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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
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#37 鳥雲に入る夜空のパラドックス(四)

 ジュール達は緊張感を高める。まるでタイミングを謀ったかのように、午後二時ちょうどに停電が発生したのだ。気構えるのは当然だろう。ただそれでも彼らはパスワードの入力を要求する目の前のディスプレイに釘付けになっていた。

『パスワード:○○○○』

 これは罠なのか? ジュール達三人は警戒するも、ディスプレイに表示される点滅した文字から目が離せない。その脳裏にグラム博士のキーワードが浮かんでいるからだ。

「なぁ、このパスワードってもしかして」

 博士のノートを手にしたジュールが口走る。しかしそんな彼の言葉を否定するように、アニェージが強く横やりを入れた。

「そんな都合よく事が進むはずないよ。単に停電から復帰した端末が、再び起動する為のパスワードを要求しているだけに決まっている。考え過ぎだよ、お前は」

 そうは言ったものの、アニェージの表情は硬い。彼女の言う事の方が遥かに現実的だが、どこか胸に詰まるシコリを感じているのだろう。だからこそアニェージは、まるで不安を打ち消すかの様に強く否定したのだ。ただそれでも釈然としない状況に、今度はガルヴァーニが(つぶや)いた。

「妙な違和感を感じるのは確かじゃ。じゃがパスワードは画面に映し出されているスペースを見る限り、4つの文字列なのであろうて。グラムの残したキーワードは『r=12.90』じゃ。小数点も含めれば文字数が合わんし、そもそも『r』がパスワードを意味する略語とも思えん。やはりこれはアニェージの言う様に、端末を再起動させるためのものなんじゃろう」

「でも――」

 ガルヴァーニの言う事はまさに正論だ。それでもジュールは納得出来なかった。悶々とした割り切れない気持ちにジュールは(さいな)まれている。するとそんな彼の気持ちを十分に理解したガルヴァーニが、重苦しい雰囲気を打開するために一つ対案を出した。

「ジュールよ。そんなに気になるなら、キーワードを打ち込んでみよ。何が起きるかは分からんが、そうするのが一番手っ取り早い。ほれ、早くせんと観測所の職員が来てしまうぞ」

 ガルヴァーニはそう言ってパスワードの入力をジュールに促す。彼もまた、状況に納得出来ていないのだ。ジュールはそんな老人の目を見つめる。するとガルヴァーニは黙って頷いた。その横でアニェージも同様に無言で頷く。最も簡単で早い解決法を指示されたジュールは、緊張を走らせる指先をタッチパネルに向けた。

 画面をスクロールさせ文字入力画面を表示させる。そして数字の配置されたテンキー部分を拡大表示させた。

「入力するぞ」

 ジュールの確認にそれを見守る二人が目だけで同意を伝える。震えるほど緊張する指先をディスプレイに押し付け、ジュールは小数点を除いた数字『1290』を入力した。

「ビコン」

 弾かれる様な電子音がすると同時に、入力したパスワードは却下された。そして再び画面には『パスワード:○○○○』と、パスワードを要求する文字が浮かび上がる。

「やっぱり違うのか」

「ちょっと代われ。ワシがやってみる」

 ジュールに代わってガルヴァーニがパスワードを入力する。そして老人はグラム博士の残したキーワードの文字を色々なパターンで入力した。しかしパスワードはそれら全ての承諾を(こば)み沈黙する。無反応な画面に三人は肩を落とすしかない。少なからず何かしらが起きる期待感を無意識ながら抱いていただけに、その落胆度は意外に大きかった。

「別の場所に手掛かりを探そうかのう。こればかりに目を向けたところで、何も解決はしなそうじゃ」

 ガルヴァーニが力なく呟く。するとアニェージが同意しながら付け加えた。

「そうだね。そもそもこんな目立つ場所に何かを隠すとは思えない。それに手掛かりの後半部分については、まだ何も掴めていないんだしね」

「ふむ。ならとりあえず三人別れて調査を始めるとしようかのう。それぞれが気になる場所を持ち寄って、その後みんなで再確認しに行くってのはどうじゃ」

 ガルヴァーニの提案にジュールとアニェージは頷く。そして三人は別々に観測所の捜査を開始した。


 正面ゲート近くのトイレに駆け込んだリュザックは、用を済ませたものの便座に腰掛けたままじっとしていた。

 彼は考えていた。突然身に降りかかった災難とも言える事態に、このまま身を投じて良いものかと。確かにあの喫茶店ではジュール達に協力すると約束した。だがこうして気持ちを落ち着かせ冷静に考えると、いささか安易に答えを出し過ぎたのではと思えて仕方なかったのだ。

「このままトイレを出て裏口あたりからトンズラこくのは簡単だきね。でも……」

 リュザックは思い悩んだ。彼がジュール達の前で語った事は本心で間違いない。神に喧嘩を売るのに腰が引けたわけではないのだ。それでも命懸けの仕事であるのに変わりはなく、改めてそう感じた彼の心は揺らいでいた。

 死ぬのは誰でも怖い。それも神が相手なら死ぬ確率は必然的に高くなる。ただ彼の怖いと思うところは少しそれとは違った。彼にとって死ぬ事は、ある意味どうでも良かったのである。問題なのはその死に方なのだ。間違っても犬死だけは御免である。そう思ったからこそ、リュザックの決心は揺れたのだった。

