#50 雉隠れの摩天楼都市(前)
東の空に輝く太陽からの陽差しが酷く眩しい。ジュールは目を細く窄めながら、走る列車の車窓よりその光に照らされた光景を眺めていた。
広大な農地を真っ二つに分かつ様に、真っ直ぐなレールが延々と続いている。ジュール達一行を乗せた列車は、そのレールの上をゆっくりとしたスピードで前進していた。遠く先に見えるのは国境のある山岳地帯のはずだ。でも変わり映えの無い景色は極めて退屈である。そして列車の奏でる一定の振動が心地良さに拍車を掛けて、夜通しの職務を遂行する彼らを夢の世界へと誘って行った。
王族の専用機にて早朝にグリーヴスへと到着したジュール達は、空港から都市部に向かう列車へと乗り換え移動していた。空港とグリーヴスの中心部まではおよそ30キロほどの距離がある。今はちょうどその中間地点あたりといったところか。ボックスシート型式を採用した客車では、ジュールとリュザックが肩を並べ、その正面にはヘルムホルツが座っており、また通路を隔てた席にアニェージとソーニャが相向かいに腰掛けていた。
列車の中は静まり返っている。客車にはジュール達以外にも政府関係者が数名乗車していたが、彼らも徹夜の仕事の影響で眠っているのだろう。3両の車列で編成された王子移送のための臨時列車は、時折すれ違う対向列車の風圧を浴びて揺れるものの、睡眠を阻害するほどには至らずに、安全な進行を続けていた。ただ程なく進むと列車は周囲を農地に囲まれた人気の無い駅に停車する。どうやら後方より迫る特急車両を避けるのが目的の様だ。
考えてみれば無理も無い。いくら王子の為に誂えた列車だとはいえ、今は朝の通勤や通学の時間帯なのだ。決められたダイヤを乱してまでは運行しないのだろう。5分ほどの停車を告げるアナウンスが車内に流れてくる。それを上の空で聞き流していたジュールは、ふと遠くに見える牧場の様な場所に視線を向けた。
麦畑が広がる中に緑色をした大地が顔を出している。木製の柵で囲われている様子からして、何かしらの動物を放牧しているのは確かな様だ。しかしまだ朝が早いせいか、動物の姿を見る事は出来ない。これといって気になったわけでもないが、それでもジュールは意識無くその牧草地を眺め続けていた。するとそんな彼の目に一頭の黒い牛の姿が映り込んだのだった。
距離があるため正確には分からないが、黒光りする艶やかな体つきより、精悍で逞しい牛なのであろうと想像することが出来る。牛舎より他を先んじて、一頭のみ駆けて来たのであろうか。ただそんな牛を目に止めたジュールはふと呟いた。
「へぇ。グリーヴスの牛っていうのは黒いのか――」
彼にとっては特に何の意味も無かったのであろう。それは睡魔が圧し掛かる状態で呟いた他愛のない発言なのだから。しかしその言葉を正面で耳にしたヘルムホルツには、ジュールの発言は彼の素直な意見として聞こえていた。そしてヘルムホルツはジュールに対して小さく反発してみせる。彼にとってジュールの考え方は、少し粗末なものに思えたのだ。
「フン、何を言っているんだジュール。お前の言い方じゃ、グリーヴスにいる全部の牛が黒い色をしているみたいに聞こえるぞ。寝ぼけているのは分かっているが、良く聞いてくれよ。正解はグリーヴスの牛の中には黒いものがいるって事さ」
得意げにヘルムホルツは告げた。彼は科学者であるがゆえに、物の言い方までにも細かいのであろう。ただそんなヘルムホルツに今度はリュザックが一言持論を諭すように促した。
「俺だったらこう思うきね。グリーヴスには少なくとも一つの牧草地があって、その牧草地には少なくとも一頭の牛がいる。そしてその牛の少なくとも片方の面は、黒い色をしちょるって事だがよ」
一見こじ付けとも言えるリュザックの主張にヘルムホルツは目を丸くする。ただその表情はどこかリュザックを末頼もしく見つめるものであり、改めて見直したといったものであった。でもリュザックの言った見解に深い意味合いなど読み取れないジュールは、大きく欠伸を漏らして目に涙を浮かべている。彼にしてみれば、別に牛が何色をしていようとどうでも良い事なのだ。むしろ皆が起きていた事の方が気になるくらいなのだから。だがその時、張りのある声でジュール達は呼びかけられる。唐突の勇ましい声に一驚しながら振り返るジュール達。そんな彼らがそこで目にしたのは、意味有りげに口元を緩ませたトーマス王子の姿であった。
