#33 蟇穴の地下道(後)
爆風に巻き上げられた排水が雨の様に降り注ぐ。その中でガウスの巨体に覆われたアニェージは、鼓膜が破れるほどの爆音に耳を傷め表情を歪めていた。
「か、体は大丈夫ですか。どこか怪我はありませんか?」
ガウスはアニェージの体を気遣う。しかしその表情は彼女よりも遥かに悶絶する形相であった。
ガウスはヤツに対して咄嗟に赤玉を投げつけた。そしてアニェージを爆風から守る為に、彼女に覆い被さりその衝撃を背中でモロに受けていたのだ。彼の身に付ける制服の背中部分は広く焼け焦げ、そこから見える彼の背中は重度に損傷していた。
「お前、こんな至近距離で赤玉を使ったのか」
アニェージは痛めた耳を抑えながらも素早く起き上がりガウスの背中を確認する。これほどの傷を負いながら、失神もせずに他人を心配するとは恐れ入るな――。アニェージは目を覆いたくなるほどに傷ついているガウスの背中を見てそう思う。ただ彼女は彼の肩を担ぐと、地下道を戻ろうと足を踏み出した。
「一旦退いて体勢を立て直す。辛いかも知れないけど我慢してよね」
「お、俺の事はいい。あんたはジュールさん達と合流してくれ」
「バカ言うな。こんな状態のお前を一人置いて行けるか。無駄口叩く力が残っているなら足を動かせ!」
アニェージはこの期に及び他人を気遣い立ち止まろうとするガウスを無理やり引きずりながら歩く。するとガウスはアニェージの強情な性格を理解したのだろう。それ以上は反発せずに重い足を懸命に動かし始めた。しかしそんな満身創痍の二人の後方より、爆発で舞った粉塵を吹き飛ばす雄叫びが上がる。
「グゥオオオオオオォォ!」
まるで金縛りにでもあったかのように、アニェージとガウスは足を止めた。そして二人はゆっくりと後方を振り返える。そこには猪顔のヤツが鋭い睨みを効かせて立っていた。
ただヤツの胸は激しく損傷している。赤玉の爆発をモロに喰らったのだ。傷ついた胸部からは激しい出血があり、かなりのダメージを与えたのは確かなはず。鋭い眼光は恐怖を覚えるに十分だったが、しかしヤツの呼吸は荒くこちらに向かって来る様子はない。いくらヤツがタフだからって、そう簡単には動けないはずだ。そう判断したアニェージは少し離れた地下道の壁にガウスの体を預けると、ヤツの正面に自らの体を向けた。
「もしかしてアニェージさん。ダ、ダメだ。ヤツが動けない今のうちに逃げるんだ!」
「ヤツが動けない今だからこそトドメを刺すんだ! それが二人助かる最善の方法なんだ」
ガウスはアニェージの腕を掴み引き留めようとしたが、それより一瞬早く彼女はヤツに向け駆け出した。唸りを上げ一気に加速するアニェージ。コンクリートの床が抉れるほど強く足を踏み込んだ彼女は、いまだ動けないヤツに猛烈な蹴りを叩き込んだ。
ヤツは辛うじて残された一本の腕でその蹴りをガードする。しかしその巨体は激しく吹き飛び歪んだ鉄格子を薙ぎ倒した。アニェージはそんなヤツに向け更に加速し、もう一撃蹴りを喰わえるため一直線に駆ける。そして彼女はまたもコンクリートの床を破壊する勢いで強く踏み込んだ。
だが硬いコンクリートを強く踏み込んだ瞬間だった。彼女は自らの脇腹に激痛を感じ体勢を崩す。はやり彼女の方も肉体的ダメージが蓄積されていたのだ。
中途半端なスピードに乗ったアニェージは体勢を崩したままヤツに向かって飛ぶ。まったく無防備な状態だ。するとそんな彼女の隙を付くように、ヤツがカウンターの拳を振りかざした。
「ドガッ!」
アニェージの体が横に弾け飛ぶ。それと同時にヤツの剛腕が何も無い空間を切り裂いた。一体何が起きたのか。ヤツはそう感じたのだろう。何の感触も残っていない拳に驚きを隠せないでいる。ただそんなヤツを横目にしながら床を転がったアニェージは、脇腹を抑えながら強がりを吐き捨てた。
「お、お前。な、なんで邪魔をするんだ」
眉間にシワを寄せ痛みに耐えるアニェージは、目の前に駆け付けた人影を睨み付ける。だが人影はアニェージを背にし、彼女の盾となるように身構えながら言った。
