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月読の奏  作者: 南爪縮也
第一章 第一幕 夜余威(やよい)の修羅
3/109

#02 更待月の夜戦場(後)

「動けるか、ヘルツ」

 ジュールは脇腹(わきばら)を押さえ(うずくま)るヘルツに声をかける。ただ彼は気丈にもジュールに対して強く答えた。

「大丈夫。肋骨(ろっこつ)が何本かいったみたいだけど、問題ない」

 ヘルツは判然とした口調で返し、大事に至っていない事を誇示する。しかしその顔色を見る限り、決して無事でないことが分かる。尋常でない痛みが体を支配しているのであろう。ジュールはそんなヘルツの強がりを容易に見抜く。それでも彼はヘルツに対して()いる様に指示を出した。

「ヤツの右に走って注意を引け。俺は左目を失ったヤツの死角から攻める。赤玉とガウスの攻撃でヤツの脇腹はボロボロだ。残りの赤玉はあと一つ。こいつを確実に喰らわせるしか、もうヤツを倒す手段が無い」

「了解。けどジュールさん、あんたこそ大丈夫か。辛そうだぞ」

 地面に刀が突き刺さった状態からとはいえ、ヤツの蹴りを真面(まとも)に受けたジュールのダメージも極めて深刻な状況だ。それでも彼はヘルツに軽く笑みを漏らしながら答えた。

「お前より一本多くアバラが折れてるだけだ。これ以上ヤツがテスラに近づくと赤玉が使えない。行くぞ!」

 ジュールの態度こそ強がりだと見え透いていた。それでも今は一刻を争う状況なのだ。考えている時間は一秒も無い。

 ジュールに釣られヘルツも口元を緩める。そして同時に二人は走り出した。どちらも強情な性格であるゆえ、簡単に泣き言を吐かない事は言わずと理解している。だからこそ、お互いを信頼し作戦を開始したのだ。しかし足が自慢であるはずのヘルツの走りにいつもの速さが無い。想像以上に深い傷を負っているのであろう。今まで感じたことの無い体の重さにヘルツは胸の内で驚く。それでも彼は奥歯を喰いしばり全力で駆けた。

 折れた肋骨(ろっこつ)が肉に食い込み、地面を駆るごとに激痛を感じる。流れ出る鼻血で息ができず、みるみる顔が青冷めてゆく。それでもヘルツは駆ける事を止めたりはしない。

 だがそんなスピードのないヘルツにヤツは直ぐに気が付く。するとヤツは足元に散らばる廃墟の破片を無造作にいくつも拾い上げ、それをヘルツ目掛けて立て続けに投げつけた。

 いくつもの豪速(ごうそく)の破片がヘルツに向かう。唸りを上げる破片はまるで大砲の弾の様だ。

 そんな追い詰められた極限の状態が、逆にヘルツの才能を開花(かいか)させた。集中力を高めた彼は、痛みを無視して一気にスピードを加速させたのだ。そして(おそ)い来る破片を稲妻(いなずま)のごとくかわす。さらにヘルツは両手に短刀を握ると、廃墟の壁を利用してヤツ目掛けて大きくジャンプした。するとそんなヘルツの急激なスピードの変化にヤツは一瞬対応を遅らせる。人間離れしたスピードで向い来るヘルツに対してヤツは一歩後退する事しか出来ない。それはまるで恐怖に怯むかの様だ。きっとヤツからしても後の無い状況なのだろう。それでもヤツはヘルツをなぎ払おうと、全力で右腕を振り抜いた。

 だが同時にヤツは目を疑う。確実に捕えたはずのヘルツの姿がそこに無かったのだ。

 渾身の力で振り抜かれたヤツの剛腕。それは大気を押しつぶすほどの豪速で繰り出されていたが、ヘルツの体はそれよりも早く地面に着地していた。そして彼は(すべ)り込みながらヤツの股間(こかん)(くぐ)り抜ける。さらにヘルツはヤツの右足にある銃弾のめり込んだ傷跡を狙い、短刀を突き刺した。