ジュール達は一斉に腰を持ち上げる。のんびりとした雰囲気に飲まれていた彼らは、不覚にも王子の接近に気付かなかった。仕舞ったとばかりにジュール達は表情を硬くする。ただそんな彼らに対してトーマス王子は不敵な笑みを浮かべたまま告げた。
「おもしろい話をしているな。まぁ座れ、私に気付かなかった無礼は咎めはしない」
そう言った王子は空いたスペースだったヘルムホルツの隣に腰を下ろした。そしてジュール達も指示されるがまま着座する。一体王子は何をしにここへ来たのであろうか。苦い表情を浮かべたままのジュールは思う。王子を含む今回の他国との貿易協議に参加する関係者は、全て隣の客車に乗車しているはずだ。わざわざ警護隊士が待機するこの車両に来る必要性は皆無のはず。それなのに王子は唐突に姿を現した。恐らく協議に向けた準備に疲れたため、息抜きとして自分達を冷やかしに来たのであろう。だからあえて忍び足で気配を悟られない様に近づいて来たのだ。そうでもなければ、例え眠気に苛まれていたとはいえ、軍人である自分達が接近する人の気配を感じないわけがないのだから。だがそんな訝しい感情を募らせるジュールの気持ちをあざ笑うかの様に、王子はニヤけた面持ちを彼らに向けている。勘の良い王子には彼らの気持ちが全て御見通しなのであろう。そしてそれを楽しんでいるのであろう。ただそれでも王子は少し真面目な意見を述べ始めた。ジュール達の会話の内容について、王子には感心した事があったのだ。
「今まで気付かなかったが、トランザムの隊士っていうのにも頭の切れる者がいるのだな。私はてっきり体力だけが自慢の筋肉バカの集まりかと思っていたぞ」
王子は意味有りげに顎を摩りながらリュザックを見つめている。
「特にお前。いつも酔っぱらっている印象しか持ち得ていないが、なかなかの主観を把持しているようだな。先程のお前の見解はまるで数学者の様であった、見直したぞ。個人的な考えで言わせてもらえば、私は経済学を重んじているゆえに科学者よりは数学者のほうを信頼する傾向がある。それは曖昧な定義であっても結論づけをしてしまう科学者に対して、数学者は完全な証明の確立こそがゴールだと考えているからだ。数字は嘘をつかないもの。そしてその数字を効率よく積み上げて行くのが経済の基本。父を否定するようで気が引けるが、科学的証明は気まぐれで安っぽいのだよ。それに比べて数学的証明は純然たる完成形であり疑う余地は皆無だ。私は常々そう思っている。だからこそトランザムのような武骨な集団に、お前の様な数学的発想を持ち合わせる者がいて、純粋に感動しているのだよ」
満足げに王子は微笑んでいる。ただジュールには王子の言っている意味が何も理解できず、茫然と話を聞き流していた。朝っぱらから理屈っぽい話に気分が悪くなる。しかしジュールには早くこの場が過ぎ去ってくれないかと、時間が過ぎるのを待ち続ける事しか出来なかったのだ。するとそんな彼の投げやりな態度に気付いた王子が徐に言葉を発する。
「でもお前の一言も評価に値するぞ、ジュール。お前自身は特に考えも無しに告げたのであろうが、それでも無意識の下で発せられた言動は同時にお前の本質を現すものでもあるのだ。そしてお前の発言は天文学者の性質に近いと言えよう。未知なる将来に希望を馳せる者の考え方の典型であり、前向きな積極性を感じ取れる。お前の性格を良く表していそうだな、ジュールよ。ハハハッ」
気分良さそうに王子は声を上げて笑った。そんな王子の態度にジュールは苦笑いを浮かべている。馬鹿にされているわけでないと理解できたが、それでも彼には王子が何を言っているのかサッパリ分からないのだ。でも王子の気分が良いならそれだけで十分なはずである。ジュールはそう胸の中で一人納得していた。ただそんな和やかな雰囲気の中で、予想外に王子に対して質問を投げ掛ける者がいた。それは王子の横で身を小さく控えていたヘルムホルツであった。
「王子、一つだけ伺っても宜しいですか? 王子は先程数字は絶対的なもので嘘はつかないと仰いましたが、では【虚数】の事はどうお考えなのですか?」
無礼にも王子に向かい唐突に問い掛けたヘルムホルツの姿勢に対し、ジュールとリュザックは気を揉んだ。日頃王子と密に接触していた彼らにしてみれば、このまま気分良く王子に席を立ってもらいたかったのだ。それなのにヘルムホルツは意味不明な質問を投げ掛けてしまった。王子は誰よりも気分屋なのだ。一瞬で気分を害する事などザラなのである。そうなれば例え移動中の列車の中とは言え、どんな無茶な指令を出されるか知れたものではない。ジュールとリュザックの背中にドッと冷たい汗が流れ出す。ただ彼らの悪い予想に反して、王子は目を輝かせながら高揚に告げた。
