#54 馬酔木盛る夕刻の邂逅(三)
リュザックとヘルムホルツが財布の盗難を危惧している間に、ジュールは3ブロック先の場所へと突き進んでいた。目的の場所はもう目と鼻の先だ。そして走りながらではあるものの、ジュールは前方に見える大きなそれに気が付いた。
「またかよ――」
ジュールが目にする先。それは外観を青色に染めた一棟のビルであった。どうやらそれはスポーツ用品を取り扱っている店舗らしい。ただそのビルの壁には、またも大きな【女神の姿】が描かれた巨大な広告が展示されていたのだった。
ジュールは肩を上下させるほどに息を荒げながら、その女神を見つめている。しかし女神を見る彼の表情は、どこか釈然としないものであった。なぜならそこに描かれた女神の表情が、その姿に似つかわしくない【怒り】の表情を浮かべていたからだ。
慈愛に満ちた女神でも、こんな表情を浮かべる事があるのか――。ジュールは胸の内でそう思う。映画のワンシーンを切り取って描いたものなのだろうが、どうして女神はこんな勇ましい表情を浮かべたのか。彼には何となくその理由が知りたかった。それでも彼は現実に意識を向け直す。ジュールの正面から見て、女神は右方向に怒りの視線を向けているのだ。ならばその先に進むしかない。彼はそう判断すると、極度に疲れの溜まった体に鞭を入れながら足を前へと踏み出した。
ジュールは周囲を気に掛けながら走り続ける。そして彼は3ブロックほど進んだところで足を止めた。見覚えのある交差点に彼は気を揉む。そう、彼が足を止めた交差点は、スリ男が赤信号を飛び出して行き交う車の流れを混乱させた、あの十字路だったのだ。
あれから少し時間が経過したことで、大渋滞を引き起こした混乱は解消されている。それでも数台の車が路肩に立ち往生しているのが目についた。
怪我人や大きな事故が起きなかった事が奇跡と言えよう。ただそう考えるジュールはふと思う。もしかして先程の女神は、この場所で混乱が生じた事に怒りを感じていたのではないかと。だからあんなにも怖い表情を浮かばせていたのではないかと。それでも女神のご加護があってか、大事には至らなかった。ならば女神に感謝しなければいけのかも知れない。そんな思いを頭に浮かべていたジュールではあったが、しかし彼は交差点に停車する1台の小型トラックに視線を奪われた。
それは郵便配達に使用されている車両なのだろう。ただその車両は仕事柄、その全体を赤くペイントしていたのだ。そしてそのトラックは、ジュールから見て左に進行方向を向けている。彼は直感として、そのトラックが正面を向く方向に進路を取った。するとその前方に、またしてもジュールは見つける。そう、彼の進む先に、大きな女神の姿があったのだ。
疲れ切った体になんて構ってはいられない。ジュールは懸命に走り、視線の先にある女神を目指した。そして彼はその女神の展示された交差点へとたどり着く。だがそこで彼は一驚した。なんとそこはジュールが初めにスリ男と接触した、映画館のある交差点だったのだ。レトロな雰囲気を醸し出すオレンジ色をした映画館。そしてそこに描かれていた女神が視線を向けるのはどこでもない。哀しげな表情を浮かべる女神は、その足元を見るかの様に、視線を下に向けていたのだ。
「どういう事なんだ?」
ジュールは怪訝にも戸惑うしかない。もうこれ以上進むべき場所が見当たらないのだ。彼は携帯端末を取り出して現在時刻を確認する。そこに刻まれた時刻は、置手紙にあった指定事時間まで、あと1分という時間であった。
息を荒げながらもジュールは周囲に視線を向ける。もしかしてこの場所がゴールなのか。彼はそう思ったのだ。そして次の瞬間に彼は気付く。女神が視線を落とす場所。そこには何やら小さなハンドバックみたいな物が、無造作に置かれていたのだ。
信号が赤であるにも関わらず、反射的にジュールはそのバックが置かれた場所に進み寄る。しかしその時、彼の目の前を小型のトラックが立ち塞いだ。
「!」
赤信号を無視して交差点を渡ろうとしたジュールに否があるのは間違いない。ただ突然目の前に停車したトラックに彼は憤りを覚えてならなかった。だが彼の背中に泡立つものが走る。そう、彼は気付いたのだ。彼の目の前に停車したトラックが、ゴミ収集車なのだという事に。そして無人操作されたその車両は、長いアームを伸ばして無造作に置かれただけのバックをゴミとして回収しようとしている。収集車に詰め込まれたゴミは、瞬時にして圧縮され原型を破棄してしまうはずだ。それを想像したジュールは目の色を変えてトラックを回り込むと、バックに向かって頭から滑り込んだ。そして回収寸前のところでそのバックを掴み取ったのだった。
「間に合った――」
全身を埃まみれにしながらも、ジュールはホッと胸を撫で下ろす。ただそんな彼を、街を行き交う人々は不審に見つめていた。突然街のド真ん中でヘッドスライディングをしたのだ。その異常さに人々は目を丸くしたのであろう。しかしジュールはそんな冷たい視線になど構うことなく、その場に胡坐をかいて座る。そして彼は直ぐ様手にしたバックの中を覗き込んだ。
