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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
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#44 木の芽時の出立(十方闇からの脱出)

 ラウラから聞いた話の通り、部屋へと戻ったソーニャは猛烈な睡魔に襲われ深い眠りに落ちる。過度なトレーニングで体を酷使した為に、疲労が極限まで達したのか。いや違う。この感覚は拉致された時とまるで同じだ。ということは、他者による人為的な行為によって睡魔に襲われているのか。ただそんな事、冷静に考えるまでもない。ここは秘密結社の実験場なのだ。今更なにも不思議な事ではない――。

 薄れる意識の片隅でそう思いつつ、ソーニャは睡魔に身を委ねていく。だが少しして彼女はその身に異変を感じた。そして夢と現実が錯綜する中で、彼女はふと意識を取り戻したのだ。

 全身に激痛が走る。これは限界まで体を(いじ)め抜いた影響による筋肉痛じゃない。だって痛過ぎるのだ。とても我慢が出来ない。だがどういうわけか目が開けられない。夢でも見ているのか。でもこの感覚はやけにリアルだ。耐え難い苦痛にソーニャは表情を歪ませる。するとそんな彼女の耳に男達の話声が聞こえて来た。

「……こんな娘にまで手を出すなんて。組織はどこまでやるつもりなんだ」

「やめろ。そんな事、あいつらに聞かれたらお前もただじゃ済まないぞ。俺達は黙って言われた事をすればいいんだ。ほら、さっさとやれよ」

「分かってるよ。もう後戻りはできないんだ。僕は【悪魔】に心を売り渡した。もう怖いものなんて、何もないさ」

 ソーニャは意味不明な会話を聞きながらも、必死で抵抗を試みる。しかし体はまったく言う事を利かない。全身の激痛は増々強まっていく。それなのに抵抗する(すべ)がない。自分に何が起きているんだ。何をされているんだ。意識だけはハッキリとする中で、今度は首の後ろ側から更に猛烈な痛みが発せられた。

「ダメ! それだけはお願いだからやめて! それをされたら私はもう……」

 祈る様に必死に叫ぶも、それは口より外側へは届かない。冷たい感触が首の裏側にめり込んでくる。ヤダ、もう何もかもが嫌になってしまった――。自己崩壊するほどの絶望感に打ちひしがれながら、ソーニャは再び眠りへと落ちて行った。そんな彼女の顔を見た男の一人が気付く。

「おい見ろよ。この娘、泣いてるぞ」

「本当だ。どうしてこんな、まさか意識があったのか? いや、そんな事あるわけないよな。でもなんでだろう――」

 寝入っているソーニャの表情は平静を装っている。ただ彼女の目からは一筋の涙が零れ落ちていた。


 ソーニャが目を覚ますと、その十分後に白衣を着た男が扉を開けた。ラウラの話によれば、天井に設置された黒い半球状の物体は監視カメラであり、それによって拉致されたアスリートは常時監視されているらしい。そして目覚めたのが分かると、直ぐに迎えが来るというシステムだった。

 アスリート達は完全に管理されている。いや管理と言うにはあまりにも厳酷な有様だ。寝るか、励むか、食べるか。アスリート達にはそれしか実行できなかった。これでは自我を失ってしまうのにも頷ける。拉致されてから三日目にして、ソーニャはそれを実感した。そして彼女はもう一つ理解した事があった。それはこの拉致生活が、あまりにも本能に従順過ぎるものであるという事だ。

 力の限り鍛錬し、満たされるまで腹に詰め込み、そして死んだように熟睡する。なぜだかその一つ一つの行為に全力で集中しているため、辛さや苦しさといったものは不思議と我慢できた。むしろ行為を終えた後は、清々しい達成感に浸るほどである。アスリート特有のアドレナリン分泌による脳内麻薬が出過ぎているのか。ただ彼女は感じる。気分爽快ではあるものの、本能の(おもむ)くまま行動することは『人』と呼べるのだろうかと。いや、むしろこれでは【獣】と変わらないんじゃないのか。ふと冷静になった時の彼女は、そんな不安を考えるばかりだった。

 ソーニャを含めたアスリート達はトレーニングを行う際、常に数人の男達に監視されている。不思議にもそれらは皆、白衣で身を包んだ屈強な体型の持ち主ばかりであり、その誰もが一流のアスリートをも凌駕する力の持ち主だった。

