表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
33/109

#32 蟇穴の地下道(中)

 じめっとした地下道を、四人は懐中電灯の明かりで照らしながら無言で進む。聞こえて来るのは(ゆる)やかに流れる排水の音と、彼らの(かな)でる足音だけだ。そんな変わり映えのない周囲の状景に、どれだけ自分達が歩み進んだのか分からなくなる。それでも先頭を行くジュールは集中力を切らさずに暗闇の上流を見定め進み続ける。それに続くアニェージとガウスは、周囲を警戒しながら注意深く電灯を照らし見渡した。最後尾を進むヘルムホルツは、後方からの追跡者がいないか時折確認しながらその後を追う。

 比較的横幅に余裕がある地下道ではあるが、半円状に形取る天井部分からは異様な圧迫感を感じる。こんな場所ならコウモリの集団でもいそうなものだが、今のところ蛙一匹の姿もない。そもそも生物の生息している気配や痕跡がまるでないのだ。

 ガウスは不穏な重苦しい雰囲気に妙な胸騒ぎを感じる。そして彼はふと、自分の頭上に懐中電灯の光を向けた。するとそこにポンプ室のマンホールと同じく【十七角形をした紋章】らしき(しるし)を見つけた。しかしどうした事か。懐中電灯の光で照らされたその紋章は、ガウスのじっと見ている中で音もなくスッと消え失せる。ガウスは目を(こす)りもう一度確かめるが、そこにはもう何もなかった。

 幻でも見ていたのか。彼は得体の知れない奇妙な現象に血の気が引き、無意識に歩みを鈍らせた。

「どうしたガウス。何かあったのか?」

「……いや、何もないです」

 後ろからヘルムホルツに声を掛けられるも、なぜかガウスは目にした紋章について告げる気にはならず、その場を通り過ぎた。そんな彼の態度に違和感を感じたヘルムホルツは、ガウスが見ていた天井付近に電灯を向ける。しかし無機質な天井のみが明かりに映し出されるだけであり、特別変わったところは見受けられなかった。ヘルムホルツは妙な胸騒ぎを感じつつも、先を急ごうと前を向く。だがその時、突然先頭を行くジュールが駆け出した。

 再び人の気配を感じたジュールは猛スピードで上流に向かって駆ける。そしてジュールのすぐ後を追いかけるアニェージも今度は何かを感じたようだ。ほとんど同時に駆け出したジュールとアニェージは、ガウスとヘルムホルツを置き去りにして暗闇の地下道を突き進む。すると二人は目の前に出現した分かれ道の前で足を止めた。

 一つは上流より排水が流れ来る本道。そしてもう一つは排水路の無い通路であり、その道は本道よりも狭くきつい登り坂になっていた。

 分岐点にガウスとヘルムホルツが少し遅れて到着する。そこではジュールとアニェージが明かりを足元に向け何やら話していた。

「何か見つけたのか?」

 ヘルムホルツの問い掛けに、足元を照らしていたジュールが無言で指さす。そこには数人分の足跡が確認でき、さらにその中の一つはまだ新しい物に見えた。

「確実に人の気配を感じた。やっぱり俺達のすぐ前を進む何者かがいるんだよ」

 そんなジュールにアニェージも同意し首を縦に振る。しかし彼女は腑に落ちない有り様に表情を硬くした。

「私も確かに人の気配を感じた。でも()せないな。私とジュールはほぼ同時に気配を察して駆け出したんだ。それなのに追いつけなかった。こいつを評価するのは不本意だけど、ジュールのスピードは決して遅くない。もちろん私だってスピードをセーブしたつもりもないしね。それなのにまったく追いつけなかった。こんなの信じられないよ。冗談抜きで、幽霊でも追い駆けていたみたいだ――」

 アニェージは釈然としない容子に気を揉む。彼女はこの状況が受け入れられないのだろう。ただそんなアニェージに向かい、しゃがみ込んで足跡を確認していたヘルムホルツが冷静に告げた。

「幽霊に足があるかどうかは分からないけど、それに近い何かを追い駆けたのは間違いなさそうだな。ここに残ってる比較的新しい足跡は、俺達が来た下流より続いている。だけど驚くよ。二手に分かれるこの場所より先に、その痕跡が無いんだからね。空中を飛んだか。地下道の壁をすり抜けたのか。あるいは瞬間移動でもしたのか。ぱったりと消えちまっている」

