#53 馬酔木盛る夕刻の邂逅(二)
「畜生めがっ!」
ジュールは悲嘆を口にする。まるでこの世の終わりが訪れたかの様に、彼の心境は絶望感で一杯になったのだ。遺憾にも男を取り逃がしたジュールは、悔しさを露わに唇を強く噛みしめる。しかしそんなジュールの視線の先で、思いもよらぬ事態が発生した。逃げ去ったはずのスリ男が、なんと後ろ向きに地下から階段を昇って来たのだ。
「!?」
ジュールは意図が掴めないまま男の後ろ姿を見つめている。一体何が起きたというのか。ただジュールはスリ男の不自然な行動理由を直ぐに把握した。ゆっくりとした動作で後ろ向きに進む男の正面。そこには先回りをしていたリュザックの姿があり、彼は男に小銃を狙い構えていたのだ。
「リュザックさん!」
「話しは後だき。とりあえずこいつを捕まえるがよ」
成す術無く膝をついた男の肩をヘルムホルツが抑え込む。そしてマイヤーが男のワイヤーを利用して後ろ手に腕を縛り上げた。
「チンケなスリ野郎ごときに銃を向けるなんて不本意だけんど、仕方ないきね。でもこれで簡単には逃げられないだろうがよ」
「ハハッ、自分のワイヤーで縛られてりゃ世話無いな。それにしてもリュザックさん、よく地下鉄に先回りしてましたね!」
ジュールは目を丸くしながらリュザックに聞き尋ねる。予想だにしない先輩隊士の先読みした行動に彼は純粋に驚いていたのだ。そんな彼に向かいリュザックは煩わしそうにしながら視線を逸らした。全力で駆けた疲労で口を開くのも面倒なのであろう。それでも彼は数ブロック離れた交差点の方向を指差すと、ジュールに向かって説明した。
「こいつが大渋滞を引き起こした交差点が、ちょうどここから3ブロック離れた場所だきよ。俺はその交差点で地下鉄入り口の案内表示を見つけちゅうたから、お前達にこいつを左に追い込むよう指示したんじゃき。恐らく土地勘のあるスリ男なら、地下鉄に逃げ込むんじゃないかって思ったからの」
男に反抗の意志が無いことを確認したリュザックは、ジャケットに隠したホルスターに小銃を仕舞った。腕を縛り上げられた挙句、只ならぬ動きを見せたジュール達4人にスリ男は囲まれたのである。目を見張るほどの身体能力を発揮した男も、さすがにこれでは観念するしかないのであろう。そんな男の姿を目の当たりにして達成感でも感じたのか、笑顔を浮かべたヘルムホルツが皆に言った。
「リュザックさんの洞察力が見事だったのは確かだけどさ、こいつがここに逃げ込んだのは幸運だったと思うよ。狭い裏路地に逃げ込むことも出来たはずだからね。もしかしたら女神様の思し召しかもしれないぜ」
そう告げた彼は交差点の一角にある緑色をしたビルに向け指を差した。ジュール達はそれに促されながら視線を向ける。するとそこには先程見かけたものと同じで、女神の姿を描いた巨大な広告が展示されていた。
「なんだきよ、ここも映画館なんじゃきか?」
「いや、確かここはアパレルメーカーのオフィスビルだったはずだよ。たぶん映画のスポンサーになってるんじゃないのかな。下の方にブランドの名前が入っているからね」
マイヤーは男の腕を縛った細いワイヤーの先を握りながら女神を見つめている。ジュールはそんな彼と同じく女神に視線を向け続けていた。
女神は意志の強い眼差しで少し遠くを眺めている。その凛とした姿はとても頼もしいものであり、見ているだけで勇気が湧いて来るほどだ。ただ先に見かけた女神は哀しげな面持ちで視線を落とすものであった。それぞれ映画のワンシーンを描写したものなのだろうが、同じ女神なのにこれほどまでに受ける印象が異なるものなのか。そう思うジュールは少し複雑な心境に包まれていた。姿は同じであるはずなのに、まったくの別人に思えて仕方ない。ジュールは不安に似た妙な違和感を覚え人知れずに身震いする。ただそんな彼の胸の内を知らないヘルムホルツは、取り返したブリーフケースを素っ気なく彼に差し出した。
「今度は取られるんじゃねぇぞ、ジュール。それにしてもやっぱり何かあるのかなぁ。スリに遭ったのも、取り戻したのも女神の前だったなんて偶然過ぎるだろ」
