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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
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#49 木の芽時の出立(東風に濁る理の諦観4)

「これは?」

 写真を手にしたアイザックは、小首を傾げながらジュールに向かい問い掛ける。その様子からして、総司令もその写真に写る山道に心当たりはなさそうだ。ジュールはそう気に留めるも、萎縮するソーニャに代わり説明した。

「その写真はソーニャと一緒にアカデメイアに拉致されていたアスリートが持っていた品です。そのアスリートはルーゼニア教の熱心な信者だったらしいんですが、ソーニャが施設を脱出する際にそれを彼女に託しました。ルーゼニア教のボイル総教主代行に渡してほしいと言い残して」

「ボイル殿に?」

「はい。どうやらその写真は【誘道(いざなみ)】というものに通じる場所を示しているみたいなんです。どうしてそのアスリートがボイル総教主代行に写真を渡そうとしたのかは分かりません。でも恐らくはルーゼニア教に関係した何かを示す重要なものなんでしょう。なにせ拉致された状況でありながら、決死の想いでそれをソーニャに託したんですから」

「それで、そのアスリートはどうなったんだ?」

「――残念ですが、彼女はソーニャを施設から脱出させる為に犠牲となりました。いや、でもまだ死んだわけじゃありません。ただ彼女はアカデメイアに抵抗する手段として、自分からヤツの姿になってしまったんです。それなので……」

 ジュールは悔しさに奥歯を噛みしめる。彼はソーニャから聞いた凄惨な話を思い出し、湧き上がってくる居た堪れない感情を必死にかみ殺した。その姿にアイザックは伏し目がちになりながらも、落ち着いた声で所見を述べた。

「ボイル総教主代行には、私からそれとなく話をしておこう。彼は愛想があまり良くないから誤解を受けやすいんだけど、私が見たところ十分に信頼のおける人物だ。王立協会と並んでルーゼニア教も不審に思える組織だけど、それでもボイル殿ならと期待できる。ただその写真はもうしばらく君達が持っていなさい。彼に引き合わせる段取りは私の方で引き受けるが、直接その写真を渡すのは君達の仕事だ」

 アイザックは優しい眼差しをソーニャに向けながら、そっと写真を手渡した。彼女はその写真を受け取ると、軽く頷きながら微笑んで見せた。その表情に総司令もつられて笑顔を見せる。過酷な体験をしたはずの少女の健気な微笑みに総司令の胸はきつく締めつけられたが、それでも彼はそれを表に出さなかった。娘の様な歳の少女が前向きに決意しているというのに、頼りない表情など見せられるわけがない。総司令はそう感じたのだろう。ただ彼は写真に付いて思う事があり、一言だけ付け加えた。

「その写真は誘道(いざなみ)を示すものだと言ったな。確か誘道とはルーゼニア教の神話において、天界と大地を結ぶ道の名前だったと記憶している。絶対神ソクラテスと女神ヒュパティアは、その誘道を通って大地に暮らす想起神プレイトンのもとに参じたのだ。神話に語られる不確かな道ではあるが、現実に神と対峙する我らにとって、それを鼻で笑う事は出来んのかも知れない。気に留めておいた方が良いだろうな。それにしても私は無知だな。お前達に対して何一つとして明確に示してあげられない。これ程までに自分が不甲斐ない男であるとは気付かなかったよ。まったく情けないものだ。だが卑屈になってばかりでは何も進展しない。目に見えない課題ばかりが山積して気が重くなる一方だけど、それでも一つ一つクリアにしていくしか方法はないからな」

 肩を落としながらもアイザックは強い眼差しでそれを告げた。彼の言う通り、不確定要素があまりにも多く行き先は前途多難だ。それでも目の前にいる若き強者(つわもの)達は進まなければならない。アイザックはそんなジュール達の背中を後押しする事しか出来ない自分を悔やんだが、しかし彼は不退転の決意で彼らに向き直った。


 出立する彼らに少しでも勇気と希望を与えたい。そして彼らの無事を心から願いたい。アイザックは熱く切望する想いを胸にしつつも、一人一人に対して使命感に満ちた気概を受け渡そうと前に出る。ただその前にアイザックには話さねばならぬ者が一人いた。それはジュールの背後に身を置くソーニャであり、彼は彼女へと近づき膝を着いた姿勢で語り掛けた。

「ソーニャ。君にはどう頭を下げて良いかよく分からない。でも私にもっと力があれば、もっと上手にやれていれば、君や他のアスリート達を不幸な目に遭わさなくて済んだはずなのだ。本当に申し訳ない。この(つぐな)いは私の生涯を賭して責任を取るつもりでいる。それでも君の受けた苦痛は容易には取り除けないだろう。でもまずはグリーヴスで体の診断をしてみてくれ。今は不安だろうが、シュレーディンガーという私の古き友人が、必ず君を救う方法を見つけてくれるはずだからね」

 アイザックはソーニャの白い腕をそっと掴んだ。アスリートであるがゆえに、少女の外見からは想像できないほどその腕は筋肉で引き締まっている。それでも細く伸びた彼女の腕は頼りなく、また繊細で傷つきやすいものに見えた。こんな少女に二度と辛い思いはさせてはならない。アイザックはそう強く想いながら彼女の目を見据える。ただそんな悲壮感を醸し出す総司令に対してソーニャはまたも微笑み返した。彼女も十分理解しているのだ。彼が本心で自分の事を気遣ってくれているのだという事を。アイザックはその笑顔を胸に立ち上がる。ソーニャより逆に勇気を貰った彼の表情にはもう、思いつめた切迫感は無かった。そして次に総司令はリュザックの前へと進み出る。

「リュザックよ。先にも告げたが、お前には酷な対応を迫り本当に済まなかったな。でもお前の能力について、私は誰よりも評価しているつもりだ。その高い洞察力が必ずや仲間を救ってくれるだろう。そしてこの事案が全て片付いた時、お前にはストークスに代わって東方指令の座に着いてもらおうと考えている。だから今は全力で職務に励んでくれ」

