#51 雉隠れの摩天楼都市(後)
今回の王子の外交協議の目的は、西国にある繊維専門の国際的な企業との交渉であった。その西国企業とは、ここ数年あまりで著しく成長してきた繊維メーカーであり、アダムズに無い高度な技術を独自に開発するなどして業界を拡大している企業である。そしてそのメーカーが開発した最高傑作こそが、ジュール達の身に付ける最新のバトルスーツに使用された【KSR35】と呼ばれる特殊繊維だったのだ。
KSR35は砂漠の環境下で育つ特別な綿花を利用して生み出される繊維素材である。そしてその繊維を使用して造られた代物は軽量かつ柔軟性に優れ、また高強度であり耐久性にも極めて優れていた。ただしそんな超未来的で数々の利点を有するKSR35ではあったが、その特徴の一つに他国では決して解き明かすことの出来ない【ある課題】を有していた。その課題とは、KSR35を造り出す綿花が遺伝子組み換えされて造り出された特殊な綿花であり、その仕組みがブラックボックス化されているということだったのだ。そして遺伝子組み換えされたその綿花の最大の特徴は、次世代に種を残さない一代限りの花であるという事だった。
なぜ一代限りの種しか生み出さないのか。その西国の繊維メーカーが世間的に公表している理由は、あくまでも乾燥した砂漠の過酷な環境の中で育つよう開発した結果、その弊害が一代限りの種となってしまったのだと述べている。しかしその種を生み出す大元の技術については完全に秘密化されているため、他の国や企業は同様の綿花を栽培することが出来なかった。そのため綿花や素材が欲しい場合、必然的にその企業より購入しなければならず、また大量に仕入れたい場合などは国の方策として対応に当たるしかなかった。
どんなに姑息だと揶揄されようとも、企業側からすれば利益を最大限獲得するための当然な対応であり、また高い優位性を常に保つことで取引を有利に進めることが出来る。そんな独特の存在感を印象づける西国のメーカーと、KSR35を定期的に大量購入するための価格交渉を実施するのが今回のトーマス王子の協議目的であり、傲慢で横柄な西国の企業を相手に巧みな駆け引きを必要とする難しい折衝なのであった。
昼を過ぎた時間より、一日目の協議が開始された。王子のグリーヴス滞在は五日間の予定であるが、最終日を除いた四日間が協議の日程として割り当てられている。交渉事を得意とする王子が四日もの期間を事前に予定した背景には、この協議がいかに困難でタフな折衝であるかを予測した結果なのであろう。
協議の場として使用されるのは民間ホテルの一室である。国益を担う外交交渉とはいえ、相手が民間企業であることから、公平性を保つために民間のホテルを利用して協議は実施されているのだ。変に圧力を掛けられたなどと、相手からの余計な非難を避ける事が目的なのであろう。そんなホテルと大きな川を隔てて建っている双子の様な姿のホテルが、王子やジュール達の宿泊するもう一つのホテルであった。同じ系列の経営母体を持つホテルであり、川で遮られているとはいえ、協議の場であるホテルとは目と鼻の距離だ。そんな王子の宿泊先であるホテルの警護を担当する事になったのが、ジュール達トランザムとマイヤー小隊であった。
この配置はストークス中将の計らいなのであろう。協議を実施するホテルの警護は東方軍の隊士が受け持っている。そのため王子不在の間は目立つ行為さえ控えれば、ある意味ジュール達は自由に行動する事が可能なのだ。そしてその状況を利用してシュレーディンガーと接触する為に、早速アニェージは私服に着替えてホテルを後にしていた。
「これもストークス中将の意志入れなのかどうかは分からないけど、社長であるシュレーディンガーが普段在任しているオフィスビルは直ぐそこの距離だ。私は今から直接社長に会いに行ってくる。このホテルから連絡を取っても良いけど、盗聴などの危険性がゼロとは言えないからな」
「だったら俺達も同行したほうが早いんじゃないのか?」
「いや、社長は経営者として忙しい人だからな。いきなり今日会えるとは限らない。むしろ王子の協議の方が一日目ということで早めに切り上げられるかもしれないだろ。だからジュール達はここで待機していてくれ。どんな緊急事態が発生するか予測できてないのだから、このホテルの詳細を今の内に把握しておくことも必要なはずだろ。それにお前達にとってもグリーヴスは初日なんだから、そう焦らずに体を休めていなよ。都合さえ合えば直ぐにでも知らせるから、それまでは大人しくして待っててくれ」
