#36 鳥雲に入る夜空のパラドックス(三)
「まずワシはグラムの依頼通りに、託されたこのノートをグリーヴスのシュレーディンガーに届けた」
ガルヴァーニは穏やかだった表情を一転させ真顔で語り始めた。
「ノートの内容を確認したシュレーディンガーは、グラム同様ワシに対して協力を仰いだ。無論ワシも協力するつもりでおったのじゃが、急に解決せねばならぬ別件が発生してしまってのう。ワシにとってはその別件の方を優先せねばならぬ事態でな。ワシの方から尋ねて行ったというのに、シュレーディンガーには申し訳なく気が引けたモンじゃよ。じゃがそんな思い悩むワシを見かねたのか、シュレーディンガーは腹心のアニェージを独自に動かす事に決め、そのサポートをワシに頼んだ。それならワシも別件の調査の合間に協力出来るからのう。それにこの子娘とは妙な縁があってな。まぁ、勝手知ったる仲というやつじゃ。仕事を進めるのに不都合はそれほど無かったわい」
話を聞くアニェージが鋭い視線を老人に向けている。いらぬ事は話すなと釘を刺しているかの様だ。そんな視線に気づいたガルヴァーニは、少し頭を掻きながら話を続けた。
「このノートに記載されている内容を調査したシュレーディンガーは、グラムの導き出した【真理】を紐解く鍵を見つけおった。それが二百年前に実在した科学者である【フェルマー】の書き残した論文であるという事をのう。フェルマーは一風変わった科学者であったらしい。奇想天外な研究を繰り返し、また人付き合いが苦手な性格であったもんで、彼は周囲より変人と蔑まされていたようじゃ。ただそんなフェルマーの功績は、二百年経った現在になって改めて凄まじいものであったと認められておる。そう、彼の導き出した科学理論こそ、現在の統一された科学理論である『光子相対力学』の基礎となったものなのじゃからな」
ガルヴァーニは感心しながら話しを続ける。
「そんな偉大な科学者でありながら、フェルマーはその生涯に論文を4つしか発表しとらん。それも最後に発表した4つめの論文は未完成ときている。論文は世に出されたものから順に【二月の論文】【三月の論文】【六月の論文】【九月の論文】と題され、それら4つの論文を称して【フェルマーズ・リポート】と呼ばれたらしい。ただ単に、その月に発表されたために安易に名づけられたそれらの題名には、何らおかしな事はない。重要なのは中身じゃ。二月から六月の論文には、光子相対力学の礎となる科学理論が記されとった。じゃが最後に書かれた九月の論文には、先に書かれた3つの論文とは明らかに異なる内容が記載されておったという。その内容とは、先に書かれた3つの論文を【全否定】するというもの。なぜフェルマーがその様な論文を書いたのかは分かっておらん。じゃがその九月の論文に書かれた内容より、恐らくグラムは何かしら光子相対力学の綻びを見つけ出し、神に対抗する手段として確立したのだろう」
「そのフェルマーって科学者の書いた論文てやつが、博士がアダムズのどこかに隠した【最終定理】ってものなんですか? それにアニェージがヤツに奪われたっていう」
ジュールの問い掛けに頷きながらガルヴァーニは続ける。
「そうじゃ。グラムが遺産として国の各地に隠した【最終定理】こそ、フェルマーの直筆で書かれたオリジナルの原文じゃ。そして最も重要なのが最後の論文である【九月の論文】。未完であったその論文を、グラム自身が波導量子力学の理論で補完し完全な姿としたのだ。それこそが光子相対力学を欺き、神を葬る術を秘めている唯一の存在だと言えるのじゃろう。まさに神への挑戦状じゃよ。そしてグラムの残したこのノートに、最初の論文を隠した場所の手掛かりが記されておった。それを見つけ出したシュレーディンガーは、ワシの記憶をもとに行ったアニェージの捜査で【二月の論文】を発見する。その論文には、次の論文を隠す場所を示唆するヒントが記されておった。ワシらはそれをもとに、次の【三月の論文】をも探り出した。じゃがお前の言う様に、せっかく手に入れた論文は突然現れたヤツに盗まれてしもうた」
「でもそれを追って、あなた達はルヴェリエに来たんでしょ?」
ガルヴァーニは頷きながらノートのページを捲り、そこに書かれた文章を指さし言った。
「これが三月の論文に書かれていた、次の論文の隠し場所の手掛かりじゃ」
ジュールはガルヴァーニの指さす場所を覗き込む。そこにはこう記されていた。
『懐かしの部屋に掲げられた太陽に隠れし光を見つけよ。それは内角180度以上の三次元宇宙の内心を示すものなり』
まったくもって意味不明な言葉に、ジュールは首を傾げるばかりだ。そんな彼にガルヴァーニは、思い出す様にして呟いた。
「その文章。後半部分の意味は未だに分からんが、前半部分を見た時にワシはピンと来た。スラムの家の壁に掛けられていた絵画の事をのう。実はグラム潜んでいたスラムの部屋はワシの持ち物でな。長年使っていなかったのをグラムに指摘されて、部屋を貸していたんじゃよ」
「本当ですか」
「あぁ、本当じゃよ。それで確か、ボーアの反乱が佳境を向かえていた頃だったか。一度だけその部屋を訪れた事があってのう。その時に見た、壁に掛けられていた絵を思い出したのじゃよ。グラムが部屋に絵画を飾るなど、珍しい事だと妙に印象に残っていたんでな。グラムは友人からの贈り物じゃと笑っていたがのう」
