#39 朧月の雛(前)
ジュール達一行は再び天体観測所を訪れていた。プルターク・モールでガルヴァーニらと別れた後、彼はどことなく気掛かりだった観測所に再び向かおうと進言していたのだ。そんなジュールの提案にアニェージは二つ返事で同意する。ジュールの違和感とは別に、アニェージもまた観測所が気になっていたのだった。
これはジュールも薄々感じていた事だが、どうやらアニェージも博士の残したキーワードの後半部分が、天体観測所の【何か】を示唆しているのに違いないと思案していたのだろう。そして彼女は観測所の更なる調査が必要だと考え、皆を乗せた車を自ら運転し再び観測所を目指したのだった。
ほどなくして観測所に着いたジュールは、やはりこの場所から意味不明な違和感を感じて背中を泡立たせる。なぜそんな奇妙な感覚を覚えるのか。依然として要領を得ない彼は、人知れず心の震えを感じた。それでもジュールは先頭に立ち歩みを進める。
観測所へ入館したジュールは周囲に気を配り、どこかに変化がないか注意深く観察した。すでに夕刻が近い時間の為、昼に来場した時よりも客の数はかなり減っている。ただそれ以外の見た目には何の変化も感じられない。
(気のせいなのか……でも)
目にした現実と乖離する自分の気持ちに、ジュールの胸の内の違和感は収まるどころか益々高まってゆく。だがその時だった。ジュールの肩を背後からリュザックが唐突に掴んだのだ。
ジュールはギョッと振り返る。不安を覚えていたから余計に驚いたのだろう。それに鋭い洞察力が強みのリュザックからのアクションだ。何かを発見したのかも知れない。ただそこでジュールの目にしたリュザックの姿は、先に観測所を訪れた時と同じでとても弱り果てたものだった。
「ど、どうしたんですかリュザックさん。また気分が悪くなったんですか?」
するとリュザックはジュールの肩を掴んだまま、青白い表情を浮かべて弱々しく答えた。
「済まんき。ちょっくらまたトイレ行って来るがよ」
相当に体調が悪いのは彼の姿を見れば一目瞭然だ。ただそんなリュザックに対してアニェージが少し冷たく嘲た。
「そう言えばお前、まだ居たんだ。ショッピングモールじゃ、まったく存在感なかったよ。人混みに紛れて逃げ出したのかと思っていたのに、律儀にも着いて来てたんだね」
嫌味の込められたアニェージの言葉に、リュザックは少し苦笑いを浮かべて返す。
「プルターク・モールじゃ吐き気を堪えるので必死だったき、大人しくしとっただけだがよ。けんど休む間もなく、あんたの刺激的な運転で胸が詰まる思いがするきね。お陰で上からも下からも止め処なく色んなモンが出てきそうだで。まさかこれが噂に聞く恋っちゅうやつかいな。ウプッ」
「御託はいいから早く行きなよ。鬱陶しい奴だな」
そうアニェージに虐げられたリュザックは、腰を屈めながらゆっくりとトイレに向かい歩いて行った。
「まったく何なんだよ、あいつは。足手まといにしかなってないぞ」
「まぁ、そう目くじら立てるなよ。体調が悪いんだから仕方ないだろ。さぁ、俺たちは調査を始めようぜ」
悪態つくアニェージを宥つつ、ジュールは観測所の調査を再開した。
二手に別れ調査を行ったジュールとアニェージは、事前に申し合わせていた観測所の出入り口近くで合流した。そして二人はお互いの調査結果を持ち寄る。だがやはり、不審な場所はどこにも見つけられなかった。
「おかしいな。この施設全体からどこか怪しい雰囲気を感じるのに、それが何なのかまったく分からない。俺が気にし過ぎてるだけなのか。なぁアニェージ、あんたは何も感じないのか?」
ジュールは訝しく首を捻りながらアニェージに問いかける。すると腕組みをして考え込んでいたアニェージは、ジュールの問い掛けに同調するよう頷きながら答えたのだった。
「この場所がどこか府に落ちないというのは同感だね。グラム博士のキーワードに示される内角180度っていうのは、三角形を示しているはず。そしてこの場所にはこれでもかってくらい三角形が溢れ返っている。何も無い方がむしろ怪しい。それなのに変わった所一つ見つけられないんだからね。私達は勘違いでもしているのかな。それとも博士の絵画の中に見落とした何かがあったのか?」
アニェージも思い悩んでいる。手掛かりの糸口さえ見えない状況に、ジュールは縋る様にグラム博士のノートを取り出した。そして何かヒントらしきものが記されていないか目を通してゆく。するとジュールはガルヴァーニが書き綴ったキーワードに視線を置いた。
『r=12.90』