「ふぅ~」

 大きく溜息を漏らしながら彼は天井を見上げる。天体観測所のトイレらしく、そこには星座をモチーフにした絵が描かれていた。

「間違いなく、今日の俺の星座占いは最悪だでな」

 リュザックは誰にぶつけるでもなくそう吐き捨てると、外より太陽の明りが差し込む天窓に目を向けた。曇りガラスのはめられたその天窓は、観測所の形体の一部として融合するよう、少し表面が湾曲した三角形になっている。

「建物も変わってるなら窓の形も変わってるきね。誰が設計したのかは知らんけんど、物好きな奴も居るでよな」

 リュザックがそう思ったと同時に、トイレの照明が消えた。停電である。しかし彼のいるトイレの個室は南側の壁に接しており、その上部に設置された天窓から差し込む昼の太陽光のおかげで比較的明るいままだった。ただトイレの照明が消えた影響で、三角形の天窓に差し込む太陽光の明りが、より一層はっきりとした形を浮かび上がらせる。まるで三角形の三辺に内接するよう輝く太陽光。するとリュザックはそんな太陽光の中心に、浮かび上がる何かを見つけた。

「何じゃ、ありゃ?」

 降ろしたズボンはそのままに、リュザックは便座の上に立ち登る。そして彼は(まぶ)しさに目を細めながらもその天窓を覗き込んだ。するとそこには何やら四角い形をした模様が浮かび上がっていた。

「まるでマトリックス式の二次元バーコードみたいだでな」

 そう感じたリュザックは携帯端末を取出し、備え付けのカメラレンズをそのバーコードらしき模様に向けた。

「パシャ」

 模様を取り込んだリュザックの携帯端末が解析を始める。何かのデータを処理しているようだ。その間にリュザックは急ぎ尻を拭きズボンを履いた。

「ピロリン」

 可愛げのある電子音がすると、解析結果が携帯端末の画面に表示された。それを見たリュザックは少し身震いし冷や汗を掻く。そこに記された文字列の意味に心当たりなどまったく無い彼が、なぜそう感じたのかは分からない。それでもリュザックは自分自身を鼓舞するよう、気を引き締め直した。

「所詮俺は羅城門で死んでたはずだきね。こうなれば最後まで付き合うしかないぜよ」

 彼がどうして迷いを断ち切り決心し直したのか、それは彼自身も理解していない。彼の軍人としての本能が無意識に働いただけなのだろうか。ただ迷いなくトイレの個室を出たリュザックは、手を洗う事なくジュール達の所へと足を向けた。


 一通り観測所内を見て回ったジュール達三人は、もと居た月の模型の展示されている正面ホールに集まっていた。それぞれが個別に調査を進めたわけだが、残念なことに誰もこれと言って気になる場所を見つけていない。三人は暗礁に乗り上げたかの様に気落ちする。さらに多少の焦りも覚えはじめていた。

「本当に隅々まで探したんだろうな!」

 アニェージが苛立ちを露わにしてジュールに強く詰め寄る。ただそれに対してジュールの方も強く言い返した。お互いに気が立っているのだ。

「あんたこそ、ちゃんと探したのか。人を疑う前に、まずは自分の調査した場所に見逃した所が無かったか考えてみろよ!」

「なんだと! 私の調査にケチを付けるのか。お前の方こそ雑な調査しかしてないんじゃないのか!」

「ふざけんなよ! あんた、人の文句しか言えないのか!」

 人目を(はばか)らず言い争いを始めるジュールとアニェージ。苛立ちをぶつけずにはいられないのだろう。ただそんな二人を見兼ねたガルヴァーニが苦言を呈する。

「バカモンが。ここで言い争って何になるっちゅうんじゃ、少し落ち着け」

「ふん。ジジィ、お前だって何も見つけてないのに、偉そうに言わないでほしいね」

「何じゃと小娘が! ワシは状況を冷静に再確認しようとしとるだけじゃ。お前は黙っとれ、気分が悪くなるだけじゃわい。まったく女子(おなご)のくせに気の短い奴じゃ」

 ガルヴァーニは苦言を吐き捨てながらもテーブル上のディスプレイに視線を向けた。観測所の職員により復旧したのであろうか。タッチパネル式の情報検索端末であるそのディスプレイには、三人が初めに訪れた時と同じように各種の検索項目が表示されている。やはりパスワードは単純にこの端末を再起動させるものだったのだろう。そう思い直したガルヴァーニは、ホール内をボ~と見渡しているジュールに向け一つ質問を投げかけた。

「のう、ジュール。お前、グラムの奴から何か渡されてはおらぬのか? おい、聞いているのか」

 何か気になる事でもあったのか。ジュールはガルヴァーニの問い掛けに少し反応が遅れていた。

「何じゃ。何かあったのか?」

「え、あぁ。いや、何でもないです。気のせいでした。それよりも博士から渡された物ですか? そう言えば俺が博士と最後に会った時ですけど、新しく開発した玉型兵器を渡されました。何種類かあったけど、その内の一つはまだ完成してないとかなんとか言ってたな」

「なんじゃと! あの【玉】は今のお前が持っていたのか! どうりで見つからないはずじゃ」

 予想外のジュールの答えにガルヴァーニは意表を突かれ驚いている。

「じゃがジュールに渡したのは正しい判断じゃな。さすがはグラムじゃ。何も知らないとはいえ、ジュールに渡しておけば不条理な二律背反(にりつはいはん)を防げるからな。リスクが無い訳ではないが、考えたものじゃわい。それにしても、何時(いつ)グラムめに会ったのじゃ?」

