#43 木の芽時の出立(誘い水の記憶)
少女の意識が回復した事を告げられたジュールは、手にする端末を強く握りしめながら思う。あの娘は世間を賑わす事件の当事者だ。それもただの事件じゃない。秘密結社が闇の中で企てている正体不明の変事。しかもヤツが出現するほどの大凶変だ。その直接的な関係者である少女が目を覚ました。
ジュールは思わず身震いする。アメリアとアニェージが自分を見ていると分かってはいても、彼は胸の奥から湧き出す震えを隠せなかった。
不安感なのか、それとも恐怖心なのか。いや違う。これは先の道が開ける事を期待する胸の高鳴りなんだ――。理由などは何の意味も無いはずなのに、なぜか震えの主因を確定しようとするジュール。彼はただ、滾る自分自身の心と正面から向き合うために、都合の良い理由が欲しかっただけなのだろう。例えそれが他人から見れば、強がりにしか見えなかったとしても。
端末を強く握ったままのジュールは、少し強張った肩を和らげる様に一回転させる。そして端末越しにいるヘルムホルツに向かい問い掛けた。
「それで、少女は今どうしてる?」
「あぁ。とりあえずは問題なさそうだ。昨夜は取り乱してたらしいけど、今は落ち着いてるよ。見た目にも特に無理してる様には感じられない。ただ腹が減ってそうだったんでな。リュザックさんと一緒に朝飯食べさせてるよ」
「そうか、それなら良かった。なるべく早く俺もそっちに戻るつもりだけど、何か変化があったら知らせてくれ」
ジュールはホッと胸を撫で下ろしながら通話を切る。食欲があるくらいなら一先ず心配ないだろう。彼は軽く笑みを浮かべながら少女の意識が無事に回復した事をアメリアとアニェージに告げる。そしてその報告を聞いた二人も安堵の表情を浮かべた。ただアニェージは微笑みながらも少女の行動を少し皮肉った。
「昨日あれだけ酷い状況に身を投じたというのに、起きた早々メシを食べるとは恐れ入るね。私なら絶対に無理だけど、最近の若い子っていうのはそんなものなのか」
「まぁ、見た目はただの女の子だけどさ、あれでもトップクラスの水泳の選手なんだろ。体育会系なんだし、食欲があるくらい可愛いもんだよ」
苦言を呈するアニェージに対してジュールは少女の行為を擁護する。まだ若く伸び盛りなアスリートなのだ。何もしなくても腹は減るだろう。ジュールは少女と同じ十代の頃の自分を思い出しながら含み笑った。そして彼は靴を脱ぎ、部屋の奥へと進み出した。
「お、おい。どこ行くんだジュール!」
アメリアと二人きりになるのに気が引けたアニェージがジュールを呼び止める。しかし彼は振り向きもせずに奥の部屋へと姿を消してしまった。
何なんだ、あいつは。まだアメリアの疑いは完全に払拭出来たわけじゃないのに、私一人を残してどうしろって言うんだ。アニェージは気まずい状況にどうしたら良いか分からず弱り果てる。ただ彼女を前にするアメリアも心境は同じはずだ。ボルタの話をした事やソーニャの無事を知った事で多少気が紛れはしたが、依然として割り切れない複雑な心境であるのには変わりないはず。それでもアメリアはアニェージに対し、正直な思いを述べた。
「アニェージさん。あなたとジュールの間に何も無かったということは信じようと思います。ただ、私はあなたの事を何も知らないので。アニェージさんがどういった方なのか知れれば、きっと誤解もすんなり解けるんじゃないかと思うんです。だがら――」
「だから?」
少し躊躇う素振りのアメリアにアニェージは物腰を弱く聞き返す。するとアメリアは思いを定めて彼女に告げた。
「今度、時間のあるときに食事でも如何ですか? 軽くお酒でも飲みながら話せば、お互い本音も話せるでしょうし。無理ですか?」
思いもよらぬアメリアの提案にアニェージは息を飲む。だが彼女は次の瞬間堪えきれずに噴き出してしまった。
「プッハハハッ! アメリアさん、あなた大した女性ですね。彼氏の浮気を疑う相手に、自分から食事に誘うなんて驚きました。まったく、肝の据わったお方だ」
突然笑い出したアニェージ対してアメリアは少し表情を曇らせる。しかしアニェージにしてみれば、そんな彼女の表情すら敬意の対象として思えていた。
アニェージは健気なほどジュールを想うアメリアの態度に胸が熱くなる。人を心から好きになると、これ程までに毅然とした対応が出来るものなのだろうかと。恥ずかしい事だが自分は彼女ほど誰かを愛した経験がない。いや、恐らくは一生そういった恋い焦がれる情事に身を投じる事はないだろう。それは自分自身が決意した強い信念であり、それを今更悔やんだり負い目に感じる事もないはず。それでも目の前にいるアメリアの姿は目に眩しく、そして羨ましく思えた。だからアニェージは優しく微笑みながらアメリアに言う。少し強がりにも聞こえるが、その言葉には彼女なりの誠意と敬意が表れていた。
