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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第二幕 疼飢(うずき)の修羅
32/109

#31 蟇穴の地下道(前)

 ジュールは素早く身構え戦闘態勢を整える。同じく黒髪の女も歩幅を広げ身構えた。二人の間に凄味の利いた殺気が(ほとばし)る。

「離れていろガウス。この女はヤバい奴だ」

「何者なんだ? でもやるって言うなら俺も手伝うぜ!」

 ジュールの後方に(たたず)むガウスは突然の出来事に気後(きおく)れし戸惑うも気持ちを切り替える。今でこそ城の警備隊士だが、彼も実戦経験豊富な軍人なのだ。ガウスは状況を正確に読み取ったのだろう。ただそんな彼にジュールは強く言い付けた。

「ダメだ! こいつのスピードは半端ない。お前にはついて行けないだろう。それにガウスには関係ない話しだ。下がっていてくれ」

 ジュールは視線を黒髪の女に向けたままガウスに後退するよう指示する。無関係な友人を奇怪なトラブルに巻き込ませたくない。彼は率直にそう考えたのだ。ただその指示を耳にした黒髪の女は含み笑いを浮かべると、警戒する二人に対して余裕を見せながら言った。

「二人同時に相手をしても構わないよ。それとも負けた時の言い訳が欲しい? まぁ、私に負ければ、それはもう生きてはいないと言う事だけどね」

「ヘッ、お前の方こそ勘違いしてんじゃねぇよ。卑怯にも後ろから突然襲い掛かり、まして人混みを利用する汚い戦い方でしか俺を蹴散らせない。そんなんで勝てたと本気で思ってんならとんだ茶番だぜ」

「ほう、さすがに化け物らしく、陽が暮れると口も威勢が良くなるらしいね。他に何か言い残す事はあるか? 言いたい事があるなら今の内に言っておきなよ。数秒後にお前はただの肉片に変わっちゃうんだからさ」

 そう言いながら黒髪の女は懐から左手でナイフを取出す。さらに身を(かが)めると、右手で右足の(くるぶし)付近を押さえた。

「またその攻撃か。芸のない奴だな」

「フン、その攻撃に手も足も出なかったのは何処の誰だ!」

「あの時は周りに気を使っただけさ。まさかショッピングモールのど真ん中で本気の喧嘩が出来るわけないだろ。けど今は違う。ここなら思う存分暴れられるからな。覚悟はもう出来てんだろうな!」

「やっぱりお喋りな男は嫌いだね。そろそろ始めようか」

「なら最後に一つだけ問おう。今朝この庭園で起きた事件にお前、関係あるのか?」

「答える義務は無い」

 黒髪の女の足元から、脳みそに突き刺さるような高音が鳴り響く。それと同時に女は弾丸を超える速さでジュールに迫った。女が繰り出した猛烈な蹴りがジュールに向かう。

 ジュールはロケット砲並みの女の蹴りをクロスさせた両腕で防ぐ。だがその衝撃は凄まじく、彼の体は吹き飛ばされた。そしてその体は庭園の植木をなぎ倒し、さらに激しく吹き飛んで城壁に激突する。

「グッ」

 ジュールの意識が一瞬遠のく。それでも崩れ落ちる事なく、彼は足を踏ん張り身構えた。だがそんな彼に休む暇は与えない。女はジュールに対して間髪入れず再度強烈な蹴りを叩き込んだ。

 あまりの威力にジュールの体が城壁にめり込む。そして女は鋭いナイフの刃先を彼の喉元(のどもと)に向け躊躇なく突き刺した。――が、女は腕に伝わる肉を裂く感覚に違和感を覚えハッとする。

「ガンッ」

 女は強く脇腹を蹴り上げられ吹き飛んだ。その勢いで大地を転がりながらも、女は素早く立ち上がり体勢を整える。ただその表情は歪んでおり、脇腹に負ったダメージがそれなりのものだったのだと窺えた。それでも女は冷静にナイフが突き刺さる【そこ】を確認する。そして得意然とするジュールを睨みつけながら吐き捨てた。