老人がスラムの部屋に掲げられた絵画より見つけ出した意味不明なキーワード。博士が3月の論文に残した文章以外で、手掛かりになるのはこのキーワードだけだ。そんな意味不明な文字列を眺めていたジュールは、ふとアニェージに疑問を投げかけた。
「もしかして三角形ってやつに俺達は早とちりしてるんじゃないのか? このキーワードなんだけど、【r】って一般的には【半径】を意味する略語だよな。もしかして円とか球体を指しているのかも」
「確かにそれは考えられる。でもどこか半径12.90の場所ってある? それにもう一つ疑問も浮かぶかな。仮にそれがお前の言う様に円弧を示す場所だったとして、その大きさが分からない。せめて単位だけでも知りたいところだね」
僅かな突破口の切っ掛けを抉じ開けたいところであるが、変わらず活路を見出すには至らない。思いあぐねたジュールは気分を変えようと、少し話題を替えて再びアニェージに質問した。
「ガルヴァーニさんがグラム博士から受け取ったこのノートだけどさ。元々の持ち主はライプニッツさんだったんだろ。でもガルヴァーニさんは確か、博士はこのノートをライプニッツさんじゃない、別の誰かから受け取ったって言ってた。あんたはそれが誰だったか知っているのか?」
ジュールはノートを顔の高さに掲げて尋ねる。するとアニェージの口から思いもよらぬ人物の名が発せられた。
「あぁ、詳しい調査はまだしてないけど、それなら知ってるよ。当時はまだ都立大学に通う学生だったみたいだけど、今は王立協会に所属する正式な科学者さ。確か名前は【ウォラストン】とか言ったはずだよ」
「ウォ、ウォラストンだって!」
「なんだジュール。お前、ウォラストンを知っているのか?」
驚愕の表情を浮かべながら反射的に声を上げるジュールにアニェージが詰め寄る。ただウォラストンの名を聞いたジュールは酷く動揺を露わにしていた。それでも乱れる気持ちを落ち着かせようと彼は深く深呼吸をする。そして絞り出しながらアニェージに向かい一言告げた。
「ウォラストンは、俺達が一番初めに倒した【豚顔のヤツ】の本当の姿だ」
「何だと!」
ジュールの返答に、今度はアニェージが目を丸くする。
「ウォラストンは博士やファラデー隊長達と一緒に、国王暗殺を計画したメンバーの一人なんだ。だけど計画の途中で起きた不測の事態の中で、仲間を守る為に自分からヤツの姿になって暴挙したんだよ」
「ならすでにウォラストンは死んでいるって事なの!?。それもお前らの手に掛かって。嘘でしょ、せっかくの貴重な手掛かりを自分で殺しちゃうなんて、勘弁してほしいよ」
「仕方ないじゃないか! あの時はまだ何も知らなかったんだ。俺達は軍の命令で、狂暴な化け物を倒す――それだけに集中していただけなんだよ。何も知らなかったんだ、何も……」
彼はあの月夜の戦場で相対したヤツを思い出す。まだあの時は対峙するヤツが誕生した哀しい事実を知らなかった。それでもヤツが、ウォラストンが何かを訴えかける視線で自分を見つめた事を思い出し、彼は胸の締め付けられる息苦しさを覚えた。
(ウォラストンは俺なら、俺にならいずれ分かると最後に言っていた。彼は俺がグラム博士の息子だと知ったからこそ、あんな事を口にしたはず。ウォラストン、あんたは何を知っていたんだよ――)
新たに浮き彫りになった現実に、ジュールは声を詰まらせ何も言えなくなる。そしてそんな彼を前にしたアニェージもまた、黙り込むしかなかった。
彼女はシュレーディンガーがウォラストンの名を自分に告げた時の事を思い出す。その時の彼の表情は非常に硬いものであった。どうしてボスはそんな表情をしたのか。今になって思えば、どことなくシュレーディンガーの態度には不審な素振りがあった。
(ボスはまだ、私に隠している何か重要な秘密を抱えている……)
そんな考えに浸るアニェージは収まりのつかない憤りを感じる。込み上げる鬱憤を晴らすために、手掛かりを消し去ったジュールを激しく罵りたい。しかしそれをしたところで何も解決しないのは明白であり、そもそもそれが酷な仕打ちだというのも理解している。ジュールはただ、命令に従っただけなのだから。
お互いの胸の内に忸怩たる思いが鬱積し、二人はまるで重苦しい心情に押し潰されるかの様な息苦しさを感じていた。
まったく先に進めない頓挫した状況に、少しの間二人は無言で立ち尽くしていた。そんな行き詰まった感の漂う中で、ジュールはふとアニェージの後方に置かれている【ある物】に視線を向ける。それは先に観測所を訪れた際、一度気に留めた等身大の人物像であった。