「食事なら、もちろん喜んでご一緒しますよ。私もあなたと一度ゆっくりと話したいですからね。それに恥ずかしい事なのですが、私は性格的に男っぽくてあまり女性の友人がいません。これを機にアメリアさんと親しくなれれば、それはとても嬉しいことです」
「そ、そんな。私の方こそ、よろしくお願いします。それに私だって職場の人以外、同性の友人なんていませんよ。もしかしたら私達って、どこか似てるのかも知れませんね。あ、でもアニェージさんはとても綺麗だから、私と似てるなんて言ったら失礼ですよね、ごめんなさい」
「なに言ってるんですか。アメリアさんも十分可愛らしいですよ。ただ一点だけ似ていない所があるとすれば、それは男の趣味でしょう。申し訳ないですけど、ジュールは私のタイプじゃないし、そもそも年下は対象外ですから。私はもっと包容力のある年上の男性が好みなんですよ」
「なんだよ、アニェージ。あんた俺達と同じ歳じゃなかったのか? ヘルムホルツが呼び捨てにしてたから、俺はてっきりタメかと思ってたよ」
女性二人の会話に奥の部屋から戻ったジュールが割り込んでくる。大きなリュックを背負った彼は、その右手に頑丈そうなステンレス製のブリーフケースを握り、そして左手には布で出来た小さなポーチを持っていた。旅立つ準備を整えて来たのだろう。しかしそんな彼の姿にアニェージは腹が立った。確かに時間を惜しむ気も分からんではないが、いきなりアメリアと二人きりにさせた挙句、何食わぬ顔で戻って来る。こいつの性格なのか、はたまた男性特有の鈍感さなのだろうか。アニェージは憤りを感じながら、無頓着なジュールに目の角を立てて言った。
「ヘルムホルツは私より一つ年下だ。あいつは一歳の違いなんて大した意味ないとか言って、タメ口利いてたんだよ。まぁ、育ちが悪いとそんなモンなのかな。お前もあいつと同じでスラムの出身だと聞いていたからさ。あえて是正は求めなかったけど、今後は『さん』付けで呼んでもらって構わないよ」
「チェ、今更そんな風に呼べるかよ」
「フン、まぁ呼び方については私も今更どうでも良いと思ってるよ。でもお前、アメリアさんの気遣いについてはもっと計らえよ! お前の不甲斐ない態度に彼女は業を煮やしていたんだぞ。もっとアメリアさんの事を大切にしないと、いつかお前の方が彼女に愛想を尽かされるからな!」
アニェージの捲し立てる様な説教にジュールは反論できずにいる。彼も内心は分かっているのだろう。アメリアが誰よりも自分を大切に想い、そして自分はその気遣いに甘えているのだと。ただ男というものは大事な時に臆病になるものだ。特に情事において都合が悪くなれば、黙るか逃げるかのどちらしかない。意図してやっているわけではないのだが、結果的に見ればズルく嫌らしいだけなのだ。ジュールはバツが悪そうに表情をしかめる。ただ彼は少し恥ずかしそうにしながらも、手にしていた小さなポーチをアメリアに差し出した。
不思議そうにしながらアメリアはポーチを受け取る。そして彼の見守る前で、そのポーチに仕舞われていた物を取り出した。
「わぁ、綺麗――」
ポーチの中に折りたたまれて納められていたのは、三角形の形をした毛織物だった。赤茶色を基調としながらも、その他いくつかの淡い色がシックなチェック模様を彩っている。肌触りが良く、見た目よりも遥かに軽い。また派手さはないものの、上品な光沢が奥ゆかしさと気品を感じさせる。そんな毛織物を手にしながら、アメリアは少し顔を赤らめてジュールに尋ねた。
「これってショールでしょ。ちょっと古い物みたいだけど、すごく素敵ね。これを私にくれるの?」
嬉しい反面、少し複雑な面持ちでアメリアはジュールを見つめる。御洒落になどまったく関心の無い彼がどうしてこんな物を持っているのだろうか。もしかして私じゃない別の女性に用意した物を、都合よくプレゼントして機嫌を窺っているんじゃないのか――。アメリアは過剰に疑い深くなっていた。勇気を振り絞ってアニェージとのわだかまりを晴らそうと努力したにも関わらず、彼女はまだどこか心にしこりを感じていたのだ。ただアメリアのそんなすっきりしない感情は、ただの取越し苦労で終わる事となる。手にしたショールを不安げに見つめるアメリアに対し、ジュールは少し照れながら告げたのだった。
「もっと早くアメリアに渡そうと思ってたんだけど、随分と遅くなっちまった。実はそのショール、お前のお母さんから預かってた物なんだよ」
「え、お母さんから?」
意図せぬ存在が告げられた事にアメリアは驚く。
