#04 冴返りのホーム(後)
あの月夜の戦場でテスラがヤツの首を跳ね、その姿が人のものに変化したのとほぼ同時にジュールは気を失う。そしてそれを見ていたヘルツは声すら出すことも出来ず、終わりを告げた戦場をただ呆然と見続けていた。しかしそんな彼の体も激闘の影響で全身に激痛が走り、意識が途切れそうになる。だがその時、ヘルツは目にした。月明かりに照らされたジュールの体が一瞬銀色の輝きを放ったのだ。
「何だ?」
ヘルツは激痛に耐えながらも、目を凝らしてジュールの体を食い入る様に見つめた。意識の覚束ない状況で、目の錯覚でも起こしたのであろうか。いや、そんなはずはない。一瞬だったが間違いなくジュールの体は目が眩むほどに輝きを放ったはずだ。でもあの光は閃光弾の光とは明らかに異なるし、まして他に発光物など身に付けているはずがない。ならば彼の何が光ったというのであろうか。全身に激痛を抱きながらも、ヘルツは目前で発生した奇妙な現象に考えを巡らせた。だが直ぐに彼はジュールの異変に気付く。そしてヘルツは俄かに信じ難い状況に目を疑ったのだった。
赤玉の爆風からヘルツを庇った時の衝撃で、ジュールの背中は焼けただれボロボロのはずであった。そして短刀を引き抜いた肩の傷からは、とめどなく赤い血が流れ出ていたはずだった。だが驚くべき事に、ヘルツが見たジュールの背中には火傷の傷跡など一つも無く、また肩からの出血は完全に止まっていたのだ。
「そんなバカな事が……。でも見間違えじゃない、ジュールさんの体の傷は回復している。でもどうして、うっ……」
悲鳴を上げる体にヘルツは一瞬気を失いそうになる。尋常でない激痛に気が狂いそうだ。それでもヘルツは必死に痛みを堪えながら目を見開き、ジュールの体に視線を向ける。するとそんな彼の背中に異質な悪寒が走り抜けた。いつの間に移動したのであろうか。気を失うジュールの横に、ヤツの首を撥ねたテスラが立っていたのだ。
ジュールを見つめるテスラの眼差しは凍てつくほど冷たく感じる。冷酷なまでに容赦なく敵を駆逐するかの様な陰惨な視線だ。でも仲間であるジュールに対し、どうしてテスラはそんな鋭くも非道な視線を差し向けるのであろうか。ヘルツにはまるで理解できなかった。彼の背中を駆け抜ける奇妙な嫌悪感は更に増してゆく。全身の激痛と過度の疲労の影響で自分はおかしくなってしまったのであろうか。目の前の状況に混乱するヘルツは取り乱す一歩手前だ。それでも彼はこの後に、テスラが瀕死のジュールを介抱するものと信じた。二人はここまで共に死線を乗り越えて来た仲間同士なのだ。疑う余地はまるで無いはず。しかしヘルツの願望は無残にも崩れ去る。彼の視線の先では、テスラが今まさに信じられない行動を実行しようとしていたのだ。
「えっ……」
ジュールの脇に立つテスラは静かに刀を鞘から引き抜く。そしてその刀を逆手に持ち直すと、自らの顔の高さに構えた。刃の向け先は間違いなくジュールであり、その刀は月明かりを浴びて怪しく輝いている。テスラの姿勢は冗談と呼べるものではない。明らかにその刀には殺気が宿っているのだ。危機迫る状況に、ヘルツは激痛に顔をしかめながらも懸命に体を起き上がらせる。そして今にも刀を振り降ろしそうなテスラに向かい強く叫んだ。
「なっ、何をしているんだテスラさん! そこに倒れているのはジュールさんなんだぞ。今すぐ刀を鞘に戻すんだ!」
必死に止めようと叫ぶヘルツの声が廃墟に響く。その絶叫は間違いなくテスラに聞こえているはずだ。しかし彼はその声を無視して小さく呟いた。
「ごめんね、ジュール」
