#38 鳥雲に入る夜空のパラドックス(五)
ライプニッツはかつてグラム博士の右腕として活躍した秀逸な科学者である。博士と共に様々な研究を重ねた彼は、当然ながら王立協会でもトップクラスの頭脳を持つ存在だった。
性格の問題もあり王立協会で孤立していたグラム博士にとって、その助手であるライプニッツが唯一信頼できる科学者だったのは言うまでもない。そんなライプニッツはパーシヴァルのボーアと同世代であり、非凡な頭脳を備えた彼は、ボーアと共に次世代の科学をけん引する最有力者と呼ばれていた。しかし内気な性格であった彼は、周囲の期待と自らの心情の温度差に常々当惑していた。
人柄が良く、誰にでも好かれたライプニッツ。本来科学者という職業は、共に研究に勤しむ同僚とて時に欺き、隙あらば蹴落とすくらいのずる賢さを必要とするもの。そして何より自分の研究内容は、その成果が確立するまで決して他言しない秘密主義を貫くものである。しかし彼は違った。自分の研究を常にオープンにし、聞かれればその全てを余すことなく公表したのだ。
なぜ彼はそこまで全てをさらけ出していたのか。その理由の一つは、彼の進める研究が極めて高度であり、誰も真似できないものだったからだ。彼の飛躍する科学的思考力に、王立協会の誰もが舌を巻いた。故に彼の研究を邪魔する者など一人もおらず、逆に彼の生み出す画期的な研究成果に肖ろうと、ケチな科学者どもが彼の周りに多く集まるくらいだった。
ライプニッツはそんなズバ抜けた才能を遺憾なく発揮する。それほどの科学者でありながらも、彼は決して奢る事がなかった。彼はただ科学が好きなだけであり、研究を続けられればそれだけで幸せだったのだ。それが常に自分の研究をオープンにしていたもう一つの理由である。そして超一流の科学者でありながらも、ライプニッツの長所は他にもあった。それはどんな難しい理論も、明快かつ分かりやすく説明してしまう話術の巧さである。
現実の物理現象を追求する科学者の多くは、自らの研究内容とは正反対に、その説明は非常に抽象的で曖昧なものばかりだ。彼らは自分の脳内で全てを解決する事に長け、他者にそれを伝えるのが極めて不得手であった。しかしライプニッツは難解な科学理論でさえ、年端もいかぬ子供に熟知させられるほど説明が上手かった。その形象化の手法たるや歴戦の大学教授も大絶賛するほどであり、時折開催された彼の講演には、言葉巧みに物語るよう話す彼の解説に名立たる科学者達でさえ脱帽し称賛するほどだった。
そんなライプニッツはちょっとした偶然をきっかけに、グラム博士の助手となる。
ある日の事、同世代の科学者であるボーアの研究室に、ライプニッツは実験で使用する機材を借用するため訪れる。そこにたまたま居合わせたグラム博士を、彼はボーアより紹介された。噂に聞く鬼才グラム博士を前に臆するライプニッツであったが、彼はもともとグラムの研究する科学理論に強い興味を抱いていた。彼は実のところ、アダムズ王国の統一された科学理論である【光子相対力学】の根底に、腑に落ちない疑問を抱いていたのだ。
現在のアダムズの繁栄はその理論が生み出したもの。それは揺るぎない事実であり、誰もが光子相対力学を完璧な科学理論と称し、また当然の如くその理論を活用していた。にもかかわらず、ライプニッツは釈然としない不合理さを胸に抱え悩んでいたのだ。
その要因が何であるかは分からない。しかし彼の頭脳が超一流であったがゆえに、納得し得ない違和感を抱き続けてしまう。だからこそ彼は、グラム博士が独自で推進する独創的な研究内容に心を惹かれたのだ。まさにグラムが勤しむ研究こそ、国王が提唱する光子相対力学を根底から覆すかも知れない大理論なんじゃないのか。直感としてそう思った彼は周囲の反対を押し切り、グラム博士に弟子入りを歎願したのだった。――がしかし、グラム博士はその歎願を断り続ける。
世界最高の鬼才と呼ばれた彼のもとには、少数ながらもライプニッツ同様に弟子入り志願者がいた。当初グラムはそんな弟子入り志願者を拒む事なく受け入れていた。しかしどの弟子達もグラムの驚異的な研究に着いて行けず、むしろ研究を阻害する足枷になっていた。
弟子達は難解過ぎるグラムの研究が理解できず、ただ混乱するばかりだったのだ。グラムはそんな使えない弟子達の光景を幾度も目の当たりにし、いつしか弟子の受け入れを拒絶するようになっていた。そんな折にライプイニッツがグラムの前に現れたのである。他人に無頓着なグラムは、目の前に現れた若い科学者が超一流の頭脳を持った存在であるなんて知るわけがない。それゆえにグラムは、いつも通りにライプニッツを門前払いし続けた。