「あぁ。軍に入隊する為に北の町を出立したあの日、おばさんから渡されたんだよ。なんでもそのショールは随分と昔に亡くなった、おばさんの友達が身に付けてた物らしいんだ。ただどういう訳か、おばさんはそれを俺に持って行けって強く勧めてさ。あんま縁起の良い物でもなさそうだし、初めは捨てちまおうかとも思ったんだけどよ。でも不思議なんだよな。こいつに触れると気持ちが和むっていうか、妙に懐かしい感じがするんだよ」
ジュールはアメリアの持つショールに優しい視線を向けながら続ける。
「それでさ、おばさんが最後に一言だけ付け加えたんだ。俺が生涯で一番大切にしたいと心に決めた女性に、それを渡せって」
「一番……大切な人」
「本当はもっと早くに渡せれば良かったんだけど、クローゼットに仕舞ってから完全に存在を忘れちゃっててさ。グラム博士から託されたこいつを仕舞った時に見つけて思い出したんだよ」
ジュールは右手に持つステンレス製のブリーフケースを掲げながら申し訳なさそうに言った。それでも彼からはアメリアに対する真摯過ぎるほどの誠意が伝わって来る。ジュールは心から彼女の事を大切に想い、そして誰よりも愛おしく感じているのだ。そんな彼の気持ちを十分に理解したアメリアは、少しでもジュールの事を疑っていた自分に恥ずかしさを覚えた。
落ち着いて考えれば簡単な事なのだ。ジュールはアメリア以外の女性と情事を重ねられるほど器用ではないのだし、そもそも彼が女性にプレゼントを用意するなんて有り得ない事なのだから。なにせ将来を誓い合ったアメリアとて、今までジュールからそれらしいプレゼントを貰った事がないのだ。そんな不器用で無頓着な彼が、たとえ無理やり渡された物だとしても、一番大切な人にと託されたショールを自分に授けてくれた。他人から見れば些細な事かもしれないが、アメリアはそれを心から嬉しく思ったのだ。
「ありがとう、ジュール。嬉しいよ、私」
感謝の気持ちを伝えるアメリアの目には、感極まった涙が溢れている。するとジュールは気恥ずかしさを覚えたのか、強がりながら虚勢を張った。
「そんな大した物じゃないだろ。それにおばさんは言ってたよ。アメリアに渡してくれるのが一番嬉しいけど、別の人でも構わないってね」
「何よそれ、どういう意味よ」
「べ、別に意味は無いよ。ただ何だ、あれだよ。なかなか恥ずかしくて面と向かって言えないけど、これからもずっと一緒によろしくなって事さ。もし嫌だってんなら返せよ、そのショール」
恥ずかしさのあまり今にも爆発するんじゃないかというほど、ジュールは顔を真っ赤に染め上げている。不器用な彼が精一杯気持ちを振り絞って想いを伝えたのがよく分かる。要領が悪く融通が利かない。それゆえの愚直さが、彼の誠意をより本物に思わせた。
「バカね。こんな綺麗なショール、せっかく貰ったのに返すわけないじゃない」
「アハハハ!」
アメリアの言い返しにアニェージは思わず噴き出した。赤い顔をしながら体を硬くするジュールの滑稽さと、この上なく嬉しくもつい強情に言い返してしまうアメリアの姿勢にアニェージは堪えられなかった。
「アハハハ。あんた達、ホントにお似合いだよ。あんたらみたいなのが似た者夫婦になるんだろうね。ハァ、それにしても見ているだけなのに、疲れるほど面白いな、ハハッ」
大爆笑するアニェージにジュールはムッとする。それでも彼はこれ程までに声を上げて笑うアニェージの姿にどこか安心する気持ちになった。
今まで彼女からは憎しみや哀しみの感情ばかり受け取っていた。恐らくアニェージの心の大半は深い闇に覆われているのだろう。でもまだ彼女は笑う事が出来ている。それは人としてとても大切な事であり、また決して失ってはいけないもののはずだ。そんなアニェージの笑顔を見たジュールは、まるで自分までもが救われた気分になった。
「そこまで笑うほど面白いか? でもこれであんたは立会人だからな。恥ずかしい所をタダで見せたんだからさ。あんた、死ぬまで今日の事を覚えておけよ!」
「あぁ、分かった分かった。約束するよ。あんた達の不格好な愛の誓いは決して忘れない。ハハッ。それにしても、こんなに笑ったのは久しぶりだね」
腹を抱えたアニェージが溢れ出た涙を拭う。本心で腹の底から笑えたのは【あの日】以来初めての事だ。人としての感情を押し殺すことで強くあらんと決意していた彼女が、もっとも人らしく声を上げて笑った。本人ですら驚くほど自然に笑い、そしてどこかすっきりとした感覚に浸る。出来れば自分もこんな幸せを味わいたかった。でも決してそれは叶わない。でもだからこそ、アニェージはジュールとアメリアの細やかな愛情の育みを嬉しく感じた。