「良い質問だ、巨漢な隊士君よ。そうだな、私はこう考えている。虚数こそが、現実を表現出来る絶対的な数字であるとね。確かに虚数は想像上の数字だ。しかし自然界ではごくありふれた現象を明確に解析することが出来る不思議な数字でもあるのだ。父の提唱する光子相対力学も虚数なしでは成り立たないしね。そして経済学においても重要な存在である。言うなれば、虚数無くして世界は構築されない完全無欠の数字といったところであろうかな。どうだね、答えになったかな。トランザムにお前のような者がいたとは記憶してなかったが、博識があるようで褒められる者だ。気に入ったぞ。それにしてもトランザムとは意外にも知識があり、体力以外にも頼りになりそうで私は嬉しいぞ」
王子は意気揚々と立ち上がる。そしてそれに釣られる様にしてジュール達も立ち上がり敬礼をした。王子はそんなジュール達に対して軽く頷く。そして元いた車両へと向かうため歩き出そうとした。ただその時、王子はふと通路の反対側の席で敬礼をするアニェージの姿を見て驚きの声を漏らした。
「今日はトランザムで驚く事ばかりだな。まさかこんな端麗な容姿の女性隊士がトランザムにいたとは不覚にも気付かなかったぞ。そなた、名は何と申す」
「ハッ。この度の王子の護衛に先だって、トランザムに所属する事になったアニェージと申します。以後、お見知りおきのほどお願いいたします」
「そうか、新任隊士というわけか。でもいくら多くの隊士が入院中だからといって、アイザック総司令がその場凌ぎで徴用した者ではあるまい。恐らくは相当に腕の立つ者なのであろう。期待しているぞアニェージ、私の護衛はしっかり頼むぞ!」
トーマス王子は強く気概を込めてアニェージに告げた。王子が直接隊士に対して名を聞き尋ねるなど初めての事である。彼女の持つ美貌に惹かれたのであろうか。ただ王子の態度からは卑猥な感覚は受け取れない。単に女性隊士が珍しかっただけなのだろう。そんな王子は座席に小さく身を竦めているソーニャの姿を見止めて続けた。
「そこの少女がアイザック総司令の姪である者か。話に聞くところ、体の調子が良くないそうだな。見るからに顔色も悪そうだ。グリーヴスで専門の医師に診せるようであるが、大事なければ良いな。でも不思議と何処かで見た事のある顔立ちに思えるが、以前会った事があるのであろうか? まぁ、私は仕事に関係する者以外は記憶から除外する性格ゆえ、覚えていないのは致し方ない事ではあるがな」
ちょうどその時、列車の再出発を告げるアナウンスが流れ出す。それを聞いた王子は軽い足取りで隣の車両へと進んでいった。
僅かな時間であったが、息の詰まる緊張感に圧迫されていたジュール達は、それから解放されてホッと胸を撫で降ろす。そして深く座席に腰を下ろして本音を漏らした。
「ふぅ、完全に目が覚めちまったぜ。やっぱ王子の近くでは気が抜けないな。それにしてもヘルムホルツ、お前は怖いもの知らずだな。王子に質問するなんんて、爆弾の導火線に火を付ける様なもんなんだぞ。こっちは肝が冷え切って変な汗掻いちまったぜ」
「まったくだきよ。今回はたまたま王子の機嫌が良かったき、事なきを得たけんど、一つ間違えれば今頃どうなっちょったか分からんぜよ」
溜息をつく様にしてジュールとリュザックはヘルムホルツに苦言を呈した。彼らにしてみれば、今回の王子の対応は奇跡とでも言いたくなるほどの平和的で円満な姿勢だったのだ。しかしヘルツホルムはそんな彼らの危惧を一蹴するかの様に、自分の感じた王子の印象を語った。
「そんなに怯えるほど王子って手強い存在なのか? むしろ俺には寛大で才能豊かなお方だと受け取れたけどね。それにこの列車の運行にしたって、王子の国民への気遣いが窺えるもんさ。いくら王族の移送とはいえ、列車の運行ダイヤを変更すれば、その弊害を庶民の暮らしが被る事になる。そしてそれは同時に庶民の利益を損なうことに繋がるんだからね」
「お人良しっていうのはお前の事を指すんだろうきね、ヘルムホルツ。確かに王子が列車のダイヤを変更しなかったのは、お前の言う通り生活の基盤に支障を来したくなかったからだがよ。けんどその本質は王子の庶民に対する配慮なんかじゃ決して無いきね。単に王子は損得勘定で動いているだけだきよ。通勤や通学に支障を来たせば、その僅かな混乱で不利益が生まれてしまうだが。王子にはそれが耐えられんだけじゃきよ。要はケチな王子が利害関係の優先順位を自分なりに付けた結果がこうなっただけなんだがね。結果論としてはお前の言う通りになっちょるが、そこまで王子が下々に配慮するなんて、俺には腹を裂いても思えんだがよ」
