#52 馬酔木盛る夕刻の邂逅(一)
時刻は午後二時半を少し過ぎた頃だ。多くの人々が行き交う市街地の歩道を、私服姿のジュール達一行は悠々と進む。ホテルを出発した彼らは、シュレーディンガーのオフィスビルを徒歩で目指していたのだ。天を覆うほどに建ち並ぶグリーヴスの高層ビルに時折目を奪われもしたが、それでも彼らは川沿いに走る幅広な歩道を直進して行く。王子の警護の合間を見計らっての行動なのだ。迅速かつ的確に事を遂行しなければならない。
土地勘のあるマイヤーを先頭にして、ブリーフケースを手にしたジュールが次に続く。そしてその後をヘルムホルツとリュザックが追った。ただ一行の中にアニェージの姿が無い。彼女は一人昼前に出立し、先にシュレーディンガーのもとへと向かっていたのだ。そしてつい先頃、彼女から指定するビルに来るよう連絡があったのだった。
すでに王子の二日目の折衝は開始されている。昨日実施された一日目の会談は顔合わせ的な意味合いが強く、さほど話は進まなかったらしい。だが今日からは激しい論戦が繰り広げられるのであろう。ジュールは歩きながらも昨晩の王子の態度を思い出して煩わしそうに小言を口走った。
「それにしても昨夜の王子の饒舌ぶりは凄まじかったな。酒の入った影響も大きかったんだろうけど、留まる事を知らずによくもまぁ、人の悪口が出てくるもんだよ。いくら相手の西国人が気に入らないからって、あれじゃ相手の方が傷まし過ぎて可哀想に思えてくるぜ」
ジュールは疲労感を漂わせている。それほどまでに昨晩の王子は機嫌が良くなかったのであろうか。その場に居合わせなかったマイヤーは、彼を労いながらも昨夜の出来事を聞き尋ねた。
「ご苦労だったみたいだな。その表情からして、相当な目にあった事は推察できるよ。それもかなり遅い時間まで王子に付き合ったんだろ? でもそんな遅くまで何してたんだよ」
「へっ、別に何もしちゃいないさ。俺達はただ王子の悪態をひたすら聞かされていただけだよ。それも明け方までね。こっちは前の日から徹夜ばりに仕事してるっていうのに、勘弁してほしいぜ」
ジュールは溜息混じりにマイヤーに返答した。寝不足の彼の目の下には薄らと隈が浮き上がっている。なにより彼は王子の無理やりな勧めにより飲まされた酒の影響で、重度の二日酔いに襲われていたのだ。ただそんなジュールに向かい、ヘルムホルツが一言王子の擁護を告げる。
「まぁ、王子の今回の交渉相手はかなりの切れ者みたいだからな。会談の本番を前にガス抜きがしたかったんじゃないのかな。折衝時は忍耐強く冷静でいなければいけないからね。少し理不尽に感じるところもあるけどさ、王子が気持ち良く仕事を進められる様に俺達は我慢して付き合うしかないだろ。これも仕事の内なんだから」
ヘルムホルツはそう言ってジュールの背中を強く叩いた。王子に付き従う仕事が想像以上に手厳しいものであるということは十分に理解出来ている。しかし一介の軍人が王族の警護に就くという光栄さに比べれば、それは我慢のし甲斐があるというものだ。初めて王子と身近に接するヘルムホルツはそう思っていたのだろう。ただ彼の顔色は気概のある言葉とは裏腹に青冷めていた。
「チェ、お前は良いよなヘルムホルツ。最初の一杯で潰れちまったんだからさ。俺やリュザックさんはその後何時間王子の愚痴につき合わされたと思ってるんだよ。体がデカい割に下戸で世話ねぇな、お前はさ!」
叩かれた背中を摩りながらジュールは吐き捨てた。体の怠さも相まってか、彼は憤りを露わにしている。そして彼同様にリュザックもまた、気疲れした表情を顔に出していた。ただ彼は苦言を呈するジュールとは異なり、違った視点で昨夜の事を語り出した。
「さすがに酒好きの俺でも昨日はキツかったきね。噂通りにグリーヴスの酒は旨かったけんど、王子と一緒じゃせっかくの銘酒も台無しだがよ。でもアニェージちゃんの見事な飲みっぷりには驚いたき。一番飲んだんは彼女なんじゃないがか? 増々惚れたきね。今度は是非とも王子抜きで飲みたいがよ」
リュザックは酒豪とも呼べるアニェージの勇ましい飲み姿を思い出しているのだろう。彼の嫌らしくニヤけた顔からは、卑猥な下心がはっきりと読み取れる。ただそれを差し引いたとしても、確かにアニェージの飲みっぷりは燦爛たるものであり、その姿にジュールも唸るほどに感心していた。