 ガルヴァーニの不明瞭な発言内容を(いぶか)しく思うジュールであったが、それでも老人の質問に素直に答えた。

「一ヶ月ちょっと前位でしょうか。転勤になった軍の同僚を見送りに、中央駅に行った時です。そこで偶然会って、その後ガルヴァーニさんが博士に貸してたっていうスラムの研究室に行きました。そこで玉型兵器を渡されたんですよ」

 ジュールの言う事にガルヴァーニは一人頷く。彼の中で何か要領を得る事が出来たのだろうか。ジュールはそんな老人をただ不思議そうに見つめている。すると何かを思い立ったのか、ガルヴァーニがジュールに告げた。

「その玉はシュレーディンガーに渡せ。お前が持っていても意味の無いものじゃ。それでもいつの日か、きっとお前の役に立つ日が来るであろう。それにお前の手から直接シュレーディンガーめにその玉を渡すことこそに意味がある。そうワシは思えて仕方ない。今となってはのう」

「どういう事ですか? さっぱり意味が分かんないけど」

「未完成の玉。それが完全な姿と成り得た時、おのずと答えは分かるじゃろうて。今のワシにはそれしか言えぬ」

 的を得ぬジュールは黙るしかない。いや、彼はそれ以上聞き及ぶ事に躊躇し尋ねられなかった。それでもジュールはこの先に繋がる何か大切な物を博士から託されている様で、少し心が高ぶる気がした。そんなジュールにガルヴァーニは再度問い掛ける。

「それ以外には何か渡されなかったのか?」

「従来の玉型兵器を進化させる手法を記載したノートを受け取りました。でもノートは博士の指示でヘルムホルツに渡しました。あいつから聞いてないんですか?」

 ジュールは老人とアニェージの顔を順に見る。ヘルムホルツからは何も聞かされていないのか。二人は訝しく表情を歪めていた。

「ヘルムホルツの奴めには後でお灸を据えねばならんようじゃのう。まぁ、それはとりあえず置いといてじゃ。それ意外には無かったのか?」

「そうですね。俺に直接ってのはそれだけですね。玉にも論文に繋がる手掛かりらしいものは無いと思うし。あっ! 俺の彼女に何か渡してるかもしれない。あいつ経由で博士から手紙を渡されてるし、もしかしたらだけど、何か他にもらった物があるかも知れないよ」

「手紙?」

「あぁ、はい。最後のって言うか、別れのって言うか……。でも手紙の中には最終定理の手掛かりになるような事は何も書いてなかったと思うけど。あれには博士が俺に宛てた【想い】が(つづ)られていただけだからね」

 ジュールはアメリアから渡されたグラム博士の手紙を思い出した。そんなジュールに鋭い目つきのアニェージが言い寄る。

「なんだお前。彼女なんか居たのか」

 不意に発せられたアニェージの言葉にジュールはムッとする。

「居ちゃ悪いのかよ。これでも一生守っていくって約束した相手がいるんだ」

 ジュールは少し顔を赤らめながらも強くアニェージに対し言い返す。すると彼女は頬を少し膨らませながら、何とも言えぬ表情でソッポを向いた。そんな二人のやり取りをまったく気に留めていないガルヴァーニは、現状をどうにか打開したい一心(いっしん)でジュールに所望した。

「お前の彼女に連絡は取れんか。グラムから何か受け取った物はないか聞いてくれ。何でもいいんじゃ」

 ガルヴァーニには勘を頼りに考えている。グラムはジュールに大切な玉を託していた。ならば他にも何か渡していてもおかしくない。あいつはワシ達の行動の一歩先を常に考えておる。ならばワシらがこの場所で行き詰まる事も想定していたやも知れん。そう思えば思うほど、ガルヴァーニにはグラムが論文とは別に何か情報を残したはずだと感じてならなかった。そんな思い悩む老人の姿を見兼ねたわけではないが、ジュールは自分の携帯端末を使用してアメリアに連絡を取り始める。

「トゥルルル、トゥルルル……」

 仕事中で手が離せないのか。単に着信に気が付かないだけなのか。ジュールの呼び出しにアメリアは一向に出る気配を見せない。それでも着信記録が残っていれば、そのうち掛け直して来るだろうとジュールは安易に思った。だがそんな彼に対し、少し表情を強張らせたガルヴァーニが迫る様にせがんだ。

「時間が惜しい。どうにか連絡つかないもんか?」

 明らかにガルヴァーニは焦っている。常に余裕を持ち、冷静さを保っていたはずの老人が、なぜ急にこんな態度を示すのか。ジュールにはさっぱり見当もつかない。でもだからこそジュールにはその必死さが伝わり、どうにかしなければと懸命に模索した。そして彼は一つ提案する。

「なら直接彼女の職場に行ってみますか。ここからならそれ程遠くないし、時間も掛からないですよ」

 そうジュールが言い終わらないうちに、ガルヴァーニは観測所の出口に向かって歩き出す。

「早く案内せい。今直ぐ行くぞ。お前もボケッとするな、アニェージ」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ、ガルヴァーニさん」

