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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
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#47 木の芽時の出立(東風に濁る理の諦観2)

 ジュール達を向かい入れたアイザックの顔色は決して良いものとは呼べなかった。疲れきったその表情が、彼の苦労を無言に物語る。軍の全権を()べる総司令の職務とは、一般の隊士風情には想像も出来ないほど多忙で過酷なものなのだろう。それも裏では神に弓を引こうとしているのである。肉体的にも精神的にも相当な負担がその肩に圧し掛かっているはずだ。そんな総司令に(ねぎら)いの言葉一つでも掛けたいジュールだったが、しかし彼は総司令が放つ穏やかながらも凄味のある威圧感に圧倒され、口を開けずにいた。

 やはり総司令になるほどの器を持った人物というのは、人を唸らせる風格や貫禄を備えているものなのだろう。顔色は冴えなくとも、鋭い眼光には力がある。その瞳でジュール達に視線を向けながら、アイザックは物柔らかく皆に告げた。

「わざわざ自宅に呼んで済まなかったな。先日の水堀の件以来、城での行動は控えざるを得なかったのだ。それに屋敷の方が何かと込み入った話もし易いだろうと思ってね。ただお前達には色々と苦労を掛けて悪いと思っている」

「お、俺達の事なんか気にしないで下さい。それよりも総司令、体調が悪そうですが大丈夫ですか?」

 アイザックの意に介する言葉に恐縮したジュールは溜まらずに聞き返した。彼は思う。軍人である自分は総司令と直接会話するだけでも光栄なはず。それなのに総司令は自分達を気遣う言葉まで掛けてくれた。嬉しさを感じる反面、彼は申し訳ないと顔を赤らめた。そんなジュールの気持ちが手に取る様に理解出来たのだろう。アイザックは笑いながら応えた。

「ハハハッ。そう硬くなるな、ジュール。お互い腹を割って話す意味合いも含めて、この屋敷にお前達を呼んだのだ。それに私の顔色が(すぐ)れないのは、きのう夜中までキュリー首相に復興計画の事で詰め寄られていたからだよ。悪い人ではないのだが、どうも私はあのご婦人と顔を向かい合わせると、つい頭に血が昇ってしまう。大人げないものだと、自責に駆られて悔しくなるほどだよ。まぁそんなところだから、私の体調は問題ない。それよりお前達の方が大変だったのだろう。ヤツと再び交戦したと聞いている。みんな命が無事で何よりだ」

「ホントだでよ。まんまと総司令に騙されたきね。退院祝いがとんだ厄介事に巻き込まれる有り様だし、ほとほと迷惑しとるがよ!」

 アイザックに向かいリュザックは苦言を吐き捨てる。ただその表情は怒るというよりも呆れたものであった。すでに引き返せないところまで足を踏み入れてしまった。リュザックは仕方なくもそう理解しているのだろう。

 羅城門で行きずりでありながらも羊顔のヤツの話しを聞いてしまった。今思えは、あの時点でもう自分の進むべき未来は決まってしまったのかも知れない。それでも彼は自分なりの収まりを付ける為に、あえて上司である総司令に諫言(かんげん)せずにはいられなかったのだ。そしてアイザックはそれを全て承知した上で彼に返した。

「済まなかったな、リュザック。ドルトンの意識が未だ戻らない状況で、信頼に値するのはお前しかいなかったんだ。強引にお前をこの件に巻き込んだ事は、本当に申し訳ないと思っている。でも我々の仕事にはお前の力が絶対に不可欠なんだよ。それにたとえドルトンが無事であったとしても、私がお前を引き入れた事に変わりはないだろう。初めて口にするが、私はお前の持ち得る類まれな判断能力に絶大な信頼を寄せている。個人の力ではドルトンに及ばないけど、組織を現場で正しく導く力に関しては、お前の方が上だと私は確信しているんだ。それだけはどうか、受け止めてほしい」

 真摯に語るアイザックの言葉に、さすがのリュザックも顔を赤らめていた。嬉しさを無理やり噛み殺しながら口元を引き締める。軍のトップにそこまで高く評価されている事実を知り、彼の胸は歓喜で沸き立っていた。仮にそれが自分を(おだ)てる為の口実だとしても構わない。目指すべき憧れの対象であるアイザックにそこまで言われたのだ。本望と言わずにこれを何と言おう。ただそんな天にも昇る気持ちを抱くリュザックに対してアニェージが釘を刺した。

「何を逆上(のぼ)せているのよ、リュザック。あんたは今の所、足手まといにしかなってないのよ。喜ぶのはきっちり働いてからにしてよね」

 彼女の言葉にリュザックは更に顔を赤くした。彼は総司令の前でアニェージの放った余計な一言に体裁を失ったのだ。ただそんな彼の姿を良い意味で滑稽に感じたのだろう。アイザックやジュール達は悪いと思いながらも声を上げて笑った。


 重く強張っていた周囲の緊張感が緩和される。それにより落ち着きを取り戻したジュールは、ふと冷静に質問を投げ掛ける。

「総司令。今回の国王に相対する件については、ドルトン隊長はご存じなのですか?」

 ジュールは真っ直ぐな姿勢でアイザックを見つめる。彼は期待に胸を膨らませていた。もしドルトン隊長が今回の件についてその全てを理解し協力してくれるのであれば、これ以上心強い事は無いと。しかしそんな願望を抱くジュールに対し、アイザックは少し伏し目がちに応えた。