「女神の試練にしちゃ性質が悪いな。でも大事に至らなくて一安心だぜ。ところでこのスリはどうするよ? 警察に突き出すにしても、それじゃ指定時刻に間に合わなくなっちまう」
ジュールは嘆くように苦言を呈した。するとそんな彼に向かいマイヤーが落ち着いた態度でその後の対応を示唆した。
「こいつは俺一人で最寄りの警察部隊の詰め所に連行するよ。だからジュール達は急いで指定されたビルに向かってくれ。三時まであと15分だ。休んでいる暇は無いぞ」
「でもお前一人で大丈夫か? こいつの身のこなしは尋常じゃなかったんだ。また逃げられるかもしれないぜ」
「これだけ強く両腕を縛り上げているんだ。いくらこいつの動きが凄くても、簡単には逃げられないさ。それにもう手加減するつもりもないしね」
そう告げたマイヤーは、ジャケットの内側に隠し持った小銃をジュールにそっと見せた。まったく用意周到な奴だ。ジュールは言葉無く頷きながらマイヤーの提案を受け入れる。狙撃の名手である彼が銃を抜いたならば、スリ男など一溜りもないのは明白なのだ。マイヤーに男の連行を一任させたジュールは、ヘルムホルツとリュザックに向き直ると急かす様に出発を促した。
「さぁ行こう。マイヤーの言う通り、もう時間がないぞ!」
「ちょっと待つがよジュール。案内役のマイヤーがおらんきかったら場所が分からんぜよ。ただでさえグリーヴスの土地勘無いっちゅうに、散々走り回されてここが何処かも分からんがよな」
疲労感を表に出しながらリュザックが愚痴を溢す。確かに彼の言う通り、マイヤーが居なければ目的地にたどり着くことは出来ないのだ。勢いよく皆を促したジュールは、改めて思い悩む様に口を尖らせた。そしてヘルムホルツもお手上げだと言ったふうに茫然としている。ただそんな彼らに対し、マイヤーは心配無用と言い放ち真っ直ぐに腕を伸ばした。彼が腕を突き出し指示した先。そこには一際高くそびえ立った黒塗りのビルが一棟あり、マイヤーはそのビルこそが目的地であると皆に告げたのだった。
「こいつを追い回して通り過ぎちまったけど、あの黒いビルがアニェージさんの指定した場所なんだよ。この道を2ブロック戻って、そこを左に曲がればあの黒いビルだから、もう俺の案内は必要無いだろ」
そう言い放ったマイヤーは、スリ男を引き連れて警察に向かい歩き出す。ジュール達はそんな彼の後ろ姿を少しだけ見送っていたが、迫る指定時刻に間に合うよう気分を変えて、シュレーディンガーの待つビルへと歩み出した。
黒いビルは2ブロック先を左折して、もう1ブロック進んだ場所だ。時間に余裕が無いといっても走るほどの距離ではない。それでもジュール達は目前に天高く矛先を向けるビルを垣間見ながら少し早足で進む。
『午後三時に指定したビルの屋上に来い』
それがアニェージからの指示であり、また彼女はくれぐれも時間を厳守するよう強く注意を促していた。
敏腕経営者であるシュレーディンガーは時間に厳しいのであろう。それに分刻みで仕事を進めるビジネスマンとは大概そんなものだ。ジュールはまだ見ぬシュレーディンガーの事を考えながら、肩を並べて歩むリュザックに向かい話しかけた。
「それにしてもリュザックさん。どうして銃なんか用意してたんですか? マイヤーの奴もそうだけど、随分と準備が良いですね」
「ふぅ~、お前は単純な奴だきな。アニェージちゃんは私服で来いって言っちょったけんど、丸腰で来いとは言っちょらんきね。屁理屈かもしれんけんど、俺達はヤバい仕事に首を突っ込んどるんだが。護身用に銃の一つでも用意しとかんと、咄嗟の状況に対処出来んきよ。その点マイヤーはよう分かっちょるがね。これから先はバカ正直じゃぁ生きて行けんき、よう覚えておくこっちゃな」