「やめるんだ、テスラさん! やめろっ!!」
ヘルツの叫ぶ制止の言葉は意味を成さず、テスラは刀をジュールに向け振り下ろす。一直線に突き出された刀は、無慈悲にもジュールの体を串刺した。――と思われたが、それよりも僅かに早く、突如として猛烈な衝撃が廃墟全域に波及したのだ。
「ズガガガーン」
足元から突き上げられる凄まじい衝撃によって、大地は大きく揺れた。そしてその衝撃によりテスラは体勢を大きく崩す。彼の突き出した刀は紙一重のところで軌道を逸れ、ジュールの体を外し地面へと突き刺さった。
突然の大地震にヘルツは身を屈めて耐え忍んだ。ただその間も彼はテスラの動向から目を離さなかった。ヘルツはジュールの無事を確認すると、ホッと胸を撫で下ろす。だが緊迫した状況は未だ脱してはいない。大地に刺さった刀を引き抜き、再度テスラがジュールを狙うまでには数秒も掛からないはずなのだ。極度の焦燥感にヘルツは苛まれてゆく。そしてそんな彼をさらに失望させるがごとく、地震の揺れは完全に収束してしまった。このままではマズイ。どうにかジュールさんを助けなければ。
しかし体は言う事を聞いてくれない。歯がゆさを抱くヘルツの心情は悔しさで憤っている。それでも彼は懸命に足掻いた。このまま手を拱いて見ているだけなんて、耐えられるはずがないのだから。
ゆっくりと刀を掴み取るテスラの姿が目に飛び込んでくる。こんなところで諦めてたまるか! ヘルツは僅かに残った精神力のみで立ち上がった。だがその後の一歩が踏み出せない。それもそのはず。彼の体はとうの昔に限界を超えているのだ。むしろ立ち上がった勇猛さを褒めるべきであろう。でも今はそんな事に何の意味も持ちはしない。ジュールを救えなければ全てが終わってしまうのだから。
彼の視線の先では無情にもテスラが刀を構え直している。もうダメなのか――。ヘルツがそう思った瞬間、彼は今まで感じたことのない凄まじい殺気を肌で感じ身を強張らせた。
殺気の正体はジュールに刀を向けるテスラのものではない。その証拠に猛烈な威圧感は背後から判然と感じ取れる。それにしてもこの尋常でない凄味のある殺気は何なのだ――。ヘルツは恐る恐る振り返り、殺気の発せられる場所に視線を向けた。するとそこで彼は思いもよらぬ存在を目にしたのだ。
ヘルツが目を向けた廃工場の屋根の上。そこには月を背にして立つ一体の【ヤツ】の姿があったのだ。だがそこに現れたヤツは先程まで戦っていた醜い獣の姿をしたヤツとはまったく異なり、精悍な【狼の顔】を持つ凛々しい姿をしていた。また銀色に輝く体毛で全身は覆われており、その背中には巨大な翼を携えていた。そしてジュールに刃をかざすテスラを睨みつけるその右目は、地獄の炎のように真っ赤に輝いていた。
そんなヤツからヘルツは目が離せない。どこか気品漂う銀色に輝くその美しいヤツの姿に、彼はただ見惚れていたのだった。
時間の流れが急激に遅延した様な感覚がヘルツを包み込む。まるで時が止まってしまったかの様だ。しかし実際には時間が止まる事などあるはずが無い。ヤツに見惚れるヘルツの集中力が、無意識でありながらも極限にまで高められた結果なのだ。そして彼同様にヤツの存在に気付いたテスラもまた、指一本動かす事なくヤツを見据えていた。自身に向け放たれる強烈な殺気に、さすがの彼も萎縮しているのだろう。
急転する事態を余所に廃墟は恐ろしいほどに静まり返っている。一瞬先に何が起きるのかまったく予想出来ない状況の中で、ヘルツは吐き気を覚えるほどに憔悴していた。