「ギャッ」

 たまらずヤツは体勢を崩す。だがそれでも強引に足を踏みとどまり堪えた。ヤツの鋭い視線がヘルツを離さない。来るなら来い。次は必ず叩き潰す! 目に見えるかの様な凄まじい殺気がヤツから放出され続く。

 そんな殺気を全身で感じ取るヘルツは、耐え難い嫌悪感に苛まれ足が止まりそうになる。しかしトップスピードまで達した彼の動きは、自分の意志に反して簡単には止まらない。

 ヘルツはスピードに乗った状態でヤツの右側に回り込み、その殺気づく鋭い視線が自分を追っている事を確認する。そしてわざとその視線が自分から離れないよう後方にジャンプした。

 ヤツはそんなヘルツを逃がすまいと、足元にあった1メートル程の大きな廃墟の残骸を両手で持ち上げ、彼に投げるべく振りかぶった。ヤツとて満身創痍であることは確実なはず。それなのにヤツはどこまでも強靭で底知れない力を発揮する。その力は一体何から生み出されるものなのであろうか。

 鬼気迫る憎悪が溺れるほどに周囲を満たす。そんな中、ヤツの死角である左後方から、左手に小銃を握るジュールが飛びかかった。そして彼は赤玉をヤツの損傷した脇腹目掛けて投げつける。くわえて左手の小銃を赤玉に向けた。

「もらった!」

 しかし突然ジュールに廃墟の残骸が(おそ)い掛かる。ヘルツに向け放つべく残骸を振りかぶったヤツは、その重さを支えられずに残骸を後方に手放していたのだ。やはりヤツの体力も限界にきているのであろう。ただ不運にも絶妙なタイミングで残骸はジュールに向かい飛んだ。

「ふざけるなっ」

 ジュールは向かい来る残骸を避けようと懸命に身を捻る。ギリギリのところでどうにか直撃を回避するも、しかしその残骸は少しだけジュールの体をかすめ地面に激突した。するとどういうわけか、彼の体は数メートル離れた壁まで飛ばされ、そこに激しく体を打ちつける。残骸はジュールを軽くかすめただけであったが、その体を吹き飛ばすには十分の威力を持っていたのだ。

「くそったれが……」

 ジュールは小さく吐き捨てた。激しく壁に叩きつけられた衝撃で全身に激痛が走り身動きが取れない。もう少しでヤツに止めを刺せたはずなのに、何故こうなってしまうのか――。彼は小銃を握っていたはずの拳に力を込めながら悔しさを滲ませる。赤玉に鉛玉をブチ込むための切り札である小銃は、彼が吹き飛んだと同時に、どこかへと飛ばされていた。


 それでも戦況は止まらない。ジュールの体が吹き飛ぶと同時に、後方に飛んだヘルツは瞬時(しゅんじ)に向きを変えヤツに突進する。そして一直線に駆ける彼は地面に落ちる直前の赤玉をつかみ取り、そのまま止まらずヤツに向かって直進したのだ。

 スピードをさらに一段加速させたヘルツは、自らに向け突き出されたヤツの剛腕をも駆け上がる。そして彼はそのままの勢いでヤツの顔面に強烈なひざ蹴りを加えた。さらに空中で身をひねり体勢を整えると、ヘルツはヤツの右足に突き刺さっている短刀に渾身の飛び蹴りを叩き込む。

「ギャャー!」

 短刀は右足を貫通(かんつう)しヤツは悲鳴を上げた。この世のものとは思えない絶鳴が廃墟に響く。ヤツは自分のスピードにまったく付いて来れない。それどころかヤツはもう虫の息だ。そう確信したヘルツは最後の攻撃とばかりに全精神力を振り絞る。もうこれ以上は続かない。彼もまた限界なのだ。

 地面に着地したヘルツはつむじ風のように回転し、ヤツの損傷している脇腹へ自分の拳を手首が埋まるまでねじ込んだ。そして腕を引き抜くと同時に後方へと大きくジャンプする。