「邪魔とは失礼だな。あのまま突っ込んでたら、今頃あんた死んでたぜ。恩人に対してその鬼の様な目は勘弁してくれよ。それにしてもやせ我慢が過ぎたみたいだな。あとの事は俺に任せて、あんたはそこで休んでいてくれ」
間一髪のところで駆けつけたジュールは、軽く笑みを浮かべながらそう言うと、ひどく弱った姿のヤツをじっと見据えた。そして彼はヤツに向かってゆっくりと近づき出した。
地下道の壁を背に座り込むガウスがヘルムホルツの応急手当てを受けている。しかし手持ちの簡易的な医療道具では気休めにもならない。早く適切で十分な処置が必要だ。そう判断したヘルムホルツがヤツに対峙するジュールに叫ぶ。
「まずいぞジュール。早くしないと命に係わる!」
「分かってるさ。でも少しだけ待ってくれ。大丈夫、心配はいらない」
ジュールはそう言いながらヤツに向かい更に近づく。ただ何を考えたのか。彼は手にする小銃を腰のホルスターにしまった。そして両方の手の平をヤツに向け、敵意が無い事を知らせる。まったく正気の沙汰じゃない。ジュールの態度に肝を冷やしたアニェージとヘルムホルツが堪らずに叫んだ。
「バカ、何してるんだお前。自殺するつもりか!」
「ジュール! こんな時に冗談はよせ、ヤツから離れるんだ!」
それでもジュールは微笑みながら進んだ。すでにヤツの手の届く距離まで近づいている。一瞬で首を刎ねられても仕方ない距離だ。だが以外にもそんなジュールに対し、猪顔のヤツの方が驚き事態を窮していた。ジュールが一歩近づくとヤツが一歩後退する。奇妙な光景を前にアニェージ達は声を発せられない。
「大丈夫。俺はお前に危害を加えたりしない。少し話がしたいだけだ」
ジュールはヤツに向け優しく語りかける。彼の言葉に嘘は微塵も感じられない。その言葉通り、攻撃する意志はまったくないのだろう。
ヤツにしてみれば絶好のチャンスのはずだ。今のジュールを殺すなど造作もないはず。だが何故だろうか。ヤツはまるで追い詰められているかの様にジリジリと後退した。
「何をそんなに怯えている? 俺はお前と話がしたいだけだ。怖がる必要は何一つない。頼むから俺を信じてくれ」
ジュールは真っ直ぐにヤツの目を見つめて問いかける。そんな彼にヤツは返す言葉を見つけられずおろおろするばかりだ。異様な沈黙の時間が流れる。すると目の前の信じ難い状況に一時声を失っていたアニェージが、懐から赤玉を取出しジュールに向かって叫んだ。
「退けジュール! こんな化け物に情けなど必要ない! 吹き飛ばすから早くそこを退け!」
「うるさい、黙れ!」
「退け!」
「黙れって言ってるだろっ!」
「うっ」
ジュールの内側から噴き出した狂暴な覇気に押し潰されたアニェージは息を飲む。ゾッと背中が粟立ったアニェージは、赤玉を握りしめたまま立ち尽くすだけだ。ジュールはヤツに視線を戻すと、再び柔和な眼差しで語り始めた。
「お前を混乱させるようなマネをしてしまって済まない。でも信じてほしい。俺は決してお前に痛い思いはさせない。俺達はこの地下道が何なのか知りたいだけなんだ。もしこの地下道の存在理由を知っているなら教えてくれないか。俺達の望みはそれだけだから」
ジュールは優しい温和な眼差しで語りかけ続ける。そんな彼に戸惑いを隠せないヤツであったが、少しの沈黙が過ぎると絞り出すようにして一言発した。
「――あ、あなたは私の事を悍ましく思わないのか?」
まるで怯えているかの様にヤツは言う。するとジュールはその怯えを取り払う様に微笑みながら答えた。
「お前も元は人なんだろ。自らの意志か、強制的にその姿にされたのかは知らないけど、外見がどうであれ心までは変わっていないはずだからね。傷ついた体でいまだに自我を保ち続けている。それがお前の心が人として生きている確かな証拠なんだからさ」
そう告げたジュールは微笑みを保ち続けたまま、ヤツに向けそっと手を差し出した。ヤツはそんな彼の態度に更に驚いた表情を浮かべ一歩後退する。
「良かったら俺達と一緒にここを出ないか。こんなジメジメした陰湿な場所に潜んでいたら、いつか本当の化け物になっちまうかもしれないぜ。それにいくら回復力が自慢だとは言え、その体は傷つき過ぎだ。お前も早く手当したほうがいい」
