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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
43/109

#42 木の芽時の出立(砂紋の情操)

 朝焼けの日差しがソファに身を埋めるジュールを照らす。体が(だる)いし、まだ眠り足りない。彼は朝日から逃げるよう寝返りを打ち体の向きを変えた。そんなジュールの耳に、何かが小刻みに振動する感覚が伝わって来る。

「ブーン、ブーン」

 気のせいか。はたまた夢でも見ているのか。いや違う、確かに聞こえる。一体どこで何が振動しているのだろうか――。息を潜めながらジュールは感覚でそれを探る。すると彼はその振動の正体にハッと気が付いて飛び起きた。

 急いで彼が向かったのはシャワー室の前の脱衣所だった。そこには彼が昨夜脱ぎ捨てたボロボロの服がそのままに置かれていた。改めて明るくなったこの時間にその服を見ると、天体観測所での壮絶な戦いが決して夢などではなかったのだと痛感させられる。それほどまでに彼が身に付けていた服はボロボロであり、その大部分は赤い血で染められていた。

「ブーン、ブーン」

 やはり間違いはない。彼はそう思い、ボロボロの服を摘み上げる。するとその下にあった彼のズボンが小刻みに震えていた。ジュールは躊躇(ちゅうちょ)せずにズボンのポケットに手を押し込む。そして振動するそれを掴み取り出した。

 彼が取り出したのは小型の携帯端末であり、バイブレーションを発するその端末はアメリアからの呼び出しを告げていた。あの激しい戦闘の中、よく故障しなかったものだとジュールは妙に感心する。どうやらアダムズの電子機器メーカーが製作する端末の品質は、過剰なほど保たれているらしい。そんな他愛もない事を考えながら通信ボタンを押した彼は、端末を耳にあてた。

「もしもし! やっと出た。もう何してたのよ、ジュール。昨日から何回も電話したのに全然で出ないんだもん。何かあったんじゃないかって心配したんだからね!」

 端末越しにアメリアの大きな声が伝わって来る。その声に思わずジュールは端末を耳から遠ざけたが、すぐに彼女に対して詫びを入れた。

「ごめんアメリア、昨日は色々あってね。疲れて眠っちまったんだよ。心配掛けて本当にごめん。でも俺は無事だから大丈夫だよ」

「本当に何もなかったの? ジュールは危険な目にあっても、私に何も言わないからなぁ。それにしてもアパートにも帰らないで何処に泊まったのよ。後でちゃんと教えてよね」

 アメリアは不審さを露わに強く話す。女性の勘というものはなぜこうも鋭い指摘を促すのだろうか。科学的な根拠は何一つ無いはずなのに、匂いを嗅ぎつける感性が飛び抜けている。そんなアメリアに対し、ジュールは昨晩アニェージを抱きしめた事を思い出して少し戸惑った。

 決して(やま)しい事は無かった。あれは倒れそうになったアニェージを咄嗟に受け止めただけだ。ジュールは声に出さず、頭の中でそんな言い訳を唱え続ける。だがやはり女性の勘は不思議なものだ。アメリアは決まりの悪さを感じているジュールを間近で見ているかの様に、疑いの目を向けた。

「なんか怪しいなぁ。本当に何も隠してない?」

「な、なにも隠してないよ。朝っぱらからしつこいぞ!」

 ジュールは少しムキになって反発した。しかし彼は言った瞬間にハッとする。天体観測所で命懸けの戦闘を繰り広げたのに、何もなかったというのは理屈に合わない。そもそも彼女はジュールの体を気遣って連絡をくれたのだ。そう思ったジュールは負い目を感じ息を細める。するとアメリアはそんな彼を見透かす様に呟いた。

「ジュールが私に反発するときは、絶対に何か隠してる事があるんだからね。後でしっかり聞いてあげるから、話しなさいよ!」

 さすがに参ったとジュールは頭を掻きむしる。するとそんな反省する素振りの彼を心得たのだろうか。アメリアは気分を変えて続きを話し出した。

「ところでジュール。あなたトーマス王子と一緒にグリーヴスに行くの? 昨日の夜、お城から連絡があってね。いつでも出発できるように支度しておけって言ってたよ。あの感じだと、明日には出発するんじゃないかしら」

「明日!? 随分と急だな。でも王子の行動力なら有り得るか。今はルヴェリエを離れたくないけど、王子の命令じゃ断るのは無理だよなぁ。――仕方ない。なら俺は一旦アパートに戻るよ。支度しなきゃまずいんだろ」

「すぐに来れる? 私仕事に行かなくちゃいけないんだけど、もしすぐに来れるんだったら、ジュールに伝えたい事があるから待つよ。ガルヴァーニさん達の事で伝えたい話しがあってね」

「きのう俺達と別れた後に何かあったのか?」

 ジュールはプルターク・モールで別れた老人の後ろ姿を思い出す。そう言えば、いなくなった少年は見つかったのか。ただアメリアは出勤前の少しの時間に急いでいる様子だ。端末の向こうより彼女の急かす声が続く。