そう言い残してアニェージはホテルから出かけて行った。ただそれからすでに数時間経過している。果たして彼女は社長ことシュレーディンガーに会えたのであろうか。一通りホテルを調査し終えたジュール達は、特に異常が無い事を確認すると、それぞれ分担した持ち場へと足を運んでいた。
王子の宿泊する部屋は特別なエレベータを使用するか、非常階段を使用するかでのみで赴くことが出来る。そのためジュールはそのエレベータの乗り口があるホテルの1Fロビーに配置していた。ヘルムホルツはその直ぐ脇にある階段に持ち場を構えている。マイヤーはエレベータの出口がある王子の宿泊フロアに、そしてリュザックは王子の部屋の前に立ち処を決めていた。そんな中でグリーヴスに到着してより気分の優れないソーニャを介抱するため、ティニとエイダはジュール達の寝泊まる部屋で彼女に付き添っていた。
それほど歳の変わらない彼女達を身近に置くことで、少しでもソーニャの負担を軽くしようとマイヤーは配慮したのであろう。それに故郷であるこの地に帰ってきたにも関わらず、家にも帰れないソーニャの心労を気遣ったに他ならないはずだ。
そんな気の利いた配慮にジュールは思う。恐らくマイヤーと共に若い女性隊士である彼女達が現れなければ、自分はソーニャの対応にも苦労していたはずだろうと。そう感じるジュールは改めてマイヤーの気配りに感謝するとともに、ティニとエイダの協力を頼もしく思っていた。ただそんな考えを巡らせる中で、ジュールはふと王子の今回の協議について気になる事があり、すぐ近くにいるヘルムホルツに話しかけた。
「なぁ、ヘルムホルツ。一つ疑問なんだけどさ、なんで西国の企業と会談するのに、わざわざアダムズ東部のこの街で打ち合わせするんだよ。もっと西部のほうでやれば、相手側だって移動とか楽なのに変じゃないのか?」
首を傾げながらジュールは疑問を打ち上げた。グリーヴスという場所で協議を実施することに何か意味があるのか。単純にジュールはそう考えていたのだ。そんな彼に近寄ったヘルムホルツは自分なりの意見を述べる。それは現行の社会情勢を踏まえた的確な意見であった。
「確かに人の移動という観点から見れば、お前の言う事は正しい。でもなジュール、世界はお前が考えている以上に縮小化しているんだよ」
「縮小化? なんだよそれ」
「聞いた事ないか? 世界のグローバル化ってやつだよ。今は国や地域なんていうタテ割りの境界は通用しないんだ。だから自分達にとって一番効率の良い事を考えて行動する必要があるんだよ。まぁグローバルって意味は途轍もなく広い分野を示すんだけど、経済に置き換えると分かり易い。市場はこの国に収まらず、全世界に広がっているんだとね。グリーヴスは経済都市として先物取引を実施するにも都合がいい。だから例え西国の企業との協議でも、その結果次第で次の行動に素早く移行するには、この街の方が特なんだよ。少なくとも俺は王子の先を見越した好判断だと思ってるけどね」
「でもそれじゃ、相手にとってはどんなんだよ」
「そこには相手側の戦略もあるんだろうな。グリーヴスは決してアダムズに有利というわけじゃないんだ。経済都市は純粋なほどに公平だからこそ、世界から認められている。ゆえに活用次第でどちらにとって有益に話が進むかは分からない。西国の企業もその辺はプロなんだろうから、グリーヴスでの協議を了承したんだろう。ただそれでも一点気になる事はあるけどね」
「何だよ、その気になる事って」
「あぁ。ここだけの話だけど、今回の協議相手からはキナ臭い噂が最近聞かれ始めている。それは西国の政治情勢に関連する噂だ」
ジュールは息を飲みながらヘルツホルムの話に耳を傾ける。
「お前も知っての通り、西国はいまも政治が安定せずに情勢が乱れている。特にテロによる反政府組織の動きが活発化している状況だ。そしてそのしわ寄せが原因でアダムズの西部方面も対応に苦労しているんだろう。ただそんな反政府組織に裏資金を提供しているというのが、今回の相手企業にまつわる黒い噂なんだよ。まぁ、はっきりとした証拠があるわけじゃないし、表立っては高度な技術力を持つ全うな会社だからな。誰もそこを指摘しないのが現状なんだ。それに新素材のKSR35はアダムズにとっても必要な原材料になる。そこは王子としても頭の痛い懸念ではあるのだろうけどね」
「そんな噂があるのか。なんだか獣神に挑むみたいな非現実的な事案よりも、そっちのほうがリアルで怖い感じがするよ――」
