#41 朧月の雛(後)
デービーは一瞬でも怯んでしまった自分の気持ちを振り払う様に、渾身の力を込めてジュールに剛腕を突き出した。
自分が他者に対して畏怖するなんて考えられない。俺が不覚を取ったのは、後にも先にもあの【クソジジィ】一人だけだ。
デービーは脳裏に過る苦い記憶を断ち切るかの様に、迷いなく剛腕を振り抜いた。
「ガンッ!」
デービーはその拳に十分過ぎるほどの感触を感じる。しかし彼は自分の目を疑った。いや、目の前の現状を即座に受け入れる事が出来なかった。渾身の力で叩きつけたはずの拳。それがただの人間の、ヤツから見れば線の様に細い人間の腕に、硬くガードされ受け止められていたからだ。
デービーは信じられないと目を丸くする。それでも彼はさらに拳に力を注ぎ込んだ。まるで悪夢を強引に押し退けようと足掻く様に。だが受け止められた剛腕はまったく動こうとはしない。
ジュールはそんな狂暴な攻撃を、奥歯が砕けるほど強く噛みしめながら、正面から受け止めている。体がバラバラになる様な衝撃をその身に感じ、彼は苦痛に表情を歪めた。それでもジュールは体の底から湧き上がってくる無尽蔵な力に身を委ね、強固な拳をがっちりと受け止めて離さない。
そんなジュールに向け、デービーは残った左腕で彼を殴りつける。するとジュールはその攻撃を右手一本で受け止めた。両の拳を全力で繰り出したヤツ。そしてその拳を両の掌で受け止めたジュール。拮抗するパワーバランスに両者は同じく歯を喰いしばり、表情を硬くする。
「お、俺の拳をこんなにも粗雑に受け止める人間がいるとは、考えもしなかったぜ。だが受け止めただけじゃ俺に勝てないぞ! どうする、昨夜みたいに投げ技でもしてみるか!」
デービーは拳の力を弱めずにジュールを煽る。徐々にではあるが、少しずつヤツの拳がジュールの顔面に近寄っていく。そんな状況にもかかわらず、なぜかジュールは軽く笑みを漏らした。その表情はまるで窮地を楽しんでいるかの様な、余裕さを感じさせるものだ。するとそんなジュールの表情にデービーは憤慨し声を荒げる。
「テメェ、調子に乗るなよ! これで互角に渡り合えていると思ったら大間違いだ!」
「うるさいヤツだ。醜いツラしてるくせに、その声は輪をかけて気持ち悪い。まずは喋れなくするのが先か――」
「言ってくれんじゃねえか。冗談はゴブッ!」
ジュールは受け止めていたデービーの拳を逆に引っ張り、その力を利用してヤツの顎に強烈な頭突きを入れた。衝撃が脳天に突き抜けたヤツは一歩後退する。さらに舌を噛んだせいか、ヤツは大量の血をその口から流し出した。怯みながらデービーはもう一歩後退する。
逃がしはしないとジュールは素早くデービーの懐に掻い潜った。そしてがら空きの腹に全体重を乗せた右ストレートを捻じ込む。激しい攻撃にヤツの巨体がくの字に折れ曲がった。
顔の位置が下がったヤツに対し、ジュールはたたみ掛けるよう、その顔面を殴りつける。渾身の力で幾つも繰り出された彼の拳が、次々とヤツの顔面を弾けさせた。
醜い腐った豹の顔が、一層と悍ましいものに変化していく。ヤツの呼吸は極めて荒く、立っているのがやっとだという状態だ。そんなヤツに対し、ジュールは休む暇を与えない。彼は畳み掛けるつもりで強烈な回し蹴りを浴びせた。だがその蹴りは素早く振り返ったヤツの硬い背中によって止められる。さらにヤツはジュールの繰り出したその足を掴み取り、そのまま彼を投げ飛ばした。
ジュールは観測所の壁に体を激しく打ち付ける。その衝撃の強さで息が出来ない。それでも彼は即座に立ち上がった。だがそれと同時にデービーの剛腕がジュールの腹に叩き込まれ、彼の体は観測所の壁に深くめり込んだ。
「グハッ――」
壁と拳に挟まれたジュールは夥しい血反吐を吐く。しかしヤツは攻撃の手を緩めない。まるでジュールの存在を打消したいとでも思っているのか。デービーは硬く重い剛腕を再びジュールに向け容赦なく放った。その攻撃をジュールはクロスした両腕でガードする。しかしその衝撃は凄まじく、、彼の体は背にするコンクリートの壁を突き破った。
「ズガン! バキャーン!」