それでも唯一救われているのは、今のところジュールは無事だということだ。ヤツを気に掛けるテスラは完全に停止し、動く気配がまるでない。今の内にどうにかジュールを救えないものか。ヘルツは張り詰めた状態に飲み込まれながらも、意識の無いジュールに留意する。ただ彼はふと不思議な感覚に気付く。つい先程まで感じていた纏わり付く様な悍ましい殺気が消え失せているという事に。そしてその代わりに今では深い愛情から生まれる安らぎの様な温かい感覚が、周囲を包み込んでいる事に気付いたのだ。
ヤツはジュールを見ていた。その眼差しはとても優しいものだった。ただどこか哀しいものでもあった。
「ダダダダダダっ!」
突然唸りを上げた激しいマシンガンの銃声が後方より鳴り響く。ヘルツは反射的に耳を抑えその場に身を屈めた。後方支援部隊が駆け付けたのであろう。ヘルツは体を小さく窄めながら、廃墟の屋上に佇むヤツの姿に視線を向けた。そんなヤツに向け数え切れない銃弾が浴びせられる。鳴り止む事を忘れたほどに響き渡る銃声が、その攻撃の凄まじさ感覚的に理解させた。
しかし一体どこの部隊が現れたのであろうか。ヘルツは少し怪訝に思う。これほどの攻撃力を有し、また一糸乱れぬヤツへの襲撃は並みの部隊では不可能なはずだ。まして攻撃の対象であるヤツは、当初より軍に報告されている姿とは違い過ぎるものである。一般の隊士であれば、少しは怯んだり気後れするものであろう。しかし攻撃の凄まじさからは気迫に満ちた闘争心が受けて取れる。まるで初めから銀色に輝くヤツと戦う事を謀っていたかの様だ。暴風雨の様に放たれ続けるマシンガンの銃声は一向に収まらない。だがヤツは巨大な翼を広げると、悠然と夜空に飛び立ち銃弾をかわした。その姿にヘルツは思う。ヤツもまた、彼らの襲撃を予期していたのではないかと。ただそんな彼の耳に大声で怒鳴る男の声が聞こえた。
「現れたぞ【ラヴォアジエ】だっ! 逃がすな!」
ヘルツはその声がした方向に視線を向ける。するとそこに黒い制服に身を包んだ九人の兵士が現れた。
「コ、コルベット――」
徐にヘルツは呟く。その揃いの黒い制服からして間違いはないはずだ。そう、彼らは国王直属の近衛部隊コルベットの隊士達だったのだ。
突如としてヘルツの前に姿を現した王国最高の隊士達は、ヤツへの攻撃をより一層強めてゆく。アダムズ王国軍の誇る最新の装備を武装した彼らは、人間とは思えないスピードで走りラヴォアジエと呼ぶヤツを追ったのだ。強力なナパーム弾やビーム砲が立て続けに発射される。しかしまたしてもヤツは容易にそれらを避けた。ヤツは攻撃を仕掛けるコルベットをあざ笑うかのように、上空を優雅に旋回している。まるで戦場をゆっくりと観察しているかの様だ。だが突然ヤツは向きを変え急降下をはじめる。猛スピードでヤツが目指す先。そこには未だジュールに向け刀を構えたままのテスラの姿があった。
凄まじいスピードで向かってくるヤツに対し、テスラは冷静に刀を鞘に納める。そして彼は居合いの体勢を取って、真正面からヤツを迎え打った。豪速のヤツの体とテスラの放った居合の斬撃が激しくぶつかる。
「ガキンッ!」
鈍い鉄の音が周囲に伝わる。だがそれと同時にテスラの体は数メートル吹き飛ばされた。彼の放った斬撃はヤツの強固な肉体に弾き返されたのだ。さらにその衝撃によりテスラの刀は粉々に砕かれ飛散してしまった。
テスラの攻撃を跳ね返したヤツは、そのままの勢いで再度上空に舞い上がろうとする。再び天高く舞い、そしてもう一度テスラに攻撃を仕掛けるつもりなのかも知れない。しかしヤツの銀色に輝く体は宙に浮かなかった。ヤツの背中にあったはずの巨大な翼の一枚が、テスラの居合により切り落とされていたのだ。