 ガルヴァーニに即されるまま、ジュールもその後を追い駆けはじめる。そんな彼にアニェージが含み笑いをしながら声掛けた。

「そう言えば、お前の同僚のスケベおやじはまだトイレに行ったままなのか。フン、もうとっくに逃げ出しているかもな」

「そうだ! リュザックさんを忘れてたよ」

 すっかり記憶の外に置き忘れていた先輩隊士を思い出し、ジュールが立ち止まる。そんな彼に対し、老人は放っとけとばかりに無言で冷たい視線を向ける。――仕方ない。ここは先に進むことを優先するべきか。少し諦めた様に思い直したジュールは、足早にガルヴァーニを追い駆けた。するとその横合いから三人を呼び止める声が聞こえる。

「おい、どこ行くきよ。 用は済んだんかえ?」

 呑気な声に振り向いたジュールは、速足で自分達に近づいて来るリュザックの姿を見つけた。

「リュザックさん、早くこっちへ。場所を変えますよ」

「何じゃよ急に。便所を出たのは良いんけんど、お前らの姿が見えんで。観測所の中を探し回って来たところぜよ。それでやっと見つけたっちゅうに、今度は場所変えるってか。わけ分からんきね。まぁそれはそうと、ちょっとお前らに見てもらいたい物があるがよな」

 そう言ったリュザックは、ポケットから小型の携帯端末を取り出そうとする。しかしそんな彼を制止させながらジュールが口を開いた。

「今は時間が無いんですよ。とりあえず場所を変えますから、また後で聞かせて下さい」

「何ぜよ。時間は取らせないきね」

「おっさんは黙って着いて来い。グダグダ言うならこの場でシバくぞ!」

 不満げな表情を浮かべるリュザックに対し、アニェージが語尾を強めて(とが)める。

「そもそも長い時間トイレに籠っているお前が悪いんだ。軍の隊士なら体調管理くらいしっかりしとけ。もちろん手は洗って来たんだろうな」

「て、手は、そう……。洗ってないきね」

 バツが悪くアニェージの責めに何も言い返せないリュザックは黙り込む。だがリュザックはふと、観測所内の(かす)かな変化に気付いた。ただ彼は颯爽と先に歩むアニェージのヒップラインに見惚れてしまい、何も告げずにその後を追う。ジュールはそんな先輩隊士をやれやれと見守りつつ、観測所を後にした。そんな彼もまた、観測所の(わず)かな変化を感じ取っていたが、ジュールにはそれが何であるのか、明確に理解出来ていなかった。


 アメリアの務め先である花屋までは然程(さほど)時間は要しなかった。しかしアニェージの荒っぽい運転のせいで、リュザックは相当に気分が悪くなっていた。

「お前、本当にトランザムの隊士なの? 車酔いした軍人の姿なんて初めて見たよ」

「お、俺はこう見えてナイーブなんじゃきよ。でもあんたのスリリングな運転、(しび)れたぜ」

「アホだな、こいつは」

 そんなやり取りをする二人を車に残し、ジュールとガルヴァーニは花屋の中へアメリアを訪ねていた。

 ジュールは少し緊張していた。アメリアの勤務するこの花屋へは数えきれないほど顔を出している。それでも彼は女性はかりのこの職場が苦手であった。

 決して女性に対して抵抗を覚えているわけではない。ただ日頃より男臭い軍人業を営む彼にしてみれば、植物に囲まれた女性ばかりのこの場所はまるで別次元の空間であり、妙に息苦しく感じられたのだ。

 店内に客らしき者は見当たらない。それどころか店員も何処にいるのかわからない。それほど広くない店内だったが、所せましと花や木々が並べられているため非常に見通しが悪かった。そんな店内をジュール達は落ち着かない素振りで進む。すると店の奥から女性の声でジュールは呼び止められた。

「あら、ジュール君。また来たのね。アメリアならまだ帰って来てないわよ」

 作業服代わりのエプロンを身に着けた一人の女性が、ジュール達に歩み寄って来た。

 歳の頃は三十代後半と言ったところか。スラリとした体型にも関わらず、どこか風格のような落ち着いた存在感を感じさせる。にもまして笑顔を見せるその表情はとても柔らかく、言い様の無い緊張感を覚えていたジュール達の心を安堵させた。

「お世話になります、店長。ちょっとヤボな用事でアメリアと話がしたかったんですけど、あいつ配達ですか?」

「いいえ、プルターク・モールに行っているのよ。それも人探しにね」

「人探し?」

「そう。お昼くらいなんだけどね、アメリアが店先で花に水やりしてた時に、迷子になった女の子を保護したのよ。それで彼女、その女の子が友達と(はぐ)れた場所だっていうプルターク・モールに行ってるのよね。アメリアは御人好しだから」

 少し呆れた表情ながらも、女性店長はアメリアの行動に理解を示しているようだ。そんな店長に対し、ジュールは申し訳なさそうに頭を下げながら言った。

「ご迷惑を掛けて済みません。責任感を持って仕事をしろって、アメリアには俺からも言っておきますんで。今回の事は大目に見てやってくれますか」

「良いのよ、気にしないで。小さな女の子が困っていたら、手を差し伸べるのが大人の責任よ。そう言った意味では、アメリアは十分義務を果たしているんじゃなくて」

 ニッコリと微笑む店長に見つめられ、ジュールはなぜか顔が赤くなった。そんな彼を見つめていた店長が、思い出したかのようにジュールに告げた。

「そう言えば少し前なんだけど、軍の方がアメリアを訪ねて来たのよ。あなたの知り合いだとも言ってたわね」

「俺の知り合いの軍人?」

「うん、そう。お顔はまだ少年の様にあどけなくて、とても軍人さんには見えなかったの。でも黒い制服を着ていて。あれって確かアダムズ軍の中でも、かなり高い階級の人が着るものなんじゃなかったかしら」