ジュールは見えない力で引き寄せられるよう、その像の前まで足を運ぶ。そして正面ゲートの隅に存在感なくひっそりと置かれたその像を前にして、ジュールは胸に込み上げる微かな熱い感情を覚えた。
「まさかこんな風に再会するなんて思わなかったよ、ライプニッツさん。それにあなたが天体観測所の所長だったなんて。博士は何も言ってなかったし、驚いたよ」
ジュールは像に向かい一人語りかける。そしてライプニッツとお喋りした昔を思い出し、少しだけではあるが懐かしい温和な気分に浸った。
改めて銅像を良く見てみると、その表情はライプニッツの人柄を映し出す様に柔らかく微笑んでいる。まるでジュールがこの観測所を訪れた事に喜んでいるみたいだ。そんなライプニッツの像を前に、気を引き締め直そうと意気込むジュール。だが彼は銅像脇に備え付けられた、ライプニッツを紹介するパネルを見て目を疑った。なんとそのパネルにはこう記されていたのだ。
『アダムズ天体物理観測所 初代館長ライプニッツ 主な功績:ゼノン双子彗星第一発見者』
急ぎアニェージを呼び寄せたジュールは、血相を変えて彼女に問う。
「どういう事なんだ? ゼノン双子彗星を発見したのはアルベルト国王だったんじゃないのか」
「私にだって分からないよ。でもガルヴァーニの奴が嘘をついたとは考え辛い。あのジジィは冗談こそ吐くものの、嘘は言わないからね。単にジジィの勘違いか、あるいは――」
ジュール同様、得体の知れない状況にアニェージは不快感を露わにする。そして彼女はジュールに向かい、直感として脳裏に過ぎった疑念を打ち明けた。
「あのクソジジィは性格的に受け入れ難い奴だけど、それでも信用に足りる者であるのは確かなんだ。とすれば、ライプニッツが彗星の第一発見者であることの方が疑わしい。ならどうして国王じゃなくてライプニッツなのか。これじゃまるで、国王が彗星を発見したのを隠してるみたいじゃないか」
「そうしなければいけない理由が、何かしらあるということ――か」
ジュールの呟きにアニェージは頷く。そして彼女は小さく囁いた。
「国王の命を受けた裏組織の陰謀――」
ちょうどその時、二人に近づく足音が聞こえた。身を竦ませる様にして二人は振り返る。そこで目にしたのは灰色のスーツに身を包んだ一人の青年であり、その男性は二人に向かいゆっくりと歩み寄って来た。
顔つきからしてジュールと同じ年頃であろうか。少し細身で小柄なその青年は、やんわりとした笑顔を浮かべながら二人に近寄って来る。ただジュールはそんな青年の表情を見て察した。彼はアダムズ王国の者ではないと。水色の瞳がパーシヴァル人の特徴に似ていたからだ。だが彼の直感はそれを否定する。そしてジュールは青年に対し少しだけ身構えた。しかし柔らかく微笑むその青年の表情からは、決して不審さは感じない。それでもジュールは自分達に近づいて来るこの青年から妙な胸騒ぎを覚えて仕方なかった。ただそんな彼の心配をよそに、青年は二人の前まで来ると陽気な声を掛けて来た。
「仲の良さそうなことで。デートですか?」
そんな意図しない青年の発言に思わずアニェージが強く否定する。
「バカな! 私とこいつのどこが恋人同士に見えるんだよ! 目が腐ってるんじゃないの。ただの冷やかしなら蹴り飛ばすよ! それよりお前は誰だ? いきなり馴れ馴れしく声掛けるなんて失礼だろ」
アニェージは少し顔を赤くしながら青年に対して声を荒げた。ジュールは何もそこまで強く言葉を浴びせなくてもと思う。しかし青年が何者なのか気になる事に変わりはなく、彼はその反応を見守った。
青年はアニェージに捲し立てられた事に驚いたのか。少し戸惑う素振りを見せている。それでも彼はすぐに微笑みを浮かべ直し、二人に対して穏やかに告げた。
「それはそれは、気に障ったのなら謝りますよ。ただお見掛けしたところ、とても仲が良さそうに見えましたので、つい声を掛けてしまいました。僕は仲睦まじいカップルの姿がとても好きなんです。そしてこの観測所を訪れたカップルがより一層仲を深められるよう、僕はお客様に直接満足度を伺っているんですよ。申し遅れました。僕はこのアダムズ天体物理観測所の所長代理を務めております【ノーベル】と言います」
そう自己紹介した所長代理は、年齢に見合わず非常に落ち着いた雰囲気を醸し出している。若いなりにも所長代理を務めるほどの者というのは、やはりこういった見栄えの良い品格を持ち合わせるものなのだろうか。ジュールはそれほど歳の変わらぬであろう、その青年を感心する思いで見つめた。ただ彼は当初感じた疑問を思わず口にしてしまう。
「あんた俺と同じくらいの歳に見えるけど、随分としっかりしてるな。この歳で所長代理なんて、相当出来る方なんだろう。頭が下がりますよ。ところでノーベルさん。あんた、アダムズ人じゃないですよね。出身はどこです?」