リュザックは自分の行動を正当化しながらジュールを戒める。ただ彼の言う事はこじ付けがましく自分都合に解釈した詭弁にしか過ぎない。ジュールは胸の内でそう思い閉口した。だがそれとは真逆にリュザックのズル賢くも巧みな論点のすり替えに唸る気持ちも理解出来る。卑しくも彼のその悪知恵のお蔭でスリを捕える事が出来たのだ。それにきっとこれから先の戦いにおいても、そういった卑劣とも呼べる下賤な駆け引きが重要になるのだろう。真正面から挑むことを得意とするジュールにしてみれば、それは最も困難な行為であるかも知れない。でもそういった後ろ汚い考えを巧みに利用しなければ、乗り越えられない壁に立ち塞がれてしまうはずなのだ。気持ち良く納得する事は出来ないが、それでもジュールはリュザックの言葉を前向きに捉えようと努めた。そして黒いビルの正面入り口に到着した彼は、静かに開いた自動ドアを一番にくぐり1階フロアへと足を踏み入れて行った。
黒いビルは数多くの企業がオフィスを構えるテナントタイプのビルであるようだ。各階を案内する明示版には幾多の企業名が併記されている。ただそれらの企業全てがシュレーディンガーの統べる会社であることは間違いないはずだ。ジュールはそう直感しながらエレベータの乗り口へと向かった。
エレベータの乗り口に設置された表示パネルに視線を向けたジュールは、最上階が80階であることに気がつく。ならば屋上はその上の81階相当の場所だ。現在の時刻は2時55分。エレベータを使用したとしても、あと五分で到着できるであろうか。僅かに不安を覚えながらジュールはエレベータの作動ボタンを押した。
「ん?」
ボタンを押した指先にジュールはなぜか違和感を覚える。何かがおかしい。でもそれが何なのか分からない。ジュールは奇妙な感覚に咽る様な息苦しさを覚えて立ち尽くす。するとそんな彼に対してヘルムホルツが不思議な事を口走った。
「おいジュール、何してんだよ。早くエレベータを呼べよ」
「はぁ? お前こそ何言ってるんだよ。俺はさっきからこうしてボタンを――」
そこまで言ったジュールは気付いた。強く押し込んだはずのボタンに反応が無いのだ。通常であれば押されたエレベータの作動ボタンは、内部に組み込まれた小型のライトが点灯し光が灯るはずである。しかしジュールの押したボタンは光るどころか何の反応も示さない。一体どういう事なのか。気後れするジュールとヘルムホルツは状況を掴めないでいる。ただ彼らよりも逸早く事態を推測したリュザックは、1階ロビーにある全てのエレベータの作動ボタンを押して回った。しかしその表情はボタンを押すほどに愕然としたものへと変化していく。そして彼は最後のボタンを押すと、力無く吐き捨てたのだった。
「バカげてるき。全部のエレベータが動かんぜよ、意味分からんがね」
「そ、そんな……」
リュザックの落胆ぶりを垣間見たジュールはようやく状況を飲み込む。全てのエレベータが、何かしらのアクシデントで作動不能な状態に陥っているのだという事を。しかしその現実を受け止めたジュールの次の行動に迷いは無かった。
エレベータの不具合を悔やんでいても始まらないし、力抜けして立ち止まればそこでお仕舞なのだ。でも現実を忘れてはならない。現時点ではまだ、指定時刻の3時になっていないのだ。ジュールはブリーフケースをヘルムホルツに投げ渡すと、上階に通じる階段に向かって猛然と駆け出した。そんな彼にたまらずヘルムホルツが叫ぶ。
「お前、まさか階段で屋上まで行くつもりか!」
「こんなところで諦めてたまるかよ! 悪いが先に行かせてもらうぞ!」
「けんどお前一人で行ってどうするきね!」
「アニェージは全員で屋上に来いとは言ってなかったぜ!」
そこまで叫んだジュールの姿はもう見えなくなっていた。さらに上階に駆け上がってゆく彼の足音もどんどんと小さくなっていく。
「あの体力バカが。スリ男を追い回して疲れとるっちゅうのに、よくもまぁ走れるもんだが」
「それでも可能性が残っているなら行くしかないでしょ。そしてそれは俺達にも言える事ですよ、リュザックさん」
「ケッ、分かってるきよ。おしゃべりはここまでだがね。でもジュールの奴、思いのほか学習能力があるようだきな。一丁前に屁理屈なんぞこきやがってからに」
苦言を吐き捨てながらもリュザックは口元を緩めてる。出し抜けにも都合の良い解釈を主張した後輩隊士の姿を頼もしく思ったのであろう。そして彼はヘルムホルツと共に、重い腰を持ち上げてジュールの後を追い駆け出した。