容姿こそ女性として美しいが、性格や仕草は並みの男が顔負けするほどの剛毅に満ち溢れている。本当は男なんじゃないのかと疑いたくなるほどだ。心の中でそう思ったジュールは、リュザックと同様に口元を緩めていた。そんな卑しげにほくそ笑む二人に向かい、マイヤーはふと思い出したように聞き尋ねる。冷静な彼は気持ちを仕事に切り替えて、平素な口ぶりで呟いたのだった。
「リュザックさんはボーアの反乱に参戦したはずですよね。それなのにグリーヴスは初めてなんですか? ジュールも含めてあの戦争に従事した隊士達は、ケガの治療や休息を取る為に何度も戦地とこの街を往復したはずですが――」
唐突なマイヤーの質問にリュザックは面倒臭そうに口を尖らす。ジュールほどではないが、彼も程良く二日酔いなのだ。女の話ならまだしも、仕事の話は受け付けたくないと思っているのだろう。ただそれでもリュザックは一応に答え返した。
「もともとトランザムはボーアの反乱に参戦するつもりは無かったきよ。戦争で軍事力が手薄になった首都を守るのが、俺達トランザムの仕事だったからの。けんど急きょストークス中将から支援要請が届いちゅうてな。仕方なくトランザムはルヴェリエから直接軍の輸送機でプトレマイオス遺跡に行ったでな。それが終戦の1ヶ月前の事じゃき。その後はストークス中将の鬼の命令に従って、休む暇なくパーシヴァル兵と戦ったんだきよ。だからグリーヴスには足を延ばしてないがね。何か文句あるがかよ」
そう言ってリュザックは鋭くマイヤーを睨んでいる。ボーアの反乱に参加した全ての隊士がこの街を訪れたわけではないし、例え従事した期間が短くとも命懸けの働きをした事は紛れの無い事実なのだと言っているかの様だ。ただそんな強い視線を浴びせられつつも、マイヤーは動じる事無く質問を続けた。
「ストークス中将の直接の指揮で戦闘行為を行ったというのなら、今日俺達の代わりにホテルの警護についている【ソルティス】の隊士達についてはご存じなのですか?」
「ん、ソルティス? 何だきよ、それは」
初耳の部隊名称にリュザックは目を丸くしてマイヤーに詰め寄った。ただマイヤーは一人考え込むよう顎を摩っている。なにか腑に落ちない問題でもあるのであろうか。するとリュザックに代わり、今度はヘルムホルツがマイヤーに対して問うた。
「ホテルを出る時から気になってたんだけどさ。あの東方軍の隊士達は何者なんだよ。それに彼らはストークス中将より勅命を受けて来たんだろ? なら彼らも俺達の目的を知っているって事なのかな?」
ヘルムホルツは用心深く探りを入れる。しかしマイヤーはそれに関して詳細を知る由も無く、首を横に振るばかりであった。
「済まないなヘルムホルツ。俺には彼らが何をどこまで知っているかは分からないよ。でも彼らが中将の息の掛かった特別な者達である事は確かなんだ。彼らはソルティスと呼ばれる東方軍の精鋭集団であり、ストークス中将の為なら命を平気で投げ捨てられる剛の者達なんだからね。でもだからと言って彼らが全てを知り得ているとは限らない。彼らは中将の指示に従うだけで、そこにどんな理由があろうとも気にはしないはずだからね」
「気にしないっていうのはどういう意味だよ。どんなに中将を信頼していても、人であるなら感情はあるはずだろ? 命を投げ打つ覚悟があるなら、尚更行動理由は明確にしてほしいはずなんじゃないのか」
「まぁ普通に考えればそうなんだけどさ。ただ彼らは少し変わってるんだよ。感情が欠落しているとでもいうのか、何を考えているのか掴めないっていうのか。とにかく不気味な奴らなんだ。でも今回はホテルの警護を代わっただけだし、お前が言うほどの明確な理由は必要ないだろ。少し考え過ぎなんじゃないのか」
「そうかも知れないけどさ。でもどこか気になるんだよな、あいつらの事が」
ヘルムホルツは訝しく表情を曇らせている。彼はストークス中将の命令で参じたソルティスと呼ばれる隊士達に釈然としない不信感を募らせているのだ。そしてそれに同調する様にジュールが話に割り込んだ。