「残念だがドルトンはまだ何も知らない。私にとっても彼が最高の協力者になってくれる事は願わずにはいられないところだ。しかし不運にもドルトンの現状は知っての通り。もっと早く彼に協力を仰いでいれば良かったのかも知れないが、どうも私はファラデーの死より臆病になってしまってね。肝心な時に二の足を踏んでしまって後の祭りだよ。でも事態は私の予想を超える速さで進展している。ここに来て急加速しているといってもいいほどにな。それゆえに忸怩(じくじ)たる想いではあったが、早急にリュザックを仲間に引き込んだんだよ」

 アイザックは大きく溜息を吐く。恐らく彼自身がドルトンの協力を誰よりも期待していたのだろう。そして共闘を呼び掛けようとした矢先に、ドルトンはヤツとの戦闘で負傷し、その影響で未だに昏睡状態なのである。それも戦った相手は国王を撃つ為に集ったメンバーの一人である、牛顔のヤツことディラックなのだ。互いには知らない者同士とはいえ、彼らはアイザックという存在を介してして繋がっていた存在である。状況によっては戦いを避けられたはずなのだ。そう感じるアイザックは居た堪れない気持ちで息苦しさを覚えずにはいられない。ただそれでも彼は責任ある立場として毅然と続けた。

「やはりアカデメイアの動きが活発になっているのは本当の様だ。ガルヴァーニ殿の忠告は真であったと、嫌でも認めざるを得まい。黒き獅子が秘密結社を利用して何を企んでいるか、その本質は未だに謎だが、その片鱗は見えてきている。翌年に企画されているルーゼニア教の生誕千年祭。その時に必ず獣神は何かをするはずだ。そしてその為の準備を急ピッチで進めている。秘密結社が地下に工場を建設しているという不確定な情報も耳にしているくらいだしね。だが私達は指を咥えてそれらを傍観なんてしない。奴らの計画を遮断し、その思惑を叩き潰す! それこそがこの星に暮らす人々の命を救い、平和を維持する事に繋がるのだから」

 まるで自分自身にも言い聞かせている様に、アイザックは強い意志を表明した。世界を救えるのは自分達しかいない。彼はそう確信しているからこそ、覚悟を決め己をも鼓舞したのだ。

 倒すべき相手は人知を超えた存在の神である。アイザックは異次元の強さを誇る絶対的な存在の前に、それでも歯向かう姿勢を断固として決心した。彼の放つ厳格な覇気からは、神を倒すまで一歩も引かないという凄まじいほどの覚悟が(うかが)える。ジュールは思わず息を飲んだ。アイザックの放つ闘争心は、静かでありながらも熱く(たぎ)っているのが分かる。そしてその気迫からは恐怖すら感じられるほどに背筋がざわめく。総司令とは、自分が想像していたよりも遥かに大きく強い人だったのだ。ジュールは改めてそれを思い直し、素直に敬意の念を告げた。

「総司令、俺はあなたの部下として働ける事を誇りに思います。神に挑むとか世界の平和を守るとか、話がデカ過ぎてピンと来てないところもまだあるけど、でも総司令の言葉を聞いた今なら、なんかそんな事も出来るんじゃないかって前向きに考えられます。やっぱ軍のトップになる人って、凄いんですね!」

「ハハッ。そう(おだ)てるなよ、ジュール。私だって救世主なんて柄じゃないんだ。ただ私が世界の為に行動を起こせるとするならば、それは幸いにも生まれながらに持ち合わせた忍耐強い思考力のお蔭だろう。そして私が紛いなりにも真実を見抜けているとするならば、それは先人という巨人の肩に上手く乗れているからなんだ。すでに築き上げられた知識や技術を理解し、その上に新たな歴史を積み上げる。未来を正確に見通す創造性は、十分な知識を持つ人だけが発揮できる力なのだと、私は考えているからな」

 アイザックは自らの見解を率直に述べた。その言葉の重みに皆の胸は締め付けられる。ただそんな総司令の意見に対し、激しく同意しながらもヘルムホルツが質問を投げ掛けた。

「その考えに俺も同調します。歴史はリレーのようなものですからね。先人より受け渡されたバトンに磨きをかけ、より良くした状態で後世に引き渡す。そうやって人類は進化して来たんだし、これからもそうやって未来に向かって行くんでしょう。でも国王に扮する黒き獅子は完全にそれを無視している。アルベルト国王が提唱する光子相対力学は確かに素晴らしい理論であり、アダムズのみならずに世界中の技術を革新させた。しかしその理論が完璧なものかと問われれば、それは否定せざるを得えない。光子相対力学を駆使しても、解き明かせない物理現象は無限といってもいいほど存在するからね。そしてグラム博士はその光子相対力学の欠点を一部補完し、波導量子力学として科学の極みに一歩近づいた。その波導量子力学とて完璧なものとは言えない。そもそも波導量子力学は産声を上げたばかりの発展途上の理論なんだからさ。それでもグラム博士は先人より受け取ったバトンを改良し、波導量子力学としてそれを後世に残した。その功績は人類が計り知れないほど素晴らしい発見であり、称賛すべき偉業だ。でも逆に取らえれば、進化を続ける人類にとって博士の功績は自然な時代の流れから生み出された、当然の成り行きだと考える事も出来るんだよな。要はグラム博士が生みだした波導量子力学は進化の過程で不可欠なものであり、それを躍起(やっき)になって否定する黒き獅子の考えの方がまったく理解できない。どうしてそれほどまでに、獣神は光子相対力学に(こだわ)るのでしょうか?」