 ある日の事、拉致されたアスリートの中で最も力の強い重量挙げの選手が取乱し暴挙する事態が発生した。だがそんな彼を取り囲む白衣の男達は、それを即座に取り押さえ鎮めてしまった。見事とも言うべき力強さと手際の良さにソーニャは目を丸くする。そして彼女は思う。これほどの力を持った男達なら、どんなスポーツをやらせたとしても、高い結果を残す事が出来るはずだと。それなのに何故この人達は、こんな場所で不穏な仕事に従事しているのだろうか。彼女は不思議でならなかった。

 ただそんな屈強な男達に混ざり、各アスリートに対して一人づつだが普通の体格の男の姿も含まれていた。彼らは主にアスリート達の訓練の結果をデータとしてまとめ上げる存在らしく、見た目には研究に勤しむ科学者の様に見受けられた。もちろんソーニャにも一人の科学者らしき人物が付いている。胸板の厚い男達とは対照的に、少し細身で小柄な青年。水色に輝く瞳がやけに印象を強くする。アダムズ人でないのは確かな様だ。でもどこの国の人なのだろうか。試合のため諸外国を頻繁に遠征していたソーニャにとって、外国人は決して珍しいものではない。それでも彼女はその青年と同じ特徴を持った国の人を見たことが無かった。

 ソーニャがこの施設に連行されてより、もっとも言葉を交わしたのがこの青い瞳の青年だった。とはいえ、話す内容は訓練時の疲れ方や記録についてばかりであり、雑談をするような事は皆無だった。ただそれでもソーニャにとっては唯一の救いになっていた。

 夕食後の僅かな自由時間にラウラと話しは出来るが、時間が限られている上に周囲の監視もある。だから声を出して話するのは(つつし)まざるを得ない。それに対して青年と話す場合は、例えそれが本意ではないとしても気にせず声を発せるのだ。

 ソーニャは感じていた。声をしっかり出して話す事こそが、自我を保つ最良な方法なのではないかと。話すという行為は考える事に繋がり、質問に答えるというのは自分の意志を伝える事になる。それは人としてあるべき姿であり、獣では決して出来ない行為のはずなのだから。


 拉致から五日が経過する。ラウラの話通り、日々限界のトレーニングを続けるソーニャの身体能力は恐ろしいほどに高まっていた。

 目の前に提示される折れ線グラフには、その成長度合いが顕著に記されている。確かにこの勢いで成長していったならば、自分はどこまで凄い水泳選手になるのだろうか。拉致二日後に世界記録を破った彼女は、現在はもう人の常識を遥かに超えた記録を叩き出していた。

 ただ一方で不安は募るばかりだった。何故ならこの異常とも言える能力の高まり方は、自分自身が精一杯努力した結果だけではないのだからだ。自分の体には人為的な何かが施されているはず。それが何かは分からないけど、かと言って自分自身の力のみで結果を出しているとはとても思えない。ここでの訓練では、不思議と限界を超えた力が湧き上がってくる。それもさほど苦にならずに。その不自然さがこれ以上なくソーニャを訝しい気持ちにさせる原因だった。

 泳いでいる時は何も気にならないのに、プールサイドで息を整えている瞬間には同じ事ばかりを考えてしまう。どうしたらいいの。こんな場所、一秒でも早く抜け出したい。でも出口が何処かも分からない。ううん、この施設自体が何処なのかも分からないのだ。例え抜け出せたとしても、その後どうすれば良いのかも分からない。

 頭からタオルを被り、ソーニャは溢れ出る涙を隠す。こんな姿、決して周囲にいる男達には見せられない。でも心は今にも折れてしまいそうだ。彼女は必死に歯を喰いしばって堪えた。ただその時、極度の不安に苛まれるソーニャに対して優しい声が掛けられる。

「どうしたんだい? どこか体の調子が悪いの?」

 声を掛けて来たのは、あの青い瞳の青年だった。当然の対応だろう。彼にしてみればソーニャは実験対象であり、その体調の変化一つ一つがデータとして価値のあるものなのだから。ただそれでも彼の言葉には、人としての温かみを感じる気がした。

「気分が優れないのなら、少し休憩しようか。君には頑張ってもらいたいけど、それで体が壊れてしまっては元も子もないからね」

 微笑みながらそう告げる青年の表情に、ソーニャは心の温まる想いを感じた。彼が自分の体を気遣うのは研究対象として当然の事。でも彼の感情からは、どこか別の感覚を受け取ってならない。それは自分を今も【人】として接してくれているという事だ。

 新参者の私に対してだからなのか。それとも青年の性格によるものなのか。ただ彼は他のアスリートに付き添う科学者とは明らかに異なっている。だって彼は決して私を(さげす)まないのだから。他の科学者達は、観察するアスリートを動物同然に扱っている。ここは人権なんて言葉が完全に抹消された空間なのだ。それなのに青年だけは心優しく私を気遣ってくれる。ただ彼が私を見る眼差しは、どこか悲壮感で一杯だった。そしてそれはまるで、申し訳ないと詫びているかの様に思えてならなかった。