「俺もあの隊士達からは奇妙な違和感を覚えるよ。駅で王子を出迎えた彼らに俺達は簡単に囲まれちまった。戦場慣れしてないヘルムホルツは別としても、俺やリュザックさんが易々と後ろを取られるなんて、今でも信じ難い事だよ。敵意の様な怖さはまったく感じなかったけど、それ以前に人としての気配をまるで感じなかった。相当な手練れなんだろうけど、どう訓練すればあんな身のこなしが出来るっていうんだ? ちょっと気持ちが悪いぜ」
ジュールはグリーヴス駅で垣間見たソルティス隊士の挙動を思い返し、渋い表情を浮かべた。するとそんな彼に対してマイヤーが意味深に呟く。どうやら東方軍に所属する彼にしてみても、ソルティスという部隊は謎めいた集団であるらしかったのだ。
「ソルティスが編成されたのはボーアの反乱が終結した後の事らしい。あの戦争で著しい戦果を上げた優秀なアダムズ軍隊士の中から、ストークス中将が選抜して結成した戦闘部隊。それがソルティスの表向きの結成要因さ。でも一つ引っ掛かる事があるんだよ」
「引っ掛かる事?」
「あぁ。俺は一度彼らの訓練する姿を見た事があるんだけど、それは凄いモンだったぜ。バトルスーツ無しの状態でも、目で追うのが困難なほどのスピードで身動きしてたし、パワーも並外れたものだった。特に剣技なんかはテスラも真っ青になるんじゃないかって思えるほどに、その太刀筋は鋭かったよ。でもさ、あれほどの猛者達なのに、俺は誰一人として知っている者がいないんだよね。ソルティスの隊士は総勢で三十人ほどと少数だけど、あれだけ戦闘能力が高い者達なら、戦場で噂くらい耳にしてもいいはずなんだ。トランザムはもとよりファラデー隊長やジュールですら、戦地じゃ鬼の様だと話題になったくらいだからね。単に俺が知らなかっただけなのかも知れないけど、でもすっきりと納得は出来ないんだよな」
マイヤーは覚束ない面持ちで不審さを露わにする。スナイパーとして後方より軍を支援する彼は、誰よりも多くの隊士達の戦う姿を見ていたはずなのだ。そんな彼の記憶に誰一人として残されていないソルティスの隊士達。一体彼らは何者なのであろうか。出し抜けに露わになった不明瞭な事案にジュール達は気を揉んだ。そしてその中でリュザックはさらに不可解な記憶を思い出す。ただそれでも彼は現状を前向きに考え、今成すべき行動を皆に促した。
「そう言えばソルティスの連中の一人に見覚えがある奴がおったきね。だけんど俺の知ってるそいつはマイヤーが言うほどに強くはなかったがよ。まぁ世の中には顔のそっくりな奴は案外いるモンだし、それに俺の知ってたそいつはボーアの反乱で再起不能な重傷を負ったはずじゃけんしね。終戦から一年足らずで体を完治させて、以前にも増して屈強になるなんて有り得ないがよな」
それぞれと視線を交わしながらリュザックは続ける。
「ソルティスが何者であるかは確かに気になるけんど、でもそれを詮索したところで今の俺達には意味無いきよ。今のところ奴らが俺達にとって害になるとは思えんしね。分かっちょるのはストークス中将が自分で集めた隊士達なのだという事だき。だったら俺達はそれを信用して、自分達の仕事を進めるしかないぜよ」
リュザックはそう告げ終わると、少し気後れする様に歩みを鈍らせたジュールの尻を強く蹴り上げた。
赤信号の交差点に差し掛かった一行は足を止める。さすがに大都市だけはあり、自動車の交通量は多い。ジュールは信号待ちをする大勢の人々に紛れ込みながら、切れ間なく走り行く車の列を眺めていた。ただ彼はふと交差点の一角に視線を向ける。そこには哀しげな表情で視線を落とす、女神の姿を描いた巨大なポスターが飾られていたのだ。
近代的な造りではありながらも、どこかレトロな雰囲気を醸し出すオレンジ色の建造物。どうやらそこは映画館であるようだ。そしてアナログに女神を描いたポスターは、恐らく現在上映されている映画を紹介するものなのだろう。ジュールはリュザックに蹴られた尻を摩りながら、そんなポスターを眺めて信号が青に変わるのを待っていた。
(女神を題材にした映画でもやっているのか……)
漫然と交差点の対角を見つめるジュール。特に気になる様な事は無かったが、それでもジュールは女神の姿を見続けていた。するとそんな彼に向かいリュザックが苦言を呈す。
「いつまでボケッとしとるきよ。まだ活が足りんがか?」
「も、もう十分ですよ。前向きに進もうと、あの女神に誓っていただけですから。それよりマイヤー。目的のビルまでは、あとどの位なんだよ?」