吹き飛んだジュールの体は更に奥の観測所の壁に激突して止まった。しかしその衝撃で壁に設置されていた三角形の天窓が砕け散り、その破片が彼に降りかかった。
「クソっ垂れが――」
蝶番の外れた扉がお辞儀するよう滑稽に傾いている。どうやらコンクリートの壁に接していたのは観測所の男子トイレだった様だ。壁を突き破ったジュールの体はトイレの個室をも無残に破壊していたのである。そして粉々に割れた窓からは、冷たい外気が流れ込んでいた。
こんな有様じゃ、しばらく誰も用を足せないだろう。戦いに身を置きながらも、なぜかジュールはそんな事を考えた。もしまだリュザックがトイレに籠っていたなら、それこそ大変な事になっていたはずだ――。狂暴なヤツが目前に迫る中で、彼はどうでもいい事に耽り苦笑いを浮かべる。しかしジュールは流れ込んだ外気が巻き上げた埃で咽せ返った。
「ゴホッゴホッ」
咳き込むジュールの視線の先に、微動だにしないヤツがいる。ジュールの攻撃が効いているのか。いや、ヤツはジュールに渾身の一撃を加えるため、グッと力を溜めているのだ。ヤツの放つ異常な殺意にジュールは集中力を取り戻す。今は命懸けの戦いをしているのだ。目の前のヤツに集中しろ! そう意識を高める彼の右目の輝きはまだ衰えてはいない。それでも彼の受けたダメージは大きく、思うように体を動かせなかった。そしてついにヤツが動く。大きく口を開けた壁の穴から唸りを上げて迫り出した。
ジュールはヤツに対して死力を尽くし挑もうともがく。――だがその時、突然黒い影がデービーにぶち当たり、その巨体を弾き飛ばした。
「!」
唐突な様相にジュールは目を見張る。そこで彼が目にしたのは、ありったけの力でデービーにタックルを打ち込んだ猪顔のヤツの姿だった。
「あなたは早くソーニャを連れてここから逃げて!」
猪顔のヤツがジュールに向かって叫ぶ。
「あの娘は優しい子。あの娘だけは助けてあげたい。だから――ズガン!」
話途中に今度は猪顔のヤツが吹き飛ばされる。デービーが強烈な飛び蹴りを加えたのだ。
あれほどのタックルをその身に受けながら、瞬時に攻撃へと転換する身のこなし。やはりこの豹顔のヤツは今まで対戦したヤツ達とは違うんだ。吹き飛んだ猪顔のヤツは壁に頭部をめり込ませ蠢いている。これ以上豹顔のヤツの好きにさせてはダメだ。受けてばかりじゃ状況なんて打開できっこない。こっちから攻撃するんだ! そう頭で考えるよりも早く、今度はジュールが対峙する豹顔のヤツに向かって突進した。
ジュールは右目を輝かせながらヤツに猛然と突き進む。そんな彼にデービーは剛腕を無造作に振るった。空気が煽られる低い音が響く。ジュールはその腕をギリギリで避けながら、スピードを緩めずに肩からヤツに体当たりした。折り重なった二つの影が正面ロビーに戻る。
ジュールはまるでシュートでも決めるかの様に、ヤツの顔面を強く蹴り上げた。首が捩じ切れるほどの衝撃が豹顔のヤツに浴びせられる。だがデービーはその衝撃を受け止め堪えた。そしてお返しとばかりに渾身の右拳をジュールに向け放つ。
ヤツの拳がジュールの頬をかすめる。皮がめくれ鮮血が飛び散るも、構わずジュールは自分の身を捻りながらヤツの腕を掴んだ。そしてそのまま背負いに行く。だが先程ヤツの顔面を蹴り上げた影響なのか、ジュールの右足に激痛が走り力が抜けた。それでも彼は強引にヤツを投げる。だがどういう事だ。不安定な体勢で投げたはずなのに、ヤツの巨体は想像も出来ないほど軽かった。
「クソっ」
ジュールは歯がゆさを吐き捨てる。デービーはジュールに投げられると、その力に身を任せつつ自らも飛んだのだ。華麗な円弧を描きデービーは両足で着地する。そして間髪入れずにジュールの腹を蹴り上げた。
「グハッ――」
ジュールの体が吹き抜けになった観測所のホール上層へと浮き上がった。だがすぐに彼の体は重力に引き寄せられ落下を始める。ジュールは空中で身を捻るも体勢は変えられない。下では歯を喰いしばり拳に力を溜めるヤツが、落ちて来るジュールを待ち受けていた。
「このままじゃヤラれる!」