 プールサイドに設置された簡易的なベンチに二人は並んで腰かける。そして青年は体格の良い白衣の男達に少し距離を置くよう指示した。すると男達は黙って指示に従う。この屈強な男達はなぜこうも無言なのか。そう言えば今まで声を聞いた事が無い。口が利けないのか。ただそんな事を思うソーニャに、青年は小さく言葉を掛けた。

「それにしても君は凄いね。本格的に水泳を始めて三年ちょっとだっていうのに、世界のトップと肩を並べている。そしてここに来てからの成長スピードも、他のアスリートを圧倒しているんだ。驚くばかりだよ、本当に。でも君の内に秘めた能力の高さが皮肉にも組織の目にとまってしまった。アカデメイアという秘密結社が君に関心を寄せているのは、まさにその成長スピードなんだよ。水泳の高いスキル以上にね」

「……」

「ごめん、少し脅かしてしまったかな。気分を変えようと思ったのに、つい余計な事を喋ってしまったね。怖がらせるつもりなんて、これっぽっちも無かったのに、僕はダメだな――。話題を変えて、僕の事を少し話そうか。見た通り、僕は昔から運動が苦手でね。足が速かったり、泳ぎが上手な人をいつも羨ましく思っていたんだ。でもどう頑張ったって、僕は人並みにすら運動が出来なかった。悔しかったよ。でもね、その代わりに僕はここを鍛えたんだ」

 青年は自分の頭を指差して告げる。そして彼は微笑んで見せた。その表情に不快感は感じられない。そんな青年をソーニャは食い入る様に見つめていた。

「僕は考えた。運動神経の劣る人に対して、その身体能力を少しでも嵩上(かさあ)げする方法はないのかと。それもきついトレーニングなどせずに、ある程度の体力を向上させる。そしてそれを健常者のみならず、障害者に対しても同様に考えてみたんだ。もしそれが可能なら、辛く不自由な営みを少しでも軽く出来るかも知れないからね。そこで僕は(ひらめ)いたんだよ。アスリートの遺伝子を抽出し、それを体力の劣る者へ投与する。そうすれば、強い体が手に入るんじゃないかってね」

 青年は目を細めて天井に灯る照明を見つめながら話を続ける。

「でもその前に確認しなくちゃいけない事があったんだ。それは超人的な身体能力を持つアスリートが、さらに効果的に体力を高められないのかって。人の持つ能力の限界がどこにあるか。いや、限界をどこまで高められるのか。それを確認しなくちゃならないんだよ」

「そ、それで私達はこんな場所で毎日トレーニングを強要されているの? あなたの志の高さは何となく理解できるけど、でも私達の立場はどうなってるのよ! 突然連れ去られて、意味の分からない訓練に明け暮れて。もうこんな生活耐えられない。お願いだから元の生活に私を帰して!」

 目頭を熱くした彼女はタオルに顔を埋める。声に出して泣き叫びたいが、その気持ちを必死に堪えた。取り乱した素振りを見せれば、あの体格の良い男達に何をされるか分からない。でも、もう頑張れない――。ソーニャは肩を震わせていた。そんな彼女の肩に青年は優しく手の平を乗せる。そして囁くような声で彼女に告げた。

「ごめん。確かに君の言う通りだね。どうしてこんな事になっているのか、僕にも良く理解できていない。組織の奴らが何を企んでいるのか、その真相は完全に闇の中なんだ。でも僕も今は命令された事に従うしかないんだよ。ごめんね……」

 周囲に聞こえない様、気遣いながら話す青年の口調はとても弱々しいものだった。ただソーニャはそんな青年の声にふと記憶を辿る。彼の声には聞き覚えがある。そうだ、あの夜のこと。ここに拉致されて初めての夜に見た夢。その中に出てきた男性のうちの一人の声にそっくりだ。でもあれは夢だったはずじゃ――。

 首の後ろが猛烈に痛むリアルな感覚に、もしやと思い彼女は起床後にその部分を触ってみた。しかしそれらしい感触は何もない。また夕食後の時間にラウラにそれとなく確認してもらったが、傷跡どころか(あざ)ひとつ確認できなかった。でも青年の声は間違いなくあの時の声と同一に思える。そんな不思議な感覚にソーニャは戸惑うばかりだった。