 スピードの乗ったヘルツの猛烈な一撃にヤツは悶絶する一歩手前だ。だがまだヤツの眼光は微塵にも衰えてはいない。その目の輝きが完全に消えるまで、この戦いは終わらないのだ。ただヘルツとて、そんな危険は十分に承知している。彼もまた、死線を潜り抜けて来た精鋭なのだから。最後の瞬間まで気を抜くことは許されない。それが戦場で勝つための、生き残るための唯一の方法なのだ。

 後方に飛んだ姿勢のまま、ヘルツはヤツの脇腹を鋭く睨む。彼が拳をねじ込んだヤツの脇腹には、拾い上げた赤玉がめり込んでいた。

 ヤツの息の根を止める。それだけに集中したヘルツは、手にしていた最後の短刀を赤玉めがけて投げた。――――が、何故か足の踏ん張りが利かず、彼はそのまま静かに倒れ落ちた。

 まさに疾風迅雷(しっぷうじんらい)ともいえるヘルツの華麗(かれい)な連続攻撃は、ヤツに大きなダメージを与えた。だがそれと引き換えに、ヘルツの足は完全に砕けていたのだ。人の常識を超えるほどの動きを見せたヘルツ。しかし彼の体はヤツに加えた攻撃による自身への衝撃と、蓄積した疲労とでついに極限を超えたのだった。そしてバランスを(くず)しながら投げられた短刀は、無情にも赤玉を()れヤツの腕に刺さってしまった。

「まだまだっ!」

 そう気合を入れ直すヘルツだが、彼の足はその意に反し動くことを拒絶する。もう自分の意志では到底どうにかなるものではなかったのだ。そんな状態のヘルツが目にしたのは、腕に刺さった短刀を引き抜き、動けない自分に対して(ねら)いを(さだ)めるヤツの姿であった。鬼のような形相でヘルツを睨みつけながら、ヤツは短刀を振りかぶる。

(やられる……)

 そう感じたヘルツは思わず目をつぶる。だがその時、突然何かが彼に(おお)い被さった。

「グサッ!」

 短刀が肉に突き刺さる感触が伝わる。だがヘルツはまったく痛みを感じない違和感に思わず息を飲んだ。そして彼はゆっくりと目を開く。するとそこには自身を盾替わりとしたジュールの姿があり、その肩にはヤツの投げつけた短刀が深く突き刺さっていた。

「ジュールさん!」

「伏せていろっ」

 ジュールは起き上がろうとするヘルツの頭を強引に押さえつけた。――と、次の瞬間、

「ダァーン!」

 遠く後方よりライフルの発射音が反響する。そしてそれとほぼ同時に、鼓膜を突き破るほどの轟音(ごうおん)が廃墟に鳴り響いた。

「ドギャァァーン!」

 ヤツの脇腹にめり込んでいた赤玉が爆発したのだ。そしてその周囲は例外なく、爆風で吹き飛ばされた。

 風穴の開いた木造の塔から、血まみれのマイヤーがライフルを構えている。大きなダメージを受けつつも、どうにか致命傷を(まぬが)れたマイヤー。彼は今にも途切(とぎ)れそうな意識の中でギリギリまでチャンスを待ち、一瞬の(すき)を突くように赤玉に向け引き金を引いたのだ。そして赤玉が爆発したのを確認すると、マイヤーはその場に倒れ込み意識を失った。


「……ールさん。しっかりしろ、ジュールさん!」

 気を失っていたジュールはヘルツの呼びかけで目を覚ます。しかし爆風の衝撃(しょうげき)で視界が激しく揺れていた。どうにか五体そろってはいる。しかし爆発による衝撃と火傷(やけど)によって全身から発せられる激痛は、意識を(たも)つことに抵抗しながらも、意識を失うことを拒絶(きょぜつ)した。

 幸いな事に致命傷までには至っていない。だがそれでもジュールの負ったダメージは深刻なものであることに違いは無かった。息をするだけで死にそうになるほどの尋常でない激痛が全身を駆け抜けてゆく。これではまるで生き地獄だ。しかしそう感じる一方で、ジュールは確実に正気を取り戻していった。