「ううん。そうじゃないんだけど、ガルヴァーニさんからの伝言もあるし。直接伝えた方が良いかなって思っただけ。一時間くらいなら待てるけど、来れる?」

「あぁ、直ぐに行くから待っててくれよ」

「分かった。なら着替えとかは一通り用意しとくね。仕事の物は分からないから自分で用意してよ」

「助かるよ、アメリア。ありがとう」

 ジュールは端末の通信を切ると、一つ大きな溜息を吐いた。ヤバい状況ながらもようやく秘密結社の尻尾を掴んだんだ。あの天体観測所には間違いなく何かが隠されている。危険は重々承知だけど、今直ぐにでも観測所に向かいたい。

 そう思うジュールはあまりにも早い王子の要請に、何とも言えない歯切れの悪さを感じていた。それでも彼は洗面所で顔を洗いながら、どうにか王子の命令を断れないか考えを巡らせる。しかし寝起きのせいもあってか頭が働かない。いや、そもそも彼には王子の命令を覆す理由など、到底導き出せるはずもないのだ。ジュールは王子の要請は絶対なのだと、不本意ながらも仕方なく受け入れる。するとそんな彼の背後より、馴染みの声が掛けられた。

「起きたのか、ジュール。体は大丈夫か?」


 ヘルムホルツが手に大きな袋を持ちながら立っていた。唐突に現れた巨漢にジュールは少し驚くも、その武骨な顔に向かって微笑みながら呟いた。

「朝一番にお前のツラ見るなんて、今日は良い事なさそうだな」

「フン、そうでもないだろ。お前の為にこいつを自腹で用意してやったんだからよ」

 ヘルムホルツは袋をジュールへ手渡す。それを受け取った彼は、何が入ってるんだと首を傾げながら中身を確認した。するとその中には、老舗ブランドから発売された一式の衣服が入っていた。カジュアルにまったく興味のないジュールだったが、その服がそこそこ高級な物だと直ぐに認識する。そしてそれを手にしたジュールはヘルムホルツに感謝の気持ちを素直に伝えた。

「済まないな、ヘルムホルツ。わざわざこれ、俺の為に買って来てくれたのか?」

「俺の服はサイズが全然違うから着れないだろ。それにお前の服のセンスには日ごろから不満があってね。これくらいの物は身につけてもらいたいと思って用意したんだよ」

 ヘルムホルツの用意した服は流行(はやり)のデザインではないものの、上下共にまとまりが有りジュールに似合いそうだった。

「見た目によらず、昔からお前は御洒落(おしゃれ)にはうるさいからな」

「少しばかり顔が整っている分、お前は身に付ける物に疎過(うとす)ぎるんだよ。この際だからハッキリ言わせてもらうけどな、お前ダサいんだぞ。都会で暮すからには、最低限の身だしなみってもんがあるだろ。いくら軍人でもな。まったく、アメリアは何も言わないのか?」

「そんなにダサいか? 服についてアメリアに何か言われた事はないぞ」

 少し(ふく)れた顔でジュールは不満を露わにする。そんな彼を呆れた表情でヘルムホルツは見つめ返した。

「お前の為に用意したんだ。まぁそう膨れるなよ。それにこいつはちょっと早いご祝儀ってことで納めといてくれ。割と値が張ったんだからな。でもバトルスーツ開発の件で、お前のサイズを測定しといて良かったよ」

 武骨な顔つきのヘルムホルツが軽く微笑む。外観からは想像しづらいが、昔からこいつは妙に気が利いて優しい奴だった。そしてこいつはアメリアとの結婚を誰よりも祝福してくれている。ジュールはそう思うと、少し気恥ずかしさを覚え照れた。だが彼はそんなこそばゆい気持ちを隠す様に、ヘルムホルツに背を向けながら着替えを始めた。

 なるほど。ヘルムホルツの用意した衣服はジュールの体型に見事にフィットしている。バトルスーツ開発の折に、ジュールの体型を入念に調べ上げたのが功を奏したと言ったところか。それにブルー基調で統一された上下のセンスが彼の姿に絶妙にマッチしていた。

「俺は個人的に赤が好きだから、赤っぽい色の服ばかり着ていたんだけど、こんなにも青が自分に似合うなんて驚いたよ」

 ジュールは改めて自分の恰好を鏡で見て驚きを見せる。そんな彼にヘルムホルツがファッションについて持論を述べた。

「別に赤が悪いわけじゃないけどな。要はバランスの問題さ。いくら好きだからって、同じ色ばかり選ぶのはどうかと思うぞ」

 とても目の前にいる巨漢の男から発せられる言葉とは思えない。そう感じたジュールは思わす噴き出しそうになる。彼は何かにつけてヘルムホルツの意外性に驚かされる事が多い。そもそもジュールにはヘルムホルツが軍の最新兵器を開発する科学者だというのが、未だに信じられていないのだ。

 共にスラムで育ち、ろくに勉強すらしてこなかったこいつが、成人して再会した時には都立大学で主席の成績を収めていた。何となく頭の回転が速い奴だとは思っていたけど、まさかここまで頭が良いとは想像すらしなかった。ここぞと言う時には(たま)らなく頼りになるヘルムホルツ。だが惜しくもその巨漢の姿が、彼の行動をジュールにとってこれ以上なく滑稽に思わせた。