ジュールはヘルムホルツの話に身震いするほどの嫌悪感を覚えていた。自分達は世界中の人々の命を守るために、獣神に強く立ち向かおうとしている。しかしその世界では、自己利欲のために人同士が惨い争いを続けているのだ。そして現実にその争いによって多くの人命が失われている。
ジュールは過去にアダムズ西部にて繰り広げられた、西国のテロ組織との戦闘に参戦した経験を持つ。そんな治安維持活動を主体とした軍事作戦は現在も度々実行されているが、時折その戦闘は激しく展開され多くの負傷者を生み出している。ジュールはそんな作戦に三度身を投じており、その内の二度は命の危機を感じるほどの厳しいものであった。また突発的に起きる無差別な殺戮行為によって戦場と化した市街地では、傷付き倒れる仲間の姿や現地に暮らす民間人の悲惨な生き様を嫌というほど見せつけられた。そんな過酷な経験をしている彼だからこそ、現実に起きている惨状に気が萎え、救われない感傷に嫌悪感を覚えて仕方なかったのだ。
果たして大切な仲間の命を懸けてまで、そんな人々を救う価値があるのであろうか。彼はそう思わずにはいられない。でもその使命感を失ってしまっては、強く覚悟を示してくれたアイザック総司令や、すでに命を落としたグラム博士やファラデーに顔を向けられない。忸怩たるも胸の中で葛藤するジュールの心情は、哀しくもキツく締め上げられるばかりであった。
ジュールはホテルの広いロビーに目を向ける。そこにはアダムズ人以外に数多くの外国人の姿を見受けることが出来ていた。ヘルムホルツが言う通り、グリーヴスはグローバル化の進んだ世界的な場所なのであろう。でもここにいる異国の者に敵意を感じる事は皆無だ。それはそのはず。例え人種や国籍が違えども、この星に暮らす同じ人であることに変わりはないのだから。ならばお互いに解り合えるはずではないのか。いや、そう無理にでも自分自身に言い聞かせなければ前に進めない。ジュールは一人悶々とした胸懐を抱きながらも、前向きに想いを馳せるべく努めた。ただそんな時、彼はふとフロントに視線を向ける。そこでは何やらボーイスタッフと揉めている一人の男性の姿があった。
ビジネスマン風の男性が、冴えない表情でスタッフと話をしている。白髪混じりの頭部より、年齢は五十代後半といったところか。でも一体何を理由に揉めているのであろう。それが無性に気になったジュールは、その男性の姿に視線を向け続けた。
ビジネスマンの男性は、明らかに気落ちした姿で立ち尽くしている。今にも泣き出すのではないかといった感じだ。そんなパッとしない男性の姿にどこか気持ちを摘まれるジュール。どうしてあの男性が気になるのであろうか。ただ彼は直ぐにその不思議な感覚の原因に気付く。そう、その男性の瞳は重ねた歳の数だけの深みを宿しつつも、綺麗なエメラルドグリーンに色付いていたのだ。
間違いなく男性はパーシヴァル人なのであろう。疑い様のない目に見える特徴からジュールはそう判断する。そして彼は持ち場を離れて男性のもとに近寄ると、カウンター越しのボーイスタッフに向かって声を掛けた。
「どうかしたのですか?」
軍人であるジュールに突然声を掛けられた事で、男性とボーイスタッフは驚きを見せる。ただ比較的冷静であったボーイスタッフが男性に起きたトラブルを簡素に説明した。
「実はこちらのお客様なのですが、スリの被害に遭われて財布を無くしてしまったらしいのです。それでチェックアウトしようにも、手持ちが無くて困っているところなんですよ」
ボーイスタッフは溜息を漏らしながら対応に苦慮していることをジュールに告げる。ボーイスタッフの彼としては、早くこの問題を解決して本来の仕事に戻りたいのであろう。しかし気落ちする男性の煮え切らない態度に手を焼いているのが現状のようだ。するとボーイスタッフは少し皮肉を込めて続きを口にした。
「お客様はお仕事で当方のホテルに宿泊なさいましたので、お支払いはお勤め先にご連絡してはとご提案しているのですが、どうもそれは出来ないと受け入れて下されないのです。このままですと、最悪警察を呼ばなければいけないのですが……」
閉口しながら思いあぐねるボーイスタッフの心情が伝わって来る。彼とて警察を呼ぶような面倒事は避けたいはずなのだ。それにボーイスタッフはホテル側として十分誠意のある対応をしているはず。その反面、スリの被害に遭ったとはいえ、問題の原因が男性側にあることは否めない事実である。ならばむしろ男性ほうが頭を下げて、誠意ある対応をしなければいけないはずなのだ。それなのに男性は口を硬く閉ざすばかりで何も答えようとはしない。そんな不甲斐ない姿の男性に対しジュールは焦燥感に駆られ軽くイラっとした。しかしそれでも彼はポケットより自分の財布を取出してボーイスタッフに聞き尋ねた。