 遥か後方よりマイヤーがヤツを狙っている事に、ジュールは偶然にも気が付いた。そして超人的な攻撃を加え続けるヘルツの活躍によって、ヤツに隙が生まれるのは時間の問題だと彼は判断する。それほどまでにヘルツの戦いぶりは凄まじかったのだ。しかしヘルツは限界を迎えた。考えるよりも早くその身を投げ出し、ジュールはヘルツを庇う。例え自分が犠牲になろうとも、彼は仲間が傷つく事の方が耐えられなかったのだ。

 ジュールはヘルツの無事を確認しホッと胸を撫で下ろす。ただ心配そうに自分を見つめるヘルツに対し、ジュールはどこか決まりの悪さを感じた。ヘルツの喉にまで出掛っている言葉は嫌でも察することが出来る。しかし体が勝手に動いてしまったのだ。こればかりは自分でもどうすることもできない。ジュールは気まずそうに苦笑いを浮かべている。するとそんな彼にヘルツが気遣いながら声を掛けた。

「ジュールさん。まったく、あんたって人は無茶し過ぎだぜ」

「ま、まぁそれ以上は言うなヘルツ。俺だって分かってるよ。そ、それよりヤツは、ヤツはどうなった!」

 まだ全身に苦痛を帯同するジュールであったが、強く詰め寄りながらヘルツに問い掛けた。そうだ、ヤツはどうなったのだ。もしまだヤツが生きているのなら、悠長に寝てなどいられない。ただそんな危機感を抱くジュールにヘルツは無言で頷く。そして彼は視線をジュールの後方に移した。そしてジュールも自然にそこへと視線を向ける。彼がそこで目にしたのは、粉塵(ふんじん)の舞う中にぼやけて見える、仁王立(におうだ)ちのヤツの影であった。

「やった……、やったのか……」

 問いかけとも一人ごとともとれぬ言葉を発しながら、ジュールは激痛を(こら)えて上半身を起こし影を見据(みす)えた。ただその影からは一向に動く気配が感じられない。そしてそんなヤツの影に視線を向けたジュールとヘルツもまた、動く事が出来なかった。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 周囲を覆っていた爆発の粉塵が消え、ついにヤツの顔を鮮明に確認することができた。だがその顔を見たジュールとヘルツは愕然(がくぜん)とする。そう、ヤツは生きていたのだ。

 赤玉の爆発した脇腹は目を背けたくなるほどに損傷している。傷口から飛び出した内臓は大地まで垂れ下がり、全身からは止め処なく赤い血が吹き出ていた。生きている事が俄かに信じられない。それともヤツは不死身だとでもいうのか。だが確実に言える事が一つある。ヤツの右目はまだ、光を失っていないのだ。

「うおおおおぉぉ」

 突然唸り声を上げたジュールは、肩に突き刺さった短刀を自ら強引に引き抜く。さらに彼は押し切って立ち上がろうと狂信的に足掻いた。

 傷口から噴き出した真っ赤な鮮血が、緑色の制服をみるみると赤黒(あかぐろ)く染めていく。全身の骨がきしみ、心臓は今にも張り裂けそうだ。耐え難い苦痛が体の隅々まで伝染し、息をすることすら苦痛に感じる。そんなボロボロの体でありながらも、ジュールは形振(なりふ)り構わず立ち上がった。ファラデー小隊長を残酷に殺害したヤツへの憎しみに駆り立てられるのであろうか。確かにその敵意むき出しの憎悪は彼の態度から強く読み取ることが出来る。だがそれだけでは計り知れない、常軌を逸した異様な感覚をジュールからは受け取ることが出来た。

 自我が無理やり掻き消されるほどの獰猛な感覚に彼は支配されてゆく。そして自分自身では決して気付かない胸の奥深くで、その時確実に【何か】が目を覚ましていた。


 ジュールの右目は青白い光を放ち、聞こえてくる胸の鼓動(こどう)は大地を揺るがすかの様である。さらに彼からは言い表すことの出来ない怒涛の威圧感が放たれていた。

 そんな鬼気迫るジュールをヘルツはただ呆然(ぼうぜん)と見上げている。そして彼は思った。まだ生きてはいるが動くことのできないヤツよりも、異様な威圧感を放ちながら強引に立ち上がった、血と(ほこり)まみれのジュールのほうが数倍も恐ろしいと。そして何より青白く光るジュールの右目は、見た者の魂を地獄の底に引きずり落とす【修羅(しゅら)】のものである様だと思えてならなかったのだ。