粉々に舞い散った刀の破片が月明かりに反射し、周囲を幻想的な風景に仕立て上げている。そんな中で飛立つことの出来ないヤツは、大地を転がりながら廃工場の壁をなぎ倒す。そしていくつもの壁を破壊したヤツは、その衝撃でようやく体を止めた。
ヘルツは目の前で起きている現実とは思えない出来事に言葉を失った。だがそんな彼の思いなど意に介す事なく、コルベットは攻撃を続けるための体勢を整えていた。
「チャンスだ! 戦闘隊形【アントリオン】、αチームは弾が尽きるまでラヴォアジエを打ち続けろ! βチームは【プラズマ・トマホーク】の準備を即座に整えるんだ!」
隊長らしき人物の指示の下、コルベットは迅速に作戦を遂行する。彼らは四方より翼の切り裂かれたラヴォアジエと呼ぶヤツを取り囲んだ。そしてヤツに向けガトリング砲による一斉射撃を始めたのだ。
雷鳴を思わせる轟音を響かせ、数万の弾丸がヤツに向け打ち続けられる。これほどの攻撃であるならば、対象を姿なきまでに破壊できるであろう。それ程までにコルベットの放つ攻撃は、常識の範囲を超える凄まじさだった。しかしヤツはその常軌を逸した攻撃をも耐え抜いている。ヤツは自身の周囲に目に見えない球体状のバリアを形成し、コルベットの攻撃から身を守っていたのだ。
「あれが【迦具土】の力か。だがその力も永久なものではない。構うことなく打ち続けるんだ!」
隊長の下知により攻撃は維持され続ける。そして鳴り止まぬ発射音で襲い掛かる数多の強弾は、着々とヤツを追い詰めていった。ヤツの張る迦具土と呼ばれるバリアは、徐々にではあるが確実に小さくなっていく。もう少しでヤツを倒せるかも知れない。コルベットの隊士達に微かな期待感が芽生える。しかしそれと同時に撃ち続けるガトリング砲にも変化が表れ始めた。過度の摩擦熱により赤々と色づいた銃身から白煙が吹き上がったのだ。そしてヤツを取り囲む四方向からの攻撃の内、弾が尽きたことと銃が破損したことで二方向からの攻撃が停止した。だがその時、間髪入れずに隊長が命令を飛ばした。
「プラズマ・トマホーク、放てっ!」
ガトリング砲での攻撃の間に、ヤツの四方に人の身丈ほどの金属の支柱が大地に突き立てられていた。そして隊長の攻撃命令を合図に、ヤツを中心として支柱同士が電極となり凄まじい高圧放電が発せられたのだ。
「グギャァァァ」
迦具土は消え去り、もろに電撃を受けたラヴォアジエは絶叫する。その聞くに堪えない悲鳴からして、ヤツに相当なダメージを加えている事は確かなのであろう。青白い閃光を走らせる高圧放電は、ラヴォアジエの命を削り取っていく様だ。それでもヤツは強烈な電撃に必死に耐えている。ヤツの肉体とはどこまでタフで強靭なのであろうか。人の体であれば一瞬で灰になるほどの熱をその身に受け続けるラヴォアジエ。だがそんな過酷な状況の中で、ヤツは何処からともなく小さな白い玉をと取り出した。
「何をするつもりか分からんが、そのまま放電を続けろ!」
コルベットの隊長はラヴォアジエの仕草を注意深く監視しながらも、攻撃の手を緩めようとはしない。しかしヤツとは人の考えの及ばない未知の相手なのだ。それを強く肝に銘じている隊長は、不測の事態に備えて彼自身もラヴォアジエに向けてビーム砲を構えた。そんな隊長を一視したヤツは、電撃を受け続けながらもその赤い目を鋭く光らせる。そして取り出した白い玉を勢いよく地面に押しつけた。
「ビキーン」
鼓膜を突き破るような高周波の衝撃が、ヤツを取り囲む者全員の脳に直接響く。またそれと同時にプラズマ・トマホークからの放電が止まった。