「お、俺が東方指令だでか。想像出来んきよ……」

「ハハッ、いつものお前らしくないな。そんなに(かしこ)まらなくてもいいぞ。それに高みを目指すお前にとっては、悪い話ではないはずだろう。信じてほしいのは、この話は私の本心であるということだ。お前を(おだ)てるための口実でも何でもない。本来であれば私は東方指令なんていうケチな役職ではなくて、総司令の座をお前に受け継がせても良いと思っているくらいなんだよ。でも順番というものもあるからな。まずはストークスに総司令職を担ってもらい、そしてその次はお前だ、リュザック」

「ゲハッ!」

 アイザックは唐突にもリュザックの腹に拳を立てた。痛みに(もだ)えるリュザックの姿に彼は頬を緩めている。自分の告げた事を忘れるな。その痛みにはアイザックの紛れのないリュザックへの期待が込められており、地に足を付けて行動しろという(いまし)めも含まれていた。そんなアイザックに向けてリュザックは苦笑いを浮かべている。彼もまた、総司令の心情を受け止めたのだ。そしてアイザックが次に足を向けたのはヘルムホルツだった。

「ヘルムホルツ。お前は見た目の屈強さに見合わず、その内面は緻密で繊細だ。そして何より博識に満ちた科学者としての知識と(ひらめ)きは、若いながらも一目置く所がある。それはカプリスの属長でもあるラジアン博士も口にしていたから本当だ。そんなお前の知識の高さは仲間を正しい道に導くのに不可欠なもの。ただ欠点といえば、軍人でもありながらお前は肝心な時に弱腰になる傾向がある。それはお前の本来持つ優しさより生まれて来るものなのだろう。だがそれでも心を鬼にして決断しなければいけない時が来るはずだ。強く心しておけ、ヘルムホルツ。お前に必要なのは敵を倒すという粘り強い気概と、それ以上に仲間を導こうとする絶対的な使命感だ。そしてグラム博士の波導量子力学を理解してみせろ! お前にはそれが出来ると、私は信じている」

 アイザックの言葉にヘルムホルツは胸を熱くする。自分の弱点をしっかりと把握した上で、それにも増して総司令は強く自分を信頼してくれているのだ。逆に考えれば、それは大きな重圧として自分を潰し兼ねない事でもある。それでもヘルムホルツは胸を張った。総司令の肯定的な期待値の高さが彼を前向きにさせた要因の一つではあったが、それ以上に彼は科学者としてグラム博士の生み出した究極の理論を解き明かす事に想いを馳せたのだ。科学者であるヘルムホルツにしてみれば獣神に対してどう対抗するかよりも、むしろ波導量子力学の真髄を紐解く事の方が重要であると感じたのだろう。そんな彼の肩をアイザックは強く叩いた。その手からは人の未来と、それを構築するための科学理論を託された重い責任が伝わって来る。ヘルムホルツはそれを正面から受け止めつつ、拳を硬く握りしめた。

 次にアイザックが語り掛けたのはアニェージだった。

「アニェージ。君は美貌と強さを兼ね備えた頼もしい戦士だ。シュレーディンガーから君を初めて紹介された時は、その匂い立つ様な美しさに見惚れたほどだよ。でも少しせっかち過ぎるところが玉に(きず)だな。直ぐ頭に血が昇り熱くなってしまう。しかし状況によっては足を止め冷静に行動しなければならない場合があるのだ。負けん気の強さは誇るべき才能ではあるが、それは紙一重で無謀に変わってしまうのだからね。恐らく君は今まで一人孤独に戦い続けていたんだろう。その中で自分の身を守る防衛策として、自然と身に付いた対処がその踏込みの素早さなんだな。その行動力は称賛に値するものではある。しかし君がこれまで無事に生きて来れたのは、幸運に恵まれたからに他ならない。でもこれからはそんな運頼みは止めてくれ。なぜなら君はもう一人じゃないからだ。君の周りには肩を並べて共に戦う心強い仲間がいる。そんな彼らを時に頼り、時に助けてほしい。その相互関係が君の強さをより高めてくれるはずだ。一人独断で行動した方が楽に思える事もあろう。だがな、アニェージ。人という生き物は身近に守るべき存在がいると、自分でも信じられないほどの力を発揮出来るものなんだよ。君の持つ強烈な攻撃力は我らに無くてはならない戦力だ。でもそれ以上に君の持つ闘志の強さは、きっと仲間を窮地から助け出す原動力になるはず。常に平素を保てとは言わんが、もう少し気を楽に持て、アニェージ。あまり怒った顔は似合わないし、せっかくの美人が大無しだぞ」

 アイザックとアニェージはガッチリと握手を交わす。総司令の告げた話は彼女自身も重々把握しているはずだ。だが果たして戦場でそれが私に出来るのだろうか。アニェージの心には不安に駆られた迷いがある。それはそうだろう。彼女は今まで一人孤独に幾度もの窮地を乗り越えて来たのだ。それが突然仲間と共に行動する事になった。ジュール達が信用に値する強者(つわもの)どもであるのは理解している。ただいざという時、彼らに背中を預けられるのか。恐らくそれはその状況に身を置かねば分かるまい。それでも彼女はアイザックの手の平より伝わる熱意に心が震えた。そして彼女は一人誓う。総司令が私を信頼してくれるように、私も共に戦うジュール達を信じてみようと。新たな信念を強く抱くアニェージ。そんな彼女にアイザックは一言添えた。

「シュレーディンガーについては、あまり責めないでやってくれ。あいつが君に何も告げなかったのは、間違いなくあいつの優しさなんだからさ。まぁ、それは君も本心では理解してくれていると思うがね」