「バ、バカを言うな。ここを出たとして私にどうしろって言うんだ。こんな醜い姿を人々に晒し、見世物にでもなれって言うのか。それに私はここに監禁されていただけだ。出口なんか知らないよ」
「なら一緒に出口を探さないか。お前の協力があれば、きっと出口は見つかるはずだよ」
差し出した手をそのままに、ジュールはヤツに頼み込むように協力を呼びかける。しかしヤツは首を横に振り素っ気なく答えた。
「表に出たいのなら排水を下流に辿れば出れるんじゃないのか。水が流れて行くんだから、必ずどこかに流れ出てるって事だろ。でも私は行かない。あなた達だけで行け。そもそも何故上流に来たんだ。頭が悪過ぎて理解に苦しむ」
ヤツは呆れた表情を浮かべると、張り詰めた緊張感から解放されたかの様に尻餅をついて座り込んだ。ジュールはそんなヤツに微笑みながら告げる。
「うん。確かにそうだな。奇妙な人影につられたとはいえ、なぜ上流に進んだんだろうか。自分でも不思議だよ。でもお前の助言で俺達は出口に向かい進めそうだ。もしかしたらあの人影は、俺達をお前に引き合わせようとしたのかもしれない。だから考え直してみないか、俺達と一緒にここを出よう」
ジュールは変わらずヤツに向け差し出した手を引こうとはしない。そんな彼の手をヤツは少し見つめるも、やはり首を横に振り言った。
「あなたの気持ちは正直に嬉しく思う。でもやっぱり一緒には行けない。行けば必ず迷惑をかける」
「そんな心配はしなくていい。自分の心に素直になってくれ。さぁ、俺達と一緒に外に出よう」
ジュールの真っ直ぐな想いがヤツの胸に熱く伝わる。思い悩むヤツであるが、残された左腕をグッと握りしめると、ジュールに向かって小さく発した。
「……本当に、いいのか?」
ジュールはニッコリと微笑み答えた。
「もちろんさ!」
ヤツは少し照れるように俯くと、意を決しジュールの手に自らの手を差し出そうとした。――がしかし、突然ヤツはその表情を強張らせ体を震わせ始める。
「ズサ、ズサ、ズサ――」
下水道の上流より何かが近づいて来る音が聞こえる。接近する耳障りな音に、ジュールは尋常でない不吉な予感を全身で感じた。彼は生唾を飲み込みながら視線を上流に向ける。すると暗がりの地下道から、ゆっくりとそれが姿を現した。ジュールは本能で直感する。こいつはヤバい奴だと――。
ジュール達の前に現れたのは【腐った豹】の顔を持つヤツであり、禍々しく発せられたその異様な圧迫感は凄まじく、皆は身動きするのを忘れていた。
落ち着いた挙動でゆっくりと歩みを進める豹顔のヤツ。その顔には左のこめかみから頬にかけてザックリと切り裂いた傷跡があり、それがまた見る者の心を凍らせるに十分な印象を与えた。まるで獲物を見定めるかのように、豹顔のヤツは棒立ちのジュールたちを順番に見据える。滴るほどの唾液を長い舌で舐めては、一人一人の強張った表情を見て回る姿は浅ましくて堪らない。ただ豹顔のヤツは腰を抜かしたように震えて座り込む猪顔のヤツの前で立ち止まった。
奥歯の噛み合わないガチガチとした音が聞こえて来る。猪顔のヤツは恐怖で完全に怯えきっている様子だ。するとそんな猪顔のヤツに向かって豹顔のヤツは卑しく口元を緩める。その姿にジュールらは猪顔のヤツの死を確信してしまった。――がしかし、
「ギュイィーーン!」
突然鳴り響く甲高い機械音。ハッと我に返ったジュールは音の発せられる場所に視線を向ける。するとそこには足首を抑えるアニェージが、まるで陸上のスタートを切る様な体勢で身構えていた。
唸りを上げる高周波音にジュールはたまらず耳を塞ぐ。しかし豹顔のヤツはたいして気に留める様子もなく、むしろ挑み来るアニェージの姿勢に薄らと笑みを漏らしていた。
「殺す」
そう一言だけ発したアニェージは、脇腹の痛みを無視し渾身の力を振り絞って豹顔のヤツに向かい飛んだ。彼女の体は目で追うのすら困難なスピードでヤツに突っ込む。それはまるで彼女自身が光の矢にでもなったかのように、激しい閃光が一直線にヤツの胴体を突き抜ける光景だった。
