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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
36/109

#35 鳥雲に入る夜空のパラドックス(二)

 アダムズ城内にある医務室を訪れたジュールは、ベッドに腰掛けるガウスの容体が思ったよりも良い事に安堵しホッとする。ただジュールは昨晩共に医務室を訪れたヘルムホルツとアニェージの姿が見えない事に当惑した。

「元気そうで安心したぜ、ガウス。それにしてもあの二人は何処に行ったんだ? お前ほどじゃないにせよ、アニェージなんかそれなりの怪我してたはずだよな」

「あぁ、二人なら昨夜のうちにルヴェリエ中央病院に行ったよ。アニェージさんはかなりきつそうな顔してたけど、城の医者になんか見せられるかって言って、渋るヘルムホルツさんに無理やり連れてくよう指示したんだ」

 やれやれと呆れながらもガウスは笑顔を覗かせた。そんな彼にジュールも笑顔を見せる。とにかく皆が無事でなによりだったと安心したのだろう。しかしジュールは表情を堅く変えると、医務室に来る前に訪れた昨夜の現場について少し語った。

「昨日俺達が行ったポンプ室と城の水堀の周りを見て来たんだけど、ちょっと状況が変なんだよな」

 4つのベッドが並ぶ病室には、幸運なことにガウス一人しか患者がいない。それでもジュールは周囲に気を配りながら小さめの声でガウスに伝えた。

「俺達が進んだポンプ室の地下道だけど、どうやら突然の地盤沈下で埋没しちまったらしいんだ」

「地盤沈下?」

「あぁ。俺達が地下道を脱出するときに、地震のような大きな揺れがあったのを覚えているか? そいつが原因かどうかは分からないけど、全て地面に埋まっちまったのだけは事実らしい。そのおかげで城中が断水してて大騒ぎさ」

 ジュールは溜息を漏らしながらベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける。そんな彼に向かいガウスは真顔で話しの続きを聞いた。

「あの地下道にどんな秘密が隠れていたかは今となっては調べようがない。残念だよ。ポンプ室にあった入り口もそうだけど、水堀の出口も同じように塞がっちまったみたいだからね」

「出口?」

「そんなんだ。どうやら地下道を流れていた城の排水は、水堀に流れ出ていたみたいなんだよ。俺達は勢いを増した排水に流されて、水堀の中に押し出された。その後すぐに地下道は(くず)れて(ふさ)がっちまったってわけさ。今じゃ出口を失った城の排水があちこちから逆流して、城中水浸しになってるぜ。冗談に聞こえるかも知れないけど本当の話だよ」

 ジュールは苦笑いをしながらガウスに告げる。ガウスもそれにつられる様に笑顔を見せたが、彼は昨夜の出来事を思い返しながらジュールに聞き返した。

「なら俺達があの地下道で戦った【豹顔のヤツ】と【猪顔のヤツ】は死んだのかな。でもどうしてあんな所にヤツがいたんだろう。ヘルムホルツさんが言ってた秘密結社ってやつの隠れ家だとしても、城の地下にあんなのがうろついてたなんて、想像しただけでゾッとするぜ」

 ガウスは少し表情を青冷めながら(つぶや)く。彼は昨日体験した出来事に、今も戸惑いを感じているようだ。そしてそんなガウスに対しジュールは少し気が引けたが、それでも彼は更に深刻な事実を口にした。

「実は地下道を二手に別れた時なんだけど、俺とヘルムホルツが進んだ道に書庫の様な部屋があってさ。そこで何者かの気配を感じた俺達は、その書庫の奥に駆け込んだんだよ。そして行き止まりになっている狭い部屋で、俺達は見つけちまったんだ――」

「見つけたって、何を?」

 ジュールの目を見つめながらガウスは息を飲み聞き入る。そしてそんな彼に頷いたジュールは、小さく呟く様にして言った。

「俺達が見つけたのは、すでに息絶えた【庭師の死体】さ」

「なっ!」

 思いもしないジュールの言葉にガウスは声を失う。火傷を負った背中に悪寒が走ったのだろうか。彼はその巨漢の身を(すく)めていた。

「あの死体は間違いなく庭師のものだった。ヘルムホルツの検視によれば、死後それほど経過していなかったらしい。誰に殺されたのか。なぜ殺されたのか。あの場所で殺されたのか、それとも運び込まれたのか。時間が無かったし、そもそも調べようがなかったから分からない事だらけさ。でも確かにあの部屋で人影を感じた。あの気配が庭師を殺めた者のものなのかどうかは分からないけど、でも何かしらの手掛かりにはなったはず――。それなのに何もかも地中に埋まっちまった」

 そう告げたジュールは悔しさを滲ませて奥歯を噛みした。


 少しの時間だが沈黙が流れる。ひょんな事から奇怪な事件に足を踏み入れた形の二人は、心の整理が出来ずに思い悩んでいるのだ。それでもジュールは力強く立ち上がった。今自分に出来るのは一歩でも前に進む事だけだと、強がりで気持ちを駆り立てたのだろう。するとそんな彼に向かい、不安そうな表情を浮かべたガウスが尋ねた。