僅か一分足らずの時間にジュールはビルの半分である40階に到達していた。一秒に一階を超える速さでビルを駆け上っているのである。そのスピードの凄まじさたるや、常人の域を超越した力とも言えよう。しかしそんな神掛かった力を発揮する彼にも限界が迫る。ただでさえ全力で駆けて苦しく辛いというのに、さらに彼は重力という枷に反発しなければならなかったのだ。スリ男を追い駆け市街地を走り回った疲労も極限に達している。それでもジュールは無我夢中で階段を駆け上がった。
全身の血液が足に溜まっているかのようだ。浮腫みきった足は鈍痛を伴い、鉛みたいに重く感じる。それでもジュールは懸命に前へと足を動かした。ただそんな中で彼は思う。自分は今何階にいるのであろうかと。そしてあと何階昇れば屋上へと辿り着けるのであろうかと。朦朧とする意識の中で、彼はただ上へ上へと気持ちを向ける。そんな極限状態のジュールは、いつしか獣の様な四つん這いの体勢で階段を昇っていた。
両腕で階段を掴み体を無理やり引き上げ、同時に両足で踊り場を強く蹴り上げる。時折勢い余って壁や手すりに激しく激突するも、構うことなく突き進む。そんな動作を繰り返すジュールは、一時緩めたスピードを再び加速させていた。そしてそのスピードは俄かに信じ難くも、1階ロビーを駆け出したスタート時よりも早いものになっていた。
まるで牙を剥き出しにした大型の狼が階段を駆け上って行くかの様だ。ジュールの体は唸りを上げて加速してゆく。そしてついに彼は全ての階段を昇り切った。ただジュールは勢いのついた体を止めることが出来ず、そのままのスピードで行く手を阻む扉に激突してしまったのだ。
「ズガン!」
強い太陽の陽差によって視界が白く霞む。ジュールは激しく呼吸を乱しながら、大の字で空を見上げていた。冷たい風が吹き抜けてゆく。熱く火照った体を冷やすのには良い頃合いだ。心臓が爆発するほどに鼓動を早め、また胸が張り裂けるほどに呼吸が苦しかったが、それでも彼は屋上まで駆け上がった達成感に浸り心地良さを覚えていた。ただ重要な問題はそこではない。指定時刻の三時は過ぎてしまったのか――。ジュールはポケットに仕舞い込んでいた携帯端末を取り出すと、タッチパネル式の液晶画面に指をかざし現在時刻を表示させた。
「ま、間に合ったのか」
時刻は2時59分48秒であった。再び大の字になり大きく呼吸を繰り返すジュール。しかしその表情は息の詰まる疲労感よりも、歓喜に似た満足感で一杯だった。諦めなければ何とかなるもんだな。ジュールはそう思いながら胸の中でガッツポーズを決めた。するとそんな彼の視界を突然影が覆う。それが人影であると瞬時に察した彼は、重い体を無理やり起こし身構えた。ただジュールはその人影の正体を目の当たりにして一驚する。彼がそこで目にしたのは意外な人物であり、思わず彼は驚嘆の声を漏らしてしまった。
「ど、どうして二人がここに居るんだよ?」
ジュールの前に突如として現れた人影の正体。それは1階ロビーで置き去りにしたはずのリュザックとヘルムホルツの姿だったのだ。
「おう、ジュール。お疲れだったきね」
「よく間に合ったなジュール。やっぱりお前は凄い奴だよ」
リュザックとヘルムホルツは感心した表情でジュールを労う。二人は5分と掛からずに81階相当を上り詰めたジュールの事を、本心から凄いと敬したのであろう。ただそんな二人に対してジュールは呆気に取られている。どうして彼らが屋上に居るのか。意味が分からず状況を呑込めない。まるで悪い夢でも見ているかの様だ。そんなジュールの姿を少し滑稽に感じたのであろうか。薄ら笑ったヘルムホルツが屋上に至る経緯を簡単に説明した。
「お前の後を追い駆けて階段を上ったんだけど、5階のあたりでリュザックさんが気付いたんだよ。エレベータが動いてるってね。たまたまオフィスに務める人がエレベータから降りて来てさ。俺達はそれに飛び乗って、一気に最上階まで昇ったんだよ。どうやらエレベータが故障していたのは、1階ロビーだけだったみたいなんだ」