「!?」
ジュールに遅れること数分、息を荒げたリュザックとヘルムホルツが交差点に到着した。そして座り込んだままのジュールに近づき声を掛ける。
「ハァハァ……。もうヘトヘトで走れんぜよ。ところでジュール、何か見つかったかえ?」
疲労のためなのか、意気消沈しながらリュザックはジュールに問い掛ける。彼は最終的にジュールに追いつけなかった事を悔やんでいるのかも知れない。先輩隊士としての面目を保つことが出来なかった。そんなところなのだろうか。ただそんな先輩隊士に向かい、ジュールは手にしていたバックの中から【ある物】を取出し、それを彼に向かって投げ渡した。
「な、なんじゃ。どうしてこいつをお前が持ってるんだきよ?」
唐突に渡されたそれを見ながら、リュザックは目を丸くしている。さすがの彼も状況をうまく飲み込めないのだろう。するとそんなリュザックに代わり、ヘルムホルツがジュールに問うた。
「説明してくれジュール。どうしてお前がリュザックさんの【財布】を持っているんだ?」
強い眼差しでヘルムホルツはジュールを見つめている。彼とて状況をまったく飲み込めていないのだ。この場所で何があったのか。いや、そもそも指定された時間に間に合ったのか。彼はその疑問を解決するために、ジュールに対して問い質そうとしていたのだ。ただそんなヘルムホルツに向かい、ジュールは失笑を漏らす。どこか呆れた表情を浮かべた彼は、リュザックに続いてヘルムホルツにまでも、バックの中から取り出した財布を投げ渡したのだった。
「そいつはお前のものなんじゃないのか? いつの間にパクられたのかは知らないけど、このバックの中には俺のものも含めて、3つの財布が入っていたんだよ。女神が視線を落とす、この場所にね」
そう告げたジュールは指先を上に向ける。ヘルムホルツとリュザックは、それにつられて上を向いた。そこで二人が目にしたのは、紛れもない女神の姿であったのだ。
「置手紙にあった【制限時刻の4時】っていうのはさ、どうやらゴミ回収車の到達時刻だったらしい。俺がこの場所に着いたのは、指定時刻の一分前だった。そして女神が視線を真下に落とすこの場所で、財布の入ったバックを見つけたんだよ。でもちょうどその時ゴミ回収車が到着したところでさ。それでも間一髪取り戻せたってわけなんだよ。まぁ、バックの中にパクられた財布が入っていたなんて、想像すらしてなかったけどね」
疲れ切った表情を浮かべながら、ジュールはそう簡単に説明をした。話の内容を理解したリュザックとヘルムホルツは、お互いの顔を見合わせながら複雑な気持ちを抱く。結局この追走劇は何だったのか。財布を取り戻す事が目的だったとでもいうのだろうか。いや、そうじゃない。自分達はシュレーディンガーに謁見する事を目的として、王子の警護の合間を見計らって行動していたのだ。それなのに訳が分からないままグリーヴスの市街地を駆けずり回った。そして最終的に、シュレーディンガーについては何の進展もしていない。まったくもって意味が分からず、ただ疲労感が蓄積されただけの骨折り損の状態だ。この憤りを一体どこにぶつければ、収まりをつけられるというのだろう。すると少しばかり怒りを露わにしたヘルムホルツがジュールに尋ねる。事の発端はアニェージによって呼び出されたことから始まったのだ。だから再度彼女に連絡するよう、彼はジュールに呼びかけたのだった。
「なぁジュール。アニェージに一度連絡してみてくれよ。結局のところ俺達は今日、シュレーディンガーに会えるのか? それくらいはハッキリさせようぜ」
「あぁ、そうだな。もうこれ以上グリーヴスを駆け回るのは御免だしね」
端末を取り出したジュールは、アニェージへの回線を開く。すると思いのほか早く、彼女への回線はつながった。そして端末の向こう側からアニェージの威勢の良い声が聞こえて来る。
「済まんジュール。こっちから連絡しようとしたんだけど、なぜかお前の端末に繋がらなくてな。仕方なくお前の方から連絡が来るのを待ってたんだよ」
「はぁ? どういう事だよ。俺達はお前が見つけた置手紙の指示に従って動いたせいで、ヘトヘトの状態なんだぜ。無意味に走り回ってばかりで、そのクセなんの結果も出せやしない。一体どういう事なんだよ。何か分かってるんなら説明してくれよな!」
強い口調でジュールは口走る。彼も溜まりに溜まった疲労感に、心穏やかなんかじゃいられないのだ。そしてその捌け口として、ジュールは電話相手であるアニェージに強くもの申してしまった。ただそんな彼の姿勢を受け流す様に、アニェージは落ち着いた口調で告げた。
「まぁ落ち着いて聞いてくれよ。つい先程の事なんだけど、社長から連絡があってな。やっぱり今日は時間が作れなくて会えないそうなんだ。だからお前達には謝っといてくれって言われたんだよ」
「ふざけんなよ! これだけ人を走らせといて、そりゃないぜ」