「こちらの男性の宿泊費、いくらになりますか?」
「いやいや、見ず知らずの軍人さんが立て替えるなんて、いくらなんでも頂けませんよ」
予想外のジュールの対応に、なぜかボーイスタッフのほうが恐縮している。それでもジュールは無理やりに我を通し、ボーイスタッフの制止を退けて男性の宿泊費を肩代わりした。
「これで無事解決ですね。悪いのはスリをした泥棒ですから、気にしないで下さい。でもこれからは十分気を付けて下さいね」
ジュールは柔和な眼差しを向けて男性に語り掛ける。すると男性は深く頭を下げながら感謝を述べた。
「本当に何と言ってお礼を告げれば良いか。ありがとうございます。後でお金の方はきちんとお返ししますので、お名前を教えて下さい」
「いや、気にしないで下さい。これは俺が勝手にやった事ですから」
「それは受け入れられません。いくらあなたが軍人さんだからといって、息子ほどにも歳がはなれている人に施されるなんて、ある意味屈辱です。私だって男なんですから、意地くらいはありますよ」
そう言って男性は鋭い視線をジュールに向けた。しかしこうした事態になれば、ジュールの方も退くはずが無い。彼の強情さは人一倍強いのだ。ただジュールは一つだけ気になる事があり、男性に対して質問を促した。
「先程ホテルのスタッフは、あなたに対して勤め先に連絡するよう促していましたね。でもあなたはそれを拒否した。それは何故なのですか?」
その質問に男性は表情を渋くしかめた。ボーイスタッフの強い勧めを断固として拒否した理由。男性の態度からして、それが話すに堪えない理由である事は容易に想像が出来る。ジュールはそんな理由がどうしても聞きたかったわけではない。男性が言いたくなければ、それ以上聞き及ぶつもりは毛頭なかったのだから。彼は思い詰めた表情の男性が不憫でならず、少しでも前を向いてくれるよう励ましたかっただけなのだ。ただ男性は観念したように話し出す。恐らく金を工面してくれたジュールに対しては、誠意を見せたいと思ったのであろう。男性はグッと噛み締めた奥歯から力を抜くと、ジュールに向き直りその胸の内を語った。
「グリーヴスに仕事で来たのは本当なのですが、会社には内緒の行動なのです。ですので会社に連絡するわけには――」
「会社に内緒って、それはどういう事ですか?」
男性の切り出した話を飲み込めないジュールは直ぐに聞き返す。するとビジネスマンの男性は、自身の胸のポケットに納められていた一冊の小ぶりな手帳を取出し、さらにその手帳に挟まれていた一つの三角定規を取り出した。そして男性はその三角定規を強く握りしめながら、話の続きを静かに始めた。
「私はパーシヴァル王国にある中堅の文具メーカーに勤務する営業マンです。ただ中堅とは言いましても、我が社の商品は使い易さと品質に定評を頂いておりまして、世間ではそれなりにご贔屓頂いております。それでも近年におきましては、アダムズ周辺の新興国より格安な商品が大量に出回っておりまして、我が社の経営を大きく阻害している状況なのです。でもそれは市場経済としては致し方ない事ではありますし、私は自社の強みをお客様にご理解頂き、廉価な他社品に負けないよう努めるしかありません。そして私にはそれが出来ると自負していました。なにせ営業職を三十年以上も熟しているのですから。でもそれが自分自身の傲慢な思い上がりだと気付いた時にはもう遅かったのです。十年以上昔の話になりますが、私は自社の営業部門で一番の成績を収めていました。自分が足を運べば売れない商品は無いと思い上がるほどに。でも気が付けば新しい時代の変化についていけず、今ではリストラ候補の筆頭に名を連ねている状況なのです。私の勝手な自意識の高さと無駄に強い誇りが職務に対する傲りとなり招いた結果なのでしょう。でも、それでも私には捨てきれないプライドがあるのです。コンピュータで全てが賄える時代ではありますが、足で培った経験も馬鹿に出来ないんだという事を会社の皆に思い知らせたかった。だからその為に、かつて大口の商権を掴んだこのグリーヴスに最後の勝負を懸けに来たのです。大見え切って会社を出たというのに、スリに合ったなんて理由で会社になんか連絡できるわけが無い――」
男性はグッと唇を噛みしめた。痩せこけた表情が余計に彼の無念さを際立たせている。ただそれでも彼の瞳に宿る光は強いものだった。黄ばんだ三角定規を掴んだ男性は強がる様に微笑むと、ジュールに向かい決意を込めて語った。