 間違いなくテスラだ。ジュールは直感としてそう思う。でもテスラがアメリアに何の用があるんだ? 予想だにしないテスラの行動にジュールの胸が(うず)き始める。

「それで店長。その軍人にアメリアの行き先を伝えたんですか?」

「ええ。本物の軍人さんだったし、あなた達の知り合いだって言うものだから、プルターク・モールに行ってるって伝えたわ。いけない事だったの?」

「い、いえ、とんでもない。何の問題もないですよ」

 怪訝な表情を浮かべる店長に対し、ジュールは無用な気遣いはさせまいと煙に巻いた。

 現状はまだ何も分からない。それにいくらテスラの行動に疑念を抱いているとしても、アメリアに対し何か危害を加えるとは考えられない。それでもジュールは根拠のない不安感に苛まれる。彼は店長に軽く頭を下げると、ガルヴァーニを引きつれ早々と店を出た。ただ女性店長の心使いに感心したガルヴァーニが、ジュールの胸の内とは裏腹に上機嫌で話し出した。

「なかなか器の大きなご婦人であったな。彼女の言う事は全て正しい。じゃが経営者であるなら尚更仕事を中断して人探しを手伝うなど、容認できる事ではないはず。女性ならでは――と、一言で片づけるには耳が痛いのう。見習いたいものじゃ。それよりどうかしたか、ジュールよ。顔色が悪いぞ」

 ジュールの態度をガルヴァーニは気に掛ける。しかしジュールはそんな老人の声がまるで届いていないかの様に返した。

「急いでプルターク・モールに向かいましょう。そこでアメリアに会えば分かるはずです」

 少し噛み合わない返答に危惧しながらも、ガルヴァーニはそれ以上何も問わなかった。

 車へと戻ったジュールは待機していたアニェージに行き先を伝える。するとアニェージはジュールの表情の変化に気づき言った。

「なんだ、彼女いなかったのか。でも表情が硬いよ。何かあったの?」

「早く出してくれ。行けば分かる」

 ジュールの奴、どうしたんだ。アニェージはそう思うも、ガルヴァーニと同様にそれ以上は何も問わなかった。ただジュールの中で良くない感情が急激に高まっている。アニェージはそう感じ取り、人知れず背中に冷たい汗を掻いた。それでも彼女は平静を(よそお)いエンジンを掛ける。すると後部座席から弱った声でリュザックが(なげ)いた。

「安全運転で頼むき」


 先日の地震騒ぎの影響なのか、プルターク・モールはどこか閑散(かんさん)としていた。所々に警察部隊の姿も見える。それに施設の点検や補修を行う業者の姿もあちこちで確認できた。そんな施設の関係者達を横目に、ジュール達一行はアメリアを探しながらモール内を進む。その中で、ジュールは騒ぎの原因の一部が自分とアニェージによる戦闘行為なのだと思い、何となく引け目を感じていた。するとそんなジュールの気持ちを察したのか、同じ当事者であるアニェージが小声で(つぶや)いた。

「普通にしていれば問題はないよ。先日とは服装も違うし、目撃者だってそうはいないはずだしね。それより彼女とは連絡つかないの?」

「さっきから何度も端末で呼んでるんだけど、全然出る気配がないんだ。面倒だけど、直接探し出すしかなさそうだよ。それにしてもアニェージ、あんた案外楽観的なんだな。そう言えば、あの日あんたはここで何してたんだよ?」

 ジュールはアニェージの横顔を見ながら問い返す。しかし彼女はそれを無視するかの様に、モール内を見渡しながら歩みを進めていた。

 少し客足が遠のいた感じがするとはいっても、それはいつもに比べればと言ったところ。王国の中でも最大級のショッピング・モールはそれなりの人々で溢れている。ましてアメリアと同じ二十代中頃の女性など、至る所に見受けられるのだ。特徴こそ伝えられてはいるが、アメリアと面識のないアニェージはそれらしき人影を見つける事に注視している。そんな彼女の横顔を見れば、故意に自分の質問を無視したわけじゃないと思えた。ただそれでも気になるジュールは再度アニェージに問い掛け直す。

「なぁ、アニェージ。この間はここで何してたんだよ?」

「ん、――あぁ。私はヘルムホルツからここが例の場所の一つだって聞かされていたからね。それを確かめる為に来ていたんだよ。そしたら偶然このジジィを見かけてさ。声を掛けようと後を追っていたら、ジジィとは別に不審な男を見かけたんだ」

「不審な男?」

 ジュールは小首を傾げる。するとアニェージは含み笑いを堪えながら彼の肩に手を置いて言った。

「お前の事だよ。クククッ――」

 アニェージは声を殺して笑っている。ジュールはそんな彼女を見ながら、チェと舌を鳴らし不満げに口をとがらせた。人を小馬鹿にしやがって。ジュールはそう腹を立てるも、携帯端末を手に取り再度アメリアを呼び出そうとする。するとその横で笑いを収めたアニェージがガルヴァーニに(ささや)き掛けた。