普段なら嫉妬に駆られ嫌味の一つも吐き捨てるはずだ。それなのに目の前の二人に対しては不思議と幸せを願わずにはいられない。きっと二人の無垢な愛情がアニェージの胸の内に伝わったのだろう。彼らには自分の分まで幸せになってほしい。彼女は穏やかに微笑みながらジュールとアメリアを見つめて言った。
「大丈夫! ジュールとアメリアさんなら喧嘩する事はあっても、仲睦まじく暮らせて行けるさ」
恥ずかしそうにジュールとアメリアは顔を見合わせる。二人は他人に対して素の部分を見せ過ぎてしまったと、少し後悔しているのかも知れない。ジュールなどはバツが悪そうに頭を掻いている。するとアニェージは気持ちを切り替えて、ジュールに対しホテルに戻ろうと促した。
「そろそろ行こうか、ジュール。ヘルムホルツの奴も私達の帰りを待っているだろうからね」
「あぁ、そうだな。じゃぁな、アメリア。なんかバタバタしちまって悪かったな。王子に同行する件は、はっきりしたら連絡するから」
「うん、気を付けて行って来てね。アニェージさんも無理しないで下さい。あとジュールが無茶しないようお願いします」
「任せて。ついでにこいつがアメリアさん以外の女性に手を出す事がないよう見張っておきますよ。万が一にも誰かに手を出すような事が有ったら、その時はあなたに代わって容赦なく蹴り飛ばしますから」
「そいつは勘弁だな。あんたの蹴りなんか真面に喰らったら死んじまうぜ」
ジュールは口を尖らせながらアニェージの約束を嘆く。彼女ならば冗談抜きで本当に蹴りそうだと。ただそんな彼の姿にアメリアとアニェージは申し合わせたかのように噴き出した。やはりこの二人もまた、同じ感覚を備えた者同士なのだろう。
「いつまで笑ってんだよ。もう行くぞ」
少し気分を害したジュールが先に進み出す。
「悪い悪い。それじゃアメリアさん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
微笑むアメリアに見送られながら、ジュールとアニェージは目を覚ました少女の待つホテルへと向かい始める。まるで急き立てられるかの様に、ジュールなどは振り返りもしない。そんな二人の背中を見送るアメリアは、どこか不安感の募る胸騒ぎを感じた。それはジュールの浮気心を心配する気持ちとは明らかに異なり、戦場へ向かう事を危惧するそれに近かった。
どうして彼女がそう感じたのかは分からない。そしてそれが出立する二人に向けられたものなのか、またはジュールかアニェージのどちらかに対して向けられたものなのかも分からない。でも彼女はただ、去り行く二人の無事を願わずにはいられなかった。
少女が事件に巻き込まれた被害者であるのは間違いないはず。誰も口には出さないが、状況から見ればそれが事実なのであろう。でもだからこそ、ホテルに戻ったジュールは少女に対して何から聞けば良いのか分からず困惑していた。
ジュールとアニェージがホテルに戻った時、すでに少女は食事を取り終えて一息していた。何をするでもなく、少女は映し出されたテレビの映像を、ただぼんやりと眺めている。恐らくテレビの内容は把握していない。そしてそんな少女をヘルムホルツとリュザックは、少し距離を置いた所から見守っていた。
いきなり事件の真相を聞くのはさすがに酷だろうと、二人はとりあえずジュール達が帰るまで黙って様子を見ていたのだ。ただそこに駆け付けたジュールとて、少女に対してどう接すれば良いのか分からず、彼ら同様に傍観するしかなかった。ジュールは縋る様にアニェージを見つめる。しかし彼女もまた、苦慮していることに変わりはない様子だった。
こんな時、アメリアなら少女をうまく気遣いながら話掛けられるはず――。そんな意味のない妄想に、ジュールは暗然とやり場のない感情を嘆いた。
「けっこうガツガツとメシ食ってたでな。思いのほか元気だと思ったけんど、その後はあの調子でテレビと睨めっこしとるきね」
冷め切ったコーヒーをすすりながらリュザックが苦言を溢す。その横でヘルムホルツも黙って少女を見つめていた。確かに少女の精神的な負担は心配である。しかしいくら少女を気遣ったとしても、何もしなければ先に進めはしない。意を決したジュールはゆっくりと少女に近づく。そして彼は少女が腰掛けるソファの横に、胡坐をかいて座った。
少し見上げる様にしてジュールは少女の表情を覗き込む。すると彼はその表情に息を飲んだ。まだあどけない部分を残してはいるものの、その顔立ちはアスリートにしてはもったいないほど整った顔をしている。昨夜は混乱した状況だった事もあり、少女の表情をそれほど気には留めてはいなかった。しかし改めて間近で確認してみると、驚くほどに可愛らしい。たまたまテレビには最近流行のアイドル歌手が映っていたが、ルックス的には完全にこの少女の方が上をいっているだろう。失踪事件が頻繁にニュースで取り上げられている理由は、そんなところにもあるのかも知れない。ジュールは少女を見つめながら、そんな事を胸の内で思った。