「ジュールさんは、これからどうするんですか?」

 ガウスは明らかに覚束(おぼつか)ない顔つきをしている。ただそんな彼に向かいジュールは笑顔で答えた。

「まずはヘルムホルツ達が向かったルヴェリエ中央病院に行ってみるよ。あいつらには聞きたい事が山ほどあるからね。それにあそこにはトランザムの(みんな)も入院してるから、見舞いも兼ねて足を運んでみるさ」

 ジュールは自分自身にも言い聞かせるよう気丈に語る。

「現状分からない事だらけだ。でもだからといって立ち尽くしてたんじゃそれまでさ。俺は頭が悪いからね、考えるよりもまず動いてみるよ」

 ジュールは毅然としながら続ける。

「実は昨夜の件で総司令に話を聞こうと、ここに来る前に総司令の執務室に行ったんだ。でも総司令はキュリー首相と打ち合わせをするとかで不在だった。総司令付きの秘書官が言うには、城に戻って来るのは夕方になるらしい。仕方なく執務室を後にした俺は、庭園の様子や水堀の周辺を見てここに来たってわけさ。まぁ、そこで見た状況は伝えた通り地面の中だけどね。ただやっぱりこの先どう進むべきかを決めるには、総司令と直接話をするしかないと俺は思ってる。総司令の真意を聞けば道は開けるんじゃないか。いや、総司令なら俺の進む道を示してくれるんじゃないのか。勝手だけど、そんな気がしてるんだよね。ちょっと都合良過ぎかな」

「ジュールさんは怖くないんですか?」

 ガウスは不穏な事態を危惧するように、悩ましげな面持ちでジュールに尋ねる。ジュールはそんなガウスに気遣いは無用だと、微笑みながら返した。

「もちろん俺だって怖いさ。この先何が起きるか分からないんだからな。でも俺は約束したんだよ、何があっても前に進むって。だから――」

 ジュールは真っ直ぐにガウスの目を見る。

「だから俺が何かに怯え臆病風に吹かれていたら、その時はお前の拳で俺をぶん殴ってくれ。気絶するほど強く殴ってくれて構わないからさ」

「ジュールさん……」

 困った人だとガウスは呆れる。それでも彼は自分を頼ってくれるジュールの気持ちが嬉しく思えた。ガウスはジュールに優しく微笑み返す。そして彼の笑顔を見たジュールも白い歯を溢した。

「じゃぁ俺は行くよ。早く良くなれよな、ガウス」

「あっ、ジュールさん、ちょっと待ってくれ。実は少し相談したい事があるんだけど、いいかな?」

「相談事?」

「はい。今回の事件とはまったく関係ないプライベートな話しなんだけど、嫌ですか」

「別に断る理由はないよ。俺で良ければいくらでも顔を貸すぜ。それで何だよ、カミさんと喧嘩でもしたか?」

「いや、家族とは関係ないんです。ただなんて言うか、その――」

「パパー!」

 ガウスがジュールに語りかけようとした時、幼い男の子が病室に駆け込んで来た。

「パパ! お怪我大丈夫?」

 男の子はベットによじ登ると、ガウスの顔を覗き込みながら言った。入院の知らせを受けたガウスの息子が駆け付け現れたのだ。ガウスはそんな息子の頭を撫でながら優しく言う。

「あぁ、大丈夫だよ。でもここは病院なんだ、もっと静かにしなくちゃダメだぞ」

 ガウスは思い掛けなく現れた息子を優しく(さと)すと、病室の出入り口に顔を向ける。そこには大きく張り出したお腹を抱えて立つ、ガウスの妻の姿があった。ガウスの元気そうな表情を見て安心したのか、ホッと胸を撫で下ろすガウスの妻の気持ちが病室に伝わる。ジュールはそんなガウスの妻にそっと近づき声を掛けた。

「この度はご主人に大怪我をさせてしまって、本当に申し訳ありません。全て私の責任ですので、今後の事はしっかりと対応させて頂きます」

「いいんですよ、ジュールさん。体が無事なら、それで十分です。それね、この人ったら城の警備隊は退屈だって、最近は愚痴ばかり言ってたんですよ。それなのに昨日はジュールさんと仕事だからって、ウキウキしながら家を出て行ったんです。心配だったけど、生き生きした主人を見るのは久しぶりだったから、なんだか私の方も少し嬉しくて。それにジュールさんと一緒の時は怪我しても必ず生きて帰って来ますからね。私はそれほど気にしてはいません」

 そう言ってガウスの妻はにっこりと微笑んだ。そんな彼女の笑顔にジュールは救われる思いがして胸が軽くなる。だがやはり守るべき家族を持つガウスに危険な行為を(ともな)わせた事を強く反省した。