ジュールは身を硬くして構える。今の彼にはヤツの攻撃を受け止める事しか出来ない。ヤツの力の溜様からして、その破壊力は想像を絶するはずだ。そう直感するジュールの右目がさらに激しく光る。
デービーは落ちてくるジュールとの距離を冷静に見計っている。そんな豹顔のヤツは、自分自身でも驚くほどにその拳に力を溜めていた。
戦いにおいて、デービーはこれまでに全力を出した事が無い。それゆえ自分にどれほどの力があるのか、確かめきれていなかった。だが今は違う。目の前に迫る人間の男は、滾るほどに自分を熱くさせる。自分にどれほどの力が眠っているのか、やっと実証出来るのだ。胸の中でそう歓喜を叫ぶデービーは、奥歯が砕けるほどに強く噛み締めながら、一気に溜めた力を解放するようジュールに向けその掌底を突き出した。
「ボガガァーン!」
大量の血飛沫と血煙が観測所のホールに巻き散る。その中で顔面を真っ赤な鮮血で染め上げたジュールが、目に映る光景に絶句していた。
デービーの突き出した渾身の右腕。その腕が深々と突き刺さっていたのは、なんと猪顔のヤツの巨体だった。硬い背中から腹に向かってデービーの太い腕が貫いている。ヤツに共通して言える特徴だが、その背中を覆う硬い肉は爆弾でもビクともしない鎧の様なもの。幾度もヤツと対戦したジュールは身を持ってその高い防御能力を把握している。だからこそ、豹顔のヤツが繰り出した凄まじい一撃に身が強張った。だがそれ以上にジュールは、その身を犠牲にして自分の盾となった猪顔のヤツに驚きを見せた。
「お、お前。どうして」
「は、話している時間はない。あなたは早くソーニャを! あなたなら信頼できる。だから早く、お願いだから!」
夥しい量の血を吐きながら、猪顔のヤツはジュールに告げる。その瞳はあの地下道で見せたものと同じでとても澄んだものだった。だが現実はそう上手くは行かない。猪顔のヤツの背中越しから、豹顔のヤツの悍ましい声が発せられる。
「このメスブタが! せっかく楽しんでんのに水差しやがって。テメェ、俺の邪魔するのはこれで三度目だぞ。いい加減にしやがれ!」
「何度でも邪魔してやる。お前みたいな悪人がいるから、悲しむ人が大勢生まれるんだ。残念だけど、私にはお前が倒せない。でも邪魔する事くらいは出来る。それで救える命があるのなら――」
猪顔のヤツは腹から突き出た豹顔のヤツの腕をガッと掴む。そして自からその腕を引っ張り、簡単には抜けないよう抑え込んだ。
「テメェ、何しやがる!」
怒り狂ったデービーが猪顔のヤツの背中を叩き上げる。それでも猪顔のヤツは必死に耐えた。
「は、早く、行って……」
猪顔のヤツは決死の想いを命懸けで自分に伝えようとしている。ジュールは何も出来ない自分自身に遣る瀬なさと忸怩たる想いで胸が張り裂けそうになった。それでも彼はヤツの覚悟を無駄にしてはいけないと、歯がゆくも振り返った。
ジュールはホールの隅で倒れ込んでいる少女の所へ向かう。体の震えこそ収まってはいるが、彼女はまだ立てそうにない。そう判断したジュールは少女を背負う。そして彼はすぐ近くに蹲っているノーベルを一視した。ナイフの傷跡を必死に抑えて身を窄めているノーベルの姿がとても矮小なものに見える。なぜ急にこの青年は変わってしまったのか。
だが今はそんな事を考えている時間じゃない。振り返ったジュールは一瞬だけ猪顔のヤツに視線を向けた。未だにヤツは腹から突き出たデービーの腕を掴み抑え込んでいる。そんな猪顔のヤツが無言でジュールに向かって頷く。それを見たジュールは少女を背負いながら観測所の出口へと足を向けた。すると彼の背中で衰弱したソーニャが猪顔のヤツに向かい一言呟いた。
「【ラウラ】――」
正面ゲートを潜り出口へと駆けるジュールは、去り際に目にした火災報知機のスイッチを咄嗟に押した。警報ベルが騒然と鳴り響く。そしてその大音量は観測所の外にも響き渡った。これなら否応なく観測所に人の目が向く。もちろん消防隊が駆け付けでもすれば、さらに騒ぎは大きくなるだろう。そうすれば隙も生まれ逃げ易くなるはずだ。
ジュールはボロボロになった体で観測所を後にする。そしてその背中で少女は完全に気を失っていた。