 ジュールはヘルムホルツが発した瞬間移動という言葉に心を(つま)まれる。それでも彼は不可思議な現状を打破すべく、現実に目を向け直し行動に移ろうと提言した。

「ここで考えていても仕方ない、先に進もう。でもどうする? 道が二手に分かれているけど、全員で片方に進むか。それとも二手に別れるか」

「二手に別れて行動するのが得策だな。何が待ち受けているか分からず危険であるには違いないけど、いつ追手が来るかも分からない。二手に別れ、安全な出口を見つけた方が直ぐにもう一方に連絡する。どうだ?」

 ヘルムホルツの提案に拒む理由はない。ジュール達が了承すると、ヘルムホルツは次の行動を指示した。

「俺とジュールは脇道の方に。アニェージとガウスは本道を上流に進んでくれ。それでもし危機的な状況に(おちい)った場合は【こいつ】を爆破させて知らせるんだ。ここは地下道だからな。否応(いやおう)でも大きな音を発せば伝わるはずだ」

 そう言ってからヘルムホルツは準備していた小型の赤玉を取出し各位に分配した。するとそれを受け取ったジュールは表情を曇らせながら呟く。

「爆弾とは随分と物騒だな」

「無線機も用意したんだけど、さすがにこんな地下空間じゃ電波が届かないのか使い物にならない。確かに爆弾なんて穏やかじゃないけど、でもだからといって身の安全が一番だろ。いざって時には躊躇(ちゅうちょ)なく赤玉を使ってくれ」

 ヘルムホルツは皆の安全を第一に考えている。そんな彼の言葉に気を引き締め直したジュール達は、二手に別れて再び暗い地下道を進み始めた。



 ジュールとヘルムホルツはきつい勾配の脇道を進む。だが程なく進むと通路は平坦になった。どうにか肩をぶつけずに二人並んで歩けるほどの通路は、(ゆる)やかではあるが右に大きくカーブしていて先の見通しが悪い。ジュールは細心の注意を払いつつ歩いていたが、ふと思い浮かべた疑問をヘルムホルツに尋ね掛けた。

「別に不満があるわけじゃないんだけど、二手に別れたこの人選、どういった意図で決めたんだ?」

 本道とは異なり彼らの進む脇道は(ほこり)っぽく、至る所に蜘蛛の巣が張っていて進みにくい。ヘルムホルツはちょうど目線の高さにある蜘蛛の巣を払いのけなると、面倒くさそうにしながらも丁寧に答えた。

「バランスを優先したのさ。うまい具合にスピードのあるお前とアニェージ、そして力自慢の俺とガウスに分けられたから、あとはそれぞれをペアにして能力の均等を図っただけだよ。何が起きるか分からない道を進む以上、万が一不測の事態が起きても、その方が対処し易いだろうからね。あとは城の関係者でないアニェージの前にもし警備隊が現れた場合、同じ警備隊士のガウスを一緒にしとけば時間が稼げる。そう判断しただけさ」

 普段と変わりない口調で淡々と語るヘルムホルツにジュールは一目置く。ジュールは短時間に状況を判断し的確な指示を出すヘルムホルツを純粋に凄いと思った。

「お前、科学者よりもやっぱり現場の隊士の方が向いてると思うぞ。お前が隊長になって軍を指揮するなら心強いぜ。考えて見ろよ」

「へっ、こう見えて俺はチキンだからな。命のやり取りをする戦場なんて、まっぴら御免だよ。そのくせ人殺しの道具をこの手で作っている。俺なんて軽蔑されるだけの卑怯者さ」

「自分自身をそう言える奴こそ、いざと言う時に頼りになるもんだ。それにお前、カプリスじゃ人の身を守る防具開発専門の科学者だろ。現に俺は先日のヤツとの戦闘で、お前の造ったスーツのお蔭で命拾いしているんだ。本当に感謝してるよ」

 暗がりでよく分からないが、ジュールの言葉にヘルムホルツは少し照れている様であった。そんな彼のはにかむ顔に、再び蜘蛛の巣が掛かる。それを見たジュールは笑いそうになったが、ハッとして声を漏らした。

「この脇道はやたらと蜘蛛の巣が多い。と言う事は、しばらくの間だれもこの道を通っていないんじゃないのか!?」

 ジュールの言葉に珍しく目を見張ったヘルムホルツが強く頷く。

「確かにその通りだ。この道には人どころかネズミすら通った跡が無い。そうなるとお前やアニェージが感じた気配が本物なら、そいつは本道の方を進んだ事になる。どうする、戻るか?」