 目尻にシワを刻みながらアイザックは微笑んで見せた。そして彼は最後の一人であるジュールの前に立った。


「ジュール。私がお前を初めて見たのは、まだお前が軍に入隊したばかりの訓練生時代の時だ。軍隊士として特に秀出た能力を感じたわけではないが、それでも私はお前が気になった。ギラついた眼差しは熱く、また充満する活力は恐怖すら抱かせるほどに(たぎ)っていた。一目で分かったよ。お前は他の新人隊士達とは違い、すでに命を懸けた修羅場を経験しているんだとね。ただそれ以上にお前からは心を揺さぶられる魅力を感じたんだ。当時はそれが何であるかは分からず、お前が己自身(おのれじしん)の胸に秘めた確固たる信念のせいなのかと思ったりもした。だが本当の所は私の想像を遥かに超えるものだったんだな。あえて呼ばせてもらおう【月読の胤裔(いんえい)】よ。お前の身には神話に語り継がれる【護貴神(ごきしん)】の力が宿っている。そしてその力こそが、獣神を討つ最後の切り札と成り得よう。まだお前自身受け入れらず戸惑っているだろうが、それでもその片鱗は垣間見ているはずだ。そしてそう遠くない未来にお前は真なる護貴神(ごきしん)の力に目覚めるはず。【月読の奏】を感じてね」

「総司令……」

「月読の奏がどういったものなのかは残念ながら知り得ていない。いや、そもそもそれを知る事が出来るのは、護貴神の力をその身に宿した月読の胤裔(いんえい)だけなんだろう。ただそれでも私には言える事がある。それはこの先のお前の身に、筆舌に尽くしがたい試練や困難が待ち受けているという事だ。強大な力を手にするというのは、必然的にそれに見合うだけの責任と覚悟を背負う事になる。たとえそれが自らの意志とは関係なくてもだ。不条理極まりなく妥当性に欠き、まったく理屈に合わないと嘆きたくもなるだろう。しかしそれこそが否応なく受け入れなければならない【宿命】というものなんだよ。ゆえにお前はその責任という使命に押し潰され、粉々に打ち砕かれるかもしれない。ただそれがどれ程の苦しみであるのか、すでにお前はグラム博士という親愛なるたった一人の家族を失い、その身を持って哀しみの大きさを理解しているはずだ。そしてこの先さらにお前は大きな悲しみをその胸に刻む事になるだろう。どこまでも現実は残酷であり、それは決して避けられぬ事象としてお前を待ち受けているのだからな。だがそれでもお前には立ち止まっている時間は無い。後ろを振り返るなどもってのほかだ。でもだからこそ、お前には覚えておいてほしいんだよ。それはお前が【人】であるという事だ。そして同時にお前はグラム博士の息子であるという事だ。それは何者も(くつがえ)せない【事実】なんだからね」

 アイザックは熱い眼差しをジュールに向けながら語り続ける。

「お前の身に宿る神の力。それは獣神と同じく我々人類にとっては理解出来ない未知の強さだ。そんな人の考える常識を逸脱した絶対的な力は、物理科学といった世の(ことわり)を完全に無視している。だからといって、それを見て見ぬ振りする事は出来んのだ。無慈悲にもそれは現実として目の前に存在するのだからね。そしてお前はそんな理解不能な力を意図せずとも生まれ持ってしまった。それによりお前は今後、想像し得ないほどの試練に苛まれるだろう。私には痛ましくも、背負った宿命にもがき苦しむお前の姿が目に浮かぶよ。でもな、ジュール。それでも突きつけられた矛盾や欺瞞(ぎまん)に屈することなく、逆行を諦めないことが最終的にお前自身を救うはずだ。だからこそ、あえて言わせてくれ。


『難しく考えるな』


 お世辞にもお前は頭が良いとは言えんし、そもそも理屈で行動するタイプでもなかろう。小難しい理論や謎解きはヘルムホルツ達に任せて、お前は直感で進め。要らぬ事に頭を回し、肝心な時に頼りにならなければ意味がないからな。今お前がするべきは、秘めた力を早くコントロール出来るようになり、そして私の指示に従い獣神に挑んでくれさえすればいいのだ。【神】の真相がなんであれ、本来なら例え軍人であったとしても、お前達の様な若者が自分の命を投げ売ってまで挑むほどの義務や価値はないのだからね。無責任で気休めな言い方に聞こえてしまうかも知れないし、私の言っている事こそ矛盾しているのかも知れない。でもこれだけは覚えておいてほしい。困難を打開し、未来を切り開く力。それはやはり現実に縛られないお前達のような若者の力なのだ。私は歳をとり過ぎてしまった。気付かぬ内に社会や組織との(しがらみ)に囚われ、今ではもう雁字搦(がんじがら)めな状態だ。そんな私に出来る事といえば、敵であれ味方であれ未来を担う若者に対し、今の世を背負っている大人の生き様なり散り様を見せつけて、新しい時代を背負うことの覚悟を問うことだけなんだよ。だからお前達は私の背中を踏み台にして、先に進んでくれさえすれば良いのだ」

 アイザックの真っ直ぐな言葉がジュールの胸を駆け抜けてゆく。総司令の発する熱い意気は否応なく彼の闘志を掻き立て、そして宿命に挑む為の気迫を奮い起こした。ジュールは激しく背中が泡立つのを感じ身震いしている。そんな彼にアイザックは強い願望を込めて告げた。