「やっぱお前は癒し系だよな。なんかホッと気が休まるよ」

「何だよそれは、皮肉ってんのか?」

「違う違う、逆に褒めてるんだよ。お前のお蔭で助かってる、サンキューな」

 正直に礼を言われた事に今度はヘルムホルツが少し顔を赤らめ照れた。そんな彼をジュールは微笑ましく見つめる。だが彼は思い出したようにヘルムホルツに告げた。

「済まないな、ヘルムホルツ。さっきアメリアから連絡があってよ。今直ぐアパートに戻らなきゃいけないんだ」

「さっき端末で話してたのはアメリアだったのか。それで、要件は何だったんだよ?」

 ヘルムホルツは訝しそうに尋ねた。そんな彼にジュールが真面目に答える。

「グリーヴスに王子と同行する件で昨晩連絡があったらしいんだ。それと昨日出会ったガルヴァーニさんの事でも話があるらしい。お前もガルヴァーニさんは知ってるんだよな」

「あぁ。一度しか会ってないけど、グラム博士の生き写しみたいな人で驚いたよ」

 初めてガルヴァーニと対面した時の事を思い出したのか。ヘルムホルツは目を丸くしながら頷いた表情をした。そんな彼の姿にジュールはまたもハッと思い出し、脱ぎ捨てていたボロボロのズボンを持ち上げる。そして携帯端末が入っていた場所とは反対側のポケットに手を触れた。

 そこにはグシャグシャになりながらも、硬い感触の何かが収まっていた。ジュールはそれを丁寧にズボンから引き抜く。そう、それはガルヴァーニより託されたグラム博士の残したノートだった。

「良かったよ。かなり傷だらけになっちまったけど、どうにか無事みたいだ」

 そう言ってジュールはそのノートをヘルムホルツに差し出した。ヘルムホルツは不思議そうにそれを見つめる。

「これはグラム博士が残したノートだよ。昨日ガルヴァーニさんから受け取ったんだけど、お前これの中身を調査してみないか? 科学的な事は俺には全然分からないからさ」

 ジュールからノートを渡されたヘルムホルツは、その外見を(つぶさ)に観察する。激しく傷み折れ曲がった小さなノート。そして所々に血痕の様なシミがこびり付いている事に彼は目を細めた。

「この血の跡はお前ものじゃないよな。随分と古そうだし、一体なんのノートなんだよ?」

「詳しい事は帰って来たら話すよ。それまでお前はノートにどこか怪しい所がないか、目を通しておいてくれ。あっ、そう言えばリュザックさんとあの()はどうしている?」

 ジュールはそう言い終わらないうちにリビングに足を向ける。昨夜深い眠りに落ちた二人は大丈夫か。特に少女の容体に変化がないか気掛かりだ。ただそんな彼の心配を余所に、リュザックとソーニャは昨晩眠ったままの状態でソファに身を預けていた。

 変わらぬ二人の姿を目にしたジュールはホッと息を漏らす。するとそんな彼の背中越しから、今度は女性の声が掛けられた。

「静かにしろよ、ジュール。まったく、騒がしい奴だな」

「お、おうアニェージ。起こしちまったか。悪いな」

 恐縮しながらジュールはアニェージに軽く頭を下げる。だが彼女はすでに身だしなみを整え終えた姿であり、顔つきもしっかりしていた。

「ハッ、寝坊助のお前達と一緒にするな、私はもう随分と前に起きてるよ。それと昨夜の事は粗方(あらかた)ヘルムホルツには説明した。それにしてもお前ら、よくもまぁ熟睡できるモンだね。少女は別として、昨日あれだけのゴタゴタに巻き込まれたのに、平然と眠ってられるなんて驚きだよ。どうやらトランザムは一級品の図太さを備えているらしいね」

 皮肉を込めるアニェージに対しジュールは反論できずに口ごもる。するとそんな彼を擁護するように、ヘルムホルツが彼女に告げた。

「まぁ、寝られる時くらいは休ませてやれよ。ここ数日の間にこいつはヤツと立て続けに戦ってるんだ。いくら丈夫な体をしているからって、疲労感には逆らえないものだよ。体は正直だからね」

「チッ、そんな事は言われなくとも承知してるよ。だから無理に起こさず寝かしておいたんだろ」

 ヘルムホルツに諭された事がお気に召さないのか。アニェージは開き直る様に反発した。そして彼女は口調を強めたままに、ジュールに対して早くしろと捲し立てた。

「時間が無いんだろ。私が車で送ってやる」

「あ、いや。でも悪いだろそれは。あんただって疲れてるんだからさ」

「昨夜の事はヘルムホルツに全部話したって言ったでしょ。ノートの中身に付いては私も分からない。だから私がここに残っても意味ないのよ。それともヘルムホルツにお茶でも出せって言うの? それにお前、自分のアパートまでどうやって戻るつもりなのよ。まさか電車やバスで帰るつもりじゃないでしょうね?」

 アニェージの言っている事がうまく飲み込めないジュールは顔をしかめる。電車で帰ることの何がいけないのか。まさか朝の通勤ラッシュに身を(さら)すことを気に掛けてくれているわけじゃあるまい。そんな要領を得ないジュールに対し、アニェージは呆れながら続けた。

「お前の頭ン中は鉄で埋まってるの? 一昨日(おととい)からあれだけ裏組織に関わっているんだよ。もうお前はアカデメイアにマークされていると考えるべきなんだ。だから軽はずみな行動は(つつし)んだ方がいい。電車やバスに乗るなんてもっての他だよ。奴らに見つけてくれって言ってるみたいなモンだからね。これはお前に限った事じゃなくて、私やヘルムホルツにも言える事だけど、もう軽率にルヴェリエを行動するのはよした方がいい。あの月夜に見たアルベルト国王の鋭い目つき。お前だって忘れてはいないでしょ」