 思いの丈を述べたヘルムホルツは苦虫をかみ殺す様な悲痛の面持ちを浮かべている。軍人ながらも科学者という反面を持ち合わせる彼だからこそ、グラム博士が生涯を賭して生み出した波導量子力学の素晴らしさを理解しているのだ。そしてその理論を消し去ろうと画策する獣神が許せない。しかし現実は残酷だ。現時点においては神に対抗する手段は皆無と言ってよく、仮にその手段を見つけ出せたとしても、それが実行できるものなのかどうかは誰一人として知る由もなかった。ただアイザックは気丈にも声を上げる。余計な不安を消し去る様に、彼はヘルツホルムを含む皆に対して力強く告げた。

「今日為し得るだけの事に全力を尽くせ。しからば明日は一段の進歩があろう。分からぬものに惑わされ、踊らされるのが最も酷く無駄な事だ。人間は事実に反することを想像してもよいが、事実しか理解できない。事実に反することを理解したとしても、その理解は根底として間違っている。過酷な道ではあるが、正しい真実を追求するんだ。決して偽りの真実を追求してはいけない。そうすれば道は(おの)ずと開けるだろう」

 総司令の頼もしい言葉にヘルムホルツの強張った肩から力が抜けた。少し抽象的な表現も含まれているが、それでもアイザックの言葉一つ一つには頷ける力が宿っている。それを感じ取ったヘルムホルツの心は急速に晴れていった。しかしジュールにしてみれば話が飛躍し過ぎており、難しくて理解できなかった。それでもどこか腑に落ちない点を思い付いたのか、彼はその疑点を口にした。

「話の腰を折る様で悪いんだけど、国王はグラム博士の波導量子力学を欲してたんじゃないのか? 俺が聞いた話だと、確か国王はパーシヴァルに攻め入る理由として、死の鏡と一緒に波導量子力学の提供も迫っていたはずじゃ」

「科学と名付けられたものには、どんな事でも関心を抱いた国王だ。それも弟子であるグラム博士とボーア将軍が築き上げた超高度な科学理論。その内容を把握する前に、それを破棄するとは俺も考えられない。ただな――」

 ヘルムホルツがジュールの問いに答えたが、言葉の途中で話を止めた。何か思う節があるのだろうか。すると黙り込むヘルムホルツの話を引き継ぐように、アイザックが続きを口にした。

「どういった方法なのかは分からないが、国王は波導量子力学の全容を理解したのだよ。そしてその完成度と危険性をも把握した。波導量子力学は自ら発案し発展させた光子相対力学に取って代わる存在に成りうるであろうとな。しかし光子相対力学に並々ならぬ(こだわ)りを抱く国王にしてみれば、それは邪魔な理論である事に他ならなかった。そして国王は、その恐るべき科学理論をこの世から排除することに決めたんだよ」

「じゃぁ、波導量子力学を利用して軍事目的に使用するっていうのは間違いだったんですか?」

「恐らくは口実に過ぎないだろう。いや、確かに初めは国王自身そう考えていたのかも知れない。だが波導量子力学はそんな国王の想像を遥かに凌駕する理論だったのだ。それも恐怖を覚えるほどにね。それでも国王が国王であるならば、口惜しくも波導量子力学を受け入れたかも知れない。正しい理論は真実のみを告げるものだ。科学を愛する国王がそれを否定するとは考えられんからな。しかしすでに国王は獣神にその身を奪われていた。ゆえに国王の光子相対力学への愛情が、歪んだ形で表面化してしまったんだろう。波導量子力学を殲滅させるという行為としてね」

「それにしても話が見えんきね。そもそも黒き獅子っちゅう奴は何をしたいんだろうがか? 世界征服っちゅうなら分かり易い気もするけんど、すでに国王の地位っていう絶対的な権力は手中に収めているわけだし、その正体が本物の神だっちゅうなら、強力な軍事兵器なんぞ開発せんとも世界をひれ伏させる事は可能じゃでね」

 リュザックの核心的な疑問にジュールは強く頷く。先輩隊士の言う通りだ。自分の気持ちにどこか引っ掛かるものが、まさにリュザックの告げた疑惑なのだと。人ではどう足掻いたとしても太刀打ち出来ない絶大な力を持つ神であるならば、なぜ裏組織を暗躍(あんやく)させてまで回り(くど)く行動しているのか。解せない疑念にジュールは言い様の無い訝しさを覚えて仕方なかった。ただそんな彼に対してアイザックは憶測として見解を述べた。