「そうだな。ここは一旦引き返してガウスたちと合流――ん? おい誰だ!」

 人の気配を感じたジュールは素早く懐中電灯をカーブする通路の先に向ける。――とその時、確かに何者かの走り去る人影が、行く手を(はば)む蜘蛛の巣の奥に消えた。

「待て!」

 ジュールとヘルムホルツは(まと)わりつく蜘蛛の巣に構うことなく人影を追い突き進む。すると前方からバタンと扉が閉まるような音が聞こえ、それと同時に二人は淡く輝く青白い光を見つけた。

「チェ、人魂かと思って期待したのに、拍子抜けだぜ」

 そう吐き捨てるジュールとヘルムホルツの目の前には、青白い光を発する蛍光灯があった。そしてその蛍光灯は、無機質な地下道に一つの扉を浮かび上がらせていた。

 ジュールは小銃を取り出すと、その銃口下部に懐中電灯を取り付ける。そして扉のノブを握りながらヘルムホルツに小さく囁いた。

「開けるぞ、いいな」

 目だけで頷いたヘルムホルツもまた、ジュール同様に懐中電灯を装着した小銃を構えた。


「ガバッ」

 ジュールが威勢よく一気に扉を開く。そして銃口をその内部に向け、低い姿勢を維持しながら踏み込んだ。ヘルムホルツもその後に続く。ただそこで視界に飛び込んで来た場景に二人は戸惑いを露わにした。

「な、なんだよ、ここは?」

 そこは書庫のような空間であり、所狭しと並んだ棚に数多くの書籍が陳列していた。扉を照らしていたものと同じ青白い光を発する蛍光灯が、一定の間隔で低い天井に灯っている為、薄暗い空間ではあるが地下道に比べれば遥かに見通しが利いている。とはいえ、何者かがこの部屋に隠れたのは間違いない。二人は銃を構え直し、警戒しながら部屋の奥へと足を運んだ。

 棚に並ぶ書籍には埃が積もり、長い期間放置されているのが伺える。そしてそれらの書籍を飾るタイトルは、博識であるヘルムホルツですら見たことのないものばかりであった。それも科学、医療、生物、歴史、天文学など、ジャンルは多岐に渡り統一性がない。それでも専門書の(たぐい)であるのは確かなようで、ヘルムホルツは棚から無作為に一冊手に取ると、パラパラとページを(めく)り内容を確認した。

「随分と古い本だな。俺達が生まれる以前に書かれたものか……」

 さらに奥へと進むと、棚には書籍に代わってかなり古い骨董品が並んでいた。数百年前のものと思われる食器や髪飾り、さらには歴史の教科書で見たことがあるような、数千年前の土器まである。

「まるで博物館の保管庫みたいだな」

 周囲を警戒しつつも、ジュールはそんな骨董品を見ながら呟く。ただそこで驚嘆するヘルムホルツの低い叫び声が書庫に響いた。

「バカな! 何なんだ、これは!」

 ジュールは急ぎヘルムホルツのもとに足を運ぶ。ヘルムホルツは何やら壷の形をした、人の頭部ほどの大きさの土器を前に(たたず)んでいた。近寄るジュールにこれを見ろとヘルムホルツは指差す。するとそこには決してあるはずのない【物体】が存在していた。

「嘘だろ。これってインチキのねつ造品じゃないのか?」

 ジュールはその土器を見て誰かの悪ふざけかと思う。だがそれもそのはずだ。なぜなら薄いボーダー柄の様な縞模様(しまもよう)をその身に(いろど)る土器の横っ腹から、なんと【携帯電話】が半身(はんしん)ほどを突き出していたのだから。

 人類が文明を築き始めた遥か太古に野焼きで作られた土器の壺。そのどてっ腹から現代における精密機械の象徴とも言える携帯電話が顔を出している。冗談意外に考えられるはずがない。しかしヘルムホルツは食い入るようにその土器と携帯電話を眺めつつ、(くつがえ)せない事実を述べた。