ジュールは誤魔化す様にマイヤーに問い掛け話を逸らす。マイヤーはそんなジュールの僅かな心の揺れに気付いたものの、彼を気遣ってか平素に目的地までの道のりを口にした。
「このまま1ブロック先に進んだら、そこを左に曲がって3ブロック行った場所だよ。このペースなら20分も掛からないだろうから、待ち合わせの三時にはちょうど良い時間だな」
そうこうしている間に信号が青に変わる。そしてそれと同時に人々は一斉に動き出した。まるで停止していた時間が唐突に動き出したかの様だ。流れる人波に紛れてジュール達も進み出す。彼らは正面から迫る対向の人の波を器用に避けながら歩みを続けた。しかしその人混みの中で、ジュールは不意に前方より駆けてきた中年のビジネスマンの男性と接触してしまう。比較的強く接触してしまったためであろう、男性は勢い余って転倒してしまった。さらにその拍子で彼のカバンからは、仕事で使用するらしき資料が交差点いっぱいに散乱してしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
ジュールは交差点の中央で転倒した男性を気遣いながら助け起こした。するとビジネスマンの男性は、自らの不注意を恐縮しながら陳謝した。
「済みません、時間に追われ急いでたもので――」
ジュールと男性は散乱した資料を急いで集め始める。そしてそれに気が付いたリュザック達も手を貸した。
「まったく、こんな道路の真ん中で何しとるきよ!」
悪態つきながらもリュザック達は手早く資料をかき集めていく。歩道の青信号はすでに点滅し始めているのだ。早くしなければ赤信号に変わってしまう。だがジュール達以外にも数人の通行人が協力してくれたことで、何とか散乱した資料を集め終える事が出来た。大都市であるにも関わらず、この街の者達は意外にも親切な者が多い様だ。そしてカバンに資料を詰め込んだ男性は、かしこまりながら簡素に礼を告げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、こちらの注意不足でもありますので気になさらずに。でも事故にでも遭ったら大変ですので、急いでいるのは分かりますが気をつけて下さいね」
ジュールは男性に対して注意を促すよう伝えた。しかし男性は彼の話を聞き流しながら急ぎ足でその場を後にしてしまう。相当時間に追われているのだろう。
「まったく、経済都市の人は忙しないな」
ジュールはやれやれと感嘆しながら呟いた。ただそんな彼にヘルムホルツが戒めの言葉を告げる。
「前をよく見ていないお前も悪いんだぞ。映画のポスターなんかに見惚れてるからそうなるんだ。リュザックさんの蹴りで足りないなら、俺の拳を追加してやるから覚えておけよ」
ジュールは決まり悪そうに頭を掻きながら、先に進み出したヘルムホルツ達を追い駆けはじめる。シュレーディンガーの待つ目的地はもう直ぐそこなのだ。注意力を散漫にしている暇は無い。信号が赤に変わったと同時にジュールは交差点を渡り切る。しかしその時になって彼は気づいた。手にしていたはずのブリーフケースが無くなっているという事に。
「どこかに置き忘れたなんてはずはないよな。――ま、まさか、あの男!」
ジュールは昨日ホテルで会ったパーシヴァルの男性の事を思い出す。彼はスリの被害に遭い困窮していたのだ。その姿を不憫に思い自分は彼を助けたはず。それなのになぜスリ犯罪に対する注意を怠ったのであろうか。自分自身の迂闊さに腹が立ちジュールは憤る。ただそんな彼に対してマイヤーは、現状を把握する為にあえて再確認を促した。
「ブリーフケースを盗まれたのか! あれはグラム博士の遺産とも言うべき新型の玉型兵器が入っていたんだろ。クソっ、俺としたことが浅はかだったぜ。最近グリーヴスはスリの被害が多くてな。注意するよう言っておくべきだった」
「犯人はさっきのビジネスマン風の男だろ。ジュールにぶつかったのも、カバンの資料をブチまけたのも全てワザとだったってわけか。でもまだそれほど遠くには行ってないはずだ。マイヤー、お前にはあの男の姿が見えないのか?」
ヘルムホルツが遠目の利くマイヤーに向かって叫ぶ。その声に右目を鋭く窄めたマイヤーは、男が走り去った方向を見定めた。だが口惜しくもそれらしき姿は見受けられない。