「黒き獅子が何を目的として行動しているのか、その真意は不明だ。もしかすれば獣神にとって、はじめから世界など眼中にないのかも知れない。だが仮にそうであったとしても、奴の企みが結果として人々に対し損害を被るというのであれば、それは阻止せねばなるまい。すでに獣神の指示によるアカデメイアの策謀(さくぼう)によって被害は発生しているんだ。そこの彼女はまさに、その被害者なんだろう」

 アイザックはジュール達の陰に隠れるようにして身を小さく(すぼ)めているソーニャを見つめながら言った。その視線は少女を包み込むような柔和なものであり、未だ緊張する少女の気持ちを優しく解きほぐす様である。ただジュールはその眼差しにどこか哀しいものを感じた。総司令はソーニャに対しても自分の責任を感じているのだろうか。彼は胸の内で総司令の感情をそう読み取ると、自分自身の胸までが締め付けられそうになった。決して総司令に非は無いのだ。悪いのは全て獣神のはず。黒き獅子さえいなければ、グラム博士やソーニャは無事でいられたはずなのだ。自分自身に言い聞かせるように、ジュールは堅く拳を握りしめながら改めてそう思った。


 アイザックの私室はいつしか重い圧迫感に包まれていた。息が詰まるほどの閉塞感に皆の口は重い。ただリュザックだけは淡々と自らの頭に浮かぶ疑問点をアイザックに向かい上げてゆく。何が明確で何が不明確なのか。その線引きを彼なりに整理したいのだろう。類稀な洞察力を持つリュザックだからこそ、先行きの見えない現状を正確に把握しようと努めたのだ。

「伝説の神器集めは現状どうなっとるでよ。神殺しの為に神器はヤツに変化したパーシヴァルの兵士が一時奪ったはずじゃけんど、その後の行方はどうなっちょるき?」

「天光の矢の発動計画失敗によって、それらの所在は全て不明だ。ただ憶測として言えるのは、大地の鏡と炎の鏡は本来の持ち主である各獣神が持っているのだろう。しかしそれ以外の2つの天照(あまてらす)の鏡についての所在は掴めていない。特に残念なのは、こちら側にあったはずの死の鏡の行方が分からなくなった事だ。だがそれについてはむしろ、羅城門で鏡を所持していたハイゼンベルクと実際に戦ったお前達の方に、何か心当たりが有るんじゃないのか?」

 逆に提示されたアイザックの質問にリュザックは首を捻りながら呟いた。

(ヒル)の彫刻が施されていた蒼い色の鏡かえ。そう言えばあの鏡、どうなったきね、ジュール?」

 不意に投げ掛けられたリュザックからの問い掛けに、ジュールは気後れする思いがした。確かにハイゼンベルクから事実を聞かされた後、死の鏡を託されたのは自分だ。しかしその後姿を現したテスラによるハイゼンベルク殺害と、それによる痛憤の怒りにより不覚にも鏡の存在を忘れてしまった。形見分けの様にハイゼンベルクから託された大切な鏡を紛失してしまった事に、ジュールは今になって悔恨の情に苛まれる。しかし彼は死の鏡の所在について疑問を感じた。羅城門に鏡が置き去りになっていたならば、それはコルベットによって押収されている可能性が高い。そしてコルベットから国王に渡るのが至当な流れであるはず。だが総司令は鏡の所在は不明だと告げた。言い訳する様で気が引けたが、それでもジュールはアイザックに対して疑問を聞き尋ねた。

「混乱した状況とはいえ、死の鏡を紛失してしまったのは俺の責任です。でも先程の総司令の話によれば、死の鏡は国王の手に渡ってないんですよね? なら鏡は一体どこに行ったんだろう。まさか未だに羅城門に置き去りにされているなんてバカな話はないだろうし……」

「羅城門の戦闘後の状況検分は、騒ぎが大きかっただけに国王の息が掛かっていない一般の隊士も含めて公に実施されている。ゆえにコルベットやアカデメイアが密かに鏡を搾取し隠したとは考え辛い。私自身も現場で目を光らせていたしね。ただもともと神器という謎めいた品物だ。我々の考えの及びもしない現象によって消えてしまったとも考えられる。それでも気に留めておく必要はあるだろう。なにせ死の鏡はパーシヴァルの王族を一瞬にして死に至らしめた恐るべき力を秘めているのだからな。用心に越した事はないはずだ」

「なら国王側には今の所、鏡は一つだけっちゅう事だきね。ちなみに月読の勾玉はどうなっちょるきよ?」

「5つの勾玉の内、4つは未だに所在は掴めていない。ただ最近になって妙な噂を耳にした」

「妙な噂?」

「あぁそうだ。所在の分からない4つの勾玉は、かつての国王の配下であったラヴォアジエによって持ち去られている。ただ逆に当初より存在が不明であった一つの勾玉を、近頃になってアカデメイアが手中に収めたらしいのだ」

「なんだって!」

 ジュールが思わず声を荒げる。しかしアイザックは気にせず話を続けた。

「裏組織が手に入れたのは【狼の頭を持つ修羅】の勾玉だ。奴らはアダムズ北東部にある【霊峰ブリアルドス山】の(ふもと)に広がる樹海でそれを見つけたらしい。ただ幸運にも勾玉は抜け殻の状態らしく、護貴神(ごきしん)の力は宿っていないようだ」