 その日の夕食時、なぜかラウラの姿がなかった。訓練が長引いているのだろうか。ただソーニャは只ならない不安感に当惑する。ラウラの身に何か尋常でない悪い事が起きているのではないかと。相変わらず無心で料理を口に運ぶマラソン選手と向かい合いながら、彼女はラウラの無事を心の中で切実に願った。


 日が変わっても厳しいトレーニングがソーニャを待ち構えていた。無我夢中で泳ぎ続ける彼女だったが、しかし心の隅で昨夜姿を見せなかったラウラの事を気に掛けていた。そしてもう一つ、ソーニャには気になる事があった。それは昨日あれだけ本音らしい言葉を掛けてくれた青年が、今日に限って怖いくらいに無口になったという事だ。青年は淡々とソーニャの記録をチェックし、次の訓練メニューを考えている。一体どうしたっていうのだろうか。

 それでもその日は何事もなくトレーニングを終える。そしていつも通りにソーニャは食堂へと足を向けた。するとそこで彼女が目にしたのは、いつもと変わらずに食事を取っているラウラの姿だった。

 ホッと胸を撫で下ろしながらソーニャはラウラの隣へと腰掛ける。しかし彼女は釈然としない違和感をラウラから感じた。見た目には何も変化は見られない。それなのにどこか不自然な気がする。そう感じたソーニャは、ラウラに話し掛けられず、黙って料理を口に運んだ。

 食事の時間が終わり、自由時間が訪れる。ひっそりと黙り込むラウラに対し、ソーニャはやはり割り切れない感情を覚えずにはいられなかった。そして彼女は思い切ってラウラに話し掛けた。妙な違和感が間違いであったと、ソーニャはラウラに否定してほしかったのだ。

「昨日はどうしてたの、ラウラ。姿を見せなかったから心配したんだよ、訓練のし過ぎでケガでもしたんじゃないかって」

「……ソーニャ、あなたにお願いがあるの。これを、これを受け取って」

 絞り出す様な声でラウラは告げる。その痛々しい声からして、彼女はどこか体を痛めているのではないか。ソーニャはそう思った。ただラウラは平然とした態度を保ち続けている。そして周囲に気付かれない様に、テーブルの陰に隠しながらソーニャに何かを手渡そうとしていた。その仕草からして、組織に秘密な行為なのは明らかだ。察したソーニャはそれとなくしながら、ラウラの差し出したそれを受け取った。

 それは小さく折り畳まれた一枚の【写真】だった。場所が場所だけに、詳細は確かめられない。でもそれがどこかの山に通る【坂道】を写した風景写真であるのは把握した。

「それをルーゼニア教の【ボイル総主教代行】に渡してほしい。お願い、あなたにしか頼めない」

「で、でも。ここから出られるわけないんだから、渡せるはずないじゃない。それに私、ルーゼニア教の信者じゃないし、そんな偉そうな人になんか会えないよ」

「大丈夫。あなたをここから出してあげる。だからお願い、その写真を渡して」

 悲痛な面持ちでラウラは告げる。しかしその瞳からは並々ならぬ強い決意が垣間見えた。初めてラウラと話した時、彼女は言っていた。ここから脱出できる方法が一つだけあると。そして彼女は今まさに、それを実行しようとしている。ソーニャは直感でそれを察した。

「あなたも、ラウラも一緒に来てくれるよね」

「――ごめん、それは無理なの。あなた一人しか助けられない」

「それじゃ」

「それ以上言わないで。お願いだから、私の指示に従って。お願い!」

 覚悟を決めたラウラの強い言葉にソーニャは押し黙るしかなかった。でもどうして彼女は私だけを助けようと尽くしてくれるのだろうか。ソーニャは戸惑いを露わにする。ただそんな彼女の目の前で、突然女性マラソン選手が立ち上がった。そしてその手には、先程の食事で使用していた一本のナイフが握りしめられていた。

 何が起きたっていうのとソーニャは目を丸くする。すると女性マラソン選手は、怯えるソーニャを温かく包み込むような笑顔を一瞬だけ浮かべた。

「えっ」

 ソーニャの顔面に鮮血が撒き散る。ナイフを手にした女性マラソン選手は、躊躇(ためら)う事なく自らの首を掻き切ったのだ。


 突然の出来事にソーニャは言葉を失う。目の前では喉元を切り裂いたマラソン選手が絶命した状態で立ち尽くしていた。彼女から流れ出る大量の血液が食堂の床を真っ赤に染め上げて行く。気が付けばソーニャの足元も彼女から流れ出た大量の血で覆われていた。