ジュールの不意な質問にノーベルは一瞬表情を曇らせる。それでも彼はすぐに元の笑顔に戻り答えた。
「やっぱりこの青い瞳が気になりますか? よくパーシヴァル人に間違われるんですけど、それは間違いです。僕はずっと北にある【小さな国】の出身ですので」
「北の国?」
「はい。今も貧しい国ですが、幼少より学問に秀出ていた僕を国は援助しアダムズに留学させました。そして僕はそんな母国に報いるよう必死に学びました。その甲斐もあって現在は王立協会の正式な科学者として仕事に従事しています。ですが未だ祖国の為に何かを成し遂げられるほどの知識も技術も持ち合わせておりません。早く一人前の科学者になって国に恩返ししたい。そう常々感じていますが、今は人としての幅を広げる時期だと自分自身に言い聞かせ、体調不良の所長に代わりこの仕事を引き受けている次第なんです」
そう語るノーベルからは道徳観溢れる誠実さが伝わって来る。そんな母国を想い、遠く離れたこの国で一人励む若者の姿にジュールは少し気が萎える思いがした。感銘を受けると言っては褒め過ぎかもしれないが、決して自分には真似出来る事ではない。初めはノーベルにどこか妙な【胸騒ぎ】を覚えたジュールだったが、彼はその胸の内を聞きノーベルに一目置いた。そしてジュールは恐れ入ったとばかりに彼に告げる。
「若いのに立派だよ。国の為に頑張るっていうのは凄く大変な事なんだろうに、あんたを見る限りじゃ辛さは感じられない。それだけ生まれた国が好きなんだろうな。それに比べてスラムで育った俺には、そもそも愛国心的なものが希薄だ。あんたの気持ちはとても理解できない。だけど少し羨ましく感じるのも正直なところだね」
そう言ってジュールは微笑んだ。本心で褒められている事にノーベルは少し照れている。どうやら彼は初見の相手に対して、つい熱く語ってしまったと決まりの悪さを感じている様子だ。すると彼はそんな恥じらいを隠そうとしたのか、話題を替えるように脇に抱えていた画用紙の束をジュールの前に差し出した。
ジュールとアニェージはノーベルから差し出された画用紙に目を通す。それらの画用紙には、天体観測所の外観がクレヨンで愛らしく描かれていた。
「それは昼間にこの観測所を遠足で訪れた園児達が描いたものです。なかなか上手に描けているでしょう。ただ僕は所長代理として、その中から特に上手な作品を選んで賞をあげなければなりません。これから選考作業をするのですが、これが意外と難しいもので悩んでいます。差支えなければご意見を伺っても宜しいでしょうか? あなた達ならどの作品が良いと思うか、参考までにご意見を聞かせて下さい」
不意な依頼にジュールは少し戸惑うものの、手にする画用紙を順番に見ていく。クレヨンで描かれた微笑ましい絵の数々。そのほとんどが空に太陽が描かれた昼間の観測所を描いたものだった。ただジュールはその中で一つだけ、特徴的に描かれた絵に手を止める。その絵はなんと、月の明りが描かれた【夜】のものだった。
絵の内容自体には何らおかしなところはない。単純に場景が夜になっているだけなのだから当然だ。それでもジュールは夜空を描いたその一枚の絵に目を奪われる。するとノーベルが不思議そうな表情を浮かべて絵に見入るジュールに対し、微笑みながら尋ねたのだった。
「その絵が気に入りましたか?」
「いや、どうだろう。気に入ったというよりは、気になったと言う方が正しいかな。一枚だけ夜なんて、それだけで印象深いからね」
不思議に感じたジュールはその絵をアニェージに手渡す。絵を受け取った彼女もまた、その絵を不思議そうに眺めていた。
空を黒一色で塗りつぶし、その片隅に丸く黄色い月がひっそりと描かれている。改めて良く見ると、幼い園児が描いたにしては詩情豊かで味わい深い。そんな絵を注視する二人に対し、ノーベルは子供達に絵を描かせた状況を説明し始めた。
「僕や引率した保育士達は、決して昼の絵を描けと指示したわけではありません。あくまで子供たちの自主性に任せましたので、たとえ夜の絵を描こうと何ら問題はありません。けれど昼間の時間に絵を描けば、それが大人だったとしても自然と目に入った昼の光景を描くはず。それは至って普通の感覚であり、やはり夜の風景を描いたその子供の感性が少し特殊だったのかもしれませんね。いったい何を想ってその子は夜の絵を描いたのでしょうか。科学的ではありませんが、非常に興味が湧いてきます。そしてもう一つ。現実的には昼よりも夜の方が暗くて見え難くなるものですが、今日のこれらの絵に限っては、反対に夜が輝きを放つ様に目立っている。これはとても不思議な事です」
