#45 木の芽時の出立(塵土の坪庭)
どれほどの距離を進んだのだろうか。変わり映えのしない地下道の景色に五感が麻痺してくる。視界の悪い暗闇の中、筆舌に尽くしがたい恐怖と不安に駆り立てられるソーニャの足は重い。ただそれでもかなり長い時間歩み続けている。あの施設からそれなりに距離を置けたのは確実だろう。しかしいくら進んでも彼女の前に出口らしい場所は現れない。本当に出口はあるのだろうか。ソーニャの抱く不安は高まるばかりだ。それでも彼女は流れる下水と共に、憔悴しきった体を前へと進めた。今自分に出来る事はそれしかないのだと、萎える心に言い聞かせながら。
「痛っ」
足の裏に痛みを感じたソーニャは懐中電灯でそこを照らす。彼女の履く白い靴からは、薄っすらと赤く血が滲んでいた。靴底の薄い部屋履きの靴で硬いコンクリートの地下道を何時間も歩いたのだ。トップアスリートであるソーニャの足でも、さすがに限界がきているのだろう。ただ彼女はそんな血の滲む靴を見て思う。この靴に付着しているのは自分の血だけではない。いや、赤く血に見えるほとんどの部分は、あの自害したマラソン選手の血なのだと。
胸が締め付けられる。息が出来ないほどに。でもだからこそ、彼女は力を振り絞って足を動かした。あの人の為にも絶対に逃げ切らねばならない。ソーニャは気持ちを引き締め直し歩み続ける。すると彼女は前方に何かを見つけた。
懐中電灯の光に微かに反射した物体。それは鉄の丸棒で地下道を遮る鉄格子だった。もしかして行き止まりなのかとソーニャは肝を冷やす。ただ鉄格子に近づいた彼女はホッと胸を撫で下ろした。
鉄の丸棒は規則正しく等間隔で並び地下道を遮っていたが、それでも小柄なソーニャの体ならどうにか通り抜けられそうだった。彼女は冷たい鉄棒を握りながら、ゆっくりと鉄格子を潜り抜ける。しかしその時、ソーニャは思わず叫びそうになった。
「ひっ」
自分の手で口を塞ぎ、声が漏れ出るのを無理やり抑え込む。それでも彼女の鼓動は激しく波打ち、その振動は鼓膜を荒々しく揺さぶった。膝が大きく震える。後退りするも、鉄格子が邪魔でそれ以上後ろに戻れない。落ち着きを失った彼女は過呼吸寸前のところで立ち尽くした。
ソーニャがそこで目にしたのは、変化したラウラと同じで全身を黒い毛で覆う化け物の姿だった。それもその体は変化したラウラの倍はありそうなほど大きい。腰を下ろした状態にもかかわらず、高さ2メートルほどの地下道を塞ぐくらいの大きさだ。投げ出した足は、まるで足湯にでも浸かる様に下水の中へと入り込んでいる。そしてその顔は【腐った象】の様であり、長く伸びた鼻をコンクリートの地面まで垂らしていた。
その不気味な姿にソーニャは思う。アダムズ王国にて、かつて残虐な行為を繰り返し人々を恐怖に陥れた【ヤツ】という化け物の事を。噂でしか聞いた事はないけど、ヤツの存在は史実の事件として認知されている。その風貌からして、恐らく間違いはないだろう。でもどうしてそんな化け物がこんな場所にいるのか。いや、なら変化を遂げたラウラはヤツになってしまったということなのか。理解に苦しむソーニャはただ愕然とするばかりだった。
少しの時間が過ぎ去る。変わらずに足の震えは収まってはいないが、それでもソーニャは僅かに落ち着きを取り戻していた。それもそのはず。目の前にいるヤツは、いつまで経ってもまったく動く気配がないのだ。もしかして死んでいるの? ソーニャは意を決してヤツに歩み寄る。すると彼女の耳に微かに鳴る風の音が聞こえた。
「ヒュー、ヒュー」
ソーニャは息を殺してヤツの表情を確かめる。そして分かった。どうやらヤツは寝ているらしい。それもかなり熟睡しているみたいだ。軽微ながらもソーニャは安堵する。音を立てずに過ぎ去れば問題ないだろう。しかし彼女は更なる課題に立ち塞がれた。そう、巨大な体格のヤツが地下道を塞いでいるせいで、その体を乗り越える以外先に進めそうにないのだ。でもそんな事をしたらヤツが目を覚ましてしまうかも知れない。進退極まる状況に、彼女の精神はさらにすり減っていく。――だが次の瞬間、彼女の後方で凄まじい衝撃音が発生した。