少女は変わらず上の空といった感じにテレビを眺め続けている。さて、どうやって話を切り出そうか。改めてジュールはそう悩む。すると意外にも少女が小さく口を開き、微かな声で囁いた。
「……ラウラは、死んじゃったかな」
意図せず発せられた少女の言葉にジュールは戸惑いを見せる。それでも彼は少女が口にした名前に胸を突かれ、思わず問い掛けた。
「ラウラって、あの猪の顔したヤツの事?」
少女は黙ったまま小さく頷く。気が付けばその目は薄らと赤く色付き、涙が溢れていた。それでも少女はジュールの質問に答え始める。ただ込み上げてくる涙とは対照的に、少女の表情は不自然なほどに平然としていた。
「彼女自身も拉致されて心細いはずなのに、それでもラウラは私を励ましてくれた。あの薄暗い実験室で、意味の分からないトレーニングと検査が毎日続いて――。逃げ出したくても、どうにも出来ない絶望の日々。それでもラウラがいたから、私は今も自分自身を保っていられる……」
少女のか細い声が広いリビングに伝わった。弱々しい彼女の声が辛く過酷な体験を想像させる。彼女は裏組織に拉致されて、何をされていたのというのか。ジュール達は涙を流しながらも表情を変えずに話す少女の話に、ただ耳を傾け続けた。
少女は自分の名を【ソーニャ】と名乗った。そしてニュースで連日取り上げられている様に、突如失踪したアスリート本人であるのだと告げた。さらに彼女は簡単ながらも自分自身の経歴をジュール達に告げる。どうして自分が組織に拉致されたのか。その理由を説明するのに、自身のこれまでの経緯を話した方が、彼らにとって理解し易いだろうと少女は考えたのだ。そう言った意味で、ソーニャはとても頭の良い少女だと言える。そしてその頭の良さが、一流の水泳選手として活躍できる要因の一つであるのだろうと、話を聞く誰しもが共通に認識した。
グリーヴス出身の彼女はまだ18歳の学生である。にも関わらず、彼女は水泳選手として輝かしい記録と結果を築き上げていた。人一倍の努力を重ねた結果なのだろう。しかしそれ以上にソーニャはスイマーとしてのセンスが著しく飛び抜けていた。
水泳選手としては比較的遅咲きであり、本格的に水泳を始めたのは14歳を過ぎた頃からだった。幼少の頃から泳ぐのが好きだったソーニャ。ただ当時は学校の体育の時間にプールで泳ぐ程度の趣味的な範囲での活動でしかなく、彼女自身無我夢中になって泳ぐといったところまで水泳に熱中していたわけではなかった。だが学校内のイベントで実施されたクラス対抗の水泳大会で彼女は転機を迎える。
素人ながらもクラスの中で水泳が達者だったソーニャは、水泳大会のメインイベントであるリレーの選手に選ばれた。それも彼女はくじ引きの結果とはいえ、大会のトリを飾るリレーのアンカーという役回りになったのだ。リレーのアンカーと言えば、指導を受けた水泳経験者が担うのが普通である。もちろん彼女以外のクラスのアンカー達は、みな本格的に水泳の練習に励む者達ばかりだった。ただ不運な事にソーニャのクラスにいた水泳経験者達は、ケガによって戦線を離脱しなければならない状況だったのである。その為に仕方なくソーニャはアンカーを引き受けたのだった。
だが実際にレースが終わった時、それを観戦していた学校中の生徒や教師達は目を丸くした。なんとダントツの最下位でリレーを受けたソーニャだったが、彼女は圧倒的なスピードで他の選手たちを瞬く間に抜き去り一番になったのだ。そしてその桁外れな泳ぎのスピードを披露したソーニャを、水泳のコーチが黙って見逃すはずはなかった。
本格的な指導を受け始めたソーニャはみるみると成長していく。またその成長スピードも驚異的であり、一年後には全国の同世代に敵はいなくなっていた。そしてその一年後には全国の学生チャンピオンになり、その一年後にはアダムズ王国にて大人も含めた全ての中で一番になっていた。もはや国内にソーニャの敵は無く、その戦いの場は世界へと向けられていた。
若くしてアダムズを代表する存在となったソーニャ。さらに彼女のアイドル顔負けの容姿が人気に拍車を掛けていた。そんなソーニャが忽然と姿を消したのだ。騒ぎにならないはずがない。時同じくして彼女以外にも数人の名立たるアスリートが全国から姿を消していたが、もっとも報道に時間を割かれたのはソーニャであり、視聴者もその動向に注視していた。
ソーニャは春から始まる大会に向けて調整を進めていた。練習は厳しさを増し、疲労もピークに達していた時期だ。そんな中、いつもと変わらず練習後に彼女がシャワーを浴びていると、突如として猛烈な睡魔に襲われる。激しい練習のし過ぎで疲れが溜まっていたのか。しかしソーニャが目を覚ました時、そこは彼女の全く知り得ない場所だった。