「ダメだ。あの男の姿はどこにも見えない」
「端末の同時通話を開くんだが! 俺が指揮するき、お前達はその通りに動くがよ」
リュザックが強く口走る。
「この街はチェスボードみたいに規則正しく升目状に道が走っているがね。だったら奴の行動を予測する事も可能なはずだぜよ。奴が走り去った方向を正面に見ちゅうと、左手は川だから道は無いき。正面はマイヤーが見た限り姿が無いちゅうこっちゃ。なら何処かを右に曲がったとしか考えられんきね」
まるで戦場にでもいるかの様に、目つきを変えたリュザックは早口で続ける。
「ヘルムホルツはこの交差点を右に進め。俺達は信号が青に変わり次第正面に進むきよ。俺とマイヤーは1ブロック先の交差点を右に曲がるき。ジュールはさらにもう1ブロック先の交差点まで駆けたら、そこを右に曲がるがよ」
リュザックが話し終わると同時にヘルムホルツは走り始める。足に自信の無い彼は、少しでも時間を無駄にしないようにと駆け出したのだ。そしてその後信号が青に変わったと同時に、ジュール達も一斉に走り出す。道を行き交う人波をものともせず、彼らは疾風のごとく駆けながらスリ男の捜索を開始した。
ジュールの失敗を責める者はだれもいない。彼らは瞬時に悟ったのだ。重要なのはスリ男の身柄を拘束する事であり、ジュールを罵ったところで何も解決しないのだということを。そしてジュール自身も彼らの行動に引っ張られる様にして冷静さを取り戻してゆく。失態を挽回するには行動で取り返すしかないのだ。ジュールはリュザックの指示に従い、2ブロック先の交差点を目指して全力で駆けた。
ジュール達は手際よくマイク機能を内臓したワイヤレスイヤホンを装着する。複数回線を開いた端末よりリュザックの指示を仰ぐ為だ。微小な振動を発生させたイヤホンは、骨伝導によりリュザックからの言葉を直接脳に伝えて皆を一つに繋がらせる。効率的に行動を促すための準備は瞬く間に整った。
本気で駆けるジュールの足はさすがに速い。リュザックとマイヤーが交差点を右に曲がったとほぼ同時に、さらに1ブロック先の交差点を彼は曲がったのだ。ただその時に端末を通してマイヤーの声が脳に響く。
「いたぞ! やっぱりあの男がスリの犯人だ。奴はブリーフケースを所持して2ブロック先の交差点付近にいる」
走りながらもマイヤーは米粒ほどに見える遥か前方の男の姿に注視している。ただそんな彼の腕を掴み、リュザックが制止を促しながら問うた。
「奴に動きはあるか?」
リュザックは少し体勢を低く屈めている。その姿勢にマイヤーも習う様にして小さく答えた。
「見たところ立ち止まっているように見える。少なくとも、まだ俺達には気付いていないでしょう」
目視によるマイヤーの情報は漠然としている。だがそれでもリュザックにとっては十分だった。彼は最小限の情報に頭を回転させ、即座に次の行動を皆に飛ばす。
「ヘルムホルツは初めにおった交差点から2ブロック進んだ場所に待機するき。ジュールは3ブロック先の交差点まで進んでそこを右に曲がれ。奴のいる1ブロック先から回り込むだきよ。俺は一旦左に迂回して、ジュールの通過した交差点から奴を正面に見るき。そうすれば俺とジュールとマイヤーで三方向から奴を囲めるがよ。あとはヘルムホルツの待機する方向に奴を追い込めばOKだきね!」
ヘルムホルツが配置に着いたことを皆に知らせる。そしてマイヤーは男の動きを注意深く監視しながら1ブロックほど距離を詰めた。次の瞬間に奴は動くかもしれない。でもスリ男が動きを止めている今がチャンスなのは明らかだ。そう緊張感を高めるマイヤーの目の前では、何も知らずに街を行き交う人々が変わらぬ日常に身を委ねて空間を形成している。緊迫感とは無縁な世界がそこに広がっているのだ。しかしその平然とした状況の中で、最後の交差点を右に曲がったジュールが突き抜ける声を発した。
「男を確認、このまま突っ込むぞっ!」
それを合図にしてマイヤーも勢いよく駆け始める。そして迂回中のリュザックもアスファルトを踏み弾き、男を目掛けて突き進んだ。