「貴様。そんな物、どこに隠し持っていたんだ」

「ここは庭園だぜ。見渡せばそこいらじゅうにあるだろ。周りをよく見ないで無暗に人を吹き飛ばすあんたが悪いんだ」

 ジュールはそう言ってから、彼の体がめり込んでいた城壁に視線を向ける。するとそこには【植木の木片】があり、その木片に女のナイフが突き刺さっていた。

 ジュールは女の攻撃で吹き飛び、その衝撃で植木をなぎ倒したが、咄嗟にその折れた植木の一部を握り掴んで身代わりとして使用したのだ。状況を理解した女は苦笑いを浮かべている。ただ女からの殺気は衰えず、むしろ敵意を剥き出しにしてジュールに言った。

「思ったよりも頭が回るみたいで驚いたよ。でも次は上手くいくかな。私のスピードについて来れないのに変わりはないんだからね」

「やせ我慢するなよ。その脇腹、結構痛いはずだぜ」

 そう言い合いながら対峙する二人の間に強い殺気がまたも迸った。睨み合うジュールと女。お互いの額から大粒の汗が(したた)り落ちる。――とその時だった。突然庭園の照明が(とも)るとともに、複数の城の警備隊士の声が聞こえた。

「クソっ、騒ぎ過ぎたか」

 ジュールはホゾを噛む思いで近づく警備隊士の声のする方を見る。女もまた、煮え切らない表情で凝然と立ち尽くしていた。ただそこで聞き覚えのある声がジュール達に掛けられる。それは近づく警備隊士達とは反対の方向からだった。

「お前ら何してるんだ、早くこっちに来い! まだ警備隊の奴らにはバレてないはずだ!」

 薄暗い庭園の片隅から手招きする巨漢の影が見える。

「ヘルムホルツか!」

「いいから早くこっちに来て隠れるんだ。おい【アニェージ】! お前も来るんだ!」

 ヘルムホルツの指示に促され、ジュールにガウス、それにアニェージと呼ばれた黒髪の女が駆け出す。そして警備隊の目から逃れるように、庭園の片隅へと移動した。


「まったくお前ら何考えてるんだ。今朝方事件のあった現場でバカ騒ぎするなんて正気じゃないぞ。チッ、とにかく今はこの場をやり過ごすしかない」

 ヘルムホルツは完全に呆れ返っている。それでも周囲に注意を払いながら、彼は庭園の片隅にある背の高い生垣に囲まれた場所にジュールらを誘導した。

 影の中で息を潜めながら、警備隊士の行動を(うかが)うジュール達。しかし彼らが暴れた痕跡は庭園に明瞭かつ鮮明に残っているし、衝撃音はかなりの範囲まで響いたはずだろう。それを不審に思わないわけもなく、庭園に続々と警備隊士が駆け付けて来た。

「まずいな。このままじゃ見つかるのは時間の問題だ」

 ガウスが冷や汗をかきながら焦った表情で言う。どう考えても事態が改善する見込みはない。するとそんな彼の不安を気遣ったのか、ジュールは自らけじめを付ける様に小声で言った。

「俺が出て行って何とかする。こんな俺でも城の警備隊士達より階級はかなり上だ。なんとか誤魔化してみるよ」

「やめろジュール。馬鹿正直に出て行ったところで、こうなってしまったら後の祭りだ。それよりもガウス、お前ポンプ室の鍵持っているな?」

 ヘルムホルツの問い掛けにガウスは汗だくになった顔で頷く。ヘルムホルツには考えがあるのだろう。彼はまだ人影の無いポンプ室周辺に視線を移した。

 幸いにも二人の争った形跡は、ポンプ室から少し離れた城壁に強く刻まれている。対象を吹き飛ばすアニェージの攻撃が、結果的に駆け付ける警備隊士から少しだけ距離を取る形になっていた。だが悠長にしている時間はない。(じき)に警備隊士はポンプ室周辺にも来るはずだ。待ったなしの状況にヘルムホルツは口早にポンプ室まで行くよう三人に指示を飛ばす。そして彼はそのまま先導して駆け出した。

 身を屈めながら植木を縫うようにして影の中を駆けた四人は、ポンプ室の入口に到着する。すかさずガウスがポンプ室のカード・キーを取出すと、それを扉に空くカード差込口に挿入した。

 ピッという小さな電子音が鳴り扉のロックが解除される。そのままガウスは扉を開き中に入ると、続いてジュールとアニェージ、そして最後にヘルムホルツが身を滑らせた。ヘルムホルツは警備隊士に気付かれていない事を確認しながら静かにポンプ室の扉を閉める。そして彼は内側から扉をロックした。