まるで刑務所の中の様に、ベッドとトイレの併設された狭い空間。か弱い光を灯す蛍光灯が一本設置さている天井は、小柄なソーニャの手が届くほど低かった。
部屋に出入りする為の扉こそあるが、それ以外に窓はない。厚い鉄板で作られた扉はもちろん固く閉ざされており、部屋を抜け出す事はおろか、外の状況を知ることさえ不可能だった。ただ室内の清掃は行き届いているらしく、清潔な印象だけは受け取れた。
自分の身に何が起きたのかさっぱり飲み込めない。ソーニャはただ身震いする恐怖に怯えるしかなかったが、それでも彼女は状況を理解する。自分は何者かによって拉致されたのだと。
何が起きるか分からない恐怖感に身を竦ませながらも、頭の良い彼女は叫びたい気持ちを必死に堪えながら自重する。下手に騒ぎ立てるより、その方が自分の置かれた状況を正確に把握できると考えたからだ。ソーニャは白く冷たいシーツの敷かれたベットに仰向けになる。ふと天井を見ると、そこにはか細い光を放つ蛍光灯と共に、奇妙な物体が設置されていた。真っ黒い球体が半身を天井に埋め込んでいる様に見える。それが監視カメラだということに彼女が気付くのは、そう遅くはなかった。
少しすると、固く閉ざされていた扉が開かれ彼女は外に連れ出される。白衣を身に付けた数人の男に連れられ、ソーニャは長い廊下を歩いた。恐怖で鼓動が高まる。心臓が口から飛び出そうになるほどに気持ちが悪い。それでも彼女は素直に従う素振りを見せながら、付き添う男達を観察した。
白衣を身に付けた男達。だがどう見ても医者には見えない。胸板が厚く、腕が丸太みたいに太い。まるでヘビー級のボクサーみたいだ。体力に自信のあるソーニャとはいえ、これではとても逃げられそうにない。そんな男達に連れられ向かった先は、最先端の設備が整ったトレーニングルームの様な場所だった。
数多くのトレーニングマシーンが並んでいる。その中にはソーニャ自身が日頃練習で使用しているマシーンもあったが、大半は初めて見る機材ばかりだった。そんな機材を横目に歩むソーニャは目を見張る。トレーニングマシーンのいくつかは、人間の力ではとても使えない高負荷を発生させる代物だったのだ。そしてその機材全てに何かの測定器らしい装置が備え付けられている。一体何をする為のマシーンなのか。いや、そもそもこんな常識を逸脱する高負荷マシーンを使いこなせる『人間』がいるのか。するとソーニャの前に一人のアスリートらしき男性の姿が現れる。名前こそ覚えていないが、彼女はその男性が国内屈指の重量挙げの選手だと知っていた。そう、彼は少し前より行方不明になったとニュースで報道されていたアスリートだったのだ。
ソーニャ同様に白衣を着た数人の男達に周囲を囲まれた重量挙げの選手。決して顔色が良いとは言えない表情だったが、それでも彼はきびきびした動作でベンチプレスを始めた。日頃から熟しているトレーニングを黙々と進めている様に見える。だがソーニャはそのトレーニング風景に驚愕した。なんとその重量挙げ選手が上げていたベンチプレスのウエイトは、軽く見積もっても500キログラムはありそうだったのだ。それも彼は顔色一つ変えずに軽々とバーベルを持ち上げている。そんな男性アスリートの姿にソーニャの背筋は凍りついた。いかに超一流の重量挙げ選手だとは言え、あの重量を軽く持ち上げるなんて有り得ない。彼女は意味の分からない嫌悪感を覚えながらその場を後にした。
ソーニャが連れられた場所は屋内プールだった。そこで彼女はセンサーの取り付けられた競泳用の水着を着用させられ、体力の限界まで泳がされる。そして彼女は半分溺れかけたところでプールから引き上げられた。訓練とは言えない苦しいだけの行為。ただそれがその時点での彼女のステータスを把握する測定であったのだと、ソーニャは直ぐに知る事となる。
その後彼女は狭い食堂へと連れて行かれた。するとそこには先程見かけた重量挙げの男性選手以外に、数人のアスリートの姿があった。ソーニャは身の毛の弥立つ感覚に苛まれる。それもそのはず。彼女が目にしたそれらのアスリートは、全て突然の失踪を告げたアスリートばかりだったのだ。
これで自分が何者かによって拉致されたのは、覆せない現実なのだとソーニャは改めて受け止める。どうして私がこんな目に遭わなければいけないのか。彼女はぶつけどころのない苛立ちと不安を感じ立ち尽くすしかない。それでも彼女は目の前にいるアスリート達に釘付けになった。忸怩たるも今の彼女には、それしか出来なかったのだ。