「本当に済みませんでした。さぁ、この椅子に座って下さい」

 ジュールは決まり悪そうに頭を掻きながら、ガウスの妻に先程まで自分が腰掛けていたパイプ椅子を差し出す。そして家族の触れ合う一時(いっとき)に水を差すまいと、早々に退散するためジュールはガウスに一言告げた。

「じゃぁ俺は行くよ。近い内にまた顔を出すから」

「あぁ、済みませんでしたジュールさん。また時間のある時に話しましょう」

 少し恥ずかしそうにしながらガウスはジュールに軽く敬礼する。するとガウスの息子もそれを真似してジュールに敬礼した。ジュールはそんな二人に笑顔を浮かべたまま敬礼を返す。やっぱり家族って良いもんだな――。心からそう感じたジュールは、ガウスの妻も見守る中で病室を後にした。


 ジュールはヘルムホルツとアニェージが昨夜向かったというルヴェリエ中央病院に行くためタクシーに乗った。

 中央病院は倒壊した金鳳花五重塔きんぽうげごじゅうのとうのほど近くである。アダムズ城から進路を東へ30分くらいの距離だろうか。ジュールは幹線道路を進み出したタクシーの中で、ふと昨夜対峙した二体のヤツの事を思い出していた。

(あいつら、あのまま地下に生き埋めになっちまったのかな。あの()まわしい豹顔のヤツとは二度と会いたくはないけど、俺達を助けてくれたあの猪顔のヤツは無事であってほしい。あいつとはもう少しで分かり合えたはずだから――)

 ジュールはそう物思いに(ふけ)込むも昨夜の疲れが残っているのか、タクシーの揺れにも釣られてウトウトと眠り出してしまった。ただそんな彼の脳裏に突然あの言葉が浮かび上がる。


『日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日と並んで支配すべき存在とした――』


 ジュールはハッと目を覚ます。べた付いた汗が全身に(まと)わりつくようで気持ちが悪い。

 何だったんだ今のは。そう言えば昨夜コルベットの女隊士に詰め寄られた時も、今の言葉を無意識に口走ってしまった気がする。何だっていうんだ。あんな言葉聞いた事ないぞ。それなのになぜか鮮明に記憶している――。

 深くナイフで刻まれたかのように、脳裏にはっきりと浮かぶ意味不明な言葉。その言葉にジュールは身を(すく)めた。言い様のない不安が彼の心を広く覆う。しかしその言葉にはどこか懐かしい響きもあり、決して悪い気分だけではない。いや、むしろ慈愛に満ちた(ぬく)もりさえ感じるくらいだ。でもどうして知りもしない言葉が突然頭に浮かび上がるのか。そんな不思議さに彼は納得できず、判然としない気持ちで窓の外を眺めていた。

 ジュールの乗るタクシーは東に進む。しかし今日はやたらと道が混雑しているらしく、タクシーはなかなか前に進まない。事故でもあったのか? そう気になったジュールは、タクシーの運転手に声を掛けた。

「さっきからほとんど進んでない気がするけど、何かあったんですか?」

「いやぁ、済まないねぇお客さん。ルーゼニア教渋滞ですよ」

「ルーゼニア教渋滞?」

「ええ。すぐそこにある【光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどう】で、ルーゼニア教が臨時の総会を開いてるんですよ。王国全土から神父さん達が集まって来て、色々と話をするらしいんです。それにちょうどルーゼニア教の昼の参拝時間に重なっちまったようですし、しばらく動きそうにないねぇ」

 人の良さそうな中年の運転手が、舌を出しながら諦める様に言う。

「ルーゼニア教の参拝時間に何の関係があるんです?」

「五重塔が倒れたちゃったでしょ。教団の本部だった総本山が倒壊しちまって、女神様を拝む場所が無くなっちまった。それを気に掛けた国王様が一肌脱いで、王族の管理する光世院鳴鳳堂こうせいいんめいほうどうをお貸しになったんです。それで教団は仮設の教会として、そこを使っているんですよ。そもそも臨時総会をするのには打って付けの場所ですからね。だから今ここは首都の中でも最も混雑している場所なんですよ」

「マジかよ。勘弁してほしいな」

「お客さん、運が悪かったって諦めるしかないですね。ちょうど昼の参拝時間に重なってるから余計に込んでるんですよ。そもそも光世院鳴鳳堂は普段は一般人が入れない建物なんです。だから日頃あまり熱心に参拝しない信者も、ここぞとばかりに集まって来てるんでしょうね。ちょっとした観光気分ってやつですよ」

 光世院鳴鳳堂は城に住む王族達の別邸である。また近隣諸国の王族や有力な貴族が首都に(おもむ)いた際、会談の場などとして利用する施設でもあった。外交に関わる重要な協議などを実施する場合、広大なアダムズ城では何かと不都合が多い。その為、利便性が良く警備もしやすいこの光世院鳴鳳堂は重宝された施設なのであった。