そう告げたノーベルの目は、まるで神秘的な絵画に見惚れるような穏やかなものであった。そしてジュールもそんな絵を描いた子供の事が気になった。
「この絵を描いた子は、どんな子供だったんだい?」
「アダムズ南西部の紛争に巻き込まれた孤児のようです。暴力的なテロによって家族を失い、一人彷徨っているところを保護された可哀想な男の子。幼いながらに悲しい経験をしたことで心に深い傷を負い、それが夜の絵として表れたのかも知れませんね。今は安全な首都の施設に預けられている様ですが、彼の心はまだ暗い夜を歩み続けている――。いや、これは僕の勝手な想像ですので気にしないで下さい。実は他にも今日観測所を訪れた園児達の中には、そんな境遇の子供達が数人含まれていましたので、つい考えてしましました」
「だったらその子供に賞をあげればいいんじゃないのか」
アニェージがノーベルに絵を差し出しながら言った。しかしノーベルはその絵を手にしながら首を横に振る。
「そうですね。それが大人の優しさなのでしょう。けれど審査は厳正に行うつもりです。彼は慈悲を求めてこの絵を描いたわけではないでしょうし、それに憐んだところで彼の為にはなりません。僕は彼を特別扱いするのは、逆に失礼なのではないかと考えていますから。子供にとっては冷た過ぎる考え方かも知れませんけどね」
責任感の表れなのか。ノーベルは勤勉に職務を遂行しようとする思いを告げた。しかしその表情からは遣る瀬無い感情が読み取れる。ジュールはそんなノーベルを気遣うように優しく言った。
「あんた立派だよ。子供の気持ちを良く考えている。あんたみたいな人が決めた賞なら、きっと誰も不満は言わないさ。だから自信持って自分が良いと思った絵を選びなよ!」
ジュールは微笑んだ。そんな彼の笑顔を見たノーベルは、胸の高鳴りを覚え勇気づいた。そして少し恥ずかしそうにしながらも、自分の信念らしき想いを述べたのだった。
「僕の信条として、賞を与える上でその身分や国籍に拘るつもりはありません。自分自身が異国の者だからというわけではありませんが、チャンスは全ての者に対して平等に与えるべきだと考えています。人、権力、金。如何なるものの影響を受けず、真に優秀なものを評価する。それこそが重要だと僕は思います。そして僕はいつか平和的発案の促進の為、大きな基金を残すつもりです。その基金をもって、才能ある者に正当な名誉を寄与する。大それた夢ですが、僕にはいつかそれが出来ると信じて日々精進しているところです。まぁ、その結果については懐疑的なところもありますけどね」
そう言ってノーベルも微笑んだ。その笑顔はまるで太陽の様に眩しく感じられた。
「それでも彼の描いたその夜の絵は、十分すばらしい作品ではあります。ひいき目なしに、賞を取る可能性は高いでしょう」
そう付け加えたノーベルに、ジュールとアニェージは笑顔で応えた。
「それはそうと、初代所長に何か気になる事でもございましたか? 銅像を前に何やら話し込んでいた様にも見えましたが。ただ残念ですが、その方はすでに他界されています」
ライプニッツの像を眺めたノーベルは、少し表情を曇らせながら告げる。するとジュールは思い出したかのように彼に尋ねた。
「この人がゼノン双子彗星を発見したっていうのは本当なのかい?」
ジュールの質問にノーベルは首を縦にしながら答える。
「はい。僕はそのように伺っています。色々な資料が残されていますし、疑う様な事はまず無いと思いますが……。とは言うものの、僕自身当時はまだ子供で、北の国にいましたから分からないんですけどね」
そう言ってノーベルは人の良い笑顔を浮かべる。しかし彼はふと思い出しながら意味深な事を口にした。
「ただその彗星について、不思議に思う事もあります。アダムズで大きく話題になったゼノン双子彗星ですが、どういう訳か僕の住んでいた北の国では、まったく報道されませんでした。ですので僕が彗星の事を知ったのは、アダムズに来てからの事なんですよ」
「えっ、どういう事?」
凄むアニェージがノーベルに詰め寄る。するとノーベルは彼女の威圧的な態度にゾッとし、畏まりながら答えた。
「ど、どういう事かと聞かれましても、僕には答えようがありません。何も知りませんので――」
突然捲し立てられたことに怯えたのか、ノーベルはアニェージに対し青冷めている。でもアニェージが不審に感じるのは当然だ。些細な事でもいい、もっと情報が欲しい。そう思うジュールは意気消沈するノーベルを落ち着かせるため、優しくその肩に手を乗せ柔和に語り掛けた。