一瞬遅れて訪れた爆音と衝撃波によって、ジュールの体も吹き飛ばされる。赤玉の爆発をも凌駕する衝撃が地下道に広く伝わり、舞い上がった粉塵で周囲の視界は深く閉ざされた。
「やったのか――」
ジュールは伏せながら豹顔のヤツが立っていた場所に目を凝らす。しかし宙に舞う濃い粉塵が邪魔で何も見えない。それでも彼は怯えて動けない猪顔のヤツと、痛めた体に構うことなく凄まじい攻撃を発したアニェージを気に掛ける。そしてジュールは意を決し粉塵の中に飛び込もうと駆けだした。だがそれと同時に粉塵の中から一つの人影が飛び出し、勢い余って彼と激突する。
「痛っ、何しているんだお前は」
「おぉ、スマン。無事だったか」
人影はアニェージだった。しかし彼女は脇腹を抑えながら激痛に表情を歪めている。ジュールには一目でそれが極めて深刻な状態であると理解でき、彼女の体を気遣った。
「無茶しやがって、あんたとっくに限界超えてるんだぞ。女なんだからもっと自分の体労われよ」
「ふざけるな、腰抜けが。あいつをほっとけるわけ無いだろ。ヤツこそ、私達のもとから論文を強奪した張本人なんだ。やっと見つけたんだ。絶対に殺してやる!」
アニェージはそう言って並々ならぬ殺意を表に出す。しかし彼女の体はジュールが指摘するように限界に達していた。一歩踏み出した彼女はその衝撃で気を失いそうになり咄嗟にジュールに掴まる。呼吸をするのすら困難な状態にまで達していそうだ。ジュールはそんな彼女を抱きかかえると、粉塵の中で後方に霞んで見えるヘルムホルツとガウスの所に向かった。
「ヘルムホルツ。お前はアニェージとガウスを連れて先に下流に進んでくれ。あの豹顔のヤツはヤバい! 何とか俺がここで時間稼ぎをするから早く行ってくれ」
「おいおい。さっきのアニェージの攻撃で死んだんじゃないのか? いくらヤツがタフだからって、あんな攻撃まともに喰らって生きてられるとは考えられないぞ」
ヘルムホルツは懐疑的にジュールに答える。だがジュールは鬼気迫る表情で言い返した。
「俺を信じろ! 早くここを離れるんだ!」
ジュールは有無を言わさぬ姿勢で強引にアニェージの体をヘルムホルツに託す。
「ま、待てジュール。私はまだ、た、戦えるぞ」
ヘルムホルツに背負われたアニェージがジュールの肩を掴む。しかしジュールはそれを軽く振り払うと冷たく言い放った。
「弱り切った握力が限界を物語っている。今のあんたにはもう無理だ。それにあんただって分かってるんだろ、ヤツがまだ生きていると。だから必死に戦おうと足掻いているんだ。だけどここで無理にヤツと戦ったところで無駄死にするのは間違いない。豹顔のヤツはそれほど危険な存在なんだ」
「だがヤツは論文を」
「ぐだぐだ言わず行くんだ! 視界の悪いこの状況を逆手に退却することだけを考えろ。ヤツが素直に俺達を逃がすと思ってんのか!」
ジュールの言葉にアニェージとヘルムホルツはギョッとする。――とその時、彼ら目掛けて大きな物体が勢いよく飛んできた。
「危ない!」
ジュールはアニェージと気を失っているガウスを抱えたヘルムホルツを突き飛ばす。だがそこまでが限界であり、黒い塊がモロに激突したジュールの体は地下道の壁にめり込んだ。
「ジュール!」
ヘルムホルツは驚愕の表情を浮かべる。ジュールを押しつぶした黒い塊が猪顔のヤツだったからだ。それも猪顔のヤツは自分の力で飛んで来たのではない。明らかに投げ飛ばされたのが分かる。もちろん投げ飛ばしたのは豹顔のヤツしかいない。
大量の血を吐きながら猪顔のヤツが僅かに残った力を振り絞り、めり込んだ地下道の壁からその身を捩る。そしてなんとか壁から抜け出したヤツであったが、その場に力尽き倒れ込んでしまった。猪顔のヤツはもう息をするのもやっとだ。
だがそこでヘルムホルツは更に戦慄を覚えた。ヤツの抜け出した地下道の壁に深くめり込むジュールの姿を確認したからだ。
彼の胸は大量の血で真っ赤に染まっている。猪顔のヤツに押し潰され、夥しい量の血を吐き出したのだろう。赤いトランザムの制服が更に赤く上塗りされてゆくのがはっきりと見て取れる。ただそれでもジュールの目には明らかに光が感じられた。