少女を背負ったジュールが観測所を駆け出ると、そこにアニェージとリュザックが走り寄って来た。アニェージの驚異的な跳躍で観測所を脱出した二人だったが、見た目に外傷は見受けられない。着地も無事だったのだろう。それでもジュールは顔色の冴えないアニェージに向かい体を気遣った。
「体は大丈夫か、アニェージ。昨日あれだけの傷を負ったんだ。無茶はよせ」
「ハッ、血だらけのお前に言われる筋合いはないね。見た目じゃお前、生きているのが不思議な恰好してるよ」
全身を真っ赤に染めたジュールの姿にアニェージが鋭く突っ込む。そしてリュザックは痛々しい彼の姿に目を細めていた。そんな二人に対してジュールは強く指示する。
「とりあえず逃げるぞ! どうにか猪顔のヤツが抑えてくれている。急いでここから遠くに離れるんだ!」
「バカを言うな! 昨日仕留めきれなかったヤツにまた出会えたんだ。私はヤツを殺す為に生きているんだよ! やっと見つけたんだ。黙って退くなんて出来ないね!」
「ダメだ! 豹顔のヤツの強さはハンパない。ただでさえ今は何の備えもしていないんだ。今ヤツに挑むのは無謀としか言い様がないよ。ここは堪えるんだ、アニェージ!」
「……」
苦虫を噛み潰した様な表情でアニェージは無念さを露わにする。本心では彼女も理解しているのだ。今ここで無理にヤツと対峙したとて、勝てる見込みは一片も無いのだと。それでも彼女の気持ちは収まりを見せない。相当な執念がアニェージからは感じ取れる。一体彼女とヤツの間に何があったというのだろうか。その態度からはとても論文を強奪だれただけが理由とは考えられない。
だが今はそんな事に気を留めている時間はないのだ。こうしている間にも、豹顔のヤツが観測所の外に飛び出して来るかも知れないのだから。ジュールは歯がゆくも募る感情を押し殺すアニェージに向け、今度は少し穏やかに指示した。
「あんたがどうしてヤツに対して強く執着するかは知らない。でも今はこの娘を安全な場所に移動するのが重要なんだ。俺達しかこの娘を守れない。だから我慢してくれ。それに今ここで無理にヤツと戦わなくても、あいつとはいつか必ず決着を付ける時が来るはず。当たっては欲しくないけど、俺にはそんな確信めいた予感がするよ。だから」
「分かった。もうそれ以上は言わなくていい。お前の言ってる事の方が正しいのは分かってる。今はその娘の安全を確保するのが先決だよね。――行こう」
悔いの残る面持ちを浮かべながらもアニェージは駆け出す。思いのほか彼女は状況を冷静に判断しているみたいだ。ジュールはホッと胸を撫で下ろす。そんな彼に向かい、リュザックが手を差し伸べながら言った。
「怒ったアニェージちゃんもなかなか素敵だでな。ほれジュール、背中の娘は俺が背負うき。早よアニェージちゃんを追うぜよ。それにしてもお前、その体で本当に大丈夫だきか?」
ボロボロのジュールの姿は見るに堪えないものがある。リュザックは痛々しい彼を気に掛けながら少女の身を抱き上げた。するとジュールはリュザックに軽く微笑みを向ける。その姿になぜか思わずゾッとしたリュザックは、それ以上ジュールに何も言わなかった。
観測所の駐車場へと向かったジュール達はアニェージの車に乗り込んだ。ハンドルを握るアニェージが車を急発進させる。猛スピードで駐車場から出た車は、さらにスピードを加速させて首都の街並みを駆け抜けて走った。
「どこに行くんだ!」
助手席に身を預けるジュールがアニェージに問い掛ける。しかし彼女は鬱憤を晴らすかの様に強く怒鳴った。
「黙って。今は運転に集中している」
車は首都を北に向かい疾走している。するとどこか遠くで響くサイレンの音が聞こえた。ジュールの押した火災報知機の影響で、消防隊が発車したのだろうか。アニェージは交通量の少ない裏道をうまく利用しながら車を進めていく。消防隊や警察隊との無用な接触を避けようとしているのだ。そして彼女は観測所から離れるほどに、車のスピードを徐々に緩めていった。アカデメイアは首都ルヴェリエの至るところに目を忍ばせている。下手に車を暴走させて、無暗に人の気を引いてもメリットは皆無だ。自然に街に溶け込みながら車は進む。熱くなっているはずなのに、アニェージはそれを行動に出しはしない。ジュールは胸の内でそれを感服していた。