「ズドガァァーン!」
突如として粉塵が舞い上がる。ソーニャは咄嗟に身を屈め、そして埃が目に入らぬよう手で顔を覆いながら衝撃の発生した後方を確かめた。すると彼女は身の毛の弥立つ戦慄を覚え震えだす。ソーニャの目の前に現れたのは、あの傷顔の男だったのだ。
ソーニャは奥歯が噛み合わないほど震え上がる。それでも彼女は反射的に下流に向けて走り出した。無我夢中で駆ける彼女は象顔のヤツの体をよじ登り、僅かな隙間からその身を抜け出す。幸運にも象顔のヤツは、あれほどの衝撃音がしたのに寝入ったままだ。さらに傷顔の男にとっては鉄格子が邪魔であるらしく、簡単には追撃して来れなそうにない。
ソーニャは全速力で走る。形振り構ってなどいられない。ここまで逃げたっていうのに掴まってたまるか。背中が火傷するほどに感じられる嫌悪感に苛まれながらも、ソーニャはひた走った。すると彼女は上方に伸びる一本の梯子を見つける。あの施設を抜け出して以来、初めて目にする梯子だ。ソーニャは吸い寄せられるようその梯子に掴まると、一気に登りはじめた。
梯子の先は真っ暗で何も見えない。その為どのくらいの高さを登れば良いのか判断するのは不可能だ。しかし懐中電灯を向ける時間も惜しい。ソーニャは決死の思いで梯子をよじ登った。
想像以上に梯子は長いものだった。疲れ切った体に対し、さらに重力に逆らう運動は尋常でなく厳しいものだ。それでもソーニャは歯を喰いしばって登る。そして彼女は硬い鉄に頭をぶつけて止まった。
頭部の鈍痛など気にしてはいられない。やっと登り切ったのだ。そして早くここから抜け出なくてはならない。ソーニャは気持ちを急き立てる。恐らくこれはマンホールの蓋なのだろう。彼女は頭と肩を鉄に押し当て精一杯の力を込めた。
(お願い、開いて!)
祈りながらソーニャは全身の力を込める。すると僅かだが鉄の蓋は動き出した。――開きそうだ。そう感じた彼女はさらに力強く鉄の蓋を押し込む。小柄な少女からはとても想像できない力が発揮される。そして鉄の蓋はソーニャの体が通り抜けられるくらいにまで開いた。彼女は梯子を強く蹴り、素早くマンホールから飛び出す。力の入力が途絶えた鉄の蓋は、重たい音を立てて再びマンホールを塞いだ。
「ハァハァハァ――」
胸が張り裂けるほどに呼吸が苦しい。限界を超える力を発揮したせいか、全身が唸るほど痛い。それでもソーニャは何処か身を隠せる場所がないか周囲を見渡した。
運が良い事に、どうやらここは茂みの様だ。隠れられそうな場所は至る所にある。ソーニャは低い姿勢を維持したまま、少し離れた木陰に身を隠した。
傷顔の男は追って来ないのか。張り裂けそうな胸の鼓動に吐き気を覚えるも、彼女は必死に息を潜めた。そしてソーニャは改めて周囲を確認する。このままこの場所に留まっていても、あの男をやり過ごせるかどうかは分からない。今の内にもっと遠くに離れなければ。しかしここは何処なのだろうか。理解できるのは空に星が見えるくらいで、今が夜なのだという事だけ。長い地下道から抜け出せたものの、それだけではここが安全な場所とはとても言えない。彼女はいつ迫り来るか分からない男に気を配りつつ、それでもここが何処なのか把握しようと努めた。ただそこでソーニャは目を丸くする。夜空に浮かび上がる巨大な影。それはまさしく、天高く突きだしたアダムズ城の壮観な姿だった。
「ま、まさか、ここはお城の中なの?」
意図せずして自分が辿りついた場所が、アダムズ城である事にソーニャは一驚する。高い城壁に周囲が覆われている為、ここが城の内側なのは間違いない。そして星空に見下ろされたこの広大な庭園は、きっと城の中庭のような場所なのだろう。追い詰められた状況の中で、それでも周囲を瞬間的に把握する彼女の判断力は大したものだ。ただ彼女は次にどう行動すればよいか、そこまでは頭が回らなかった。すると次の瞬間、ソーニャは何処からか近づいて来る足音を聞いて体を強張らせる。