「グォングォン、ガコンガコン……」

 ポンプ室の内部は防音設備が(ほどこ)されているのか、外からは想像できないほどポンプの稼働音が鳴り響き騒々しい。それに隣にいる者の顔すら判別がつかないほどポンプ室内は暗かった。

「とりあえず奥に進もう。これだけ暗くて騒がしいと動きにくいけど、逆に気付かれもしないはずだ」

 ジュールは皆にそう言うと、用意していた懐中電灯を取出した。光が窓から漏れ出すと警備隊に気付かれる恐れがある。彼は注意深く電灯の光調節(つま)みを(ひね)り、最小限の光のみで暗闇の中を進み出した。

 四人は息を殺しながら、か細い光を頼りにしてポンプ室を奥に進む。大型のポンプが何台も稼働する室内は、思いのほか奥行きがあり広い。だが程なくすると壁に突き当たり行き止まった。

 四人は入り口方面に意識を向け、ポンプ室に入室してくる者がいないか気を留める。ただ警備隊は庭園の捜査に集中しているのだろうか。幸運にもポンプ室には誰も来る気配が無かった。

「ふぅ、どうにかバレなかったみたいだな」

 ジュールはホッと胸を撫で下ろす。少し緊張が解けたのか、他の三人もその場で腰を下ろし気持ちを落ち着かせた。


「まったく危なっかしくて心臓に悪いぜ」

 ヘルムホルツは眉をひそめながら、渋い表情で一言(なげ)く。

「済まんヘルムホルツ。お前のお蔭で助かったよ。でも良くあそこに居たな」

 ジュールは面目ないと謝りつつも、ヘルムホルツが折り良く庭園に居た理由を尋ねた。その横で(ひたい)の汗を(ぬぐ)うガウスも、不思議そうにヘルムホルツに視線を向ける。

「昼間の感じからして、お前たちがポンプ室に向かうのは容易に確信が持てたよ。それとアニェージ、お前の事もな」

 ヘルムホルツは黙り腰を下ろすアニェージに視線を移し言った。そんなヘルムホルツをアニェージはきつく睨み返しだが、それに構うことなく彼は続けた。

「まったく、どいつもこいつも状況をろくに把握しないで先走りやがって。それどころかジュールとアニェージは何を揉めてるんだ!」

「知るかよ! その女が突然襲い掛かって来たんだぜ」

「ふざけるな! 化け物の貴様が何を言う。おいヘルムホルツ、お前はこいつが普通の人間でない事を知っているのか!?」

 アニェージはジュールを指差しヘルムホルツに激しく詰め寄る。ただヘルムホツルは少し首を傾げながら、()くし立てる彼女を(さと)すよう言った。

「こいつの名はジュール。こいつとはガキの頃からの腐れ縁でな、今は軍のトランザムに所属している。これでもエリートなんだぜ」

「トランザムって総司令直轄部隊じゃないか。本当なのか? こんな危険な奴を身近に置くなんて、総司令はどうかしているぞ」

 アニェージは苛立ち吐き捨てる。彼女のジュールを睨む視線には、相変わらず殺気が込められていた。ただそんな彼女にジュールは負けじと反論する。

「変な言い掛かりはやめろよ。あんたこそ何者なんだ? 城の関係者でもあるまいし、こんな時間に庭園にいるなんて不審極まりないぜ。それにあんたの身のこなしは通り魔レベルじゃない。逆にその得体の知れない強さが、後ろ暗くてきな臭いぜ」

「チッ、言わせておけば押し付けがましく無遠慮によく吠える。続きがしたいなら今ここでやるか? とりあえずその口が二度と開かないよう、(あご)でも粉々にしておくか!」

「やめろ二人とも! 今はそんなことしている状況か!」

 ヘルムホルツが青筋を立て(いきどお)る。そんな彼に気圧されたジュールとアニェージは、お互いの背を向け合い黙り込んだ。ヘルムホルツは鬼気迫る二人の殺気が少し収まるのを待つと、やれやれと仕方なさそうに話し出した。

「アニェージ。お前はジュールの事を何か誤解しているようだが、こいつはあのグラム博士の息子だぞ」

「何っ! こいつが、グラム博士の……」

 アニェージは驚きを隠せず声を失う。そんな彼女に少し表情を緩めながらヘルムホルツは続けた。

「博士と違って頭は悪いが、お前が思う以上にこいつは頼りになる奴だ。それに俺達にとって数少ない、信頼できる存在でもある」

 ヘルムホルツの言葉にアニェージはジュールを見つめる。薄暗くてその表情はよく分からないが、まだ少し不満が残りつつも敵意を押し消す彼女の気配がジュールに伝わった。するとヘルムホルツは腹を決めたのだろう。ジュールに向かって話し出した。