「それでもお前は自らの宿命に打ちひしがれる時が来るかも知れん。でもその時には【彼】がお前を救ってくれるだろう」

「彼?」

 首を傾けるジュールに向かい、アイザックは柔和に微笑みながら応えた。

「ラヴォアジエだよ。炎の鏡に封印されし銀の(わし)にその姿を変化させた【元アカデメイア特殊諜報部隊副官】の彼さ。そんな彼こそが我々にとって最大の味方であり、そして誰よりも明確な方向性を私達に示してくれる存在なのだ。彼はもう動き始めている。エクレイデス研究所での戦闘でその身を(ひど)く傷つけながらも、ラヴォアジエは行動することを優先した。炎の鏡の庇護(ひご)があれば、例え致命傷に至る傷を被ろうとも回復は可能なはず。しかし体を癒すには長い時間を必要とするため、来年の千年祭に間に合わなくなる。恐らく彼はそう判断したのだろう。だから彼は傷を負ったままの状態にもかかわらず、黒き獅子の討伐を先決したのだ。今現在彼が何処にいるのかは分からない。それでもそう遠くないうちに、必ずやお前達の前にその姿を現すだろう。そしてジュールよ。ラヴォアジエと正面から向き合った時、お前は理解するはずだ。お前の中に秘められた【月読の力】の本当の意味をな。その時のお前が何を感じ、またどう動くのかは予想すら出来ない。でも私は信じているよ。きっと彼との邂逅(かいこう)が、お前にとってこの上なく有意義なものであるとね」

 アイザックは徐にジュールの顔の前に腕を伸ばす。そして彼の(ひたい)を強く指で弾いた。

「痛っ!」

 ジュールは反射的に額を手で覆いながら痛みを堪える。ただ不思議と彼はその痛みに心地良さを感じた。額を弾いたアイザックの指先より、熱い決意までもが伝わって来たのであろうか。でもそう思わなければ納得出来ないほどの強い意気込みが、ジュールの胸の奥から溢れ返って来る。そして彼は思う。アイザックから未来を託された自分達若者が成すべき事とは何か。漠然としか言い表せないが、それはまず総司令のように現実を徹底して見据える覚悟を持つ事ではないのかと。自分が想像しうる限りその覚悟は生易しいものではない。しかしそれ無くして目的は果たせないはずなのだ。直感としてそう思うジュールの心は、前向きに挑もうとする挑戦的な意識と、この先何があっても折れずに立ち向かえるのかという後ろ向きで悲観的な理性で矛盾していた。それでも彼の胸に馳せる想いは熱く唸りを上げる。それが羅城門で一度見た、あのラヴォアジエの姿を思い出しているからなのだということを、ジュール自身は不覚にも気付いていない。でも真実の扉は開き掛かっている。あとはそれを目いっぱい開く勇気と覚悟だけなのだ。ジュールはグッと奥歯を噛みしめ力を溜めている。そんな彼の肩に手を添えたアイザックは、最後に彼ら若者達を送り出す気概の籠った言葉を贈った。

「未知なる真理の大海は眼前に果てしなく広がっている。その大海は大しけで波は荒れ狂っていると言えよう。でもお前達なら果敢にもその波を乗り(こな)し、遠く先にあるはずの輝かしい未来を手に入れられるはずだ。そしてその未来はお前達のものであり、またお前達の子孫へと受け継がれてゆく時代という名の至宝なのだ。期待しているぞ、みんな。そして託したぞ、未来を!」



 アイザックの私室を後にしたジュール達は、それぞれの想いを胸に歩みを進めた。総司令の告げた一つ一つの言葉が重く彼らを抑えつける。だがそれでも彼らの足取りは堅実で確かなものだった。アイザックの言葉は耐え難い重圧を感じさせつつも、それ以上に若者達を強く前向きに駆り立てていたのだ。

 先行きの不安が払拭されたとはとても言えない。いや、むしろ未来は前途多難で真っ暗闇だ。それでもアイザックの意志をその胸に刻み込んだ彼らには、僅かばかりの光が見えている気がした。

 今自分達に出来る事は、総司令の指示に従い着実に任務を遂行するのみ。そして地道に粘り強く歩み続ければ、結果は(おの)ずと付いて来るはずだ。口には出さずとも、ジュール達はそんな共通した想いを抱きながら長い邸宅の廊下を進む。ただジュールはふと総司令の顔色の悪さを思い出し、ヘルムホルツに問いかけた。

「総司令から感じる貫禄や覇気は凄かったな。改めて俺は鳥肌が立ったよ。でも体調は見るからに悪そうだった。総司令自身は問題無いなんて言ってたけど、あれが強がりだって事くらいは俺でも分かるよ。相当無理が溜まっているんだろう。少しは休む時間とか作れないのかな?」

 ジュールは心配そうにアイザックを気遣う。そんな彼にヘルムホルツは同意しながら応えた。

「確かにその通りだな。でもそれが許される状況でないのも理解できる。歯がゆいモンだぜ、俺達にはそれでも総司令に(すが)るしかないんだからね。なんでも総司令は今日この後、キュリー首相と一緒にルヴェリエの知事のところに行って、復興計画の打ち合わせするらしい。精神的にも相当堪えるはずだよな」

 軍人でありながらも、政治的な仕事を多岐に受け持つ多忙なアイザックにジュールは気を揉んだ。でもヘルムホルツが言う通り、悔しくも今の自分には総司令を助けるだけの力がない。ジュールは遣り切れない感情に苛まれる。するとその時、通路に面した扉の一つが開いた。そしてその部屋の中より、使用人の押す車椅子に乗った中年の女性が現れた。

 ジュール達は思わず歩みを止める。なぜか息を飲む様な緊張感を覚えて仕方ないのだ。ただ見たところその女性からは決して嫌悪感の様なものは感じられない。それどころかホッと気が休まる安堵感を抱くほどだ。それなのにどうして身動きが取れないのだろうか。体を硬く膠着(こうちゃく)させた彼らに向かい、車椅子の女性はゆっくりと近づいて来る。そんな女性の姿から目が離せないジュールは、激しい動悸を感じて胸を抑えた。

 白く長い髪を後ろに束ねたその女性は、恐らくは総司令と同じくらいの歳なのだろう。口元の法令線や目尻のシワが、歳を重ねた大人の年輪を視覚的に認識させる。ただそれでも彼女の顔立ちは、同年代の女性のそれと比較すれば遥かに見目麗しい貴婦人の佇まいをしていた。ただ彼女からは貴族の淑女特有である、(あで)やかさや華やかさといった優美なものは感じない。むしろ涼やかで透明感に溢れる端正なその姿は、凛としながらもどこか物哀しい雰囲気を醸し出している。ジュールはそんな彼女を知っていた。ただ彼は近づく女性から目が離せず、無意識にも更にきつく胸を抑えつけていた。