「まぁまぁ。明日は必ず時間を設けるって言ってたし、今日のところは大目に見てやってくれよ。社長は社長で忙しいんだからさ」
「マジかよ、くそっ。冗談じゃないぜ……」
通話を切ったジュールはどっと肩を落とす。期待していたのにも関わらず、今日もシュレーディンガーとの顔合わせが実現しなかった事で、彼はこれまでにないほどの尋常でない疲労感に苛まれたのだ。そしてそれは彼の隣で話しを聞いていたヘルムホルツも同じであった。ただそんな二人を尻目に、どこか上機嫌なリュザックが話し出す。携帯端末を手にした彼は、表情を綻ばせながら肩を落とす二人に告げた。
「マイヤーの部下の娘っ子に連絡してみたけんど、まだしばらく王子の会談は終わらないようじゃきね。それどころか、むしろ長引く感じすら漂ってるみたいだき。だからどうぜよ。財布も戻って来たことじゃし、メシでも食いにいくか? 先輩として奢ってやるがよ」
そう言ったリュザックは、財布を片手にニッコリと微笑んでいる。するとそんな表情を呆れながら見つめるヘルムホルツが苦言を呈した。
「もしかしてリュザックさん。あんたが意気消沈していたのはジュールに追いつけなかったのが理由じゃなくて、財布をすられた事が原因だったんですか? でも財布が戻って来た事で、萎えていた気持ちが復活した。きっとそんなところなんでしょう。まったく、現金な人ですね」
ヘルムホルツの核心を付く言葉に、リュザックは顔を赤らめる。だがそんな先輩隊士の姿に、疲れ果てていたはずのジュールとヘルムホルツの心は意外にも温かく癒されたのだった。そしてジュールはリュザックに対し、はっきりとした口調で意見した。
「コンビニやファミレスなんかじゃ満足出来ませんよ」
川沿いに伸びる歩道を三人は歩いて行く。とりあえずホテルに向かって進み、その途中でどこか食事の出来る場所を探そうというのが彼らの考えだった。ただその足取りは酷く鈍重なものに見える。あれほど市街地を駆け回ったのだ。それは仕方のない事なのだろう。
彼らは財布を取り戻した事もあってか、タクシーを捕まえてホテルに戻る事を考えもした。しかしこんな時に限って流しのタクシーを捕まえる事が出来ず、渋々と川沿いを進んでいたのである。気が付けばもうホテルは目と鼻の先だ。恐らくその過程で、適度な食事を取れる場所を見つけるのは厳しい事案であろう。するとそれを察してか、ヘルムホルツがリュザックに向かい一つ提案を出したのだった。
「リュザックさん。もし俺達にメシを奢ってくれるのなら、ホテル内のレストランでも良いですよ。もう俺達ヘトヘトだし、これ以上メシ食える場所を探すのは面倒ですからね」
「バカを言うなきよ! いくら俺が軍の最強部隊に属するエリート隊士だからって、あのホテルでメシ食えるほどの金は無いがね。あのホテルは王子の様な国賓やセレブご用達の場所なんだき。俺の様な一般庶民が気軽に入れるレストランなんて、ありゃせんよ」
リュザックは口先を尖らせながらそう反発した。その姿を滑稽に感じたのであろう。ジュールとヘルムホルツは声を上げて爆笑する。ヘルムホルツは冗談として先輩隊士をからかったに過ぎず、それを珍しくも真面目に受け取ってしまったリュザックの事が、二人にはこの上なく微笑ましく思えたのだ。恐らく冗談を冗談として受け取れないほどに、リュザックも疲れ切っているのだろう。だから早くホテルに戻り休息したい。それがヘルムホルツの気遣いであり、体よく先輩隊士の面目を立てる為の口実だったのだ。
すでに陽は大きく傾いている。ジュール達の滞在するホテルの背には、沈み行く夕焼けがオレンジ色の淡い光を輝かせていた。そしてその夕日に流れ込むかの様にして、川の水はゆっくりと流れて行く。ただそんな長閑な夕刻の川沿いを進むジュールは、ふと川べりに座り込む人影を見つけ立ち止まった。
どうやらその人影は一人の男性のものである様だ。しかしどこかその人影からは、意気消沈する士気の無さが伝わって来る。そしてジュールは何故かその人影より、只ならぬ悲壮感を覚えてならなかった。すると彼は何を思ったのか、その人影に近寄って行く。まさか川に身を投げるつもりではあるまい。そうは思いつつも、彼は人影の男性を放っておくことが出来なかったのだ。
「ちょっと待ってて下さい」
ジュールはリュザックとヘルムホルツにそう告げると、土手を駆け下りて人影の男性のもとへと向かった。そんな彼の行動をやれやれといった感じに見送る二人。ただリュザック達にしても、人影の男性からどこか気持ちの萎える雰囲気を感じ取り、気遣わしく思っていたのだ。だからジュールの行動に理解を示した二人は、あえて彼を呼び止めようとはしなかった。
背の低い雑草の生い茂る土手縁を進んだジュールは、人影の男性へと近づいて行く。すると彼はその男性の容姿を目にして少しばかりの驚きを感じた。彼が目にした人影の男性。それは昨日ホテルのロビーにて、宿泊費を立て替えたあのビジネスマンの男性だったのだ。ジュールはそんな男性との偶然の再会に驚きを感じつつも、その背後より優しい声を差し向けた。