ボーアよりグラムを紹介されてから二年の月日が流れる。ライプニッツは諦めずにグラムのもとに通い続けた。なぜライプニッツがそこまでグラムの弟子になりたかったのか。それはライプニッツ本人すら気づいていなかったのかも知れない。恐らく光子相対力学の理論に疑念を抱く彼の本能が、グラムの研究する科学理論を欲し続けていたのだろう。そしてライプニッツの揺るぎない信念を感じ取ったグラムは、ついに彼を受け入れた。
ただグラムはライプニッツを弟子ではなく【助手】として受け入れた。グラム自身もこの二年間に少し考えを改めたのだ。それまでグラムは弟子に対し、徹底的に自分の知り得る知識や技術を教え込もうとした。それが弟子に対する自分の責任だと考えていたからだ。しかしそれが逆に負担となり、弟子達は混乱を極めグラムの研究について来れず去ってしまった。だからグラムはあえてライプニッツを助手という立場とし、研究の補佐のみをさせた。自分から無理に何かを教えるのではなく、自分のやっている研究を間近で見せる事で、まずはライプニッツの科学者としての力量を図ろうとしたのだ。だがグラムはそんな気苦労が、ひどく無駄な配慮であったと直ぐに気付く。
ライプニッツの科学者としての技量が、グラムの想像を遥かに凌駕するものだったのだ。さらにグラムはライプニッツのどんなものでも容易に具現化する能力に目を見張った。
グラムの研究が他人に理解されない最も大きな原因は、その説明の不透明性にあった。グラムは直感に赴くまま、その類稀な発想力で研究を重ねている。言わば感性を重視した典型的な天才肌だ。だからこそ、その説明が不得手で仕方なかった。全て彼の頭の中だけで補完され研究は進んでゆく。だがそんな彼の研究を最も身近でサポートするライプニッツが、その研究成果を目に見える論文として幾つもまとめ上げたのだ。
その論文の完成度の高さに、さすがのグラムも声を詰まらせる。こんな論文を書きたかった。いや、目の前にある論文はそれ以上の出来栄えだ。グラムはまるで感銘するとでも言うような、胸の高鳴りを感じ心が震えた。そして気が付けばライプニッツの事を誰よりも認め、そして掛替えのない存在として受け入れていた。
次第に心を打ち明けるグラムに対し、ライプニッツもまた彼を尊敬して止まなかった。
グラムの隣でその研究を目の当たりにするライプニッツは、今まで自分が実施してきた研究が、いかに子供じみたものであったかと認識したのだ。本当の天才とはこの人の事を指すのだと、彼は心酔して疑わなかった。どう努力しても決して自分には辿り着けない技量と才能を持つグラムに、ライプニッツは人生を捧げるほどの意志を固めていた。
しかしグラムは自分の発明品が人殺しの兵器に成り下がっている事に嫌気がさし、王立協会から逃げるようにして姿を消した。恐らく一番近くでグラムを見ていたライプニッツには、彼の苦悩が手に取る様に理解出来ただろう。そしてライプニッツもグラムと共に、王立協会から去ろうと考えたはずである。だが彼は王立協会に残った。
どうして彼が協会に留まったのかは分からない。大好きな科学の研究を自分一人でも続けたかっただけなのか。されどその後の彼は科学者として表立った研究をしていない。やはりグラム博士がいなくなった事が原因なのだろうか。いつしか彼は王立協会の中でもその存在を忘れ去られていった。
「そして十年前、ライプニッツは暴走する車に轢かれて死におった」
少し表情を硬くしながらガルヴァーニは語り始める。
「相当なスピードで轢かれたのじゃろう。ライプニッツの体は20メートル以上も吹き飛ばされたと聞きいておる。連絡を受けたワシは直ぐに奴が搬送された病院へ駆け付けた。まだ息はあったものの、その姿は見るに堪えない凄惨なものじゃったよ。さらに痛ましいのは、事故後に倒れているライプニッツの所持品を、ひき逃げ犯が持ち去ったという事なんじゃ。これは人身事故ではなく完全な【殺人事件】だと、ワシは怒りを覚えてたものじゃよ」
ガルヴァーニはそう言って無念の表情を浮かべる。ジュール達は何も言えず、老人を見守りながら話に聞き入っていた。