一体何が起きたのだというのであろうか。突然の衝撃で一瞬気が遠のいたコルベットの隊士達は膝をつき攻撃の手を止めた。脳がグラつくほどに揺れ、彼らは立つ事すら困難なほどの眩暈に襲われていたのだ。その中で唯一コルベットの隊長だけは必死に衝撃に耐え忍んでいた。そして彼はヤツに向けて構えていたビーム砲の引き金を引いた。
「!?」
隊長は驚きの表情を浮かべる。どう言う分けか、何度引き金を絞ってもビーム砲が発射されないのだ。
「クソッ、ヤツめ。電子兵器の制御を狂わせたのか。ならば!」
ふらつく足を無理やり踏ん張りながら、隊長は背中に背負っていた長刀を抜き放つ。そしてヤツに向けて瞬足に駆け出した。
「対ラヴォアジエ用に開発された大刀【十拳封神剣】が一つ、モデル【天乃尾刃張】。その威力、その体で思い知れ!」
隊長は猛然とヤツに詰め寄ってゆく。彼の構えた長刀は不気味に紫色の光を放ち出した。相手を恐怖感で塗りつぶすほどの威圧的な覇気がその長刀から放たれる。ただ自身に向かってくるコルベットの隊長を赤い目で睨んだヤツは、一言低い唸り声を上げた。
「グゥオォォ――」
突如としてヤツの体から業火が吹き上がった。その灼熱の炎の凄まじさたるや、何者も寄せ付けぬほどに赤熱しているのが一目で分かる。だが隊長はもう一歩というところまでヤツに近づいていた。ここで攻撃を止める事は出来ない。いや、はじめから隊長はヤツに刀を叩き込む事しか考えていないのだ。自ら炎に飛び込んだ彼は、長刀天乃尾刃張をヤツ目掛けて全力で振り抜いた。
「ズバッ」
巨大な業火が真っ二つに切り裂かれる。そして更にその炎は急速に鎮火していった。隊長の放った斬撃の風圧で掻き消えたとでもいうのか。いやしかし炎は消えたというよりも、消滅したと表現したほうが正しいほどにその姿を無きものとしている。瞬間的に何かしらの現象が起きた事は間違いない。だがそれ以上に攻撃を仕掛けた隊長は、驚嘆と沈痛の入り混じる面持ちで刀を構え直していた。なぜならそこに居たはずの、ヤツの姿までもが消えていたからだ。
「どこだ!」
叫びながらも隊長は即座に反応する。彼は戦場で培った直感を頼りに頭上を見上げた。すると炎の塊が天高く舞い上がって行くのが分かった。
隊長以下コルベットの隊士達、また戦況を傍観していたヘルツは上昇する炎の塊の動きに釣られながら視線を上空へと向ける。そんな彼らの視線を一身に受ける炎の塊は、そのまま夜空高くで静止した。解釈不能な状況にヘルツは固唾を飲んで炎の塊を見続けている。だが彼の目にする前で、炎の塊は急激に形を変えはじめた。そして破裂するほどに膨れ上がった炎は、一気に形状を変化させると、再び翼の蘇えったラヴォアジエの姿になったのだ。
「くそっ、【火之夜藝】の力か――」
悔しさに身を震わせながら隊長は小さく呟く。しかし隊長に残された力はもう無かった。高周波による衝撃と業火の圧力によって、彼の体力は極限までに消失していたのだ。精神的にも折れた隊長は、力無くその場に倒れ込んだ。
ラヴォアジエはそれを空中に留まりながら確認していた。黒く大きな翼を広げたヤツからは、文字通り高みの見物をしているかの様な優位性を感じることが出来る。ヤツとは一体何者なのであろうか。言葉無くその姿を見つめるだけのヘルツは改めてそう思った。ただヤツはいつの間にか視線を隊長から他に移している。ヘルツはまたも釣られる様にして視線をその先に向けた。しかし彼はギョッと目を丸くする。そこには意識無く倒れる【ジュール】の姿があったのだ。