ほどなくすると、車は高級ホテルが数件建ち並ぶエリアに差し掛かった。巨大な高層ホテルが煌びやかに光を灯し堂々とした姿を佇ませている。一番安い部屋でも、一泊したらどれほどの料金を取られるのだろうか。ジュールは輝くホテルを眺めながらそんな事を思う。そう、ここは首都の中でも格式の高い者達しか訪れない特別な場所なのだ。だがどうしてこんな場所に来たのだろうか。単にアニェージが道に迷っただけなのか。ただジュールは自分達にとって、ここが少し場違いな所なのではないかと危惧した。しかしそんな彼の不安をあざ笑うかの様に、車は一つのホテルの地下駐車場に入って行く。
「おいおい。いくら身を隠す為だからって、こんな所に入っちゃまずいだろ」
「うあぁぁぁ!」
後部座席より少女が突然呻き声を上げた。体調が急変したのだろうか。さらに少女は手足をバタつかせ暴れ始める。隣に座るリュザックがそれを懸命に抑え込んだ。
「うおっ、すごい力だでな! 早く落ち着かせんと、こっちの身がもたんがよ」
「アニェージ! 早くどこか体を休ませられる所に行こう。こんな不相応な場所にいても仕方ない」
「黙っててって言ってるでしょ!」
そう声を上げたアニェージは、地下3階の駐車場入口ゲート手前で車を一旦止めた。ゲートは強固な鉄筋の遮断機によって閉じられている。アニェージはエンジンを切らぬまま車を降りると、ゲート脇に設置された小さなディスプレイに触れ、何やら操作を始めた。さらに彼女は懐から何かのカードを取り出すと、それをディスプレイにかざし付ける。
「ギュイィーン」
駐車場への入り口を閉ざしていた遮断機が一気に上昇した。車へと戻ったアニェージはそのまま平然と進み駐車場の奥へと向かう。そしてエレベータの乗り口に一番近い場所に車を止めて彼女は言った。
「表だって公表はしてないけど、このホテルはシュレーディンガーの資本が注入されたホテルなんだよ。ヘタな場所に潜伏するよりも、ここは十分に安全が約束されている。なにせ私が寝泊りしている場所だからね」
アニェージに促されながらジュール達はエレベータへと乗り込む。そして彼女はエレベータに設置された小さなディスプレイに、またもカードを押し当てた。するとエレベータは上昇を始める。だがいくら上昇しても、不思議な事に階層を表示するはずのディスプレイには何も映し出されない。それでもかなり長い時間エレベータは上昇し続けた。
ようやく停止したエレベータからジュール達は外へと出る。高級なホテルらしく、そこは廊下全面に高価な絨毯が敷き詰められていた。
左右に伸びる廊下のそれぞれの正面に扉が見える。どうやらこの階には二つしか部屋がないらしい。右の扉へと向かい出したアニェージに遅れまいと、ジュールと少女を背負ったリュザックがついて行く。扉の横にはまたも小さなディスプレイが備えつけられており、案の定アニェージはそこにカードを押し付けた。
「カチャ」
アニェージがロックの解除された扉を開く。ロック解除と連動しているのか。扉を開けるのと同時に部屋に薄らとした照明が灯った。
「うぉ、なんだここは!」
ジュールは目の前の光景に絶句する。彼が目にしたのは、首都ルヴェリエの夜景が一望に出来る、超高層階からの景色であった。さらにジュールは訪れたこの部屋の雅やかさと広さにも目を見張った。
「驚いた? ここはこのホテルの中でも2番目に広いスイートルームだよ。お前みたいなチンケな軍隊士の給料じゃ、縁のない場所だろうけどね」
そう言ってアニェージは部屋の奥へと姿を消してゆく。
「おいジュール、手を貸すき! この娘、相当な力だでよ」
大きめなソファに少女を寝かせたリュザックがその身を抑えつけている。少女の体調は先程よりも悪化している様に見受けられた。言われるがまま、ジュールは暴れるソーニャの肩を抑える。確かに結構な力だ。ニュースではソーニャの事を一流の水泳選手だと言っていたが、それにしてもこの力強さは並みのアスリートの力を凌駕するものに思える。ジュールは悶え苦しむソーニャの表情を垣間見ながら、胸の奥に嫌悪感を抱いた。そんな彼のもとに注射器を手にしたアニェージが戻って来る。