「病院には多数の警察部隊の隊士がおってのう。お尋ね者じゃったグラムは呼べんかった。一応電話で連絡はしたのじゃが、気心知れた助手の瀕死の危機じゃ。電話越しに奴の落胆する心情が伝わって来て辛かったわい。そんなグラムの分までワシはライプニッツの命が取り留められるよう必死に願った。じゃが無念にもワシの願いは叶わず、ライプニッツは息を引き取りおった。じゃがそんな時にじゃ。その場に居合わせた警察部隊の幹部らしき隊士の一人が妙な事を口走りおったんじゃよ」
「妙な事?」
ジュールは訝しげに首を傾げる。するとそれに対してガルヴァーニは、深刻な表情で告げた。
「そう。警察部隊の隊士はその時『デカルトめ』と、確かに呟きおったんじゃ。その場では何の事か分からず気にも留めなかったが、なぜか耳に残っていてな。じゃが翌日になりその意味が分かったんじゃよ」
「どういう事ですか?」
「翌日の早朝。ライプニッツをひき逃げした本人が警察部隊に自首したんじゃ。それもその自首した人物の名前が【デカルト】じゃった。すなわち、警察部隊はライプニッツが誰にひき逃げされたのか、その容疑者を事前に知っていたんじゃよ」
「そんな事ってあるの?」
寒気を感じているのか。アメリアは両腕を抱え少し背を丸めながら話を聞いている。
「不審に感じたワシは、その後警察部隊が実施した事故捜査を調査した。すると更に不可解な行動を警察部隊がしとったと知ったんじゃ。警察部隊の現場捜査は極めてずさんなものじゃったよ。ひき逃げかつ強盗という凶悪な犯罪現場であるのにもかかわらず、現場の保存どころか指紋の採取さえ十分に行っておらんかったからな。極めつけは奪い去られたライプニッツの所持品についてじゃ。白昼の事故だったこともあってか、犯人であるデカルトがライプニッツの所持品を奪い去ったところは多くの通行人が目撃しておる。にもかかわらず警察部隊は事故という枠を自らつくり、現場から消えたライプニッツの所持品について、その捜査をまともにしなかったんじゃ。いや、捜査をした形跡すらなかったんじゃよ。俄かに信じられん事ばかりじゃ。遺族のいない独り身のライプニッツにとって、その後実施された法廷でも新事実は出て来んかった。もちろん逃亡中のグラムも表だって事件に踏み込めん。無念じゃが、万策尽きたと意気消沈するしかなかった」
少し話疲れたのか、ガルヴァーニは息を上げている。少し苦しそうではあるが、それでも彼は続きを口にした。
「ただの交通事故という結果で処理された一件。懐疑的な対応であるのは否めず、不合理極まりない事は明白じゃ。それでもそこで終わっていれば、単に警察部隊の怠慢捜査として止む無く納めることも出来たじゃろう。だがな、事件はそれで終わらなかったんじゃ」
ジュールは息を飲み聞き入っている。
「まったく報道などされず一般市民は知る由もない事じゃが、ライプニッツをひき逃げした犯人ことデカルトなる人物。そやつは刑務所に服役して一ヶ月もしないうちに、病気で死におったのじゃよ」
「し、死んだ!?」
唖然とするジュールに老人は軽く頷く。
「病名は不明じゃが、そのデカルトもライプニッツ同様天涯孤独だったようでな。皮肉にもアダムズ拘置所裏にある共同墓地の、それもライプニッツの墓のすぐ近くにデカルトの遺骨は葬られおった。気分悪かったがライプニッツの墓参りをした時、一度だけその墓を見たことがある。その墓標には咎人であるデカルトの名はなく、表側に【大数院鷽替居士】とのみ墓碑銘が刻まれておった」
ガルヴァーニの話を聞くジュールの鼓動は徐々にそのスピードを早めていく。得体の知れない話の内容に最悪な気分だ。そんな彼を差し置いて、老人の話に不満を隠せないアニェージが疑問をぶつけた。
「意味不明な戒名だね。私は無縁仏の墓なんて見た事ないけど、普通にそんなものなのか? それにしてもジジィ。墓に名前が無いのに、どうしてお前はそれがひき逃げ犯の墓だって分かったんだよ?」
アメリアも不安そうにガルヴァーニを見つめている。
「デカルトの死亡時期と墓の建てられた時期がちょうど一致するのでのう。拘置所内で死んだ罪人のための墓だという事は、墓地の管理人に聞いておった。見た目には他の墓と何ら変わったところはない普通の墓。じゃがワシはその墓に妙な違和感を覚えてのう。隙あらば調査したいところであった。しかしワシは事情により、急ぎルヴェリエを離れねばいけなくてな。仕方なく諦めたんじゃ……」
ガルヴァーニは当時を思い出し無念の表情を浮かべている。そんな老人にいまだ意に満たない不服な思いのアニェージが強く尋ねた。