全面的にヘルムホルツの意見を否定するリュザックにジュールも頷いている。それに対してヘルムホルツは口を尖らせたまま腕組みをしていた。彼にしてみれば、逆にリュザックの言っている事に納得出来ないのであろう。かと言って、あえてそこに噛み付く程の事でもない。ヘルムホルツは少し不満げな表情を浮かべつつも、走り出した列車の外に視線を移した。――ただその時、彼は思わず声を上げる。先程までは視界の全てを広大な農地が埋め尽くしていたというのに、いつの間にやら車窓の向こう側に見える景色は、近代的な大都市の街並みに変わっていたのだ。
「ここがグリーヴスか。俺は初めてなんだが、この規模はアニェージが言う様にルヴェリエと大差無いな」
天を覆い尽くすほどに高く建ち並ぶビルの間を列車は進む。そして幾多の商業施設や工場地域などを横目にしながらトップスピードで走る列車は、立体的に交差するハイウエイの下を潜り抜けると、次第にその速度を緩めていった。すると今度は都市の中心部だというのに、多くの木々に囲まれた森の中に進んでゆく。もうすぐ目的の駅は近いはずだ。でも突然出現した森と、それを見下ろす様に建ち並ぶ高層ビル群が不釣り合いに共生している。どうやらグリーヴスという場所は、豊かな自然と都市がうまく融合した田園都市なのであろう。
初めてこの地を訪れるヘルムホルツとリュザックは目を丸くして驚いていた。さして有名な観光名所も無いこの街は、ビジネス目的以外の人々はあまり足を運ばない場所なのだ。にも関わらず、ここは首都ルヴェリエに匹敵するほどの賑わいを見せている。実際に足を踏み入れ、その目で確認した彼らが受けたインパクトは強烈なものであっただろう。ただその横でジュールは約一年ぶりに訪れるこの街にどこか気分を重くしていた。
経済都市グリーヴス。そこは広大な農地の中心に築かれた超近代的な田園都市であり、またボーアの反乱の事後処理を一身に担う王国東部の軍事都市でもあった。
アダムズ中央駅に比べれば半分ほどの規模しかないが、それでも列車が到着したグリーヴス駅は多くの人で溢れ返っていた。幾つもの大きなディスプレイが駅構内の壁に設置され、様々な企業のCMが矢継ぎ早に放送されている。その光景はアダムズ中央駅も同じであるが、唯一異なるのは駅構内であるにも関わらず、非常に緑が豊かである事だった。まるで駅から森が生まれているような錯覚を覚えてしまうほどに、木々や草花が至る所に植えられている。経済都市とは名ばかりで、本当は自然と農業を主体とする都市なのではないかと思えてならない。だがこの都市の狙いはそこなのであろう。
商業や工業を主体としているからこそ、そこには無機質な環境が嫌でも形成されてしまう。だから少しでも自然に回帰する意味合いを込めて、都市全体を緑で溢れさせているのだ。恐らく周囲を広大な農地で囲われ、そこに暮らす人々の心に一次産業の根深い信念が生きているからこそ、国一番の経済都市にも関わらずこうした田園都市の形が築かれたのであろう。そんな自然に満ちた都市の中心に位置する駅のホームに降り立った王子達。その周囲には彼らを出迎える為に駆け付けたグリーヴスの知事や地方議員、また数多くの官僚達の姿があった。
そんなグリーヴスの有力者達と共に、駅のホームには緑色の軍服を身に付けた軍東方支部所属の隊士達が大勢姿を現していた。王子の安全を厳守する意味ということで必要な対応なのであろう。ただその人数の多さは少し過剰なほどに思われる。いくらこの場所がボーアの反乱の戦後処理を担っているとはいえ、その物々しさには釈然としない感覚を抱いてならない。何か警備を厳重にしなければならない理由があるのであろうか。ジュール達は警戒感を僅かに高めて王子や関係閣僚を囲むように姿勢を整えていた。
王子とグリーヴス知事の立ち話は思いのほか長い様子だ。ただ話の内容は今回実施される貿易協議についてである事に間違いがない。ジュールはそんな王子達のやり取りに気を配りながらも、同時に周囲を注意深く観察していた。するとそんな彼の視界に一人の長身の男性隊士の姿が見止まった。