「それで」
「まだ朝の早い時間だったか。ワシはルヴェリエに到着してすぐに、グラムの住んでいたスラムの部屋に向かった。部屋の中は酷く荒らされておってな。グラムを拘束するために、コルベットの奴らが押し入った時に散らかしたのだろうて。ただその中でボロボロに傷付けられた一つの絵画を見つけた。そしてワシは手掛かりの文章の前半部分を思い出しながら、その絵画を手に取り調べたんじゃよ」
「前半部分の【懐かしの部屋に掲げられた太陽に隠れし光を見つけよ】ってところですか?」
「そうじゃ。絵画は古代の都市を描いた空想画じゃったが、その左上には燦々と輝く太陽が描かれておった。そして太陽に隠れし光を見つけよの言葉通りに、ワシは絵画の太陽の部分に隠されたキーワードを見つけ出したんじゃ」
そう言ってガルヴァーニはノートを捲る。そこにはこう記されていた。
『r=12.90』
「これがその、キーワード?」
ジュールはまたも意味不明な文字列を目にし、訳が分からなくなる。そんな彼を気遣うように、ガルヴァーニは続きを話した。
「このキーワードが何を意味しているのかはワシらにも分からん。恐らくは手掛かりの後半部分に関係があるのじゃろう」
「でも後半部分の意味が分からないんじゃ、先に進めないじゃないですか」
「確かにな。じゃがそれを嘆いていたらそこまでじゃ。袋小路にぶち当たった時こそ、手元にある身近な物からもう一度よく見直してみるものじゃよ。案外手掛かりは足元などに転がっている事があるからのう」
にんまりと微笑むガルヴァーニ。その表情に、ジュールは本物のグラム博士を見ている様に感じた。まるで博士が自分に謎かけをして楽しんでいるかの様に。それでも彼は胸に詰まる疑問を投げ掛けた。
「何か後半部分を示す手掛かりがあるんですか?」
「確証は無い。じゃが、二つほど気になる点がある。それらは同じ絵画より気付いた点じゃ。一つは絵画のタイトル。そしてもう一つは絵画に描かれていた中身じゃ」
「タイトルと描かれていた中身?」
「そう。まずタイトルじゃが、これは絵画の裏面に表記されておった。そのタイトルは『午後二時に浮かぶ宇宙からの伝言』じゃ。そしてもう一つ、絵画に描かれていた中身。先にも言ったように、絵画は古代の都市を描いたもの。その中心には巨大な塔が建ち、太陽の光を浴びたその塔の根元からは、長い影が伸びていた。ポイントはその長く延びた影の先に描かれていた物体じゃ。そこには丸く白い色をした、球体の様な物体が描かれておった」
いまだ話の内容を把握しきれていないジュールは、ただ黙って聞いている。
「かなり小さく描かれたその白い球体は、塔からかなり遠い場所に描かれておった。それでも現実の尺度に置き換えたとすれば、そこそこ大きな建造物を指し示す事になる。そしてこの首都において、いやアダムズ全域においてもじゃ。巨大な塔といって思い浮かぶ場所は一つしかない」
「プルターク・タワーですね!」
「そうじゃ。そしてタワーの影の差し示す先に、絵画と同じように白く球体形状をした建造物が現実に一つだけ存在する。それも絵画のタイトルと同じく、午後二時に伸びるタワーの影の先にのう」
「それって、まさか……天体観測所!?」
ジュールは今朝アメリアから聞いた話を思い出し口走った。そんな彼の目を見つめガルヴァーニは頷く。
「何やら日蝕が近いとかで、ちょっとしたスポットになっとるようじゃの。まぁ、星に願い事をする人間にとってみれば、天体観測所は願いを成就する場所としては打って付けなのかも知れんからな」
「何の事です?」
物思いに耽る様発言したガルヴァーニの言葉に、ジュールはキョトンとした表情で聞き返す。すると老人は少し慌てるように発言を打ち消した。
「いやいや、何でもない。気にせんでくれ。それより今からワシとアニェージはそこに行くつもりじゃ。もちろんお前も同行するな」
老人からの働き掛けにジュールは強く頷く。
「すぐに出発しましょう。多少渋滞していたとしても、今から向かえば二時前には着くでしょうから」
そう言って彼は席を立った。
「チッ。余計な仕事は増やすなよ」
アニェージがジュールに苦言を呈する。敵になりはしないだろうが、それでもジュールの行動に懸念を抱く彼女は心許ない感じがした。そんなアニェージに対し、ジュールは自信ありげに胸を張る。
「安心してくれ。何があってもあんたの事は俺が守ってやるさ!」
「はぁ。こいつは手におえないバカだな」
やれやれと言った風に、アニェージは溜息を吐いた。
「まぁ、お互い仲良くやってくれ。ワシはもう歳じゃから無茶は出来ん。若いお前達を頼りにしておるゆえ、四の五の言わず励んでくれよ」
ガルヴァーニは席を立つと、店内を奥へと進み出した。
「どこ行くんだよ、ガルヴァーニさん」
「トイレだろ、ほっとけ。ジジィなんだ、途中で漏らされても敵わん」
アニェージが苛立つようジュールに向け強く言う。
「何怒ってるんだよ。俺が何かしたか?」
「ジジィが戻るまで黙って座っていろ!」
不機嫌に気が立つ素振りを見せるアニェージに対し、今度はジュールが呆れるように溜息を漏らした。
ジュールは椅子に腰かけ直しながら、不満の鬱積するアニェージに少し恐縮するよう尋ねた。