「肝心なところがまだ聞かされてないよ。そもそもジジィとそのライプニッツはどういう関係だったんだよ?」
ジュールは喉の渇きを感じる。だが対照的にその額には、湧き溢れる汗を浮かべていた。
「ライプイニッツはワシの命の恩人じゃ」
「命の恩人? ふざけるなよ、ジジィ。誰よりも命を粗末にするお前が、何を寝ぼけた話ししてるんだ!」
なぜかアニェージはガルヴァーニに対して憤りを露わにする。だがそれに老人は反発せず、むしろ冷静に返答した。
「確かにワシは自分の命などゴミ同然に思うておる。自分の死など、どうでも良いんじゃ。じゃがワシは過去に多額の借金を背負った時期があってのう。それにより関係ない者を命の危機にさらしてしまった。死ぬのは簡単じゃったが、ワシが死に逃げればさらに無関係の者にまで迷惑を掛けてしまう。そう思ったワシは、自分の命を絶つ事も出来ず苦しんだんじゃよ。ただそんな時にライプニッツが金を工面し、ワシを助けてくれたんじゃ。あの時の恩は決して忘れられん。当時天体観測所の所長だったライプニッツにしてみれば、些細な金額であったろうがな」
「か、観測所の所長だって!」
吃驚するジュールが叫ぶ。
「そうじゃ。あやつは観測所の初代所長であり、アルベルト国王の命令で観測所を設立した人物なんじゃよ」
「じゃぁ観測所にあったあの銅像はライプニッツさんだったのか。どうりで見覚えがあるはずだよ。でもどうしてライプニッツさんが観測所の所長なんかに?」
初めて耳にする事柄にジュールは目を丸くしている。そんな彼にガルヴァーニは丁寧に説明した。
「グラムが王立協会を去った後、科学への情熱が冷めてしまったのであろう。ライプニッツは科学者としての研究をしなくなった。そしてあやつは意図的に科学から距離を置き、宇宙へとその行路を移しおったんじゃ。もともとライプニッツは星に興味を持っとったらしくてな。あやつの穏やかな人柄からしても、天文学者への転向は好ましいものだと周囲も思ったはずじゃ。じゃがその行為、ワシから見ればただ、グラムのいなくなった科学の世界から逃げている様にしか見えんかったがのう」
ハァと溜息を漏らしながらもガルヴァーニは続ける。
「ライプニッツはその後、天文学者としての人生を歩んだ。ただ科学者時代とは異なり、あやつは天文学者として目立った活躍は何もしとらん。一時は科学者として王国全土に名を馳せたライプニッツにとって、それはあまりに寂しいものにワシは思えた。まぁ、本人はそれほど気にしてはいなかったろうがな。要らぬしがらみから解放されたライプニッツにしてみれば、むしろ天文学者となってからの方が自由気ままな人生を歩めていたのやも知れんしのう。裏ではグラムとも時折接触していたようだな。恐らくその時にお前に会ったのであろう、のうジュール」
老人は少し微笑むようにしてジュールを見つめた。複雑な心境でその目を見つめ返すジュール。ただ彼も元気だった頃のライプニッツを思い出し、ささやかなれど気持ちが和んでいた。
「ライプニッツが天文学者となり、十年以上の月日が流れた。あやつなら新しい星の一つや二つ、すぐに見つけるじゃろうとワシは思ったよ。じゃがそんな予想とは異なり、あやつはこれといった実績を何一つ上げなかった。まぁ天文学というものは、気が遠くなるほどの積み重ねたデータにより築きあげるものじゃからな。そう簡単に結果を出せるものではない。それに運による部分も多いからのう。あやつにしてみれば、ゆるり気ままに夜空を眺めておったのであろうな。じゃがそんなライプニッツに突如天命が下だりおったんじゃ」
「天命?」
ジュールは訝しく首を傾げる。
「国王により、ライプニッツは双子の彗星を観察する為の天体観測所の設立を命じられたのじゃ。国王によってゼノン双子彗星と名付けられたその星の、調査責任者にあやつは抜擢されたのじゃよ」
「どうしてライプニッツさんが選ばれたんだよ」
「それは分からん。天文学者として何の実績も上げていないライプニッツに国王が何故それを命じたのか。ただ当時のワシはこう思っておった。科学者として過去に著しい活躍を見せたあやつを国王が気遣い、名誉ある職に抜擢したんじゃろうと。それに生粋の天文学者の中で、ライプニッツ以上に名が通った者もおらんかったしな。言うなれば、過去に分野は違えど実績を残したライプニッツを、体良く飾り納める御誂え向きの仕事だったのじゃろう――とな」