濃紺色の軍服に身を包んだその隊士は、背中に自身の身長と同じくらいの長刀を背負っている。歳は三十代後半といったところか。髪は男性にしては少し長めであり、色白の肌が切れ長の目を際立って印象付けている。軍人にしてはかなり男前だ。だがそれ以上に彼からは軍人としての堂々とした威厳を感じ取ることができる。ジュールは思わず生唾を飲み込んでその男性隊士を喰い入る様に見つめていた。ただそんなジュールの背中に一瞬悪寒が走る。気が付けば彼は緑色の制服を着た東方軍の隊士数人に囲まれていたのだ。
(クッ、こいつらいつの間に立ってたんだ)
ジュールは警戒心を強めてその隊士達の顔を睨んだ。しかしその隊士達はジュールに見向きもしない。グリーヴスに来たからには、王子の護衛は自分達東部隊士に任せろとでも言いたいのか。そう思ったジュールは無表情の隊士達に向かい詰め寄ろうと一歩踏み出す。だがそんな彼の肩をリュザックが掴み引き留めた。
「何するんですかリュザックさん!」
「あっち見るきね」
リュザックに言われるがまま、ジュールは彼の指示する方向に視線を向ける。するとそこでは、あの長身の隊士がジュール達に対して軽く手招きをしていたのだ。導かれる様にトランザムの面々は長身の隊士のもとに集う。すると彼は長旅を労う様に、一同に対して優しく声を掛けて来た。
「移動中の王子の警護はご苦労だったな。ただこれからのグリーヴス滞在中の警護については、我々東方支部と君達トランザムとで持ち回りで警護に当たろうと思っている。王子の対応は手が焼けるからね。少し息抜きしながら職務にあたらなければ、お互いに身がもたんだろ。それにアイザック総司令より話は聞いている。君達が自由に行動する時間を確保するためにも、そのほうが都合が良いんじゃないのかな。リュザック以外の者は初見かもしれないから自己紹介しておくが、私が東方指令の【ストークス】だ。何も起きない事を期待しているが、もし面倒な事が起きた場合には速やかに報告してくれよ」
整然とした姿からは想像できないほどに、ストークスからは親しみ易さが感じられる。上級将校であるのに、どこか職務に対して気の抜けた素振りが垣間見えるからなのか。それでもシュール達に対する気配りは行き届いている。アイザックより事前に彼らをサポートするよう依頼が届いていたのであろう。そしてストークスはジュールの前に向き直り話を続けた。
「君がジュールだね。先の戦争では私の指揮する部隊に所属していたらしいが、残念なことに君の顔は覚えていない。そこは許してくれ。でも噂は聞き及んでいるよ。ファラデーと共に鬼の働きをしたのだとね。それにアイザック総司令からも少し話を聞いている。ただ正直に言えば、私は自分の目で見たことのない事象については信じない性分だ。ゆえに【君の体】や【国王】についても未だに疑問符だらけの状態で何一つ信じてはいない。それでもアイザック総司令の切望だけに最大限の協力はするつもりでいる。まぁ、信じる信じないは私の問題だからな。現実に事態が変化すれば、嫌でも動かなければならないのであろう。面倒くさいけどね」
そう言ってストークスは大きく溜息を漏らした。その仕草にジュールは少し不安を感じる。果たして彼は本当に自分達の味方になってくれるのであろうかと。獣神の有り得ない超絶的な力を前にしたならば、普通の人間ならば平伏す事は必至のはずなのだ。ただそんな心許無さを感じるジュールに対して、ストークスは意外にも心強い行動に出る。それはジュール達をサポートするために用意された強力な助っ人の紹介であり、ジュールはその者の存在に心が躍った。
「こいつらがグリーヴスでお前達トランザムを身近で後ろ盾する隊士達だ。一個小隊ではあるが腕は折り紙付だし、何よりお前とは縁のある者なのだろう。な、ジュールよ」
そう紹介されてジュール達の前に三人の隊士が姿を現す。そしてその内の一人にジュールは目を輝かせた。そう、その隊士とはジュールと旧知の間柄である、スナイパーのマイヤーであったのだ。
「久しぶりだなジュール。それにヘルツホルムも元気そうで安心したよ」
愛用のライフル銃を肩に掛けたマイヤーは、二人の幼馴染に対して柔和に微笑みながら話し掛けた。もともと口数の少ない彼であったが、やはり幼少より共にスラムで育った二人には特別な想いがあるのだろう。その話口調にはどことなく彼の機嫌の良さが感じられる。そしてマイヤーはジュール達に向かい、自分達の担う心意を簡素に続けた。