「ザッ、ザッ、ザッ」
空は所々雲掛かっているため、庭園に星の明りはさほど届かない。また夜もかなり更けた時間らしく、周囲の外灯はほとんど全て消灯している。そのため何処から誰が近づいて来るのか把握する事ができない。それでも彼女は確信した。この足音の主は、間違いなくあの傷顔の男であると。
禍々しい嫌悪感が絡みつく様に全身に伝わって来る。これ程までに他者を圧倒するプレッシャーを発するなんて、常軌を逸するどころではない。そう、言うなればそれは人の発するものではなく、悪魔や修羅の成せるものだ。そう感じたソーニャは生きた心地がまるでしなかった。すると突然わずかだが庭園に明かりがさした。どうやら雲の切れ間より、月の明りが差し込んだみたいだ。そしてその明かりは庭園を悠然と歩む一人の男の姿を浮かび上がらせた。ソーニャの額からベタ付いた汗が垂れ落ちる。彼女の予想通り、庭園を歩む男の正体は傷顔の男だった。
どこからこの庭園に入って来たのか。ソーニャは月明かりに映し出された男の影を見ながら考える。少なくとも、自分がここに来たマンホールからではない。なら他にもあの下水道とつながっている出入り口が何処かにあるという事だ。もしかしたらあの男以外にも、私を追跡して来た人がいるかも知れない。
ソーニャは集中力を極限まで高めて他に何者かがいないか周囲に気を配る。ただ今のところあの男以外に人の気配は感じない。そしてあの男も、まだ自分が何処にいるか分かっていないはず。その証拠に男はキョロキョロと首を振りながら庭園を歩くばかりだ。
辺りは暗いし、身を隠す場所はいくらでもある。それにここはアダムズ城の中。いくら今が夜更けだからといって、助けを求められる人は随所にいるだろう。そう感じたソーニャは這う様にして移動を試みる。しかし彼女はふと疑問を感じて動きを止めた。
待てよ。地下道を通じてお城とあの秘密結社の施設はつながっている。という事は、奴らと城は密接な関係にあるって事なのか。自分を追跡するあの傷顔の男は、平然とこの城内の庭園に姿を現した。城に駐在する関係者全てが奴らとつながっているとは到底思えない。でもアカデメイアと通じている者が、少なからず存在するのは事実なのだろう。とすれば、不用意に助けを乞うのは危険極まりない。ならどうすればいい、どうすれば……。状況判断に優れたソーニャは、逆に考えがまとまらず混迷した。
月明かりの下、男は庭園を進む。やはり彼はソーニャを見失ったままだ。今の彼女にとってはそれだけが救いである。
下手に動いてはいけない。見つかったら最後なのだから。今は男の動きを観察し、状況を窺うのがベストなはず。現状ではそれだけが自分にとって有利な部分であり、十分な隙を見極めてから移動を開始すればいい。早く逃げ出したい気持ちを必死に抑えながら、ソーニャは男を観察し続けた。
上空に流れる雲の動きは思いのほか早い。その為男を浮かび上がらせる月の光は時折遮られる。その度にソーニャは男を見失わぬよう目を凝らした。幾度となく男は月明かりと影の中を行き来する。それを注視していた彼女は、次第に気分が悪くなっていくのを感じた。あの傷顔の男の発する異様な圧迫感によるものなのだろうか。それとも逃亡の疲労が限界に達しているからなのか。しかし彼女は気付かない。それは空に浮かぶ月よりの光を見ることで、体に不調を来たしているのだという事を。そしてついにソーニャはうつ伏せに倒れ込んでしまった。なぜか体に力が入らない。
(いけない。このままじゃ、男を見失ってしまう)
焦るソーニャは必死で身を捩る。しかし体が言う事を利いてくれない。どうして急にこんな――。するとそんな彼女を含む広い庭園を暗い影が覆い尽くした。少し厚めの雲が月の光を遮ったのだろう。そしてそれと同時にソーニャの体に力が戻る。彼女は体調が急変した原因が気になりながらも、目を離してしまった男の行方を素早く追った。しかしソーニャは男の姿を見つけられなかった。