「こんな場所で何をしているんですか?」
ジュールの掛け声に振り向いた男性は、涙を流していた。何か悲しい事でもあったのだろうか。でも男性の表情を一目したジュールが感じたのは、悔しい涙なのではないか。そんな感情であった。
男性はふいに訪れたジュールに一驚するも、直ぐ様流れ出ていた涙を拭い、そして愛想よく笑顔を浮かべた。
「これはまた、恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
照れ笑いなのか、それとも強がりなのか。男性はジュールに向かって微笑みながらも、毅然とした姿勢で彼に向き直った。しかし男性から伝わって来る悲壮感らしき想いは、ジュールの胸に辛く浸透していく。男性の忸怩たる無念さがこの場所を覆い尽くしているかの様な、まさにそんな身を切るほどの悲痛な感情が溢れ返っているのだろう。でもどうして男性はこれほどまでに落ち込んでいるのだろうか。それを露わにしないよう男性は努めていたが、ジュールにしてみれば否応なく察してしまう痛切な感情がそこにある。だからジュールは柔和に声を掛けたのだ。エメラルドグリーンに輝く男性の瞳に問う様にして。
「失礼かも知れませんが、妙にあなたの背中が寂しそうに感じたもので、つい声を掛けてしまいました。だからもし良かったら、俺に話してみませんか? 少しは気持ちが晴れるかも知れませんよ」
ジュールはそう言って微笑んでみせた。すると男性はジュールの優しさに気が緩んだのか、堪えていたはずの涙を再び流し始めたのだった。
「済みません。見ず知らずの軍人さんに、施しを受けるばかりか、慰めてもらうなんて。本当に、穴があったら入りたいばかりです」
「そんな事、気になさらずに。俺なんて大して役に立てませんよ。それでもただ話しを聞くくらいなら出来ますので、思いの丈を吐き出して下さい。ご自身の中に溜め込んでばかりじゃ、上手く行くはずのものだって、ダメに思えてしまいますからね」
涙を流す男性にジュールは優しく続けた。すると男性はその思い遣りに屈服したのか、自身の抱える自責の念を語り出したのだった。
「実は昨日、あなたにホテルの宿泊費を立て替えて頂いてからというもの、かつて取引のあった幾つかの会社に営業を掛けていたのです。もう一度このグリーヴスで成功を収めたい。最後に一度だけでいい。私を嘲る同僚達に一泡吹かせてやりたい。そう強く決意して営業を掛けました。でもダメでした。うまく行きませんでした」
男性はハンカチで涙を拭いながら、それでもジュールに向かって悔しさを滲ませ続ける。
「足で稼ぐやり方が、もう古いものなんだというのは重々に理解しています。でもだからと言って私は諦められませんでした。仕事とは言っても、そこには人と人との繋がりが存在するものですからね。だから誠心誠意の対応をすれば、きっと努力は報われるはず。そう思いながら仕事に励んだのです。でもやっぱり時代の流れには逆らえませんでした。確かに相手方によっては、私の話しに耳を傾けてくれる人もいました。でもビジネスにおいてそれは足枷にしかならず、結局は成功には至らなかった。品質、性能、コストに納期。それら全てを迅速に賄えてこそ、現在のビジネスは成立するもの。ですが私にはそんな相手の求めるものに対して、それに応えるだけの能力がありませんでした。悲しいことに、今は仕事において人の繋がりは極端に冷めたものであって、クリック一つで採決出来ればそれで十分なのです。認めたくはありませんが、それが現在という時代なのでしょう。そんな時代の流れについていけなかった自分を嘆いている。それが今の私であって、他人に同情される余地は微塵にもありません。ですのでどうか、私の事など放っておいて下さい。社会の歯車から抜け落ちた私なんかに構っていたって、良い事なんて一つもないのですから……」
男性は沈み行く夕日を見つめている。もしかしたら、そんな沈み行く夕日に自身の人生を重ね合わせているのかも知れない。輝きに満ちていた時間は終わり、今はもう消え去るのを待つばかり。そんな寂しさ溢れる悲嘆に男性は想いを募らせているのだろう。でもジュールにはそんな男性の心折れた想いに、どこか腑に落ちない点を抱いていた。そして彼は男性に告げる。男性が強く握りしめている【三角定規】を見つめながら。
「仕事がうまく行かなかった事に弱気になっている。それは本当なのでしょう。実は俺の方も今日一日、何もかもがまったく上手くいきませんでした。だからあなたの気持ちを少しは理解出来るつもりです。でも全てを投げ出すほどに諦めてしまったと、あなたは本当に悔やみきっているのでしょうか? 少なくとも俺にはそうは思えない。だってあなたは未だにその三角定規を手にしているじゃないですか。強く握りしめているじゃないですか。もし本当に心が折れているのならば、そんな物とっくに投げ捨てているはずです。でもあなたはそれを捨てられずにいる。いや、むしろ強く握りしめているんだ。報われない人生に足掻きながらも、縋るべき希望を僅かにも心に抱いている。だからあなたはこの場所で踏み止まっているのではないのですか」