「ジュールさん、あんた……」

 無意識にヘルツは呟く。しかし彼の声を無視してジュールは走り出した。

 邪魔(じゃま)な痛みを置き去りにして、ただヤツに向かいジュールは真っ直ぐに走る。立った事すら目を疑うほどの重傷であるはずなのに、彼の何処からこれ程までの力が湧いて来るのか。いや、それよりも彼の身に一体何が起きたというのか。しかしそんな事はお構いなしにジュールは突き進む。そして彼はそのままの勢いでヤツに体当たりを加えた。すると力なくヤツの巨体は倒れる。ジュールはそのままヤツに馬乗ると、両手で短刀を握り締め頭上に振り上げた。

「うおあぁぁぁ!」

 唸り声を上げながら、ジュールは短刀を振り下ろす。――がその瞬間、ジュールとヤツの視線が交錯(こうさく)した。

 ヤツの凄むその眼差(まなざ)しからは、人に対する異常なまでの恨みや憎しみが感じられる。だがジュールにはそれ以上に、言葉では表すことの出来ない深い哀しみの感情を感じ取った。そしてその哀しみが何故か彼の心に深く突き刺ささる。気が付けばジュールの振り下ろした短刀は、ヤツを逸れ地面に突き刺さっていた。

「どうしたジュールさん! 早くヤツに止めを刺すんだ!」

 後方より叫ぶヘルツの声が聞こえる。しかしジュールは動けない。ヤツの目をじっと見つめたまま、彼は体を硬直させ続けている。ただ次にジュールは自分でも予想だにしない行動を取ったのだった。

「お前は、お前はなぜこんなことをする……」

 ジュールはヤツに問うた。自分でもなぜそうしたのか分からない。ただ彼は問わずにはいられなかった。ヤツの眼差しから感じた哀しみの感情に同情したとでもいうのか。いや、そんな事はない。ヤツは隊長を殺した憎むべき対象なのだ。しかし憎悪に(むしば)まれていたはずの彼の胸の内は急速に収まってゆく。するとジュールの問い掛けに対し、ヤツが静かに口を開いた。

(おどろ)イタナ、キサマ。ツクヨミノ胤裔(いんえい)カ……」

「!」

 唐突の出来事にジュールは戸惑(とまど)う。そんな彼の狼狽振りを目の当たりにしつつも、ヤツは構うことなく再度口走った。

「今ハマダ【ツクヨミノカナデ】ヲ、感ジテイナイカ……」

「つく、よ、何?」

 驚きと意味の分からない言葉にジュールは酷く混乱した。それもそのはず。そもそもヤツが口を利けるとは考えてもいなかったのだ。ヤツに対して問い掛けたのはもちろんジュールである。それでも彼は、ヤツがそれに応えるなんて想像すらしていなかったのだ。

 ヤツは馬乗りになっているジュールの体を軽く押し退ける。そしてゆっくりと立ち上がった。そんなヤツをジュールはただ呆然(ぼうぜん)と見つめている。つい先程まで死闘を繰り広げていた相手だというのに、彼は尻餅をついたままどうする事も出来なかった。するとヤツはジュールを直視しながら、最後に一言だけ告げた。

「イズレ分カル。オ前ナラ、オ前ニナラ……」

「なっ、何を言ってるんだお前は!」

 流れる雲が月を隠し、辺りは影に包まれる。

 ヤツは何も答えなかった。それでもヤツはジュールの目をじっと見つめていた。ジュールはそんなヤツの目から(うった)えかける何かを感じる。しかしこの時はまだ、その意味が分からなかった。