「そ、そうだったのか……。でもそれじゃ、俺は無駄な体力を使っただけだったのかよ、クソっ」
ジュールは意外な事実を知って悔しさを吐き捨てる。もっと視野を広く保っていられたなら、バカみたいに階段を上らなくて済んだものを。彼はそう自身に嘆いていたのだ。だがそれに対してヘルムホルツは優しく労う。
「そうでもないさ。結果的に俺達のほうが先に到着できたけど、たまたま運良く80階までエレベータが一度も止まらなかったから着けたんだ。俺達が屋上に着いたのはお前とほとんど差が無いギリギリの時間だったし、階段という選択はむしろ正しい判断だったと俺は思うぜ」
ヘルムホルツはそう言って腰を落とすジュールに腕を差し出した。その腕を掴んだジュールは、どっと力抜けしながらも皮肉に口元を緩めながら立ち上がる。もう少し周囲に気を配っていれば、階段とエレベータを効率よく利用して屋上まで来れたはずなのだ。そうすれば死ぬほどにも体力を消費しなくて済んだはずなのだから。しかしそれは結果論であり、階段を駆け上がる事に集中しきっていた彼にしてみれば、それは不可能であったに相違ない。全力を出し切った事への充足感はあるものの、不器用な自分自身の至らなさに呆れる思いがしたジュールは、一人苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。ただそんな彼に向かってリュザックが真面目に口を開く。そう、すでに約束の時間は過ぎているのに、屋上には何の変化も起きていないのだ。
「時間厳守って言っちょった割には、先方殿は時間にルーズじゃきな。ジュール程じゃないにせよ、俺達だって疲れとるがよ。せめてソファにでも座って待ちたいきね」
苦言を吐き捨てるリュザックに同調する様、ジュールも同じく殺風景な屋上の雰囲気に首を傾げた。彼らのいる屋上はヘリポートを兼ねているせいか、ただ広いばかりで何もない。それだけに状況に変化が生じればすぐに分かるはずなのだ。
「確かに何か変だな。こんな場所で込み入った話をするのも違和感あるし、それにシュレーディンガーどころかアニェージすら現れない。見た感じヘリで登場する気配もないし、まったくどうなってんだよ」
ジュール達は高層ビルの乱立するグリーヴスの中でも一際高い、黒いビルの屋上で待ちぼうけする形となった。駆け抜ける冷たい風は、汗の引いた体からこの上なく体温を奪い去ってゆく。遮る物が何も無いため、身を隠すことが出来ないのだ。そんな状況の中でもう三十分は過ぎたであろうか。未だに変化の無い屋上で、ジュールはやり場のない感情を高振らせる。彼はアニェージに確認の電話を数度掛けていたが、まったく連絡を繋ぐ事が出来ずにいた。それでもジュール達には待つ事しか出来ず、リュザックの催促で再度彼はアニェージに向けて通信を試みようと端末を手に取った。するとその時、
「ブーン、ブーン」
ジュールの手にする携帯端末がバイブレーションを発した。ギョッと驚きながらも彼は着信相手を確かめる。端末の画面に表示された名前は他ならない、アニェージであった。
「もしもし、アニェージか。一体どうしたって言うんだ。俺達は指定された場所に時間通りに着いてるんだぞ!」
ジュールは痺れを切らせる様に強く詰め寄った。疲労が溜まっていることで、怒りを抑えきれなかったのだろう。ただそんな彼に対してアニェージは、いつもと変わらずの口調で語り出す。彼女にしてみれば、屋上に至るまでのジュール達の苦労を知らないのだから当然なことであった。
「なにをそんなに腹を立てているんだジュール。待たせたのは済まないけど、そこまで怒ることはないだろ。こっちにも事情があるんだからさ」
「何だよ、そっちの事情って? 寒い中待ってるんだからさ、早くしてくれないかな」
「悪い悪い。実は三時ちょっと前の事なんだけど、シュレーディンガー社長の姿が消えちゃったんだよ。それで今まで社長を探していたんだけどさ、お前達に宛てた変な置手紙を見つけたんだ」
「俺達に向けられた手紙?」
「あぁ。手紙と呼ぶには少し変わった内容なんだけど、とりあえず書いてある事を伝えるよ」