「分かった様な口は利かないで下さい。あなたに私の何が分かるっていうんですか! 私の半分の人生も歩んでいないあなたなんかに、知った口を開かないでほしい。仕事どころか女房や子供にも見限られ、何の為に生きているのか分からずに自分自身の存在意義をも見失ってしまった。そんな私に縋るべき希望が残されているですって? バカバカし過ぎて笑う事も出来ませんよ。そんなもの、初めから存在しなかったんです。私なんて、生まれて来る価値なかったんです。だから今こうして、人生に終止符を打とうとしていた所なんですよ。だからどうかお願いです。私の事なんて、放っておいて下さい」
悲痛に満ちた嘆きを吐き出した男性は、冷たい涙を流しながら立ち尽くす。そしてその三角定規を握りしめた拳からは、赤い血が滴り落ちていた。力一杯に定規を握りしめた事で、それが手に食い込み傷を負ってしまったのだろう。だがそれでも男性は定規を離そうとはしない。まるでその姿は、自ら痛みを受け入れているかの様でもあった。ただそんな男性に対し、ジュールはそっと腕を伸ばす。そして彼は三角定規を握りしめている男性の傷んだ手を、ゆっくりと開かせたのだった。
男性の傷ついた手の平は真っ赤に染まっている。そんな男性の手を自分のハンカチで包んだジュールは、強い意志を込めて言った。
「この痛みに耐える姿勢こそが、俺にはあなたの諦めていない証しなのだと思えてなりません。それにあなたはご自身に足りない部分をよく理解していながらも、それでも懸命に努め続けた。その姿勢は俺にとって、敬意に値します。きっとあなたの歩んだ人生そのものが、負けん気の強さとして心の奥深くに根付いているのでしょう。そしてそのプライドが、今のあなたの足を支えている。そしてそれこそが唯一の縋るべき想いとして、あなたに微かな希望を抱かせている。俺にはそう思えてなりません。それにこんな場所で全てを投げ出したとして、あなたは自分自身に折り合いを付ける事が本当に出来るのでしょうか。たぶんそれは不可能でしょう。俺はあなたの事を何一つ知ってはいません。でもあなたの根底に生きている意志の強さは感じずにはいられないんです。だからあなたも自分に正直になりましょう。今は少しだけ後ろ向きになっているけど、でもあなたにはまだ残された希望がある。ううん、未来に希望を持つ力を残している。こんなにも強く悔しさを滲ませられるあなたなら、もうあなた自身、それに気付いているはずですよね」
ジュールはそう言ってニッコリと微笑んで見せた。夕日に赤み掛かったその笑顔は、とても温かいものに感じる事が出来る。そしてその笑顔を目の当たりにした男性は、またも涙を流し始めた。しかしその涙はそれまで流していた冷たい涙とは少し違うものに見える。そう、その涙からは温かい感情が伝わって来ていたのだ。きっと男性の中に燻ぶっていた熱い想いに、ジュールが火を灯したのであろう。男性はまだ、人生を諦めてはいない。少しづつだが男性の持つエメラルドグリーンの瞳に活気が甦って来るのが分かる。ただ最後に男性はジュールに聞き尋ねた。彼にしてみれば、赤の他人であるはずのジュールが、なぜこれほどまでに自分を気遣ってくれるのか不思議でならなかったのだ。
「ありがとうございます。まだお若いのに、あなたにはお世話になりっぱなしですね。でもどうしてあなたは私なんかにこんなにも優しくしてくれるのですか? あなたにとって、これっぽっちも特なんて無いんですよ」
男性は首を少し傾けながらジュールを見つめている。そんな男性に気恥ずかしさを覚えながらも、ジュールは正直な気持ちを伝えた。
「生意気な事ばかり言ってしまって、こちらこそ済みません。でも何ででしょうね。俺にはあなたを放っておくことが出来なかった。でもそれはきっと、あなたの中にある曲げられない強い意志を感じ取ったからなんだと思います。俺にしてみたって、自身に課せられた運命を呪いたくなるばかりだ。でも決して逃げられない。ううん、立ち向かわなければ希望は掴み取れない。そう覚悟しているからこそ、俺はあなたの生き様に共感し、またそれを見習わなければならないと思ったのでしょう。結局のところ、お互い様なんだと思います。俺はあなたの弱い部分に自分を重ね、それを打破しなければ俺自身も前に進めなくなってしまうんじゃないのか。そんな怖さに無意識ながらも身悶えしたんでしょうね。でも俺の言葉にあなたは前向きになってくれた。だったら俺自身も心折れることなく、この先の未来を進めるんじゃないのか。今はそう思う事が出来て、素直に嬉しく感じています」