「俺も嘘だと思ったさ。でもこの土器に残っている縞模様(しまもよう)は、正真正銘の地層の跡だ。携帯が突き出ている部分をよく見てみろ。中央部に長方形の長辺と平行に横線が入っていて、さらにその横線に収束するように斜めの線が入っているのが分かる。この斜めの線が、斜交層理(しゃこうそうり)って呼ばれる地層に見られる特徴的な堆積構造(たいせきこうぞう)なんだ。これは水や風によって砂粒が運搬された時に出来るもの。そしてその地層の線は途切れることなく土器と携帯に(またが)って残っている。決定的なのは、その地層部分に微かに形取る虫の跡なんだ。名前は思い出せないけど、確か千年くらい前に絶滅した虫のはず。すなわち、この携帯は少なくとも千年程度前から地中に土器と一緒に埋まっていた事になるんだよ」

「そんなバカな話があるかよ」

「確かに馬鹿げている。マジックでしたと誰かに種明かししてもらいたいくらいだ。だけど不可解な点は他にもある。こういった壺はロクロと呼ばれる回転台を回して土を成形して作る物。だから仮に携帯電話があったとしても、壺を作る過程でこんなにも綺麗に壺と携帯を一体化させるなんて無理なんだよ。この壺と携帯の継ぎ目は鮮やかに整然とし過ぎている。まるで壺から携帯が芽を出し生まれて来たとしか考えられないほどにね」

「あれ? でもこの携帯ってさ、俺は見たことある気がするんだけど」

「あぁ、俺にも見覚えがある。数世代前の古いタイプだけど、紛れもなくこれはアダムズの電子メーカーが量産していた現存モデルだ。ただ少しくらい古いモデルの携帯だからって、こんなにも風化するなんて異常だよ。何らかの化学物質を塗布するなどして起こる腐食とは明らかに異なっているしな。まさに携帯電話の化石と言った方がしっくりくる状態なんだ。クソッ、訳が分からず頭が悪くなりそうだ」

 ヘルムホルツは苦虫を噛み潰したかの様な渋い表情を浮かべた。ジュールにしてみれば、尚更(うかが)い知れない正体不明の壺に不快感を募らせている。でもだからと言ってどうする事も出来ず、今は謎解きの時間ではないと気持ちを切り替え書庫の奥へと進み出した。


 二人は銃を握る手の平により一層ベタついた汗を(にじ)ませたが、ほどなく進むと更に奥へ通じる扉を見つけた。ジュールとヘルムホルツは視線を交わしお互いを確認する。そして二人は意を決してその扉を開け中に踏み入った。

 扉の先はまたも同じように数多くの棚が並び、古びた書籍や骨董品が所狭(ところせま)しと貯蔵されている。相変わらず部屋の中は薄暗く、青白い蛍光灯の明かりが所どころに灯っている状況だ。ただそんな中で二人は奥の棚の方からやけに明るい光が発しているのに気付く。二人は慎重に足を進め、その光の正体を探ろうとする。そして二人が目にしたのは、電源の入った三台のパソコンであった。

「これは!?」

 ジュールは横に並んだ三台のパソコンを見ながら、どこか見覚えのあるその光景に記憶を辿(たど)った。パソコンの画面には意味不明な数式が羅列している。つい最近どこかで同じような光景を見たはずなのに、ジュールは思い出せそうで思い出せない歯がゆさを感じていた。ただその横でヘルムホルツがパソコンの画面を見ながら呟く。

「楕円方程式か? 光子相対力学であるのは間違いなさそうだが、よく分からないな」

「ガタン!」

 突然部屋の奥から何かが倒れた音がする。二人はビクりと驚きつつも、急ぎ音のした場所に駆ける。――とその時だ。ジュールの目の前を黒い人影が横切った。

「何者だ! 待て!」

 ジュールの制止を無視し、人影は更に部屋の奥へと進む。狭い棚と棚の間を俊敏に駆け抜ける人影に、ジュールはなかなか追いつけない。それでも彼は逃げる人影を追い詰めようと全力で走った。すると前方にまたも奥へと通じる扉が現れる。

 黒い人影が扉に体当たりして奥の部屋へとなだれ込む。ここで逃すわけにはいかない。ジュールは迷わずにそのままのスピードで奥の部屋に突っ込んだ。

「動くな! その場でじっとしていろ!」

 そこには尻餅(しりもち)を付くように座り込む人影があり、ジュールはそれに銃を向けて叫んだ。進入した部屋は5メートル四方の閉ざされた空間であり、ジュール達が進入した扉意外に出入り口は無い。さすがに観念したのだろうか。座り込んだ人影は微動だにしなかった。