「近い内にお前には話さねばならないと思っていた。ただ俺の話を聞けばもう後戻りは出来なくなる。それでもお前はいいか?」

「今更なんだよ改まって。別に俺は構わないぜ、でも――」

 そう言ってジュールは脇に座るガウスを見る。彼はまだかなり戸惑っていそうだったが、それでもジュールに同意した。

「こんな事態になるまで首を突っ込んじまったんだ、俺も覚悟を決めるよ。それに戦場ではいつも、俺はジュールさんに命を預けてた。誰よりも信頼するジュールさんが進む道なら、迷わず俺も付いて行くだけさ」

 ヘルムホルツはその言葉に頷くと、決意を新たに話し出した。


「実のところ、俺はアイザック総司令の指示で隠密に【ある仕事】をしている」

「総司令の指示? カプリス所属のお前がなんで」

 ヘルムホルツの予想外の告白にジュールは戸惑う。ただそんな彼に向かいヘルムホルツは冷静に答えたのだった。

「昼にも話したが、俺はお前から博士のノートを渡され波導量子力学に興味を持った。そしてその理論を調査する過程で、偶然にも総司令と接触したんだよ。ううん、今思えば必然だったのかも知れないな。総司令は信頼できる同志を探し求めていたんだ。そして波導量子力学を嗅ぎまわる俺の存在に気付いた総司令は、俺が信頼に足りる者かどうか見極め、そして接触を図って来た。幸か不幸か、俺はどうやら総司令に認められたってわけさ」

「それで……」

 ジュールは生唾を飲み込み先を尋ねる。

「俺が総司令から指示された密命をは二つ。一つは行方不明のグラム博士の消息を確認すること。そしてもう一つは王立協会の裏組織【アカデメイア】の陰謀を(さぐ)る事だ」

「は、博士の消息って、お前――。博士がどうなったか知らないのか」

「ん? お前、グラム博士が今どこにいるのか知っているのか?」

 暗闇の中、表情を曇らせるジュールにヘルムホルツは身を乗り出し尋ねる。

「博士は、――死んじまったよ。もうこの世にはいない」

「し、死んだって、お前――。そうか……。何となく悪い予感はしていたが」

 ヘルムホルツはそう(つぶや)くと、意味ありげにアニェージと目を合わせる。彼らは博士の死について思うところがあるのだろうか。ただそんな二人の仕草に気を留めることなく、ジュールは静かに言った。

「あの日、羅城門でヤツと戦った時さ。テスラに言われたんだよ。コルベットが博士の身を拘束し、そして博士の命を奪った――てね。俺にはまだ信じられないけど、テスラは博士の死体を確認したって言ってたし、それに何となく俺自身も博士の死を受け入れている気がするんだ。もう二度と、博士には会えないんだと――」

 ジュールの悲痛な想いが皆に伝わり息苦しさを感じさせる。たがその中でヘルムホルツは重い口を開き話を続けた。

「博士のことは残念だ。総司令の考えるところ、その根幹部分には博士の力が絶対不可欠だったはずだからな。俺達の仕事に支障を来すことは確実だろう。だがそれでも俺は仕事を遂行しなければならない。もう一つの方の仕事を」

「王立協会の裏組織ってやつか」

「そうだ。王立協会の裏組織、その名を【アカデメイア】という。実はその存在自体はなかば公然の事実として認知されている組織なんだ。具体的な活動内容が非公開なために秘密結社なんて揶揄(やゆ)されてるけど、対外的には科学者育成の為の学校設営や、協会の基金を通して慈善団体への資金援助といったチャリティ活動を行っている。その証拠にアカデメイアの総責任者には、国の民間人トップであるキュリー首相の名が綴られているんだよ。しかし(いぶか)しい妙な噂が耐えないのも事実。問題なのは、その秘密結社が裏で何をしているかだ」

 一気に話すヘルツホルムにジュール達はただ息を飲み耳を傾けている。

「そこにいるアニェージ。紹介が遅れたが、何を隠そう彼女はそのアカデメイアの被害者なんだ。そして彼女は商業都市グリーヴスにいる資産家、シュレーディンガー氏の配下の者なんだよね」

