば、逆に労わなければならんのだからな。だから正直に答えてみよ」
王子は真っ直ぐにジュールを見つめている。本当にその目は何物も見透かしてしまうのではないのだろうか。真正面から容赦なく浴びせられるそんな王子の強い視線にジュールの背中は激しく泡立つ。王子が言う様に、ヘタに誤魔化したところで首を絞めるのは自分達の方だと、彼はそう感じているのだろう。しかし自分達が何を目的として、このグリーヴスの地に降り立ったのか。それは口が裂けても言うわけにはいかない。でもだからと言って、いつまでもこうして黙ってなどいられるはずもないのだ。重い緊張感が周囲を覆う。ただその時、血相を変えたティニがエレベータより駆け出て来た。
「わっ。お、お取込み中でしたか、スミマセン」
「どうした。何かあったのか、ティニ?」
バツの悪い状況に居合わせ戸惑うティニに対し、ヘルムホルツが普段と変わらぬ口調で聞き尋ねる。すると彼女は軽く舌を出しながらも、彼に向き直って簡素に事態の変化を告げた。
「つい先程からなんですけど、ソーニャの体調が急変してしまって。すごい熱でうなされているんです」
「アニェージには連絡したのか? ソーニャの病状については彼女が手はずを整える段取りになっていたはずだが」
「はい。すでにアニェージさんには一報を入れています。アニェージさんは病院でソーニャの受け入れを準備しているそうなので、誰かあたしと一緒にソーニャを病院まで運んでほしいんですが、よろしいでしょうか」
「なら俺が――」
そう言葉を出し掛けたジュールの肩をヘルムホルツが強く掴む。そして彼は強引にジュールの体を押し退けてから、みんなに聞こえるようティニに指示した。
「ソーニャの体調に不測の事態が発生した場合、それなりの人手が必要になるかも知れない。だから俺とティニ、それからエイダとリュザックさんも一緒に来てくれ」
そう言ってヘルムホルツは足早にエレベータ乗り場へと足を向ける。ただそんな彼にジュールは激しく噛み付いた。彼にしてみれば、唐突とも呼べるヘルムホルツの指図を受け入れる事が出来なかったのだ。
「ちょ、ちょっと待てよヘルムホルツ! どうして俺だけが留守番なんだよ」
「バカ言え。全員で行っちまったら誰が王子を護衛するんだよ。それに王子が話したがってるのはお前なんだジュール。だからお前の口から王子に伝えてくれ。俺達が今日どこで何をしていたのか。そしてこれから何をしようとしているのか。責任を押し付けちまって済まないが、でもお前に全てを託せるからこそ、俺達は安心してソーニャに付き添って行けるんだ。だからお前は自らの信念を貫いて王子に向き合え。そうすればきっと、王子は分かってくれるさ」
ヘルムホルツはニッコリと微笑むと、ジュールの肩を軽く叩いた。そして彼は王子に向かって一度だけ深く頭を下げる。そしてさっと振り返りエレベータへと進んでいった。そんな彼を急ぎ追い駆けるリュザックと二人の若き女性隊士達。気まずい空気が漂う中、その場に取り残されたのはジュールとトーマス王子の二人だけであった。
気まずさの漂うロビーの空気は重い。実際に気圧が高いのではないか。そう本気で思うほどだ。ただそんな居心地の悪い雰囲気の中で、ほっと息を吐き出して話しを始めたのは王子だった。
「上手く出し抜かれた様だな、ジュールよ。列車での話しっぷりといい、あの巨漢の隊士君は抜群に頭が切れると見える。でもまぁ、お前が信頼されているのは確かなのだろうな。別に愧じてなどはいないが、私は友人と呼べる親しい間柄を持ち合わせていない。だから少しだけお前の事を羨ましく思うぞ」
「よして下さい王子、買い被り過ぎですよ。俺はあいつらに都合良く抜け駆けされただけです。決して褒められたものではありません」
「ハハッ。やはりお前は正直な奴だ。今のお前の発言は、私を嫌っているのだと告白しているも同然なのだぞ」
「あ、いや。そんな事は……。参ったな」
つい口走ってしまった本心にジュールは頭を掻きむしる。ただそんな彼に向かい王子は意外にも温かみのある口調で言った。
「きっとお前達は心の深い部分で繋がっているのであろうな。共に死線を潜り抜け、同じ目標に向かって走り続ける。そこで育まれた絶対的な信頼関係というものは、そう簡単には揺らぐこともあるまい。だからこそ、彼らはお前にこの状況を託したのだ。都合良く出し抜かれたのも事実であろうが、しかしお前なら切り抜けられると信じているからこそ、彼らはこの場をお前に預けたのではないのかな。少なくとも私はそう思えてならないぞ」