「ゴメンな。この人、ルックスはソコソコなんだけど口が悪くてね。でも悪気はないんだ、そんなに怖がらないでくれ」
ジュールは微笑みを浮かべノーベルを気遣う。するとノーベルの肩から強張った力が抜けて行くのが伝わって来た。大丈夫そうだ。これならもう少し話が聞ける。肩に掛けた手はそのままに、ジュールは穏やかに問い掛けた。
「ところであんたの国って何処にあるんだい? もしかしたら、アダムズに彗星が近づいたとしても、あんたの国からは見えないかも知れないだろ。それなら報道されなくても不思議じゃないからな」
「ゼノン双子彗星はアダムズの真上を東から西へ通過したと聞いています。その場合、確かに僕の母国からでは見えにくい様に思われます。ですがまったく見えないかと言われれば、それは否定せざるを得ません。あの日の夜は天気も良かったですし、恐らく南の空に僅かではあったとしても見えたはずですから――」
少し落ち着きを取り戻したノーベルはそう告げた。だいぶ顔色が元に戻ってきている。どうやら平静さを復調させたみたいだ。しかしそれとは対照的に、ジュールの心境は複雑だった。ノーベルの言う事が正しいなら、彗星の存在自体に増々疑問が深まって行くからだ。本当に彗星はこの星に近づいたのか。いや、そもそもそんな彗星が本当に実在したものなのか――。
顔色の冴えないジュールは訝しく頭を悩ませる。肩を並べるアニェージもまた、同様に考え込んでいた。するとそんな覚束ない姿の二人に向かい、ノーベルは少し趣向を変えて彗星について語り出した。
「先に進むα彗星とその後を追い駆けるβ彗星。この二つの彗星をゼノン双子彗星と呼ぶのはご存じですよね。でもこの二つの彗星の名称に、別の呼び名があったのをお二人はご存知ですか?」
当然そんな事を知る由もないジュールとアニェージは首を横に振る。そんな彼らに軽く頷きながら、ノーベルは丁寧に続けた。
「α彗星とβ彗星という名前。これらは名前の無かった彗星に仮で与えられた即席の名称です。ただ正式な名称がその後も与えられなかった為に、仮で名付けられたそれらの名称が、いつしか公式名称の様に語られている。それが現状です。ですが当時その二つの彗星を実際に観測していた天文学者達は、それらの星を別の【あるもの】に置き換えて呼んでいたらしいんですよ」
「あるもの?」
ジュールは固唾を飲み聞き入っている。
「はい。少し抽象的ではあるのですが、先に進むα彗星を【光の星】と呼び、後方から追い駆けるβ彗星を【影の星】と呼んだそうです。なぜそんな呼び方をしたのかは私には分かりません。ただそれを言い出したのは、彗星の第一発見者だった初代所長のライプニッツ氏みたいですね」
「光と、影……か」
ジュールの背中に意味も無く悪寒が走る。対に進む二つの彗星をライプニッツは何故、光と影に置き換えて呼んだのか。ジュールは判然としない不安感に苛まれ身を竦める。それでも彼は愚直にライプニッツの像に視線を向け、そして心の中で強く語った。
(その彗星に何の秘密があったかは分からない。でもそれに何かが隠れていたのは確かだと俺は思う。そしてライプニッツさん。あんたはそれを見つけた。それが博士の最終定理と関係あるものかどうかも分からない。けど俺には少なからず、この彗星の謎を解き明かす事がライプニッツさんの死への報いになるんじゃないかって、そう感じるよ。まるで博士がライプニッツさんの生きた証しを胸に刻み込めって言ってるみたいにね)
ジュールは一途にライプニッツの像を見つめている。決して負けない。誰にも屈しない。己を諦めない。折れそうになる心を無理やりに奮い立たせ、強い闘志を掻き立てる。今は強がりだけでもがむしゃらに進むしかない。そう意志を固めるジュールに対し、ライプニッツは温かく笑顔を差し向けていた。
強い決意の込められたジュールの目を見たノーベルは、意味もなく胸の奥で震えた。ジュールの熱い想いが無意識に伝わったのだろうか。ただノーベルは初めて出会った目の前の青年が、どうして初代所長であるライプニッツの事をそんな目で見つめるのか気になった。
体つきの良いこの青年からは、御世辞にも知的なものは感じられない。ゆえに天文学的な知識など皆無であろう。それなのに彼からは彗星と同じような神秘性漂う魅力を感じる。ノーベルはそんな理屈では解釈不能な感覚に気持ちが波立つ。一体この青年は何者なのだろうか――と。それでも彼はジュールに対しそれを聞こうとはせず、むしろ複雑な心境を振り払う様に、彗星の別名である光と影について自らの見解を口にした。