そう言ったガルヴァーニは苦笑いを浮かべている。そして老人の話に同調するようアニェージが呟いた。
「まるでピエロだね」
老人の言葉が正しいならと思うジュールは、言葉にならない不愉快さを感じ気分を害す。幼き頃に出会ったライプニッツは、とても優しく温かい人であった。そんな心優しい彼を祀り上げ人形扱いするなんて、穏やかでいられるはずもない。それでもジュールはどこか腑に落ちない違和感を胸の奥で感じていた。するとその思いを代弁するかの様に、アニェージが老人に対して切り出した。
「グラム博士と密接な関係のあったライプニッツなら、国王の正体を知っていたんじゃないの?」
アニェージの質問にジュールはハッとする。彗星が接近したのは十年前。ならすでに国王は獣神と入れ替わっていたはず。しかしガルヴァーニは軽く否定しながらアニェージに告げた。
「いや、それはどうかのう。確かにライプニッツが国王の正体に気付いた可能性は否定できん。じゃが、それに気付けば真っ先にグラムへ伝えるはずじゃ。しかれどグラムが事実を知ったのは、ボーアの反乱の二年前にファラデーによってそれを伝えられた時じゃ。それは今から七年前の事。ライプニッツはとうに死んでおる」
不満ながらもアニェージはガルヴァーニの見解に反論できない。しかしガルヴァーニ自身も腑に落ちない違和感を感じているようだ。俯くアニェージに対し、老人は釈然としない胸の内に共感するよう付け足した。
「じゃがお前の言うように、ライプニッツが【何か】を知り得た可能性は多いにある。あやつほどの科学者じゃ。裏組織であるアカデメイアにも関係があったとみる方が自然な成り行きよ。ライプニッツの性格からして、裏の仕事に自ら手を染めたとは考え辛いが、少なくともアカデメイアの存在や、その行動内容は把握していたと見るべきじゃろう。そして何よりライプニッツは光子相対力学に疑問を感じておった。そう考えれば、むしろ何も知らなかったと考える方に無理がある。そしてワシが最も気掛かりなのは、双子の彗星についてなんじゃよ」
「ゼノン双子彗星の事ですか?」
ジュールが聞き返す。彼は否応なく感じる不安を隠しきれない。
「国王が発見した不可解な彗星。天文学者となったあやつは、その矛盾の正体に気付いたのかも知れん。そして消された。そう考えると幾つかの疑問点が繋がるのじゃ。それについ先日判明した事なんじゃが、実はひき逃げ犯であるデカルトは王立協会の末席に属した科学者であり、アカデメイアとも関係があったらしいんじゃよ」
「裏組織に!」
「ワシは思う。デカルトが王立協会の科学者というのは表の顔じゃろうと。むしろ本職は裏組織であった。そして何かを知ったライプニッツをアカデメイアの命令でひき殺した。じゃがデカルト本人も用済みとされ消される。口封じも兼ねてのう。そう考えるとしっくりせぬか」
「それで警察部隊はひき逃げ犯の名前を事前に知っていたのか。でもアカデメイアは王立協会だけじゃなくて、警察部隊とも繋がってるっていうんですか?」
そんなバカな事はと心で願いつつも、ジュールの理性はそれを完全に否定している。全ては裏で繋がっているのか――。悪い予感しかしない。信じたくはないが、彼は本能で直感していた。それら全てが事実ではないにしろ、限りなく真実に近い事なのだと。するとそんなジュールの気持ちを肯定したガルヴァーニは、諾う様に告げた。
「当然ながらアカデメイアと警察部隊は裏で繋がっておる。一般の隊士は知る由もないじゃろうが、上層部の者は例外なく密接な間柄じゃよ。そしてお前が属する軍とて同じじゃぞ」
ジュールは思わず息を飲み込む。考えたくはないが、ここまで話を聞けばそう感じない方が嘘だ。
「国王の近衛部隊であるコルベットなど、その典型じゃろうて。あんなもの、きな臭くてたまらんぞ。先程までいたあの少年の様な顔をした隊士とて同じじゃ。それでもあやつは少し感じが違ったがのう――。まぁなんにせよ、この国でそれなりに権力を持つ者は、すべからずアカデメイアの影響を受けておる。科学者、政治家、役人、軍人、医者、弁護士、大企業の社長しかりじゃよ。そしてその裏組織を操っている者こそ、他ならぬアルベルト国王じゃ」
老人の言葉にジュールはテスラを思い浮かべた。あいつの行動がおかしくなったのは、やはり国王と何らかの繋がりが出来たからなんじゃないかと。そう思えばテスラがコルベットに所属した事も納得できる。彼の背中には人知れず悪寒が走っていた。