 確かにアニェージの言う通りだ。水堀で国王の凍てつく眼差しに見つめられた時、尋常でないほど鳥肌が立った。それでもあの時はトランザム解散の下知について頭に血が昇っていた事と、総司令がいてくれた事で国王に対する恐怖を和らげさせた。でも冷静に考えれば、あの時からもう自分達は国王に睨まれているのだ。ならばいつどこで監視されているか分からない。浅はかな行動は、ヘタをすればアメリアにも危険を及ぼす事になる。改めてそう思ったジュールは今になってゾッとした。そんな彼の心理が読み取れたのだろう。アニェージは何も言わずに進み出した。

「悪けど留守を頼む、ヘルムホルツ。昼前には戻れるだろうから、それまで留守を頼むよ。それともし少女に何か異変があったら端末で知らせてくれ。観測所でこの()の身に只ならない危機感を感じたんだ。心配だ」

「分かった。変化があれば連絡する。それよりお前も気をつけろよ。アニェージの話は決して大げさな事じゃないんだからな」

 そう言ってヘルムホルツはジュールの肩を叩いた。温かみのある重さが肩に伝わって来る。ジュールは強く頷くと、すでに部屋を後にしてしまったアニェージを急いで追い駆けた。


 電話越しにアメリアと話してから一時間半が過ぎている。交通渋滞がその理由だったが、約束の時間を過ぎてアパートに到着したジュールはさすがに気が引けていた。

 もうアメリアは仕事に行ってしまっただろう。けれど彼女ならきっとギリギリまで待っていてくれたはず。待ちぼうけさせた挙句に、もし仕事に遅刻までさせていたなら申し訳が立たない。悪い事をしてしまった。どうやって謝ろうか――。ジュールは気を揉みながら自宅のドアにカギを差し込みそれを捻る。しかし彼はその手ごたえの無さに息を飲んだ。

(まさか、アメリアの奴。鍵を掛け忘れたのか――)

 ジュールは不用心なアメリアの行動を嘆く。だが彼のそんな心配は無用なものだった。なぜならアパートでは、まだアメリアが彼の帰宅を健気にも待っていたのだ。そしてジュールがドアを開いたと同時に、アメリアが勢い良く声を掛けて来た。

「もう遅いじゃない!」

「ご、ごめん」

 思いもよらぬアメリアの存在にジュールは驚きながら謝る。ただ彼は彼女がまだアパートにいた事とは別の理由で少し戸惑った。自分を待ち続けてくれた事は素直に嬉しく思うが、しかし仕事に支障をきたしてまで待つ必要があったのだろうかと。先の電話ではそこまで差し迫った事は言っていなかった。だとしたら尚更仕事を遅刻してまで待つ必要はないはず。そう考えたジュールは近寄って来るアメリアに怪訝な表情を向ける。だが彼の目にしたアメリアの表情は、ジュールよりも更に懐疑的なものだった。そしてジュールの目の前で立ち止まった彼女は、徐に彼の身に付けているブルー基調の服を指で摘んで言った。

「何よこの服。ジュールはこんな服持ってなかったよね。そのクセすごく似合ってる。どういう事なの!」

 アメリアは鋭い視線で斜め下から睨み上げる。さらに彼女は早く答えろと迫るばかりに、指先で強く彼の胸を小突いた。

「イテっ、何すんだよ。こいつはヘルムホルツから貰ったモンだよ。昨日プルターク・モールでお前と別れた後にちょっとしたゴタゴタがあってさ。それで服がボロボロになっちまったんで、ヘルムホルツに替え用意してもらったんだよ」

「本当に? 確かにヘルムホルツ君は御洒落でセンスが良いから、こんな服選ぶかもしれないけど、それにしちゃサイズもぴったりだしジュールに似合い過ぎじゃない? だいたい青い服選ぶっていうのがしっくりこないんだよね」

「何だよ、俺が嘘言ってるっていうのか」

「そうは言ってないけど、突然外泊するし電話には出ないし。気になるじゃない」

 そう言ってアメリアは口を(とが)らせた。彼女の目は明らかにジュールの行動を疑っている。だが一体アメリアは何を疑っているんだ。意味の分からないジュールは、ただ彼女の強い視線に当惑するしかなかった。彼にしてみれば本当の事を告げただけであり、そこに嘘偽りは何も無かったのだから。

 しかしアメリアの収まりは一向につく気配がない。むしろ疑念は深まるばかりだ。女性の勘とも言うべき彼女の直感が働いているのだろう。すると間の悪い事に、突然女性の声でジュールは後方から声を掛けられた。

「ドアを開けたまま玄関先で何してるのよ、ジュール?」

 彼を後ろから呼んだのはアニェージだった。彼女はアパート脇に車を止め、その中でジュールが支度を整えてくるのを待っていた。しかし玄関に佇むばかりの彼の姿に懸念を覚えたアニェージは、何かあったのではと馳せ参じたのだ。