「一つ教えてくれないか」
「……」
横を向いた顔はそのままに、アニェージは冷たい視線だけをジュールに浴びせる。何を怒っているんだとジュールは意味が分からなかったが、そんな彼女に低姿勢のまま質問を投げ掛けた。
「別に答えたくなければ言わなくていいけど、あんたらの見つけた二つの論文ていうのは、何処に隠されていたんだよ?」
アニェージはジュールに視線を向ける。しかし彼女は直ぐにその視線を外した。どういう訳か嫌われたもんだな――と、苦笑いを浮かべながらジュールもまた彼女から視線を外した。ただその時、静かにアニェージが呟く。
「二月の論文はパーシヴァル王国。三月の論文は南部の街ラングレンにあった。いずれもグラム博士が研究の為に使用していた小さなラボだったよ」
突然話し出したアニェージにジュールはハッと顔を上げる。だがそんな彼に構う事なく彼女は続けた。
「それら二つの論文の隠し場所については、ガルヴァーニの記憶を頼りにした事もあって、比較的容易に見つけ出せた。それに手掛かりとなる文章も具体的な事が書いてあったからね。だけど今回の六月の論文についてはさっぱり意味が分からない。暗号というよりは、老人の悪ふざけとしか思えないよ。まるで幽霊にでも憑かれているみたいさ」
相変わらず明後日の方を向いたままのアニェージだが、その言葉に不快感は感じられない。その為か、ジュールは気兼ねせずに質問を投げ掛けた。
「あんたは論文の中身を見たのかよ?」
「もちろん中身は確認したさ。とはいえ科学のことなど私には分からない。それに中身の解析についてはボスであるシュレーディンガーに全て任せている。私の仕事はただ命じられた物を見つけ出し、それを届けるだけさ」
「だけどこの仕事は命懸けだろ。ただ上司の命令ってだけで、あんたは命を懸けられるのか? 俺と違ってあんたには神に喧嘩を売る理由なんてないだろ」
「質問は一つだけじゃなかったのか。つまらない事は聞くな。人にはそれぞれ事情がある。こればかりは理屈でどうこう説明できるものでもないからね」
なぜかそう口にしたアニェージは少し微笑んだ。ジュールにはそんな彼女の姿がとても切ないものに見えた。でも確かにそうだ。人には何かしら他人に話せない事情が存在する。自分自身にしてみても、化け物じみた体の事など気軽に他人に話せるものじゃない。そう思いを巡らせるジュールは、理由は分からないまでも、なんとなくアニェージの行動に納得をした。――がその時、
「ガシャーン!」
食器の割れる音が店内に響いた。驚いたジュールとアニェージは反射的に音のした店の奥に目を向ける。するとそこにはトイレに向かったはずのガルヴァーニが立っていた。ただそんな老人を見たジュールは目を丸くする。なんとガルヴァーニは一人の男の首をわし掴み、そのまま片腕で持ち上げていたのだ。
「話は全て聞いていたのだろう」
「ボボッグボッ」
成人男性を軽々と片腕で持ち上げたガルヴァーニは、そう吐き捨てながら男の顔を見て微笑んでいる。男は必死に老人の腕に縋りもがくしかない。
「何事ですか、ガルヴァーニさん!」
ジュール達が駆け付けると、ガルヴァーニは掴んでいた男の首を離し、その体を無造作に放り投げた。
「ゲハッ、ハッ」
必死に呼吸をする男は、ジュール達よりも先に入店していた先客の男であった。そしてその男の顔を見たジュールは、更に驚いて声を漏らしてしまった。
「ど、どうしてあんたがここに」
そんな面を食らうジュールに対して、まだ苦しそうに首を摩る男が唾を吐いた。
「ペッ、参ったでな。何で俺がこがいな目に遭わなくちゃならんき。のう、ジュール」
「リュ、リュザックさん――」
息を荒げ背を丸める先輩隊士の登場にジュールは驚きを隠せず、ただ茫然とその姿を見続けていた。
ようやく息の落ち着いたリュザックを前に、ガルヴァーニがテーブルを挟んで腰掛ける。その表情は比較的穏やかなものであったが、冗談が通じるほど和やかなものでもなかった。
リュザックは厄介事にうんざりしたのか辟易している。しかし目の前の老人から感じる圧迫感に気圧されたのか、完全に閉口していた。そんな彼に対し、隣の席に腰掛けたジュールが声を掛ける。
「リュザックさん。あんた入院してたんじゃないんですか? それなのに何でこんな場所に」
「ついさっき退院したばかりだき。昨日の夕方、俺のところにアイザック総司令が見舞いに来ちゅうて、明日退院祝いに昼飯奢るき、この店に来るよう言われただけだで。それなのに何なんじゃ、この有様は。勘弁してほしいきのう」
リュザックは嫌気がさす様に苦言を吐き捨てた。俺はまだ病み上がりだというのに、総司令は俺に何をさせたいんだ――と、リュザックは苛立ちを覚えたのだろう。それでも彼は早々に現状を諦めていた。それは目前にいる得体の知れない老人から感じる重圧だけではなく、狭い店内で否応なく耳に入って来た【尋常でない話】の内容を把握したからだ。ただそんな苦虫を噛む思いのリュザックに対し、相変わらず笑顔のガルヴァーニが問答無用に質問を投げ掛けた。
「頼りになるようには見えぬが、アイザックの奴がお前をここに遣したということは、それなりの者なのだろう。それにわざわざお前にも聞こえるよう話してやったのじゃ。ワシらのやろうとしている事は、ざっくりと理解したのじゃろうて。そこでじゃ、お前の選択肢は二つになる。ワシらに協力し行動を共にするか、ここで死ぬかじゃな」