 アイザックの告げた知らせにジュールはどこか胸を撫で下ろす気分になった。なぜ彼がそう感じたのかは分からない。だた理屈ではなく、直感としてジュールはそれを心で感じ取っていた。そしてリュザックもまた、彼の気持ちに同調するよう呟いた。

「ラヴォアジエっちゅう銀の鷲が国王のところから神器を持ち去ったのは、全ての神器の力を利用することで可能になるっちゅう【時の支配】とやらを防ぐ為なんだがか? 仮にそれが本当だとしても、でも国王は今も神器を手に入れてはいないっちゅうこっちゃ。それはそれで救いだきね」

「リュザックの言う通りだな。神器はどちらにしても全て揃えた方が有利になる物だ。だがその力が不確定過ぎて信頼性に乏しいのも事実。先の計画の失敗もあるし、やはり今は神の力に頼るのではなく、グラム博士が残した【人の力】に懸けるほうが賢明だろう。波導量子力学による人工的な物理破壊によって神に挑む。例え敵わなくとも、私にはその方が悔いが残らない気がするよ」


 アイザックは少し表情を弛ませていた。その表情は柔らかくもどこか哀しいものに受け取れる。そんな彼をジュール達は黙って見つめる事しか出来ないでいた。なぜ総司令はこれほどまでに寂しい表情を浮かべるのか。その表情は獣神に対する恐れや諦めとは明らかに異なり、むしろ獣神との避けられぬ対立に悔しさを滲ませている様だ。ただ改めて目を見開いたアイザックは、想いを吹っ切るよう皆に告げた。

「神を倒すことは絶対の命題なのだ。それも誰かがやらなければならぬ事。お前達には損な役回りをさせて済まないと思うが、ここまで来たなら腹を(くく)ってほしい。そして神を倒す手法を手に入れる為に、まずはシュレーディンガーのもとへ行き必要な情報を得て来るのだ」

 意を決したアイザックの言葉にジュールは強く頷く。及び腰などもっての他だ。もう俺達は前に進むしかない。ジュールは胸の中でそう意気込む。ただ総司令の言葉に一人反発した者がいた。その者は憤然とした形相で反論を口走る。それはシュレーディンガーの部下であるアニェージだった。

「お言葉ですがアイザック総司令、今首都を離れるのは如何(いかが)なものかと思います。波導量子力学を必要とするならば、6月の論文に繋がるグラム博士の最終定理を追い求めるのが急務のはず。それにアカデメイアの行動が活発になっていると聞いたなら、尚更ルヴェリエを離れることなど出来ません!」

 捲し立てる様にアニェージはアイザックへと詰め寄る。豹顔のヤツへの飽くなき執着を見せる彼女とってみれば、このまま黙ってグリーヴスへと向かなど、容認し難い行為なのだろう。ようやく掴んだ天体観測所という裏組織への手掛かりも、時間が経過するほどにその痕跡は消される可能性が高いのだ。(いき)り立つアニェージの視線は鋭い。ただ総司令はそんな彼女の強い眼差しを正面から受け止めながらも、穏やかに(たしな)めた。

「アニェージ、恐らくは君の意見は正しいんだろう。シュレーディンガーの所に行ったとしても、神を倒す為の核心に至る波導量子力学の真髄は定かではないはずだからね。そしてその肝となる理論は、グラム博士が最終定理として隠している。ならば君の言う通り、最終定理の捜査に尽力する事の方が優先度は高いはずだ。だがあえて私はグリーヴスへ向かうよう命令する。ここにいる皆にはグラム博士が生みだした理論がどういったものなのか、まずはそれを理解してほしいんだ」

「そんな悠長な事を! それでは奴らに勝手な真似をされるだけです!」

「それでも行かねばならぬのだ! 最終定理を紐解く為にも、そして獣神やアカデメイアに挑む為にも、それは不可欠な事なんだ。私達はただの宝探しをしているわけでなない。そこに辿り着くまでの過程で波導量子力学のもつ真の姿を理解し、また獣神達の生まれた真意をも理解しなくてはならないのだよ。まして進むべき道は前途多難だ。共闘する仲間が傷つき、時に命を落とす事すらあるかも知れん。だからそのリスクを僅かでも軽減する為に、今は先を急ごうと馳せる気持ちを抑え、より着実で慎重に事を進めてほしいんだ。確かに許された時間は少ない。それでもシュレーディンガーより話を聞くのは、決して無駄な行為ではないはずだと私は信じている」

「それならば私だけでもルヴェリエに残り捜索を続けます」

「それも認められん。第一にジュール達がシュレーディンガーに会うには君の仲介が必要だ。そして第二に、君自身もシュレーディンガーから話を聞くべきなんだ。恐らく君はヤツの誕生した由来を彼から聞いていないのだろう。どうしてシュレーディンガーが君にそれを告げなかったのか。真意は分からないまでも、その理由は何となくだが察することは出来る。話を聞けば、きっと君はこの上なく辛い記憶を思い出してしまうだろうからな。それでも今後ヤツと戦う覚悟をその胸に刻んでいるのであれば、彼と向き合ってほしい。不合理かつ遠回りな指示だと、憤りを感じているかも知れんがね」