 思いもよらず顔を合わせたアメリアとアニェージ。二人とも驚く様に目を丸くしているが、その胸の内は正反対だ。決してジュールは浮気するような男ではないし、そもそもそんな器用な性質(たち)ではない。それは重々承知しているものの、アメリアの鼓動は高まりを抑えられない。ジュールの後ろに現れた女性は、同性の自分でも見惚れるほど綺麗な女性(ひと)なのだから。

 そんな彼女の心理を瞬間的に察したアニェージは、しまったとばかりに表情を硬くした。女性という生き物は一旦疑念を抱えてしまうと、それを払拭するのは容易ではない。そしてアニェージは自分自身の性質も良く理解した上で尻込みした。なぜなら彼女は自分が誰よりも口下手だという事を知っていたし、なによりアメリアの抱いた誤解をすんなりと解く説明など、到底出来る自信はなかったからだ。

 言葉無く見つめ合うアメリアとアニェージ。苦々しい緊迫感に覆われた状況が玄関先の狭いスペースを埋め尽くす。ただそんな状況の中で、意外にも最初に口を開いたのはジュールだった。

「ふ、二人とも、昨日プルターク・モールで一度顔を合わせてるよな。で、でも紹介がまだだったか。こっちは俺の彼女でアメリア。そしてこっちがグリーヴスから仕事で来たアニェージだ。二人とも、よろしくだぜ」

 そう言いながらもジュールの仕草には浮き足立つ素振りが全面に見て取れる。アメリアはそんな彼に増々不審を募らせてゆく。そして彼女はその矛先をアニェージへと向けた。

「初めまして、アニェージさん。グリーヴスから来たのですか? 昨日はガルヴァーニさんと一緒だったから、てっきりあなたもバローの方なのかと思いました。それにしても奇遇ですね。近日中にジュールは王子の護衛でグリーヴスに向かうそうです。もしかして、それにあなたも同行するんですか?」

 言葉を選んでいるが、アメリアが自分を疑っているのは間違いない。ゆえに下手な答えをすれば、火に油を注ぐ事になり兼ねないぞ。ならば下手に誤魔化して収集がつかなくなるより、正直に答えるのがベストだろう。アニェージはそう判断する。その方がきっとアメリアの次の一手に対応し易いはずだから。

 意を決したアニェージは、昨夜の事を正直にアメリアに告げようとする。だがそれを遮ってジュールが口走った。

「お前、なに疑ってんだよ。別に俺とアニェージはなんでもないぜ。それに今だって少しでも早くここに着く様にと、車で送ってくれたんだ。むしろ彼女に感謝しろよ!」

「何よ感謝って。一晩泊めてもらったことにお礼を言えばいいの?」

「泊まったのは成り行きだよ」

「やっぱり泊まったんだ」

 ジュールは何も言えなくなった。何を言ったところで自分では状況を好転させられない。いや、むしろ悪化させるだけだろう。彼は身を(すく)ませ心身ともに狼狽する。しかしアメリアは変わらず強い姿勢でジュールを睨みつけていた。その瞳は赤く色付き、薄っすらと涙ぐんでいる。そんなアメリアの事をアニェージは不憫に思った。

 誤解とはいえ、強情な性格が邪魔をして素直になれない。まるで自分を見ている様だ――。アニェージはアメリアを自身に映し合せる事で、彼女の胸の内を察した。アメリアは不甲斐ないジュールの態度に憤りを感じている。でもそれ以上に彼女は溢れ出る自分自身の見苦しい嫉妬心に強く腹を立てているのだ。

 居た堪れない想いにアニェージは胸が摘まれる気がした。そして二人の険悪な姿を見兼ねた彼女は、アメリアに対し少し恐縮しながら告げたのだった。


「アメリアさん。今の状況があなたにとって、とても疑い深いものなのは分かります。でも信じてほしい。私とジュールの間に、あなたが疑うような関係は何一つ無いって事を。その服を用意したのは本当にヘルムホルツだし、それはあいつに直接聞けば確かめられる。それにジュールが私のホテルに泊まったというのは、昨夜天体観測所で保護した少女の身柄を守る為に仕方なくそうしたんです。そして私の部屋に泊まったのはジュールだけじゃなく、彼の上司であるトランザムのリュザックと、その保護した少女がいました。だから――」

「えっ。あなた達、天体観測所に行ってたの?」

 アメリアはアニェージの言葉が終わらない内に、ジュールに向かってそれを尋ねる。今までとは少し違った驚き方で彼女はジュールを見ていた。その雰囲気の違いを感じ取ったジュールであるが、その意味が分からず戸惑いながら頷いた。

「あ、あぁ。プルターク・モールでお前と別れた後、その足で俺達は天体観測所へ向かったんだ。でもどうしたんだよ、何か気になる事でもあるのか?」

 ジュールは訝しく首を傾けながらアメリアに疑問を投げかける。すると彼女は「知らないの?」とばかりに言い返した。

「朝からニュースで大騒ぎになってるよ、観測所。なんでも館内がメチャクチャになってるんだって。チラッとテレビに映ってたけど、壁とかボロボロになってたよ。まさかあれって、ジュール達の仕業なの?」

 アメリアはジュールに続きアニェージを見つめる。その眼差しは不安の色を強めていたが、それでも彼女は同じ女性であるアニェージの方が、ジュールよりも分かりやすく真実を伝えてくれるものと期待した。アメリアはアニェージの瞳から目を逸らさない。そんな彼女に対し、アニェージは静かに語り出した。