「ストークス中将から紹介された通りに、俺の指揮する小隊がトランザムをサポートする事になった。さすがに駅じゃぁそれ以上の事は話せないが、一つ明言するとすれば俺はお前達の味方だということだ。たとえ中将が命令を撤回したとしても、俺はお前達への協力は惜しまない。それだけは信じてくれ」
「でもマイヤー。俺達に協力するって事は、命を投げ捨てる事にも成り兼ねないんだぞ。それでもお前は――」
「それ以上は控えたほうがいい。こんな人気の多い場所じゃ、誰に聞かれるか分からないからな」
悩ましい表情で話すジュールの言葉を制止させたマイヤーは、周囲を気遣う様にして目配せをした。そんな彼の配慮よりジュールは直感する。マイヤーは自分達が何を目的としているのか承知しているのだと。
共に死線を越えて来たマイヤーの軍人としての実力は誰よりも把握している。そんな彼が協力を申し出てくれたことは、これ以上望めないほどの果報であることは間違いない。でもどうしてマイヤーは危険を承知で協力する気になったのであろうか。――いや違う。彼の性質であれば、仲間の窮地を黙って見過ごすはずはないのだ。自分からは多くを語らない彼であるが、その胸の内は誰よりも仲間想いであり、またその絆を強く大切にしているのだから。昔からそんな奴だったんだとマイヤーの事を改めて思い直すジュールは、彼の頼もしさに嬉しさを噛みしめる。しかしジュールはその心情を照れ隠す様に皮肉を口走った。
「まったくお前はバカな奴だ。死に急いだって、この先に良い事なんて何もないぞ」
「そうキツく言うなよ。これでも自分の馬鹿さ加減はよく理解してるつもりなんだ。でもお前の無鉄砲さに比べれば、可愛いモンだと思うけどね」
そう告げ合った二人は硬く握手を交わす。豚顔のヤツとの戦闘で失った左目を覆う眼帯が痛々しくも感じるが、それでもマイヤーの笑顔は心強く、そしてジュールの胸の内を熱くさせた。
「お前達二人は気心の知れた者同士かもしれんがな、他の者達に対してもしっかりと自己紹介をしておけよ。私は少し王子と話があるから、お前達はホテルに向かう準備に移ってくれ」
ストークス中将はそう言い残してトーマス王子の元に馳せ参じて行った。その背中からは王子の面倒につき合わされねばならないという悲壮感が伝わって来る。恐らく彼は今までに何度も王子からの無茶な要望に応じているのであろう。そして今回のグリーヴス滞在においてもそれは変わらないはずなのだ。そうなれば必然的にジュール達に対して自分以外のサポート役が必要となる。そこで目に留まったのがジュールと同郷の出身であり、かつ人として信頼のおけるマイヤーの存在だったのだろう。そんな中将の配慮に気付いたジュールは、感謝の気持ちを込めて彼の背中に向かい軽く頭を下げる。ただジュールの畏まる想いをよそに、リュザックが卑しい声を上げた。
「まだ乳臭そうだけんど、なかなか将来性のある女子達だきね。マイヤー小隊長殿よ、早うその子達の紹介を頼むぜよ」
リュザックはマイヤーの後方に控える二人の隊士に目配せをした。一人は栗色のショートヘアが印象的な小柄な隊士であり、もう一人は深い赤茶色の髪を後ろで束ねた目つきの鋭い隊士である。そしてその二人の隊士は共に女性であった。歳はまだ二十を少し過ぎたくらいか。軍服に身を包んではいるものの、その容姿は学生に思えてしまうほどに若い。そんな二人の女性隊士をニヤけながら見ているリュザックに、マイヤーは少し呆れながらも紹介をはじめた。
「この場には事情があって来ていないんですが、もう一人を含んだ全部で四人が小隊の構成になります。まず自分が小隊長のマイヤー。そしてこっちの小柄な方が【ティニ】。髪の長い方が【エイダ】と言います。二人はボーアの反乱が終結した後に訓練所を卒業した隊士なので、まだ実践経験はありません。でもその実力は俺から見たところ問題は無いはずです。女性というだけで、訓練所ではあまり評価されていませんでしたが、間違いなく二人は同期の隊士達に比べて頭一つ抜きん出ていると俺は認めています。ティニは小柄だけど敏捷性に優れ、その身の熟しは目で追うのも困難なほどに早い。ジュールに分かり易く言えば、ティニはヘルツの女版と言ったところか。そしてエイダは剣の達人です。女だてらにその腕前は、背中に悪寒が走るほどですからね。目つきも鋭いですが切れ味も抜群ですので、悪戯だとしても余計なマネするとケガしますよ、リュザックさん」
マイヤーは不敵に微笑みながら注意を促した。そんなマイヤーに対してリュザックは頭を掻き毟りながらバツが悪そうに受け応える。