スピードに乗ったジュールが一気に男との間合いを詰める。それなりの距離を全力で駆けているのに、彼のスピードは衰えを見せる事が無かった。しかしその俊足ぶりが、街を行く人波から浮いてしまう。もう少しというところで、スリ男は猛スピードで接近するジュールに気付いてしまった。男はギョッと目を丸くし、突然現れたジュールの姿に驚きを見せる。しかし次に男がとった行動は意外なものであった。
男はジュールに対して素早く背中を向ける。すると次の瞬間、男は無造作にブリーフケースを車道に向かって高く投げ捨てたのだ。
「えっ」
ジュールは反射的にブリーフケースを目で追った。
「ズザザザッ!」
わけが分からぬままジュールは前のめりに転倒する。ブリーフケースに目を奪われた彼は、スリ男から足払いを仕掛けられていたのだ。勢いに乗っていたジュールの体は数メートル先まで転がって止まる。それでも彼は即座に身を起き上がらせて男を睨んだ。しかし彼は目の前の男の姿に困惑する。
「!?」
どういう事か。男は投げ捨てたはずのブリーフケースを抱え持っていたのだ。戸惑いを感じたジュールは一瞬踏み出すタイミングを見失う。だがそんな彼の脇をすり抜けて、マイヤーが男に掴み掛かった。しかしジュールはまたしても目の前の出来事に目を疑った。スリ男は詰め寄るマイヤーを避けるどころか、逆に踏み込んでタックルを仕掛けたのだ。カウンターの衝撃を受けたマイヤーの腰が落ちる。するとスリ男は力の抜けたマイヤーの襟元を掴み取り、ジュールに向かってその体を力一杯に投げ飛ばしたのだ。
「バカなっ!」
ジュールは向かい来るマイヤーの体を抱き止める。しかし勢いよく飛ばされたマイヤーの長身が簡単に止まるはずはなく、二人の体は折り重なりながら歩道を転がった。地ベタを舐める様に平伏すジュール達に男は不敵な笑みを浮かべている。放胆にも彼らを見下しているかの様だ。だが次に吹き飛んだのはスリ男のほうであった。最後に駆け付けたリュザックが、渾身のショルダータックルを浴びせ掛けたのだ。
相手の男は犯罪者とはいえ一般人である事に変わりない。しかし手加減無しで男を取り押さえる事は至難の業だ。スリ男の流麗な身の熟しにそう判断したリュザックは、抑え込む事を一旦諦めて、タックルのダメージで動きを鈍らせる事を優先させたのだ。それにヘルムホルツの待機する方向に男を誘導しなければならない。リュザックは男を更に追い詰めようと駆け寄った。だが彼の予測を上回る立ち振る舞いを男は見せる。
男は駆け寄るリュザックに対して強烈な足払いを仕掛けたのだ。その攻撃の鋭さに目を見張るリュザック。それでも彼は間一髪ジャンプして攻撃を避けた。しかし男は目にも止まらぬ速さで空中のリュザックの胸ぐらを掴むと、そのまま彼を巴投げしてアスファルトに叩きつけたのだ。
「ゲハッ」
背中を強く打ち付けたリュザックは、息が出来ないほどの衝撃を受け表情を歪ませる。するとその脇をスリ男は悠々とした姿勢で歩み去ろうとした。取るに足らないとでも思っているのだろうか。だがリュザックはそんな男に対してお返しとばかりに足を掛ける。油断した男はまんまとリュザックの足に躓き、その拍子に体勢を崩した。
「観念しろ!」
男の行く手を阻むようにして、巨漢のヘルムホルツが立ちはだかる。そして彼は今にも転倒しそうな男に向かって手を伸ばした。
捕まえた――。そう確信したヘルムホルツであったが、しかし彼の大きな手は空気を掴んだだけであった。忽然と視界から男が消えた。何処に行ったというのだ。当惑するヘルムホルツは状況を掴めない。
「上だヘルムホルツ!」
リュザックが叫ぶ。そしてそれと同時にヘルムホルツの真上を黒い影が通り過ぎた。
「クソっ、舐めやがって」
吐き捨てながらヘルムホルツは素早く振り返る。信じ難いがスリ男は巨漢のヘルムホルツを驚異的な跳躍で飛び越えていたのだ。そんな男に向かいヘルムホルツは剛腕を振りかざす。軍人が一般人に危害を加えることは重大な軍規違反である。それでも彼は覚悟の上で渾身の拳を振り抜いたのだ。そうでもしなければ、この男を止める事は出来ない。
迷い無く繰り出された剛腕が唸りを上げる。だが次の瞬間、ヘルムホルツはリュザック同様にアスファルトへと背中を打ち付けられていた。男は向かい来る剛腕を掴み取り、その力を利用して彼に背負い投げを浴びせていたのだ。まるでトランザムの十八番を彷彿させる技のキレ味にヘルムホルツは目を回す。