「何者だ貴様! ここで何をしていた!」

 ジュールは怒声を浴びせ掛ける。しかし人影は彼の問いにまったく答えようとない。そんな人影にジュールは銃口を向けながらゆっくりと近づいて行く。

 3メートル、2メートルと徐々に距離を縮める。人影は唾付きの帽子を深く(かぶ)(うつむ)いているため、電灯の明かりを向けても表情がまったく見えない。すでにジュールはあと一歩という距離にまで近づいている。しかしそこで彼は何とも言えない不自然な違和感を覚え息を飲んだ。

 何かがおかしいぞ。まさか! と感じたジュールは座り込んでいる人影の肩を足の裏で軽く蹴る。すると人影は力なく倒れ横になった。

「マジかよ……」

 ジュールは目を(うたが)った。横になった人影は、すでに絶命した亡骸だったのである。状況が飲み込めずにジュールは唖然とするしかない。ただそこにヘルムホルツがようやく到着した。

「どうなっているんだ、これは?」

 そう言いながらもヘルムホルツは死体に近づき帽子を外す。こんな異常事態でも冷静でいられるのは科学者の性分なのだろうか。だが死体の表情を確認した彼は、ギョッと驚きながら言った。

「お、おいジュール。この死体、失踪した庭師だぜ」

「そ、そんな」

 シワの目立った老人の顔を持つその死体に、ジュールはまるで悪夢でも見ているのかと錯覚する気分になった。ヘルムホルツが確認したところ、目立った外傷らしき部分は見られず、死因は特定出来ない。ただそれでも庭師は死んでから数時間は経過しているんじゃないのか。ヘルムホルツは深刻な顔をしながらジュールに告げた。

「庭師が失踪したと騒ぎになった頃には、恐らくもう死んでいたんだろう」

「じゃぁ俺がこの部屋に追いつめた人影は何だったんだ? 幻だったなんてとても思えないぞ。奴を追い駆けたリアルな感覚が、はっきりと体に残っているんだからな!」

「それは俺だって同じだ。走る人影は確かにいたんだからな。一体どう言う事なんだ?」

 ジュールとヘルムホルツは理解し難い現象に頭を悩ませる。――だがその時、

「ズドガァーン!!」

 離れた場所からの爆発音が地下道に響く。強い衝撃が地層を揺るがしたのだろう。低い天井からパラパラと砂粒が落ちてきた。

「ヘルムホルツ! こいつは」

「間違いない!」

 二人は爆発の原因が赤玉であるのを確信する。そしてまだ謎の残る薄暗い書庫を飛び出すと、アニェージ達が進んだ本道に向け駆け出して行った。



 ジュール達と別れ本道を進むアニェージとガウスは、行く手を(はば)む鉄格子の仕切りの出現に困惑していた。その鉄格子は完全に地下道を分断しているため通り抜けようがない。見たところ排水の流れる地下道自体は、まだずっと先まで続いている。しかし天井から突き出た直径5センチほどの太い鉄の丸棒が、人の通れない間隔で規則正しく縦に並び、足元のコンクリートまで伸びていた。

 ただよく見れば鉄棒と足元のコンクリートの間には、(わず)かであるが隙間があるらしい。どうやら固定されてはいないみたいだ。それでもその鉄棒は、力自慢のガウスが上下左右に渾身の力で揺するも微動だにしなかった。

「先に進むのは不可能なのか。それともどこかに隠れた通路でもあるのか。しかし騒がしいな、ここは。近くに大型のポンプでもあるのか?」

 鉄格子を前に頭を抱えるアニェージは、そう遠くない場所から聞こえて来る騒々しい機械音に不快感を示す。そんな彼女を横目に、ガウスは鉄格子の隙間から懐中電灯を持った片腕を突き出して周囲をくまなく注視していた。ただそこで彼は何かを見つける。そしてアニェージに確認を促した。

「アニェージさん、あそこを見てくれ。何かスイッチのようなものが見えませんか?」

 ガウスが電灯で照らした地下道の壁には、何やら四角い箱のようなものが突起している。その側面には、上下に丸いボタンのようなものが並んでいた。

「なるほど。確かに何かのスイッチのように見える。もしかしたら、この鉄格子を上下させるものかも知れない。でもどうやってあのスイッチを押せばいい? 鉄格子が邪魔でとてもここからじゃ届かないよ」

 ガウスの見つけたスイッチのようなもは、鉄格子から数メートル離れた場所にある。それにボタンは箱の側面に顔を出しているため、何かを投げ当てたとしても、スイッチを押し込むことは不可能だ。それでも二人は苦し紛れに何か投げられるものはないか、足元に電灯の明かりを向け探し続ける。しかし石ころ一つ落ちていない。