「私の仕事というのはグラム博士の残した遺産を調査する事です。その為に博士の親類であったガルヴァーニと行動を共にし、そして博士の養子であるジュールに協力をお願いしていました」

「それで昨日は博士から貰ったカチューシャを見る為に、私を探してたんですね」

「はい。そしてあなた達と別れた後に観測所に行ったのは、そこにグラム博士の残した遺産の手掛かりが隠されていると考えたからなのです。しかし昨夜、あの場所で私達は思いもよらぬ事件に巻き込まれてしまった」

「事件?」

 アニェージの話を聞くアメリアは増々不安を募らせてゆく。そしてその横でジュールも胸のざわめきを感じた。あまりアメリアに深い事情を話すのは危険だ。ヘタをすれば彼女にまで危険が及ぶかもしれない。そう危惧するジュールに対し、アニェージは心得ているとばかりに彼を一視しながら話を続けた。

「実はあの観測所で偶然にも一人の少女を保護したのです。その少女というのは、今もニュースなどで話題となっている失踪したアスリートの一人でした。理由は分かりませんが、只ならぬ何者かに追われていた少女を助ける為に、私やジュールは少し観測所の中で暴れてしまいました。その結果が朝のニュースとして報道されていたのでしょう」

「その保護した少女って、まさか……」

 そこまで口にしたアメリアはジュールの顔を確認する。するとジュールは頷きながら答えた。

「そうだよ、アメリア。俺達が助けた女の子っていうのは、お前が店の裏通りで声を掛けた少女さ。少し危ない目にもあったけど、なんとか無事に少女を助けられたんだよ」

「危ない目ってどういう事よ! まさか命に関わる事じゃないでしょうね!」

 食って掛かるアメリアの強い問い掛けに、ジュールは思わず口ごもる。そんな彼の態度にアメリアは心得たのであろう。呆れながらも質問を変えた。

「それで。その女の子はどうしているの?」

「あ、あぁ。ケガとかは特に無いんだけど、精神的にかなり参ってるみたいでさ。昨夜は少し取り乱してた。でも今は鎮静剤の効果もあって泥の様に寝ているよ。とりあえずヘルムホルツが様子を見てくれている。何かあれば直ぐに連絡が来るはずさ」

「そう。それなら良かったけど。でもその子、これからどうするの?」

 アメリアの問い掛けに、ジュールは頭を掻きながら敬遠するようアニェージを見る。恥ずかしくも彼は今後について何も考えていなかったのだ。(すが)る様にジュールはアニェージに視線を向ける。そしてそれに釣られながらアメリアも彼女を見た。するとアニェージは少し辟易(へきえき)しながらも二人に告げた。

「昨夜の様子からして、警察沙汰には出来ないでしょう。とりあえずこの件は、内密にアイザック総司令を頼って事態の収拾に臨むしかない。あとは少女の目が覚めるのを待って、話を聞くくらいでしょうか」

 アイザックの協力を仰ぐ以外に、現状やりようが無い事をアニェージは(なげ)く。何よりニュースで取り上げられるほど騒ぎになっているのなら、しばらく観測所に近づけそうもない。しかし時間が経ってしまえば、アカデメイアは観測所からその痕跡を全て消し去ってしまう可能性がある。アニェージは忸怩(じくじ)たる思いに焦りを感じた。それでも彼女は何か別に気になる事でも思い付いたのか、ふいにアメリアに問い掛けた。

「ところでアメリアさん。ニュースでは観測所は何が原因で荒らされたと言ってましたか?」

「まだ詳細は調査中みたいですど、ガス漏れによる爆発の可能性が高いって言ってましたよ」

「ガス爆発か。【あの時】と同じで芸がないな。まぁ予想通りだけど、マスメディアがあいつらに牛耳られているのは確実だからね。真実は決して報道されない……か」

 そう告げたアニェージは一人何かを考えている。報道のされ方に何か思う(ふし)があるのだろうか。ただアニェージの口から総司令の名を聞いたアメリアは、ハッとしてジュールに向かい声を上げた。

「総司令に会えるんだったら、メモリーカードの事も聞けるんじゃない? 元々はその女の子の物なんだし」

 アメリアの意見にジュールもそれを思い出す。

「そうだったな。ちゃんとテスラから受け取ったか確認しなくちゃいけないな」

「ん? 何の事よ、メモリーカードって。それにアメリアさんはあの少女の事を知っているみたいだけど、彼女に会った事があるの?」

 初耳の話にアニェージはジュールに詰め寄る。彼女は思いのほかアメリアが少女について知っているため驚いていた。

「おとといの事なんだけど、仕事中にアメリアはあの女の子と接触しているんだよ。その時に少女からメモリーカードを託されて、アイザック総司令に渡してくれと頼まれたのさ。だけどアメリアは総司令の息子であるコルベットのテスラにそれを渡してしまったんだよ」

「なっ、コルベットに!」

「あぁ。だからちゃんとメモリーカードが総司令に渡ったか、確かめなくちゃならないんだよ」

 アニェージは不審さを露わに表情を硬くする。コルベットという名に彼女は直感で嫌悪感を抱いたのだろう。なにせ裏組織を相手にする彼女にしてみれば、国王直属部隊のコルベットは軍の中でも最も怪しく危険な組織なのだから。それを踏まえた上でジュールは総司令に確認することを強く告げた。何も知らないとはいえ、コルベットの一員であるテスラにメモリーカードを渡してしまったアメリア。ジュールはそんな彼女が変に責任を感じてしまわない様、気遣いながら話題を逸らせた。