ジュールと男性はお互いを見つめ合いながら微笑み合った。もう大丈夫。これで男性は再び前へと進んでいけるはずだ。そう心から感じたジュールは、それまでの疲労感が吹き飛ぶほどの爽快感を感じずにはいられなかった。するとそんな彼の後方より、リュザックとヘルムホルツが揚々とした声で話し掛けて来る。
「どうしたき。話は終わったがかえ? なんだか込み入った話をしとったみたいだき、少し心配したけんど、でも無事に収まりはついたんだきな。だったらあんたもこれから一緒にメシでもどうだがよ。こうして顔を会わせた縁じゃけ、俺があんたの分まで奢っちゅうきよ」
リュザックは男性に対して共に食事を取る事を勧める。そしてそれに補足する様、ヘルムホルツが続けた。
「この人ケチで有名なんだけど、でも意外に人として好感が持てるんですよね。だから変に気を回さないで、一緒にメシでも食べましょう。腹いっぱいにして精を付けて、また明日からバリバリ働けば、きっと良い事がありますよ」
ジュールにリュザック、そしてヘルムホルツは男性を温かく見守りながら穏やかに微笑んでいる。そんな三人に向かい男性は、ただ涙を流しながら頭を下げるばかりであった。
「ありがとう。本当にありがとう」
そう言いながら男性はジュールの手をギュッと握りしめた。男同士の硬い握手のつもりなのだろう。ただ血の滲んだハンカチが、やけに痛々しく感じられる。そんな男性の手は震えていたが、それが痛みによるものなのか、それとも嬉しさによって湧き上がって来たものなのかは分からない。ただ一つだけ確信が持てる事と言えば、それは当初感じていた悲壮感は、まったくと言っていいほどに消え失せていたということだった。
ジュールは声を出して笑った。理由は良く分からない。ただ嬉しくて仕方なかったのだ。そしてそれにつられる様にしてリュザック達も高らかに笑う。そして男性も――。
穏やかな夕焼けに包まれた川べりで、一時の優しい時間が流れて行く。それはとても柔らかくて温かい、気持ちを和やかに癒してくれるような、そんな緩やかな時間であった。
四人のいい歳した男達が声を高良かに笑っている。それは何も知らない他人が目にしたならば、少し違和感を抱いたかも知れない。いや、間違いなく異常さを感じて気持ちが引いてしまったであろう。それほどまでに【男性】は、声を大きく上げて笑っていたのだ。
「アッハハハハッ!」
男性のあまりの爆笑ぶりに、ジュール達三人は思わず息を飲む。その尋常でない爆笑する姿が、いささか異常過ぎると感じてならなかったのだ。しかしそんなジュール達に構うことなく、腹を抱えて男性は笑い続けている。その姿に違和感を覚えたジュールは、思わす男性に対して声を掛けたのだった。
「ちょ、ちょっと大丈夫ですか? 笑い過ぎですよ」
「アハハハッ。これが笑わずにいられるかって。お前ら、人が良いにもほどがあるぞ! アハハッ、それにしても笑える。お前ら最高だよ。ハハッ」
大声で笑い続ける男性に、一体何があったというのだろうか。態度までもが一変した男性に驚きを隠せないジュール達。するとそんな彼らの後方より、聞き覚えのある女性の声が掛けられたのだった。
「ほら社長! バカなジュール達が、よりバカ面浮かべてるじゃないですか。もうその辺で、お遊びは宜しいんじゃないのですか。少しジュール達が可哀想ですよ」
「アハハッ。済まん済まん。少しばかり度が過ぎてしまったようだね。それにしても今日は楽しかったぞ、みんな!」
理解不能な状況に、ジュール達は唖然としている。突然彼らの後方に現れたアニェージの姿にも驚いたが、それにも増して彼女と男性の会話の内容が、彼らの頭の中をかつてないほどに混乱させていたのだ。そして状況は更に彼らを混乱に至らしめていく。なんとアニェージの後に続いて現れたのは、他ならぬマイヤーと、あの【スリ男】だったのだ。
開いた口が塞がらない。ジュール達はそんな唖然とした心境だったのであろう。ただそんな彼らを気の毒そうに憐れむアニェージが、少しだけ申し訳なさそうに詫びを入れた。
「済まないな、三人とも。どうしても社長がお前達の事を試したいって言うんでね。悪いとは思ったんだけど、能力診断テストをさせてもらったんだよ」
「ち、ちょっと待てよアニェージ。あんたこそ何を言ってるんだよ。俺にはさっぱり飲み込めないぜ」
即座に反発するジュールであったが、残念な事に彼は未だに現状を把握出来ていない。そんな彼に対してアニェージは落ち着いた口調で諭す様続けた。
「まぁ、お前達が混乱するのも無理はない。だけど初めに紹介だけはさせてくれ。そこにいる見た目冴えないオッサンなんだけど、その人こそが私の上司である【シュレーディンガー】なんだよ」
「な、なんだって! この人がシュレーディンガー!?」
俄かに信じられない。それがジュール達三人の心情であろう。シュレーディンガーといえば、世界を股にかける大企業家なのだ。そこから連想されるのは、バリバリに仕事を熟すキャリア像でしかない。しかし今、彼らの目の前にいる男性は、それとは対極に位置していると言っても過言でない姿をしている。とても経済を思うがままに操る人材だとは思えないのだ。だがアニェージが冗談を告げているとは到底思えない。すると含み笑いを続けながらも、男性はジュール達に向き直って正式に自己紹介を始めたのだった。