「別に手なんか出さんきよ。トランザムを馬鹿にし過ぎだきね。俺達は選ばれたトップ集団なんぜ、逆について来れるか心配なだけじゃきよ。なぁ、ジュール」
「えっ、いや、俺はマイヤーが目を掛けた隊士なら問題はないと思うけど、でも――」
突然話を振られたジュールは少し戸惑いを見せる。なぜなら彼には二点ほど気掛かりな事があったからだ。一つは彼女達も自分達が目的としている獣神の討伐について理解しているのかという事。そしてもう一つ。それはエイダと名乗った若き女性剣士の容姿についてだった。無意識のうちにジュールはエイダを喰入る様にして見つめている。そんな彼に対してアニェージが頭を小突いて注意を喚起した。
「なにを嫌らしい目で見ているんだ、お前は。所詮お前もリュザックと同じということか。ハン、これだから男ってヤツは呆れるんだよな。よく覚えておけよ。もし後輩隊士に妙なマネをしたら、本気で蹴り飛ばすからな!」
「ち、違うよ、誤解しないでくれ。俺はただ彼女に何処かで会ったことがある様な気がしただけさ」
「この期に及んでいい訳か? 男らしくないぞジュール、アメリアさんに通告するぞ!」
「いや待ってくれアニェージさん。ジュールの言っている事は間違っていないんだ」
ジュールに詰め寄るアニェージに向かい、マイヤーが制止を促して引き留める。そして彼はエイダに対して目配せをした。するとエイダは少し恐縮する素振りを見せながらも、ジュールに向かって口を開いた。
「お、覚えていて下さって光栄ですジュールさん。実際にジュールさんとお会いするのは今回で三度目ですが、尊敬する先輩隊士と同じ仕事に従事出来る事に、今は誇りを感じています。まだまだ駆け出しのヒヨッ子ですが、容赦はいりませんので宜しくお願いします」
「じゃぁ、やっぱり君は――。久しぶりだねエイダ。半年前のファラデー隊長の葬儀の時以来の再会といういわけだね」
「はい。ジュールさんやマイヤー隊長には、最後まで【従兄】と共に戦ってもらって感謝しています。今度はそんな兄に替わって私がジュールさん達の力になりたいと、微力ながらも思い定めています」
そう告げたエイダは軽く微笑んで見せた。自分から話すタイプの女性でないことは、ファラデーの血筋からして間違いは無いのであろう。でもそれだからこそ彼女なりの決意の籠った言葉と表情は、ジュールの胸を駆け抜けていった。
巡り合せとは末恐ろしいものだ。初めてジュールがエイダに会ったのは今から三年前の事。ボーアの反乱に参戦するため、ファラデーと共に出兵するジュール達を彼女は見送りに来ていたのだった。ただその時の彼女はまだ学生であったため、ジュールの記憶には残っていなかった。しかし二度目に彼女と会ったファラデーの葬儀の時に彼は告げられたのだ。従妹であるエイダが軍隊士になるべく訓練所に在籍しているのだということを。でもジュールはその時思った。出来る事なら彼女には危険な道を歩んでほしくないと。
エイダはティニほどではないものの、体つきは小柄なほうだ。その為なのか、一見すると実際の年齢よりもかなり若く見える。しかしその整った顔立ちを改めて確認してみれば、最初の印象とは真逆に大人びた所感を抱かずにはいられない。間違いなくその容姿は美人と言って否定する者はいないだろう。でもだからこそ、ジュールは酷く胸が痛んだのだ。
エイダならば一般の企業に就職し、そして幸せな生活を築く事が可能なはずである。それなのに何故彼女は兵士という過酷な仕事に就いてしまったのか。いや、それにもまして彼女は自分と共に修羅の道を歩もうとしているのだ。そしてそれは若くして命を落とすことにもなり兼ねない。まるで兄であるファラデーと同じ道を辿るかの様に。だが彼女の体に流れる血は、そう単純に未来を語る事が出来ないのかも知れない。なぜならエイダの目は、ファラデーのそれと瓜二つといったほどに似通ったものであり、その眼差しは何よりも心強いものだったからだ。そんな彼女に対し、ジュールは少し諦めたかのように聞き尋ねるしかなかった。
「ファラデー隊長の妹である君が俺達に協力してくれることは素直に嬉しく思う。でも君は俺達が何をしようとしているのか知っているのか? ファラデー隊長はその作戦の過程で無念にも命を落としたんだ。隊長がどれほどの残酷な死に方をしたのか、君は知っているはずだよね。それでも君は、俺達と行動を共にするって言うのかい?」
ジュールは真っ直ぐな視線でエイダを見つめた。その眼差しには彼女の身を心から気遣う彼の想いが込められている。ただそんな視線をエイダは真正面から見つめ返した。そこに言葉は無かったが、彼女の硬く決心した信念が強く跳ね返って来るのが理解出来た。