ヘルムホルツはホッと胸を撫で下ろす。見るに堪えない姿ながらも、ジュールがまだ生きているのだと知り安堵したのだ。そして彼はジュールを助け出そうと立ち上がろうとする。しかし彼は立てなかった。
彼は立ち上がろうとして初めて気付く。自分の意志ではどうにもならないほど足が震え、立ち上がるどころか足に力がまったく入らない状態なんだと。
なぜだ。なぜこんなにも震えている。彼は頭と心の中で自分自身を取り戻そうと懸命に足掻く。しかし無念にも彼の本能がそれを拒み続けた。そして気配を感じた彼は恐る恐る後ろを振り向く。くそっ、いつからいたんだ。そこには不敵な笑みを浮かべた豹顔のヤツが立っていた。
豹顔のヤツが剛腕を振り上げる。それでもヘルムホルツは動けない。このままでは確実に殺される。
それを見たジュールは目の前に迫る最悪の結末を防ごうと、体のめり込んだ地下道の壁から抜け出すために必死にもがいた。するとボロボロになった姿からは想像出来ない力が発揮され始める。
「うおぉぉぉ!」
彼は唸り声を上げながら力を振り絞った。徐々にではあるが確実に体が壁から抜け出していく。そんな途轍もない底力を発揮するジュールの姿に豹顔のヤツは気付き目を丸くする。しかしヤツは目の前で動けずにいるヘルムホルツに向き直ると、うすら笑いながら彼に向け再び剛腕を振り上げた。
「やめろー!」
大声で叫んだジュールは眩しいくらいに右目は輝かせ、めり込んだ壁からその身を無理やり抜き出す。だが足がもつれて転倒してしまった。その視線の先には今まさに剛腕をヘルムホルツに向け突き出そうとするヤツの姿がある。
手を伸ばせば届きそうなほど接近した距離にいるのに、最後の一歩が届かない。ジュールの脳裏にファラデーの残酷な死に様が過ぎる。また俺は大切な者を助けられないのか――。いやまだ間に合う。諦めるな! 最後まで足掻くと俺は決めたはずだ。絶対に負けない。もう誰も失わない!
そう心の中で叫んだジュールの右目が激しく輝き出す。しかしそれと同時に豹顔のヤツが、容赦なくヘルムホルツに向けて剛腕を振りかざした。
「ダン! ダン! ダン!」
地下道に銃声が鳴り響く。ヤツは不意に発射された銃弾を突き出した剛腕で弾き飛ばす。そして大きく一歩飛びのいた。その隙に間一髪で危機を回避したヘルムホルツが、ようやくその身を動かし退避する。這う様にして逃げるヘルムホルツを庇うようにして、正気を取り戻したガウスがヤツに向け小銃を連射した。
「ダン! ダン!」
ガウスは続け様に銃口をヤツに向け引き金を引く。しかし発射された銃弾はヤツの拳に弾かれ地下道の壁に埋まった。力を使い果たしたガウスはその場に倒れ込む。それでも彼は震える腕で懸命に銃を握りヤツを狙った。そんなガウスに標的を変えたのか。ヤツは薄気味悪い笑みをガウスに向けると、今度は威勢よく駆け出した。
「うっ」
ガウスは青ざめる。そして不覚にも彼は目を瞑り、猛スピードで襲い来るヤツから目を背けてしまった。あまりの恐怖に体が萎縮してしまったのだ。だがそんな彼の頭上を凄まじい爆音が通り抜ける。
「ズッガガァーン」
爆風が吹き荒れる中、豹顔のヤツの巨体が吹き飛んだ。ガウスが目を開くと、そこには脇腹を抑えたアニェージが蹲っていた。彼女は死力を尽くし、今出せるありったけの力でヤツにカウンターの蹴りを叩き込んだのだ。
アニェージはまともに息が出来ず苦しんでいる。それでも彼女は蹴り飛ばしたヤツの姿を懸命に目で追った。ヤツから目を放す事がどれだけ危険か理解しているのだ。
豹顔のヤツは猪顔のヤツが幽閉されていた牢獄の壁に激突していた。さすがのヤツもダメージを受けたのか、立ち上がってはいるものの、少し体をふらつかせている。そんなヤツに対し、今度はジュールが小銃の引き金を引いた。
「ダン! ダン! ダン!」
連続で発射された銃弾はまたしてもヤツの拳に跳ね除けられる。それでもジュールは構うことなく、弾が尽きるまで引き金を引き続けた。
「カチッ、カチッ」
引き金を引く音だけが空しく響く。弾切れだ。すると豹顔のヤツはジュールに向けしたり顔でほくそ笑む。しかしヤツは自分の足元に小さな赤い玉が転がっているのに気付いていなかった。