 そんな光世院鳴鳳堂は、三百年前に建造された古い平屋建の洋館である。建物の至る所に古さゆえの傷みを抱えているが、それでもその外観は奥ゆかしさを醸し出す威厳が備わり、風格漂う非常に見栄えの良い姿をしていた。まさにアダムズ王国を象徴するに相応しい建造物である。

 ルーゼニア教の非常事態とはいえ、一時的にもそんな由緒正しい屋敷を一般に利用させる許可を下した国王の器の大きさに、首都に暮らす信者は感銘を覚えた事だろう。そしてルーゼニア教の総教主ラザフォードもまた、そんな国王に涙を流して敬意を表したという。

 そんな話をタクシーの運転手から聞いていたジュールであったが、さすがにこの渋滞には耐えられないと辟易した。そして彼は堪えきれず、タクシーを止めて目的地に向け歩き出した。

 城に比べれば遥かに小さいとはいえ、光世院鳴鳳堂の敷地はそれなりに広大である。ジュールはそんな光世院鳴鳳堂の塀伝いに伸びる歩道を歩く。するとその前方の視界に傾く五重塔の姿が映った。彼が目にした五重塔は五階部分が完全に消滅し、残された四階以降もその半分が()がれる様に切り崩されている。

「改めて見るとエラい有様だな。俺はあんなところから落ちて良く死ななかったモンだ。それにしても稜威之雄覇走(いつのおはばり)の威力は(すさ)まじいな。本当に神ですら殺せそうだぞ」

 ジュールは十拳封神剣の驚異的な破壊力を思い出しながら歩みを進める。ただその時だった。

「ドン!」

 彼は突然脇道から飛び出して来た人影とぶつかり体勢を崩す。

「痛っ」

「ご、ごめんなさい」

 人影は十代後半と思しき少女だった。彼女は尻餅を付きながら表情をしかめるジュールに一言だけ謝ると、すぐに駆け出しどこかへ行ってしまう。

「何を慌ててるんだか。それにしても最近の若い子は人様に迷惑掛けてもあんなものなのかな――」

 そんな不満を漏らしながらジュールは立ち上がる。ただ少女が駆け出て来た脇道から、今度は黒いスーツを着た数人の男が駆けて来た。その男達の中の一人が、ズボンに着いた砂を手で払っているジュールに問い掛ける。

「なぁ、あんた。女の子がどこかに走っていかなかったかい?」

 目の下に黒々とした(くま)のある男が、異様な眼差しでジュールを(いぶか)しく見つめる。そんな男に薄気味の悪さを感じたジュールは、少女が駆けて行った方向とは真逆の方向を指さして言った。

「あぁ、思い切り体当たりされたよ。ろくに謝りもしないで、あっちの方に走って行ったぜ」

「サンキュー兄ちゃん。ほれ、お前ら行くぞ」

 (くま)のある男はそう言うと、黒スーツの男達を引き連れジュールが指さした方へ駆けて行った。

「何なんだありゃ。新手のナンパか? それにしても昼間から精の出る事だぜ――――ん?」

 ジュールはふと思い出す。今朝テレビに映っていた失踪中のアスリートの少女の顔を。間違いない。さっきの少女はテレビで報道されていた少女だ。そして昨日、アメリアが仕事中に接触したという少女でもあるはず。そう直感したジュールは、少女の駆けて行った道を急ぎ走り出した。

 光世院鳴鳳堂周辺はそれほど入り組んだ道をしているわけではない。しかし昼の参拝に訪れた多くの信者と渋滞する車の行列で酷く溢れ返っている。その為に走り去った少女を見つけるのは困難極まりなかった。それでもジュールは勘を頼りに走り続ける。

 大通りから脇道に入ると、そこは小さな飲食店が所々に並ぶ少し狭い裏路地だった。ジュールは通行人を避けながら、建ち並ぶ店先を覗き込む様に進む。すると彼は一軒の(さび)れた喫茶店の前で立ち話をしている、二つの人影に目を止めた。

 一人は女性であり、それが昨夜地下道で行動を共にしたアニェージの姿であるとすぐに分かった。だが彼はもう一人の姿を見て吃驚(きっきょう)する。アニェージと向かい合い話をする老人の姿。その姿はまさに【グラム博士】だったのだ。



 アメリアは花屋の店先で商品の花に水やりをしていた。朗らかな春の陽気が気持ち良い。自然に鼻歌も奏でてしまうものだ。ただそんな彼女とは対照的に、道を行き交う人々は皆忙しそうに歩みを進めている。アメリアが働く花屋は比較的オフィス街に近い所にあるため、店の前を通るのは会社勤めの人々が圧倒的に多いのがその理由だろう。

 平日の昼間という事もあり、この時間に客が訪れるのは(まれ)だ。でもだからといって花屋の仕事が暇なわけではない。アレンジした花束を得意先やイベント会場などに納品する作業があるからだ。