「い、意外ですね。王子がそんなにも人の気持ちについて、肯定的に考えるなんて。ちょっと信じられません」
「逆にお前は私が想像する以上にバカ正直な奴だな。私を恐れているっていうのは建前なのか? ずけずけと本音をよく喋るものだ。でもまぁ、お前の気持ちも分からんでもないな。なぜ今日に限ってこんなにも他者の気持ちを思い遣る事が出来るのか。私にも不思議でならないよ。誰よりも気紛れな性分ゆえ、単に今の私の気分が良いだけなのかも知れないが、それにしたって気持ちが穏やかに和んでいるものだ」
不思議な気持ちの落ち着き様に釈然としない王子は首を捻る。しかしその表情は極めて優しいものであり、王子自身がそんな柔和な心情を受け入れているのは明らかだった。そしてソファに腰を下ろした王子はジュールにも楽にするよう指示すると、その優しい表情のまま自らの話しを続けた。
「本当の事を言ってしまえば、私はお前達を捌け口の対象として罵るつもりでいたのだよ。今回の協議相手は予想以上にしたたかな奴らでな。まったくもって話が進まない。あの憎たらしい役員達の顔を思い出すだけで胸クソ悪くなるほどだよ。だから私はその鬱憤を晴らす為だけに、お前達をロビーで待ち伏せしていたのだ。でもどうしてなのかな。疲れ切った姿でホテルに帰って来たお前達を見た時、なぜだか意地の悪い考えは鳴りを潜めてしまったのだよ」
王子は薄らと髭の伸びた顎を摩りながら更に続ける。
「私はこれまでに幾多の経済的折衝を経験して来た。その中には胃が千切れるほどにまで辛いものもあったほどだ。もちろん上手く行かなかった交渉もある。それでも私は価値の無い協議などをしたつもりは無い。例えそれが結果的に実りが無かったとしてもだ。利益を生み出すことに失敗したとしても、それらの折衝には何かしらの意味があった。どうして常に私がそう考えているのか、お前には分かるかジュール?」
ふいな王子の問い掛けにジュールは首を傾げる事しか出来ない。そんな彼に向かって王子は微笑みながら続きを語った。
「きっと負け惜しみだったのだよ。そう自分自身に折り合いを付けなければ、とうに心が折れてしまっただろうからね。プライドが異常なほど高い私は、どんなに屁理屈だと陰口を叩かれようとも、前向きな気持ちで交渉に臨み続けて来た。強がることで自分自身を奮起させていたんだよ。それはきっと他者を舐めきっていた私が、誰よりも他者から舐められる事を恐れていた現れなのだろう。でもな、それとは別にもう一つだけ理由があるのだよ。それは利益主義を追求する私の意志が生み出した、覚悟とも呼べる気構えだ。厳しい交渉に臨む際に、もし私が初めに諦めてしまったならば、私に付き従う官僚達の気持ちまで萎えさせてしまう。そうなってしまったら、勝てる見込みのある折衝ですら、うまく行かなくなってしまうからね。だから私はいつでも上から目線で強気に振る舞っているのだよ」
トーマス王子は硬く握りしめた自分の拳に視線を向けている。その表情からは並々ならぬ意志の強さが伝わって止まない。そんな王子の姿勢をジュールは不思議に感じながらも、ただ黙って見つめていた。
「国家間の折衝や交渉事に簡単なものなんて有りはしない。言い換えるとするならば、他国との協議とは会議室という仕切られた空間で繰り広げられる静かな戦争なのだよ。実際に命の奪い合いをするお前達軍人が駆ける戦場とはまるで別世界ではあるが、しかし命をすり減らして仕事に従事するっていうのは、ある意味同じなんだと私には思えてならないのだ。そして何より全ての協議には、その協議に関わった者達の想像を絶するような【熱意】が注ぎ込まれている。だから私は懸命に職務を遂行する、そんな官僚や役人達のためにも、こうして日々強がっているのだよ」
そう告げた王子は一度だけ大きく深呼吸をした。一気に吐き出した胸の内に、思わず体が反応したのであろう。するとその呼吸の合間を突く様にジュールが口走る。彼は王子の話しに驚きを隠せなかったのだ。
「王子はもっと自分勝手でワガママで、周りの事なんてこれっぽっちも考えていない人だと思ってました。でも違ったのですね。少し捻くれているのかも知れないけど、王子は王子なりにみんなを正しい未来に導こうと努力している。俺は恥ずかしいです。そんな王子の優しさに、今まで全然気付きませんでした。申し訳ありません」