「スガガガガァーーン!」
赤玉の強力な爆発が直撃し、ヤツの体が宙に舞った。
またも地下道は爆発の粉塵で包まれ視界が遮蔽された。ただその中でジュールがヘルムホルツに向かって大声で叫ぶ。
「ヘルムホルツ! お前の銃をよこせっ、早く!」
あの爆発でもヤツは倒れないのか。ヘルムホルツは俄かに信じられない不合理さを抱きゾッとする。それでも彼は鬼気迫るジュールの声に反応した。空中に舞う濃い粉塵がジュールの姿を完全に隠し、どこにいるのか分からない。それでも彼はジュールの声がした方向に、自分の所持していた小銃を放り投げた。
粉塵の中に銃が消える。その直後に鈍い衝撃が地下道に響いた。
「ズシン!」
コンクリートの地面に小銃が落下する音とはまるで異なる、低くて重い音が振動と共に地下道に伝わる。その衝撃の影響なのか、周囲を覆う粉塵がフワッと少しだけ晴れた。さらに小さな閃光は発せられ、今度は小銃の発射音が鳴り響く。
「ダン! ダン! ダン!」
粉塵の薄れた視界の先に、銃を構えながら俊敏に動くジュールの影が見え隠れする。どうやら銃は無事にジュールへ渡ったようだ。それにしても先程の衝撃音は何だ。ジュールはヤツとまともに戦えているのか? ただそんな考えを巡らせるヘルムホルツに向かって、またもジュールが大声で叫んだ。
「作戦続行だヘルムホルツ。お前はガウスとアニェージを連れて下流に進め!」
そう叫んだジュールの背後にヤツの大きな影が迫る。
「ジュール危ない!」
そうヘルムホルツが叫んだと同時にヤツの剛腕がジュールを襲う。だがジュールは旋風の様に自身を回転させ、その勢いでヤツの突き出した剛腕を掴み取り、そのまま背負い投げを浴びせた。ヤツの巨体がコンクリートの地面に叩きつけられる。重く鈍い音が再び地下道に響き渡った。
「ズシン!」
ジュールはドルトン直伝の背負い技でヤツの攻撃を巧みに往なす。そして倒れたヤツに対し、ジュールは素早く小銃の銃口を向けた。するとヤツは猛烈な勢いで飛んで退く。
どうにかジュールが持ち堪えているのを確認したヘルムホルツは、これ以上彼に負担は掛けさせられないと、下流に進むことを決意する。ヘルムホルツは倒れ込んでいたガウスの肩を担ぎ立ち上がると、蹲るアニェージのもとに足を向けた。――とその時、ヘルムホルツの前に大きな人影が立ち塞がる。
「お、お前は――」
ギリギリの攻防を繰り広げるジュール。右目を怪しく輝かせる彼は、またも剛腕を振りかざすヤツに背負い投げを浴びせた。さらに倒れたヤツの顔面を蹴り飛ばす。しかしその手ごたえの無さに彼は悔しくも奥歯を噛みしめた。
最後の一押しというところで、ことごとくヤツはジュールの攻撃を受け流すのだ。そんなヤツの戦い方にジュールは悔しさを募らせ、さらにその異常な強さを危惧していた。
「何なんだコイツは。力はディラック、スピードはハイゼンベルクの方が遥かに上なのに、どうしてこんなにも強く恐怖を感じるんだ」
ジュールの不安は膨れ上がる。だがそんな彼にヤツは休む暇を与えない。幾度となくジュールに向け殺意の込められた剛腕が振りかざされる。ヤツの顔は不敵な笑みで溢れ、まるでこの戦いを楽しんでいる様だ。それでもジュールはヤツが剛腕を振る度に、紙一重のカウンターを浴びせ続けた。
しかしそのカウンターも肝心なところで空かされる。徐々にジュールの表情に疲れが見え始めた。右目の輝きによって未知な力を発揮しヤツと対等に戦う彼であるが、その身に受けたダメージは尋常ではない。回復する時間すらろくに無く、ジュールの動きは目に見えて衰えて行く。
「クソっ。ヤツは俺の攻撃が入る瞬間に自分の体を捻って衝撃を緩和させている。恐らくアニェージの攻撃や赤玉の爆発からも同じ様にダメージを軽減させたんだ。まるで戦闘センスの塊じゃないか。そんなの狙って出来る事じゃない。このままじゃマズいぞ。ただでさえバトルスーツを着ていない不利な状況なんだ。ヤツが攻撃を受け流す間を与えずに強く早い攻撃をねじ込む。そんなの今の俺には不可能だぞ。どうすればいい――」