ハッとしたヘルツは反射的にヤツへと視線を向け直す。すると彼は意味も分からず胸が締め付けられそうになった。ラヴォアジエがジュールを見つめる眼差し。それは柔和でありながらも、遣る瀬無い切なさを感じさせたのだ。
「ダダダダダダっ」
息を吹き返したコルベットの隊士たちが、悪足掻きとでも言うべきマシンガン攻撃を仕掛けてきた。しかしヤツに対して今更そんな攻撃が通じるわけもなく、蘇えった翼を羽ばたかせたヤツは、そのまま夜空の彼方へと飛んで行ってしまった。
時間にして僅か数分といったところであろうか。それでも現実離れした目の前の出来事に、ヘルツは全身の痛みも忘れてただヤツが消え去った空を見続けた。そしてゆっくりと眠るように意識を失っていったのだった。
ヘルツの話を聞いたジュールは息を飲む。自分が意識を失った後に、まさかそんな事が起きていたなんて――と。全てが耳を疑うほどの事案である。しかし彼はその話の内容に意味の分からぬ戦慄を覚え背中を泡立たせていた。心の底から震えが止まらない。怖くて堪らないのだ。咽返るほどの嫌悪感に彼は苛まれている。さらに彼の不安感を助長するように、右目の奥の痛みはズキズキと強さを増していた。ただそんなジュールに向かい、ヘルツは再確認するよう話し出した。
「信じられないかもしれないけど、今話したことは本当です。痛みで何度も気を失いそうにたったけど、あの時現れたヤツの姿は今でも鮮明に思い出すことができる」
ヘルツは目にした事実を何度も否定しようとしたはずだ。あまりにも非常識で現実と乖離した変事なのだから。だが脳裏に焼き付いたあの銀色のヤツが頭から離れないのだ。化け物と呼ぶにはあまりにも美しい姿をしたヤツ。決して夢や幻などではない。あれは現実に存在したはずなのだ。そしてヤツは真っ赤に色付く瞳でジュールを見ていた。居た堪れないほどの哀しみと切なさを内に潜めたその瞳で。
ヤツとジュールの間に何らかの繋がりがあるのかも知れない。間近でそれを見ていたヘルツにしてみれば、その疑問は胸の内で最も肥大化する懸念のはずである。しかし彼はあえて今それを口にすることはしなかった。なぜなら駅に到着するまでの僅かな時間に、ヘルツはジュールといつも通りに話をした事で明確に理解したからだ。自分の気持ちに燻ぶる屈折した感情など、何の意味も無いのだという事を。そして彼は自分の正直な気持ちをジュールに告げたのだった。
「ジュールさん。色々考えたんだけど、今日あんたに会って俺には一つ確信したことがあるんだ」
ヘルツは黙り込んだままのジュールに続ける。
「正直あの日以来、あんたに会うのが恐かった。あのラヴォアジエと呼ばれるヤツが、あんたを見る目は特別なものに思えたから。それに俺たちと戦ったヤツが最後にジュールさんに言ったあの言葉……。何だかジュールさんが俺たちと違ったものになってしまうんじゃないかって、そう思えて仕方なかったんだ。ジュールさんの体はボロボロでとても動ける状態じゃなかった。それなのに起き上がって、走り出して。動けないでいるヤツよりも、敵であるはずのヤツよりも、あの時のジュールさんはとても恐しく思えて。それにあの光る右目は――」
ヘルツは一瞬息を飲む。苦しそうな顔つきを浮かべる彼は、それでも胸に詰まる思いを吐き出すよう一気に話した。
「だから出発の日の今日、最後にあんたの顔を一目見て、あんたと話をして、あの日感じた事を今もまだ感じてしまうのか確かめたかったんだ。あんたが俺達の知らない何かへ変わってしまったのか、それを確かめたかった。そして分かった」
悲痛な表情を一転させ、ヘルツはにっこりと微笑んだ。