「ハハッ。いや、お前は間違っていないぞジュール。そんなに畏まって頭を下げるな。皆に迷惑を掛けているのは事実なのだし、それに私は他人を嘲るのが何よりも好きなのだよ。人を見下す態度とて、私の正直さの表れなのだからな。それゆえにほとんどの者達が私の事を快くは思っていまい。まぁ、それは私の生まれ持った性分ゆえ、今更直そうとも思わんけどね」
苦笑いをしながら王子は足を組み直す。ただその仕草からは、どこか王子の落ち着きの無さが垣間見えた。もしかしたら王子は自分自身に戸惑いを感じているのかも知れない。なぜ一軍人であるジュールに対し、我にも無く本音を告げてしまったのか――と。ただ一度口にしてしまった事について、王子の切り替えは見事であった。どうせならば全て本心を曝け出してしまえとばかりに、王子はジュールに向かって意気揚々と話し出したのだ。
「だいぶ話が横道に逸れてしまったな。でもなジュールよ。こうしてお前と話す事で、ようやく私は気付いたぞ。悪態つける為に待ち伏せしたロビーで、しかしなぜかお前達の姿を目にしてその気が萎えてしまったのか。それはお前達の姿勢から、凄む熱意が感じられたからなのだよ。心身共に疲れ切った状態でありながらも、まだ見ぬ明日に向かって踏み出そうとする強い意志をその胸に宿している。そんな熱意に胸が震えたからこそ、私の気分は清々しさを覚えたのだ。そして不覚にも、お前に胸の内を吐き出してしまったのだよ」
「王子……」
「先程の巨漢の隊士君の口ぶりから察するに、お前達は他人には決して言えぬ事柄に身を費やしているのだろう。私にすら、口を濁すほどのな。ただそれは逆に捉えれば、そこまでしなければいけない強い覚悟を諭しての事案なのであろう。ならば私は何も問うまい。お前達は好き勝手に動けばいい」
「え?! よ、宜しいのですか王子! 俺達に自由な行動を許可してくれるんですか!」
ジュールは身を乗り出して王子に聞き及ぶ。すると王子は頼もしく頷いて見せた。そんな王子の姿にジュールの気持ちは舞い上がる。しかし彼は一つの懸案を頭に浮かばせ言葉を濁らせた。
「あ、でもそれでは王子の警護に支障を来してしまいますよ」
「心配するな。その件についてはストークス中将の部下達に任せれば、万事解決するというもの。それよりむしろ、お前の抱える事案のほうは片が付きそうなのか? グリーヴスの滞在期間は残り三日だ。さすがにそれが終ったならば、共にルヴェリエに帰ってもらうぞ」
「ありがとうございます王子。俺はルーゼニア教の信者じゃないので誓える神は持ち合わせていませんが、決して約束を違わぬよう努めます。それに三日もあれば、恐らく用は足りると思いますので、ご安心下さい!」
予想だにしない王子の配慮にジュールは目を輝かせた。これで明日からは心置きなくシュレーディンガーの元に出向き、話しを聞くことが出来る。そうなれば自分の進むべき道も明確になるはずだ。高まる胸の鼓動にジュールは想いを滾らせる。彼は馳せる想いにじっとしてなどいられないのだ。ただそんなジュールの浮ついた心情を察した王子は、彼を戒める様に注意を喚起した。
「この世には成功者と失敗者がいる。ではその二者を分かつ決定的な要因とは何であるのか。それは考える努力をしたか、しなかったかの違いだ。人生における失敗者の多くは、諦めた時にどれだけ成功に近づいていたかなんて考えてはいない。それ対して成功者とは、思い通りに行かない事は当たり前だという前提を持って、何事にも挑戦している。これはかつてテスラにも言った事なのだが、成功というものはその結果ではかるものではなく、それに費やした努力や時間の統計ではかるものなのだ。だから仮に目の前の出来事が上手く行かなかったとしても、決して諦める必要なんてないのだよ。人生における失敗者の多くは、諦めた時にどれだけ成功に近づいていたか考えなかった者達であり、人の抱きうる最大の弱点こそが、そんな諦める事なのだからね。でもそれを逆に捉えれば、成功を収められる確率は飛躍的に向上する。そう、成功を収めるのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみるって事なのだよ」
王子は強い気概を込めた言葉を飛ばしてジュールを諭し続ける。