ガルヴァーニは再びアメリアからカチューシャを受け取り眺めている。気になる事でもあったのだろうか。しかし老人は丁寧にそのカチューシャをアメリアに手渡した。
「高度な技量を持った職人が造ったとはいえ、そのカチューシャ自体に意味があるとは思えん。光で浮き上がった二人の言葉に何かしらの意図があるとしても、どうしてグラムはこんな手の込んだ仕掛けをしてまで、無関係なお嬢さんにそれを渡したのか。意味が分からんのう」
釈然としないガルヴァーニは不満を漏らす。するとジュールが博士を思い出しながら老人に語りかけた。
「それはただ本当に、アメリアに似合うからってだけかもしれないよ。博士は意外と愛嬌のある人だったからね。難しい話をし過ぎて、俺達は少し考え過ぎなのかも知れない。それにもし何か意味があるとしても、諦めずにいればきっといつか見つけられるさ。博士はいつも俺達の一歩先を読んでいる人だからね」
ジュールは少し強がるよう無理に笑顔を浮かべた。するとそんな彼の発した言葉に、ガルヴァーニは胸を撫で下ろす思いがした。
「さすがはグラムの息子じゃな。あやつの事をよう分かっておる。確かにそうじゃ。グラムならきっと、今後のワシらの行動を正確に予測しておるじゃろうて。ならばワシらは今出来る事をするしかないのう」
そう言ってガルヴァーニも笑顔を見せた。するとそんな老人のズボンを引っ張り、いつの間にか泣き止んでいた少女が言葉を掛けた。
「おじいちゃん……」
すっかり少女の事を忘れていたガルヴァーニは、少し申し訳なさそうに話し掛ける。
「済まん済まん。話に夢中になり過ぎてお前の事を忘れとった。それにしてもテレーザ、どうしてお前がルヴェリエにおるんじゃ? お前がおるという事は、どこかに【ボルタ】もおるということじゃな」
優しい口調でありながらも、老人の目には厳しいものが窺える。遠く離れた田舎町から子供だけで首都に赴くという危険な行為に、老人は怒っているのだ。だがそれは幼い少女を心配しての事。ジュール達はそんな老人と少女の会話を静かに見守った。
「いつルヴェリエに来たのじゃ。ボルタと二人で来たのか?」
「うん。おじいちゃんの後を追って二日前に来たの。おじいちゃんもこのショッピングセンターに来たでしょ。あたし達もその後をつけて来たんだ。でも突然地震が起きて、あたし怖くなっちゃって……。気が付いたらボルタもいなくなっちゃったの」
そう話す少女の顔を改めて確認したジュールはハッと思い出す。アニェージとこのプルターク・モールで戦闘を繰り広げた時、彼女の蹴りから盾となって守り、また吹き抜けに落下するその身を助け出した少女の事を。あの時の少女こそ、今目の前にいるテレーザだった。
それを思い出したジュールは思わずアニェージの顔を見る。すると彼女はすでに気が付いていたらしく、彼にそっと目配せした。どうやらテレーザはジュール達の事を覚えていない様子だ。
「ボルタはずっと心配してたんだよ、おじいちゃんの事。最近起きてる失踪事件におじいちゃんが関係してるんじゃないかって。だっておじいちゃんがバローからいなくなった時に限って、人がいなくなるんだもん。最近のおじいちゃんは自分に隠れて何か怪しい事をしてるって、ボルタはそう言ってた。だから……」
テレーザの目に再び涙が溢れる。そんな少女に老人は胸の詰まる思いがした。自分は少女達に要らぬ心配を掛けまいと何も告げずにいたのだが、それが返って子供達に不信感を生み、危険な行動をさせてしまったんだと。子供とはいえ、察するものなのだと改めて思い直すガルヴァーニ。しかしそれでも老人は少女達の事を想い叱った。
「いくらワシの事が不審に思えたからとて、子供のお前達だけでこんな遠い場所まで来るなんて許されんぞ。ここはバローと違って、人の心が冷たく感じられる場所じゃ。たとえ子供が困っていたとしても、この地に暮らす者達は容易にそれを助けようとはせぬ。まして命に係わる危険なことなら、見て見ぬ振りをするのが当たり前なんじゃ」
「でもお姉ちゃんは助けてくれたよ。すごく優しくて温かくて。あたし嬉しかったもん」
「それはお前の運が良かっただけじゃ。たまたまアメリアに会ったから、こうして無事にいられる。そうでなければ今頃どうなっていたか、想像しただけでゾッとするぞ」
老人の強い言葉にテレーザは声を殺して泣き始める。必死に我慢するも溢れ出る涙は止められないみたいだ。ただそんな少女の姿を見守るジュールは心の中で思う。少女も老人の気持ちを十分に理解しているはずだと。だからこそ必死に堪えようとしている。そんなテレーザの居た堪れない様子に、彼はガルヴァーニに向け制止を促した。