 ジュール達は車椅子の邪魔にならないようにと、廊下の脇に並び立ち止まっている。すると車椅子の女性は彼らとすれ違う際、ニッコリと微笑んで見せた。その表情にジュール達は思わず背筋を伸ばし一礼する。香り立つような笑顔に皆は一瞬眩暈(めまい)を起こすほど心を揺さぶられた。

 儚くも可憐(かれん)無垢(むく)な笑顔。それは穏やかな温もりを感じさせつつも、目を離した隙に消え失せてしまいそうな危うさをも感じさせる。そんな心許(こころもと)ない彼女の後ろ姿を見送りながら、一同は大きく息を吐いた。

「なんだか不思議な雰囲気のご婦人だったな。魅力的とは少し違うけど、独特の存在感があったよ。なぁ、ジュール。お前はあの女性(ひと)が誰だか知っているのか?」

 ヘルムホルツはまるで荘厳(しょうごん)な存在を(あが)める様な顔つきでジュールに尋ねた。すると彼は一瞬だけ戸惑う素振りを見せ口ごもる。それでもジュールは絞り出すような声で彼女の素性を告げた。

「あ、あの女性(ひと)はアイザック総司令の奥方様だよ。俺は以前、テスラに招かれてこの屋敷に来た時に紹介されている。でも奥方様は随分と前から体調が良くないみたいなんだ。何年か前に初めてお会いした時も車椅子だったよ」

 ジュールがそう言うと、得心した素振りでアニェージが口走った。

「そういう事なの。面識があったから、ご夫人はジュールに微笑み掛けたのね。でもあの笑顔はちょっとヤバかったよ」

「ん? どういう事だよアニェージ。あの笑顔はすれ違う皆に向けたものだろう」

「バカなの。あれはどう見たってジュールに向けたものでしょ。ねぇ、リュザック」

「あぁ、そうだきね。俺もあの笑顔はジュールに笑い掛けたモンだと思ったでよ。それにしても女神の様な優しい顔だったがよ、タマゲタきね」

「い、いや、そんなはずないよ。だってあの女性(ひと)は――」

 ジュールは思わず口から出そうになった言葉を無理やり飲み込む。彼女が自分に対して微笑むなんて有り得ない。だって彼女はもう……。ジュールは以前にテスラから聞かされた夫人の体調を思い出し口を閉ざした。そんな彼の背筋に今まで感じた事のない慄然とした感覚が突き抜ける。まさかあの時の笑顔も自分に向けられたものだったのか――。

 本来であればもう、彼女は自らの意志で感情表現を露わに出来ないはずなのだ。自分はおろか、親族にすら些細にも感情を表面化しないだろう。しかしジュールは思い出す。確か以前にも彼女にお目通りした時、先程と同じように彼女は笑顔を見せた。とても穏やかで優しい眼差し。だがその笑顔に彼は腑に落ちない違和感を覚えてならなかった。慈悲深く物柔らかい笑顔の奥に、身震いするほどの怖さを感じる。決して身の危険を感じるわけではないが、それなのに何故そんな感覚に支配されるのかは分からない。ただ胸が張り裂けるほどにズキズキと痛む。彼女の笑みに何かの意味が隠されているとでもいうのか――。意も知れぬ不安を無理やり振り払うかの様に、ジュールは足早に進み出した。


 屋敷の外は強い南東からの風で荒れ気味だった。唸りを上げた生暖かい強風が、大木を薙ぎ倒すほどの勢いで吹き抜けていく。まるでグリーヴスに向け出立する若者達を粗暴に持て成しているかの様だ。ただそんな荒々しい風の中をジュールは意に介さないで速足に進んでいた。

 彼は一刻も早くアイザック総司令の屋敷から離れたい一心だったのだ。なぜ急にそんな気分に陥ってしまったのか。それは総司令夫人の微笑みを見たからに他ならず、ジュールの胸の内は吹き荒れる天候と同じくらい(よど)んだ抵抗感で渦巻いていた。ただそんな彼に対し、後方より駆け寄ったアニェージが肩を掴んで呼び止める。ジュールの急な態度の変化に気付いた彼女は、落ち着きの見えない彼の態度に気を揉んだのだ。

「ちょっと待ちなよ、ジュール。そんなに急いでどうするのよ!?」

 心配そうに目を細めたアニェージは掴んだ彼の肩に力を込めた。しかしジュールは反射的にその腕を振り払う。

「痛っ」

 アニェージが思いのほか強く弾かれた腕に痛みを覚え表情をしかめる。無意識だったとはいえ、なんて事をしてしまったのか。ジュールは乱暴にも彼女に害を成してしまい気が引けた。そして直ぐ様アニェージ対して謝ろうと向き直る。だがそれよりも早く彼女はジュールの胸ぐらを掴み上げた。アニェージは息苦しさを感じ(もだ)える彼に向かい、静かながらも凄味のある口調で言い放つ。

「せっかくアイザック総司令から未来に立ち向かう覚悟を(さと)されたというのに、お前はなんでそんなに狼狽(うろた)えているんだよ。少しくらいの胸騒ぎに一々惑わされるな。そんな事じゃ、総司令やグラム博士の意志なんて継げやしないよ!」

 説教を告げるアニェージの視線は厳しい。ただそれはジュールの行く末を心配した事に他ならず、どんな状況下であっても動じずに前を向いてほしいという彼女の励ましの現れだった。そんなアニェージの配慮を感じ取ったジュールは目だけで頷く。彼は明確な理由も分からないまま平静さを失っていた自分を恥じた。ジュールの少し気落ちした力感がアニェージに伝わる。すると彼女は掴んだ胸からそっと手を離した。そして近寄って来るヘルムホルツとリュザックに目配せしながら指示した。