「この三角定規は私が会社に就職して初めて売った商品です。まだ駆け出しで無我夢中に走り回った。でもこの三角定規が初めて売れた時の嬉しさは今でも忘れることが出来ない。だから私はこの三角定規をお守りにして今日まで歩んできました。もう一回、あと一回でいいから、あの時の嬉しさを味わいたい。たぶん私が今もこうして仕事に打ち込めるのは、そんな些細な気持ちに心が支えられているからなのでしょう。幸いな事にパーシヴァルに戻る列車のチケットだけはスリの被害を免れました。なのでもう一息、この街で悪足掻きをしてみようと思います。このまま何もせずに負け犬で帰るのだけは、男として許すまじ行為ですからね」
そう告げた男性の健気な微笑みにジュールは胸を熱く震わせた。自分は軍人として命を懸けた仕事をしている。そして目の前にいるこの男性もまた、自分の戦場に身を投じ必死に生きているのだと。お互いの生きる環境はまるで別世界だが、命を削って前向きに進もうとする姿勢は、大いに見習うべき気構えであることに間違いがない。そう感じるジュールはなぜか嬉しくなり、気持ちが昂った。ただそんな彼に向かい、男性は不思議そうな表情を浮かべながら逆に聞き尋ねた。
「でもどうしてあなたは私を助けてくれたのですか? いくら見るに堪えない程に困窮していたとはいえ、お金を肩代わりするなんてある意味非常識な事です。人が良いにも程が有り過ぎますよ」
援助を受けた男性の方が、むしろ困った表情を浮かべ当惑している。それはそうであろう。見ず知らずの軍人が、決して安くはない宿泊料を立て替えてくれたのだ。それに恐縮しない方がむしろおかしい。ただジュールはそんな戸惑う男性に対して頭を掻きながら決まりが悪そうに答えた。
「自分でもどうしてこんな事をしたのかはよく分かりません。でも一つ言えるのは、あなたがパーシヴァル人だったからなのでしょう」
「パーシヴァル人だから?」
「はい。つい最近の事なのですが、俺はパーシヴァルの方にお世話になりました。その人は自分の置かれた状況に戸惑い悩む俺を優しく気遣い、さらに俺の進むべき未来の方向性を示してくれた。でも残念な事にその人は亡くなってしまったので――。恐らく俺の内心で、その人に感謝を告げられなかった事へのお返しがしたかっただけなのでしょう」
「でもそのパーシヴァルの方と私には何の繋がりもないはずなのでは?」
食い下がる様に返す男性に対してジュールは首を横に振りながら続ける。
「それにもう一つ理由があります。これはあなた方パーシヴァル人にとって辛い記憶になってしまいますが、俺は一年前に終結したボーア将軍の反乱で数多くのパーシヴァル軍兵士を倒している。自分が把握しているだけでも、確実に20人は殺めているはずです。言い方は変ですが、その罪滅ぼしがしたかったのだと俺は思います」
「確かにあの戦争では多くのパーシヴァル兵が命を落としました。私の知人にも、あの戦争で亡くなった方がいましたので――。しかしそれはあなたが軍人であり、与えられた職務として戦争に従事したからの結果であって、あなたに責任は無いと私は考えますが。それに戦争をしたということは、殺し合いをしたという事です。一つ状況が変化していれば、死んでいたのはあたなだったかも知れないのですよ」
男性は息苦しそうに表情をしかめている。やはり同朋を殺された憎しみは計り知れないのであろう。でもそれ以上に男性からしてみれば、忸怩たる無念が湧き出て来るのだ。
彼はボーアの反乱が発生するずっと以前よりアダムズで仕事を熟し、数えきれないほどのアダムズ人達と親交を深めてきたはずなのだ。そして今は自分の窮地を無償で助けてくれている。自分が実際に目にしてきたアダムズ人達は、どれも皆自分と正面から向き合い、そして厳しくも優しかった。そんなアダムズ人を本心から憎む事なんて、男性には出来る事ではなかったのだ。手にした三角定規が折れるほどに強く握りしめた男性は無言で立ち尽くしている。そんな彼に向かい、ジュールはそっと肩に手を置いて柔和に語り掛けた。