「その辺でいいんじゃないですか、ガルヴァーニさん。この子も良く分かっていそうだし、それに居なくなったボルタって子を探すのが先でしょ。お説教なら、二人まとめてした方が良いんじゃないですか」
ジュールの言葉に老人はやれやれとばかりに頭を掻いている。どうやらガルヴァーニ自身も気持ちの収まりがついたようだ。
「ほれ、涙を拭けテレーザ。ボルタを探すぞ。とは言うものの、ボルタの奴は何処へ行きおったというのじゃ?」
するとアメリアのハンカチを使って涙を拭いたテレーザが、老人に向けそっと呟いた。
「おじいちゃんが何をしてるか調べるのとは別にね、ボルタはルヴェリエに着いたら行きたい所があるって言ってたよ。それが何処かは知らないけど、確か『女神の歌声』が聞ける場所だって言ってた」
瞳を赤く染め上げながらも、そのつぶらな眼差しで老人を見つめるテレーザ。しかしそんな少女の言葉にガルヴァーニは首を捻る。
「女神の歌声? 何の事じゃそれは。音楽の好きなあやつならではの探し物か…………ん? もしかしてボルタの奴、あれを探しているのか。まさかとは思うが、それしか考えられん――」
何か思い当たる節があるのか。ガルヴァーニは一人考えている。するとそんな老人を見兼ねたジュールが勢いよく話しかけた。
「ここで考えていても仕方ない。とりあえず皆でいなくなった少年を探そうぜ。心当たりがあるなら教えてくれよ、ガルバーニさん」
ジュールの横でアメリアも頷いている。そんな心優しい若者達の申し出に老人は素直に感謝の気持ちを抱く。しかしガルヴァーニはジュール達の協力を丁重に断った。
「お前達の心使いは有り難い事この上ない。じゃがこれはワシの問題じゃ。関係のないお前達にこれ以上迷惑は掛けられん。それにボルタが見つかったとして、その後ワシは二人を連れてバローまで送り届けねばならん。済まぬが一時的にワシは最終定理の捜索から身を引くぞ。いずれまた戻って来るが、それまではお前達だけで捜索を進めてくれ。時間は無駄にできんからのう」
「で、でも……」
ジュールは少し寂しそうにガルヴァーニを見つめている。まるでグラム博士との別れを惜しんでいるかの様だ。そんな彼の気持ちを察してか、ガルヴァーニは優しく告げた。
「そんな悲しそうな顔するなジュールよ。お前とはまた必ず会えるゆえ、心配する事は何もないぞ」
ガルヴァーニは目尻のシワを深めながら微笑んでいる。まるでジュールと再び遭遇するのを確信しているようだ。そしてその笑顔を見返すジュールもまた、老人と再会できる確信めいた予感を覚えていた。
しばし見つめ合い心を通わせた二人であったが、気を引き締め直すよう顔つきを変えたガルヴァーニがジュールに今後の行動を示唆する。
「調査を進めるに当たり、アカデメイアと接触する可能性が極めて高いじゃろう。くれぐれも注意するんじゃぞ。ルヴェリエは奴らにとって庭同然じゃ。至る場所に奴らが紛れておると心して懸かれ。この先お前には尋常でない困難が待ち受けているじゃろう。それでもお前なら、グラムの意志を継いだお前なら、きっと目的を果たせるはずじゃ。じゃから決して諦めるんじゃないぞ」
「負けん気の強さだけは誰にも負けないつもりだよ。俺にはそれしかないからね」
爽やかな笑顔を見せるジュール。その表情にガルヴァーニは清々しさと頼もしさを感じた。
この青年は強い。グラムはよくぞここまで立派にジュールを育て上げたものだ。ガルヴァーニは感心するとともに胸が熱くなるのを感じる。そして老人は最後に付け加えるよう一つの見解を口にした。
「一年後に催されるルーゼニア教の創設千年の記念祭。ルーゼニア教の伝説では、その時に【女神が地上に降臨する】と言われておる。それがお伽噺であるか否か、それは分からん。じゃが、笑い話として捨てておくわけにもいくまい。分かるな、ジュールよ。すでに世の理は人と神を同じ時間軸上に存在させておる。ワシの勘じゃが、千年祭がタイムリミットじゃ。それまでにグラムの最終定理を紐解き、真理を手にして目的を果たさねば手遅れになる。恐らくワシの探し求めるものも、行き着くところはそこじゃ。そしてライプニッツの死に隠れた真実もまた、全て繋がっておるのであろう。ならば尚更二手に別れ、捜索を進めるしかあるまい。そして次に出会う時は、それぞれの手にした情報を持ち寄り、決着の場所へ赴くとしようではないか。それと――」