ジュールの表情に焦りの色が濃く浮き出る。そんな彼とは対照的にヤツは相も変わらず不敵な笑みを浮かべたままだ。ジュールはそんなヤツに向け弾の切れたヘルムホルツの銃を思い切り投げつける。そしてヤツがその銃を避ける瞬間を見計らい、ジュールは猛烈な蹴りを叩き込んだ。しかしヤツはそんなジュールの攻撃を予想していたか。彼の蹴りを掻い潜ると、そのままジュールの体を真上に蹴り上げた。
「グハッ――」
蹴り上げられたジュールの体が地下道の天井に激突しめり込む。だが重力によって彼の体はゆっくりと天井の壁から引き剥がされてゆく。豹顔のヤツはジュールの体が落ちてくるのを今か今かと待っている状態だ。ヤツはゲームでもするよう、落ちて来たジュールに止めを刺すつもりなんだろう。ジュールにもそれは分かっているが、必死に体を捩ろうにも思うように力が入らない。
「クソッ垂れが」
必死の抵抗虚しく、ついに彼の体が天井から剥がれ落ちる。ジュールは両腕をクロスさせて衝撃に備えるしかない。そんな彼に向けてヤツは握りしめた拳を思い切り振り抜いた。
「ズゴンッ!」
肉を弾き飛ばす鈍い音が鳴る。それと同時に豹顔のヤツが地下道の上流に向かって吹き飛んだ。
何だ? 四つん這いに着地したジュールが顔を上げる。するとそこには豹顔のヤツに猛烈なタックルを浴びせた猪顔のヤツが姿勢を低く身構えていた。
「お、お前」
「話している暇はない。すでにあなたの仲間は下流へと駆け出している。ここは私に任せて、早くあなたも仲間の後を追って」
「無茶だ。お前一人置いて行けっこない!」
「早く行って! あいつは直ぐに来る。私では長く時間を稼げない。それでも――」
猪顔のヤツがその顔に似つかわしくない澄んだ瞳でジュールを見つめる。その眼差しからは強い覚悟が垣間見えた。それとは対照的に遣り切れない痛恨の表情を浮かべるジュール。彼はぐっと唇を噛みしめると、猪顔のヤツに向け一言だけ発した。
「済まない」
彼の言葉に猪顔のヤツは無言で頷く。――がその時、
「ズガガーンン、ズゴゴゴォォォ!!」
まるでミサイルが落ちたかのような強烈な爆音が響き、途轍もない振動が地下道を揺るがす。立っていられないほどの揺れにジュールと猪顔のヤツは必死に堪えた。
「ズゴーン! ズゴゴーン! ビキビキビキ!」
突如発生した大地震によって地下道全体に亀裂が走り、あちこちの天井が崩落してゆく。このままでは地下道が完全に地面に押しつぶされてしまうだろう。そうなれば誰も助からない。
「ブシュー」
巨大な排水ポンプが歪み、配管の継ぎ目が裂けて水が勢いよく吹き出す。地震の揺れは徐々に収まって行くが、地下道の崩落は逆に激しさを増すばかりだ。危機迫る事態の中で、ジュールはたまらず猪顔のヤツを掴み叫ぶ。
「このままじゃ地下道もろとも押しつぶされるぞ。お前も一緒に行こう!」
「まだそんな事言っているの。早く行って、頼むから行って!」
猪顔のヤツが強引にジュールの体を下流に向け押し出す。ジュールは尚も抵抗したが、崩壊する地下道を前にヤツの心遣いを無駄には出来ないと、歯がゆくもその好意を受けいれる決意をした。だがそんなジュールを禍々しい殺気が覆いつくす。彼は天井の崩れ落ちる上流に目を向けた。猪顔のヤツもジュールにつられる様に振り返る。
「せっかく楽しくなって来たんだ。もう少し遊ぼうぜ!」
タックルを受けた胸を摩りながら現れた豹顔のヤツは、聞くだけで背筋が凍りつくほどに殺気立つ声で言葉を発した。ジュールは手負いの体に鞭を打ち身構える。すると猪顔のヤツが軋んだ機械音を轟かせる巨大ポンプに向かって何かを投げた。
「ズドガーン!」
爆音とともに大爆発したポンプから滝の様にして排水が噴き出す。激しい水しぶきの水圧にジュールは体勢を維持するのも困難な状態だ。一気に水嵩を増した排水が濁流となり下流へと流れて行く。豪雨の様な水しぶきの中で必死に目を凝らすジュールは、猪顔のヤツが更に豹顔のヤツを狙って何かを投げるのを見た。豹顔のヤツはくるりと反転し背中を向けそれを受ける。
「ズガガーン!」
またも爆発が巻き起こり豹顔のヤツの体を遥か上流に吹き飛ばす。
「お前、赤玉を使ったのか」