「例え進むべき道を見失ったとしても、決して諦めるな! ――なんて綺麗事を言うつもりは無い。そんな事は他人にとやかく言われたからとて、素直に受け入れられるものではないからな。それに悪足掻きの得意なお前ならば、あえて私が言わなくとも、目の前の困難から逃げ出すことはないだろうしね。でもなジュール、お前には失敗者になってほしくはない。だからこれだけは覚えておくのだ。己に課せられた運命というものは、時に屈服せざるを得ないほどに残酷な現実を突き付けるものなのだと。例えばこの先、耐え難い苦痛に心と体を引き裂かれ、尋常でない辛さに叩きのめされる事があるかも知れない。だけどそんな窮地に立たされた時に、人の真価は問われるのだ。過酷な状況にも決してめげず、どんな強敵にも決して屈せず、絶望の淵に突き落とされても決して挫けず、立ち塞がる逆境にも決して引き下がらない。それら全てが上手く行くとは限らないが、それでも苦しんだ経験の数はお前を裏切りはしないだろう。だから前を向くのだ。そして考えるのだ」
王子の熱い言葉がジュールの胸にひしひしと伝わって来る。ただジュールはそんな王子の事を、どこか不思議な想いで見つめていた。だって彼にしてみれば、王子もっと冷ややかで、ずっと淡白な人であったはずなのだ。それなのに今目の前にいる王子の姿は、とても凛々しくて頼もしいものに見えて仕方ない。
やはり王子は変わった。ジュールはそう感じずにはいられなかった。アダムス城の庭園で話した時に感じた王子の変化は本当なのだと、彼は改めてそう思っていたのだ。でも王子の眼差しを正面から受け止めるジュールは、その深い部分を見誤っていたことを認識する。そう、王子は変わったわけではない。これこそが王子の本来の姿なのだ。王子から差し向けられる優しくて温かい眼差しに、ジュールの胸は締め付けられる。そして彼は思った。普段は自由奔放に我が道を貫くトーマス王子だけど、でもその内に秘めた心情には他人を気遣う優しさが溢れているんだろうと。
恐らく王子はそんな優しさを気恥ずかしく思うばかりに、他者に対してむしろ高圧的な態度ばかり取っていたのではないか。自分の心に根付いた優しさを【弱さ】と錯覚してしまった為に、それを他者に悟られないよう強がっていただけなのではないだろうか。でも王子自身が大人になるにつれ、それまで隠して来た部分が少しずつだけど表面化して来ている。本当に王子がただ冷たいだけの人であったならば、励ましの言葉など掛けるはずもないのだから。
ジュールは参ったとばかりに項垂れた。彼は王子の胸の内を計り知れなかったと口惜しみ、また浮足立っていた自分自身を恥じたのだ。自分勝手に考えを巡らせていたのは、むしろ自分のほうだったのではないか。ジュールはそう自責を感じ奥歯を噛みしめる。するとそんな彼に向かって王子は、自分の心情をさらに吐き出して告げた。
「悲しいけどさ、今を生きるって事は、それだけでも結構辛いものなんだ。人生に嬉しい事や楽しい事は、そう頻繁に訪れたりしないのだからね。むしろ人生には困難のほうが遥かに多い。そして誰しもがそんな障害と対峙しながら、ギリギリのところで人生を歩んで行くものなのだろう。もちろん私とて例外ではない。所詮は私も人間なのだ。苦境に心が押し潰されそうになった事など、過去にはざらに存在するからね。そしてジュールよ。私が察するところ、お前は今まさにそんな困難に直面しているのではないのかな。だからそんなお前にもう一つだけ、覚えておいてほしい言葉があるのだ」
トーマス王子は昔を思い返す様にしながら、ジュールに向かって自分自身の心に強く刻まれている言葉を述べた。
「かつて私が思い悩んだ時期に、世界最高の天才科学者である【ラジアン博士】に聞き尋ねた事があるのだ。なぜ博士はそれほどまでに、世界を驚かせる素晴らしい発明を次々と生み出せるのかとね。するとラジアン博士はこう答えたのだよ。『人々は自分の事を人間離れした天才だと呼んでいます。でも自分は決して人間離れなどしていない。私はただ、諦めないことの天才なんですよ。そしてその結果が発明として世に排出されている。ただそれだけの事なのです』ってね」
ジュールは息を飲む様に王子の話しを聞き入っている。
「それは言葉で表すほど簡単なものではない。だってそうだろ。諦めないって事は、自分の中に決して折れない強い芯を持ち続けるって事であって、それはとても難しい事なのだからね。人は本能として楽をしたいと常々考えてしまう生き物だ。そして楽を手に入れるのに最も近道なのは諦める事なのだよ。しかしラジアン博士は安易に手に入れられるその楽さと引き換えに、より過酷な道を選択し精進している。その結果が類まれな発明として世に排出されているのだ。そんな博士の告げた言葉は私の迷いを払拭してくれた。私の未来に光を灯してくれたのだよ。辛い時こそ、もう少しだけ、あと少しだけ諦めずに努力出来たならば道は開けるのではないか。そう自分を信じれる様になれたほどにね。だからお前にもその言葉を覚えておいてもらいたいのだ。今のお前にその言葉が意味のあるものに感じられるかどうかは分からない。でもいつかお前が進むべき未来に迷いを感じた時、きっとその言葉はお前の力になってくれるであろう」