微笑んだまま言い切ったガルヴァーニの目は笑っていない。張り詰めた緊迫感が狭い店内を覆い尽くす。ただそこでジュールが理不尽な選択を迫られた先輩を気遣い声を上げた。
「ちょっと落ち着いてくれガルヴァーニさん。いくら何でも命をどうこうするなんて馬鹿げてるよ。総司令に指示されたとは言え、リュザックさんは偶然ここに居合わせただけなんだからさ」
「お前は黙っておれ。アイザックの奴が無暗に人をこの店に遣すわけがなかろう。昼飯を奢るなんぞ、表向きの口実に過ぎん。現にアイザックはここに姿を見せていないであろうに」
「そ、そうだけど……」
「こいつもお前と同じトランザムなんだろ。そして退院したばかりという事は、即ち先日のヤツ討伐戦で直接戦闘行為に身を投じた隊士なんじゃろうのう」
ガルヴァーニはリュザックの目をじっと見つめる。
「ならば質問を変えよう。お前は戦闘中に何を見た。何を知った」
そう質問するガルヴァーニの覇気は凄まじいものである。するとそんな鬼気迫る老人の気迫に観念したのだろう。リュザックは心ならずも正直に答えた。
「ドルトン隊長の意識が戻らないき。俺はただ、トランザムの責任者代行として総司令に報告しただけだがよ。あの日、羅城門で戦った羊顔のヤツから聞いた【神器にまつわる神殺しの話】をな」
リュザックは怪訝な表情を浮かべながら言う。彼自身は未だに信じられない話だったのかも知れない。ただ表情を曇らせたリュザックとは対照的に、ガルヴァーニは目を大きく開き薄ら笑みを浮かべて言った。
「それ見た事か。偶然など有りえぬ。アイザックの魂胆はこうじゃ。ヤツとの戦闘で事実を知ってしまったお前を、このまま自由にしてはおけぬ。国王側につくだけならまだしも、変に騒がれてワシらの計画に支障を来たされても敵わんからのう。じゃからアイザックはお前を振るいに掛けたのじゃよ。お前がワシらの側につくなら良し。そうでなければ――、それ以上は言わぬでも分かるな」
リュザックは老人の言葉を聞きながらも何も言い返せないでいる。ただ途方に暮れ参っているだけだ。ただそんな彼を庇う様に、ジュールがガルヴァーニに対して詰め寄った。
「それにしたって乱暴すぎるよ。いくらリュザックさんが羅城門で事実を聞いていたとしても、普通の人にとって見れば、その事実の方が耳を疑うほどの話だ。いきなり命を天秤に掛けろなんて、ふざけるのもいい加減にしてくれ。こんな状況、混乱するだけで真面に頭が回る訳ないだろ!」
「混乱しているのはお前だけにしか見えぬぞ、ジュール。伊達にワシは歳を取ってはおらん。ほれ、そやつをよう見てみい」
何を言っているんだと、腹を立てながらもジュールはガルヴァーニに言われるがままリュザックに目を向ける。そこには困り果てた表情で視線を落とすリュザックの姿が小さくあった。突然降りかかった災難とも言える現状に、冷静でいられる者などいるわけがない。ジュールはガルヴァーニに反論するべく更に詰め寄ろうとする。だがその時、リュザックの視線が一瞬動くのを感じた。
(なんだ? 何を見たんだ? 一瞬だけど確かにリュザックさんは何かに視線を向けた)
そう感じたジュールは、老人に詰め寄るタイミングを外し口ごもった。すると状況を見守っていたアニェージが口を開く。
「ハン。大したおっさんだよ、こいつは。危機的な状況であるにも関わらず、さっきから私の胸元ばかりチラ見してやがる。呆れるのを通り越して感心するよ」
「な、なにしてるんですかリュザックさん!」
血相を変えたジュールがリュザックに詰め寄る。王国最強を誇るトランザムの隊士が、この状況でふざけた態度を取るなんて考えられない。しかしリュザックはそんなジュールの気持ちを逆なでするよう、薄っすらと顔を赤らめて言った。
「お、俺は旨い酒とマブい女子に目が無いきね」
「リュザックさん!」
「勘違いはするなよ。別に胸ばかりを見ていたわけじゃないきね。顔も十分拝見したでよ」
「あんたの為に言ってやってるのに。何してんだよ、あんたって人は。ハァ、何だかバカバカしくなってきたなぁ……」
この状況に緊張感の欠片も感じさせない先輩隊士の態度にジュールは心の折れる思いがした。そんな彼の正面に座るアニェージが、ガルヴァーニの顔を見て吐き捨てる。
「こいつを殺すなら私にやらせてよ。不愉快だからさ」
「あんたみたいな美人に殺されるっちゅうなら、俺は幸せ者じゃきな」
「ガハハハハッ」
リュザックの返しにガルヴァーニが爆笑する。そんな光景にジュールは更に訳が分からなくなっていた。つい先程まで命を懸けた緊迫した状況が続いていたはずなのに、何なんだこれは。そんな困惑するジュールに向かい、まだ少し腹を抱えたままのガルヴァーニが声を掛けた。
「勉強になったか、ジュールよ。世の中にはこいつみたいに変わった者が意外と多くいるもんじゃ。こいつにとってみれば、現実からかけ離れた神の存在よりも、目の前にいる女の方が何よりも重要なのじゃよ。それにリュザックと言ったか。こいつはワシが思った以上に頭の良い者であるようじゃな。アイザックの奴め、人を見る目だけは確かな様じゃのう」