「鎮静剤を投与するよ。二人はしっかりその子の体を抑え込んで」
アニェージは慣れた手つきでソーニャの腕に鎮静剤を打ち込む。しばらくすると、暴れていた少女は嘘の様に静まった。それを確認したアニェージがホッと息を吐く。どの程度鎮静剤の効果が続くかは分からないが、一先ずは休めるだろう。アニェージは落ち着いたソーニャに優しい眼差しを向ける。そして彼女は二人に告げた。
「とりあえず様子を見るしかないね。リュザック、あんたはそのまま少女を見張っててよ。ジュールはその血を洗い流して。着替えは適当に用意するからさ。そのナリじゃ、いざって時に目立ち過ぎるでしょ。シャワーはそっちにあるから」
「悪いな、アニェージ。助かるよ。でもこれから俺達、どうすればいいんだろうな?」
「アイザック総司令に連絡を取ってみる。シュレーディンガーを介せば連絡は取れるはずだからね。そっちは私に任せて、お前は早くシャワーを浴びて来なよ。その恰好で目の前をうろつかれると気分が悪くなるからね」
彼女に即されるがままジュールはシャワー室へと向かう。だが彼は唐突に起きた観測所での事態に今更ながら体が震えた。豹顔のヤツの恐るべき強さに。猪顔のヤツの身を呈した優しさに。性格を急変させたノーベルの態度に。そして何より絶体絶命の窮地に追いやられたにも関わらず、むしろその危機を楽しむが如く心が歓喜した自分自身に背中が泡立ったのだ。
(クソっ、何がどうなってんだ――)
熱いシャワーに打たれながら、ジュールは一人胸の中で当惑する不安を嘆いていた。
全身にこびり付いた血が洗い流されてゆく。ジュールはまだ体のあちこちに耐え難い痛みを感じていたが、体を隅々まで摩りながらどの程度の外傷があるかを確かめた。だが驚くことに、ヤツから受けた外傷はそのほとんどが癒えていた。その驚異的な回復力に改めてジュールは目を見張る。生身の体にあれほどの衝撃を受けたにも関わらず、彼の体には掠り傷程度しかダメージが残っていのだ。しかしジュールはそんな奇妙とも言える特異な体質を心ならずも受け入れ始める。幾度となく死線を乗り越え、その驚異的な身体能力を発揮しはじめた彼は、もう体が傷付く事に慣れてしまったのだ。それにどんなに致命的な重傷を負ったとしても、その傷は瞬く間に治ってしまう。それを一々驚いたところで余計に疲れるだけだ。それにその異質とも呼べる体質は、今のところ自分にとって何一つ不利な要因はない。むしろ今はそれを有効に利用し、恐れる事なく前に踏み出せばいいんだ。誰に背中を押される必要もなく――。ジュールは決意を新たにしてシャワー室を後にした。
着替えが無い為に仕方なく、ジュールは部屋に用意されていたバスローブを身に付ける。リビングに戻ると意識の無いソーニャの傍らでリュザックが伏せる形で眠っていた。
(さすがに退院後すぐに今日みたいなドタバタに巻き揉まれたんじゃ、疲れも溜まるよな)
ジュールは静かに眠る二人に何か掛けられる物がないか探す。しかし近くにそれらしい物がなかったため、彼は奥の部屋へと足を進めた。
なんとなく寝室はこっちだろうと勘を働かせた彼は、それらしき部屋の扉を開く。するとそこには大きなベットが2つ置かれており、そのうちの1つにアニェージが腰掛けていた。
「ここは女性の滞在している部屋なんだよ。ノックくらいするのが常識じゃない?」
「ご、ごめん。眠っちまったリュザックさん達に何か掛けてやる物がないか探してたんだ」
恐縮しながらジュールは平謝りするも、注射器を手にしているアニェージの姿に注視する。そんなジュールに構う素振りも見せず、アニェージは自らの腕に注射器の針を刺した。
ソーニャに打ち込んだものと同じ鎮静剤なのだろうか。不思議そうに見つめているジュールに対し、淡々と作業を終わらせたアニェージは、後片付けをしながら面倒臭そうに呟いた。