 それでも探し続けるガウスは、排水路を流れる水の中に何かないか電灯を向けた。彼はゆっくりと電灯の明かりを移動させながら、排水の中を覗いていく。そしてガウスは流れる排水に突き刺さる鉄格子の切っ先部分を見て声を上げた。

「アニェージさん、排水の中を見てくれ。鉄格子と排水路の底に、人の(くぐ)れる位の隙間がありそうだ!」

 ガウスに(うなが)され、アニェージも排水路の底を覗き込む。確かに人の通れる隙間がありそうだ。ガウスは(おもむろ)に懐中電灯をアニェージに手渡すと、排水の中を照らすよう頼み、臭い水の中に飛び込んだ。

 鉄格子に掴まり流れる排水に逆行しながら、ガウスは僅かな隙間に身を押し込む。しかし彼の巨体が鉄棒の先に引っかかりどうにも先に進めない。息が続かなくなったガウスは、仕方なしにアニェージのもとへ引き返した。

「ハァハァ、済まない。俺の体じゃ通り抜けられないみたいだ」

「えっ、冗談はやめてよね。まさか私にこの臭い水の中を行けなんて言わないでしょ? 地下道を進むだけでも気分悪いっていうのに、まっぴら御免だからね」

 アニェージはそう吐き捨てそっぽを向く。すると大きく息を吸ったガウスが再度排水に飛び込んだ。しかし結果は同じで彼の巨体は先に進めない。ガウスは息を切らせながら悔しそうに奥歯を噛み締める。それでも彼は諦めようとせず、再びの水の中に入ろうとする。だがさすがに埒が明かないと感じたのだろう。アニェージはガウスを制止させた。

「もうやめなよ。何度やっても結果は同じさ。こんな所で時間と体力を無駄に消耗するのはもったいない。この先も決して安心は出来ないんだしね。――私が行く」

 アニェージは嫌々ながらもそう口にすると、長い髪を後ろに束ねた。そして大きく息を吸い込み、鼻を摘んで排水に飛び込む。

 あっと言う間にスリムな長身がするりと鉄格子と排水路の隙間を通り抜けた。そのまま彼女は排水から這い上がると、振り返らずにスイッチのある四角い箱の突起した場所へ向かう。そして箱の前に立ったアニェージは、上側のボタンに指を押し当てた。

「ゴン、ゴゴゴゴゴ……」

 低い地鳴りの様な音を発しながら、鉄格子が天井に吸い込まれるよう引き上げられていく。十秒もすると、鉄格子は人が立ったまま通過できる高さまで上昇した。ガウスが笑みを浮かべながらアニェージに近づく。

「やりましたね。それにしてもお互い強烈に臭くなりましたね」

「チッ、まさかこんな羽目になるとは思わなかった。ホント今日は厄日だね。それに水泳するにはさすがにまだ早過ぎる」

 排水は思ったより冷たくはなかったが、ようやく桜のつぼみが色づいてきた頃なのだ。それも日の光が年中差し込まぬ地下道である。寒く感じない方がおかしい。

 アニェージはずぶ濡れになった体が少しでも冷えないようにと、びしょ濡れの上着を脱ぎ捨てた。シャツ一枚になった彼女の体は、細身ながらもアスリートの様に引き締まっているのがよく分かる。そんなアニェージのスタイルに見惚れつつ、ガウスは濡れた自分の制服を力いっぱい絞りながら冗談を告げた。

「せっかくの美人が台無しですね。いかに抜群のスタイルと美貌を兼ね備えていても、これだけの悪臭を漂わせてたらどんな男でも引いちまう」

「それ以上は言うなよ。もう一度言ったらお前の(あご)を蹴り砕くからね」

「いやぁ、せっかく治った顎なんだ。それだけは勘弁してくれ」

 アニェージに鋭く睨まれたガウスは、まだ濡れたままの上着に袖を通し、そそくさと前進し始めた。アニェージは自分の二の腕の臭いを嗅ぐと、あまりの臭さに顔を引きつらせる。苦笑いを浮かべつつ、彼女は先を進むガウスの背中を追い出した。


 鉄格子のあった場所から少し進むと、二人の前に巨大なポンプが姿を現した。けたたましい音を轟かせるポンプであるが、その排水口からは少量の水しか吐き出されていない。城で使用された水なのであろうか。その少量の水は上流から流れてくる排水に飲み込まれ、下流へと流れていった。