ジュールは折れる様にしてエイダに対して頷いてみる。少し切ない表情を醸し出しながらも、ジュールはエイダの心意気を受け止めたのだ。ファラデーと同じ血をその身に流す彼女の性格であるならば、今更何を言っても曲げはしないのであろう。ならばその強い覚悟を無駄にしないよう、俺は彼女の協力を素直に受け入れ、そして彼女を全力で守ろう。今は亡きファラデーを思い浮かべながら、ジュールは一人胸の中でそう誓ったのだった。
神妙で厳かな雰囲気がジュール達を包み込んでいる。人の生き死にが話題となり、いつの間にか重い空気に皆は苛まれていたのだ。でもそんな空気を振り払う様に、元気の良い声が発せられた。
「もうそのへんで辛気臭い話は止めましょう! 理由なんて人それぞれなんだし、一々考えても仕方ないですよ。大切なのは皆一つの方向を向いて、一致団結で行動することでしょ!」
威勢良く話出したのは小柄な容姿のティニだった。そして彼女は徐にマイヤーの腕を掴みながら話を続けた。
「ちなみにあたしがこの仕事を志願した理由は、マイヤー隊長の事が好きだからです! 隊長は奥手で全然あたしの事相手にしてくれないけど、でも仕事で良い所見せて絶対に振り向かせてみせるんだから!」
「おい、こんな時にバカな話はよせティニ!」
「そんな怒った隊長の顔も素敵ですよ」
「勘弁してくれよな。今は仕事中なんだし、俺は不真面目な奴は嫌いだ。言う事が聞けないなら隊を離れてもらうだけだぞ」
マイヤーは振り払う様にしてティニの体を離した。そんな彼の態度にティニはふて腐れながら頬を膨らませている。その仕草からして、彼女がマイヤーを慕っているのは本当の様だ。ただそんな滑稽な二人のやり取りに皆は噴き出す。あまりにも場違いな行為が逆に皆の気持ちを和らげたのだ。
「良かったじゃないかマイヤー。左目以上に掛け替えの無い存在が見つかって、なぁヘルムホルツ」
「チッ、ジュールは仕方ないとして、まさかマイヤーにまで先を越されるとは思わなかったぜ」
ジュールの振りにヘルムホルツが自虐的に応えてみせる。そんな彼らにマイヤーは冗談はよせよと言わんばかりに眉間にシワを寄せていた。それでも彼らには幼馴染特有の意思疎通があるのだろう。咎める事無く気分を変えたマイヤーは、未だ自分を揶揄しているジュール達を捨て置いてリュザックとアニェージに向き直った。
「ジュールとヘルムホルツの事は腐れ縁で良く知っているし、リュザックさんとアニェージさんについてもアイザック総司令を通じてストークス中将より聞き及んでいる。ですから俺達にあなた達の紹介はいりません。後は実際に状況を見極めながら対応して行きましょう」
そう告げたマイヤーにアニェージは頷いてみせる。ただ彼女は一つだけ聞き返した。
「小隊にはもう一人いるって言っていたが、それはどういった人物なんだ?」
「あぁ、すっかり忘れてました。もう一人は男性の隊士で歳は四十代中頃の人です。仕事ぶりについてはハンパ無い能力の高さを持っているのですが、ただ一つ欠点がありましてね。今もそれで仕事を休んでいるんですよ」
「欠点? 何なだきよ、それは」
リュザックがマイヤーに質問を続けると、マイヤーは少し決まり悪そうにしながら答えたのだった。
「食い物に目がないんですよ。旨い物なら腹がイカれるまで喰い続けてしまう悪い癖があるんです。それで食あたりになって、一昨日から入院しているんですよ。まったく恥ずかしくて面目がありません」
「フン。まぁどこの部隊にも大抵一人くらいは問題のある奴がいるモンさ」
アニェージは呆れながら肩を並べるリュザックを見つめた。
「それはどこぞの誰の事を例えているんだきか? 教えてほしいがよ」
「まぁまぁ、お喋りはこの辺にして、とりあえず滞在するホテルに向かいましょう。こんな場所じゃ込み入った話なんて出来やしないし、それに王子の立ち話も終わったみたいだしね」
マイヤーに促される様にしてジュール達は王子のもとに視線を向ける。ストークス中将を先頭にした王子達の集団は、すでに駅の改札方面へと歩み始めていた。
緑が豊かなせいなのか、ムッとした湿気の多さに少し不快感を覚えてならない。そんな慣れない環境の中で、ジュール達は王子に遅れないようにと速足で歩みはじめた。そして波導量子力学の微かな息吹がこだまする、グリーヴスの市街地へと移動して行ったのだった。