 ただアメリアはふと思った。時間に追われる様に歩みを進めるこの人達の中で、鮮やかに並ぶこの花々に気に留める者が何人いるのだろうかと。

 みんな心に余裕がないんだな。そう感じたアメリアは如雨露(じょうろ)の水が無くなったため一旦店の中に戻る。そして彼女は新たに水を汲み店先に戻った。

 一人の少女が商品の花を見つめ立っていた。まだあどけない顔をする少女の年齢は十歳前後か。しかし女の子一人でこんな場所にいるのは少しおかしい。平日のこの時間なら学校に行っているはずだし、そもそもオフィス街にあるこの店の近くに学校は無い。それによく見ると、身に付けている服が埃まみれに汚れている。

 アメリアは少女に声を掛けようと近づく。ただその時だった。(たば)になった白いバラをじっと見つめた少女の目から、スッと涙が零れ落ちたのだ。

「どうしたの?」

 只事じゃないと感じたアメリアは屈み込んで少女に声を掛ける。しかし少女はじっと白いバラを見つめるだけで何も話さない。それでも僅かに震える少女の小さな手が、必死で何かを(こら)えているんだとアメリアに思わせた。だからアメリアは少女を気遣い優しく続ける。

「ねぇ、あなたお腹空いてない? これから私お昼ご飯なんだけど、良かったら一緒に食べてくれないかな。私今ダイエットしてるんだけど、お弁当作り過ぎちゃったんだ。だから食べてくれる人がいてくれると助かるんだけど、どうかな?」

 元気のない表情で(うつむ)く少女。アメリアはそんな少女の手を掴み、なかば強引に店の中に連れようとする。しかし少女は抵抗してアメリアの手を振り払った。だが少女は力なくその場に座り込んでしまう。そして少女はベソを掻く様に泣き出してしまった。

 アメリアは少女が少し落ち着くのを待ちながら見守る。すると堪えていた涙が流れ出た事で少し気が晴れたのか。少女の顔色は先程よりもずっと良くなっていた。

「少し気分良くなったかな。我慢しなくていいんだよ。困ってる事があるなら私に言ってみて」

 アメリアは優しく微笑む。するとそんな彼女の笑顔に安心したのか、少女は小さな声でアメリアに言った。

「あたし、二日前に友達と【バロー】から来たの。でもその友達と(はぐ)れちゃって」

「バローって、東部の小さな町よね。そんな所から……。それで、逸れた友達って何人なの?」

「一人だよ。あたしと同い歳の男の子」

「感心する事じゃないけど、バローなんて遠い所からあなた達みたいな子供二人でよくルヴェリエまで来れたね。バローの子供達はみんな(たくま)しいのかな。でも今までどこで寝泊りしてたの? だいぶ服も汚れてるし、まさか野宿でもしてたの?」

 アメリアの質問に少女は黙って頷く。アメリアは少し呆れてしまったが、このまま少女を放置してはおけないと、とりあえず店の中に入るよう告げた。

「さぁ、お店の中でご飯食べよ。だいぶ春らしくなってきたけど、まだまだ朝晩は寒いし、体冷え切ってるでしょ。あったかい飲み物もあるから、まずはお腹一杯にして体力付けよ。いなくなった友達はそれから探そうね。私も手伝ってあげるから」

「本当?」

 涙目の少女はアメリアに(すが)る様な眼差しで聞き返す。そんな少女にアメリアは微笑みながら力強く返した。

「うん、本当よ。一緒に探そ」

「ありがとう――」

 温もりの感じられない都会に戸惑いながらも、一人必死に耐えてきた少女にとって、アメリアの優しさは身に染みる嬉しさだったのだろう。だから少女は目に大粒の涙を浮かべながらも、精一杯の笑顔で感謝の言葉を口にしたのだ。そんな少女の姿にアメリアはホッと安心する。そして改めて店の中に少女を招いた。

「さ、お店の中に入ってご飯にしましょう。そう言えば自己紹介がまだだったね。私の名前はアメリアっていうの。あなたは?」

「あたしは【テレーザ】。それと一緒にバローから来た友達は【ボルタ】っていうんだよ」

 そう告げた少女にアメリアは幼き日の自分を重ね合わせた。自分もジュールの後を追い、危険な体験をした事がある。そんなアメリアだからこそ、少女の気持ちを理解したのだ。

 どういった理由でこの少女が遠く離れた田舎町から首都まで来たのかは分からない。それでもアメリアには少女なりの決意でここまで来たのだと、確信に近い思いを感じた。恐らく共に来た男の子の事が心配で仕方なかったのだろうと。そしてその彼の事が大好きなのだろうと。