「先にも述べた様に、ライプニッツ氏がどうして彗星のことを『光』と『影』という無形な呼び名で言い現したのかは分かりません。ただ光と影は対極に存在しながらも、お互いを絶対に必要とするもの同士であります。もしかしたら双子の彗星も、お互いを決して欠くことが出来ない関係にあったのかも知れません。あくまで推測ですが、ライプニッツ氏は実際に彗星を観測する過程で、何かしらの特有な関係性を見つけ出し、そして彗星をそう呼んだのかも知れませんからね」
「お互いがなくてはならない、必要不可欠な存在……」
ジュールは不思議とその言葉に惹かれる思いがした。なぜそう感じるのかは分からない。ただ理屈ではなく、彼は心で直にそう感じ取っていた。そしてその感覚は朧げにも温かく、また優しく感じられた。
ジュールは無意識に胸に手を当て静かに目を閉じている。ノーベルはそんなジュールにまたも惹き寄せられる魅力を覚えた。それでも彼はそれを表に出さぬよう気持ちを忍ばせながら話を述べた。
「広く濃い影は暗闇になります。そして古来より光と暗闇は『太陽』と『月』の関係を表す時にも適用されて来ました。物質は『光』、すなわち太陽と同義であり、そして無は『暗闇』で月と言えます。また時に光は正義を示唆し、暗闇は悪を表象する。それゆえ人は心の中に『暗闇』を思うだけで、罪悪感を感じてしまうもの。さらには暗闇を『悪いもの』として隠そうとまでする。それは無自覚の中に光を『善』とし、暗闇を『悪』と捉える視座を持つからなのでしょう。しかし科学的、物理的視座から言えば、光は暗闇から押し出されて初めて『輝く』けるはず――。そう、『暗闇』がなければ『光』は存在しないのです」
そう言ったノーベルは微笑みながら続ける。
「昔の人は良く言いました。『光があるからこそ闇がある』と。でも僕はそうは言い切れません。光と闇。その関係は絶対的に対等であり、決して優劣を付けられるものではないのだから。闇があるから光は輝き、光があるから闇は浮かび上がる。そんなお互いがなくてはならない関係を、ライプニッツ氏はあの彗星に投影させて名前を付けたのかも知れません」
ノーベルの言葉がジュールの心に響く。光や闇にそこまで考えを巡らせた事はなかった。けれど言われてみればその通りな気がする。ノーベルの話を全て理解したとは言えないが、それでもジュールはどこか気分の吹っ切れる清々しさを覚えた。そして彼は自分自身に言い聞かせるよう声を上げる。
「難しい話だけど、なんか分かった気がするよ。あんたの言う事が正しいなら、俺達は例え心の中に『闇』を感じたとしても、それを恥じる必要はないって事だからね!」
今の自分の心の中は暗い影ばかりだ。だからこそジュールは精一杯にノーベルの話を肯定したかった。自分の心を支配する暗い影は、決して『悪』ではないのだと強がる様に――。そして彼はもう一つ感じる事があった。それは彗星を光と影に置き換えて呼んだライプニッツの想いについてだ。
その思いの根本的な理由はまったく分かりはしない。けれどジュールの胸の奥は、まるでライプニッツの気持ちの片鱗に触れたかの様に昂っていた。ほんの少しではあるが、ライプニッツの生きた足跡を垣間見れた気がしたからだ。もしかしたらこれも博士の仕組んだ置き土産の一つなのかも知れない。一人そう思うジュールは軽い笑みを漏らす。するとそんな彼の仕草に気付いたアニェージが釘を刺すように呟いた。
「お前の解釈は少し都合が良過ぎるぞ。あまり過信はしない事だね。それでも心の闇が直接の『悪』ではないっていう考えは、ある意味救われるな。人は誰でも少なからず、そんなものを心に秘めていものだから」
「あんたもたまには良い事言うな。こじ付けの屁理屈だと誰かに否定されたとしても、俺はあんたの考えを支持するよ。それにそう考えれば、あの夜の絵を描いた子供の気持ちも分かる気がする。だって彼はそんな心の闇を絵に投影したのかも知れないからね。暗いながらもあの絵からは嫌な印象は感じられなかった。まだ幼い子供が無垢な気持ちで描いた絵なんだ。そこに嘘や偽りはないはずだろ」
切なく漏らしたアニェージにジュールは心得た様に返す。実のところ二人は深い部分で似た者同士なのかも知れない。共感し合う二人はお互いを見つめて口元を緩めた。そんなジュール達を微笑ましく見守っていたノーベルであるが、彼は少し恐縮しながら告げた。
「申し上げにくいのですが、本日はまもなく閉館となります。これより館内の清掃と、展示物の大掛かりな飾り直しをする予定になっているのです。呼び止めた挙句、僕ばかりが多く話してしまい誠に申し訳ありませんが、今日のところはお引き取り頂けないでしょうか」