「二人は先に車に戻ってて。弱腰のコイツに気合を叩き込んでやるからさ!」

 そう言ってアニェージはヘルムホルツ達に強く握りしめた拳をかざした。

「少しは手加減してやれよ、アニェージ」

「ヘン。気の抜けたバカに活入れるがかは、ボコボコにするのが早いきよ」

 ヘルムホルツとリュザックは嘲笑しながら駐車場に向け進み出した。ジュールを愚弄(ぐろう)する二人の冷たい態度が皮肉めいて勘に障る。しかし彼らとて、ジュールが不安に駆られていた事は見抜いていたはずだ。ただ彼らとしても、ここでジュールを奮起させるには、優しい言葉を掛けるよりもきつい叱咤のほうが効果的であると感じたのだろう。そしてその役目を自分から買って出たアニェージに任せたのだ。

「覚悟は良いよね。歯を喰いしばりな!」

 アニェージは吐き捨てると同時に再度ジュールの胸ぐらを掴んだ。グッと口を(つぐ)んだジュールは目を閉じる。彼自身もまた、改めて気合を入れ直してほしいと思ったのだ。

 些細な事に気持ちがブレていたら先が思い遣られる。ここは一発ぶん殴られて気持ちを切り替えたい。そう思った彼は耐え兼ねない激痛を覚悟しながら奥歯をきつく噛みしめる。そして次の瞬間、アニェージは硬く握りしめた拳を振りかざした。

「ガッ」

 強い衝撃を感じながらもジュールは思わず目を見開く。首に痛みこそ感じるが、それは想像とはかけ離れる息苦しい感覚だったのだ。ただ彼は即座に状況を把握する。アニェージはジュールを殴るのではなく、首を抑え込んでヘッドロックを極めていたのだった。

 彼女の脇で締め上げられたジュールは息苦しさに咽返(むせかえ)る。ただそんな彼に対してアニェージは小さく囁いた。

「今この場所でグリーヴスに行く事をアメリアさんに報告しなよ。あいつらが居たらお前、変に気を使って話さないでしょ」

「な、なんでアメリアに一々言わなきゃいけないんだよ」

「ハァ。これだからお前みたいな男はダメなんだよ。いいか、これから先はある意味戦場なんだ。死地に向かうっていうのに、恋人へ報告無しっていうのはおかしいでしょ。別に身に危険が及ぶかも知れないなんて野暮な事は言わなくていい。下手に心配させるだけだからね。でも一言出立を告げるというのは、お前が思う以上に大切な事なんだよ。ガサツで鈍感なお前には理解できないだろうけどね!」

 アニェージは抱え込んでいたジュールの首を解くと彼の前に向き直る。そしてジュールの頬を両手で挟みながら言った。

「女っていうのはさ、しっかりと言葉で伝えてもらいたいものなのよ。気持ちの上でも分かってはいるけど、それを表に出してほしいの。それだけで女は安心するんだから、別に損はないでしょ」

 アニェージは口元を緩めながらそう告げると、振り返り駐車場に向け歩み出した。そんな彼女の後ろ姿を眺めながらジュールは思う。自分は軍人として今まで数々の戦地へと(おもむ)いて行った。結果的に見れば無事に生きていられるものの、いつ死んでもおかしくない状況に何度も出くわす経験をした。そんな死地へ向かう自分を見送っていたアメリアは、一体どんな気分だったのだろうか。顔には一切出さない彼女ではあったが、当然ながらその胸の内は穏やかではなかったはずだ。それなのに自分は今まで真面(まとも)に戦地に向かう報告をした事が無い。本当に自分は馬鹿だ。誰よりもアメリアを大切に想っておきながら、彼女の気持ちを御座なりにしていた。自分にばかり都合よく解釈し、彼女の献身的な気遣いを軽んじていたのだ。そんないい加減で不誠実な自身の対応に気が付いたジュールは自責に駆られる。でもだからこそ、今度こそはちゃんとアメリアに伝えよう。彼女は俺の言葉を待っていてくれるのだから。ジュールはそう強く意識しながら携帯端末を取り出した。


 通話履歴よりアメリアの名前を表示させる。端末を握るジュールの手は微かに震えていた。彼女に対してこんな気持ちで連絡を取ろうとした事などあるわけがない。通話が(つな)がるまでの(わず)かな時間に、ジュールの心は只ならぬ緊張感でみるみると溢れ返っていった。

 これなら戦場で命を削っている方が遥かにマシな気がする。ジュールは胸の中でボヤキながらアメリアに繋がるのを待ちわびた。ほんの少しの時間がえらく長いものに感じられる。彼女は仕事中だから電話に気付かないのではないか。接客中で電話に出られないんじゃないのか。逃げ出したくなる軟弱(なんじゃく)で臆病な意気地(いくじ)の無さに、彼はまたしても自分に都合の良い理由ばかりを頭に浮かべた。しかしそんなジュールの女々しくもだらしない胸の内を見透かすように、端末越しからアメリアの張りのある声が響いて来る。

「もしもし、どうかしたのジュール?」

 心の片隅でアメリアに通話が繋がらない事を祈っていたジュールは、少し面食らった様に当惑し狼狽(うろた)える。それでも彼は空元気を張り、柔弱な気持ちが悟られないよう努めた。

「あ、あぁ。今、電話大丈夫か? 大した事じゃないから、仕事中だったら後でかけ直すけど」

「別に大丈夫だよ、今お店暇だし。それにね、私の方もジュールに伝えたい事があったの。だから丁度良かったんだ」

「俺に話したい事?」

「うん。アパートでジュールとアニェージさんを見送った後なんだけどね、お母さんの住む田舎から連絡があったの。交通事故に()って、お母さん入院したんだって」

「おばさんが! それで容体はどうなんだよ」

「うん、外傷としては軽い打撲程度みたいで大した事はないみたい。でもお母さんももういい歳だし、それに頭も打ったかも知れないから検査だけはするんだって」

「そうか、それならとりあえずは一安心だな」

 ジュールはホッと胸を撫で下ろす。予想だにしないアメリアからの報告に彼は驚いたが、それでも良く知るアメリアの母親が不慮の事故ながらも体が無事だったことに安堵した。そんな彼に端末越しのアメリアは、自身の今後の予定を告げる。それは母を気遣う彼女の優しさの現れであった。