「そんなに考え込まないで下さい。むしろ俺の方こそ、出過ぎたマネをしてしまって申し訳ないと感じているのですから。あなたが言う様に、俺はあの戦争でパーシヴァル兵を討った事を悔いているわけではありません。正当な職務を遂行したと、誇りに思っているくらいです。でもいくら戦争が原因であったとしても、人の命を奪う事が正しい行為だなんて俺には思えません。戦争に勝ち負けはあったとしても、そこに正しさなんて有りはしないのだから。軍人として矛盾した事を口走っていると思いますが、でもそれを忘れてしまっては、それは単に殺人兵器となってしまうだけだ。俺はそうはなりたくないし、心の通う人間だからこそ、敵の命の重さをも受け止めながら戦いたい。軍人としては不適当なのかもしれませんが、でも俺の信念は曲げられません。話がズレてしまいましたが、俺があなたの肩代わりをしたのは、そんな自分の気持ちを誤魔化すための単なる自己満足なんですよ。だから気にしないでください。これで俺の気持ちも治まるし、それにあなたにとっても都合が良い。事務的にそう考えれば、それで良いんじゃないですか」
ジュールはそう言って笑って見せた。それが彼なりの強がりであることは容易に見抜くことが出来る。しかしその笑顔は男性にとっても、これ以上無く救われるものであった。
「ありがとう、本当にありがとう……」
男性は何度も頭を下げてジュールに礼を言いながらその場を後にして行った。その後ろ姿は何とも言えない哀愁が漂っている。でもそれ以上に最後のひと花を咲かせようとする強い気概が感じられた。ジュールは安心した気持ちで男性を見送っている。きっとあの男性ならば、諦める事無く目的を達成することが出来るであろう。男性はホテルのエントランスに設置された回転扉を力強く押して外に踏み出してゆく。するとその男性とすれ違う様にしてアニェージが姿を現した。
ジュールは帰って来たアニェージのもとに駆け寄りシュレーディンガーの動向を尋ねる。ただアニェージは力なく首を横に振りながら彼に答えた。
「残念だけど社長は不在だったよ。今日は取引先との打ち合わせで戻らないらしい。でも明日はオフィスに出社する予定だから、朝一番にもう一度行ってみるよ」
彼女の返答に落胆するジュール。王子と共に自分達がグリーヴスに来ている事は、アイザック総司令よりシュレーディンガーには伝わっているはずなのだ。それなのに仕事を優先するなんてどういった料簡なのであろうか。ジュールは訝しくも気分を害している。するとそんな彼の考えが読み取れたのであろう。アニェージは社長を擁護する様に釈明した。
「シュレーディンガーは企業経営者なんだ。お前達との会談が重要な事とは理解していても、以前より予定されていた業務を変更するのも難しいのだろう。そこはお前の方も配慮してくれ。でも明日には何かしらの調整はするつもりだから、安心して待っていなよ」
アニェージはそう告げるとエレベータに向かい歩き出した。ジュールは彼女の意見に耳を傾け理解を示す。ただ彼は軽く抱いた焦りを抑えることが出来ずにいた。一秒でも早くシュレーディンガーに会って話を聞きたい。そんな焦燥感に駆られるジュールがアニェージと共にエレベータの前まで進むと、そこにはヘルムホルツではなくマイヤーの姿があった。
「お帰りなさいアニェージさん。面会の件はどうなりましたか?」
「残念だけど明日以降に持ち越しだ。私は少し休ませてもらう。それにソーニャの体調も気になるしね」
アニェージはそう言い残してエレベータで宿泊する部屋へと向かって行った。そんな彼女を見送ったマイヤーは、顔色の優れないジュールに向かって言った。
「そろそろ持ち場の交代時間だ。俺はヘルムホルツと交代したから、お前はリュザックさんと交代しろよ。王子の部屋の前は静かだからさ、そこでお前も少し体を休められるだろ。リュザックさんなんか、イビキを掻いて寝てたくらいだからな」
「……まったく、あの人は呑気なモンだぜ」
「そのくらい肝が据わってるって事だろ。頼りがいがあるってモンさ。それにしてもジュール、お前顔色悪いけど大丈夫か?」
マイヤーはジュールの心労を危惧しながら語り掛けた。そんな彼に対してジュールは少し弱音を吐く。彼はこのグリーヴスという地にあまり良い思い入れが無かったのだ。
「気にしない様にはしてたんだけどさ。どうもこの街はボーアの反乱を思い出してしまうんだよね。俺は戦争中に物資の補給と休息を兼ねて、プトレマイオス遺跡とグリーヴスを何度か往復している。経済都市として見た目には華やかで賑わってはいるけど、でも俺にしてみればここは戦場の延長だった場所なんだ。さっき偶然見かけたパーシヴァル人の男性と話した事で、一年前の辛い記憶が甦ってしまったらしい。まったく、こんな時に弱気になるなんて情けないぜ」
ジュールは伏し目がちに苦言を吐いた。実際戦争に身を投じた者だからこそ、心に抱く不快感に彼は著しく苛まれているのだ。でもそんなジュールにマイヤーは普段と変わらない態度で平素に告げた。