ただジュール達の息をもつかせぬ連続した挙動に、スリ男も警戒心を高めたのであろう。足早に男はその場から駆け出した。男にしてみればジュール達は単なるスリの獲物であったに過ぎないはずなのだ。しかし連携した行動で自分を追い詰めようとするジュール達に、さすがの男も舌を巻く思いがしたのだろう。男は全力に近いスピードで走り出す。少しでも早くこの場から距離を取りたかったのだ。だが1ブロックほど先の交差点で男は足を止める。男は赤信号を待つ人だかりに道を遮られてしまったのだった。
「チッ」
舌打ちした男は無理やりに人の壁を掻き分けて進みだす。追い縋るジュールがすぐ背後に迫っていることを察したのだ。足を踏まれた女性の悲鳴や泣き叫ぶ幼子の声が周囲に響く。だが男は構うことなく人々を押し退け、ついには赤信号の交差点に飛び出した。
「パァーー!」
車の甲高いクラクションが市街地に響く。さらに急ブレーキを掛けた車のタイヤが怒号のようなスリップ音を発生させた。それでも男は強引に交差点を走り抜ける。そしてそのまま歩道を直進した。
追突こそ免れたが、多くの車が連なりながら渋滞を引き起こしている。だが見た目にケガ人はいないようだ。男を追いかけるジュールはホッと胸を撫で下ろす。そして彼は停車する車の隙間をぬって男の追跡を再開した。そんなジュールの後ろをマイヤーが追いかける。すると彼らの耳にリュザックの指示が飛び込んできた。
「マイヤーは1ブロック先を左に曲がれ! ジュールはどうにかして奴を2回左に曲がらせるがよ! もう一回奴を皆で囲むきね。手加減はせんでいい。全力で対処するがよ!」
1ブロック進んだマイヤーはリュザックの指示通りに交差点を左折する。直進する男を追うジュールは一気に駆けるスピードを加速させると、男の右手を掴み取ろうと腕を伸ばした。すると男はそれを嫌うかのように、左側に走る車道に飛び出した。そして次の交差点で男は左折する。
「ヨシっ、奴を左折させた。このまま奴を追いながら3ブロック先をもう一回左折させてみせる! みんなもそこまで急いでくれ!」
もう一度同じ手が通用するかは分からないが、奴を左折させるための布石としてジュールは右後方から追い駆ける。次は絶対に逃がさない。だがその時、彼は奇妙な違和感に気づいた。ほぼ全力で疾走しているというのに、男との距離がまったく縮まらないのだ。疲労によってスピードが落ちていることは否めない。しかしそれを差し引いたとしても、ブリーフケースを左脇に抱えながら走る中年の男に追いつけないとは、俄かに信じ難いのだ。
足には人一倍の自信を持つジュール。今までに自分より早く走れたのはヘルツくらいのものなのだ。しかし現実として目の前を走る男に追いつけない。陸上競技の心得でもあるのだろうか。だが逆に考えれば足に自信があるからこそ、男はスリなんていう卑劣な犯罪行為をしているのであろう。
憤りを抱きながらもジュールは必死に食い下がる。それもそのはず。男との距離は縮みはせずとも広がりもしないのだ。男のスピードもこれが限界のはず。ならばあとは体力勝負だ。そう判断したジュールは懸命に歯を喰いしばり男を追い駆け続けた。
マイヤーとヘルムホルツはそれぞれの道の3ブロック先を目指した。たとえジュールが男を追い詰めたとしても、そこに自分達が到達していなければ意味がない。後方支援を得意とするマイヤーや、体格の良いヘルムホルツにしてみれば辛い行為であることは分かり切っている。だがここが踏ん張り所なんだ。泣き言を吐き捨てる時間があるなら、一歩でも前に足を動かせ。二人は自分自身に言い聞かせながら全力で力走した。そしてジュールが目標の交差点に差し掛かる直前にマイヤーが右折を試みる。思惑通りに事が進めば、マイヤーとジュールで男を挟み込むことが出来るはずなのだ。それに万が一にもマイヤーがかわされたなら、その後方よりヘルムホルツが男に迫れるはず。咄嗟ながらも二段に構えた作戦に隙は見られない。それに今度は男を一般人としてではなく、高度な身体能力を備えた手練れと見定めて相対するのだ。まるで容赦なく戦場で敵を討つかの様に。
目的の交差点を目の前にしたジュールは、キツい体に鞭を打ちながら最後の力だとばかりにスピードを加速させる。すると前を走る男は彼から逃れるように交差点を左折した。
(しめたっ!)