「ジュールさん。あんたは何も変わっていない。やっぱりあんたは俺の知っているジュールさんその人だ。少し体は頑丈になったかもしれないけど、あんたから伝わってくる感じは何もかわっていない。俺は頭悪いけど、ガキの頃から不思議と勘だけは外した事が無いからね」
列車の汽笛が鳴り、間もなく出発時刻になることを知らせるアナウンスが流れてくる。それでもヘルツは構うことなく語り続けた。
「困ったことがあれば俺に声かけろって、いつもジュールさん言ってましたよね。でもねジュールさん。あんたの方こそ、何か気になることがあったら自分一人で抱え込まずに俺たちに相談して下さい。みんなあんたの事を心配しているんです。東部に向かう前、俺の見舞いに来たマイヤーさんはジュールさんの事をすごく気に掛けていました。口には出さないけど、ガウスだって同じです。あいつは顔を見ればすぐに分かる。それにさっき俺とガウスに言いましたよね。俺たちは共に死線をくぐり抜けて来た仲間だって」
「ヘルツ、お前――」
「ヤツが言った言葉の意味は分からない。それにラヴォアジエのあの哀しい眼差しの意味することも知らない。だけどジュールさんはジュールさんだ。たとえあんたが何者であろうと、俺は、俺たちはあんたの味方なんだよ。戦場ではいつも先頭に立ち、誰よりも危険に身をさらして俺たちを守ってくれた。危なっかしくて見てられなかったけど、追いかけるジュールさんの背中は心強くて、どんなに苦しい時でも進むべき道を示してくれた」
ヘルツはジュールから目を離すことなく続ける。
「それにね、ジュールさん。あんたはその身を犠牲にして俺を守ってくれた。俺にとってあんたは命の恩人だ。それは紛れの無い事実だし、俺のあんたに対する信頼と感謝の気持ちは揺ぎ無いものなんです。あんたは俺にとって誰よりも輝いて見える憧れの存在だ。それはこの先もずっと、変わりはしないでしょう」
ヘルツは今にも溢れ出そうな涙をその瞳に浮かべている。
「苦しみに耐え続け、無理やり前に踏み出すばかりじゃ、この先とても正気を保ってなんかいられやしない。でもだからこそ、悩みがあるなら相談して欲しい。自分一人で抱え込まないで欲しい。あんたも俺達と同じ【人間】なんだ。この先も変わらず、ずっと俺の目標であってほしい。だから――」
声を詰まらせたヘルツの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。熱い想いを吐き出すことで、それまで堪えていた彼の優しさまでもが溢れ出てしまったのであろう。そんなヘルツに対してジュールは心の底から感謝の言葉を述べる。ヘルツが必死に打ち明けてくれたその想いは、ジュールの心に十分過ぎるほど沁み渡っていたのだ。
「ありがとう、ヘルツ」
半年間ヘルツは悩み続けていたのであろう。そしてジュールに告げるにあたり、相当な強い覚悟を心に決めていたはずだ。だが逆に考えれば、彼の思い悩みはジュールの身を真剣に考えていたからに他ならない。ヘルツの告げた話の内容については理解出来ない部分が多く、また胸をきつく締め上げられる様な気分の悪さをも感じてしまう。しかしそれでもジュールにはヘルツの正直な心使いが嬉しくて堪らなかった。熱く馳せる胸懐にジュールは拳を強く握りしめる。そして彼は少し強がる様に、ヘルツに対して微笑みながら穏やかに言った。
「お前こそ、ラングレンに行って何かあれば、すぐ俺に相談しろよ」
その言葉にヘルツも白い歯を見せながら返す。
「その笑顔が見れて、安心しました」
折よく出発を知らせる汽笛がホームに鳴り響く。ヘルツは列車に飛び乗ると、ジュールに向き直り最後の別れを告げた。