そしてアニェージは手紙に書かれている内容を読み上げた。
『女神の見つめる先の、朱色の車輪に行き先を示す。制限時間は4時までだ』
一体何の事だかさっぱり分からないジュール達は苦境に陥る。意味不明な置手紙を残して姿を消したシュレーディンガーの目的は理解不能だ。超一流の起業家は、風変わりな性格でもしているのであろうか。先行きを見失った現状に、屋上は重い空気に包まれてゆく。そんな中でリュザックが突然行動を起こす。手紙に示された内容に心当たりでも感じたのであろうか。彼は転落防止の鉄柵に掴まりながら、屋上から身を乗り出して下を眺めた。
「どうかしたんですかリュザックさん」
「あそこを見るき」
そう言ってリュザックが指差した先。そこには先程スリ男を取り押さえた地下鉄出入り口のある交差点が見えていた。
「スリ男を捕まえた場所ですか。あそこに何か変わった所があるんですか?」
「そうじゃないき。俺が指してるのはその上に飾られてるモンぜよ」
そう指摘されたジュールはハッと目を見開く。そう、リュザックが指差して指示したのは、交差点の一角にある緑色のビルの壁に展示された巨大な女神の姿だったのだ。そしてそこに描かれた女神は、意志の強い視線で遠くの何処かを見据えている。まさにそれはシュレーディンガーの置手紙に記された内容と酷似した姿だったのだ。
「おいアニェージ。それ以外には手紙に何か書かれてないのか?」
「あぁ。ここに書かれているのはそれだけだよ」
「そうか、分かったよ。また何かあったら連絡してくれ」
ジュールは早口でアニェージにそう告げると端末の通信を切った。そしてリュザックとヘルムホルツの表情を確かめると、女神の展示された交差点に戻ることを促した。
「たぶんリュザックさんの推理は当たってるはずだ。とりあえず交差点に戻ってみよう。それにまたタイムリミットを設けられちまった。試されているのか、悪ふざけなのかは分からないけど、でも今の俺達には考えられる事をやるしかない!」
やれやれと溜息を吐き出すも、リュザックとヘルムホルツはジュールに従うよう頷いた。彼らにしてみても、現状を打開するにはジュールの意見の他にないと理解しているのだ。疲れ果てた体に鞭を打ち、再度交差点を目指して重い足を前へと踏み出す三人。そして先頭を進むジュールは屋上から出発しようと扉のノブに手を掛けた。――だがそこで意図せぬ事態が発生する。
「ガチャガチャッ!」
なんと扉がロックされていたのだ。ジュールは渾身の力を込めてドアノブを捻る。しかし固く閉ざされた扉はビクともしない。
「クソっ、どうしてこんな事に!」
「いや待てジュール。これを見ろ!」
強引に扉を開こうと足掻くジュールを制止させ、ヘルムホルツが口走る。彼は扉の脇に設置された液晶パネルを見つけたのだ。そしてそこには怪しくも意味深な一つの問題が、無機質なドット文字で表示されていた。
『世界で最も有名な無理数を規則的な有理数の式で現した時、その4番目の分母になる値はいくつであるか?』
液晶パネルに表示された問題に視線を向けるジュール達。しかしその意味不明な問題に一行は頭を捻るばかりであった。そして一際焦りを感じるジュールは声を荒げて吐き捨てる。
「指示された制限時間まであと30分を切っている。早く扉を開けないと間に合わないぞ。どうにかならないのか」
ジュールに同調しながらリュザックも頷いている。ただそんな二人をよそに、ヘルムホルツはポケットから手帳を取出して、そこに何かを書き出した。
「何か分かったのか、ヘルムホルツ」
「ちょっと待て。今計算している」
ヘルムホルツは手帳に書き進める手を止めぬまま、有無を言わさぬようジュールを諭す。そして直ぐに彼は一つの式を導き出した。
「無理数っていうのは、どこまでも割り切れない数字の事だ。そして世界で最も有名な無理数とは、間違いなく円周率である【π】のはず。有理数っていうのは、簡単に言ってしまえば無理数とは逆に整数で現す事の出来る数字を意味している。だからπを式で現せば、その答えは導き出せるはずなんだよ。結果として4番目の分母が何かって聞いているんだしね」