 ヤツはゆっくりと体の向きを変えると、ボロボロになった体を引きずりながら歩み始める。そしてジュールは影の中へと静かに消えて行くヤツの後姿を、ただ見ていることしか出来なかった。


「トスっ」

 薄暗(うすぐら)い影の静寂(せいじゃく)の中で奇妙な音が鳴る。すると影の中に(かす)んで見えるヤツの足が止まった。ジュールはそんなヤツの姿を(つぶさ)に見つめる。しかし暗がりのため視界が不鮮明であり、何故ヤツが歩みを止めたのかは分からない。ただどこか不可思議な隔絶感に周囲は包まれてゆく。そしてその奇妙な感覚にジュールの背中は人知れず泡立っていた。

 静まり返る暗がりの廃墟に淡い光が照らされる。輝く月を覆っていた雲が、ゆっくりと過ぎ去って行ったのだ。身動きしないヤツの巨体が月明かりによって次第(しだい)に浮かび上がっていく。そんなヤツの背中を注視するジュールは目を細めた。ヤツの背中の一部がなにやら輝いているように見えたからだ。彼は注意深くその正体を探ろうと目を凝らした。ただジュールはその輝きの正体を直ぐに理解する。しかし何故そんなものが急に現れたのか。

 彼はヤツの背中に突然顔を出したそれに、胸の内で震えた。身の毛が弥立(よだ)つほどの強い戦慄が彼を突き抜けたのだ。そんなジュールが注視するヤツの背中。そこには月明かりに反射することで不気味に光る、刀の切っ先が突き出ていた。

 次の瞬間、その刀は音も無くヤツの体から引き抜かれる。それと同時に横一線の閃光(せんこう)が走った。一体何が起きたというんだ。理解不能な目の前の状況にジュールの意識はついて行けない。ただそんな彼の胸中を置き去りにして時は過ぎ去ってゆく。言葉を失っているジュールの前で、その大きさからは想像できないほど静かに、ヤツの体は後方へと倒れた。そしてその反動でジュールの足元に何かが転がって来る。

「!」

 それを見た彼はさらに声を失った。そこには切り落とされたヤツの首が転がっていたのだ。開かれた目はまだ、自らに起きた事実に気づいていないかのよう見開いている。しかしあれほどまでに強く輝いていたその目の光は、完全に消えていた。

 顔色までも失ったジュールは、妙な違和感を感じ身を(すく)める。ただ彼は異様な感覚につられる様、倒れたヤツの体のほうに視線を戻した。するとそこにはなんと、抜き身の刀を手にするテスラの姿があったのだ。

 ヤツの血を振り払った刀を、テスラはゆっくりと(さや)に納めていく。そんな彼には余裕に満ちた落ち着きがあり、恐怖に(おび)えていたあの面影はどこにも見当たらない。

「テスラ、お前――」

 ジュールは食い入る様にテスラの姿を見つめた。そして彼は今まで一度たりとも感じたことの無い、テスラの放つ異質な【敵意】を感じ取っていたのだ。だがそれと同時にジュールは別の違和感に(さいな)まれる。ふと彼は首の無いヤツの体に視線を向けた。するとどうした事であろう、ヤツの全身を覆う黒い毛がみるみると抜け落ち、その大きな体が急速に縮んでいくのが分かった。

「何だ、何がどうなっているんだ……」

 気がつくと、ヤツの体は【人の体】になっていた。そして切り落とされたヤツの首もまた、人のそれに変わっていた。

 理解不能な現象を目の当たりにしたジュールは、体全身に尋常でない寒気(さむけ)を覚え身を強張らせる。ただそれと同時に彼は極度の疲労感に襲われ、その場に力尽(ちからつ)き意識を失った。


 夜空から降り注ぐ月の明かりはヤツの体から流れ出てできた血溜まりに反射し、終わりを告げた戦場を赤く染め上げていた。

 血塗られたその戦場は不気味に静まり、何とも言えぬ不穏な空気に包まれている。だがそれでも月の淡い光だけは、優しく大地を照らしていた。

 それはまるで、遠方に旅立つ我が子を見送る、母の温かい眼差しであるかのように――。

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