「お前の言う通り、グリーヴスはまだボーアの反乱を引きずっている。東方軍の拠点がある街外れに行けば、実際に戦争で使用された戦車や大砲が未だに多数配置されているから、もっと強くそれを感じることが出来るだろうな。でもパーシヴァル本国に比べれば、これでも少しはマシなのかもしれない。あそこは直接的な被害こそ無いけど、人々の心には痛みと哀しみが深く刻み込まれているからね」
「……」
「東部へ移動になってから、俺はつい先日までパーシヴァルの駐在任務に就いていたんだ。だからパーシヴァル人のぶつけ所の無いジレンマを直接感じることが出来たんだよ。あの戦争については今もその根拠に乏しいから、一般のパーシヴァル人とて疑問を抱いている。それにあの戦争で身内を亡くした者も多いから、その悲しみは計り知れないはずなんだ。でもそんな人達ですら、その怒りの向け先が分からずに身悶えしているんだよ。だって報道されている限りじゃ、あの戦争は王族を皆殺しにした挙句、リーゼ姫を拉致したボーア将軍が全ての元凶なんだからね。身内を殺したはずのアダムズ軍は、正当に敵を討ったに過ぎない。それが分かっているからこそ、パーシヴァル人の心は酷く弱っているのさ」
「マイヤー、お前……」
「だからまだお前はマシなほうなんだよ。パーシヴァル人を気遣う余裕があるんだからさ。戦争の原因である真実を知ったお前は、罪の無いパーシヴァル兵を殺めた事に憤りを感じているんだろう。それは俺だって同じだ。あの戦争に従事し、ライフルで相手を打ち殺したのは否定しようのない現実なんだからね。でもだからこそ、あの戦争で死んだ全ての兵士に報いる為に俺達は前に進むんじゃないのか。それが出来るのは真実を知った俺達しかいないんだからさ」
マイヤーは厳しくもジュールを励ます様に語り続けた。共にボーアの反乱で数多くのパーシヴァル兵士を討った者同士だからこそ、彼にはジュールの悲痛さがよく理解出来ていたのだ。そしてこの先に待ち受ける戦いは、さらに過酷を極めるであろう。スナイパーだけに、マイヤーは先を見通す力に長けているのかも知れない。現実を否定すれば先へは進めない。逆に真実を受け入れてこそ、倒すべき敵を明確に捕えることが出来るのだと。
幼少時代を共に過ごし、ジュールの弱い部分を理解しているからこそ、マイヤーはパーシヴァルの悲しみをあえて語り、そしてそれを受け入れる正当性を彼に告げたのだ。そんな彼の優しさに気付いたジュールは顔を前に向ける。そして強い眼差しをマイヤーに向けながら一言聞き尋ねた。
「ここからパーシヴァルまでは列車だとどれくらい時間がかかるのかな?」
マイヤーは少し考えながらその答えをジュールに告げる。
「近々開通するリニア特急が走り出せば、片道2時間ってところかな。ただ現状だとその倍の4時間はかかるだろう。でもどうしたんだよ急に、パーシヴァルに行きたくなったのか?」
マイヤーからの質問に、今度はジュールが少し考えるようにして答えた。
「――やっぱ王子の警護を抜け出してパーシヴァルに行って来るっていうのは難しいよな。それに俺は会いたい人の事も知らないからね」
「どういう事だよ?」
意図を掴めないマイヤーはジュールに聞き返す。するとジュールは頭を掻きながら小さく告げた。
「お前がどこまで知ってるか分からないけど、俺はルヴェリエで二体のヤツと戦ったんだ。でもそこで知ってしまった。ヤツの正体がパーシヴァルの幹部兵士の変わり果てた姿だったという事をね。だけど二人とは命懸けの戦いの中で、最後に分かり合えることが出来たんだ。だからもし可能であるなら、二人の家族に彼らの最後の想いを届けたかったんだよ――」
ジュールは少し口惜しそうに呟いた。彼はハイゼンベルクが最後に一目会いたいと告げた、パーシヴァルにいる家族の事を思い出していたのだ。パーシヴァル軍の元副将という肩書を待つハイゼンベルクの親族であるならば、見つけ出す事は可能なはず。しかし現状は自由に行動する時間は無いに等しい。それにもし出会えたとしても、何を伝えれば良いのか分からない。彼らがヤツになった事なんて、とても伝えられないのだから。ジュールはグッと奥歯を噛みしめている。どうすることも出来ない無念さを噛み殺しているのだろう。ただそんな彼に対してマイヤーはゆっくりと首を横に振る。そしてジュールの肩にそっと手を添えると、自身の考えを穏やかに告げた。