それほど遠くへは行っていないはず。彼女は危険を承知で茂みから少し顔を出して様子を探る。――だがその時、ソーニャの全身に悪寒が走った。
「お嬢ちゃん、いい加減にしてくれよ。俺はもう眠いんだ。良い子だから大人しく施設に戻ろうぜ」
ソーニャは背後より呼び掛けられる。恐る恐る彼女が振り向くと、そこには傷顔の男が立っていた。そしてその不気味な表情に、ソーニャは息が詰まり声を失った。
「あ、あ……」
その場に腰を抜かしたソーニャは完全に恐怖で塗りつぶされている。何も考えられない。自分が誰なのかも分からないほどだ。そんな瞳孔の開ききった彼女に向かい、傷顔の男は薄気味悪く口元を緩めながら言った。
「別に俺はお嬢ちゃんみたいな乳臭い小娘なんてどうでもいいんだよ。でも放っておくとスポンサー様がうるさいんでね。さぁ、一緒に戻ろうか」
男はソーニャに対して掴まれとばかりに手を差し出す。しかし恐怖に竦む彼女は、逆に男から逃げる様に後退りはじめた。
「やれやれ、面倒だな。いつもなら手足の1、2本ぶった切って言う事を利かせるんだけど、無傷で連れ戻せって言うのが上の命令だからな。まったく、世話が焼けるぜ。あの【新工場】さえ計画通りに立ち上がっていれば、俺がこんな貧乏くじ引かなくて済んだものを。チェ、組織の人手不足は慢性的だな。これじゃ、当分ルヴェリエからは離れられんな……」
わけの分からない苦言を漏らしながらも、男はソーニャの近くに自分から歩み寄る。強引に抱きかかえて彼女を連れ戻すつもりなのだろう。そんな男から少しでも遠ざかるようにと、全身が痙攣しながら震えるソーニャは、それでもひたすらに後退りを続けた。ただ彼女は感じ取る。手を着く大地が微かに揺れていると。はじめそれは自分自身の体の震えによるものだろうと思った。でも違う。明らかに地面は揺れているのだ。それもその揺れは徐々に大きくなっていく。そして男までもがその揺れに気付いた。
「ん、なんだ。地震か?」
男がそう呟いた瞬間、彼の立つ地面が突如吹き飛んだ。
「ッドガガガーン!」
まるで地雷でも仕掛けられていたのではと錯覚するほど、大地は大爆発し男の体を吹き飛ばした。突然の出来事にソーニャは目の前で何が起きたのか理解出来ない。ただそこで彼女が目にしたのは、猪顔のヤツとなったラウラの姿だった。
「ソーニャには指一本触れさせない!」
呼吸は極めて荒いが、ラウラはそう叫びながら身構えた。土を強引に掘り進んで来たのであろう。ラウラの全身は土まみれであり、またその指先の爪は痛々しいほどボロボロだった。
腐った猪の顔つきが、土と血にまみれた姿をより一層化け物じみたものに感じさせる。ただそんな彼女の姿を見たソーニャはハッと気を揉んだ。ラウラの全身は傷だらけだ。それも相当な深手を負っている様に見える。それは土の中を突き進んで刻まれた傷ではないのだろう。恐らくはあの施設で、傷顔の男と戦った際に負った傷なんじゃないのか。ソーニャはそう思うと居た堪れなくなった。
ラウラが生きていてくれた事は嬉しく思う。でもどうして私をそこまでして助けようとするのか。たとえ化け物になったとしても、地中を進めるのなら自分一人でも逃げられただろうに。それなのに私を助けるため、わざわざ死地に駆け付けて来た。私はラウラに何もしてないのに、彼女は命を賭して私を守ってくれる。締め付けられる胸を掴みながら、ソーニャは涙を流した。
「ラ、ラウラ」
「泣いている暇はない。ソーニャ、あいつは私がなんとかする。だからあなたは今の内に逃げて」
「ど、どうしてあなたは」
「いいから逃げてっ、早く!」
ラウラの怒鳴り声にソーニャは思わず立ち上がる。そして彼女の背中をじっと見つめたソーニャは、止まらない涙を拭いながら決意した。私が逃げ切る事がラウラの望みであるなら、私は全身全霊で脱出してみせると。
「ドンッ!」