「そう言えばガルヴァーニ。あんたこそ、ここで何してたのよ? あんたはあの日、待ち合わせの喫茶店に来なかった。だから私は一人でここに来のよ」

 先程までの笑い顔を消し去ったアニェージがガルヴァーニを鋭く見つめる。だがどういうわけか、老人は決まり悪そうに口ごもっていた。

「まぁ、ワシにも色々あるゆえのう。細かい事は気にするでない」

「何だよそれは。答えになってないよ」

 アニェージが不満を露わに吐き捨てる。そんな歯切れの悪い老人の態度にジュールも(いぶか)しさを感じた。この老人は何処まで知っているのか。何を知り得て、何を探しているのか。ガルヴァーニは知り得る情報全てを伝えると言った。それなのにこの老人は、自分やアニェージに隠している事が未だに多過ぎる気がする。それが意図的に伏せられているのかどうかは分からない。ジュールはガルヴァーニの不可解な態度を見て、改めてそんな不信感を覚えていた。だがそんな時、ジュールの手にする携帯端末が小刻みに振動し着信を知らせる。

「アメリアか。今どこにいるんだよ」

 着信はアメリアからだった。ジュールは彼女に居場所を尋ねる。どうやら何度も着信があった事にアメリアは驚いているようだ。通信越しにアニェージ達にもそれが伝わる。ただ彼女の居場所が判明した事で、ジュールはそこへ向かおうと先頭に立った。

「アメリアは五階のフードコートエリアにいる。この間あんたとやり合った場所のすぐ近くさ!」

 ジュールはアニェージに大声でそれを告げると、エレベーター乗り場へと速足で進み出した。

「バカ、声がデカいよ。周りを気にしてないのはお前の方じゃないのか」

 アニェージは無頓着なジュールの行動に憮然とする。それでも彼女は遅れを取るまいと、ジュールの後を早足で追った。


 フードコートに到着したジュール達は、テーブル席に腰掛けるアメリアの姿を直ぐに見つけ出す。ただ花屋の店長が言っていた、迷子の幼い女の子の姿は見当たらない。だがアメリアは一人では無かった。少女の代わりと言うわけではないが、彼女の正面には黒い制服に身を包んだ一人の王国軍隊士が同席していたのだ。

 ジュールは意味の分からない憤激に駆られ気持ちが波立つ。彼は抑えどころの見つからない感情を露わにし、アメリアの前に腰掛けるその隊士にいきなり詰め寄った。

「テスラ! お前こんな所で何してんだ!」

 ジュールはいきり立つよう柳眉(りゅうび)を逆立て声を上げる。なぜこれほどまでに気持ちが激高するのか。それはジュール自身にも分からない。ただ彼は本能に支配されるがまま、テスラの前に立ちその襟元(えりもと)を掴んだ。ジュールは今にも拳を振り上げそうな勢いだ。するとそんな彼をアメリアが慌てて制止させる。

「やめてよジュール! テスラ君が何をしたっていうの。彼はただ、リーゼ姫の使いとして私に会いに来ただけなのよ!」

 アメリアの呼び掛けを聞いたジュールは動きを止める。しかし掴んだテスラの襟元は離さない。彼は怒気で染められた鋭い視線でテスラの目をじっと睨み続けている。そしてテスラはその眼差しを真正面から受け止めていた。そんな二人に気が気でないアメリアが、もう一度制止を呼び掛けた。

「やめてよ二人とも。何があったっていうの、二人は友達でしょ!」

 アメリアは瞳を薄らと赤らめながら訴える。そんな彼女の言葉にジュールは襟元を掴む拳から少しだけ力を抜いた。それでも収まらないジュールは依然としてテスラを睨みつけている。

「リーゼ姫の使い――だと?」

 その問いに、テスラもジュールの目を強く見つめ返しながら言った。

「そうだよ。僕は姫からの言伝(ことづて)をアメリアに届けに来ただけさ。さぁ、もういいだろ。苦しいから手を離してくれよ」

 テスラは襟元を掴むジュールの手を軽く払う。そして乱れた襟を正しながら席を立った。

「じゃぁ、僕はこれで失礼するよ。要件は済んだからね」

 テスラはそう言って何事もなかったかの様に立ち去ろうとする。そんな彼に向かい、まだ腹立ちを抑えきれないジュールが再度問うた。

「テスラ。トランザムの処遇の件は知っているな。お前はそれをどう思っている。お前はどこまでを知っている。――いや、それよりも今、お前は何を考えているんだ!」

 ジュールの質問にテスラは立ち止まる。そして彼は振り向くと同時にジュールの襟元を掴み取り、グッと彼の顔を引き寄せた。

「もうグラム博士に関わる詮索はやめなよ。このまま続ければ、君だけじゃなくアメリアにも本当に危険が及ぶかもしれない」

「なんだと、どういう事だ!」

「これ以上は言えない。でも忠告はした。あとは君次第さ――」

 そこまで言ったテスラはジュールの体を軽く突いて距離を広げた。そしてテスラはじっとジュールの目を見つめる。その視線から感じる異様な冷たさに、ジュールはゾッとして何も言えなくなった。そんな棒立ちのジュールを前にテスラは、そっと目を閉じると無言のまま振り返り、その場を立ち去って行った。

 険悪な空気が漂う中でジュールはただ拳を強く握りしめていた。意味の分からない苛立ちに彼の拳は震えている。そんな彼の姿に周りに佇むアメリア達は、何の声も掛けられなかった。ただその時だ。不穏な状況を振り払う様な少女の声が高鳴る。