「自分に課せられた使命を見失うな。今お前が成すべき事はパーシヴァルを気遣う事じゃないんだからな。もっと大局的に考えなければ、本来倒すべき敵すら見失う事に成り兼ねないぞ。もともとお前は器用じゃないんだし、全てを一人で抱え込んだってフン詰まるだけだろう。お前は自分の最も得意とする事に集中していればいいんだ。例え重要な事案であったとしても、手に余るものならそれは放っておけばいい。その為に俺達はお前に協力するんだからね」
「でもさマイヤー。お前はどうしてそこまで俺に力を貸してくれるんだよ。これは金の貸し借りなんかとは次元が違うんだ。いくら幼馴染だからって、命を懸ける理由がお前にあるとは思えない。この戦いは想像を遥かに凌駕する過酷なものだ。それは実際にヤツと戦った事のあるお前なら、十分に分かっているはずだろ。だからこそ俺は理解に苦しむよ。俺に協力してくれるのは嬉しいけど、今度は片目だけじゃ済まないかも知れないんだからな」
ジュールはキツい視線をマイヤーに向けながら彼を諭した。しかしマイヤーはそれを軽く受け流すようにしながら受け応える。彼が命を懸けてまでジュールに協力する理由。それは至って単純なものであり、そして仲間との絆を大切にするマイヤーの性質の表れでもあったのだ。
「豚顔のヤツと戦った半年前の廃工場の戦い。俺はそこで見たんだよ。右目を青白く光らせて戦うお前の姿をね。正直ビビったよ、あの時はさ。まさかお前にあんな化け物じみた力が眠っていたなんて、想像すらしなかったからな。意味の分からない恐怖で震えが止まらなかった事を今でもはっきりと覚えている。でも同時に感じたんだよ。ジュールは普通の人とは違うのかも知れないけど、でもその力は人にとってとても大切なものなんじゃないかってね。そしてそれはストークス中将からの話を聞いて確信に変わったんだ。やっぱりお前の身に宿る途轍もない力は、人類が生き残るための鍵になる力なんだとね。恐らくお前自身にしてみれば、それは受け入れ難い事象であり、身を焦がすほどの苦痛なのだろう。なにせ人の持つ力とは根本的に性質が違うんだからな。それでもお前は目覚めてしまった。ならばその宿命にどう向き合うか。お前はもう、その答えを出してしるんだろ? だったら俺がそれに協力を惜しまない理由は無いさ。お前は覚えていないのかも知れないけど、ガキの頃にお前は俺やヘルムホルツを命懸けで守ってくれたんだから」
「えっ、俺がお前達を守る?」
「そうだよ。あの腐った街はガキが生き抜くには厳し過ぎる場所だった。いっそ死んだほうがマシだと考えた事なんて、一度や二度じゃないんだからさ。そんな過酷な環境でも、俺はお前やヘルムホルツとつるむ事でそれなりに楽しく生きることが出来た。言い換えれば、俺が今を生きていられる一番大きな要因はお前の存在なんだよ。俺はお前に何度も助けられた、それは紛れの無い事実なんだ。だから今度は命を懸けてでも俺がお前に協力する。それはヘルムホルツも同じ気持ちなんだと思うよ」
マイヤーは軽く微笑みなが告げた。普段から冷静さを失わない彼は、それと同じくらい自らの胸の内を表面化させることは無い。そんな彼が本心を語ったのだ。それゆえにマイヤーの言葉一つ一つの重さが真摯にジュールに伝わってゆく。そしてジュールは改めて再認識した。マイヤーはいつも自分の背中を見続けていてくれたのだという事を。
ろくに考えもしないで突っ走る自分を後方から援護してくれるのはマイヤーだった。そんな彼の心強いサポートを無意識のうちに信頼していたからこそ、俺は無茶が出来ていたんだとも思った。そしてそんな自分を後ろ盾してくれるのはヘルムホルツも同じであり、また今回共に獣神に挑むアニェージやリュザックも同じはずである。掛け替えの無い仲間という存在に気付いたジュールの胸は熱く高鳴る。そして彼はマイヤー達の協力を心から感謝するとともに、それを大切に受け入れたのだった。ジュールはマイヤーの前にそっと手を伸ばすと、握手を求めながら言った。
「もう野暮な事は言わないさ。これからもヨロシク頼むよ、マイヤー」
「こっちから買って出た協力なんだ。出し惜しみはしないつもりさ」
ガッチリと硬く握手を交わす二人。男同士の友情とは、本来言葉なんていらないのかも知れない。それほどまでに二人の胸の内は分かり合っていたのだ。ただマイヤーは少し表情をしかめて付け加えた。
「でも一つだけ言わせてくれ。正直キツかったぜ、パーシヴァルで俺達に向けられた人々の視線はさ。状況によっては今後パーシヴァルに行くこともあるだろう。その時は覚悟を決めてくれよな」
マイヤーの言葉にジュールは強がる様に微笑むと、固く交わした握手に目一杯力を込めたのだった。