黙り込んではいるものの、アスリート達はみな食欲は旺盛だった。山のように盛り付けられた料理を、これでもかというほど勢いよく口に運んでいる。トレーニングの後で空腹なのか。それにしてもよく食べるものだ。不思議そうにソーニャは食事を進める彼らの姿を見つめる。するとそんな彼らに触発されたのだろうか、ソーニャの腹の虫が鳴った。
狭い食堂ながらも、アスリート達は席をバラバラに座り食事を取っていた。その姿はまるでお互いを避けている様にも見える。ただそんな中でソーニャは唯一向かい合わせで食事を取っている二人のアスリートを見つけた。それもその二人のアスリートは女性である。見たところその二人以外に女性の姿はなく、ソーニャは必然的にそこへ足を向けた。
「と、隣に座っても良いですか?」
上ずった声でソーニャが聞き尋ねるも、二人からの返答はない。向かい合いながら食事を進める女性アスリート達は黙々と料理を食べるばかりだ。ただそれでも片方の女性アスリートだけは、軽くソーニャに視線を向けた。そして彼女は自分の隣の席に視線を移す。声には出さないまでも、その行為は間違いなく隣に座っても良いと告げる合図だ。ソーニャはそう判断し、促された席に腰掛けた。
まずソーニャが目にした斜め前に座るアスリート。ソーニャは彼女の事を知っていた。彼女は有名な女性マラソン選手であり、国際大会でも常に上位に名を連ねる実力者だ。そして時折テレビなどで拝見するその姿はとても気さくであり、明るく人柄も良さそうな印象を受けていた。しかし目の前にいる彼女はまったく別人の様に見える。テレビの前と裏では性格が変わるとでもいうのか?
女性マラソン選手はソーニャの存在にまるで気付いていないかの様に食事を進めている。というより、彼女は集中力を最大にして食事を取っており、周りの事を気にする余裕が無いといった具合だ。無視するとは明らかに異なる彼女の態度にソーニャは戸惑う。するとそんなソーニャの前に一枚の皿が差し出された。
ビックリしながらソーニャはその皿を差し出した隣に座る女性アスリートを見る。隣の席に座るよう促してくれた彼女は、女性でありながらもかなりガッチリした体格の持ち主だ。マラソン選手とは異なり、ソーニャは彼女の事を知らなかった。それでもその引き締まった体型から、並みのアスリートではないといのだと察する。そしてソーニャは少し震える手で皿を受け取ると、小さな声で礼を告げた。
「あ、ありがとう」
「……今は黙って食べて。食事の時間が終わったら、少しだけど自由時間になる。その時に私の知っている事を話してあげるね」
体格の良い彼女はそう告げると、食事の続きを始めた。そして彼女に負けないほど勢い良くソーニャも食事を取り出す。意味の分からない状況に置かれ、言い表す事の出来ぬ恐怖感や嫌悪感に苛まれているはずなのに、何故かソーニャは湧き上がる食欲を抑えられなかった。結局彼女はそのまま底知れぬ食欲に身を委ねつつ、満腹になるまで食事を進めた。
食事の時間が終わると、体格の良い女性アスリートが言っていたように自由時間になった。ただ食堂の隅には相変わらず白衣を着た筋肉質の男数人がアスリート達を見張っている。それが理由かどうかは分からないが、食事を取り終えたアスリート達は誰もが無言で席に腰掛けたままだった。
食後の休憩というにはあまりにも息の詰まる空間にソーニャは圧迫感を覚える。この人達は一体ここで何をしているのだろう。彼女は自由時間が過ぎ去るのをじっと待っているアスリート達の一人一人の横顔に視線を向けていた。するとそんなソーニャの横から囁く声が掛けられる。
「あまり他の人達を見ないほうがいい。下手に目があったりすると、何をされるかわからないから――」
彼女は首は動かさず、耳だけを隣にいる女性に傾けた。その仕草にソーニャの事を賢い子だと思ったのだろう。体格の良い女性は周囲に気付かれない程度に口元を弛ませる。そして彼女は約束通りに自身の知り得ることをソーニャへと告げ始めた。
彼女の名は【ラウラ】。二十一歳の彼女はソーニャと同じグリーヴス出身であり、レスリングの一流選手だった。同郷の出であり、また歳が近かった為にソーニャは彼女に親しみを覚える。ただラウラはそんな彼女にあまり深入りするなと付け加えながら話を続けた。
「あなたを除いたここにいるアスリートの中で、私は一番の新参者なんだよ。だから私はあなたに伝えなければならないの。私達に起きている実情を――」
ラウラがこの施設に連れられたのは一週間前。彼女もソーニャと同じく、練習後に突如として睡魔に襲われ、気が付けばこの意味不明な施設にいた。そして目覚めた初日に体力の限界までウエイトトレーニングをさせられ、さらに立ち上がれなくなるまでスパーリングを重ねた。どうしてこんな厳しい訓練をしなければならないのか。彼女は理由を探ろうとするも極度の疲労に敵うわけもなく、気を失う様にその日は深い眠りに落ちた。