「シュレーディンガー!?」

 突然発せられた重要人物の名にジュールは目を丸くしながらアニェージを見つめる。彼女はそんなジュールの視線を無視するも、ヘルムホルツに代わって話し始めた。


「一ヶ月ほど前からの話になるけど、私はボスであるシュレーディンガーの指示で、グラム博士がアダムズ王国のどこかに隠した【最終定理】を探している。それは二百年前に実在したある科学者が未完のまま書き残した論文を、グラム博士が現在の科学理論を駆使して補完したものらしい。論文は全部で4つ存在するんだけど、でも厄介な事にグラム博士はそれらをアダムズの各所に隠してしまったんだ。ただ博士はボスに手掛かりを残してくれてね、私はその論文探索に尽力しているところなのさ。そして4つの論文の内、二つまでを見つけ出しボスのもとに届けたんだが――、チッ」

 脇腹が痛むのか、アニェージは少し身を屈め脇腹を(さす)った。それでも彼女は口調を変えずに続ける。

「手に入れた論文には、次の論文の隠し場所を見つけ出す為のヒントが記されていた。だから私は休む間も惜しみ3つ目の論文探しに向かったんだけど、そんな時にアカデメイアを名乗る一人の男が突然現れたんだよ。どこで知ったかは知らないが、その男は私達が見つけた論文を渡すよう脅迫紛いに要求してきた。もちろん私たちはその要求を拒否したさ。そしたら意外にも男は黙って退散した。あまりにもあっさりと男は立ち去って行ってね。逆に不気味だった事を良く覚えている。だがその数日後さ。私たちの前に今度は【ヤツ】が出現したんだよ」

「ヤツが!」

 ジュールは思わず声を漏らす。そんな彼を(わずら)わしく一視したアニェージは、脇腹から離した手を強く握りしめた。

「ヤツは私達から一つの論文を強奪し姿を消した。私は直ちに奪われた論文の奪還と、3つ目の論文を探す目的で首都ルヴェリエに(おもむ)いた。ヤツの奪った論文には、3つ目の論文の隠し場所がこのルヴェリエだと記されていたからね。それから私はボスの指示でアダムズ軍の総司令であるアイザック氏を尋ねたのさ。ボスとアイザック氏は、グラム博士を通じて良く知る間柄であったみたいだからね」

 アニェージはそこまで言うと、目でヘルムホルツに合図を送り続きを任せた。やれやれと言った感じにヘルムホルツが続き引き取る。

「俺は総司令の命令で、アニェージに力を貸すことになった。それがつい二日前だ。アカデメイアについてアニェージに問われた俺は、その裏組織が活動拠点としているらしい噂のある場所を三つ彼女に教えた。一つはエクレイデス研究所の1号棟。一つはプルターク・モール。そしてもう一つがここ、アダムズ城の庭園に併設されるポンプ室だ」

「何だって!? ここがその場所だっていうのか。それにプルターク・モールって……。そうか、だからあんた昨日あそこにいたのか」

 ジュールは驚き呟く。ヘルムホルツはそっぽを向き脇腹を摩っているアニェージに視線を向けながら続けた。

「俺がアニェージに伝えたのは何の確証もない、あくまで噂レベルで(ささや)かれている場所だ。それなのにアニェージは俺の制止を無視して次から次へと勝手に動き回る始末。研究所の1号棟こそ、先日のヤツ討伐戦で焼失しちまい調査不能になってどうにもならないが、このポンプ室に来たのだってそうだし、ましてプルターク・モールではもしもの為と渡しておいた玉型兵器まで使っちまう。気苦労半端無いぜ」

 そう言ってヘルムホルツは溜息を漏らした。変わらずアニェージはあさっての方を向いている。ヘルムホルツはジュールとガウスに向かい、お前達も同じだと言わんばかりに苦言を呈した。

「このポンプ室は以前から怪しいと(にら)んでいたから、入念に調べようとしていたところなんだけど、まさか気になるっていうただの勘だけでお前らが突っ走るとは思わなかった。マジで肝を冷やしたぞ。下手に行動すれば相手の思うつぼなんだ。よろしく頼むぜ」

 ヘルムホルツはそう言って再度溜息を漏らす。慎重を期して行動していた彼だけに、ジュールらの無神経な振る舞いに落胆したのだろう。ただそんな彼にジュールは恐縮しながら謝りつつも、真剣な眼差しで一つ質問をした。