王子はそう告げると穏やかに微笑んだ。ジュールに向かって暖かい微笑を差し向けたのだ。そんな王子の表情に胸を衝かれたジュールは動揺を隠せないでいる。
まさか王子がこんなにも優しい表情を浮かべられる人だったなんて――。俄かに信じる事の出来ないジュールは、王子の目を真面に捉える事が出来なかった。でも王子のその表情からは嘘偽りなんて微塵にも感じられないし、まして王子の代名詞とも言える人を小馬鹿にする態度はどこにも見受けられないのだ。
溢れ出る生唾を必死に飲み込んだジュールは自身の胸にそっと手を添える。彼は王子からの気概の籠った熱い想いと、気持ちを奮い立たせる言葉を胸に刻もうと心していたのだ。決して諦める事無く、前だけを向き続ける為に。
それは王子が言う様に、簡単なものではないはずだ。でもそう遠くない未来に、必ず自分はそんな過酷な状況に身を投じるはずなのだ。そして意図は掴めないまでも、王子はそれを察してくれた。だから浮足立つ自分に、王子は冷静になれと諭してくれたのだ。
ジュールは照れくさそうに苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。彼は王子の意外な気遣いが嬉しかったのだ。そしてジュールはトーマス王子に向かい、正直に感謝の気持ちを伝えた。
「ありがとうございます王子。まさか王子からこんなにも熱く励まされるなんて、思いも寄りませんでした。正直なところ、王子の意外な一面に驚きを隠せない部分もあります。でも王子が本心から俺を気遣い、未来に強く進む事を願っているのだと知れて、すごく嬉しいです。なんて感謝を伝えたらいいのか分かりませんが、本当にありがとうございます」
ジュールは深々と頭を下げた。頭の中の考えがまとまらない彼には、そうする以外に王子に対して礼を表現する手立てが思い浮かばなかったのだ。そんなジュールの不器用ながらも精一杯の感謝の表し方に、王子の方も少しだけ表情を赤らめて言葉を返す。王子もまた、いつもの自分らしくない態度に、どこか気恥ずかしい感情を覚えて仕方なかったのだ。
「そう畏まるでない。そんな風に深々と頭を下げられると、私の方こそ照れるではないか。でも確かに不思議なものだな。こんな話し、今まで誰にもした事なかったのに、どうしてお前みたいな軍人風情に腹を割って話してしまったのだろうか。まったくもって、不思議でならないよ」
王子は自らの心情に驚きを隠せないでいる。その様子からして、きっと王子自身すら気付いていない胸の内が表面化してしまったのだろう。しかしその驚きとは対照的に、トーマス王子の表情はどこか満ち足りた面持ちである。恐らく本心を偽りなく吐き出した事で、王子は今までに感じたことの無い充実感を覚えているのだ。そしてその何とも言えない爽快感に身を委ねているのであろう。ジュールはそんな王子に改めて頼もしさを感じる。彼はそれまでとはまるで別人の様な王子の器の大きさに目を見張ったのだ。
「王子の本質はとても優しい人なんですね。それは凄く誇らしい人間性なんだと俺は思いますよ。だからこれからはもっとその優しさを表に出してください。その方が、きっとみんなも喜びます」
「そう私を煽てて嫌がらせを避けるつもりか? さすがにそれは虫が良過ぎるぞ、ジュール。確かに今の私は自分でも驚くほどに素直な気持ちで溢れているが、しかしそう簡単に歪んだ性格は補正出来るものではない。今が特別なだけなのだから、それだけは諦めるのだな。ハハッ」
やはりこの人は喰えない方だ。高らかに笑う王子にジュールはそう思わずにはいられない。でもそれは決して悪い気持ちばかりでもない。僅かばかりではあれど、王子の本質とも言うべき優しさを垣間見る事が出来た。ジュールにとって、それは気持ちを穏やかに和ませるのに十分な理由と成り得ていたのだ。ただ彼はふと頭に浮かんだ思いを口にする。それは誰よりも上目使いな王子が敬意を表した存在であり、現在世界最高の天才科学者として人々から崇められている、ラジアン博士についてであった。