突然周囲は猛烈な威圧感で包まれる。尋常でない凄味にソーニャ達は思わず立ち竦んだ。そしてそこで彼女達が見たものは【腐った豹】の顔をしたヤツの姿だった。
傷顔の男が変化し、豹顔のヤツとなった。ソーニャは瞬時にそう把握する。人の時と同一な傷跡が、その醜い顔にくっきりと刻まれているからだ。そして何よりヤツから放たれる尋常でない嫌悪感が、言わずとそれを認識させたのである。
「やってくれるじゃねぇか、汚いメスブタが」
豹顔のヤツは太い股を摩りながら彼女達に近寄って来る。腐った醜い表情で分かり辛いが、痛みを堪えているのは確かな様だ。どうやらラウラの不意な一撃が、ヤツにダメージを与えたのだろう。それでもヤツを前にする二人は恐怖に身を強張らせた。少しばかりの傷を負わせたとして、状況はまったく好転する気がしない。いや、むしろヤツの機嫌を損ねたことで、局面は最悪な方向に向かっている気がする。恐らくはこうした命のやり取りに対する場数の違いが圧倒的なのだろう。
そもそもソーニャ達と豹顔のヤツは正反対と言い切ってしまえるほど、生きる世界が違い過ぎるのだ。表舞台で世界中から脚光を浴びる彼女達と、闇の世界で人殺しを生業とする裏組織の男。別々の世界に生きる者通しが交わった時、それがどういった結果を生み出すか。それは誰しもが想像し得る最悪の結果であり、それ以外にたどり着ける未来は無いのである。
拳を握りしめるラウラの腕は震えていた。そして大地を踏みしめる太い足もまた、宙に浮かんでいるのではと思えるほど頼りないものだった。そんな心許ない彼女の背中に何かが軽く当たる。ギョッとするラウラだったが、それでも彼女は目を向けずしてその衝撃の正体を知り得ていた。
ラウラの背中に伝わった衝撃の正体。それは彼女の背に飛びついたソーニャの感覚だった。恐怖に震える振動と共に、優しい温もりがラウラに伝染する。そして彼女の耳に、ソーニャの絞り出した小さな声が届いた。
「私、行くね。もう何があっても立ち止まらない。だからこれだけは言わせて。ラウラ、ありがとう――」
ソーニャは全力で駆け出した。離れていく彼女の足音がラウラの耳に聞こえる。そしてその力強い足音にラウラは口元を緩めた。これでもうソーニャは大丈夫。あとは私がこいつを抑えるのみ。命に代えても――。
大地を踏みしめる足に力が甦る。拳を握る腕はさらに肥大し唸りを上げた。今まで感じた事のない力が胸の内から膨れ上がって来る。自分でも信じられない感覚にラウラの心意は沸き立った。そして彼女は目の前に立つ豹顔のヤツに向かい、その魂を叩きつけるが如く迫撃を開始した。
剛腕が唸りを上げて豹顔のヤツに迫る。一直線にヤツに向け突進するラウラは、大砲の如き一撃を浴び掛けた。そんな強烈な拳を紙一重で避けた豹顔のヤツは大きくジャンプし間合いを広げる。さすがのヤツも、ラウラの剛腕が放つ凄まじさに怖さを感じたのだろう。それでもヤツは鋭い眼差しでラウラを睨みつけている。異様な凄味は一向に衰えてはいない。ただ着地した豹顔のヤツは一瞬バランスを崩す。最初の攻撃で股に受けたダメージによるものだ。そしてそんな隙をラウラは見逃さない。
ヤツに向かってラウラは猛烈に突進する。それはまるで巨大な猪が獲物に襲いかかる姿の様だ。だがまたしても豹顔のヤツは、際どいところで攻撃を避ける。そして間合いを広げる為に後方へジャンプした。
視線はラウラに向けたまま、ヤツは大きく後ろへ飛ぶ。その表情は少し口元を緩め、まるでこの戦闘行為を楽しんでいる様にも見える。それはヤツの戦い慣れした感性が告げる、こんな猪女になど余裕で勝てるといった慢心の現れなのだろう。そんなヤツの嫌味な感覚が、攻撃を仕掛けるラウラにも伝わった。
レスリング選手という一種の格闘家である彼女ならではのセンスが、それを無意識に感じ取ったのだ。しかしそれでも彼女は猛然と突き進む。目の前にいるヤツと真正面から戦ったとて、決して勝てる見込みはない。そう直感しながらも、ラウラには突き進む事しか出来なかった。実は彼女はもう、立っているのが不思議なくらいの重傷を負っていたのだ。