仕組んだ通りに男が左折したことで、ジュールの士気は一気に上昇する。さらに彼は前方より走り来るマイヤーの姿をも確認した。あとは男を捕まえるのみだ。
集中力を高めて油断を捨て去ったジュールが男の背中に手を伸ばす。するとスリ男はまたしてもブリーフケースを放り投げた。幕引きを計ろうとするジュールの気配を察したのであろう。ブリーフケースは真上に高く舞い上がった。しかしジュールはそれに構わず男に掴みかかる。彼は男の身柄を確保する事の方が優先なのだと直感で判断したのだ。ジュールはヘッドスライディングを決める格好で男に飛びかかった。そしてそれと同時に行く手を遮るマイヤーまでもが男に抱きついた。
「ガズンッ!」
鈍い衝撃音が市街地を走る歩道に響く。まるで交通事故でも起きたかの様だ。しかしそんな歩道で折り重なって倒れていたのはジュールとマイヤーであった。彼らは正面から激突し、その場に倒れ込んでいたのだ。だがそこに居るはずのスリ男の姿は無い。一体何がどうなったのだ? 軽い脳震盪を起こしたジュールはそれでも懸命に男を探す。確実に捕えたはずなのに、奴の体は一瞬で俺の手元からすり抜けて消えた。まるで空に飛び立つかの様に――。まさか、と思いつつもジュールは視線を上に向ける。しかしそこで彼が目にしたのは、紛れも無く空中に浮かぶ男の姿であった。
「そ、そんなバカな。――いや違う!」
一見すると男は空中に浮かんでいる様に見える。だが不自然な男の姿勢に目を凝らすジュールはそのタネを見極めた。男は袖口からピアノ線に似た透明な細いワイヤーを伸ばし、それを歩道に設置された街灯に括り付けていたのだ。ブリーフケースを投げたと同時にワイヤーを街灯に飛ばしたのであろう。恐らくジュールが初めに男に詰め寄った時、車道に投げたブリーフケースを手元に引き戻したのも、そのワイヤーを使用したに違いない。切り札を露わにした男にジュールは不覚にも唸りを上げた。
男は体を揺らした反動を利用して、ジュール達より少し離れた歩道に降り立った。警戒心の表れなのであろう。いくら衝突のダメージでふらついているといっても、隙を見せればコイツらは飛び掛って来るはずなのだ。男はそう考え、危険性を回避するようにジュール達から間合いを広げた。たださすがに男も走り疲れたのであろう。呼吸は極めて荒く、肩を大きく上下に揺らしている。
即座に駆け出せば逃げ果せたはず。しかし疲労困ぱいの男は走り出すタイミングを見誤った。一瞬影に包まれたと感じた男は、背後からヘルムホルツに羽交い絞めされたのだ。怪力で押さえ込まれた男の自由度は断ち切られる。どう足掻いたとて、男の逃れる術は見当たらない。それでも男は苦し紛れに腕を伸ばす。そして近くに置かれていた小型のバイクにワイヤーを絡ませた。
「無駄な悪足掻きをするんじゃねぇ!」
ヘルムホルツはワイヤーの伸びる男の腕を掴み押さえ込む。何をするつもりだったかは知らないが、これならもう動けないはずだ。彼は男の骨が軋むほどに力を込めて拿捕し続ける。背負い投げを浴びせられた屈辱を晴らす思いなのであろう。だが強烈な圧縮力に男は耐え忍んでいる。もうどうすることも出来ないはずなのに、男は気張って堪え続けるのだ。すると次の瞬間、ヘルムホルツは目の前に思いもよらぬ光景を見る。
「カチッ、ギュィィーン!」
なんと男の腕から伸びるワイヤーが絡まったバイクが突然動き出したのだ。ヘッドライトを眩しく点灯させたバイクは、モーター駆動の後輪を強く回転させて急発進する。そして独りでに動き出したバイクは、男を抑え込むヘルムホルツにへと一直線に向かったのだ。
「クソッたれが!」
ヘルムホルツは仕方なく男を手放すと、向かい来るバイクのハンドルを掴み止めた。
「ギュルルルルッ!」
ホイルスピンするバイクの後輪が白煙を上げる。そしてタイヤのゴムが溶ける悪臭が鼻を突いた。ヘルムホルツの踏ん張る足が後方にズレ動く。それでも彼は懸命に暴走するバイクを抑え続けた。適切な対処を心掛けねば、歩道を行き交う他の一般人に被害が及ぶ恐れがあるからだ。だがその隙に男は走り出してしまう。
「待て!」
ジュールは果敢に男を追おうと試みる。しかし脳震盪を引き起こした彼の足は思うように動いてくれない。
「まずいぞっ、このままじゃ逃げられちまう」
そう悲観するジュールにマイヤーがさらに追い打ちを掛ける。
「この先には地下鉄の入り口があるはずだ。そこに逃げ込まれたら御仕舞だぞ!」
足元が覚束ない状態ながらもジュールは直向きに走り出す。もうとても男に追いつけるとは思えない。だがそれでも彼は諦める事が出来なかった。なぜなら男が持ち去ったブリーフケースは、グラム博士が自分に託した形見とも言うべき大切な代物だからだ。しかし走り去る男の背中はみるみると小さくなっていく。そして無情にも男はジュールの視線の先で、地下鉄に通じる階段にへと消えて行ってしまった。