 幼き頃の自分を見る様に、アメリアは少し懐かしさを感じながら少女と手を繋ぎ花屋の中に入って行った。

 足早に街を行き交う人々は、そんな二人に気を留める事なく歩みを進めている。都会に生きる者達は今を生きる自分自身に精一杯であり、他人を気遣う余裕など微塵もない。ゆえに都会の片隅で起きた小さな出来事に、無関心な人々はまったく気付かなかった。それでも鮮やかに色付いた店先の花々は、アメリアとテレーザの対話を寛容に見つめていたようである。そしてもう一つ、店から少し離れたビルの陰から、遠巻きに二人を見る人影があった。



「お前が今のジュールか! まさかこんな場所で遭遇するとは、たまげたモンじゃ」

 グラム博士と同じ顔をした老人が、テーブルを挟んで向かい合ったジュールに対し声を大にして言った。

 脇道でアニェージと老人の姿を目にしたジュールは、少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも二人に声を掛けていた。「お前が何でここにいるんだ」とアニェージが血相を変えて詰め寄って来たが、老人の姿に釘付けになったジュールがそれを無視したのは言うまでもない。

 ただよく見るとグラム博士とは表情が微妙に異なる。博士に比べて肌の色が浅黒いし、歳の割に体つきもガッチリしていそうだ。科学者というよりも、職人と言った方がしっくりくる姿である。それでも博士にそっくりなのは事実であり、そんな老人を前にしたジュールは妙な気恥ずかしさを覚えて立ち尽くした。

 アニェージからジュールを紹介された老人は、こんな所で立ち話もなんだと喫茶店に彼を誘う。アニェージはジュールが同席するのを少し渋ったが、老人は構わずに彼の背を押しながら店に入った。

 薄暗く狭い店内に先客は一人。後ろ姿で顔は確認出来ないが、新聞を読みながらコーヒーを飲む仕草からして、三十代中頃の男性に見える。カウンターでは年老いたマスターが、砕いた豆でも詰まったのであろうか、年季の入ったコーヒーミルを丁寧に清掃していた。

 顔見知りなのか。老人とアニェージはマスターに軽く挨拶をすると、慣れた動作でテーブル席に座った。マスターは少し笑顔をこちらに向けるも、ミルの清掃を中断せずに黙々と作業を続けている。

「ほれ。こっちに座れ」

 老人に手引きされたジュールは椅子に腰かける。まだ緊張するジュールであったが、そんな彼に老人は笑顔で語り掛けた。

「お前が今のジュールか! まさかこんな場所で遭遇するとは、たまげたモンじゃ」

 老人は嬉しそうに笑顔を浮かべた。ジュールは微笑む老人を食い入る様に見つめ続ける。ただそんな黙り込む彼にアニェージが詰め寄った。

「お前、何でこんな場所にいたんだよ。まさか私達を付けてたんじゃないだろうな」

 その言葉にハッと我に返ったジュールは彼女に言い返した。

「ぐ、偶然さ。それよりあんたこそ、こんな所で何してんだよ。ルヴェリエ中央病院に入院したんじゃないのか。ガウスにそう聞いたから、今から見舞いに行こうとしていたところなんだぞ」

「フン。こんな(かす)り傷で入院なんかするか。ヘルムホルツの奴が大袈裟なんだよ。自分の体は自分が一番良く分かっている。だから私の事は構わないでくれ。それよりお前の体は大丈夫なのか? 私に言わせれば、お前の方がヤバいくらい痛めつけられてたと思ったけどな」

「へぇ、心配してくれるんだ。あんた意外と優しいんだね、驚いたよ」

「チッ、貴様が化け物だと言う事を忘れていた。クソッ、不愉快だ」

 そう吐き捨てアニェージは顔を背けた。そんな二人の会話を老人は笑顔で聞いていたが、アニェージに代わってジュールに話し出した。

「若さというものは、それだけで熱く眩しいものじゃな。紹介が遅れたのう。ワシの名は【ガルヴァーニ】。お前の父、グラムとは血縁関係にある者じゃ。お前は覚えてはいまいが、ワシは一度お前に会うておる。お前がまだ赤子の時にのう、ハッハッハッ」

 意気揚々と笑うガルヴァーニは続ける。

「グラムが赤子を育てると言って来た時は、そりゃ本当に驚いたモンじゃ。何を血迷った話しを始めたんじゃと、その時は冗談としか思えなんだ。それでもグラムはお前を育て上げた。こうして(たくま)しく成長したお前の姿を目の当たりにして、あやつの本気が痛いほど伝わって来るぞ。それほどまでにグラムはお前の事を想い、そして大切にしていたのじゃとな」

 ジュールの姿を見つめるガルヴァーニの目に熱いものが込み上げて来る。そんな老人に、ジュールは伏し目がちに聞いた。

「あなたはグラム博士が今どうしているのか、ご存知なのでしょうか?」

 親族であれば事実を告げねばならない。でもそれを告げるには胸が痛む。ジュールは表情を曇らせていた。ただそんな彼に対し、意外にもガルヴァーニは毅然とした態度で返した。