「それにしてもラジアン博士って方は、随分と凄い人なんですね。俺は実際お目に掛かった事はありませんが、でも王子ほどの方がそれほどまでに敬う方なんて、相当な人物なのでしょう。ちょっと想像出来ませんけど」
「そうだな。自分で言うのも変な話だが、私は基本的に他者を軽んじて見てしまうからね。そう言った意味でも、ラジアン博士の様な敬意の対象と呼べる相手は、極めて稀な存在なのかも知れないな」
王子はロビーの天井を見つめながらそう呟く。ラジアン博士の姿でも思い出しているのであろうか。ただ次の瞬間、何かを思い出した王子は目を輝かせてジュールに告げた。
「一つ思い出したのだが、お前がラジアン博士に会ってみたいのと同じように、私にも会ってみたい人物が一人いるのだよ」
「お、王子がお会いしたい人?」
首を傾げるジュールに王子は頷きながら続ける。
「私が思うに、少なくともこの世界には天才と呼ぶに相応しい人間が三人いる。一人は電子工学の第一人者であり、先程お前が会いたいと述べた世界最高の科学者であるラジアン博士。そしてもう一人は我が父であり、光子相対力学の確立者であるアルベルト国王。そして最後の一人は剣術の達人である、コルベットのテスラだ。彼らはまさに、神から授かったと思わざるを得ない技術や知識を持ち合わせている。凡人ではどれだけの努力を費やそうとも決して到達出来ない領域。そんな極みに彼らは生まれながらに到達している者達なのだ。そしてそんな彼らに共通する点は他にもある。それは彼らが天賦の才能を持ち得た存在でありながらも、それと同時に比類なき努力家でもあるということだ。ストイックに己を突き詰め、更なる高みへと挑む姿勢を貫き通す。まさにそんな彼らの直向きな姿こそが、私の抱く敬意の根源なのだろう。でもなジュール。真の『天才』とは、本当に彼らの様な者達を指し示すのであろうか。以前より私にはそんな釈然としない蟠りを感じずにはいられないのだよ」
「釈然としない蟠り、ですか?」
「あぁ、そうだ。確かにあの三人は世間から見れば例外なく天才と呼ばれる存在であろう。でも『真の天才』にとって、そもそも日々の努力など必要であるのだろうか。ポイントは正にそこなのだよ。まったく努力などせずとも、全てを屈服させてしまう才能を発揮してしまう。私はそんな人物こそが、本当の天才なのだと思わずにはいられないのだ。だから私は彼らに会う度に、どこか腑に落ちない気持ちを抱いてしまうのだよ」
「お言葉ですが王子、それは少々乱暴過ぎやしませんか。彼らを含め、世界中にいる天才って呼ばれる人達は、必ずみんな努力しているはずなんです。いや、それどころか筆舌に尽くしがたい努力を積み重ねたからこそ、成功を収められたはずなんだ。直感として俺にはそうとしか思えない。だから何の努力もしないで全部を上手くやれる人なんて居るわけないし、もし仮にそんな人が居たとするんだったら、逆にそれはもう人なんて呼べやしませんよ」
反射的に飛ばしたジュールの言葉に王子は強く頷く。ジュールの意見が正論なのだという事を、きっとトーマス王子自身もよく理解しているのだろう。それでも王子はジュールに向かい持論を述べる。なんと王子には一人だけ、真に天才と呼ぶに相応しい人物に心当たりがあったのだ。
「天才という定義について、過去にラジアン博士に見解を求めた事がある。博士の考える天才とは、どういった人物を差し示すのかってね。その質問に対してラジアン博士は、私を納得させるだけの明確な答えは言わなかった。しかし博士はただ一人だけ、真の天才と呼ぶに相応しい人物の名を口にしたのだよ」
「ラジアン博士が告げた真の天才、ですか?」
まったく想像出来ないジュールは表情をしかめている。だが次の瞬間、王子の口より放たれたその名を聞いた彼は、身を強張らせる事しか出来なかった。
「あぁ、ラジアン博士が私に言った天才の名。それはかつて世界最高の鬼才と呼ばれた【グラム博士】という科学者なのだよ。そして私が是非とも会ってみたい人物こそが、そのグラム博士なのだ」
「――」
高止まる鼓動が彼の胸の内を訝しい焦燥感で溢れされる。予想だにしないグラム博士の名に、ジュールは強い困惑を覚えてならないのだ。意味も無く狼狽える彼の心は覚束ない感情で苛まれていく。ただそんな彼の気持ちを知ってか知らずか、トーマス王子は構うことなく話しを続けた。