微笑むガルヴァーニの言葉にジュールはただ首を傾げている。
「まぁ良い。答えならもう出ておる。のう、リュザックよ。お前、何が真実で何が偽りか。初めから理解していたのじゃろう?」
皆がリュザックを見つめる。
「お前にしてみれば敵が誰かは関係ない。重要なのは【信念】といったところか。どうやらワシの質問の方がズレていたようじゃな」
「長生きはするもんだきねジイさん。あんた良く分かってるでよ。俺には曲げられん志がある。その為なら多少は腰が引けても、神に喧嘩を売るくらいなんともないきね」
「あんたの志って、何なんだよ」
少し膨れた顔でジュールが尋ねる。多少照れた面持ちではあったが、リュザックは自信ありげに皆に告げた。
「酒と女、それと――――。いや、今はそれだけにしておくきね」
「ハッ、何だよそりゃ。おっさんのくせに勿体ぶるな。まぁさほど興味もないからどうでもいいけどね」
アニェージが無関心につれなく答え席を立つ。リュザックはそれを残念そうに見つめ、口をへの字にしていた。そろそろ出発の時間だと言わんばかりにガルヴァーニも席を立つ。するとジュールがリュザックに向け最後に聞いた。
「リュザックさん。あんたが協力してくれるのはすごく心強い。でも本当に良いんですか? こいつは冗談抜きで命を懸ける仕事ですよ。実際ヤツと対峙したあんたなら、その怖さを身を持って知っているはず。それでも本当にいいんですか?」
リュザックの身を案じ、ジュールは不安な眼差しを彼に向ける。一度踏み込めば後戻りは出来ない。それにリュザックの態度を見る限り、そこまでの覚悟があるようにはとても見えないのだ。もう自分の知る誰かが傷つき、命を落とす事など考えたくもない。昨夜ガウスやヘルムホルツを危険に晒してしまったばかりだから尚更そう思う。だがリュザックはそんなジュールの気持ちを逆に気遣う様に、穏やかでありつつも力強く思いを告げた。
「お前が羅城門でヤツから聞かされた話。俺も柱の陰からそのほとんどを聞いてたでな。俄かに信じられない話しだったけんど、否定する気にもなれんかった。それはヤツの言葉に迷いが無かったからだで。お前とヤツは壮絶な殺し合いをしたけんど、その激闘の末にヤツはお前に心を開いて全てを語ったでな。そこに嘘なんか無いき。俺はそう感じちょるよ」
「でも、それでリュザックさんが命を懸ける理由にはならないでしょ」
「俺はヤツに対して手も足も出なかったき。後輩隊士がボロボロに戦っているのに、そのサポートすらもできなかったでよ。正直悔しかったきね。だからと言って、俺の戦闘能力じゃヤツと真面に戦えるわけないき。いや、そもそもヤツと互角以上に戦える奴なんて、お前以外いやせんだろ。でもこのまま借りを作りっ放しってのも性に合わん。次こそは一泡吹かせて見せるで、期待してたもれ」
リュザックはそう言ってジュールの肩を軽く叩いた。それでもジュールは表情を曇らせたまま納得できないでいる。するとリュザックは迷いを振り払うようわざと大袈裟に言った。
「大丈夫! 俺はお前が思うほど御人好しでもないき。危なくなれば皆を置いて一人でさっさと逃げるきの。これでも足の早さはトランザムNo.1だで。お前を除けばの話だけんどな」
「本当にいいんですか?」
ジュールは怪訝そうにリュザックに問う。そんなジュールの首に腕を回し、リュザックは小声で囁いた。
「しつこいきのう、お前は。だけんどそんなに気が引けるっちゅうなら、一つ俺のニーズに答えろ」
「ニーズ?」
「そうだで。そこのめんこい女子を早く紹介するきね。レディを待たすなんぞ、失礼極まりないだでな」
「俺にはあんたって人が良く分からないよ」
ジュールは呆れ返る思いがした。それでも彼の肩からは少し力が抜け、何とも言えぬ穏やかな気持ちになった。
自分を気遣っての事なのか、それとも天然なのか。それは分からないが、ジュールはリュザックの態度にどこか救われた気がした。緊迫した状況でも自分の欲求を追求できるリュザック。いい加減に見えるが一本筋が通っている彼の様な者こそ、如何なる困難な状況にも耐え続けられる真の強者なのではないか。ジュールは一人そう感じた。そしてそんなリュザックが味方になってくれる。自分にとってみれば少し都合が良過ぎる気もするが、ジュールは素直にリュザックに甘えてみようと決めた。
「彼女はグリーヴスから来たアニェージ。残念だけど俺もそれくらいしか知らない。あとは直接聞いてくれ」
「アニェージちゃんか。淡く艶めかしい名前だけんど、それがまた魅力的だでな。よろしく頼むきね」
目尻を垂らしたリュザックがアニェージを見つめる。そんな彼を無視したアニェージが、ジュールに向かい冷たく吐き捨てた。
「トランザムが王国最強っていうのは皮肉みたいだね。化け物野郎にスケベおやじ。とんだ壊れ集団だ」
アニェージは出口に向かいさっさと歩き出した。
「ワシの紹介はなしか? まぁいい、そろそろお喋りは終わりじゃ。観測所に着いてからまた話そうぞ」
そう言いながらガルヴァーニもアニェージを追い出口に向かう。遅れを取るまいと、変に上機嫌なリュザックも続いた。最後にジュールがグラム博士のノートを掴み席を立つ。ただノートを手にして歩き始めたジュールは、ふと色あせたノートの背表紙に目を止める。そこには薄いインクでこう書かれていた。