「急なんだけど私、お母さんの所に行こうと思うの。無事なのは分かってるんだけど、やっぱり心配だからね。それでさっき店長に事情を説明したら、一週間くらいなら休んでも良いよってお許しもらえたんだ」

「そうか、良かったな。しばらく田舎に帰ってないから、おばさんもアメリアに会えば喜ぶだろう。せっかくだから、ゆっくりしてこいよ」

「うん、分かった。ジュールの事もお母さんによろしく伝えておくね。でも不思議なのよね。実は私、ちょっと前から田舎に一度帰りたいなって考えてたの。でも私、最近仕事休みがちだったじゃない。だからなかなか店長に言い辛くてさ、少し悩んでたんだ。そんな時に連絡があったから、不謹慎だとは思うんだけど、なんか都合良く感じちゃってね。不思議だなぁって思ってたの」

 アメリアは妙な運の巡り合せに少し戸惑いつつも、それを首尾よく受け止めていた。彼女は疎遠になった母に会う機会を、天の女神様が授けてくれたと思っているのかも知れない。ただそんなアメリアにジュールはふと尋ねる。

「でも何で田舎に帰ろうなんて思ってたんだ?」

 ジュールの質問にアメリアは一息置く。そして彼女は少し照れくさそうに、その理由を告げた。

「この前ジュールとプルターク・タワーに行った時、お母さんの話をしたでしょ。あの時からお母さんの事が少し気になってたんだよね。それにジュールから(もら)ったショールを見たら、無性に田舎が恋しくなってさ。ホームシックにでもなっちゃったのかな?」

 端末越しでありながらも、恥ずかしそうに顔を赤らめるアメリアの表情が思い浮かぶ。恐らく彼女は生まれ育った北の町を想像し、湧き上がる故郷への想いを馳せているのだろう。そんなアメリアの優しい胸の内に共感したジュールは、不思議と自分自身も胸の温まる感覚に包まれていた。

「俺の事でアメリアには気苦労掛けたからな。たまには田舎で骨を休めるのも悪くはないよね。でもおばさんは怪我人なんだから、くれぐれも無理はさせるなよ。お前は直ぐおばさんに我がまま言うからさ」

「分かってるよ。今回は私がお母さんの我がままを聞いてお世話しますので、ご安心ください! それはそうと、ジュールは何の用事があったの?」

 本題に戻す様にアメリアはジュールに聞いた。

「あぁ。王子に同行してグリーヴスに向かう件なんだけどさ、やっぱ急で今夜出発になったんだよ。色々と準備もあるし、今日は戻れそうにないから連絡しとこうと思ってさ。でも王子のグリーヴス出張は五日間の予定だから、ルヴェリエに帰って来るのは俺の方が早いかも知れないな」

「危険な事は無いんでしょうね? ジュールは仕事の話をしないから私心配だよ。お願いだから無茶はしないでよね」

 簡素な言葉ながらもアメリアの正直な気持ちがジュールに伝わる。彼女は誰よりも自分の事を気に掛けてくれているのだと。そんな彼女の想いにジュールは後ろ髪を引かれる気がした。

 これから自分の歩む道は、死と隣り合わせの危険極まりない過酷な道なのだ。志半ばで倒れるかも知れない。待ち受ける未来は命が幾つあっても足りないほどに厳酷で無慈悲なものなのだから。それでも自分は博士や総司令の意志を胸に、不退転の覚悟でその未来に立ち向かう事を決意した。硬く決めたその信念は何者も覆せやしない。しかしその覚悟は彼女にとっては受け入れられるものではないはずなのだ。もしも自分の命が失われるような事態になれば、彼女は深く傷つき絶望してしまうだろう。だから彼女には口が裂けても告げられない。全てを有りのままに伝える事を優しさとするならば、自分の考えは歪んだその場(しの)ぎの誤魔化しなのかも知れない。でも今の自分には正直に話をする気はなかった。ズレた感覚だとは認識しつつも、彼にはそうする事しか出来なかったのだ。


 自責に駆られるジュールは胸の中でゴメンと呟いていた。その謝罪はアメリアに隠し事をする良心の呵責(かしゃく)であり、自身に対する戒めでもあった。早く事を成し遂げ、彼女と平穏な生活を営みたい。心からそう願うからこそ、ジュールは強く自分を咎め、逆に気持ちを奮起させようと努めたのだ。それでも彼は一言だけ言葉に出して謝った。それは危険な行く末を告げられぬ後ろめたさに対してではなく、以前より胸につかえる思いへの謝罪であった。

「ごめん、アメリア。最近ずっと気になってたんだけど、なかなか伝えられずにいた事があるんだ」

「なに、急に改まって。なんの事?」

「結婚式の事だよ。本当ならこの春には挙げようって言ってたのに、ゴタゴタしてて何も決められなかったからさ。本当に、ごめん……」

 ジュールは恐縮しながら謝った。アメリアの幸せを思うと、彼は胸が締め付けられた。彼女は自分との結婚を待ち望んでいるはず。それは自分とて同じであるが、でも女性の幸せは男の考えるそれとは大きく異なるはずなのだ。そんな乙女心を自分は(ないがし)ろにしている。彼女を一生守り続けたいと真剣に想うからこそ、ジュールはそれを面目(めんもく)ないと真に()じていた。ただそんな彼の胸の内を逆に気遣うよう、アメリアは穏やかに返した。