「お前の考えを知らなかったとはいえ、軽率な行動をとっちまったのは謝るよ。それとアニェージの行動理由も納得出来た。それらを踏まえた上で二人に一つ尋ねたいんだけど。――お前ら、どこまで知っている?」

 確信を付くような鋭いジュールの質問に二人は息を飲む。騒々しいポンプの稼働音と同等の鼓動が胸を打っているのか、しばしアニェージとヘルムホルツは沈黙していた。何の把握もしていないガウスがそんな二人の姿を不思議そうに見つめている。ただそんな由々しき雰囲気の中、重い口を開いたのはアニェージだった。

「ジュールと言ったな。その口ぶりならお前も知っているんだろう。いや、グラム博士の親類なら当然か。まぁ、私たちの行動理由が理解できたなら悪い事は言わない。邪魔せず静かにしていろ。痛い思いはしたくはないだろ?」

「あんたこそ、そんな甘っ垂れた口利いてるようじゃ足手まといだぜ。【神】に喧嘩を売る本当の意味を理解してないあんたの方こそ、とっととグリーヴスに帰った方が身の為だぞ」

「貴様、やっぱり一度血祭りにした方が良さそうだな」

「望むところだ!」

 立ち上がり対峙するジュールとアニェージ。だがそんな相容れない二人の腕をヘルムホルツが掴み取り、引きずる様にしてしゃがみ込ませる。同時にポンプ室の窓の外側から庭園のライトの光が照射され、内部を映し出した。数人の警備隊士が窓から覗き込んでいるのが分かる。恐らくロックされた扉が開けられず、仕方なく窓からポンプ室内部を確認しているのだろう。

「どうするんだヘルムホルツ。ポンプ室はここで行き止まりだ。もし警備隊が中に入って来たら逃げ場がないぞ」

 そんなジュールの問い掛けに、ヘルムホルツは考え込むように首を捻った。

「やはりこのポンプ室は何かがおかしい。前に調べたポンプ室の建築図面には、もっと奥の空間が記載されていたはずなんだ。それなのにここで行き止まりになっている。アカデメイアの噂の出所でもある場所だ、きっと何か隠されているんだろう。みんな、手分けして探せ!」

「探せって、一体何を探せばいいんだ!」

 ジュールが焦りながら声を荒げる。だがそんな彼をヘルムホルツは強く諭した。

「このまま警備隊に素直に捕まれっていうのか。文句言う暇があったら体を動かせ!」

 ジュールは不満を残しつつもヘルムホルツの激に従い調査を始める。それにつられるようにして、アニェージとガウスも各自が用意した懐中電灯を取出し、何か隠されたものがないかポンプ室内の捜索を開始した。


 四人はポンプ室の奥に繋がる【何か】がないか必死に探す。暗い室内で実在するのか否かも分からない何か探しに神経がすり減っていく。そしていつ警備隊がポンプ室に踏み込んで来るか分からない緊迫した状況が、さらに四人の気持ちを追い詰めて行った。

「ズルっ」

 張り詰めた雰囲気の中で、ガウスが何かに足を取られ滑り転倒した。腰を強く打ったのか。ガウスはかなり痛そうに腰をさすっている。そんな彼をジュールが優しく(いた)わった。

「大丈夫かガウス。暗いんだから足元には気を付けろよ」

「イテテ、俺としたことが情けないぜ」

 ガウスは強がりながら腰をさすり、足を滑らせた場所を確認する。するとそこには十七角形をした、幅1メートル程のマンホールの蓋のようなものがあった。

「何だろう――」

 ガウスは更にそのマンホールのすぐ脇にあったポンプの制御盤に目を移した。テンキーのようなボタンと、小さい液晶ディスプレイが備え付けられたその制御盤は、他の制御盤と見た目はまったく同じ物に見える。しかしその正面隅にはマンホールと同じ十七角形のマークが小さく刻まれていた。

 ディスプレイは暗闇の状態だったが、隣にある緑色の小さなランプが点灯していることから、電気は通じているのだろう。ガウスは何気なくその液晶ディスプレイに指を触れた。

「ピコッ」

 電子音が発すると共に、液晶ディスプレイが緑色に発光する。するとその画面に文字が浮かび上がった。それを見たガウスが急ぎ皆を呼ぶ。彼の周りに集まったジュール達は、液晶ディスプレイに浮かんだ文字に視線を向けた。