「……」

「繰り返すが、残された時間が少ないからこそ、段階を踏み着実に前に進んでほしい。シュレーディンガーの話は必ずや君達の為になるはずだからな。そしてこの回り道にも思えるこの一連の行為全てが最終定理であり、そしてグラム博士の残した試練なのだよ。隠された論文をただ手に入れたとして、それだけではダメなんだ。そこに至るまでのプロセスこそ重要であり、それを経てより強大な力を手にする資格を与えられる。残念ながら軍人畑を歩んできた私には、科学について語れる事は何も無い。それでも私は導かねばならないんだよ。グラム博士が残した理論を手にするに相応(ふさわ)しい勇敢な剛の者をね。そしてここにいる皆は一同にその資格がある者達だ。そう信じるからこそ、理論の大元(おおもと)であるシュレーディンガーの話を、私は聞きに行くよう指示しているんだ。だからアニェージ、ここは聞き入れてはくれないか」

 切実に告げるアイザックに、アニェージは返す言葉が見つからず立ち尽くしている。心では彼女も理解しているのだ。波導量子力学のもつ本当の意味を知らずして、最終定理になど近づけるはずがないのだと。でもアニェージは自分に隠し事をしているシュレーディンガーに会うのが怖かった。それは隠し事をされたという悔しさにではなく、あえて自分に告げなかった事実を耳にすることで、怖気づくであろう自分を想像し、尻込みしたからだ。だがやはり彼女は強い心の持ち主だった。気持ちはまだ落ち着きを取り戻せないまでも、それでもアニェージは精一杯に己を鼓舞し想いを滾らせる。あの日に誓った【復讐】を果たす。それだけを胸に強く唱えながら。するとそんな彼女の肩にジュールがそっと手を乗せた。意気消沈する彼女を気遣ってのことだろう。ただ心配そうな眼差しを向ける彼に対し、アニェージは逆に噴き出しそうになった。こいつにまで案じられるとは、自分も弱いものだな――と。

 大きく息を吐いた彼女は、心配はいらないとばかりにジュールの手を軽く振り払う。そんなアニェージの表情にはもう迷いは感じられない。そして彼女はアイザックに向かい感情を改めて言った。

「分際も(わきま)えず、不遜(ふそん)な物言いをしてしまい誠に申し訳ありません。正直、私は少し臆病になっていました。でももう大丈夫。総司令の本旨を伺い目が覚めました。有りのままを全て受け入れる事は、口で言うほど容易なものではないはず。それでも私は逃げたくはありません。まだまだ私は弱く非力です。でもその弱さを強がりで上塗りしたところで、この先待ち受けているのは敗北だけでしょう。本当の強さとは、そんな弱さを含めた全てを受け入れる事。総司令の話を聞き、私はそう理解しました」

 アニェージは張りのある力感に溢れた声でそう告げた。アイザックはその声に偽りはないと捉え強く頷く。そして穏やかに微笑んだ。そんな総司令に対し、肩の強張りから解放されたアニェージは思い出したとばかりに続けた。

「申し遅れました。ガルヴァーニのジジィめが総司令に報告をせず、先に首都を出立しバローに戻ってしまいました。止むを得ない事情でしたが、ジジィの身勝手さには手を焼いています。次にあいつに会った時には、ぜひとも総司令よりキツく一喝して頂きたいものです」

 アニェージは手のひらを上に広げ、度し難いといった風に呆れて見せた。そんな彼女の仕草にアイザックは苦笑いを浮かべる。彼も気まま過ぎる老人の行動に苦慮しているのだろう。しかしガルヴァーニの代わりはなく、必要不可欠な存在であるのは事実である。辟易するアイザックは一つ溜息を漏らしながらも、老人の行動を擁護するように彼女を(いさ)めた。

「もともと彼は自由の身だ。我らに拘束する権限はない。とは言え、気まぐれなガルヴァーニ殿の行動は悩みの種ではあるな。もう少し生真面目に働いてくれると助かるのだが、それを言ったところで聞く人でもないしね。済まないが、そこは君の方で収めてくれないか。掴めない人だけど、それでもガルヴァーニ殿は我らの味方なんだ。彼の行為には全て理由がある。そう思っていれば、少しは納得できるんじゃないのかな。その辺はシュレーティンガーも理解を示してしるようだしね。でもまぁ今度ガルヴァーニ殿にお会いしたなら、その時は一つ意見してみるよ」

 アイザックは肘掛(ひじかけ)に置いた手に力を込め重い腰を持ち上げる。そして奥の部屋に通じる扉へと向かい出した。老人の事はとりあえず自分が預かると告げたアイザックは、幾多の難儀を担ぐ背中をジュール達に向けている。その背中は酷く疲れた憔悴感を漂わせていたが、それでも歳の割には逞しく端然としていた。

 人が一人で背負うには過酷すぎるほどの重荷をその背中は黙って支えているのだろう。ジュールはそんな背中に惻隠の情を感じたが、それとは逆に頼もしい心強さをも覚えた。もっと自分の力に磨きをかけ総司令の役に立ちたい。早く獣神達に挑む(すべ)を手にし、少しでも彼の負担を軽くさせたい。ジュールは胸の中でそう思いながら、再度熱く拳を握りしめた。