「今更隠す事でもないけど、私の両足は義足なんだよ。普段から痛み止めは欠かせないんだけど、今日みたく激しい戦闘行為を行った後はさらに痛みが酷くてさ。こうして鎮静剤を打ち込まないと耐えられないんだよね」
そう寂しそうに語るアニェージの姿が切なく見える。ジュールはそんな彼女になんて声を掛ければ良いか思い浮かばず言葉に詰まった。ジュールただ決まり悪そうに佇むしかない。アニェージはそんな彼を一視するも、構わずクローゼットに足を向けた。どうやら彼女は毛布を取出そうとしているみたいだ。そしてアニェージは作業を続けながらジュールに言った。
「その様子からすると、お前の体は問題なさそうだね。まったくもって化け物じみてるね。お前は一体【何者】なんだよ? でもまぁ、私はそんなお前が少し羨ましいな。出来れば私もこんな痛みとは永遠におさらばしたいからさ」
「そう簡単に言うなよ。これでも色々と悩みはあるんだから」
「まぁ、そうだろうね。普通じゃないだけに、他人には言えない心の疼きがあって当然だろうからね」
アニェージはそう言って軽く笑みを浮かべた。彼女がジュールの体を不審に感じているのは事実のはず。けれど彼女はそれをあえて深堀りしようとはしなかった。彼女なりの配慮なのであろう。ただジュールはそんな彼女の気遣いに気付く事なく、これからの事を聞き尋ねた。
「総司令とは連絡が着いたのか?」
「ううん、直接話は出来なかった。でもヘルムホルツの奴と繋がったから、直にお前の着替えを用意してここに来るはずだよ。それまではゆっくり休んでなよね。いくら丈夫な体をしているからって、不死身って訳じゃないんでしょ?」
「でもさ、やっぱり用心しないと」
「先にも言ったけど、このホテルはシュレーディンガーの所有物なんだよ。だからここは部外者が簡単に入って来れる場所じゃないの。それに何かあればすぐにフロントから連絡が来るし、そもそもこの部屋には私達の乗ったエレベータでしか辿り着けない構造になっているのよ。もちろん盗聴とかの心配も皆無だしね。例えるならここは、治外法権が確立した小さな大使館の様な場所なんだよ。だからお前は安心して体を休ませればいい」
三人分の毛布を取り出したアニェージが、それをジュールに差し出す。
「裏ではキナ臭い仕事に手を染めてるけど、表向き私はシュレーディンガー社長の私設秘書という肩書をもっているの。だからこんな場所に身を匿えているんだよ。だからもしホテルのスタッフがいる前で私に話掛ける時は、その立場を弁えてよね」
そこまで口にしたアニェージだが、突然力が抜けたかの様にジュールにその体を預けた。思わす彼は毛布を手放し、傾く彼女の体を抱き止める。細身に見えるその体は、思いのほか筋肉のついた硬い感触を感じさせた。
「だ、大丈夫かよ。あんたの方こそ、少し休んだ方がいいぞ。昨日から無茶しっぱなしなんだからさ」
「よ、余計なお世話だよ。離せ――」
身を捩ってアニェージは足掻く。だが力の入らない腕で必死にジュールの体を突き放そうとするも、疲労の溜まった彼女の体は言う事を聞かなかった。そんなアニェージの体を徐にジュールは抱き上げる。そしてベッドへとその細い体を優しく運んだ。
「や、やめてよ。自分で歩ける。離して!」
アニェージは顔を真っ赤に染め上げながら抵抗する。だがジュールは構わずに彼女を抱きかかえたまま進んだ。そしてゆっくりとアニェージをベッドに腰掛けさせる。すると彼女は恥ずかしそうに顔を背けながらも、ジュールが身に着けたバスローブをきつく握りしめて弱音を漏らした。
「情けない。お前だけには世話にはなりたくなかった。けどそうも言ってられないくらい、私の体は弱っているんだね。――悔しいよ。出来るならば私も男に生まれて来たかった。強く戦える体をもって。でもいくら性格や口調を男っぽくしても、結局私は女なんだよ。お前と戦場で肩を並べると、それを嫌というほど痛感してしまう。ほんと、遣り切れないな」
「でもアニェージがいたから、俺達は無事でいられたんだ。あんたは強い。性別なんて関係ないよ」