「ちゃんと気に掛けてくれてたんだし、私はそれだけで十分だよ。式なんていつでも挙げられるんだから、また落ち着いたら考えれば良いじゃない。それに今は亡くなったグラム博士の喪に服す時期でしょ。一年くらい待ったって、私は全然大丈夫だよ」

 気丈にもアメリアは声を張った。確かに彼女の言う通り、今は亡き博士を弔う時なのかもしれない。でもその心意では彼との結婚を待ち望んでいるはずである。しかし彼女は自分の募る感情を抑制し、それを表に出そうとはしない。そんなアメリアに対し、ジュールは改めて頭を下げる思いになった。アニェージもそうであるが、女性というものは肝心な時にどうしてこれほどにも強くなれるのだろうか。でもだからこそ、そんな彼女達を命懸けで守り、精一杯幸せにするのが男の使命なのだとジュールは思う。そして彼は恥ずかしさを噛みしめながらも、アメリアに向かい純粋な想いを伝えた。

「式はまだ無理かも知れないけどさ、今度ルヴェリエにもどったら入籍だけでも済ませようか。そうすれば晴れて俺達は夫婦になれるしね。どうかな?」

 端末越しにジュールの提案を聞いたアメリアは押し黙っている。どうやら溢れ出て来た涙を必死に堪えているようだ。それでも彼女は絞り出す様にして彼に返した。

「うん。ありがとう、ジュール。私、嬉しいよ……」

 目に見えない微弱な電波で繋がった二人を穏やかな雰囲気が包み込む。人の人生からしてみれば、それはほんの些細な幸せに過ぎないのかも知れない。それでも彼らにしてみれば、それは掛け替えのない至福なのだった。

 短い時間だったが、幸せな一時を共有した二人の気持ちは長閑(のど)やかに和む。ただ惜しまれるも彼らはそれぞれの道に出立しなくてはならなかった。ジュールは今すぐにでもアメリアをきつく抱きしめたいと感じたが、それをグッと胸に仕舞い込んで旅立ちを彼女に告げた。

「じゃぁ行って来るよ。仕事中だと出られないけど、端末は繋がるはずだから何かあれば連絡くれ。アメリアも気を付けて行って来いよな」

「うん、分かった。ジュールも何かあったら連絡してよ。あと、くれぐれも無茶だけはしないでよね」

 幸せを感じる優しい気持ちは、出立するジュールを強く勇気づける。はじめはアニェージに(うなが)され、嫌々ながらアメリアに連絡を取ったはずだ。それなのに今は彼女と会話が出来た事に心が躍っている。これほどにも清々しく戦場に向かえるなんて初めてなんだと。

 今までは気恥ずかしさや後ろめたさを隠ぺいする為に、あえて彼女に戦場へ向かうのを告げずにいた。でもそれは自分勝手な勘違いだったのだ。彼女は誰よりも俺を信じ、そして困難に立ち向かう勇気を与えてくれる。どうしてもっと早くにアメリアに対して向き合おうとしなかったのか。彼は悔いる様に自分を律した。でもこれからは違うのだとも彼は思った。

 今回彼女に初めて旅立つ報告をした事で、彼は改めて学んだのだ。アメリアの存在意義の大きさと、それを生涯守り通さねばいけないという使命感に満ちた義務を。そんな自身に課せられた大義は重責である。しかしそこから生じる使命感は勇気や闘志を掻き立てるものであり、決して拒絶感を抱くものではない。絶対に諦めないと湧き上がる強い意欲にジュールは胸を熱くする。そして彼はこれから向かうグリーヴスの地がある東の空を見上げた。必ず目的は果たす。そしてアメリアと幸せになってみせる。彼はそう強い決意を胸に刻みながら、未来に繋がる青い空を見続けた。

 ジュールが視線を向ける東の空に、黒い何かがヒラヒラと宙を舞っていた。遥か上空に舞うその黒い何かに気付いたジュールは目を細める。そして彼はその正体が、一羽の雲雀(ひばり)であると把握した。

 見たところその雲雀(ひばり)は風上に頭を向けて飛んでいる。その姿はまるで逆風に立ち向かっているかの様だ。そんな雲雀を眺めながらジュールは思う。強く風の吹き荒れる上空を、よくも器用に飛べるものだと。でも例えるなら自分の進む未来もあの空の様に荒れ狂っているはずなのだ。だから俺もあの雲雀みたいに、逆風にも負けず愚直にも一途に進まねばならない。ジュールは激風の中で悠然と翼を広げる雲雀に自身を重ね合わせて気合を入れた。そして峭刻(しょうこく)たる宿命に挑むよう、勇壮な足取りで歩み始めた。



 翌日の早朝、強い暁光(ぎょうこう)がアイザック総司令の私室に流れ込んでいた。もうすでにジュール達はグリーヴスに到着した頃だろうか。しかし椅子に深く腰掛けたアイザックは、そんな事に考えを巡らしてはいなかった。なぜなら彼の胸には深く刃が突き立てられた傷跡があり、そこから大量の血液が流れ出ていたからだ。

 顔面を蒼白に変えたアイザック。そう、彼は息絶えていた。何者が何を目的としてアイザックを殺害したのか。ただ彼の死顔(しにがお)は、どういうわけか穏やかに口元を緩ませていた。

 アイザックの死。それにより時代は急転を迎える事となる。彼の死は単に一人の軍高官が死んだことで済まされるものではなかったのだ。まるでダムが決壊し、せき止めていた大量の水と土砂が一気に押し流される様に世界は混沌としたものへと変化してゆく。

 だがジュールはこの事実をまだ知らない。むしろ彼は自身に誓った強い決意を胸にして、前向きに進もうとしているはずだ。しかし残酷なまでに容赦なく、悪しき宿命はその(きば)を剥き出しにして若き戦士に狙いを定めていた。まるでそれは標的を狩る準備を整え終えた怪物が、虎視眈々と獲物を喰らう機を(うかが)っているかの様でもあった。

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