翌日ラウラの前に提示されたのは、彼女の身体能力を数値化し見える化したデータ資料だった。そして彼女は昨日と全く同じトレーニングを強要される。もちろん彼女は無理だと拒絶した。限界まで体を酷使し痛めつけたというのに、一日も経たずに再度出来るはずがないと。だが強く否定する彼女に対し、白衣を着た男達はなかば強引にトレーニングを始めさせる。するとどうした事だろう。全身が軋むほどの猛烈な筋肉痛に支配されていたにも関わらず、不思議にもラウラはトレーニングを熟すことが出来た。いや、それだけではない。昨日よりもさらに過酷なトレーニングが消化できたのだ。どうして急にそんな力が湧き上がったのだろうか。それはラウラ自身今も理解してはいない。それでも彼女は二点ほど、自分自身の変化を確信していた。そしてそれは一晩睡眠を取る度に、明確に実感できるものであった。
まず一つラウラが気付いた事だが、それは日ごとに平均で5%ほど身体能力がアップしているということだった。
彼女には毎日データが提示されている。そこに記されたグラフを見れば、その結果は一目瞭然だった。目を疑うほどの成長度合いにラウラは肝を潰す。ただ寝て起きているだけなのに、どうしてこれ程までに力が付くのか。アスリートの彼女にとって、それは意味不明ながらも胸の高鳴りが感じられた。このまま訓練を進めれば、自分はレスリング界で無敵になれるのではないかと。だがそれ以外にもう一つ、彼女は気付いていた。それは一日が過ぎるほどに、僅かだが意識の保てない時間が発生しているのだと。そしてその時間は確実に増えているのだと。
彼女は目に見えぬ恐怖に身を竦ませた。それもそのはず。周囲にいる他のアスリート達に目を向ければ、彼らは誰一人として自我というものを表現していないのだ。それは意識的に自分を押し殺しているのとは明らかに違う、どこか人間離れした感覚だった。
青ざめた顔色で目つきは虚ろ。それなのに信じられないほどの身体能力を発揮する。そんな彼らにラウラは自分を重ね合わせた。このままでは自分もそう遅くないうちに、彼らと同様な姿になってしまうのではないか――と。
ソーニャは身動きせず、黙りながらラウラの話を聞いた。ヒザの上でぐっと丸めた彼女の拳が震えている。極度の不安に苛まれているのは誰が見ても明らかだ。それでも彼女は必死に堪える。現状自分自身に起きた事実を否定し、心を閉ざすのは簡単だ。けれど今自分に必要なのは、現状を把握し受け入れる事なのだと。そして決死の覚悟で話すラウラの誠意を受け取らなければならないのだと。彼女の話が本当ならば、近い内に彼女は自我を失ってしまうはずなのだから。そう、目の前に座るマラソン選手の様に。
ソーニャは必死に心を繋ぎ止めようと苦闘する。ただそんな彼女に対し、ラウラは澄んだ眼差しを向けて穏やかに続けた。
「あなたはとても強い人だね。これだけの話を聞いても耐える事が出来ている。そんなあなたにだからこそ、伝えておくよ。確証は持てないけど、ここから脱出する方法が一つだけあるの」
「えっ」
「問題は行動を起こすタイミングと、それを実行する体力があなたにあるかどうか――。でもやるしかないの。このままここにいたら、あなたもいつか皆と同じになってしまう。この施設はアカデメイアと呼ばれる秘密結社の実験場なのよ。そして私達は人体実験をされているの。冗談みたいな話で信じられないでしょうけど、でもそれが事実なのよね。何の為に秘密結社がこんな事をしているのかは知らないけど、決して許される行為じゃない。だから――」
そこまで告げたラウラは急に押し黙った。そしてソーニャはゾッとする。いつからいたのだろうか。食堂の隅で彼女達を突き刺すような視線で見つめる男が一人立っていた。その顔にはザックリと引き裂かれた古い傷跡があり、全身からは異様なまでの凄味が発せられていた。
ソーニャは口の中に溢れ出る苦い唾を無理やり押し込む。尋常でない男の気味悪さに背中が凍りついた。逃げる様にソーニャは男から視線を外す。だが彼女は思わずはっと目を丸くして驚いた。なんと彼女の前に座る女性マラソン選手が、ソーニャに向け軽く微笑んでいたのだ。でもその表情はかつて、彼女がテレビで見たマラソン選手の温和な表情そのものだった。
ソーニャはどこかその温かい表情に救われた気がした。殺伐とした空間に温かい人間味を感じたからなのかも知れない。しかし自我を失っているはずの彼女が、なぜ急にそんな表情を浮かべたのか。もちろんその時のソーニャに、それを理解できるはずはなかった。