「もっともっと腕を磨いて、いつか俺もトランザムに行きます。それまで待っててください!」
「あぁ、楽しみに待ってるよ。お前の強さなら、すぐに来れるさ!」
汽笛が再度高鳴ると、列車の自動ドアがゆっくりと閉じた。先頭車両からは猛烈な蒸気が噴き出し、白い煙が上空へと流れてゆく。高出力のモーターが強大な初期トルクに物を言わせて重い車輪を回転させはじめると、列車はゆるりと走り出した。列車に乗り込んだヘルツは急ぎ客車へと移動する。そして彼は列車の窓を開けてジュールに叫んだ。
「お元気で、また春に会いましょう! それと――」
一瞬躊躇するも、ヘルツは構わずに続けた。
「テスラさんには気をつけてください。あの人からは、よく分からないけど違和感を感じます。表面上は以前と変わらないけど、あの日ジュールさんに刀を向けたこと、そしてコルベットに入ったこと……」
ヘルツは言葉に詰まりそれ以上告げられない。彼にとってはテスラもまた、ジュール同様に尊敬する先輩隊士であるはずなのだ。そんなテスラに紛いなりにも不審さを募らせている。彼は忸怩たる悲嘆に駆られているのであろう。そんなヘルツの心情を察したジュールは優しくも力強く答える。彼もまた、ヘルツと同じくテスラの不審さを怪訝に感じていたが、でもそれ以上にテスラを親友として信じたかったのだ。あいつが俺達を裏切るはずがない。そう自身に言い聞かせる様に、ジュールはヘルツに向かって強く声を張った。
「大丈夫、心配するな! 確かにテスラの事は俺も気懸かりだけど、あいつも俺たちの仲間なんだ。あいつが何を考えているのかは分からない。けど近い内にちゃんと話をしてみるよ。もしそれで何か問題があれば、その時はお前たちに相談するさ」
列車は走るスピードを徐々に上げ、小走りで走るジュールとヘルツの距離を広げてゆく。さらにホームに立つ人混みの多さに行く手を阻まれ、無情にもその距離は開いてゆくばかりだ。まるで置き去りにでもされるかの様な寂しさを感じるジュール。それでも彼は離れ行くヘルツに大声で別れの言葉を叫んだ。
「ありがとうヘルツ。元気でな、また会おう!」
「ジュールさんこそお元気で! 結婚式、楽しみにしてます!」
ヘルツは走る列車の窓から身を乗り出して敬礼をした。そしてそれに応えるように、ジュールは足を止めて敬礼を返した。
全力で走った影響で、激しく肩を上下させるほどに呼吸は上がっている。周囲に溢れる人の多さが息苦しさに拍車を掛けている様だ。それでもジュールはふと気付く。右目の奥に感じていた鈍く重い痛みが、いつの間にか引いているという事に――。
どんよりとした曇り空の下、粉雪が舞い降り始めていた。
走り行く列車が見えなくなるまで眺め続けたジュールは、友との別れに一抹の寂しさを覚えていたが、不思議にもどこか気持ちは晴れた気分だった。
そんな彼はヘルツから聞いた話を少し思い返す。ラヴォアジエと呼ばれるヤツが、自分に対してなぜ優しくも哀しい眼差しを向けたのか。その理由は想像すら出来やしない。それでもジュールは心安らぐ温かみをその胸に抱いていた。
「けっこう降って来たな。この感じだと積もりそうだな」
ジュールは次第に強まる雪を見ながら、帰り路につこうと歩き出す。――とその時、
「ジュール。ジュールじゃないか!」
いつの間にか人混みの消えたホームで一人の老人がジュールに声を掛けて来た。それに気づいたジュールは思わずその老人の名前を口走る。
「あっ、グラム博士!」
真っ白い髭をたくわえた小柄なその老人は、にこやかに微笑みながら、ゆっくりとジュールに近づいて来た。