「まぁ、俺達の話はこの辺にしといてさ。ガルヴァーニさんから俺に何か伝えたい事があったんだろ? それに行方知れずになってた男の子は見つかったのかよ?」


 まだ不審さと不安を払拭できずにいるアメリアだったが、ジュールの問い掛けに対して正直に答え出した。

「ガルヴァーニさんが探してたボルタ君っていう男の子なんだけど、森林公園にいたのよ。テレーザちゃんが言ってた【女神の歌声】っていうのにガルヴァーニさんは心当たりがあったみたいで、三人で森林公園を探したの。それで彼を無事に見つけたんだよね」

「森林公園て、プルターク・モールの隣じゃないか。灯台もと暗しってやつだな」

 ジュールは少し拍子抜けした様に呟く。しかしアメリアはそんな彼に対して首を横に大きく振った。

「全然そんな事ないよ。あの広い森林公園を探し回ったんだからね。もう私クタクタで、何度も心が折れそうになったんだよ。けどテレーザちゃんも必死で頑張ってたし、大人の私が先に弱音を吐けるわけないじゃない。でも諦めなければ何とかなるものね。もう空は真っ暗だったけど、ボルタ君を見つけられた」

 その時の安堵感を思い出し、アメリアはホッと息を吐いた。彼女のその仕草を見る限り、本当に大変だったのだろうとジュールとアニェージは思う。彼らもまた、無事に少年が見つかった事を確認できて安心した。ただアニェージが一つだけアメリアに疑問を投げ掛ける。

「でも何してたんです、そのボルタって子は?」

「私も初めて知ったんだけど、森林公園には一本だけ【桃の木】が植えられててね。ボルタ君はその木の下で居眠りしてたの」

「居眠りぃ!? 探す人の気も知らないで、ずいぶんと呑気なモンだな」

 ジュールは唖然としながら吐き捨てる。もしこの場所にボルタがいれば、人騒がせもいい加減にしろと説教の一つも言ってやりたい。ジュールは無性に腹立たしさを覚えムッとする。ただアメリアは不思議と微笑みを浮かべながら彼に返した。

「私もボルタ君を見つけた時、叱ってやろうかと思っていたの。でもね、彼の寝顔を見たらそんな気持ちどこかに行っちゃった。だって彼、まるで女神の歌声を子守唄にしている天使のような寝顔をしていたから」

 アメリアが何を言っているのか要領を得ないジュールとアニェージは顔を見合わせる。そんな彼らにアメリアはクスクスと笑いながら説明した。

「たぶん、普通の人ならただの風の音にしか聞こえないと思う。桃の木の枝の間を通り抜ける風の音。けど私には本当に女神様の歌声に聞こえたの。とても不思議な、言葉ではうまく言い表せないけど、でもすごく耳に優しい音がしてね。心がすごく和らいで心地良かった。ボルタ君が願ってたように、あれが女神様の歌声だったと私も信じたいな」

 微笑みながらそう話すアメリアを見つめるだけのジュール。ただの空耳だろうと思いつつも、嬉しそうに話す彼女の表情は本心を告げている様にしか見えない。それに女神という言葉の響きにどこか胸の高鳴りを感じる。気が付けば、ジュールはアメリアの言うそんな音色に興味が湧いていた。

「なら今度俺をそこに案内してくれよ。ぜひ一度聞いてみたいな」

「うん、いいよ。でもジュールが聞いたらボルタ君と一緒で居眠りしちゃうんじゃないかな。何となく二人は似てる気がしたから」

「なんだよそれ。俺がガキっぽいって事か」

「フフフ、そうやって直ぐムキになるところが本当にそっくりね。ただ理由はよく分からなかったけど、ボルタ君はあの桃の木の(かな)でる音色をずっと前から聞きたかったみたいだよ。ジュールも実際に聞けば、何か感じるかも知れないね」

 どこか確信めいた顔つきでアメリアはジュールに告げる。彼ならばきっと自分と同じ様に、その風の囁きを女神の歌声として受け止めるに違いないのだと。そして彼女は胸のポケットから小さく折りたたまれた一枚の紙を取り出すと、それをジュールに差し出した。

「何だよ、これ?」

 ジュールは不思議そうにアメリアから受け取った紙を広げる。するとそこには一つの電話番号と、ざっくりとした場所しか示されていない不明瞭な住所が書かれていた。

「それはガルヴァーニさんの連絡先よ。何かあれば連絡を(よこ)せって言ってた。でも電話は深夜0時から朝の6時までの間しかつながらないって、付け足されたよ」

「あのジジィ、やっぱり携帯持ってたんだ! あいつ、私にすら本心では信用してないみたいだね。見た目は抜けている様に見えるけど、実際の所は呆れるくらい用心深くて、常に細心の警戒を怠りはしない。そこに書かれている住所も曖昧なものでしょ。なによりアメリアさんを介して直接ジュールに手渡すよう仕向けているのが抜かりない。ジジィのくせに、あざとい奴だよ」