「それにしても(うるさ)いな。たいして水も出ていないのに、このポンプ故障しているんじゃないのか?」

 アニェージは騒音を撒き散らすポンプに悪態付く。ただ彼女は(さび)ついた巨大なポンプに気を取られながら歩いていたため、足を止めていたガウスに気付くのが遅れその大きな背中にぶつかった。

「痛! なんでこんなところで立ち止まっているんだよ。さっさと先にすす――」

 アニェージはガウスの手で強引に口を(ふさ)がれた。何事かと目を見張るアニェージに対し、ガウスは無言のまま落ち着くように訴えかける。アニェージは彼の真剣な眼差しを受け止めると、了解の合図の代わりに口を塞ぐガウスの手を軽く叩いた。ガウスはそっとアニェージの口から手を離す。そして彼は排水路を挟んだ巨大ポンプの反対側を指さした。

「!」

 驚愕するアニェージ。ガウスの指さしたそこには、地下道をくり抜いて作られた牢屋のような空間があり、そしてその牢屋の中に【腐った(いのしし)】の顔をしたヤツが、鎖に繋がれ閉じ込められていたのである。

 アニェージとガウスは忍び足で牢に近づく。意識を失っているのか、猪顔のヤツはまったく動く気配がない。よく見るとヤツには右腕が無く、また全身が(ひど)く傷だらけであった。何かと争った後なのだろうか。

 残された左腕と両足は地下道の壁に鎖で繋がれている。とりあえずは突然ヤツが襲い来ても心配はなさそうだ。そう思ったアニェージが大胆な行動に出る。

「ちょっとアニェージさん。何するつもりだ」

 ガウスが止めるのを聞かずにアニェージは牢の鉄格子を掴む。先程アニェージ達の行く手を(はば)んだものとは異なり、牢に付いている鉄格子はその一本一本の間隔が広い。ヤツの巨体こそ、その隙間を通り抜けは出来ないが、アニェージの細身の体ならば無理なく通過出来そうだ。

「アニェージさん!」

「うるさいっ! 少し黙っていろ」

 凄むアニェージはガウスを睨みつけると、そのまま鉄格子を(くぐ)り抜け牢の中に入ってしまった。どうしたって言うんだ? ガウスは突然怒りの形相に変化したアニェージを怪訝に思う。それでも危険極まりない行為に違いはなく、ガウスは必死に彼女を引き戻そうとその腕を掴もうとした。しかしガウスの体格では僅かに鉄格子に引っ掛かり、牢の中に踏み入れられない。

「クッ、この体のお蔭で二度までも苦渋をしいられるのか」

 そう悔やむガウスの目の前で、アニェージはヤツの前に屈み込み、その(みにく)い猪の顔を覗き込む。するとその気配を感じたのか、猪顔のヤツの閉じていた目がゆっくりと開いた。やはりこいつは生きている――。アニェージはそのままの体勢で、自分の右足首付近を掴みながらヤツに向かい言った。

「フン、気持ち悪い(つら)してやがる。見たところお前はグリーヴスに来たヤツとは違うようだね。ヤツって化け物のは他に何体もいるのか? まぁそんな事はどうでもいいか。おいお前、私の言葉は理解できるな。一つだけ質問に答えてもらうよ。お前は私達のところから強奪された論文の在処(ありか)を知っているか。【はい】か【いいえ】で答えろ!」

 アニェージは尋常でない敵意を剥き出しにて凄む。するとその強烈な殺気を真正面から感じ取った猪顔のヤツは、その醜い腐りかけた顔からは想像できないほど()んだ瞳で彼女を見据えた。

「お前らが口を利ける事くらい分かっているんだ。さぁ答えろ! 【はい】か【いいえ】か!」

「……あんた達こそ何者なんだ? アカデメイアには見えないけど」

「ガヅン!」

 アニェージが静かに言葉を発したヤツの腹に強烈な蹴りを叩き込む。彼女の槍の様な蹴りが屈強なヤツの体に深々とめり込んだ。相当体力が衰えているのか。ヤツは悶え苦しむように背を丸める。

 ヤツは反射的にダメージを受けた腹を手で抑えようとするが、鎖で繋がれているためそれが出来ない。ヤツの弱々しい眼差しが明らかに虚脱状態であることを告げている。どうやら本当にこのヤツは動けないらしい。そう理解したアニェージは、語尾を強めて再度問うた。