あのアカデメイアの施設からソーニャを脱出させる為に、ラウラは傷顔の男と対峙した。だがそこで彼女は信じられない圧倒的な恐怖を目の当たりにする。
猪顔のヤツとなったラウラは殺すつもりで傷顔の男を殴りつけた。しかしその剛腕は空しくも弾き飛ばされる。ラウラは俄かに信じられないと目を疑った。
あの青い瞳の科学者と【取引】し、ソーニャを助けるという共通の目的からヤツの姿になる事を受け入れた。それは全てソーニャの為であり、またその圧倒的な力があれば、彼女の脱出は確実なものになると疑わなかったのだ。しかしラウラが見たものは、自分と同じ化け物の姿をした男の存在だった。
まさか敵にもヤツがいるなんて想像していなかった。そしてさらに彼女は絶望感を強める事になる。豹顔のヤツの姿となった男は、その狂暴で獰猛なヤツの力を自在なまでに使い熟していたのだ。そんな絶対的なヤツの強さの前にラウラは立ち竦む。そして彼女は豹顔のヤツの強烈な猛打を浴びせられ返り討ちにあった。それもただ玩具にされるだけで、こちらからは何もできない。ミサイルの様なパンチが何発もラウラの体にめり込む。そして彼女は為す術なく崩れ落ちた。
こんな醜い姿にまでなったのに、どうして自分はこんなにも無力なのか。悔しくて仕方ない。そんな彼女の目から涙が流れ落ちる。
「へぇ、化けモンでも泣けるものなんだな。ハハッ」
その声にラウラは目だけで視線を向ける。そこで彼女が目にしたのは、いつの間にか【元の人の姿】に戻っていた傷顔の男の姿だった。そして男は床を舐めるラウラの脇を通り抜け、ソーニャの進んだ通路を歩み出した。
「ま、待て――」
必死に男を止めようとラウラは手を伸ばす。だがその時彼女は思った。ここで無理に男に挑んだとして、それは時間稼ぎにもならないのだと。ならばソーニャを確実に逃がす事に残りの命を使うしかない。あの若い科学者の言った事を信じるならば、ソーニャは地下道から脱出を図るはず。絶対に彼女は私が助けるんだ。そう強く決意したラウラは両手の先に意識を集中させる。そして太く硬い爪を伸ばしたラウラは、自ら地下へと潜り込んだのだった。
豹顔のヤツに挑むラウラの体はもう限界だ。だがそれゆえに彼女の集中力は研ぎ澄まされていた。余裕の表情で自分の攻撃を避けるヤツであるが、しかしヤツの方からは一向に攻撃して来ない。恐らく庭園での最初の一撃が、思いのほか利いているのだろう。ただヤツは自分の攻撃を受け流す事で時間を稼ぎ、その間に負傷した足を回復させるつもりなのだ。そう判断したラウラは攻撃の手を緩めない。いくらヤツでも、これだけ素早く動き回っている状態で傷を回復させるのは困難なはずだ。ならば今に全てを懸けるしかない。
縦横無尽に二体のヤツが城の庭園を駆け巡る。そしてラウラの十回目の攻撃を避けた豹顔のヤツが、痛めた足を茂みに取られバランスを崩した。
「ここだ!」
一瞬生まれた僅かな隙に、ラウラの渾身の一撃がヤツに入る。
「ガズン!」
重低音と共に、ずっしりとした衝撃が庭園に伝わった。空気に波及する振動からして、その衝撃の凄まじさが感じ取れる。いかにヤツとて、これほどの打撃に耐えられるわけがない。そう信じて止まないラウラだったが、なぜかその視線から豹顔のヤツの姿がゆっくりと消えて行った。
(どういう事――)
状況を読み込めないながらも、ラウラは消えたヤツの姿を探そうとする。しかし彼女はうつ伏せに倒れ込んだ。意識はハッキリしているものの、まったく体に力が入らない。いや、どういうわけか天地が逆転するほど目が回る。ま、まさか――。
彼女が気付いた時にはもう手遅れだった。ラウラが渾身の力で叩きつけた剛腕に対し、豹顔のヤツは完璧なタイミングで彼女の顎にカウンターの拳を捻じ込んでいたのだ。