そう告げたヘルムホルツは、自身が記した手帳をジュールとリュザックに差し向ける。そこには一つの式が記されていた。
π=4(1/1―1/3+1/5―1/7+1/9……)
数学の知識に乏しいジュールが一目したとて、そこに何かしらの規則性が隠されているのだと直感として感じ取ることが出来る。そしてその理由をヘルムホルツは簡素に説明しながら、液晶パネルに向かい指先を延ばした。
「パッと見て分かる様に、カッコ内の分数には一つの法則が組み込まれている。それは分母が奇数として順序良く連なっているって事だ。そしてさらにこの分数は、今のところ終わりの無い無限と呼べるものなんだ。まぁ数学者に言わせれば、これは規則性のある美しい有理数の式なんだって事なんだろうね。でも今の俺達には、そんな理屈はどうでも良い事だ。必要なのは4番目の分母の値。それはこの式から読み取ると、答えは当然【7】になる」
パネル内に表示されたテンキーの7の数字に指先を向けると、ヘルムホルツはそれを躊躇うことなく押し込んだ。そして続け様にエンターキーを押す。すると閉ざされていた扉のロックが解除される音が鳴った。
「ガチャ」
タイムリミットを設けられた中、それでもさほど時間を掛けずに扉を開けた事にジュールは安堵の表情を浮かる。そして彼は問題を解いたヘルムホルツを素直に褒めた。
「さすがだなヘルムホルツ。城の庭園の時と一緒で、こういった時に頭脳明晰なお前が居ると助かるよ」
「バカ。お世辞はいいから早く行け! まだこの先にも何かしらの課題があるはずなんだ。悠長にしている時間はないぞ」
ヘルムホルツの叱咤にジュールは舌を出しながら前を向いた。確かにそうだ。俺達はまだ、シュレーディンガーの置手紙に書かれていた意味不明な言葉の意味すら把握していない。こんな場所で安心している暇なんて、一秒もないんだ。
勢いよく扉を開いたジュールは、そのまま一気に階段を駆け下りようとする。しかしそんな彼に向かってリュザックが強く制止を促した。
「ちょい待つきジュール! 俺が乗って来たエレベータがまだ下に戻っていなければ、それに乗ったほうが早いきよ」
その言葉にハッとしたジュールは、学習能力の無い自分に気恥ずかしさを覚えて頭を掻いた。そしてリュザックを先頭にして三人は急ぎエレベータの昇降口まで進んだ。
運が良い事に、エレベータはまだ最上階に残っていた。またさらに三人を乗せたエレベータは、一度も止まる事なく1階まで進んでくれた。
黒いビルを掛け足で飛び出したジュール達は、そのままの勢いでスリを取り押さえた地下鉄の入り口を目指す。たださすがにこれまでに蓄積された疲労で体が重い。特に屋上まで階段で上りつめたジュールの疲労感はハンパ無いはずだ。それでも皆は泣き言を吐き捨てる事も無く、今出せる全力で足を前へと駆り立てたのだった。
緑色をしたビルの前に立つジュール達。その視線の先には、意志の強い眼差しで遠くの何処かを見据えている女神の姿があった。でも女神はどこを見ているというのだろうか。ジュール達は自然と女神の差し向ける視線の先へと意識を向ける。しかしその先に何か意味のありそうな場所は見当たらない。ジュールは痺れを切らせそうになるも、その気持ちを必死に抑えつけながらヘルムホルツに問い掛けた。
「置手紙には何て書いてあったんだっけ?」
「確かアニェージは『女神の見つめる先の、朱色の車輪に行き先を示す』って言ってたはずだ」
「じゃぁ、その女神がこの大きな広告を指し示しているんだとして、その先にある【朱色の車輪】ってなんの事だよ?」
「俺に聞かれたって知らねぇよ。でも指示された言葉通りに受け止めるとするなら、この女神の見つめる先に何か手掛かりがあるんじゃないのか」
「話しはそのへんにするがよ。とりあえずこの周囲には何もないっちゅうのは分かったき。だったら女神の見つめる先に進むしかないがよな。行くしかないぜよ」