『虚数の意味するものとは』
グラム博士のものとは明らかに異なる筆跡で書き記された一つの文章。ジュールは意味の分からないその文章が妙に気になったが、ノートをズボンの後ろポケットに押し込みながらガルヴァーニ達の後を追い裏路地の喫茶店を後にした。
アニェージの運転する車で移動した一行は天体観測所に到着した。多少渋滞に掴まったものの、時刻は1時半を少し回ったところである。ほぼ予定通りといったところだ。隣接する駐車場に車を止めたジュール達は、多くの方来客で混雑する観測所の正面ゲートに向かった。
「へぇ。近くで見ると、案外ゴツゴツしてるんだな」
ジュールは目の前の珍奇な建造物に目を見張る。大きな白い球体形状をしたアダムズ天体物理観測所。遠目から見ると真ん丸に見えるが、実のところは同じ面積をした二等辺三角形の白い壁が、繋ぎ合うようにして連なる多面体の姿をしていたのだ。正面入り口は天井近くまで全面ガラス張りであり、また施設周辺の至る所にも三角形を象った大小いくつものオブジェが飾られている。そんなオブジェの中にはベンチとして利用されているものもあり、地面から突き出した三角形の石造に腰掛けて、休憩を取る人々の姿が数多く見受けられた。また遠足で訪れたのだろう。揃いの制服に身を包んだ幼い園児達が、引率の保育士らしき女性達と共に、観測所前の広場でおやつを食べていた。
ジュール達はそんな人々を横目にしながら先へと進む。さすがに話題のスポットだけはあり、また時間も昼時ということもあって非常に混み合っている。そんな中、アニェージとガルヴァーニは観測所に入館するためのチケットを買い求めに向かった。
彼女達を待つ間、ジュールは正面ゲートに飾られた等身大の人物像に目を止める。それはこの天体観測所を創設した人物であり、観測所の初代館長でもあるらしい。ただジュールは不思議にもその像の面影に何となく見覚えた。彼は初代館長の名前を確認しようと像の近くに向かおうとする。だがその時、苦しそうに顔をしかめたリュザックがジュールの肩を掴み止めた。
「どうしたんですか、リュザックさん。顔色悪いですよ」
「何だか急に腹が痛くなってきたがよ。便所はどこだでな?」
しんどそうに表情を引きつらすリュザックを残し、ジュールは観測所の案内明示板のもとに向う。そして彼はトイレの場所を確認した。どうやら一番近いトイレは正面ゲートを入った直ぐ左手らしい。急ぎリュザックのところに戻ると、タイミングよくチケットを購入したアニェージとガルヴァーニも合流した。
「リュザックさん。トイレはゲートを入って直ぐ左ですよ」
「スマン、助かるき。俺は先行くでよ。みんなはゆっくり探し物をしててくれだが。スッキリしたら俺も手伝うき、心配はいらんぜよ」
リュザックはそう言うと、腰を屈めながら走り去って行った。その姿をジュール達は呆れながら見ていたが、彼らも正面ゲートより観測所内に入館した。
吹き抜け構造になった正面ロビーには、皆既日蝕のイベントのため巨大な月の模型が展示されていた。そんな直径2メートルほどの月の縮尺模型を中心に、日蝕にまつわる様々な展示物が並んでいる。それらは世界各地で撮られた多数の日蝕の写真や、過去に起きた日蝕にまつわる事件を説明した資料など、日頃目にする事のない珍しいものばかりであった。
王国一の天体観測所とはいっても、その施設自体はそれ程大きなものではない。天体運動を再現し映写するプラネタリュームの上映施設や、王国一巨大な天体望遠鏡を有する天文台が設けられてはいるものの、普段は観測所の職員や天文学者などが研究や観測を行う為の科学的な施設としての意味合いが強い場所である。しかし人というものは流行に流されるものだ。日蝕という天文ショーに盛り上がる市民達は、日頃見向きもしない観測所にここぞとばかりに足を向けていた。
そんな人々に紛れ込みながら、ジュール達は月の模型の前で立ち止まっていた。そこには腰の高さほどのテーブルがあり、その台上にはタッチパネル式のディスプレイが備え付けられている。するとガルヴァーニはその画面を器用に操作し何かを調べ始めた。
どうやらテーブル自体が検索端末になっているらしく、データベースに直結したその画面を操作することで、宇宙にまつわる様々な文献が調べられるようだ。忙しなく指を動かし画面を見つめるガルヴァーニを横目に、最終定理への手掛かりを調べているのだから邪魔はするまいと、ジュールは取り出した博士のノートを一人覗き始めた。
『それは内角180度以上の三次元宇宙の内心を示すものなり』
ジュールは博士のノートを見ながら、手掛かりの後半部分を小さく呟く。相変わらず何を意味しているのかはさっぱり分からない。それでもジュールには絶対にこの天体観測所に何かが隠されていると確信めいたものを感じていた。それもそのはず。手掛かりの文章に記された内角180度という表現。それはまさに三角形を意味するものだからだ。そしてこの観測所は至る所に三角形が溢れている。いや遠目より丸く見えたこの施設自体が、実は三角形の集合体で構築されているのだ。気にならない方がむしろおかしい。そんな考えを巡らせつつ、ジュールはタッチパネルを操作し続けているガルヴァーニに尋ね掛けた。