顎を強打されたラウラは脳震盪を起こし、首から下の自由を断ち切られていた。信じられない。あれほど完璧なタイミングで放った一撃がかわされた。それもただ躱すんじゃなく、逆にカウンターを合わせ込まれた。もしかしてヤツは初めからそれを狙っていたのか。ヤツが自分に何をしたのかは漠然と理解できる。しかし彼女の心はそれを受け入れられなかった。
そんなはずはない。私の攻撃はヤツを確実に捕えたはずなんだ。ラウラは拳に感じるはずの手応えを必死に探す。それが妄想の末の悪あがきだという事を自ら認識しつつも、彼女は絶対的なヤツの強さを否定せざるを得なかった。そんな心の折れた彼女の目の前に立った豹顔のヤツは、この上なく怪奇な笑みを浮かべている。そしてヤツは無造作にラウラの巨体を蹴り飛ばした。
「ゴフッ」
ラウラの体が為す術なく宙を舞う。しかし彼女はハッとして身を捻った。ラウラが吹き飛んだ先に、走るソーニャの姿があったからだ。軽く蹴られただけに見えたラウラの巨体は、百メートル以上先を駆けるソーニャにみるみると近づいていく。そして大地に激突したその巨体は、勢いを殺さずにソーニャ目がけて大地の上を転がった。思うように動かない体でありながらも、ラウラは必死にソーニャを避けようと足掻く。
「バシャーン!」
どうにかソーニャへの直撃を免れたラウラは、そのまま勢いよく庭園の池に嵌り動きを止めた。庭園の広範囲に水しぶきを舞い散らしたラウラは、歯を喰いしばり懸命に立ち上がる。彼女が勢いよく突っ込んだ池は比較的小さなものであり、水嵩は踝ほどの高さだ。赤子でもない限り、溺れる事はあるまい。だがそこでラウラが見たのは、水面に顔を埋めた少女の姿だった。
「ソ、ソーニャ!」
ラウラの巨体は少女を軽くかすめただけだったが、小柄なその体は簡単に吹き飛ばされていた。そして空中を舞ったソーニャは水面に強く叩きつけられていたのだ。足が縺れながらも浅い池の中を駆けて、ラウラは急ぎ少女の元へ向かう。ただそれと同時に彼女はゆっくりと体を起き上がらせるソーニャの無事を確認した。ラウラの大きな足で水を踏みしめる騒音によって気が付いたのか。ただソーニャは激しく咳き込んでいる。池の水が器官に入ったのだろう。
「ソーニャ、しっかりして!」
叫ぶラウラの声にソーニャは表情を歪めながらも無言で頷く。体のどこかを痛めたのは明白だ。それでもソーニャは弱音を漏らさずに立ち上がった。そんな少女に対してラウラは胸を撫で下ろすと同時に息を飲んだ。ソーニャの眼差しからは強い光が見て取れる。それは少女の堅く強靭な意志の表れであり、また決して諦めないという揺るぎない決意の表れでもあった。そんな少女の直向きな姿がラウラに最後の力を取り戻させる。拳を強く握ったラウラは、ソーニャの後方に見える大きな噴水に視線を向けて指示を出した。
「聞いてソーニャ。すぐそこに噴水があるでしょ。あそこまで全力で走って」
彼女達の背後から豹顔のヤツが近づいて来る。もう時間はない。
「ソーニャ。私はあなたに出会えた事だけで、生まれて来た甲斐があったと心から思えた。ありがとうソーニャ。さぁ、走って!」
ラウラの掛け声と同時に少女は精一杯に走り出す。その目は涙で溢れていたが、決して振り返りはしなかった。そしてラウラはソーニャとは反対にヤツに向かって突進する。それは命を捨て去る決死の突撃だった。
迫り来るラウラに対し、豹顔のヤツは素早く身構える。彼女の覚悟の一撃に、またもカウンターを叩き込もうと狙っているのだろう。ヤツは不敵に口元を緩めながら拳を握りしめる。そんな傲慢な態度のヤツに対し、猛然と突き進むラウラは止まらない。彼女は鋭い大きな爪に全ての精神力を集中させる。そして互いの距離が限りなく接近すると、それぞれの放つ渾身の一撃が対象に向け放たれた。
「ズゴン!」
鈍い衝撃音が庭園に響く。しかし豹顔のヤツは目を見開いて驚いた。確実にカウンターを捻じ込んだはずの拳が空を切る。その手応えの無さに、ヤツは僅かだが背中に悪寒の走るのを感じた。
(どういう事だ!?)