「なんて事したんだ! 早く医者を呼べ、早く!」

 食堂の隅に控えていた科学者数人が駆け寄って来る。あまりにも唐突な事態に彼らも混乱している様だ。あれほどまでに静まっていた食堂が、今は驚天動地の有様に変化している。叫び声の飛び交う中、事態を聞きつけた科学者達が次々と駆けつけて来る。また食堂の隅では、壁に設置されたディスプレイに怒鳴っている科学者の姿も見て取れた。医者を呼んでいるのかも知れない。そして更に状況は紛糾する。

「うわぁぁぁ!」

「ギィヤァァ!」

 今まで感情を露わにした事の無い他の男性アスリート達が悲鳴や奇声を上げはじめる。壮絶な死を遂げた女性マラソン選手の亡骸を目にしたからなのか。それとも混乱する状況に飲まれ、常軌を逸したのか。頭を抱え蹲る者もいれば、叫びながら食堂を駆け回る者もいる。力自慢の重量挙げ選手などは、テーブルを持ち上げ力任せに振り回していた。そんな彼らを白衣の巨漢男達が抑え込みに向かう。しかし尋常でないほど取り乱すアスリート達を制圧するのは困難だ。屈強な男達は、ほぼ総出で暴れるアスリート達を抑え込みにいく。そんな混乱極まる中で、ソーニャはラウラに抱きしめられ身を屈めていた。すると彼女達に一人の科学者が近づき声を掛ける。

「君達は大丈夫か? 落ち着いているのなら部屋に戻りなさい」

 ソーニャとラウラは言われるがままに食堂を後にする。白衣を着た巨漢男一人が彼女たちに同行するも、それ以外に人気(ひとけ)はない。

 相当なショックを受けたのだろうか。ソーニャは腰が抜けているらしく、思うように一人で歩けない状態だった。ただそんな彼女の肩を担ぎながら進むラウラは、小声でソーニャの耳元へ囁いた。

「しっかりしてソーニャ。これはあなたをここから脱出させるための作戦なの。だからお願い。しっかり歩いて」

 ラウラの言っている事が理解できないソーニャは、なにをバカな事を言っているの、こんな時に冗談はよしてよと、ラウラを睨み付ける。しかし彼女の見たラウラの瞳は正気の眼差しだった。

「信じられない気持ちは分かる。でも立ち止まる時間はないの。彼女の決意を無駄にしないで。彼女は、あのマラソン選手はあなたを逃がす為に自害したのよ」

「そ、そんなの信じられないよ。だって彼女はもう、自我を保っていなかったじゃない。それなのにどうして?」

「彼女は強い精神の持ち主だった。だから最後の一瞬だけは自我を取り戻したのよ、あなたを救う為にね。ううん、本当は私を助ける為だった。でももうそれは手遅れになってしまった。だからソーニャを助ける事にしたのよ」

「何を言ってるのラウラ。あなたの言ってる事の意味がさっぱり分からない」

「私がここに連れられた時、あの人は私に色々な事を教えてくれた。そう、今のあなたと私の様に。そしてあの人は私と同じで熱心なルーゼニア教の信者だった。お互い共通した部分が多かったから、打ち解けるのも早かったの。でもその時すでに彼女は自我を失い始めていたから。もう自分は助からない。彼女はそう理解していたのだと思う。そして彼女は私に提案したのよ。自分が犠牲になって騒ぎを起こすから、それに乗じてここから逃げてって」

 悔しさを滲ませながら話すラウラをソーニャは見つめる事しか出来ないでいる。

「彼女は自我が(むしば)まれていく中で、それでも一つ自分自身に強く暗示を掛けた。私の発する言葉『私の指示に従って』と、その言葉を聞いたら行動に移すようにと。そしてもう一つ。彼女は私に託したの。【誘道(いざなみ)】に通じる場所が写された写真を、ルーゼニア教の幹部に届けてほしいって」

 ソーニャはラウラから受け取った写真を仕舞うポケットに手を当てる。自分の知らないところで、これほどまでに人の命が懸けられていたなんて。そんな現実を知り胸が張り裂けそうになる。でも自ら命を絶った彼女の願いはラウラを救う事なんじゃないのか。彼女は私の事なんて、これっぽっちも知らないはずなのだから。そう思わずにはいられないソーニャは強く踏み止まろうとする。だが次の瞬間、彼女はラウラに突き飛ばされた。

「ズガン!」

 転倒するソーニャの後方から激しい衝撃音が発せられる。何が起きたのだと、ソーニャは即座に振り向く。そこで彼女が目にしたのは、壁に首をめり込ませた白衣の巨漢男の姿だった。そしてその横にラウラが佇んでいる。そんな彼女の勇ましい姿にソーニャの背中は激しく泡立った。