「何か分かりましたか?」
「いや、済まん。今調べていたのは別件についてじゃ。じゃがそっちについてもダメなようじゃな」
「どういう事です?」
的を得ぬジュールが首を傾げる。
「ワシが個人的に抱えている案件。悪いがそれをお前達に話す事は出来ん。もちろんアイザックやシュレーディンガーもこの件に関しては何も知らん。じゃがワシの調べている案件は、グラムが残した遺産とあながち無関係とも言い切れんでのう。いや、むしろ本質は繋がっているんじゃないかと、今は思えて仕方ないくらいじゃ。ただの偶然だと思っておったが、ここに来て改めてそれが受け入れがたい必然であると感じてならないのじゃよ」
意味不明なガルヴァーニの話にジュールは眉間にシワを寄せるばかりだ。そしてそんな彼の横に立つアニェージが、痺れを切らしたかの様にガルヴァーニに対して詰め寄った。
「チッ。ジジィが個人的に調査している事だと思って口出ししなかったけど、最終定理に関係あるというなら話は別だぞ。ちゃんと説明しなよ、誤魔化すなら本気で蹴り飛ばすよ」
アニェージは恫喝とも取れる言葉をガルヴァーニに浴びせる。ただ老人はそんな言葉に気後れなどしなかった。だがガルヴァーニは周囲の雑音に紛れる様な小さな声で二人に囁いた。
「十年ほど前になる。あの時も今と同じ様に、国中の人々が宇宙で起こる奇跡の出来事に胸を高ぶらせておった。お前達も覚えているんじゃないのか? 【ゼノン双子彗星】と名付けられた二つの彗星が、この星に近づいた時の事をのう」
ガルヴァーニの問い掛けに、ジュールは昔を思い出して得意げに答えた。
「あぁ、それなら知ってるよ。二つの彗星が双子みたいに連なって夜空を横切るってやつでしょ。ちょうど俺がルヴェリエを離れて北の町に住み始めた頃だったからね。夜空の星に手が届くんじゃないかって思うくらいの田舎町だったから、間違いなくデカい彗星が二つ見れるだろうって興奮したモンだよ。でも確か、あの日は生憎の天気で何も見えなかったんだよな」
「そう、あの日はアダムズ全域で天候が悪くてのう。恐らく誰一人としてゼノン双子彗星を見た者はおらんじゃろうな。特に首都ルヴェリエでは北部の工場で起きた大規模火災の影響もあって、彗星どころではなくなってしもうた。冷たい雨を降らせる厚い雲が、工場を包む炎を反射し赤黒く染まっておったのをよう覚えておる」
ジュールの隣でガルヴァーニの話を共に聞くアニェージが、なぜか気分悪そうに胸を抑えている。
「残念じゃった。そう多くの国民は思っただろう。でもそれだけの事じゃ。天気が悪くて彗星が見れんかった。なんら不思議な話しではない。誰も天気には逆らえんからのう。そして日々は過ぎ、人々は忘れて行った。その彗星に隠された本質を知ろうともせずに、のう……」
意味深な表情で語るガルヴァーニの話にジュールは引き込まれてゆく。
「並走する二つの彗星がこの星に接近する。人々の関心を引くに十分な話題性じゃ。じゃがその彗星には決して解決し得ない矛盾が存在しておった。一般の国民には知らされていなかった【事実】なのじゃがな」
「俺達の知らない矛盾?」
「ゼノン双子彗星。誰がその二つの彗星を初めに見つけたか知っておるか。名立たる天文学者ではなく、夜空にロマンを追い求めるアマチュアの天文家でもない。彗星を発見し、ゼノン双子彗星と名付けたのは、他ならぬアルベルト国王なのじゃよ」
「こ、国王が!」
「そうじゃ。科学の虜である国王が、宇宙を駆ける彗星を見つけるなんぞ驚いたものじゃ。さらに国王は双子の彗星を詳しく観察しようと、この天体物理観測所の設立を命じたのじゃよ。じゃが問題はそこではない」
変わらずアニェージは表情を顰めている。リュザック同様に体調が急変したのか。ジュールは彼女の変調に気付きはしたが、それでもガルヴァーニの話から耳を逸らせずにいた。
「国王の命令で二つの彗星を詳しく調査する天文学者達は、一つの興味深い事象を見つけおった。それは二つの彗星の進むスピードに違いがあるという事。それも先に進む彗星よりも、明らかに後に進む彗星の方が速いのだという。進む方向はほぼ同一。そんな平行に進路を取る二つの彗星のうち、後方を進む彗星の方がスピードが速い。これが何を意味しておるか、お前に分かるか?」
じっと自分を見つめるガルヴァーニに対しジュールは素直に答える。
「バカにしないでくれよ。そんなの決まってるじゃないか。いつかは分からないけど、後ろから来た彗星が前を進む彗星を追い抜くだけだよ」
はっきりと告げたジュールの答えに老人は強く頷く。
「その通り。疑う余地もない。お前の言う通り、後者が前者を追い抜く。それが常識じゃな。じゃがのう、実際にはそうならなかったんじゃよ」
「ん? 言ってる意味が分かんないよ」
「この観測所が建てられたのは、双子の彗星がワシらの暮らすこの星に最も接近する一年程前。要するに一年間、観測所に勤務する天文学者達は彗星を観測し続けたわけじゃ。そして二つの彗星のスピードの違いは、かなり早い段階で発見さていたはずなのじゃ。二つの彗星の速度の違いは明確であり、その収束は目に見えるほどじゃったと聞いとるくらいだからな。前方に進む彗星を【α彗星】、後方の彗星を【β彗星】。そう呼び始めた天文学者達は、固唾を飲みながら星が星を抜き去るその瞬間を観察しおった。じゃがその直前で不可解な現象が起きたんじゃよ。明日には大宇宙の彼方で彗星同士のデットヒートに決着がつく。そう思われた時じゃった。大型の天体望遠鏡を覗き込んだ天文学者は驚愕し声を失ってしもうた。後方に進むβ彗星が前方のα彗星を抜き去るのは常識のはずじゃったのに、しかし現実は違ったんじゃよ」