状況を飲み込めないままに、リュザックは歩き出す。この場に留まった所で何も進展しないことを彼は察したのだ。そしてそれに促されるままジュール達も付き従う。しかし指定されたタイムリミットは刻一刻と過ぎ去って行く。もう彼らに残された時間は20分を切っているのだ。果たして時間までに間に合うのだろうか。
周囲を入念に観察しながら三人は進む。だが焦燥感に煽られるジュールは気持ちを荒立たせる事しか出来ない。早く状況を打開しなければ。そう気持ちを急かす彼の胸の内は穏やかであるはずがない。しかしそんな彼は、遥か前方にある何かを見つけ走り出した。
「どうしたジュール、気になる物でも見つけたのか!」
慌ててヘルムホルツ達がその後を追う。そして女神の広告があった場所より3ブロック進んだ先でジュールは足を止めた。
「朱色の車輪て、まさかこいつか?」
ジュールが立ち止まった場所。そこは交差点の一角であり、そこに建つビルは大きな中古車販売所であった。10階建ての階層全てに、売り物であろう自動車が詰め込まれている。有に数百台の車が展示販売されているのだろう。そんな中で、1階に置かれていた車にジュールは視線を向けた。その車は真っ赤なスポーツカーであり、また希少にも足元を飾るホイールまでもが赤く色付いていたのだ。
交差点を急ぎ渡ったジュールは、そのスポーツカーへと近づいて行く。ただ平日の暇な時間とあってか、その周辺に人の気配は感じられない。店の者に無断で車を観察するのはどうかと少々気が引けたが、それでも彼は構わずに車の外観を入念に調べた。しかし特に変わった部分は見つけられない。だがそんな時だ。その場に追いついたリュザックが、徐に声を上げたのだった。
「こいつを見るき!」
リュザックは車内を指差してジュールに告げる。彼はその指示に従いながら車内の運転席付近を覗き込んだ。するとそこには1枚の紙が貼り付けられており、そこにはこう記されていたのだ。
『車の進行方向に3ブロック進め』
それを読んだリュザックは、溜息まじりに吐き捨てる。
「一体何がしたいんだが。悪ふざけも大概にしてほしいぜよ」
「それでも行くしかないでしょう。車の向きからして、こっちに3ブロック行けば良いんですよね」
ジュールはそう言い切らぬうちに走り出す。指定された時間まではもう10分少々しかない。明らかに時間がないのだ。それに車内に置かれた紙の示す場所が、ゴールだなんてとても思えない。
ただあまりにも疲弊しきったリュザックは弱音を呟く。さすがに軍で鍛えられた彼の肉体とて、ここまで走らされると厳しいものがあるのだろう。ただ洞察力の優れた彼は機転を利かせる。3ブロック先に行けという明確な指示があるのならば、あえてそこに自分の足で向かう必要はないのだと考えたのだ。そして彼は流しのタクシーを捕まえる為、車道脇に進み手を上げた。だがその時、血相を変えたヘルムホルツが彼を呼び止める。
「ちょっと待ってくれリュザックさん。あんた今、財布持ってるか?」
なにを馬鹿な話しをしているんだと、リュザックはヘルムホルツをキツく睨み付ける。もちろん財布は自分のズボンのポケットにしまってあるはず――。
その瞬間、リュザックは青冷めた。そう、彼はポケットに仕舞い込んであったはずの財布が、忽然と消え失せている事に気が付いたのだ。
「信じられんき。まさかどこかで落としたっちゅうんかい。でもケチな俺が自分の財布を失くすなんぞ、考えられんきね」
「たぶんあのスリだよ。俺の財布も無くなってるんだ。俺もリュザックさんと一緒でタクシーに乗ろうと考えたんだけど、そしたら財布が無い事に気が付いたんだ。だからこうしてバカみたいに走って来たんだよ」
「かぁ~! そんならこの先も走らんといかんのかいな。クソったれが。もう時間が無いがかよ」
気持ちが折れる寸前のところで、それでもリュザックとヘルムホルツは走り出す。こうなったら残された手段は自分の足で駆けるしかないのだ。それでも収まりの付かないリュザックは憤りを露わに強く叫ぶ。諦めて走るしかない状況を理解しながらも、彼にしてみれば腹に据え兼ねた怒りをどこかへぶちまけたかったのだ。
「あの財布にいくら入れといたと思ってるんだがよ。あとでシュレーディンガーに請求してやるきね!」