「それは頑丈な体を持った男の理屈だよ。それにもしお前がこの足と同じもの持っていたとしたら、もっと効果的に能力を発揮できるはず。私にはそう思えてならない。だからつい私はお前を罵ってしまうんだよ。醜い嫉妬にかられてね。そしてその後に歯がゆさだけが胸の奥に残るの。地下道の時もそうだけど、結果的に私はお前に助けられっぱなしだからさ。チェ」
ジュールに体を預けながらアニェージは悔しさを滲ませた。伏せた瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだ。理由はどうあれ、戦う事を定められた彼女にとって、他人に弱みをさらけ出すことなど有り得ないはず。しかし心身共に疲れ切った今の彼女には堪えられなかったのだろう。萎えた心を露呈させたアニェージの体は微かに震えている。そんな彼女の体と直接触れ合うジュールは、強くその体を抱き止める事しか出来なかった。
「アニェージ……」
「フッ。弱いモンだね、女っていうのは。強がっていても、肝心な時には誰かを頼ってしまう。ううん違う。それは性別のせいにしている私自身の弱さなんだよね。諦めたくないけど、こればかりは仕方ないのよ。体は機械で継ぎ足せても、亀裂の入った心は簡単に埋め戻せないから」
そう言ったアニェージはジュールに気丈にも笑顔を見せた。彼にはその表情がとても哀しいものに見えたが、逆にこの上なく綺麗なものにも見えた。胸を突かれたジュールは意味もなく戸惑いを見せる。するとアニェージはそんな彼の仕草を滑稽に感じたのか、含み笑いをしながらジュールに告げた。
「フフフ、私の泣き言なんか気にしないでよね。鎮静剤が効いて上手く頭が回らないんだよ。でも少し気分が晴れた気がするのは確かかな。たまには愚痴を溢すのも悪くないみたいだね。――それにしても、こんな場所をお前の彼女に目撃されたら、修羅場になるのは避けられないな」
「ハハッ、確かにそうかもな。でもアメリアなら、現状のあんたを放っとく事の方に怒りそうなもんだよ。傷付いた女性を労わらない男なんて最低だって感じにね」
「確かに、彼女ならそう言いそうね」
お互いに微笑みながらジュールとアニェージは視線を交わす。まだ出会って数日しかたっていないというのに、どこか長い付き合いの親友の様な感じがする。これも互いに窮地を乗り越えたからなのだろうか。ただ表情を少しだけ厳しいものに変えたジュールが、ベッドの片隅に腰を下ろしながら彼女に呟いた。
「事態は予想だにしない展開になっちまったけど、逆に確信が持てた事もある。あの天体観測所に何かが隠されているって事がね。それが博士の最終定理にどう関係するかは分からないけど、少なくともアカデメイアとは繋がりがありそうだ。徹底的に洗い出す必要がある。今度はしっかりと装備を整えて行こう。けど――」
ジュールの脳裏に豹顔のヤツの姿が浮かぶ。例え万全の装備を施し挑んだとしても、果たしてヤツに勝てるだろうか。そう思う彼の拳が僅かに震えた。するとアニェージが温和な声で彼に語り掛ける。まるでジュールを温かく包み込むように。
「一旦ヤツの事は忘れよう。今大切なのはあの少女の容体を回復させて、話を聞く事なんだから。あの少女はきっと重要な手掛かりを握っているはず。今は情報を集める段階なのよ。それでもいつか戦わなければならない時は必ず来る。だからお前はその時に備えて、しっかりと体を回復させておけばいいんだ。分かったかい」
「フッ、どっかで聞いたセリフだな。でもその通りだよな。現状は分からない事が多過ぎる。ヘタに動けば身を危険に晒すだけだ。血の気が多い女だと思っていたけど、あんた意外と冷静なんだね。見直したよ」
「ケッ。ジュールに褒められても嬉しくないな」
そう強がってはいるものの、アニェージは満更でもないよう表情を綻ばせた。そしてジュールもまた、同様に微笑んで見せた。
リビングへと戻ったジュールは寝入っているリュザックとソーニャにそっと毛布を掛ける。そして自分もソファに腰掛け、毛布で身を包んだ。すると彼は猛烈な眠気に落ちて行く。観測所での激闘の疲れが一気に押し寄せたのだろう。
ほんの一時の安らぎに身を委ねるジュール。まるでこれが最後の康寧であるかの様に、彼は深い眠りへと落ちて行った。