ガルヴァーニはジュールの肩に手を置き彼を引き寄せる。そして直ぐ近くに佇むアメリアには聞こえない声でジュールに告げた。
「今後のお前の動き方次第では、無関係なアメリアにも危険が及ぶ恐れがある。【倒す】か【守る】か、その二択を迫られる状況に陥る事もあるじゃろう。そんな時は直感に従え。迷えばドツボにはまるだけじゃし、判断の遅れが最悪の状況を招くこともある。よく覚えておけ」
そう口にしたガルヴァーニはジュールの肩から手を離すと、彼の胸を軽く突き笑顔を浮かべた。
「アメリアの事、大切にせえよ。こんな良き娘は他におらん。それとアニェージ。気を競ってばかりじゃ肝心な時に大切なものを見失うぞ。お前もいい大人なんじゃ。良い意味で余裕を持て」
「チッ、本当に勝手なジジィだね。けどお前がいない方が、むしろ首尾よく事は進むだろう。だからほら、私達のことは放っておいて、とっととガキを探しに行きなよ」
アニェージは老人を追い払うように手を振る。そんな彼女に老人は真面目な表情で言った。
「くれぐれも気を付けてな、健闘を祈っておるぞ。では行こうか、テレーザ。ついて来い」
別れの挨拶の意味なのか。ジュール達に向かって軽く右手を上げたガルヴァーニは、そのままテレーザの手を引きながら歩み始める。多数の人の行き交う中、少女と共に消えてゆく老人の後ろ姿が名残惜しい。ただ消え行く二人を見送るジュールは、グラム博士と共に旅立ったあの日の事を思い出し懐かしく感じていた。
もうあの頃には戻れない。でも博士と共に過ごした時間が今の自分を作り、そして支えている。そう思う彼は、ふつふつと勇気が湧き上がって来るのを心から感じた。ただ同時に焦がれる様な切なさも感じる。もう二度と、博士には会えないのだと。
そしてガルヴァーニの事を毛嫌いする様な口ぶりばかりしていたアニェージもまた、少し寂しそうな表情を浮かべていた。
口では文句ばかり言っていたが、本心では頼りにしていたのだろう。でもここからは自分達だけでやらなければならない。ジュールは胸の中でそう決意し、一段と気を引き締め直す。するとそんなジュールにアメリアが気遣わしげな面持ちで言った。
「やっぱり私放っとけないから、ボルタ君が見つかるまでは協力するよ。何だか難しい話もしてたけど、人探しだけなら大丈夫でしょ」
アメリアはジュールの返事を待たずにガルヴァーニ達を追い駆け出す。ジュールはそんなアメリアに一言だけ叫んだ。
「無茶するなよ!」
「大丈夫、あとで連絡するから!」
見た目からは想像できないが、アメリアは人一倍強情な性格の持ち主だ。だから彼女を呼び止めたとしても、絶対に戻っては来ないだろう。ジュールは心配ではありつつも、あっという間に見えなくなったアメリアの行動を受け入れる。そして彼は思った。彼女もまた、直感で動いているのだと。そしてそれはきっと正しい行為なんだと。ジュールはそんなアメリアの行為をどこか嬉しく思い微笑む。するとそんな彼を見ていたアニェージが不意に漏らした。
「お前の彼女、優しい子なんだね」
アニェージは相変わらず少し切ない表情を浮かべている。それでも彼女からは悲壮感の様なものは感じられず、むしろ柔らかい温かみが伝わって来ていた。
男っぽい口調で話していても、やはり女性であるアニェージにも優しい心が備わっているんだな。そう感じたジュールは、彼女の醸し出す女性的な一面に嬉しくなる。ただそんなジュールの気持ちを察したのか、アニェージは恥じる様に顔を背けながら一言告げた。
「フン、お前にはもったいない彼女だよ。――――大切にしてあげなよね」
幾つもの不明瞭な謎が浮き彫りとなり、まるで何も見えない暗闇の道を進むがごとく、行き先の見通しは混沌としている。それでもジュールは一人、滾る胸の高鳴りを感じ自分の目指す未来に底知れぬ想いを馳せていた。それは博士の意志を胸に刻み込んだ自分にしか目的の達成は不可能なのだという、自らの心情を鼓舞する現れであり、また一度立ち止まればそこで動けなくなってしまうのではないかという怖さの裏返しでもあった。
全ての謎を解き明かすにはまだ相当な時間と労力が必要だ。それにまだ見ぬ幾多の困難に立ち塞がれるだろう。それでもジュールは力強く新たな一歩を前に踏み出す。ポケットにしまったグラム博士のノートから感じ取る、願いの込められた熱い意志を胸に震わせながら――。