 ソーニャが目にしたラウラの太い腕。切り裂いた服より見えるそれは、とても人のものとは呼べない(おぞ)ましい姿をしていた。


 真っ黒い毛に覆われた野獣の様な腕。でもどうしてラウラの腕が急に。さっぱり状況が飲み込めないソーニャは尻餅を着いたまま動けないでいる。そんな彼女にラウラはそっと近寄りそうと、急ぎ口調で指示を出した。

「この廊下を行った先に【G11】って表示された部屋があるはず。急いでその部屋に行って。組織の人だけど、そこには【協力者】が待機していてくれる。だからお願い、急いで!」

 軽い力でラウラに肩を掴まれたソーニャは強引に立たされる。そして無理やり体を反転させると、ラウラはソーニャの背中を押した。

「ほら急いで!」

「どうして、どうしてラウラは命を懸けてまで私を助けようとするの。ねぇどうして!」

 強く詰め寄るソーニャにラウラは口ごもる。何か言いたそうな素振りを見せるも、ラウラは首を横に振った。

「ラウラ! どうして、なんで何も言ってくれないの。お願いだから何か言ってよ!」

「お取込み中済まないが、俺も話に混ぜてもらって良いかな? 理由次第じゃ、お嬢ちゃん達を見逃してもいいぜ」

 いつからいたのか。突然姿を現した男にソーニャとラウラは底知れぬ恐怖を感じ怖気(おじけ)づく。人としての本能が、彼女たちに告げているのだろう。この男は極めて危険な存在であると。現れた男は以前に食堂で一度だけ見かけた事のある、顔に深い傷の刻まれた男であった。そんな不気味に迫る男に対し、ラウラは気丈にも身構える。

 男を迎え撃とうとしているんだ。ラウラの大きな背中からソーニャを死守しようとする気迫が伝わって来る。ただそれでもソーニャは立ち尽くす事しか出来なかった。すると痺れを切らしたのか、ラウラが大声で叫んだ。

「早く走ってソーニャ! 早く!」

 大声を発したと同時にラウラの体が大きく肥大する。身に付けた服を一気に張り裂いて、その体は狭い通路を覆うほどの大きさになった。そしてその姿はもう、ソーニャの知る人間(ラウラ)の姿ではなくなっていた。

 巨大な体全てを黒い毛で覆い、そしてその顔は【腐った猪】そのものだった。ソーニャは化け物に変化したラウラの姿に茫然とする。ただそれでも彼女の耳にはラウラの告げた最後の言葉が鮮明に残っていた。決死の想いで彼女は私をここから脱出させようとしている。その想いに応えなければ、彼女や自害したマラソン選手の行為全てが無駄になってしまう。ソーニャはグッと唇を噛みしめると、全速力で駆け出した。


 背後から激しい衝撃音が響いてくる。施設はおろか、大気すら振動させる衝撃だ。その凄まじさにソーニャは身を強張らせる。それでも彼女は振り返らずに懸命に走った。

 どうしてラウラはあんな姿に――。でもそうしなければ、誰かが犠牲にならなければ脱出は不可能なんだ。受け入れ難いが、それでも現実は残酷にソーニャを覆い尽くす。ラウラとあの気味悪い男が戦い始めたのは確実だ。それも背中越しに感じる激しい振動からして、その戦闘は想像を絶するほど凄まじいはず。ソーニャは衝撃を感じる度に、思わず止まりそうになる足を必死に前へと進める。ただほどなくすると、彼女はラウラが告げた【G11】と表された部屋を見つけた。

 騒ぎの影響なのか、ほとんど周囲に人の気配を感じない。それでも誰かに見つかるのを恐れたソーニャは、急いでその部屋に駆け込んだ。素早く扉を閉めた彼女は、その扉にもたれかかりながら乱れた呼吸を整える。そして進入した室内を改めて良く観察した。

 そこは書斎のような少し狭い部屋だった。壁の両脇には、床から天井までつながった本棚にびっしりと本が並んでいる。おそらくラウラの告げた【協力者】である組織の者の私室なのだろう。すると書斎の奥より、彼女は良く知る男性の声で呼びかけられた。

「なんとか無事にたどり着けたね、ソーニャ。急ごう、ここから脱出するよ」

 彼女の前に姿を現したのは、青い瞳の青年だった。協力者とは彼だったのか。まだ落ち着くには程遠いほど鼓動は早まっていたが、それでもソーニャは暗闇の中に光を見つけたかの様にホッと安堵した。