「グラムは死んだのであろう。あやつの覚悟は随分と前から分かっておったからな。(あがな)う相手が強大であるがゆえに、命を(かえり)みず最後まで抵抗した。どう死んだかは知らぬが、あやつらしい死に様であったとワシは思うておるよ。あやつの残した形見というにはあまりにも難解な遺産を思えば、例え志半(こころざしなか)ばで倒れたとしても、決して無念は感じていまい」

「遺産? もしかして昨日アニェージが言っていた、博士の【最終定理】ってやつのことですか?」

「少しは話を聞いたか。そうじゃな。まだ少し時間があるゆえ、一緒に昼飯でも食いながら話でもしようかのう。どうじゃ、ジュールよ」

「ちょっと待ちなよ、ガルヴァーニじいさん! こいつに何を話すつもりなんだ。【社長】の許可もないのに、勝手なマネは私が許さないよ!」

 アニェージが声を荒げガルヴァーニに詰め寄る。しかしガルヴァーニはそれを無視してジュールに問うた。

「良いかジュールよ。ワシの話を聞くという事は、グラムの意志を継ぐ覚悟を決めるという意味じゃ。生前からグラムには言われておる。ジュールには、息子だけには自分の選んだ道を継いでほしくないと――。それでもお前は聞くか?」

 ガルヴァーニはじっとジュールの目を見つめる。哀しくもどこか温かい。ジュールはそんな眼差しを黙って見つめ返した。

 ジュールは迷いなくガルヴァーニの目を真っ直ぐに見つめている。それは言わずも知れた決意に満ちた強い視線だ。すると覚悟を真摯に感じ取ったのだろう。ガルヴァーニは一言告げた。

「ワシの持つ情報を、全てお前に伝える」

「バカな! そんな勝手なこと」

「黙っておれ小娘! これはワシとジュールの問題じゃ。シュレーディンガーにもアイザックにも文句は言わせん!」

 声を荒げたアニェージに対し、ガルヴァーニは凄まじいまでの威圧感で抑圧する。とても老人のものとは思えない殺気じみた凄みに彼女は声を失う。そしてその姿を見ていたジュールもまた、ガルヴァーニの底知れぬ恐ろしさを感じ息を飲んだ。

「済まん済まん。腹が減ってたものでな。ついムキになってしまった。年甲斐もなく我ながら困ったモンじゃ。おい、マスターよ。何か軽く食べれる物を出してくれ」

 元の穏やかな表情に戻ったガルヴァーニが、カウンター越しにいるマスターに声を掛ける。ちょうどコーヒーミルの清掃が終わったらしく、マスターはニッコリと笑顔を見せると、食材を取りにバックヤードへ向かって行った。


 年老いたガルヴァーニへの気遣いなのであろうか。マスターの作ったパスタは薄めに味付けされていた。それでも美味そうにパスタを食べ尽くしたガルヴァーニは、満足な表情を浮かべ微笑んだ。腹が膨れ上機嫌になったのだろう。食後のコーヒーに口を付けながら、老人は明るくジュールに言った。

「グラムはお前に自分の意志を継いでほしくないと言った。それは本当なんじゃが、実は続きがあってのう」

「続き?」

 同じくコーヒーを口に含みながらジュールが聞き返す。

「そう。グラムは付け加えたのじゃ。もしワシの息子、ジュールがこの件について尋ねて来たならば、その時は快く協力してやってくれ……とな。グラムは分かっておったのじゃろう。お前がグラムの身に起きた事実を知ったなら、その時は必ず真実を求め、過酷な道を行くことを選ぶだろうとな」

「博士――」

 ジュールは思う。確かに博士はそういう人だったと。誰よりも自分の事を気遣い、労わってくれていた。博士がいなくなった事で、ジュールはより一層博士の大きさを思い返す。そんな彼に表情を引き締め直したガルヴァーニが続けた。

「今から半年ほど前じゃ。グラムの友人である軍の隊士【ファラデー】が殉職した。当然お前はそれを知っているな」

 ジュールは黙って頷く。

「その頃ワシは東部の田舎町【バロー】に暮らしていたのじゃが、グラムがワシのもとを突然訪ねて来てのう。フン、珍しい事もあるものだと、あの時は驚いたもんじゃ。ワシの方からグラムを訪ねる事はあっても、あやつからワシに会いに来るなど、長い人生でも初めてじゃったからな。じゃがその時のグラムの姿は見るに堪えぬほど憔悴(しょうすい)していてのう。大切な友人が死んだと、ひどく落ち込んでおった」

 ガルヴァーニの横でアニェージも黙り聞き入っている。

「じゃがグラムの目は死んでいなかった。いや、ただでは死なんという目をしていた。そんな強い意志の宿る眼差しでワシを見つめたあやつは、一冊の古びたノートを取り出して言った。これをグリーヴスの【シュレーディンガー】に渡してくれ――と」