 ジュールの手にする紙を横から覗き込んだアニェージが苦言を吐き捨てる。何を考えてあのジジィは行動しているのか。そもそもあのジジィは本当にグラム博士の最終定理を見つけ出すつもりがあるのだろうか。改めてアニェージはそんな事を思い返した。ただ釈然としないわだかまりを胸に残すアニェージに対し、アメリアは妙な事を付け足した。


「実はね、ボルタ君を桃の木の下で見つけた後の事なんだけど。まだその後に少し続きがあるんですよ」

「続き?」

 ジュールが訝しそうに聞き返す。

「うん。ボルタ君を見つけた事で安心したんだろうね。疲れてテレーザちゃんも寝ちゃったのよ。でもいくら子供だからって、眠った二人をガルヴァーニさん一人に背負わせるわけにはいかないじゃない。だから私がテレーザちゃんをおぶって、ガルヴァーニさんが泊まってるホテルに向かったの。でもその途中でね【お墓】に立ち寄ったのよね」

「墓?」

「そう。アダムズ拘置所のすぐ裏にある共同墓地。もう夜で気味が悪かったけど、ちょっとだけだからってガルヴァーニさんに頼まれてね。仕方なく付き合ったの」

「それで――」

 身を乗り出しながらアニェージが続きを急かす。

「私にはよく分からなかったんだけど、ガルヴァーニさんは【墓が無い】って言ってたの。初めはすごく驚いてたけど、でも妙に納得してるふうにも見えた。すごく不思議だったのよね」

「一体誰の墓の事を言ってるんだ? まさかライプニッツさんの墓か!」

 ジュールはアニェージに視線を向けながら問いかける。だがアメリアがそんな彼に否定した。

「ううん。それは違うみたいだよ。ライプニッツさんて、プルターク・モールでジュール達が話してた人でしょ。でもその人のお墓ならちゃんとあったよ。ガルヴァーニさんと一緒に私もそのお墓の前で手を合わせたから」

 要領を得ないジュールは首を捻るばかりだ。アメリアの告げた話は全て事実なのだろう。だから尚更意味が分からず彼は思い悩んだ。ガルヴァーニさんは何を最優先の目的として動いているのだろうかと。そして何を知ろうとしているのかと。表情の冴えないジュールは意気消沈するかのように心が少し萎える。ただそんな彼の暗い気持ちを察したのか。アメリアはジュールの気分を転換させるように、ガルヴァーニと交わした別れの言葉を告げた。

「最後にね、ガルヴァーニさんと別れる時なんだけど。ジュールと結婚するんだって教えたの。そしたらガルヴァーニさん、一言だけ『幸せにな』ってニッコリ微笑んで言ってくれたんだ。なんだかグラム博士に言われてるみたいで、すごく嬉しかったよ」

 アメリアはそう言って満面の笑みを浮かべる。少し照れるように顔をほのめかす彼女の表情が、ジュールにはとても綺麗なものに見えた。そしてその温かみに彼も自然と笑みを溢す。やっぱりアメリアと一緒にいると気持ちが安らぐ。そう再認識したジュールは、落ち着いた心持ちでガルヴァーニの出立を思った。

「今更だけど、手ぶらでガルヴァーニさん達をバローに帰らすのは申し訳ない気がするな。子供達にしてみれば、ルヴェリエなんて簡単に来れる場所でもないし、ちょっとした土産でも持たせてあげたかったな」

 ジュールは残念そうに口惜しむ。しかしアメリアは笑顔のまま彼に返した。

「私もそう思ってね。テレーザちゃんにだけなんだけど、私から首都に来た記念品をプレゼントしたのよ」

「プレゼント?」

「うん。昨日プルターク・モールでジュール達と会う前に、テスラ君とも会ったでしょ。彼はね、リーゼ姫に頼まれて私にブローチを渡しに来てたの。それで姫様から受け取ったそのブローチをね、すっかり寝入っちゃってたけど、テレーザちゃんにあげたんだ」

「姫様から貰ったものをあげたのか? お前、気前が良いにもほどがあるぞ。でもなんで姫様がアメリアにブローチなんか渡すんだよ?」

「実はそのブローチ、むかし私と姫様が出会った時にね、私から姫様にあげた物なんだ。それを姫様はずっと大切に持っていて下さってね。わざわざテスラ君に頼んで返しに来たのよ。せっかく姫様が返してくれた物だけど、元はと言えば私の物だから、別にいいよね」

「まぁ、アメリアが良いなら俺は何も言わないけどさ。でも目が覚めた時のテレーザの驚き様は見てみたかったな」

 ジュールはそう言って白い歯を見せた。アメリアもそれに釣られて笑う。そして微笑ましい二人の姿にアニェージまでもが笑顔になった。寝起きのテレーザが目を丸くして、アメリアのブローチを手にしている光景を思い浮かべているのだろう。三人は和む雰囲気に少しだけ心の温まる時間を共有した。だがその時、ジュールのズボンのポケットから着信を告げる端末のブザーが鳴った。

 せっかくの穏やかな一時(ひととき)に水を差しやがってと、ジュールは苦々しく端末を取り出した。そして彼は着信相手がヘルムホルツである事を確認してから通話ボタンを押す。すると端末の向こう側より、ヘルムホルツの声が勢い良く飛び出してきた。

「おいジュール、聞こえるか。少女が目を覚ましたぞ!」

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