「あなたの仲間に託されたんだ。それよりも早く、あれだけじゃあいつは倒せない。行こう」
そう言った猪顔のヤツは、満身創痍のジュールの体を抱きかかえ下流へと駆け出す。濁流に押し流されるようにして二人は進む。しかしその背後から驚愕するほどの雄叫びが響いた。
「グゥオオオォォォ!」
すると猪顔のヤツはジュールの体を濁流に流し、地下道の壁から突き出た四角い箱のようなものに掴まった。
「何をするつもりだ!」
叫ぶジュールの体は濁流と共に下流に流れる。もう人の力ではとても抵抗できない。そんなジュールの姿を見送る猪顔のヤツは、四角い箱に付いているスイッチを押した。すると天井から鉄格子が伸びはじめ、濁流に突き刺さってゆく。
「ばっか野郎――」
ジュールの叫ぶ声が下流へと消えてゆく。完全に鉄格子が降りると、ヤツはそのスイッチの付いた四角い箱を叩き壊した。濁流によってヤツは鉄格子に激しく押し付けられる。全身が引き千切れるほどの水圧をその身に受けながらも、なぜか猪顔のヤツの表情は言葉で表すことの出来ない満足感を醸し出していた。
満足に息も出来ないままジュールは濁流に流されていく。息が続かない、もう限界だ――。それでも意識の薄れかける中で必死もがく彼は、上も下も分からなくなった水の中に微かに揺らぐ淡い光を見つけた。
縋るようにしてジュールはその光に向かって必死に水をかく。すると彼はふと水の流れが穏やかになっている事に気づいた。最後の力を振り絞り、ジュールは光を目指し泳ぎ続ける。そして彼は勢いよく水面から顔を出した。
「ブハッ」
新鮮な空気がジュールの肺に流れ込む。呼吸を荒げながらジュールは目指した光の正体を見つめた。しばらく暗闇の地下道にいた彼にとっては、まるで太陽のように感じるほど目に眩しい光。彼が見上げる夜空には、強く光り輝く満月の姿が堂々と浮かび上がっていた。
「ジュール、こっちだ!」
名前を呼ばれたジュールは声のした先に視線を向ける。そこには大柄な人影がジュールに向かって必死に手を振っている姿が見えた。
「ヘ、ヘルムホルツか」
ジュールは懸命にヘルムホルツのもとへと泳ぐ。体は重く体力も限界だ。それでも死力を尽くし最後まで泳ぎきった彼は、ヘルムホルツに助けられ水から上がった。コンクリートの冷たい地面の上で大の字になってジュールは荒く呼吸をする。そんな彼を優しく包み込むように、月は夜空で静かに輝いていた。
ジュールは不思議に思った。もう限界だったはずなのに、なぜか月の光を見た瞬間、ほんの僅かだけど力が甦った。そして誰かに支えられているかの様に体が軽くなったんだ。彼はふとそんな神秘的とも言える目に見えない力を確かに感じながら大きく息をした。
まだ呼吸が整っていない中で、ジュールがヘルムホルツに問い掛ける。
「ハァハァ。みんな、無事か――」
「大丈夫、心配いらない。なんとかみんな生きてるぜ」
そう言ってヘルムホルツが笑みを漏らした。彼のその表情を見たジュールもホッと安堵の息を漏らす。そしてふと横を見ると、脇腹を抑えたアニェージが痛みに顔をしかめながらもジュールに目で合図した。そんな彼女にジュールも目だけで頷く。さらにその横にはガウスが座り込んでいた。かなり憔悴しているようだが意識はしっかりしている。ジュールはゆっくりとガウスに近づくと、傷ついた体を気遣った。
「ずいぶんとボロボロだな、ガウス。でも安心しろ、すぐに病院へ連れて行ってやる」
「へっ。あんたこそボロボロだな、ジュールさん。あんたと一緒だといつも最後はこんなザマだよな」
そう言って笑顔を見せるガウス。減らず口を叩く余裕があれば安心だ。そう思ったジュールは更に安堵した気持ちになり、ずっと感じ続けていた張り詰める緊張感がフッと緩んだ。――がその時、
「お前達、そこで何をしている!」
突然大声で叫ばれたのと同時に、ジュールたちの体はスポットライトで照らされた。ギョッとするジュール達は、強い光に目を覆いながらも必死に声の主を探す。だが彼らの背筋は冷たく氷づくだけだった。
ジュール達を取り囲む影。その影は複数であり、その全ては黒い制服に身を包んでいた。