「ラジアン博士は迷う事無く私にこう告げたのだ。『王子の言う真の天才と合致する人物に思う節は見当たらない。でもそれに最も近い人物であるならば、それは間違いなくグラム博士しかいないでしょう』――とな。ラジアン博士は微塵にも躊躇わずにそう言った。何よりも建前やお世辞を苦手とするラジアン博士が自信を持って口にした人物なのだ。間違いなくその人は、私の思い描く天才に限りなく近い存在なのだろう。ただ残念な事に私がそれを聞いた時にはもう、グラム博士は咎人としてその所在を眩ませてしまった後だった。だからその真意は確かめるに至ってはいない」
王子は口惜しむ様にそう言った。その表情からして、王子はグラム博士に会えない現状を本心より残念に思っているのだろう。しかしジュールはそんな王子に対して口を開くことが出来ないでいる。それもそのはず。王子はジュールとグラム博士の関係を知らないのだ。
ジュールの背中に冷たい汗が流れ落ちる。グラム博士の名前を聞いただけで、なぜこうも焦燥感に苛まれるのか。自分と博士の関係が王子に知られたらマズイとでも思っているのだろうか。いや、そんなはずはない。だって仮にジュールとグラム博士の関係が公になったとしても、彼が咎められる理由はないのだ。なぜなら彼とグラム博士は事実上親子の関係を築きながらも、戸籍上はまったくの他人だったのだから。それにジュールは王国軍の隊士として十分な実績と功績を獲得している。だから彼を非難するなどまったくの筋違いであり、責める理由はどこにも存在しないのだ。しかしなぜなのだろう。ジュールの背中に流れる汗は止まらない。
ジュールは多言はしないまでも、博士との関係を隠したことはなかった。だから幼少時代を共に過ごしたヘルムホルツやマイヤーはおろか、大人になってから親交を深めたヘルツにガウス、それにテスラとてその事実を認知していたほどなのだ。ならばどうして彼は罪人である博士の存在を隠さなかったのか。それは彼が誰よりも博士を信じていたからであり、また誇りに思っていたからだ。
決して恥ずかしむことはない。だってグラム博士は自分にとって唯一の家族であり、大切な父親なのだ。彼はいつだってそう心に誓っていた。だからジュールは世間がどれだけグラム博士を罵り愚弄しようとも、決して臆する事がなかったのだ。
それなのに今は王子より聞き及んだ博士の名前に動揺している。かつてないほどの嫌悪感に苛まれているのだ。ただその理由を彼は漠然としながらも察していた。いや、自分の口から出た言葉を打ち消そうと、心の中で懸命に足掻いている。まさにその現れが、不快感として彼の背中を泡立たせていたのだ。
ラジアン博士はグラム博士を天才と告げた。そしてジュールはその天才という定義を、自身でこう言い表していたのだ。それはもう【人とは呼べない】ほどの、常識を逸脱した才覚の持ち主なのだ――と。
自分の発した言葉の重みに耐え難い苦痛を感じてならない。どうして俺はそんな言葉を発してしまったのか。何を思い、何を感じてそんな例えをしてしまったのか。脳裏に浮かぶグラム博士の面影が怖くて堪らない。まさにその感情の怯みこそが、ジュールの背中に流れ出る汗の原因であったのだ。
ジュールは言葉無くうな垂れている。彼は胸を強く締め付ける嫌悪感に耐え忍んでいるのだ。ただそんなジュールに向かい、王子は温かい眼差しを向けながら語り掛けた。まるでグラム博士を気に掛ける彼の心情を穏やかに支えるかの様にして。
「お前もその名前くらいは知っているだろう。グラム博士は大量殺戮兵器をいくつも生み出し、戦争を助長した人物として、全世界に指名手配されている人物だからな。それに最近では国王暗殺を企てたテロ組織の黒幕だとも言われている。極悪非道の闇の科学者。恐らく世間的にはそんなイメージなんだろうな、でもグラム博士って人は、本当にそんな人物なのだろうか。あのラジアン博士が真の天才だと名指ししたほどの人物が、そんなテロリスト紛いな犯罪者になり果てるであろうか。私にはそれが感覚的に受け入れられないのだよ」
「えっ。どういう事ですか?」
王子の見解を飲み込めないジュールは即座に聞き返す。それは当然であろう。グラム博士は列記とした犯罪者なのだ。それなのに王子はまるで博士を擁護するかの様な口ぶりで話しをしている。ジュールにはそんな王子の態度が率直に理解出来なかったのだ。すると王子は強い気持ちの籠った言葉で、表情を曇らせている彼に告げたのだった。