「フフッ。お初にお目に掛かれて光栄だよ。ジュール君にリュザック君、それにヘルムホルツ君だね。驚かせて済まなかったけど、私が正真正銘のシュレーディンガーだ。だいぶ君達の想像とは違ったようだが、でも嘘偽りなく私が大金持ちの社長なのだよ、ハハッ」
意気揚々としたシュレーディンガーの話を、ジュール達はただ黙って聞き続ける事しか出来ない。その表情はまるで、キツネにつままれているかの様でもあった。
「まぁ、驚かせるつもりで私は君達の前に姿を現したのだ。今の君達の気持ちは十分に理解出来るよ。でもそろそろ落ち着いてほしいものだな。君達は私に会いたかったのだろ?」
「ほ、本当にあんたがシュレーディンガー氏なんかえ?」
再確認を促すリュザックに、シュレーディンガーは頷きながら答える。
「あぁ、そうだよ。でもなぁ君達。少しは君達の方も事前に勉強したらどうなんだ? 私は決して自分の姿を秘密にしているわけではないし、それにウェブ上に私の写真は五万と出ているはずだぞ。それをグリーヴスに来る前に予習していれば、こんなバカけた駆けっこしなくて済んだものを」
それを聞いたリュザックとヘルムホルツは顔を赤く染め上げる。ようやく彼らは事の真相を把握したのだ。でもジュールだけは依然と納得していない様子である。騙された。いや、揶揄されと思っている彼は、憤りを感じずにはいられないのだ。そしてジュールはその怒りの矛先を、アニェージの隣に立つマイヤーへと向けたのだった。
「おいマイヤー。お前はいつからこれがシュレーディンガーさんの悪ふざけだって知ってたんだよ? まさか初めからグルだったなんて事はないよな」
「いや、済まないジュール。実は初めから俺もシュレーディンガー社長の指示で動いていたんだよ。お前達を試す為にね」
後ろめたさを覚えているのか、マイヤーは頭を掻きながらそうジュールに告げた。そんな彼をキツく睨むジュールの視線は痛い。それでもマイヤーはジュール達に向け、事の経緯を簡単に説明したのだった。
「今回の作戦を考えたのはシュレーディンガー社長本人だ。俺やアニェージさんはお前達の実力を良く把握しているけど、でも社長はご自身の目で確認しないと納得しない主義でね。だから今回お前達が信頼するに足りる者なのか判断なさる為に、こんな大掛かりなテストを実施したんだよ」
「でもどうして一軍人のお前が、シュレーディンガーさんと面識があるんだよ。そこがまず分からない。それにお前の後ろに立ってる【スリ男】。そいつは一体誰なんだ?」
ジュールは不信感を煽り続ける。彼の頭脳はオーバーヒート寸前な状態であり、高ぶった感情を抑えきれないのだ。そんなジュールに向かいマイヤーは落ち着いて話しを続ける。なし崩し的に明らかになった事実に目を回すジュールの気持ちが、彼には良く理解出来ていたのだろう。だから彼はあえて控えめに語り続けたのだった。
「アイザック総司令とシュレーディンガー社長が旧知の仲だというのは知っているだろ。そして実はな、その関係性の延長なんだけど、社長とストークス中将も良く知れた間柄なんだ。初めはアイザック総司令を介して知り合ったみたいだけど、でも東部を指揮する立場のストークス中将とすれば、そこで経済界を統制している社長と良き関係を築くのは、ごく当然の事だからね。だから中将の勅命でお前達のサポートを仰せつかったと同時に、俺は社長を紹介されたんだ。だってそうだろ。社長は今回の件に深く絡んでいるんだし、それにお互いの事を良く理解する意味でも、それはある意味自然な成り行きなんだからね」
ジュールは苦虫を噛み潰した様な顔で、マイヤーの話しを聞き続けている。
「そしてお前の気掛かりなこちらの【スリ男】なんだけど。実はな、この人は社長専属の【運転手】の方なんだ。この人自身は今回の作戦にあまり乗り気じゃなかったんだけど、無理言って協力してもらったんだよ」
「運転手だと!? それにしちゃぁ俊敏過ぎやしないか」
思わずヘルムホルツが口を挟む。するとそんな彼に向かってスリを演じていた運転手の中年男性が語り掛けた。
「残念だけど本当なんですよ。僕は普段より社長の運転手を担う者です。でもまぁ、普通の運転手と少し違うのも事実なんですけどね。仕事柄、側近として社長のボディガードも兼務しなくてはいけないので、日頃からそれなりにトレーニングしているんです。ただそのせいもあってか、今回あなた達へのテストに駆り出されてしまった。まったく人使いが荒いんですよ、この社長はね」
「それにしたって只者じゃないぜ、あんた。訓練された軍人の俺達を、あれだけ苦しめたんだからね」
男性の話しにジュールは正直に感想を漏らす。するとその言葉に男性は、人の良さそうな微笑を浮かべて応えたのだった。