「そうか。それなら仕方ないな」
ジュールは少し憮然とするも理解を示す。そんな彼にノーベルは付け加えた。
「思いもよらず、とても楽しい時間を過ごせました。またいつでもいらしてください。心よりお待ちしています」
「ありがとう。俺もあんたの話を聞けて良かったよ。近い内にまた邪魔するつもりだから、その時はヨロシクな!」
ジュールは上機嫌で観測所を後にする。そして彼は少しずつ離れて行く観測所を背にしながらアニェージに言った。
「俺達とそれほど歳も変わらないのに、えらい奴っていうのは居るもんだな。感心するよ、ホントに」
だが彼の話を聞くアニェージは、どこか硬い表情をしていた。
「なんだよ、その顔。何か言いたい事でもあるのか?」
「ノーベルの言う事に否定する要素は何もない。でもなんだろうな、この感じは。あまりにも綺麗事過ぎて、逆に腑に落ちない忌々しさを覚えるよ。まぁ、私が捻くれているだけなのかも知れないけどね」
そう言ってアニェージは苦笑いを浮かべる。その表情はまるで自分自身を訝しめる様だ。それでも彼女は釈然としない心境の中から、もう一点気掛かりな事を述べた。
「それにしても観測所は妙に静かだったな。職員もあのノーベルしか見当たらなかったし。いくら閉館間際だからと言って、もう少し人がいたって良さそうなものだけど……」
「!」
アニェージの呟きを聞いたジュールはハッとする。昼に一度観測所を訪れた際に感じた違和感。その正体に彼は気付いたのだ。
(閉館後に清掃や模様替えをするんだったら、むしろ人影は多くなって当然のはず。でもいつから人影は減った? 客足はそれなりにあったはずなのに――、いや待てよ! そう言えばアメリアの所に向かうため観測所を出ようとした時、職員の姿がどこにも見当たらなかった。俺はそれに違和感を感じていたのか)
「あっ!」
突然アニェージが声を上げる。考え込んでいたジュールはその声に驚き苦言を呈した。
「なんだよ急にデカい声出してさ。忘れ物でもしたか?」
「あぁ、とんでもない忘れ物をしたよ。トイレに駆け込んだまま帰って来ない、お前の上司をね」
「仕舞った! またリュザックさんの事忘れてたよ」
ジュールは慌てながら観測所に向かって駆け出す。そして大きく溜息を漏らしたアニェージもまた、その後を追った。
日も落ちかけた薄暗い中で観測所に戻った二人。だがやはり観測所は不審なほどに静まり返っている。とても大規模な清掃などを行っているようには見えない。それどころか人の気配が恐ろしいほどにも感じられないのだ。それでも二人は慎重に足を進める。
正面ゲートに着いたが、もちろんそこに人影は無い。そしてゲートの扉は閉じている。当然の事ながら硬く施錠され閉ざされているのだろうと思うも、ジュールはその扉を軽く押してみた。するとどうした事だろう。扉は予想に反し、音もなく開いたのだ。
「不用心だな」
ジュールが小さく囁く。そんな彼にならう様、アニェージも小声で返した。
「こちらにしてみれば都合がいい。誰もいないのなら、そのまま最終定理の捜索を進めるだけだね」
二人は息を殺しながら観測所の中に踏み入る。リュザックが向かったトイレは正面ゲートを入って直ぐ左の場所だ。ジュールはまずはそこに行こうと足を進める。だが彼は正面ロビーを壁伝いに通過する際、その中央に展示された巨大な月のオブジェの前でひっそりと佇む人影を見つけた。
ジュールは咄嗟に柱の陰に身を隠す。そして薄暗い館内の中、目を凝らして確かめた。よく見ると人影は二つあり、それらは抱き合う様に重なっている。そしてその人影の一つが、先程まで話をしたノーベルのものであると彼は気付いた。そしてもう一つの影。ノーベルよりも更に小柄なその人影は、どうやら女性らしい。でもこんな所で何をしているんだ――。そう思ったジュールの肩にアニェージが軽く手を添えて呟いた。
「ヤボな事はよせ。トイレにおやじを呼びに行くよ」
アニェージに促され、ジュールは少し渋る様に足を進める。――とその時、ライトを点灯させた車でも通り過ぎたのだろうか。全面ガラス張りの正面入り口より、一瞬光が差し込んだ。そしてその光が抱き合う二人の姿を影の中から浮き上がらせた。
「!」
ジュールはノーベルの胸に顔を埋める女性の横顔を見て一驚する。彼はノーベルに優しく抱きしめられるその女性を知っていたのだ。
そう、彼女は今を騒がせている失踪中のアスリートの少女であり、裏路地でアメリアに遭遇し、そして光世院鳴鳳堂の近くで自分と接触した、あの少女だった。