ヤツの目の前からラウラが一瞬にして姿をした。刹那の一事にヤツは訝しむ。それでもさすがに場馴れしたヤツの勘が働くのは早かった。もしやと察したヤツは即座に自らの足元を見る。するとそこには大きく土が抉れた形跡が残っていた。
「チッ、メスブタめ、地面の中に隠れやがったか。だが一度くらい上手くいったからって、同じ手が何度も通じると思うなよ!」
そう吐き捨てた豹顔のヤツが素早く駆け出す。逃げるソーニャを追い駆け始めたのだ。ヤツは地中からラウラが攻撃を仕掛けて来る前に、ソーニャの身柄を抑え込もうと考えたのだろう。娘の身さえ確保してしまえば、ラウラは無暗に手出し出来なくなる。それはごく必至な流れなのだ。
浅いながらも水の張った池を駆けるソーニャのスピードは、ヤツの走るそれに比べれば圧倒的に遅い。少女の背中に豹顔のヤツがみるみると迫っていく。そしてヤツはソーニャの体に手を伸ばした。
「ズバギャァァーン!」
ヤツに向け、地中よりラウラの右腕が唸りを上げて突き出された。彼女はこれを狙っていたのだ。自分が地中に入り込めば、ヤツは必ずソーニャの方を狙うはずだと。でも少女の身を抑える瞬間に最も隙が生じやすいはず。全力で突き出したラウラの黒い爪が、豹顔のヤツの腹を完璧に突き刺した。――かの様に見えた。しかしヤツはそれさえも先読みしていた。
俺が娘に手を伸ばした時、必ずあいつは攻撃を仕掛けて来るはずだと。ヤツはラウラの鋭い爪をギリギリで避ける。僅かにかすめた脇腹から鮮血が飛び散るも、そんな事にはお構いなしにヤツは左の手刀に力を込めた。そしてラウラの本体が埋まっているであろう地中に向かい、お返しとばかりに強烈な突きを捻じ込んだ。
「ズガガッ!」
豹顔のヤツは腕の付け根が見えなくなるほど地中深く手刀を突き立てた。いかに地中に身を埋めているとはいえ、これではラウラは一溜りもあるまい。しかしヤツは顔色を変える。手刀の先に肉を切り裂いた感触がない。なぜだ、おかしいぞ。ここにあいつはいるはずだ。しかしヤツがそう思った瞬間、走り去るソーニャの背後から右腕の無いラウラが飛び出した。そう、彼女はヤツに向け渾身の一撃を放ったと同時に、自らその腕を切断してソーニャの元へと進んでいたのだ。
ラウラは走るソーニャの体を後ろから強引に抱え上げる。そして思い切り高くジャンプした。さらに彼女は空中でソーニャの体を放り上げる。ラウラは残された左腕の爪に全神経を集中させると、少女が落下するであろう噴水脇にその爪を立てた。大地を抉る凄まじい衝撃と吹き飛ぶ水しぶきが庭園に波及する。そしてラウラが掘り進む穴に、ソーニャの体が吸い込まれるよう消えた。さらにその穴には池の水が大量に流れ込んでいく。まるで彼女達の体を絶望の世界から押し流すかの様に。だが豹顔のヤツもそれを黙って見過ごしはしない。肩まで地中に突き刺した腕を即座に引き抜いたヤツは、水の流れ込む穴に向かって自らも飛び込んだ。――が、しかし。
「ズバァーン!」
豹顔のヤツの目の前にラウラが姿を現わす。そしてその剛腕をヤツに向け叩きつけた。あまりに予想外の事態にヤツはラウラの攻撃をガードする事しか出来ない。瞬時にクロスしたヤツの腕に痛烈な一撃が捻じ込まれる。ラウラは構わずに全てを込めた左腕をそのまま振り抜いた。骨を砕き折られた豹顔のヤツが激しく吹き飛ぶ。そんなヤツに視線を向けたまま、彼女はその場に崩れ落ちた。
ラウラは豹顔のヤツが自分達を何処までも追ってくると確信していた。だから彼女はソーニャを地下に逃がすと、身を反転させてヤツを向かい撃ちに戻ったのだ。一本道を自ら造り出し、ソーニャを脱出させながらヤツをも誘い込んだ。最終的に追い詰めていたのはラウラの方だったのである。
池の水位が急速に減少していく。いや、もう池とは呼べないほどにまで水は姿を消していた。それらはソーニャの体と共に、ラウラの築いた地中の穴からどこかへ抜け出ていったのだろう。水を失った池は、その中心に大きな噴水を残すのみの殺風景な佇まいになった。ただその噴水脇には、人のそれへと姿を戻したラウラの切断した右腕が突き刺さっていた。
「クソっ。俺とした事が、こんなガキどもに欺かれるとはな。少し余裕を見せ過ぎたか。それにしても、厄介な事になっちまったぜ。ペッ」
痛恨の失態を嘆くヤツは、倒れ込んでいるラウラに唾を吐いた。彼女はその汚らしい唾を顔面で受ける。しかしその時のラウラにはもう意識がなく、湿った地面にひれ伏すだけであった。ただそれでも彼女の表情は、醜くもどこか満足感に浸るよう口元を緩めていた。