「ここ数日間、君を見ていて僕は死ぬほど辛かった。どうして君の様ないたいけな少女が、こんな酷い目に遭わなければいけないのかって。でも僕は組織の人間だ。あいつらには逆らえない。それなのに、昨日君と話した事で僕は自分の過ちが許せなくなった。僕は最低な人間だ。もう何をしてもそれは取り返しがつかない。でもだからこそ君だけは、ソーニャだけは助けたい。そう思ったんだ」

 青年はソーニャに語りながらも、部屋の備品である小さな机の上に登り、その上部に設置されている細長いガラス窓に手を掛けた。

 そこからこの施設を抜け出そうというのか。かなり細長い窓だが、でも確かに小柄なソーニャと細身の青年なら抜け出せるだろう。青年は開いた窓から首を覗かせ外の状況を確認している。どうやら外にも誰かのいる気配は無いらしい。そして青年は軽く微笑みながらソーニャにこっちに来るよう手を伸ばした。

「さぁ、行こう。例えここを無事に抜け出せたとしても、それで安心とは言えない。でも僕が君を守ってあげる。何があっても絶対にね」

 そう言って微笑んではいるものの、良く見れば青年の表情はどこか強張っている。やはり青年とて、決死の覚悟で脱出に挑んでいるのだ。ソーニャは青年の決意を理解し、そしてその青い瞳を見つめて強く頷いた。

「ありがとう、僕を信じてくれて。さぁ、行こう」

「あの、その前に一つだけ。あなたの名前、教えて下さい」

「あぁ、そう言えば、まだ僕の名前は教えていなかったね。僕の名は【ノーベル】。職業は君の知っている通り、秘密結社でキナ臭い仕事をしている科学者さ。でもそれは今をもって依願退職するよ」

 ノーベルの差し出した手は小刻みに震えていたが、それでもソーニャにとってその手は心強いものに感じられた。彼の言う通り、ここを抜け出せたとしてもそれで終わりじゃない。いや、このまま無事に脱出できる保証すらどこにもないのだ。でも彼が一緒にいれば、乗り越えられる気がする。ううん、違う。彼と一緒じゃなければ、ここを抜け出すなんて出来っこない。そう確信するソーニャは、差し出された手を握ろうと足を前に踏み出した。――しかしその時、突然部屋の扉をノックする音が聞こえた。


 ソーニャの顔色は一瞬にして青冷める。そんな彼女をノーベルは部屋の隅に隠すよう移動させた。そして彼女の耳元で小さく囁く。

「大丈夫。僕に任せて君はじっとしてて」

 目だけで頷いたソーニャを確認すると、ノーベルは扉へと向かった。そして彼はゆっくりと扉を開く。するとそこには目の下に黒々とした(くま)を浮き上がらせる、姿勢の悪い男が一人立っていた。

「よう、先生。緊急事態が起きたんで、直ぐにこちらに来てくだせぇ」

 見た目と同様に気持ちの悪い声で、男はノーベルに同行を促す。

「な、何かあったんですか? 先程から施設内が騒がしい様ですが」

「アスリートの一人が突然自殺を図りましてね。そんでそれに釣られる様にして、他のアスリートどもまで暴れ出したんですよ。まぁ、そちらの騒ぎは直ぐに収まると思うんですが、実はその隙に一人のアスリートの姿が見えなくなっちまってね。先生が監督していた、あの水泳娘ですよ」

 隈の男はそう言いながらノーベルの私室の中を軽く覗き込む。ノーベルを疑っているのだろうか。ソーニャは息を殺して体を縮込ませるしかない。しかし今にも心臓が飛び出てしまいそうだ。激しい動悸(どうき)に苛まれながらも、それでも彼女は必死に成り行きを見守った。

「分かりました、直ぐに行きます。でも少し準備の時間を下さい。支度が整ったら行きますので、どこに向かえばいいか教えてもらえますか?」

「いえ、ご案内しますので、準備が出来るまでここで待ちますよ。ですので早くお願いしますね」

 喰えない男の態度にノーベルは肝を冷やす。それでも彼は動揺(どうよう)を表に出さず、平素を装いながら扉を閉めた。そして身を潜めるソーニャのもとに向かい、彼女に小声で囁いた。

「ごめん。こうなってしまったら一緒には行けない。でも今を逃したら脱出できるチャンスはもう二度と訪れない。君一人で行ってくれ」

 そう告げたノーベルは懐から何かを取出し、ソーニャへとそれを渡そうとする。しかし彼女は大きく首を横に振りながらそれを拒んだ。

「無理よ、私一人でなんかとても逃げられない。お願いノーベル。あなたも一緒に来て」

「堪えてくれ、ソーニャ。今の状況を乗り切るにはこうするしかないんだ」

 なかば強引にノーベルはソーニャへ手渡す。それは小さな懐中電灯と、一つのメモリーカードだった。

「その窓から外に出て壁伝いに少し進むとマンホールがある。その直ぐ近くにタッチパネルがあるから、そこにパスワードを入力するんだ。そうすればマンホールは自動で開く。そしたらその中に入ってくれ。地下に行くと広い下水道が流れているから、それを下流に進むんだ。そうすればここを抜けられる。お願いだ行ってくれ!」