 ガルヴァーニはリュックの中から手帳の様な小さめのノートを一冊取り出し、ジュールの前に置いた。だいぶ古いものなのであろうか。差し出されたノートはボロボロに痛み、黄ばみきっている。

「中を見ても?」

 ジュールが尋ねると、ガルヴァーニは無言で頷く。ジュールは手に取ったノートをパラパラと(めく)り目を通す。ノートには難しい計算式や殴り書きのメモのようなものが乱雑に書かれていた。もともと科学に無知なジュールにとって、それらが何を意味するものなのかは見目付かない。ただ、所々に血痕の様な赤黒いシミが付着しているのにジュールは唯ならぬ懸念を覚えた。また彼はノートの後半部分が、むしる様にはぎ取られている事に気付いた。

「この血痕の様なのもは博士のものですか? それともガルヴァーニさん、あなたのものですか? それに最後のほうのページが切り取られてますね」

 ジュールの問いに老人は簡素に答える。

「グラムがそのノートを手に入れた時にはもう、そのシミは付いていたらしい。ただノートの最後をはぎ取ったのは、グラムの仕業じゃよ」

「博士が、何の為に?」

 ジュールは首を傾げる。そんな彼にガルヴァーニが少し怖い顔つきで言った。

「そこには【神】に対抗するための、重要な【何か】が書かれていたのであろう」

 アニェージは目を閉じて聞いている。

「ノートをワシに託したグラムは、これまでに自分の身に起きた事全てを話した。敵は【神】であり、そして【国王】であるという事を」

 ジュールは生唾を飲み込みながらも、ガルヴァーニの目を真剣に見つめ頷いた。それによってガルヴァーニは、ジュールが挑むべき対象を理解していると把握する。すると老人はノートの1ページ目を開き、そこに書かれた文章を指さした。


『私は光子相対力学の理論を覆す真に驚くべき証明に成功したが、余白が狭すぎる為ここに記すことはできない。ただし矛盾した各所に証明の糸口は残した。この定理を道案内とし、光子相対力学に行き着きながら、その道程に隠された深い意味を知りたくば、順を追い真理に迫れ』


 ガルヴァーニはコーヒーを一口飲むと、続きを語り出した。

「グラムは神に対抗する為の【何か】を探し出そうとしておった。いや、正確に言うなら、その時すでにグラムの頭の中には、神を(ほうむ)る決定的な理論が構築されておったのだ。じゃがそれを実行するには、まだ少し時間がかかるようじゃった。それにグラムには協力を仰ぐべく、力になる者の存在が少な過ぎた。事が事だけに、誰かれ構わず頼めんからのう。ゆえにあやつは自分一人で行動に移るしかなかった」

 ガルヴァーニは口調を変えずに続ける。

「生きている間に目的は果たせない。グラムはそう確信したのだろうな。でもだからこそ、僅かに残された時間に自分の知る全てを【何処か】に隠したのじゃ。喰えぬ奴よ、あやつは。自分の死んだ後の事までしっかりと計算しておる。誰がどう動くかをまるで知っているかの様にな。じゃがそんな抜かりないグラムが、去り行き際に一言だけワシに弱みを嘆いてのう。お前が動いてくれると助かるが、無理は言えぬ――と。ひどく寂しい後ろ姿であったのを今でもワシは覚えておる。あの時のグラムは、誰よりも孤独であったのだろうな」

 ジュールはただ聞き入っている。

「それでもグラムは最後にワシに言った。自分は神に対抗する為の真理を暴き出したと。それはアルベルト国王が提唱する光子相対力学の理論を(くつがえ)すものであり、その証明こそが人の出来うる神を葬る絶対の手段であると。ワシには何の事だかさっぱり分からんかったが、グラムのやろうとしている事の重大さは身に染みて理解した。なのにワシは臆病者じゃ。グラムのそんな決死の覚悟を認識しながらも、ワシは怖さで身を(すく)めた。あやつの話を聞かなかった事にし、ワシはただ何もない日常に身を委ねた。だがそんんな何気ない日常が、ワシの心を変えたんじゃ」

 マスターは無言のままカウンターの奥でグラスを磨いている。

「グラムがお前を大切にしたように、ワシにも掛け替えのない家族と呼べる者が一人おる。その者との平穏な暮らしが、ワシにグラムの覚悟を継ぐ決心をさせたんじゃ。大切な者を守りたい。それこそがグラムの行動の真意であり、それ以外には有りえないはずじゃからな」

 そう口にするガルヴァーニの表情は非常に穏やかなものであった。人を思い遣る気持ちは、これほどまでに人を強くするものだろうか。そう感じながら、ジュールは和やかに微笑む老人の顔を見つめた。

 ジュールに見つめられていることが少し恥ずかしかったのか。ガルヴァーニは照れる気持ちを隠す様にコーヒーを一気に飲み干す。ただ彼は改めてジュールに向き直ると、力強く一言告げた。

「ここからが本題じゃ。心して聞くが良い」

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