「違った?」
「β彗星はα彗星に限りなく接近していた。じゃがいくら待ってもβ彗星がα彗星を抜き去らなかったんじゃ。理解し得ない不合理な現象に天文学者達は混乱を極めおった。最新のコンピュータを使い何度も計算を繰り返したのは言うまでもない。超高性能な天体望遠鏡で血眼に観察もした。じゃが驚く事に、α彗星とβ彗星のスピードに変化は見られなかったんじゃよ。前方を進むα彗星に対して、後方から追い駆けるβ彗星のスピードの方が明らかに速い。そう、α彗星とβ彗星の関係は何も変わっていなかったのじゃ。それなのに、どう言う訳か追い越すどころか追いつきもせん。説明のつかない理不尽な現象に、天文学者達は匙を投げ出す想いじゃっただろう。ただそんな苦悩する天文学者達を見兼ねたのか、国王が不思議な事を彼らに語ったのじゃ」
話に耳を傾け続けるジュールの胸の鼓動が高まってゆく。
「後方から追い駆けるβ彗星がある通過点Eに達した時、先に進むα彗星はβ彗星が通過点Eに達するまでの時間分だけ先に進んでいる。α彗星のいる場所を通過点Fとすると、β彗星が今度通過点Fに達した時には、α彗星はまたその時間分だけ先へ進む。そこを通過点Gとすると、同様にβ彗星が通過点Gに達した時には、α彗星はさらにその先にいる事になる。この考えはいくらでも続けられ、結果としていつまでたってもβ彗星はα彗星に追いつけない事になる――――。国王は真顔で天文学者達にそう言ってのけたのじゃよ」
「はぁ? 何言ってるのか全然分かんないよ」
ジュールは訝しさを露わにして反論する。
「俺は頭悪いけど、常識は心得ているつもりだよ。α彗星よりβ彗星が早いなら、追い抜くのは時間の問題じゃないか。途中でスピードが変化したならまだしも、いつまでも追いつけないなんて有りえないよ」
ガルヴァーニはそんなジュールの異論に頷く。老人もまた、理解に苦しんでいるのだろう。ただ次にガルヴァーニが口にしたのは、更に不可解な事実であった。
「限りなく接近はしつつも、β彗星はα彗星を抜き去らない。じゃが事態は輪を掛けて予想だにせぬ現象を招く。ただでさえ目を疑う現象が起きているというのに、観測を続ける天文学者の全員が、ほんの一瞬目を離した時じゃった。なんと二つの彗星の距離がずっと広がっておったのじゃ。それも前を進むのはα彗星であり、追い駆けるのはβ彗星。そう、再び二つの彗星の距離が広がったんじゃよ」
「バカ言わないでくれ! 宇宙を移動する彗星のスピードって一定でしょ。何で突然距離が離れるんだよ、有りえないよ。追い抜かれそうになったα彗星が急に加速したって言うんですか」
反論するジュールにガルヴァーニは苦笑いを浮かべながら答える。
「加速とは面白い事を言うのう。じゃが現実は想像以上に残酷じゃったよ。調査の結果、二つの彗星の関係は以前のままだったんじゃ。α彗星とβ彗星のスピードに変化は無かったんじゃよ。言っている意味が分かるか? 一瞬にして距離を広げた二つの彗星は、またそれまでと同じ様にβ彗星がα彗星を徐々に追い詰める形になったんじゃ。まるでレースが振り出しに戻ったかの様にのう」
「俺をバカにしてるってんじゃないですよね。それじゃぁα彗星が瞬間移動でもしたみたいじゃないですか。それに明確な根拠を何よりも重要視する科学者の国王が、そんな自然の摂理に矛盾する現象を正当化するなんて考えられない。そんなこじ付けの屁理屈、むしろ国王が最も嫌う振る舞いだよ。さっぱり意味が分からないな」
「腑に落ちないのはそんな国王の発言だけではない。この観測所を国王の命令によって設立した人物。彼の――」
「バン!」
突然何かが弾ける様な音がする。そして同時に観測所内の照明が全て消えた。
「何だ、停電か?」
アニェージが光の消えた天井の照明を見ながら呟く。窓の外から陽の光が差し込んでいるため視界に悪影響を及ぼすほどではないが、それでも観測所内にいる人々は突然の出来事に戸惑っていた。そんな中、顔つきを変えたガルヴァーニがアニェージに問う。
「おいアニェージ。今何時じゃ」
彼女は素早く胸ポケットから小型の携帯端末を取り出し時刻を確認する。
「二時ちょうどだよ。何が起きたっていうんだ」
「しまった。話しに夢中になり過ぎて時間を忘れておった」
歯がゆい表情を浮かべるガルヴァーニを気にしつつも、ジュールはどこか周囲に変化がないか集中した。だが特に変わったところは見当たらない。すると音もなく観測所の照明が再び点灯した。
「何だったんだ今のは。単なる停電なのか? それとも誰かの悪ふざけなのか」
「おい二人とも、これを見ろ!」
アニェージの声にジュールとガルヴァーニは目の前のディスプレイに視線を向ける。するとそこには入力を要求する一つの指示が映し出されていた。
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