「ガルヴァーニおじいちゃん!」


 幼い少女が叫びながらガルヴァーニに抱きつく。

「おじいちゃん!」

「テレーザ! テレーザじゃないか! なんでお前がこんな所におるんじゃ」

 目に大粒の涙を浮かべた少女の体をガルヴァーニは優しく抱きしめる。すると堪えていた感情が一気に噴き出したのか、少女は声を上げて泣き出してしまった。

「よしよし。もう大丈夫じゃ。安心せい、安心せい……」

 ガルヴァーニは少女の頭を撫でながら温和な言葉を幾つも投げかけている。老人の驚き方からして、少女がなぜ首都を訪れているのか、その理由は知らないはず。それでもガルヴァーニはいたずらに少女を責めたりはせず、ただ温かく受け入れていた。

 老人の意外な優しい一面を目の当たりにし、感情的になっていたジュールは少し冷静さを取り戻す。そして彼は鼻をすする少女の態度が次第に落ち着いて行くのを察し、ホッと安堵した。

「はい、どうぞ」

 目を赤く染め上げ、鼻水を垂らす少女にアメリアがハンカチを渡す。少女はそのハンカチを受け取ると、まだ止まる気配のない涙を抑えながら顔を伏せた。

 想いが込み上げ、上手く言葉が発せられないのだろう。そんな少女に代わり、ガルヴァーニがアメリアに礼を告げた。

「ありがとう、お嬢さん。これでお嬢さんの世話になるのは二度目じゃな。それにしても、まさかお嬢さんがジュールの彼女じゃったとはのう。世間が狭く感じられて驚くばかりじゃわい」

 ガルヴァーニはアメリアに笑顔を向ける。そしてアメリアもまた、老人に笑顔で応えた。

「私もびっくりしました。でもどうしてお爺さんがジュールと一緒にいるんですか? やっぱりお爺さんはグラム博士と関係がある人なんですか?」

 目を丸くしながら尋ねるアメリアに対し、ガルヴァーニは少し照れくさそうにはにかんでいる。若い女性と話す事に抵抗を感じる性格とは思えないが、なぜか老人はアメリアを前に恥らう素振りを見せていた。

「どうしたジジィ。ジュールの彼女に一目惚れでもしたのかい?」

 アニェージがからかう様に横やりを入れる。すると満更でもなさそうに、ガルヴァーニは赤面しながら反発した。

「冗談を言うではない、この小娘が。お前と違って気立ての良いお嬢さんじゃからな。少し緊張しただけじゃわい」

 ガルヴァーニは誤魔化しながら反論する。その姿はまるで、むきになって反抗する幼い子供の様にも見えた。ジュールにはそれが女性を苦手としていたグラム博士の態度にそっくりな気がして微笑ましく思う。だが次の瞬間には、老人はいつもの隙のない姿へと戻っていた。老人は(いま)だ自分に(いや)しみの視線を浴びせているアニェージを無視し、真剣な表情でアメリアに問い掛けた。

「ワシとグラムは親類関係にある。見ての通りの容姿ゆえ、幼き頃は本当の双子の様に過ごしたもんじゃよ。ところでアメリアさん。そなたに一つ尋ねたい事がある。聞けばグラムよりジュールに宛てた手紙を託されたそうじゃが、それ以外に何か受け取らなかったか? 別にジュールにではなくて、そなた自身に託された物でもいい。何か受け取りはせんかったかのう?」

「グラム博士から(もら)った物ですか。それならこれが――」

 そう言ってアメリアは自分の頭部を指さす。そこには少しレトロで奥ゆかしい、赤いカチューシャが髪を飾っていた。


 赤ワインの様な濃い赤色の(うるし)で染められた木製のカチューシャ。ガルヴァーニはアメリアから手渡されたそれを入念に観察している。通常この手の製品はプラスチックや金属製の物が主流のはず。ただアメリアがグラム博士から受け取ったカチューシャは何かの木を丁寧に湾曲させたもので、非常に手の込んだ造りになっていた。

 しかしその造形自体はシンプルで控えめなものである。そして案の定、これと言って変わった所は見つけられなかった。

「なんでも百年以上前に、桃の木を使って造られた物なんだって。流行物(はやりもの)ではないけど、私に似合うだろうからって。博士はそう言って私にくれたの」

 アメリアは博士からそのカチューシャを貰った時の事を思い出し、微笑みながら皆に告げた。

 よほど腕の立つ職人が造り上げた物なのだろう。見た目にはそこまで古い物には見えない。いや、見方によってはむしろ新しくも見える。そんなカチューシャを(つぶさ)に観察していたガルヴァーニは、背にしていたリュックより懐中電灯を取り出した。そして老人は(とも)した懐中電灯の光をカチューシャの表面に当てる。すると不思議な事に、光の照射されたその表面に何かしらの模様が浮かび上がっていた。

「何だ?」

 ジュールは老人が手にするカチューシャを覗き込む。光によって浮かび上がった模様。それは一つの文章を現していた。そしてそれを見るガルヴァーニは、ジュール達に聞こえるようその文章を読み上げた。