「何を言ってるんですか。あなた達と市街地を駆け回っている間、僕は生きた心地がしませんでしたよ。アダムズきっての精鋭部隊である、トランザムの面々を相手にしなければいけなかったんですからね。もう二度とこんな面倒は御免ですよ」
そう話す男性からは、決して嫌味の様なものは感じられない。むしろ本心から今回の作戦に対して苦労した心情を述べている。そんなところなのだろう。そんな男性にジュールは人間味の良さを感じて胸を撫で下ろす気分を抱く。彼は直感として、男性の事を悪い人ではないと感じ取ったのだ。するとマイヤーがそんな落ち付きの見え始めたジュールに向かい、運転手の男性を改めて紹介したのだった。
「そうそう。こちらの男性は【ブロイ】さんと言って、先に伝えた様にいつもはシュレーディンガー社長の運転手をなさっている方なんだ。普段は物静かな方なんだけど、でもまぁ、本当の性格はいずれ嫌でも分かるだろ。ただこれから先、色々と世話になるだろうから、よろしく頼むよ」
マイヤーは紹介するブロイについて少し含みを持たせていたが、ジュール達はその意味不明さをあまり気にはしなかった。ジュールにしてみれば、シュレーディンガーの考案した作戦にただ従事しただけのブロイよりも、初めから全てを知っていたマイヤーの方に気を揉んでいたのだ。そして彼はマイヤーに対して腑に落ちない最後の疑点を問い質した。
「お前とアニェージも知り合いだったっていうのか?」
ジュールは強くマイヤーを見つめている。ただその質問に答えたのはアニェージだった。
「社長とマイヤーが接触したのは、つい最近の事なんだ。そしてその時私はもうルヴェリエにいた。だから私とマイヤーが直接会ったのは、お前達と一緒にグリーヴス駅に到着した時なんだよ」
「そうか。だからごく自然に初対面を演じれたってわけなのか」
ジュールはアニェージの説明に納得した表情を浮かべる。するとそんな彼を笑顔で見つめていたシュレーディンガーが、話を本題に戻すかの様に切り出した。
「少しは状況を理解出来たようだね、ジュール君。君達には悪いと思ったんだけど、でも私も命を懸けた仕事に身を投じる立場なのだ。人の能力っていうものは、緊迫した状況下でその真価を計れるもの。だからそんな状況を意図的に造り出して、君達が信頼に足りる者達であるのかどうか、直接私の目で確かめたかったのだよ。そしてその判定なのだが、それはもう言わずと知れた【合格】だ」
満足そうな表情でシュレーディンガーは続ける。
「人混みの市街地の中でスリを的確に追い込む判断力。その洞察力の高さはアイザックから聞いていた評判通りのようだね、リュザック君。そして唐突に出題された数学的問題を柔軟な思考で答えたヘルムホルツ君。君もまた、噂に違わぬ博識ぶりだ。そして最後まで決して諦めない姿勢を貫いた剛の漢、ジュール。体力バカとは君を讃える褒め言葉にしかならんだろう。アイザックがしきりに君の事を絶賛していた意味が、ようやく分かった気がするよ。それにグラム博士によって逞しく育てられた。その真っ直ぐ過ぎる気概が、何よりも明るい未来を感じさせてくれる。まだ若いのに、私は君のそんな心意気に敬意すら覚えるほどだよ。軍人としては少々人が良過ぎるけどね」
シュレーディンガーはそう言って、ジュール達三人を見回した。いつからだろうか、そこにはシュレーディンガーから発せられる強い重圧の様なものが溢れている。人としての器の大きさが表面化されているのかも知れない。そしてジュール達はそんなシュレーディンガーからの意も知れぬ圧迫感に息を飲みながら立ち尽くしていた。きっと彼らはここに来て、改めてシュレーディンガーという人間の大きさに目を見張っているのだろう。ただそんな彼らを嘲笑する様に、シュレーディンガーは口元を緩めて告げた。
「今日のところはホテルに帰って休みなさい。折り入っての話しは、また明日改めてとしよう。もう今日みたいな戯れ事はしないから、安心してアニェージと一緒に私のオフィスに来なさい。――ところで私の演技はどうだったかね? これでも若い頃は科学の道を進む傍らで、役者の道を志した事もあるのだよ。ハハッ」
どっと疲れた面持ちでホテルへと戻ったジュール達三人は、その1階ロビーにある大きめなソファに腰を下ろしていた。目的としていたシュレーディンガーに顔を会わせ、とりあえずは胸を撫で下ろす安心感に包まれている。しかしそれが逆に彼らの体と気持ちを酷く疲弊させたものへと誘っていた。
長い一日がやっと終わった。そんな虚脱感に苛まれたジュール達は、空腹を通り越して猛烈な睡魔に襲われる。無理はない。戦場と比較しても遜色ないほどに、今日一日彼らは働き続けたのだ。だが悲しくもそんな三人に平穏が訪れる事はなかった。なぜなら彼らに対して意味深な視線を送る成人男性の姿がそこにあったからだ。
不敵な笑みを浮かべてジュール達を見つめる一人の男性。そう、それはジュール達が最も警戒しなければならないはずの、トーマス王子の姿であった。