『パスワード:○○○○』

 濃い緑色の背景にパスワードを要求する明るい緑色の文字が浮かび上がっている。テンキーボタンは電子計算機のように1から9までのボタンが三列に配列し、その下に0を中心として左に【H】が描かれたボタン、右に【E】が描かれたボタンが並んでいた。

「これのどこが怪しいってゆうんだ。ただのポンプを制御している機械じゃないのか?」

 画面を見たジュールが当然の様に吐き出す。ただそれにアニェージが苦言を呈した。

「馬鹿が、制御盤の周りをよく見ろ。この制御盤は明らかにポンプから独立した物だ。他の制御盤は必ずその近くにポンプの駆動モーターや配水用の弁など、制御対象が併設されている。それなのにこの制御盤周辺には何もない。あるのはその奇妙な形をしたマンホールだけだ」

 アニェージの意見に同意するようヘルムホルツが続ける。

「仮にポンプを遠隔に制御するものだとしても、見たところ室内のポンプは全て稼働している。しかしこの制御盤は電気こそ通じているが、何かを制御している痕跡は無い。という事はポンプ以外の何かか、または別の場所にあるポンプを操るものになるな」

「それが本当だとしても、パスワードが分からないんじゃお手上げだぜ」

 ジュールは嘆息(たんそく)しながら手の平を上に向ける。確かにその通りではあるが、それでもヘルムホルツはこの制御盤が状況を打開する切り札だと信じてやまない。しかし為す術ない現状に彼らは途方に暮れる思いがした。ただそこで第一発見者のガウスが、腕組みをして考え込むヘルムホルツに何気なく問う。

「0の横にある文字だけど、『E』はエンターだとして『H』は何かな?」

 確かに気になる。パスワードの入力欄は4つであり、その性質上4桁の数字なのは間違いないだろう。Eはガウスの言うようにエンターキーである可能性が高い。ではHは何だ。ヘルムホルツは神経を過敏にして考えを巡らせる。だがそんな彼をよそに、ジュールはガウスの顔を見ながら口を開いた。

「良いところに気が付いたな、ガウス。確かに『H』ボタンって何だろうな」

 そう言ってジュールは無造作にHボタンを押した。

「ピコッ」

 小さな電子音とともに、液晶ディスプレイに新たな文字が浮かび上がる。

『A+A=A  A=?』

 何かの計算式の様な文字列が出現した。それを見たガウスがジュールに尋ねる。

「ジュールさん、なんだか分かりますか?」

「そうだな。見たところこいつは非常に高度な計算式だ。恐らく頭の切れる科学者あたりが考えたんじゃないのかな」

 眉間にシワを寄せながらジュールは険しい表情を浮かべる。だがそんな彼の頭にヘルムホルツは拳骨(げんこつ)を落とし、警告を促すよう(いまし)めた。

「お前本当にバカだな。もしこのボタンが俺達にとって不利になる状況を作り出すものだったらどうするんだ。もっと慎重に行動しろ。それにこの数式のどこが高度なものなんだ。十歳の子供でも解ける問題だぞ」

「痛ってぇなぁ。じゃぁ答えは何なんだよ」

 ジュールは叩かれた頭を抑えながら答えを求めた。するとヘルムホルツは子供に勉強を教えるよう、彼に対し答えを説明した。

「同じ整数を足し合わせたものの答えが、その整数になる。そんな整数は一つしかない。答えは(ゼロ)だ」

 そう言ったヘルムホルツは制御盤にあるテンキーの【0】を押し、そしてEボタンを押した。すると小さな電子音がするとともにディスプレイの表示が変化する。

『パスワード:0○○○』

 初めの空欄に0が表示された。ヘルムホルツは納得したように一人頷き、迷うことなくHボタンを押す。電子音がするとともに、またも新しい問題が画面に映し出された。

『220ノ モットモ シタシキ カズ ハ?』

 新たに出題された問題を見たヘルムホルツは、所持していたペンとメモ帳を取り出す。そして問題を解くために計算を始めた。そんな彼を催促するようジュールが声を掛ける。

「おいおいおい、何だって言うんだよヘルムホルツ。一人で納得してないで教えてくれよ」

「ふぅ、解けたぜ。二問目はだいぶレベルが上がったな。それでも学生レベルの数学の範囲だけどな」

 そう言ってヘルムホルツはしたり顔で微笑む。ジュールは勝ち誇るそんな彼に苛立ち、黙って睨みつけた。

「そう怖い顔するなよジュール。初めから説明するとだな、Hボタンは『ヘルプ』ボタンだったんだよ。パスワードを忘れた時の為に、答えがパスワードになる簡単な計算問題をHボタンにインプットさせておいたんだ。アカデメイアの考えそうな事だぜ」