『すべては有限なる無限の三角形にして成立するものなり』


 ガルヴァーニが口にした文章に、ジュールは思わず声を上げる。

「それってグラム博士がいつも口癖のように言ってた言葉じゃないか」

 ジュールは幼き頃に博士よって度々聞かされた呪文の様な言葉に懐かしさを覚える。だがそれと同時に胸の内が震える奇妙な違和感を感じた。

「手の込んだ仕掛けをしたモンじゃ。じゃが解せないのう。なぜグラムはこのような仕掛けをこんな物に(ほどこ)したのか」

 首を傾げるガルヴァーニは更に細かくカチューシャを調べている。

「なんで光で文字が浮かび上がったの?」

 アメリアが驚きながらジュールに問い掛けた。

「俺にだって分からないよ。でも恐らく博士が研究していた科学理論でタネが仕掛けられていたんだろう。でも重要なのはそこじゃない。浮かび上がった博士の言葉。きっとこの言葉に意味があるはずだ」

 博士の口癖だった言葉。幼き頃、ジュールはその意味を博士に聞いた事があった。しかし博士は微笑むばかりで、結局その意味を伝えなかった。なぜ博士はこの言葉を度々口にしていたのか。ジュールにはこの言葉が、何かの秘密を解き明かす本物の呪文のように思えて仕方なかった。――とその時、

「こ、これは!」

 カチューシャの裏面を見ていたガルヴァーニが声を漏らす。

「どうしたジジィ。他に何か見つけたのか?」

 アニェージが怪訝な表情で尋ねる。そんな彼女の目をガルヴァーニは少し見つめると、その視線をカチューシャに戻した。そして懐中電灯の光を裏面に当てる。すると表面と同様に、裏面にも一つの文章が浮かび上がった。老人はゆっくりとその文章を読み上げる。


『虚数とは神なる精霊の頼もしき拠り所にして、存在と非存在の相半ばするものなり』


 その文章を聞いたジュールがまたも声を上げた。

「それって【ライプニッツ】さんの……」

 ジュールは息が止まるほどに一驚を喫する。そしてそんな彼の驚きにつられるよう、ガルヴァーニも声を上げた。

「ライプニッツじゃと!? お前、ライプニッツに会った事があるのか?」

 ジュールは(いま)だ驚きを隠せないでいる。それでも彼は必死に落ち着きを取り戻そうと、(あふ)れ出る(つば)を無理やり飲み込みながら答えた。

「そ、そりゃ博士の【助手】だった人だから。まだガキの頃だったけど、何回かライプニッツさんに会ってますよ。そしてその時に口にしていた不思議な言葉。意味は知らないけど、博士の言葉と同じで妙に印象深く記憶に残ってるんですよね」

 昔を思い出しながらジュールは続ける。

「博士にとって王立協会は敵みたいな存在だったけど、ライプニッツさんだけは違った。あの人は博士にとって唯一心を開ける科学者だったし、それにライプニッツさんも博士の事を凄く慕っていた。俺は忘れられないよ。博士がライプニッツさんと談笑している姿を。博士が誰かと楽しそうに話をするなんて、滅多になかったからね」

「もう一度念を押すが、この裏面に浮き出た文章。ライプニッツの言葉で間違いないのじゃな」

 ガルヴァーニが強く確かめる。その眼差しにジュールは無論とばかりに頷いた。

「ライプニッツさんの言葉だっていうのは断言出来るよ。でもあの人はもう――」

 そう口にしたジュールの表情は硬い。(つら)い記憶を思い出しているようだ。だがガルヴァーニはそんな彼の目を(にら)む様に鋭く見つめながら、確信めいた表情で一人頷いた。

「この文章がライプニッツのもので確かじゃとすると、やはりあのノートの当初の持ち主はあやつという事か。これで大筋は繋がるというもの。グラム以外で虚数の真理に手を掛けるとすれば、ライプニッツの他には考えられんしのう。じゃがどうしてライプニッツは直接ノートをグラムに手渡さず、他の者を経由させたのか。そんな回りくどいやり方をせんといけない理由があったというのか。(かなめ)の部分は依然として不完全であるのに変わりはないか――。いや待てよ!」

 何かを思い出したガルヴァーニは、ジュールにグラムのノートを渡すよう指示する。ジュールは意味が分からなかったが、ポケットからノートを取出し老人に渡した。するとガルヴァーニは色あせたノートの背表紙に目を向ける。そこにはこう(しる)されていた。

『虚数の意味するものとは』

 その文章をガルヴァーニは囁くような小声で口にする。ただそんな老人に対し、痺れを切らせたアニェージが詰め寄った。

「どういう事だ! 何を一人で納得している。私達にも聞かせなよ!」

 噛み付く態度のアニェージに同意しながらジュールもガルヴァーニを強く見つめる。すると老人はジュールの目をそっと見返しながら現実を語り出した。

「ライプニッツは十年前に交通事故で死んでおる。それもひき逃げでじゃ。(むご)い死に様じゃった。その表情からして、お前は知っていたようじゃな、ジュール。じゃがお前はライプニッツの死に不可解な点が数多く存在する事は知るまい」

「不可解な点?」

「そうじゃ。そしてそのライプニッツの死に(まつ)わる不審極まりない謎こそ、現在ワシが調査しておる案件の一部なんじゃよ」

 そう告げたガルヴァーニは、手にしていたカチューシャをアメリアに返すと、重い腰をゆっくりと椅子に預ける。そしてジュール達が固唾を飲み見詰める中で、十年前に起きた【ひき逃げ事件】の不可解な事象を静かに語り始めたのだった。

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