「【はい】か【いいえ】で答えろと言ったはずだ。それ以外の言葉を発して良いとは一言も言ってない。もう一度だけ聞く。論文の在処(ありか)を知っているか」

 アニェージは消衰しきっているヤツに対して冷たい視線を降り注ぐ。そんな殺気の込められた視線をヤツは全身で浴びていたが、意外にも少しだけ口元を緩めて答え出した。

「――ククク。どいつもこいつも、自分の言いたい事ばかりだ。論文の在処(ありか)だって? そんな物知るか。書物を探したいならこんな場所じゃなくて、図書館か博物館の貯蔵庫でも覗くべきだろ。バカバカしい」

「ん? お前、まさか女か――。でも驚いたな。ヤツってのは思ったよりも流暢に話すものなんだね。しかしベラベラと余計な事を(しゃべ)り過ぎでムカつくな。まぁいい。死ねよ」

 ヤツの話す口調に女性のそれを感じ取ったアニェージであるが、そんな事に気に留める素振りなど微塵にも見せず、彼女は体勢を低くして右足首辺りを抑えた。するとキィーンという脳を揺るがす甲高い音が地下道に響く。そんな状況に、鉄格子を掴んだガウスが牢の外側から制止を叫んだ。

「やめるんだアニェージさん! 早まるな! こいつは衰弱しきっていて動けない。ここで簡単に殺すよりも、何か情報を引き出すほうが得策なはずだ!」

「うるさい! 邪魔するならお前も殺すぞ! ヤツなど生きている事自体が大罪であり、諸悪の根源なんだ。殺せる時に確実に殺す。それ以上も以下もない」

 そう怒鳴るアニェージは完全に冷静さを失っている。ヤツを殺す――。アニェージは目の前にいるヤツを殺す事だけに集中しているのだ。

 ガウスは彼女が抱くヤツに対する怨念じみた殺意を前にして何も言えなくなる。論文を強奪されただけで、ここまでヤツを憎むものなのか――。鎖に繋がれたままのヤツは、ただ哀しい視線をアニェージに向けじっと動きを止めたままだ。だがアニェージがロケット並みの蹴りを放ったと同時だった。ヤツは手足に繋がれた鎖を渾身の力で捩じり切り、アニェージの蹴りを背中で受けた。

「ズガン!」

 凄まじい衝撃によりヤツの巨体は地下道の壁に深くめり込む。だがヤツの背中に蹴りを叩き込んだアニェージは、即座に後方に飛び間合いを広げた。

「くっ、詰めが甘かった。背中が硬いとは聞いていたけど、まさかこんなにも硬いなんて……」

 アニェージは脇腹を抑えて(うずくま)っている。そして大粒の汗が額から流れ落ちていた。

 どうやら彼女の攻撃は彼女自身への負担も大きいらしい。庭園でジュールに受けた脇腹へのダメージも思いのほか大きく、またヤツの硬い背中に蹴りを叩き込んだ衝撃は、そのまま彼女の肉体へとその反動を浴びせていたのだ。その為なのだろう、ヤツに対して十分な攻撃の効力を発揮しきれていなかった。

 攻撃を受けた猪顔のヤツは壁にめり込むほどの衝撃を受けたはずだが、しっかりとした足元をくるりと回転させて振り返る。そしてヤツのその目には先程までの哀しい切なさはまるで感じられず、アニェージに負けないほどの殺気が込められていた。

「チッ」

 舌打ちしたアニェージは、鉄格子の隙間を通り抜け牢の外に退避する。だがそんな彼女を逃がしはしないと、ヤツは渾身の力で肩から鉄格子に体当たりした。

「ゴン!」

 アニェージとガウスは戦慄を覚え絶句する。ヤツの強烈なタックルによって鈍い音を立てた鉄格子は、無残にも(ひしゃ)(おり)の機能を完全に失った。鋭い眼光を宿したヤツがアニェージを睨む。もうすでに体が十分通り抜けられるほど鉄格子は変形していたが、ヤツは更にその曲がった鉄棒を蹴り上げ隙間を拡大させた。

「来るなら来い! ぶっ殺してやる!」

 大量の脂汗を掻くアニェージは、脇腹の痛みを必死に堪えて身構える。彼女も覚悟を決めているのだ。ただそんな彼女にガウスが横から飛び掛かり(おお)いかぶさった。――と、次の瞬間、

「ズガガガーーァン!」

 凄まじい爆発が起こり、地下道に激震が伝わった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