「私の考える真の天才という者がもし本当に実在したのならば、それはきっと常人には受け入れられない者として邪見に扱われるだろう。なぜなら人という生き物は、常人を超えた存在を否定してしまうからだ。例えばそれが替え難いメリットを生み出す発明だったとしても、それが人の可能性を逸脱するレベルであったならば、人はそれを決して認めたりはしない。悲しいけど、常人は天才を理解出来ないからね。そして理解出来ないって事は、蓋を返せば怖さに変わってしまうのさ。そこには意地汚い妬みや恨みも入り混じっているのだろう。だから結果的に常人は天才を排除してしまうのだよ。忸怩たる悔しさを誤魔化すためにね」
「……」
「もう分かるだろ。そう言った意味合いからして、グラム博士の立ち位置は皮肉にも天才と呼ぶに相応しいと物語っているのだ。世界が博士を退ければ退けるほど、逆に博士が天才だと認めている事になるんだよ。だからこそ、私はグラム博士に興味を抱いてしまうのさ。純粋に天才と話がしてみたい。そんな理由だけでね」
「王子――」
「王族である私がこんな事を言うのは不謹慎であろうが、グラム博士が本当に極悪非道な人物であろうとも、それが真の天才であるならば私は会ってみたい。実際に顔を会わせて確かめたいのだ。真の天才がどういった人物なのかをな。だからもしお前の目の前にグラム博士が現れたとしたならば、遠慮なく私の下に連れて来てくれ。その時は私自ら酒を振る舞って、博士と尽きることの無い話しをしようと思う。きっとこれ以上無いほどの有意義な時間を設けられるはずであろうな。想像しただけで楽しくなるよ」
王子は目を輝かせていた。その表情からして、王子は本心からグラム博士との面会を切望しているのだろう。そしてその穏やかな王子の心意が、この上なくジュールの気持ちを落ち着かせてくれた。いや、むしろ嬉しさで溢れさせてくれたのだ。
王子ならば博士を理解してくれるはず。博士の無実を信じてくれるはずだ。ジュールにはそう思えて仕方なかった。何より王子は博士の資質を高く評価してくれている。他者を褒める事自体が珍しい王子が、一度も会ったことの無い博士を受け入れたいとしてくれているのだ。疑いたくなるほどの意外な王子の言葉ではあったが、でもこれ以上に望むべき事は思い浮かばない。
嬉しさを噛みしめながらもジュールは思う。王子は決して博士とは話せない。そんな現実がジュールの胸を摘みはしたが、しかしそれでも彼は救われたかの様に気持ちが晴れ渡っていた。まだ詳しい内情は話せない。けど王子ならば俺達を理解してくれるはずだ。彼はそう心で感じ取っていたのだ。そしてジュールはその気持ちを素直に王子にへと伝えたのだった。
「ありがとうございます王子。すっごく意外ですけど、なんだか王子には色々と気を遣ってもらったみたいで、感謝の表し様が見当たりません。でも本当に元気が湧いてきました! これで明日からまた、気合を入れて頑張れます」
意気揚々とジュールは告げる。するとそんな彼の熱い視線を感じ取った王子は、薄ら笑いを浮かべて返した。
「フフッ。明日からとは呑気なものだな。元気があるなら今晩から励んでくれないと、私も張り合いが無いってものだ。心するが良いぞジュール。一息ついたら、今夜も酒を酌み交わそうぞ!」
「マ、マジですか。それは正直キツイですね、王子……」
表情を一転させたジュールは渋々と頷く事しか出来ないでいる。昨晩あれだけ飲んだのに、それでも王子は飲み足りないというのか。それに明日だって大切な協議は続くはずなんだ。それなのにまったく、理解に苦しむとはこんな状況なのだろう。ジュールは半ば諦めて、王子の申し出を承諾した。ただその時彼は聞き覚えのある声で後方より呼びかけられる。いつの間に戻って来たのだろうか。そこには苦笑いを浮かべたリュザックが一人立っていたのだった。
「やれやれ。こうなっちまったら俺も付き合うがよ。後輩隊士一人に任せるっちゅうのも気が引けるきね」
「リュザックさん! 戻って来てくれたんですか。あっ、でもソーニャのほうは?」
「娘っ子なら、鎮静剤の効果もあってか落ち着いたきね。あれならヘルムホルツ達だけで大丈夫だがよ。それよりも、心配するなら自分のほうをした方がええんじゃないかえ? 王子の表情から察するに、今晩は尋常でない程に飲まされる気がするがよ――」
リュザックの言葉にジュールは戦慄を覚えずにはいられない。一体どれほどに酒を飲む事になるのだろうか。でも覚悟は出来ている。これも自分に課せられた宿命の一つなのだから。
ジュールは決意を新たに王子に向き直る。するとそんな彼に対して王子は、過去に一度も見せたことの無い満面の笑顔でニッコリと微笑んだのだった。