 奥の部屋に通じる扉を開くと、そこにはトランザムのものと一目で分かる多数の装備品が置かれていた。最新のバトルスーツをはじめ、超小型軽量の新式レーザーマシンガンまで用意されている。アイザックは赤色で統一されたそれらに視線を向けながら、今後の対応について皆に指示した。

「お前達にはアダムズ軍総司令の勅命(ちょくめい)として、無期限のS級戦闘配備を許可する。すでに軍には公式にその旨を承認させた。そしてカプリスのラジアン博士のもとより、直接これらの装備品を手配したのだ。ジュールとリュザックはもちろんだが、ヘルムホルツとアニェージの分も揃えてある。それぞれ今後の戦闘行為に向け、しっかりと準備を整えておけ」

 アイザックの命令に促され、ジュール達はそれぞれ自分の名前の施されたバトルスーツを手にした。そしてジュールは思う。これほどの装備を(したた)かにもよく準備出来たものだと。それらの兵器が皆、強大な威力を発揮するであろう事は容易に想像できる。ヤツとの戦いにおいて効果絶大なのは確実だ。だがいかに総司令の地位があったとしても、軍が誇る最上級の兵器を私的に利用するのは不可能なはずである。恐らくは王子の護衛と称して抜かりなく準備したのだろう。また水堀の一件以来、ジュール達は国王側にマークされているはず。そんな彼らが直接城に(おもむ)き、仰々(ぎょうぎょう)しい装備を施すのは無論として避けたかったはずだ。極力目立つ行為は慎むべきなのだから。随所に垣間見える総司令の配慮に、ジュールは改めて感服する思いがした。そして彼同様にリュザックとヘルムホルツも総司令に敬意の念を抱いたはずである。しかしアニェージだけは訝しく表情を硬くしていた。

「アダムズ軍の隊士でない私に、こんは受け取れませんよ。どういったお考えがあるのですか、総司令?」

 覚束(おぼつか)ない眼差しでアニェージはアイザックに問い掛ける。すると彼は彼女の心中を察しているかの様に、優しく微笑んだまま丁寧に返答した。

「王子はグリーヴスに王族専用の航空機で向かう事になっている。もちろん王子の護衛としてジュール達はそれに同乗してもらうのだが、そこで君もトランザムの一員となって同行してもらいたいんだ。そうすれば全員が同じ飛行機で移動できるわけだし、妙に怪しまれる事もないだろうしね。それにグリーヴスに着いてからの行動もし易いだろうからな」

 アイザックの説明にアニェージは少し高揚しながら顔を赤らめた。強がりを言ったものの、差し出されたアダムズの最新兵器は彼女にとって魅力的なはずである。いやむしろ欲しくて堪らないはずだ。そんなアニェージに笑顔を浮かべたままのアイザックは柔和に続けた。

「意地を張る理由はないだろ。素直な気持ちで受け取ってほしい。それに私に出来るのはこの程度しかないからね。君達を死地に向かわせる以上、これは最低限の手向(たむ)けだと考えている。だから気にせず納めてくれ。それとジュール、お前には個人的に渡しておきたい物がある」

 アイザックはそう言うと、一振りの刀を取り出しジュールへと差し出した。

 かなり使い込まれた刀であるのは一目で分かる。ただ見たところその刀は、軍の隊士に支給される標準的な刀にしか見えない。量産品である(さや)(つか)が常識的にそれを思わせる。それでも刀を手にしたジュールは、不思議にもキツく心が震える鋭敏な感覚を抱いた。なぜこんな気分に包まれるのか。だが嫌な感じはしない。むしろ闘志の沸き立つ力強い臨場感に溢れるほどだ。ジュールは熱く滾る気持ちを抑え込みながらアイザックに視線を向ける。すると総司令は黙って頷いた。その合図にジュールは刀を(さや)から一気に引き抜く。そして彼はその刀身を見て一言唸った。

「やっぱり、これは――」

 その刀身は妖艶に色付いていた。淡くピンク色に光る刀身は、乱れた刀紋とも相まって何とも言えない怪しさを(かも)し出している。しかしそれ以上に引き込まれそうになる悪魔的な魅力をも感じさせた。

 ジュールはそんな刀に見覚えがあった。たった一度きり、それも戦闘中の僅かな瞬間に目にした刀身。だが忘れるはずがない。この刀は紛れもなく、月夜の廃工場の戦闘で【彼】が抜いたあの刀のはずだ。淡く光る刀に見惚れながらジュールはゴクリと生唾を飲み込む。そして汗ばむ手で刀を掴み直しながら、呟くようにアイザックへ確認した。

「この刀って、ファラデー隊長の愛刀ですよね!」

 口元を弛ませながらも、アイザックは強い視線でジュールを見つめながら返した。

十拳封神剣(とつかふうじんけん)が一つ、名を【布都御魂(ふつのみたま)】という。お前の言う通り、その刀は生前にファラデーが使用していたものだ。だが元はと言えば私の愛刀であったものなんだよ。彼が私の腹心となった時に、護身用としてそれを託したのだがね。そして彼の意志を受け継ぐ者として、お前にそれを(さず)けたいんだ、ジュール」