「でも私一人なんかじゃとても」

「それでも行くんだよ。大丈夫、君は強い女の子だ。こんなわけの分からない場所に拉致されても、君は始めから泣き言一つ言わなかった。君以外の人達は誰一人としてそんな事できなかったよ。だから進んでくれ、お願いだ」

「でも……」

 ソーニャは唇をグッと噛みしめている。そしてその口先からは血が(にじ)んでいた。これが悪夢でなくて何なのだ。私が一体どんな罪を犯したというのか。彼女はぶつけどころのない感情を心の中で嘆く。そんな彼女に対してノーベルは優しく諭すように語り掛けた。

「僕を信じてほしい。そして君自身も信じるんだ。君ならきっと出来る。いや、君でなければ出来ない。さっき言ったマンホールのパスワードは【0634】だ。これは僕が設定したパスワードだから、他は誰も知らない。だから地下道に入れれば、あとは君の体力次第なんだよ。でもそれは問題ないはず。だってそうだろ、君の体力は常人を遥かに超えたものなんだからね」

 確かに彼の言う通りである。ここに拉致されてからの過酷なトレーニングは、結果的に彼女の脱走に一役買っているのだ。涙を浮かべたソーニャがノーベルを見つめる。その表情は頼りなくも決意した顔つきだった。それを確認したノーベルは少し胸を撫で下ろす。これで大丈夫だろうと。

「もう僕は行かなくちゃ。これ以上遅くなれば怪しまれる。ただこれだけは約束するよ。僕は君を絶対に守るって。だから君はここを脱出したら、2日後の夕暮れ時に天体観測所に来てほしいんだ。僕はそこで待ってるから」

「天体観測所?」

「そうか、君はここが何処だか知らなかったね。この施設はアダムズの首都ルヴェリエにあるんだよ。試合で来た事あるだろうから、少しは首都の地理知ってるよね。奴らの追手がはびこってるかも知れないけど、そこはどうにか(しの)いでほしい。無責任な言い方だけど、今の僕にはそれしか言えない。それと――」

 ノーベルはソーニャの手にするメモリーカードを指さし、最後に一つだけ依頼した。

「そのメモリーカードには、僕が知り得る限りのアカデメイアの情報が保存されている。それをアダムズ軍のアイザック総司令に届けてくれないか。国の有力者で信頼できそうなのは、その人だけなんだ」

「そ、そんな。軍の総司令に渡すなんて無理だよ」

「それでも君にしか頼めないんだ。お願いだ、引き受けてくれ。それには多くの人の命が関わっている。だから――」

「ドンドン! まだですか先生。そろそろお願いしますよ!」

 扉の向こうより男の急かす催促が聞こえて来る。もう時間はない。ノーベルはソーニャの手をグッと握りしめると、無言で立ち上がった。ソーニャはそんな彼に(すが)り付こうと手を伸ばす。しかし彼女はそれを途中で止めた。もう、成すべき事は一つしかない。彼女は歯がゆくもそう判断したのだ。

 ノーベルが男と共に部屋を後にしてから少しだけ時間を置くと、ソーニャは細長い窓からその部屋を抜け出す。そして彼の告げた通りに施設の壁伝いに足を進めた。


 冷たいコンクリートが彼女の心を更に凍えさせる。だがそれでもソーニャは必死に足を前へと進めた。すると目の前にマンホールが姿を現す。そしてその直ぐ脇の壁には、小さなディスプレイが顔を覗かせていた。

 ソーニャはそのディスプレイにノーベルから聞かされたパスワードを入力する。彼の言った通り、マンホールの(ふた)は自動で起き上がった。

 口を開けたマンホールの中は底なしの闇に包まれている。まるで黄泉の国へでも繋がっているかの様だ。それでも行くしかない。生唾を飲み込みながらもソーニャはマンホールに備えられた梯子を降りて行く。そして彼女はゆっくりとした下水の流れる地下道へと降り立った。

 ソーニャは下流へと懐中電灯を向ける。この道を進めば、本当にここを抜け出せるのか。耐え難い不安と恐怖に苛まれながらも、ソーニャは弱々しい明りの灯した懐中電灯を震える手で(たずさ)えながら、暗闇の地下道を少しずつ進み始めた。

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