「それで、二問目の答えは分かったのか?」

 ジュールがヘルムホルツに詰め寄る。同じくアニェージとガウスもヘルムホルツに視線を向けた。

「220の最も親しき数。それは間違いなく【友愛数】を現している」

「友愛数?」

 ジュールはガウスと目を合わせ首を傾げる。

「友愛数っていうのはペアになった2つの数で、一方の数がもう一方の数の約数の和になるものだ。220の約数は『1、2、4、5、10、11、20、22、44、55、110』だ。それらを単純に足し合わせると『284』になる。それが二問目の答えだ。ちなみに284の約数は『1、2、4、71、142』で、それらを足すと220になる」

「さすがは科学者だな。見直したぜヘルムホルツ!」

 ジュールは目を丸くしながらヘルムホルツを労う。しかしジュールにはその答えがまったく理解出来ていないだろう。そしてそれを承知のヘルムホルツは少し呆れつつも、その指先には緊張が走っていた。

「先にも言ったが、この程度の問題は勘の良い子供でも解けるものだ。まったく、聞いてるこっちが恥ずかしいぜ。だがこれでパスワードは導き出せたはず」

 ヘルムホルツは汗ばむ指先で二問目の答えを打ち込む。そして力の入る肩を一度だけ回し、テンキーのEボタンへ指を伸ばした。ヘルムホルツは覚悟は良いかといった風に、ジュールたちの顔を順に眺める。無言で頷く三人を確認すると、ヘルツホルムはEボタンを押した。

「ピコッ、『パスワード:0284』…………ガキンッ!」

 突然鳴り響いた金属がぶつかる様な音に、四人はギョッとし振り向いた。なんと十七角形をしたマンホールの蓋が垂直に起き上がっている。そして真下に伸びる暗闇が顔を覗かせていた。

 口を開けたマンホールには下に降りるための梯子(はしご)が取り付けられている。アニェージは手にする懐中電灯の明かりを梯子の降りる先に向けると、その姿勢のまま冷静に告げた。

「水の流れる音が聞こえる。この先は下水道か何かだろう。どうした、行かないのか?」

 アニェージは(さげす)むような視線をジュール向ける。ジュールに対するケンカ腰は相変わらず変わらない。ただそんな彼女に負けじとジュールの方も意地を張る。彼はアニェージを押し退けてマンホールの梯子に掴まると、吐き捨てるように言った。

「あんたの方こそ、怖いならここで留守番してろよ。それとも何か、悪臭漂う湿った場所には行けないか? 随分とお嬢様(そだ)ちらしいな。よくそれで裏の仕事に携わっていられるもんだな。いや、所詮その程度の決意しか無いって事か」

「何を偉そうにベラベラと喋っている。早く行け、後が詰まっているぞ!」

 チェ、と舌鳴らししながらジュールは梯子を降り始める。その後をアニェージ、ヘルムホルツと続き、最後にガウスがマンホールの蓋を閉めながらその後を追った。

 10メートルは有に超える長い梯子を降りると、そこは予想通り城の排水が流れる下水道になっていた。下水道は思いのほか広く、幅5メートルほどの排水路と、その両脇に幅2メートルほどの人が歩くための通路が設けられている。ただ全員がそんな下水道に降り立った時だった。ジュールはふと人の気配を感じて懐中電灯を下水道の上流側に向けた。

「!?」

 しかし長く伸びるそこに人影は無く、また人が隠れられそうな場所も見当たらない。見間違いだったのか? ジュールは意味不明な違和感に首を傾げる。ただそんな彼を嘲笑うよう、アニェージが軽く皮肉を告げた。

「どうかしたか、ジュール。もしかしてビビっているのか? 怖かったらお前だけでも引き返していいんだぞ」

「バカ言え、無駄口叩いてる暇はない。先に進むぞ」

 アニェージの冷やかしに対するジュールの返答は落ち着いたものであった。なぜなら彼はまるで戦場にいるかのような表情に顔つきを変えていたのである。恐らく彼の軍人としての危機意識が働き始めたのだろう。そしてジュールは先頭に立ち、先程人の気配を感じた下水道の上流に向け進み出した。

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