「お、御心は嬉しいですが、でも俺みたいな一般の隊士が国宝の十拳封神剣を帯びるなんて気が引けます」

 布都御魂(ふつのみたま)の放つ重圧にジュールは臆している。尊敬して止まないファラデーの愛刀を受け継ぐ資格が自分に有るのか。総司令の好意は素直に嬉しく思うが、でも課せられた使命感に怯む気持ちも隠せない。そんな複雑な心境にジュールは戸惑っている。するとアイザックは刀を掴んだままの彼の腕をその上から握りしめ、しっかりと目を直視して言った。

「お前の不安な想いはよく分かる。なにせファラデーにその刀を託した時とまったく同じ顔をしているからな。でも今はそれで良いのだ。大切なのは挑み続ける事。この先幾多(いくた)の障害を乗り越え、その時々で試行錯誤を繰り返してゆけば、その刀はきっとお前に相応(ふさわ)しいものになるだろう」

 アイザックはジュールの胸を軽く叩く。その拳には熱く馳せる想いが込められていた。総司令はファラデーの意志が込められた名刀と共に、自分の気概をもジュールに受け継がせようとしているのだ。それを強く感じ取ったジュールは、アイザックの言葉を(うやうや)しく聞き続けた。

「その布都御魂(ふつのみたま)という刀は、他の十拳封神剣とは少し毛色が異なるものだ。ドルトンの稜威之雄覇走(いつのおはばり)やテスラの蛇之麁正(おろちのあらまさ)を見れば分かる様に、十拳封神剣は超絶な物理破壊を根源として対象を打ち砕く剣である。それに対し布都御魂は切り付けた対象の命を吸い取る剣だ。それゆえ生物に対しては絶対的な効果を発揮することが出来る。ただ逆に無機質な物体に対しては通常の刀としての攻撃力しか持たない。少し扱うには厄介な代物だけど、それでもお前には適した武器だと私は確信しているよ」

「命を吸い取るっていうのは、どういう意味なんですか?」

 ジュールは不安げな表情を募らせる。

「その刀は切り付けた対象から、瞬時にしてアミノ酸を奪い取る特性を持っているようだ。ゆえに切られた者は体力を奪われ、最終的には命をも失うらしい。そしてその刀を使い(こな)せるようになれば、たとえ刃が届かなくても、振り向けただけで対象を倒せるという話しだ。残念だが、それ以上の詳しい仕組みは分からん。十拳封神剣の構造については、天才ラジアン博士しか把握していないからね。ただ一点気掛かりがあるとすれば、その製造主であるラジアン博士ですら、この布都御魂の性能を完全に理解しきれていないという事だ。布都御魂に宿る力は未知数であり、もしその力の暴走を招けば、味方も含めた一定範囲内にいる者全ての命を奪い兼ねん。極めてリスクの高い諸刃の剣であるのだよ、その刀はな。だがそれほどまでに人知を超越した武器だからこそ、神に挑むには打って付けだろう」

 ジュールは思い出す。たとえその場が戦場であろうとも、ファラデーは滅多に刀を抜かなかった。剣の達人でもあった彼がどうして刀を使用しないのか。不思議に思ったジュールは度々その疑問を尋ねていた。しかしファラデーは苦笑いを浮かべるだけで明確な理由は述べなかった。どうして隊長はこの質問に限り、はぐらかす様に何も答えないのだろうか。そんな脳裏の片隅に置き去られていた疑問が解けた。

 なぜファラデーは刀について何も告げなかったのか。それは言わずと知れた彼の優しさだったのだ。ファラデーはその刀の恐るべき力を知っていたからこそ、周囲の誰にも悟られぬよう十分に配慮したのであり、また間違っても仲間に危害を加えないよう最大限に努めていたのだ。恐らくファラデーは自分自身に刀の使用制限を設けていたのだろう。神に挑むまで決して刀は使わないと。それは第一級の兵士である彼をもってしても、十拳封神剣を扱うのは容易なものではないという現れであり、ファラデーはそれを重々承知していたからこそ、ここぞという瞬間まで布都御魂を抜かなかったのだ。そんな隊長の決意が込められた姿勢をジュールはこの時初めて理解した。

 普通の刀でないのはそれとなく感じていた。でもまさか十拳封神剣の一つであるとは思わなかったし、まして命を吸い取る特質を持つものであるなんて想像すらしなかった。刀を手にしたジュールの背筋(せすじ)は尋常でないほど粟立っている。しかしそれは恐怖に(おのの)く脆弱さから来るものではなく、過酷な宿命に正面から立ち向かおうとする強い決意の武者震いであった。そして布都御魂を腰に据えたジュールは、ファラデーと肩を並べるような心強い感覚を抱く。隊長の意志はここにまだ生きているのだ。その意志に応える為にも、俺は絶対に諦めない。

 国宝の刀でありながらも、その造りをワザと量産形状に似せて(きば)を隠したファラデーの計らいに、ジュールは一人口元を緩めながらも硬く決意を新たにした。

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